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阪神大震災 平成7年1月17日(火)前5時46分 発生 
神戸市兵庫区水木通3丁目  大道良輝 (77)
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「阪神大震災」から15年が経ちました。 私も2・3年前までは軽い「PTSD」があり、大きな音とか物が壊れる音がすると身体が無意識のうちに反応していましたが、最近はそれも少なくなったように思います。 地震のことは余り思い出したくなく「ルミナリエ」も新聞で見るだけで一度も行ったことがありません。

 地震後1ヶ月ほどして体調を崩し、入院したときに記憶の薄れない中にと思って書き始めました文章ですが、その時のまま余り修正を加えないで以下の手記を発信します。

 

 

 早いものであの強烈な「阪神大震災」から1ヶ月が過ぎました。 私は今、川崎病院のベッドの上でこれを書いています。 地震で家が全壊したため、持ち出せる荷物を勤め先の小野倉庫へ運びました。 その後「長田区雲雀ケ丘」に仮住居が見つかったので、生活に必要な最小限の荷物だけを運び込み、やっと一段落したところで勤め先へ出勤しましたが1週間後に「神経性ヘルペス」という病名の「ジンマシン」が頭部と首筋に出た。

 普通は腹部とか背中に出るようですが「頭部に出ると脳や目にヴィールスが入る危険がある」と医者に言われ入院することになった。 原因は地震以降の疲労から来ているらしい。

 

平成7年1月17日(火)  「阪神大震災」発生

 午前5時46分「ドーン」という大きな音と、突然の激しい揺れで飛び起きた。最初は上下に揺れたように思った。続いて2・3秒後に激しい横揺れが来た。 私は布団をかぶり妻の上に覆い被さった。 妻は「キャー」と悲鳴を上げていた。 揺れが止んだが今までに経験したことのない激しい地震だったので、とにかく外へ出てみようと思い暗がりの中でジーパンとセーターをパジャマの上から着た。 暗がりに大分目が慣れてきたので改めて部屋の中を見回してびっくりした。2段重ねの整理ダンスの上の部分は2mほど吹っ飛び、洋服掛けは下へ落ち隣室の三つ重ねタンスは2段目から倒れ、テレビはトイレの前まで2mほど飛び、足の踏み場もない状態であった。

 

 とにかく外へ出なければと思い、懐中電灯を照らして階段の方へ出ると階段上部の窓ガラスが割れ、北隣の家の二階の窓と家の窓が引っ付いていた。(北隣の家が我家にもたれかかっていた。地震前は間隔が70p位あったと思う)北側の窓の中から、かすかに「助けて」と声が聞こえたように思ったので、家内が「どうしました」と声を掛けたが何も返事が無くこちらから窓越しに行くこともできなかった。

 階段を下りようとしたら階段の上に置いていた靴箱が飛び散り、壁土が階段を埋め、さながら滑り台のようになっていた。  この時初めて「これは大変なことになった」と思った。階段下のドアも外から何かが当たっているのか開かなかったが、何とか押し開けることが出来た。   階下に寝ていた二男に「健司大丈夫か」と声を掛けると、暫くして「うーん」と返事があったので安心した。 

 横手の通路へ出ると隣家の壁が落ち、出口を塞いでいたが押しのけてドアを開けた。

表の方を見ると東隣の「神戸オート」の壁が表まで家へ倒れかかり、巾70p位の通路は壁に立てかけていた材木が倒れ通れるのは半分くらいになっていた。ようやく外へ出ると続いて家内も出てきた。外は停電のため真っ暗で回りの状況は何も判らなかったが「神戸オート」の表看板が、2階毎歩道まで飛び出して崩れていた。

 まもなく健司も出てきたが、左目の上から出血していたので「バンドエイド」で止血した。

幸い傷は軽かった。

 

 やがて余震も止んだが、このままの服装では逃げられないと思い、又壊れた家の2階まで上がり下着等を着替えた上に「FILA」の防寒ジャンパーと帽子をかぶり大事なもの(現金等)をスキー用のウエストポーチに入れ再び外へ飛び出した。その頃には近所の人達が続々と兵庫大開小学校へ避難し始めていた。

 しかし、私たちは両親が終戦直後に購入した( 特に母親がお寺の頼母子講に入り、苦しい生活費を切りつめ購入した )家を見捨てることがどうしても出来ず、暫く家の前に茫然と立っていたが、寒くなってきたので健司に家から少し離れたところにある駐車場の車を見てくるように言った。暫くして健司が「SERENA」を家の前へ止め、車が2台とも無事であることを伝えた。日頃「ガレージに屋根がない」と不服を言っていたが、それが幸いし「GT-R」と「SERENA」が無傷で助かったことは本当に不幸中の幸いであった。

 

 パトカー・救急車が狂ったようにサイレンを鳴らして走り始めた頃、ようやく当たりが明るくなってきた。 東側の喫茶店は1階がペシャンコに壊れ、2階が1階の状態になっていた。ご主人と奥さんは別の場所に住んでおられるので大丈夫だろうと思っていた。

 その時突然、東隣「神戸オート」の奥さんが「お婆ちゃんとXXちゃん・XXちゃんが家の中にいる、誰か助けてぇー」と、けたたましい声で叫び始めた。

「神戸オート」は前の大きな看板が歩道に飛び出し、後ろの家は1階が潰れ2階の柱や屋根がその上に被さるように崩れていた。 お爺さんは壊れた家の奥の方から出てきたらしく下着のままで、奥さんの横に茫然と立っていた。その横に1番上の男の子がハダシで立っていたので健司の「テニスシューズ」を取りに入り履いて貰った。 その間も奥さんのカン高い「助けてぇ・助けてぇ」と言う叫び声は止まなかった。

 その時、通りかかった人か店のお客さんが3人程瓦礫の上へ上がり、掘り起こしにかかっていたので私も手伝った。 瓦礫の中から人の声がするような気がするが、奥さんの声があまりにも大きく、どこから声がしているのか判らなかったので「叫ぶのを止めて下さい」といって埋もれている場所の確認をしようとした。 建物は一番奥の2階部分を残して完全に壊れていたので、どこで声がするのか最初は判らなかったが、道路から6m位奥の大きな「はり」の下あたりだったので周りの木ぎれ等の除去にかかった。

 暫くすると少し奥の方から、上の女の子が「ぐったり」した状態で助け出されてきた。男の人に抱かれて歩道へ運び出したところ、奥さんが「XXちゃん」と何回も叫びながら取りすがって泣いていた。 お婆さんの声はするが大分中の方らしく、まだ頭も何も見えなかったが、木ぎれや壁土を除いている内に土だらけの頭が見えてきた。しかし身体の上に大きな「はり」が横になっていて、引っ張ると痛がるのでそのままでは助け出せなかった。そこでもう少し上の方の材木を2・3人で持ち上げたところ、やっと身体が抜け助け出すことが出来た。4・5人程で抱え歩道へ降ろしたが、とても重たく感じた。 幸い大した怪我は無かったようだった。

 一緒に掘り出してくれた人達は未明のせいもあったが、どこの誰だったかはっきり顔も覚えていなかった。 3人とも何も言わずに立ち去ったように思う。

 

 西隣りの「パーマ店」の上野さんが出てきた。怪我は無かったようだったが、寒そうなので「SERENA」の後部座席で休んで貰った。これから1週間は上野さんと車の中で過ごすことになった。 表の家へ入ってみると水屋の食器は全部下へ落ちて粉々に砕け、部屋と部屋の間が10p〜15p ほど離れ、壁は落ちて足の踏み場もなく隙間から空が見えていた。2階へ上がる階段ははずれ危なかったので、その時は上がらなかった。 猫もびっくりしたのか1匹もいなかった。この間にもひっきりなしにパトカー・救急車がサイレンを鳴らして東へ西へと走り回っていた。 西の方角(長田方面)で火事が起きたらしく黒煙が上がりだした。御蔵菅原に兄がいるがこの時はどうしようもなかった。

 

 ふと見ると西2軒目の眼科医の「ベンツ」が止まっていたが、先生は乗っておられるようではなかった。暫くして娘さんが降りてこられ、入り口のドアを開けようとされたが、中から何かが倒れていたらしくなかなか開かなかった。無理に開ければ開きそうであったが、娘さんが「もう、いいです」と言われたので手伝うのを止めた。その時娘さんが「松本通の家が全焼し、何も出すことが出来ませんでした」といっておられた。その後竜野の親戚へ疎開されたとお聞きした。

 

 午後3時頃、長男と嫁の実家の母親が「おにぎりと水」を持って見舞いに来てくれた。

嫁の実家は被害が無かったようだったので安心した。長男の家族は昨夜から嫁の実家にいたらしく全員無事で良かった。

 午後4時頃、家の前を西から若いお母さんが小学校と幼稚園ぐらいの女の子の手を引いて歩いてきた。 見るとお母さんはパジャマの上にセーターを羽織り、左足の膝から「ふくらはぎ」に掛けて血の滲んだ包帯をしていた。子供たちも同じようにパジャマ姿で、幸い怪我はなさそうだったが、いかにも寒そうな様子であった。 「大丈夫ですか、何か着るものを取ってきましょうか」と声を掛けたところ「足に怪我をして朝9時頃に西市民病院へ行ったんですが、見て貰ったのは午後3時頃です。病院も被害があり大変な混雑でした。すぐそこ(水木通1丁目)のマンションなんで、家へ帰ると何か着るものがありますのでよろしいです。」と丁寧に礼を言って、東の方へ子供の手を引いて去って行かれた。 西市民病院も4階が崩れ、患者の救出活動と付近から詰めかけた怪我人の治療で大変らしかった。

 

 夜が近づいてきたので、土だらけの毛布を掘り出してきて埃を払い車の中へ入れた。

家の入り口を片づけ、バーベキュー用品の中からボンベ用コンロを出してお湯を沸かし、嫁の実家から頂いた「おにぎり」を3人で食べたが、これが今日(17日)の最初の食事だったように思います。

 その夜は家の前に車を止め、上野さんと4人で毛布にくるまって眠りについた。車の窓から西の方を見たが、広い大開通は灯火一つ無く真っ暗で、若いときに見た洋画で題名は忘れたが「New York」の灯火のない真っ暗な街路が続いていた画面を思い出した。

 暫くすると長田の方角に火の手が上がっているのが見え、街の変わり果てた姿に何とも不気味な感じがした。車の中は広いようでも狭く足を曲げたまま寝なければならなかった。 

夜中に車から降りたとき足が伸びず思わずこけそうになった。それでも一日の疲れからか何も考えず、ぐっすり眠ることが出来た。

 

1月18日(水) 「被災者の救出」

 他府県の警察機動隊車両(バス)が家の前の大開通へ駐車を始めた。「なにわNO」が多く「品川NO」もあった。若い隊員が多く夜はバスの中で仮眠をしていた。 見た感じ食事はあまり上等とはいえない弁当であったが、電気・ガス・水道の使えない我々から見れば羨ましかった。

「神戸オート」の主人が機動隊員の中に知り合いがいたらしく隊員用の弁当を持ってきてくれた。粗末な弁当であったがおいしく頂いた。

 地震後初めて表の家の2階へ上がってみた。階段は一番上で30pほど外れており、ぐらぐらになっていた。表の間は人形ケースが倒れガラスが散乱していたが、仏壇・故人の写真などは元の位置にあったのでびっくりした。揺れの方向が南北だったので下へ落ちなかったのかと思ったが、後で聞いてみると健司が17日に表の2階へ上がり、仏壇などを片づけたようであった。

普段仏様を拝んでいるところなど見たこともなかった健司だが、思わぬ一面(優しさ)があるんだなと感心した。表と裏の家の荷物を纏まったものから表の下の間へ積み上げたが、すぐに一杯になって足の踏み場もなくなり、これではどうしようもなかった。

 

  お昼頃、健司の彼女がガスボンベ等を持ってきてくれたので、健司と一緒にインスタントラーメンや猫の食料などを買いに行って貰った。 近くのスーパーはまだ閉まったままだったので、大分探し回ったようであったが、コンビニの長い行列に並び「店内買物時間5分間」(これも地震のお陰の貴重な体験)という制約の中、それでも「ラーメン・カップヌードル・猫の食料」を大分買い込んできてくれた。(確かお金を取らなかったように思う)身体付きは、  か細いけれど「芯」はしっかりした娘さんだなと思った。(言葉遣いは少し荒っぽいけれど)

 昼すぎ、20m程東の折箱店の2階が歩道まで飛び出していたが、その1階に住んでおられた老夫婦の遺体が掘り出されたと聞いた。ほとんど即死の状態であったらしい。本当にお気の毒にと思ったけれど、このような状況の中では、夫婦が一緒に死ねたら最高だなとも思った。

 

 折箱店と同じアパートの1階に、まだ埋もれている人がいると近所の人が言い出した。

自治会長宅のガレージのすぐ東側なので自治会長へ連絡をしたところ「救出要請は警察へ言いなさい」と言われ、兵庫警察へ行ったが兵庫警察も1階が潰れ、他府県からの応援対応などで

ごった返しており、救出に行ける警官を出せないらしい。家へ帰ると家内が「行って手伝って上げたら」と言われたが、私もすぐ手が放せなかったため健司を手伝いに行かせた。

 少し遅れて私も行ってみると、健司を含め若い人が4人と1人の警官が手堀りをしていた。 機動隊もまだ出動していなく、助け出す道具も何もなかった。

 

 「自治会長は何をしているんだろう。車庫に入っている車を移動させれば、作業場所がもっと広くなるのに」と思いながら見ていたが、1階の「はり」が下へ落ち、2階の床と地面の間隔が30pほどしかなく、間に材木が挟まっていて、とても手では掘り出せない状態であった。

家へ走って帰り「鋸」を持ってきて警官にわたし、懸命に切ったが太くてなかなか切れなかった。暫くしてようやく切れたので中を覗いてみると、「はり」の向こうに「ブロック塀」があり、何らかの道具がなければとてもそこから先へは掘りようがなかった。警官は応援を呼んでくると言って兵庫署へ帰ってしまった。

 

 途方にくれていたところ、壊れたアパートの住人で「地蔵盆」の時などに、足場の組立をよく手伝っていた「とび職」のような年輩の人が2階から出てきた。

 手に大きなバールを持っており「下から救出が駄目なら、2階のここと思われる場所の畳を上げ、床を上から抜いたほうが早いかも」と教えてくれたので、埋もれている人にそのことを告げ「もう少しだから頑張れよ」と声を掛け、若い人が倒れた柱を伝い2階へ上がっていった。

大体の見当を付け畳を上げて「バール」で床をめくってみると、すぐ下に男の人の頭が見えた。「見つかったぞ」という声を聞いて、皆が「ワッ」と歓声を上げた。

 出てきた人は25〜6歳のやや太り気味の青年で、顔は土だらけ着ているものは「半袖シャツとパンツ」だけといういかにもお寒い格好だったが誰も笑う人などはいなかった。青年が無事に救出されたことを皆が喜んでいた。救出された青年の周りにいる人に聞いてみると、埋もれていたのは救出に当たっていた人達の同級生で、仲間が消息を訪ねに来て倒れたアパートから、まだ出てきていないのが判ったらしい。周りの人達に何度も礼を言いながら「青年」を取り囲むようにして西の方へ去っていった。

 こんな時の災害救援用具として「チェーンソー又は鋸・ジャッキ・バール」等が自治会にあれば、もっと早く救出できたんではないかと思います。これからの災害救助に備え自治会でこれらの用具を備え自治会倉庫に保管しておけば緊急時に活用できると思います。

 今夜も又、車の中で上野さんと4人で毛布にくるまって寝た。 車のヒーターを使っている 間は暖かいが明け方になると大分冷えた。

 

1月19日(木)  「テニス仲間の見舞い」

 今日は熊谷さん夫婦・岸本さん・内山君たちテニス仲間が「コンロ用ボンベ・おにぎり・シャツ」等を持って見舞いに来てくれた。皆の無事を喜び合ったが、交通のまだ不便な状況の中を見舞いに来てくれたのがとてもうれしかった。

 同じテニス仲間の福田君宅がすぐ近くなので、皆を案内して福田宅へ行ってみると家は完全になくなり、前の歩道に荷物を積み上げてテントを被せ、その間から顔を覗かせていた。車は近くのお寺の駐車場に入れていたが、お寺も倒壊したため車が「ペシャンコ」になったらしかった。可愛がっていた犬はまだ瓦礫の下になっているらしい。彼の状況も私宅に比べ更に大変のようであった。  私達も家や荷物の後片づけに追われ、夜になると「くたくた」になったが、どうにか車の中で休んだり睡眠をとることが出来た。 この時ほど車の有り難みが感じられたことはなかった。

 

1月20日(金)  「自衛隊の救援活動」

 朝早く自衛隊の救援部隊が西から大開通へ入ってきた。装甲車(兵員輸送車)が先頭を走り、その後ろに10数台の兵員輸送トラックを連ねて行進してきたのには驚いた。装甲車は「地震により神戸で暴動が起こっている」あるいは「起こりそうだ」と言うような情報でもあったのだろうか? 始めは機動隊と同じく大開通に駐車していたが、その後は「総合運動公園」や「しあわせの村」へ移動したらしい。 

 一日の救援活動が終わって仮眠用の車両へ帰ってくる両隊員たちも疲れ切り、輸送車の中へ潜り込むのが「やっと」という感じで話し声なども余りしていなかった。本当にご苦労様です。それにしても、もう少し早く到着し救援活動が行われていたらもっと多くの人々が助かったんではないかと思うと非常に残念です。

 

 車を止めていた駐車場西側のアパートの2階にまだ取り残されている人がいるという情報があり自衛隊が出動してきた。10人程が2階へ上がり救出作業をしていたが、まもなく40歳ぐらいの男の人が担架に乗せられて駐車場へ降ろされてきた。タンスの下敷きになり怪我をして動けなかったのか地震後3日間も閉じこめられ、すぐ近くで近所の人達の声が聞こえるのに身動きがとれず、さぞ心細いことであっただろうと思うと何ともいえない気がした。

 地震後裏の筋(比較的被害が少なく、倒壊した家は無かった)の人達は自治会長宅のガレージにテントを張り、共同炊事をしたり兵庫大開小学校へ給食を貰いに行ったり、夕方になるとアルコールが入って大きな声で話したり、まるで「地蔵盆か年末警戒」の時のように過ごしていた。 こんな物音を何かの下敷きになり、身動きのとれない状態で聞いていた人の気持ちを思うと、いい知れない憤りを感じます。 気の毒にも救出された人は病院へ搬送された後お亡くなりになったらしい。

 

1月21日(土)  「おにぎりとパン」

 相変わらず家の後片づけに追われていたが、健司のバイク仲間で、安藤さんという方(水木通8丁目)のご厚意で彼の家に泊めて頂くことになった。夕方上野さんと4人で、お伺いしたところとても気持ちよく迎えて頂き、久しぶりに畳と布団の感触の中で「ぐっすり」と休むことが出来た。

 明くる日の夕方「下沢通8丁目南側」の路上を歩いていた時、3台ほどの自転車を押した人達に呼び止められた。立ち止まると「夕食はお済みになりましたか?」と尋ねられ「いいえ、まだです」と答えると、自転車の荷台から「おにぎりとパン」を取り出し「3人分ですか、これをどうぞ」と手渡して下さった。

 夕暮れ時で薄暗くなってきた路上をいかにも心許なく歩いていた自分の姿を想像し「これではいけない」と思いながら通りすがりの見知らぬものにも、こんなに暖かい心遣いをして下さる人達がいることを神に感謝した。後で聞いてみると「下沢通8丁目市営住宅自治会」の方々であったようだ。 この日から後、この付近を車で通る度に「ありがとうございました」と心の中で礼を言っています。

 松本通8丁目の自治会も年末警戒と同じ体制で自警団を組織し、夜回りなどをして地域の安全を守っていました。それに引き替え「水木通3丁目自治会長」は町内行方不明者の把握もせず、地震発生の翌日革ジャンパーのポケットに手を突っ込み、水木通4丁目の倒壊家屋から被害者(死者)が救出されるのを見物していたのを見て無性に腹が立った。

 

1月22日(日)  「お風呂と夕食」

 今日はテニス仲間の内山さんがお風呂と夕食に招待して下さり、夕方福田君の家族と一緒にお伺いした。久しぶりのお風呂を一番先に入れて頂いたため、湯船に入る前に念入りに身体を洗ったところ、案の定風邪を引いてしまった。全員入浴後夕食をご馳走になった。(

 

1月23日(月)   「災害復旧時のトラブル」

 安藤さん宅で3日ほど泊めて頂いた後、上野さんとお別れし、押部宅・長男宅でそれぞれ2・3泊づつ泊めて頂いたが、いづれの家も狭く迷惑を掛けたと思います。贅沢は言えなかったが有り難かった。上野さんはその後、兵庫大開小学校へ避難することになった。 小学校は体育館も教室も廊下も避難者で溢れかえり、便所は詰まって悪臭を放ち大変な状態であった。

 時々兵庫大開小学校へ救援物資(弁当)を貰いに行った。その中に火を通さなければ食べられない食品があった。インフラが途絶しているときは炊事も出来ないので、救援物資の種類も考える必要があると思った。

 

 この頃から小学校前の歩道に自衛隊の給水車が止まり、給水を始めたが皆が並んでいる列に割り込みをした人があったとかで、裏筋の「重機会社」の社長が怒りだし、家へとって返したかと思うと包丁を持ち出し、小学校の前で暴れているから止めに行ってと家内が言うので、すぐ給水をしているところへ行ってみると、給水車のそばで重機会社の社長が懐の包丁を握ったまま、まだ口論をしていたので必死でなだめ、やっと家へ帰って貰った。

 そばで自衛隊の若い隊員が見ていたが「どうしたらよいか判らない」といった顔をして見ているだけであった。

 災害復旧時に「トラブル」が発生した場合、自衛隊と警察官では対応に随分差があるなと感じた。今後は自衛隊員にもこのような場合の対応を訓練項目に入れる必要があると感じた。

 怒っていた社長さんは体は小さく普段は愛想の良い人だが、商売柄随分気の荒い人だなとこの時思った。

 

 私の家は、地震後ライフラインが全て途絶し電気、ガス、水道が止まってしまった。便所の排水溝は破損していなかったのか水を流すことが出来たので、用便後水を流せば汚物は流れていった。幸い風呂に昨夜の水を張ったままにしていたので、地震後一週間ほどは排水用の水に不自由はしなかった。  私の家では風呂の水は3日間位はそのままにしていたので、この時は随分助かったと思います。水が無くなってからは他の人と同じようにポリ容器を持ち、水を求めてあちこち歩き回りました。

 風呂の水に関しては会社在職中、単身赴任で京都府亀岡市にいたとき、同じ宿舎にいた滋賀県出身の副課長と水の使い方について喧嘩をしたことがある。

 その副課長は一人が入ると汚れていないのに水を落としてしまい、後から入るとき又水を入れなければ風呂が使えなかった。単身赴任中は時間の惜しいときがあったので、副課長に「水が汚れていないときは「もったいない」から水を落とさないように」と言ったところ、そんなことは出来ないと偉い剣幕で言い返してきた。

 暫く言い合いをしたが、その時はそれだけで済んだ。 しかし、その後何かにつけて「嫌がらせ」をするようになった。 例えば自分の部下を連れてきて、飲み食いをするときに冷蔵庫内の私の買い置きのものにまで手を付けて何も断りをしないようなことが度々あった。

食べ物のことなので私は何も言わなかったが、あれは「嫌がらせ」以外の何ものでもない。

 後で考えてみると滋賀県民は「琵琶湖」という日本一の水瓶を持っているせいか水の使い方について余り節約という意識が無かったのではないかと思います。 

 地震後も「震災対策」として風呂の水は翌日まで流さないようにしています。

 

1月24日(火)   「小野倉庫へ荷物搬入」

 勤め先の厚意で小野倉庫の1部屋をお借りすることになり、取り敢えず不急の荷物で纏まったものを搬入することになった。道路は渋滞で随分時間がかかったが、無事車2台分の荷物を運び込んだ。宿舎をお借りしてもこれからの通勤時間が大変なことになると思うと、なんとしても神戸市内に仮住居を見つけなければと思った。会社倉庫の職員の方々には大変親切にして頂き有り難かった。

 

2月4日(土)   「仮住まい」

 その後、二男の彼女の同僚の女性が長田区雲雀ケ丘に住んでおられ「空いている部屋があるので、親戚の被災者ということで入居してみては」というお話しがあり、2月4日下見に行った。丸山の一番上の方で、宿舎の裏は山がそこまで迫り、狸の1家族が住んでいるというような所であったが、現状では贅沢は言えないので明くる5日には早速入居することになった。

 宿舎の周りには桜の古木が沢山あり春になると満開になったが、心のゆとりがない私達には、どんな桜が咲いていたのか全く記憶に残らなかった。部屋は6畳と3畳の2間で3畳は荷物と 仏壇で一杯になり6畳に3人が寝ることになった。布団を敷くとそれだけで一杯で足の踏み場も無かったが、お風呂が付いていたのが有り難かった。

 

2月6日(月)    「会社へ出勤」

 家も大分片づいたので会社へ出勤した。会社のビルは基礎部分に亀裂が入り、特に柱の周辺に亀裂・陥没が著しかったが、建物の傾きや内部の損壊はあまり無かったようだ。しかし、水には相当苦労をしたようで出勤した頃は弁当などを、大阪支社から運んでいた。神戸支店では殆どの人が出勤しており、仕事の一部は諸般の状況から当分見合わせることになっており、書類の整理の他、大した仕事はなかった。

 このような状態で勤務をしているより、会社にとって重要なお客様の被害状況を調査又はお見舞いに出るとか「ボランティア」で避難所へ手伝いに行くとか、非常事態の状況に応じた取り組みが出来ないものかと思った。ロビーに「国際用公衆電話」を並べ、ビルへ来る外国人だけの便宜を図っていたのでは、社会的コンセプトに欠けるのでは無いだろうか。

 

2月9日(木)    「自転車が真っ直ぐ走らない」

 1週間ほど勤務した帰り道、自転車で中突堤の方へ回ってみた。地震後海岸通へ出るのは初めてであった。海岸道路は市街地には見られない被害状況があった。高速道路を支えている橋脚の基部が盛り上がり、橋脚と橋脚の間は乗用車がすっぽり落ち込むほど陥没していた。前を走っている車が、まるでジェットコースターに乗っているように橋脚を通り過ぎると次の橋脚へ行くまで見え無くなるような状態であった。

 また、港湾施設の被害の大きさには驚いた。中突堤の基部では岸壁が割れて海側へ傾き、車が何台も海中に落ち込んでいた。突堤の真っ直ぐな所は殆どなく、割れたり海中に落ち込んだり惨憺たる有様であった。メリケンパークでは広場の舗装の隙間から液状化現象の細かい砂が吹き出し、岸壁は崩れてみる影もない有様であった。

 直線であるべき岸壁が、ある箇所は斜めに傾き、ある箇所は海に落ち込んでいるのを見て、頭の中の歯車が狂ったような感じがした。

 この帰り道、自転車に乗って真っ直ぐ走ろうとしているのに、真っ直ぐに走れない自分に気が付いた。  (平衡感覚に異常が生じたのかも)

 

2月13日(月)  「神経性ヘルペス」発症のため入院

 13日の朝起きようとしたが、起きられなくなり川崎病院へ行くと「神経性ヘルペス」に罹っていると言われ、即入院をすることになった。病院のベッドの上で本を読むことの他、何もすることが無かったので、この震災の中で経験したことの記憶が薄れない内に感じたことを「メモ」に残しておこうと思いこれを書き出した。

 

2月24日(金) 「川崎病院を退院」

 雲雀ケ丘団地の生活にも大分慣れた。4週毎の日曜日の団地内清掃にも積極的に参加し、団地の住人になりきるようにした。

 被災者の暗さを成る可く外へ出さないようにした。車が2台あるため駐車場の確保に苦労をしたが、1台は団地の外に駐車場を借り1台は管理人のご厚意で団地内へ駐車することができた。

 しかし、部屋の狭小と交通の不便さはどうしようも無く、地震から6ヶ月ほど経過した頃から家の再建に向けて動き出した。朝夕の夢野有料道路の混雑を見ると北区・西区に住居を構える気には到底なれず、元の住所(水木通3丁目)の再建案に最初は反対していた家内も、最終的には同意した。

 

平成8年9月10日   ☆ 家屋の新築記録

 

 平成7年 8月        垂水住宅公園見学

          11月        建築業者と契約締結

          12月5日  基礎工事着工

  平成8年1月27日   

          3月 9日    内装工事着工

          3月17日    電気・設備・水道工事着工

          5月22日    外壁(タイル・塗装)工事着工

          6月15日    完成・立ち会い検査

          7月15日    ガレージ工事着工

          8月21日    冷房・電話工事着工( 地震前の電話番号 開通

          8月24日   

          8月25日    入 居

 

 工事は最初の約束より大分長くかかったが、地震後の混乱の中、悪質業者に契約金などを持ち逃げされたり、手抜き工事などで悪質業者に泣かされたりした人がいたが、良心的な業者を選択することができ幸せであった。 これも仏壇の中の両親が見守っていてくれたお陰と感謝しています。

 西神仮設・勤務先倉庫に保管していた荷物を順次搬入したが、物入れスペースを十分考慮した筈であったのに荷物が多すぎて整理には随分家内が苦労した。 新しい家具も買い入れ、入居1年ほど経つと家の中も大分落ち着いてきた。比較的短期間の間にここまで復旧できたのも、テニス仲間を始め家族を取り巻く皆様のご支援の賜物と深く感謝をしています。

 これからは住宅建設借入金(住宅金融公庫)の返済が大変なことになるでしょう。今のところは利息分だけを返済していますが、3年後には元金の返済が加わることになります。 私の身体が動く内は働きますが、働けないようになった時のことを考えると、現金の支出を出来るだけ押さえるようにしなければなりません。その時が来れば車も処分しますが、生活をどこまで切りつめられるか不安が一杯です。

 

平成10年1月17日    PTSD

 地震後3年が経過して、精神的にも大分落ち着いてきましたが、地震を体験した多くの人々がその後、色々な症状の後遺症を訴えています。 不眠・体調の変化・精神的不安等、人によって様々ですが、私の場合は「大きな物音・突然の大声」に特に敏感になっています。

 これらの音の他「 物を落とした音・何かが割れる音 」等、地震発生の時、眠っていた耳に突然飛び込んできたあの恐ろしい音に結びつくものには、何にでも身体が無意識に反応し「ビクッ」とするのを感じます。 徐々に少なくなりつつありますが、これからもこの状態は暫く続くと 思われます。

 

平成20年1月17日     「終わりに」

 地震後西神中央仮設住宅へ入っていたとき、各地から励ましの「お便り」が届くようになり、豊橋市の「魚屋さん」のご家族からお見舞いのはがきを頂いた。

 全く知らない人であったが、それからは毎年年賀状を頂くようになり、私もお出ししていたが平成20年から来なくなりました。

 早いもので「震災後13年」になります。 震災の年の年末から「神戸ルミナリエ」が開催されるようになり、何10万人の人が「鎮魂」のため訪れるようになりましたが、私は行ったことがありません。 理由は会場へ入れば「涙」で前へ進めなくなるからです。

 

       ※ 文中の人名・店舗名等は全て仮称です。