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阪神淡路大震災での初動救護活動について    元持雅男(医師)
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 阪神・淡路大震災は平成7年(1995年)1月17日の午前5時46分52秒、淡路島北部を震源とした震度7の大都市直下型の大地震であった。
結局、死者6,343人、行方不明者3人、負傷者47,792人、全壊104,904棟、半壊144,274棟、主に神戸市、西宮市、宝塚市、尼崎市、伊丹市、豊中市などで、近隣府県にも多少の被害はあったにせよ、兵庫県に被害が集中した。
我が国では関東大震災に次ぎ被害が大きく、戦後最大の震災であり、近畿地方に関しては、1927年の北丹後地震以来68年振りの大地震であった。
鉄道、船舶、自動車道路の要所であり、阪神工業地帯の中心を襲ったと云うこともあり、日本経済に与えた損失は優に十兆円を越えると推定されている。

 当日の朝、私自身も自宅でも凄い震動で眼を覚ましたが、朝食を食べながらのTVの報道では大した被害のニュースもなかった。
震源地が何処かも判らなかった様子でもあった。
病院へ行って、連休明けの為もあり多くの外来患者の待つ、午前の脳神経外科の診療を私は始めていた。
その頃、被災者救援の派遣要請が日本赤十字社からあり、直ちに午前9時28分に日本赤十字社香川支部の救護班の派遣が決定されていた。
偶々その月の当番医師に当たっていたので、私が第一陣救護班を率いることとなり、出動準備を急いだ。

 医師元持雅男、婦長山地須美子、看護婦村田文子、湯浅美也子、元木真由美、事務土居義弘、壺井学、香川支部より川崎富夫、井上憲吾、崎川雄介の総勢十名であった。
全員直ちに救護用の衣服に着替え、救援器具、医療器具、薬品等を血液輸送車、救急車等々に積み込んだ。
午前11時前には、回転灯つけ雪降る中を瀬戸大橋経由で現地に急いだ。
山陽自動車道龍野西で大渋滞に掛かり、パトカー二台の先導を頼み既に亀裂の起こっている一般車通行禁止の高速道路を、サイレンを鳴らしつつ東に向かった。

 須磨に入った途端に、市内が何条もの黒煙を上げている事に気付く。
二時半頃であったろうが、空に立ち込める煙のために薄暗く感じ、火災の悪臭が不気味に鼻を突く。
丁度当時のニュースで見たボスニア・ヘルツエゴビナの爆撃の惨状を一瞬思い起こさせた。
この時点にして始めて被害が私の予想を遙かに超えた災害である事が実感し、一同身がひきしまる思いをいする。
高速道路緊急出口より街に出ると、交通渋滞の極みである。
パトカーの先導にて三ノ宮の兵庫県日赤支部に向かうがこれが全く容易な事ではない。
建物は無惨に壊れ、火災の炎は強く、壊れた水道管から噴出す水道水、泣き叫ぶ人々の往行、正しく阿鼻叫喚の地獄絵である。

 午後三時頃に支部に到着、神戸日赤病院は混乱の極み、先に着いた岡山支部からの救援隊は無線での活動を始めていた様であった。
我々香川支部のパーテイーは、医師、看護師、事務の体制を整えているので、兵庫支部の係りの一の先導で、被害の一番激しい大開通りに面した大開小学校の避難所へ向かった。
ここは兵庫区の中で一番生徒数の多いマンモス小学校だと云う。
既に三千人程の避難者が放心状態で所狭しと集まり、毛布を頭から被り、段ボールを敷き寝そべっている人が多い。 
職員室での交渉の結果、学校の医務室を半分空けてもらい、俄か診療所にする。乳幼児、お年寄りを連れた家族の一部は残ってもらい、他の者達は比較的意心地の良いこの部屋から出て頂く事にした。
電気、水道、都市ガス、等の所謂ライフラインは途絶えている。

 準備を始めると無言で多くの人が説明もしないのに列を作って診療を待ち構える。
午後四時半頃には診療を始めたが、余りの人の多さで途方に暮れる。カルテ記載のない人達が始めの内は可成りいた様である。
寝ている処を、急に倒れてきた家具等で傷めた為の頭部・顔面の挫創や裂創、胸部損傷(肋骨骨折のみで血胸・気胸がなければ我慢をしてもらう)、素足で暗闇を逃げ出す際にガラスで切った切創、四肢の骨折、寒い気候の為か風邪を始めとする気管支炎、肺炎が多い。
創からの動脈性出血が続く者も結構多い。
気は焦るがなかなか仕事が捗らない。
診療待ちの列が続く。トリアージは即座の判断を要する。

 午後五時頃に校医の中尾栄一先生が、更に午後六時半頃に枚方市民病院外科部長の今木正文先生の応援を得て仕事の分担も始めた。
薬品、縫合器具、消毒薬、ガーゼ類等々が次第に不足しつつある。
抗生剤・鎮痛剤などは一、二服分程度しか渡せない。
看護婦、事務官も多忙の極みである。カルテも次第にまともに書ける状況となって来る。
午後九時半頃に日赤三重支部が我々に加わり、更に日が代わって翌日午前一時頃に須磨赤十字が加わり、診療を交代制にして交互に食事をとり、休む事を申し合わせた。

 深夜、壺井と名谷の国立病院へ救急患者の輸送する。
大開通りの向かいに火災あり燃え盛り、水の勢いが弱くなかなか鎮火出来ない様子である。
ここで気付いた事だが、地盤の違いであろう、ある場所を過ぎると急に損壊家屋が少なくなる。
未明の四時頃に、避難所裏のNTTの六十米の高さの鉄塔が傾き倒れて来る可能性あり、急遽この避難所を撤退することになった。
歩けない高齢者を伴い日赤兵庫県支部へ戻る。所長室で仮眠をとるが、度々の結構強い余震で眼を覚ます。
ひょっとして生きて還れぬかも知れぬとの考えが頭をよぎる。

 翌朝、八時過ぎから葺合総合会館で移動診療所を開く。
ここは全くの停電で細かい縫合は懐中電灯の助けが必要であった。
昨日と違い、ここでは水が使えて、副木以外にギプスも使えた。
順番を待たず診療を強要するやくざぽい家族が来て困った。
寒さと劣悪な環境のせいで、風邪の患者が急に増えて来ている様である。
早々の昼食を済ませて午後は神戸市立宮本小学校の避難所に向かう。
細い道は特にそうだが壊れた建物で通行止めで回り道をせざるを得ない。
ここも避難者が多く、廊下、教室、体育館と云わず至る処が足の踏み場もない混みようである。
矢張り電気は来ていない。

 医務室をあけてもらい急場の診療所であるが、此処には二つのベッドがあり、てんかん発作で意識障害のある小学生など点滴を要する者達にこれが使えた。
周囲に大きな神鋼病院があるが、そこで診察を断られた頭皮の大きな裂創があり、大縫合を行った患者がいた。
土地勘のある案内人の判断によるが、出来るだけ多くの避難所を回って欲しいとの意向が伝わって来る。
未明に山地師長が高松日赤病院と連絡をとることが出来、震災の被害が予想を遙かに超えたものであり、応援が必要で、医療器材も底をついていることを伝えることが出来ていた。

 新しいチームへのリレーを、その日の夜更けに行い我々第一陣は帰路についた。
往路で見た長田はすっかり焼け野原であり、震災のみでなく火災による被害の凄まじさをみた。
新幹線の鉄橋が壊れ落ちていた箇所もあった。

 深夜帰院時、院長・事務長・看護部長らの出迎えを受け、薫り高いコーヒを頂く。
僅か二日の救護活動にも拘わらず、この世にこんなに文化的なものがあったのだなあと感じた。
それ程に現地の災害状況は悲惨なもので、長らくの遠征から帰還したかの感じがしていたのだろう。

 この震災は後に我が国のボランティアー元年と称される程に、各年齢層に亘る多くのボランティアーの方々が救援活動に参加された。
建築関係でも耐震性の基準が大幅に改訂された。
国・地方の行政の対処の仕方に色々なクレームがついた。
これを契機にインターネットの重要性が日本でも認識され始めた。
何せ、日本のTV報道より先に、当時の村山首相より先に、外国の救護活動団体にインターネットで報道が伝わり内閣が驚いたそうだから。
法律で定められた救護活動があるから、赤十字社は流石に良い活躍をした。
今後の災害時には救護合戦で、その面での統制がとれないこともあり得る。
災害演習時並びに実際の災害時での活動に於いても、少なくとも災害時医療救護に於いてはイニシアティブを取り得る気構えが必要で、現状に甘えていてはいけないと思われる。