まえがき 編集総括 小橋 繁好

 トップ同士の論戦は面白い。お互いに逃げ場がないからだ。


 ある地区の警報を出す雨量の基準を10ミリ多くした。警報発令の基準を緩和したことになる。これに知事がかみついた。


 知事「災害を防ぐことに全力を挙げなければならない。基準を厳しくする必要があるのに、緩和するとは、どういうことだ」

 気象台長「気象の観測技術は向上している。防災工事も進んでいる。基準を厳しくするところもあれば、緩めるところもある」
 知事「10ミリの雨量は、大きな数字なのか」
 気象台長「深さ10ミリの水が地域全体に溜まっているところを想像すれば分かると思うが、大きな数字だ」
 知事「それほど大きな数字なのに、緩和して本当に大丈夫なのか」
 気象台長「狼少年になってはいけない」
 知事「われわれは気象台が出す警報に基づいて、防災態勢をとる。非常に重要な基準だ。防災を重視する時代の流れに逆行しているのではないか」
 気象台長「十分、検討した上での決定だ」

 防災に責任を持つ知事、技術者集団ともいえる気象台を率いる台長の論戦は、すれ違いに終わった。お互いの防災意識の高まりが、この論議を呼んだと思えばよいのかもしれない。

 政府は「外敵から国を守る」準備には、大きな関心を払う。防災よりも国防を優先する。戦後五十余年。住民を痛めつけてきたのは、外敵ではなく災害だ。
 「防災力」の論議を深めるためにも、私たちは声を上げ続けなければならない。
2003年5月
阪神大震災を記録しつづける会
編集総括  小橋 繁好
第1部  記録の継続(連続掲載者の手記)
八年の道のり 安藤 衣子(58歳 パート勤務 神戸市須磨区)
 一月十七日、あの日から八回目のお正月を迎えました。一人での生活にも慣れてきましたが、何年たとうが主人のいない生活は物足りないものです。この思いは年月がたてば少しは変化するものと思っておりましたが、変化しないことに気付きました。
 七回忌を境に、主人のおもかげが遠くにいった感じがします。主人の夢を見るのも数少なくなりました。
 しかし無意識に主人の話をしている自分に驚くときがあります。このようなとき、主人への思いが風化されず、思い出が生きていたとき以上により深く鮮明によみがえります。
 生きている人、死んだ人の谷間をこの八年間に少し埋められてきたように思います。
 喪失感、絶望感、孤独感に打ちのめされたあの日から八年、悲しいつらい過去を乗り切れなかったことを思えば、この年月は、私にとって遠く長い道のりでした。
 自分の身体の健康も保ち、楽しい人生を歩むことを目標に、一日一日を生きていきたいものです。
 主人の口癖だった「六十歳になったら息子と交代して遊びに行こうな」と言っていたことを思い出します。生きていたら六十歳です。私にとってやはりこの思い出は重くつらいものがあります。このようなとき私は一人になってしまったのだと再確認します。あらためて生命の尊さが身にしみます。
 また、改めて自然界の大きな力に生かされていると思います。
 あの地震の当日、六十歳までどう生きていけるのかまず考えました。私を救ってくれるのは仕事しかないと思いました。やはり正解でした。仕事のお蔭で、あのときなくした自信も体調も少し取り戻せたように思います。
 生きるうえでもつらい悲しいことがいっぱいありますが、生命があることに感謝して生きていこうと思っております。
 心細いとき、友達、家族、兄妹弟、いろんな人達の真心に支えられ、ここまで生きてこられました。
 亡くなった方々も、また生まれ変わってこられます。亡くなった方々がどこに行かれるのか、どんな生活をするのか考えましたが、わかりません。姿が見えないだけで、この世におられるように感じます。
 主人は、私が人として正しく生き、子供たち、孫達の手本として示せる生き方をするのを望んでいると思います。
 すごく長い暗い道を遠回りしてきたように今思います。主人と一体化できたことに、時間の重みを感じると共に、生命の重みを感じます。
古時計 綱 哲男(75歳 貿易商 神戸市中央区)
 昨年大晦日のNHK紅白歌合戦で平井堅さんが「大きな古時計」を歌っていたが、我が家にも四十年近く使い込んだぜんまい式二十八日巻きのアイチ時計があった。毎時ときを打っていた。孫が「今ごろジイジイの時計鳴ってるねー」とよく言っていると芦屋に住む娘から聞いていた。
 柱に掛かったまま五時四十六分で止まっていた。取り出そうとしたが時計の蓋が開いていて振り子がない。振動で飛ばされたのかどこを探しても見つからなかった。とりあえず風呂敷に包んで私たちと共に住まいを移動した。後日、大阪の老舗の時計屋さんを尋ねて回ったが代わりの振り子はとうとう手に入らなかった。
 家から取り出したものは仮設生活で必要な物を除いて鈴蘭台の弟夫婦宅に預かってもらっていた。三年後、ポートアイランド(中央区)に引っ越したとき思いきって処分することにした。風呂敷包みのまま粗ごみとして集積所に置いた。その途端カーンと時を打った。どきっとした。最後のぜんまいの力を振り絞って時を打った。「古時計」の歌を聞くたびに手元に置いておけばよかったと後悔している。
 私の祖父が使っていたアメリカ・ウォルサム社製の銀側の懐中時計があった。父が形見として引き継いだが戦時中、政府の金銀供出令に応えて差し出し、中身は腕時計に改造された。
 今は私の手元にある。ネジを巻くとコチコチと澄んだ音色で時を刻む。これもめくら滅法でつかみだしたものだ。将来、この時計は震災記念として娘夫婦に手渡して保存してもらうつもりだ。

 神戸出身の経済評論家の内橋克人氏がかつてその著書で提唱されていたシンプルライフに共感していた。震災はそのチャンスを与えてくれていたが、取り出した衣類や道具類は昭和一桁の性か処分し切れない。共に壁土をかぶった仲間のような親しみを感じているからだ。
 日本列島そのものが地震と噴火で生まれたものだ。そこの住民にとって天変地異は宿命であろう。地震は地球が生きている証拠といわれる。月には地震はないそうだから。
 一被災者として毎年自分の生活記録を書きとめ「阪神大震災を記録しつづける会」に投稿してきた。一年目の第一巻には応募できなかった。自宅の後始末や仮設住宅への移行に追われ、この手記の募集や出版すら知らなかった。振り返ってみるとこのころは新聞やテレビを落ち着いて見るどころではなかった。
 第二巻以降は幸いにして心に落ち着きというか諦めができ、そのうえ被災者同士の交流も支えになり第八巻まで投稿を続けられた。手記を書くことで一年の生活を振り返り、心の整理もでき、癒されたように思う。
 多くの人々に励まされ助けられた。このことはいつも心を新たにして感謝している。
 今年一月初めに例年のごとく西区櫨谷町の仮設住宅跡を訪ねた。今回はNHKのスタッフがテレビ取材のため三名同行してくれた。一年ぶりの跡地は、半分がきれいに舗装され駐車場に変わっていた。残り半分は草が刈られ整地されていた。昨年と比べ見違えるほどきれいになっていた。ほっとする半面今までのように草ぼうぼうの荒れ放題のほうが当時の心情を代弁してくれているような複雑な気持ちになっていた。人間は勝手なものだ。
 一月九日には再びNHKの取材が自宅であった。カメラマンやディレクターは毎年の手記を会のホームページで読んでくれているようだった。彼らと被災者としての今後の生活や、これからどんな暮らしを望むかなどを話し合った。この手記をワープロで作成しているところもカメラに収めていた。
 これらは一・一七震災記念日に「ニュースかんさい発」で他の寄稿者とともに放映された。NHKは「記録する会」からの情報によって私たちの取材をしたそうだ。NHKの取材は初めてであったが、わずか数分の映像のためにこんなにも丹念に準備し手間をかけられるものかと改めて感心させられた。
 一月十七日は妻とともに神戸市東灘区の中野北公園の慰霊祭に参列した。本山中町一、二、三丁目の、犠牲者七十五名のお名前が碑に刻まれている。私達はこの本山中町二丁目に結婚以来四十年近く住んでいた。二丁目だけでも四十二名が亡くなっている。
 参列者は百名近く、地元選出の衆議院議員、県市会議員、各町内会長の挨拶もあった。皆で菊花を献じた。かつてのご近所の方々とも久し振りにお会いし話もできた。
 その後、間に合わなかったがHAT神戸に急ぎ、「人と防災未来センター」前の慰霊のモニュメントにカーネーションを献花した。

 一・一七には何か人生の新しいページが開かれるような気持ちになる。それは元旦を迎えるよりも私にとってはインパクトが強い。震災後を第二の人生と考えているせいかも知れない。

 この八年、妻は私と共にひどい災害を潜り抜けた伴侶である。
 昨年十二月「妻への年賀状」と題して毎日新聞の「男のコラム」欄に初投稿し、十八日に掲載された。三十数年の間、仕事を続けてこられたのも妻の協力があってこそと思うようになり、この数年私は妻にも年賀状を出している。震災という洗礼を受けて一番お世話になったと今になって思えるからだ。
 
残り続ける傷跡 服部 康子(67歳 神戸市東灘区)
 あれから八年の日が過ぎました。町には次々と家や大きなマンションが建設され、あの日の傷跡は消されていきました。今や、日常の会話の中であの日のことが語られることはほとんどと言っていいほどなくなりました。もう、忘れられてしまうのでしょうか。
 私の家の前で、あれ以来ずっと空き地だったところにも昨年二軒の家が建ちました。所有者のWさんは既にご主人を亡くされたお年寄りで再建できないまま亡くなられたのです。遺産相続で分けるために売られたのだと聞きました。
 「Wさんの所、家が建ったのね。坊ちゃんが亡くなられて、本当にお気の毒で」
 久しぶりに会って声を掛けてきた知人は涙ぐんでいました。お子さんがなかったWさんは、妹さんの息子さんを養子にもらうことになっていたのです。その頼りに思っていた息子さんがこの地震で亡くなりWさんだけが生き残ったのです。
 「ここが好き。どんな小屋でもいいからもう一度ここに建てて住みたい」
 そう言っておられたWさんの言葉を覚えています。しかし、病身のWさんには年金以外にはこれといった収入もなく、再建のめどがたつはずもありませんでした。それでも希望は捨て切れなかったのでしょう。空き地は、毎年植木屋さんを入れてきれいに管理されていたのです。そうして八年の日が過ぎました。
 その土地が売りに出され、新しい持ち主が決まり、二軒の家の建設が始まった五月の末、私は体調を崩して救急車で運ばれたK病院にそのまま入院することになりました。
 闘病生活三カ月、その病室ではからずも地震の後遺症に悩む人に出会いました。彼女は丸々と太って、見るからに健康そうな可愛い奥さんでした。
 「あんまりおいしいものばかり食べていたのでしょう。ちょっと太り過ぎじゃない?」
 私たちは、そう声をかけました。でも、現実はそうではなかったのです。聞けば、あれ以来地震恐怖症になった彼女は薬なしでは過ごせない身体になっていたのです。そして、その薬の副作用でどんどん太っていったのだそうです。それでも薬を飲み続けるしかない彼女。ここにもあの日の爪あとは残り続けていたのです。何と慰めたらいいのか言葉を失いました。
 三カ月の入院で元気を取り戻して帰って来た我が家の前に、二軒の新しい家が完成していました。やがて新築の喜びに胸いっぱいの新しい住人達の引っ越しが始まりました。もうそこには、あの日の悲しみなどどこにも感じられません。明るい笑い声と嬉々とした子供たちの会話。
 庭に次々と植えられてゆくきれいな花々。新しい生活への喜びだけが伝わってきました。
 年の瀬になると、新しい家の玄関にはクリスマスリースが飾られ、お正月にはしめ飾りがつけられて九年目の年が明けました。
 今年も除夜の鐘は聞くことができませんでした。七年目の記録に書いた覚浄寺の建立はまだできていません。住職さんは昨年亡くなられたと聞きました。地震の三年ほど前に大改装をされて、嬉しそうに語られていたお顔がつい昨日のことのように思い出されます。
 あの日のことが日常の会話の中から消えていっても、人々の心の中に今なお残る傷跡を語り継ぎ、地震国の日本で二度とこのような惨事が繰り返されることのないよう、なにかの役に立ちたいと思います。
 私達は、いつまでも泣いてばかりはいられません。次の時代に良き教訓を残し、強く生きる心も語り継いでいきたいものです。
語りつぐ意味 山中 敏夫(74歳 神戸市兵庫区)
 震災八周年を迎えて会下山ラジオ体操会では、毎年一月十七日五時四十六分に「阪神淡路大震災犠牲者慰霊のつどい」を続けてきました。
 この私達の行事はささやかではあるけれど、六四三三人の、そしてその後に亡くなられた幾人とも知れない犠牲者に対して、ごく素直な気持ちで追悼の心を表す行事であります。
 そして年を経るごとに希薄になっていく震災のさまざまな思い、助け合い、譲り合い、いたわり合い、励まし合いの社会互助の気持ち、不測の事態に対する備えを忘れないようにするためです。
 飲料水、食料、雑用水(風呂水)、懐中電灯、電池、ラジオ、現金、預金通帳、保健(険)証、印鑑、眼鏡、入れ歯などを、自分の枕元に、あるいは台所、風呂場にきちんと用意している人や家庭が今でもあるでしょうか。
東海地震、南海地震必至と取り沙汰されている今日、全く杞憂のことではないにもかかわらず、あの時の恐ろしさ、不便さ、困惑を忘れつつあります。
 この風化現象に対抗し、一月十七日を節目に、原点を見つめなおして備えるという意味があると思います。
 次に、これが被災者にとって最も大切な任務であると思いますが、あの突然の大惨事を経験したことのない地域の人々、その後に生まれ育った世代の人々に、貴重な体験と教訓を語りつぎ、少しでも被害を減らす方策を考え出し、実行に移していただくための助言者でありたいと思います。
 震災後ずいぶん多くの体験文集や、記録、復興論文などが出版され、生々しい被災写真も出版されましたが、今日書店では最も売れない部類になっています。
 恨みつらみ、泣き言はいつまで言っても仕方ありません。いつかはどこかで必ず起こる、大地震を防ぐことはできませんが、少しでも被害を少なくする「減災」は目指せます。
 人命被害をもたらした建造物の強化と、老朽対策に意を注ぐことが求められるものの、現実の復興建造物には被災者の収入減や、資金難によって、不耐震や手抜き工事を余儀なくされています。
 少子高齢化の進む中で老朽住宅の低家賃あるいは低価格の住宅に暮らさざるを得ない一人暮らしの高齢者や、重度障害者、特に全盲や全く聞こえない人々への災害時の救援対策は今日なお万全とは言えません。
 私有財産の自己管理を唱える日本の資本主義政治経済政策の現況では、いつかはくる大震災に対する根本的な対応はできないのではないかと思います。安全で安心して安眠できる住宅、壊れても脱出できる構造と強度の建造物づくりは財政的には大変な課題ですが、一月十七日を節目、節目にして語りつぎ、目指さなければならないと思います。
遠くて近い「あの日」 山中 隆太
(43歳 マーケティングコンサルタント 神戸市東灘区)
 多くの人がそうであるように、私にとっての一・一七は三百六十五分の一ではない。
 ただ目を瞑り八年前に思いをはせるだけでは、私の中のもう一人の自分が許してくれない。
 二〇〇〇年と二〇〇二年は「こうべアイウォーク」に参加した。そして昨年の一・一七は小学生の娘とともに、「震災シンポジウム」に市民代表として招いていただいた。
 地元神戸に暮らしていても、震災の記憶に触れることができるのはテレビなどメディアがほとんどになってしまった。自分から一・一七に向かって動き出さなければならない焦燥感に背中を押され、今年は「震災メモリアルウォーク」のボランティアに申し込んだ。
 二〇〇二年十二月二十三日、兵庫県中央労働センターで行われたボランティア説明会に参加。最初に感じたのは、参加者にご高齢の方が多いということ。全くの予想外で正直驚いた。
 これは活動日の一・一七が金曜日ということもあるが、若い世代の関心が遠のいている証拠であると、私には感じられた。
 ウォーク全体の概要説明に続いて、各配置場所に別れての進行確認。私の配置は王子公園である。
受付係、飲物配布係、誘導係に分けられ、私は飲物配布係を担当することになった。例年参加されている方も多く、説明している職員の方より詳しい方もいて、その指摘も適切であった。震災の風化が叫ばれて久しいが、公務員の方々の配置転換もまた、その一因になっていることを痛感した。
 災八周年のその日は快晴だった。私の住まう東灘区岡本周辺にも「あの日」を感じさせる面影はほとんど残っておらず、昨日と同じ朝を迎え、出勤前にするようにコーヒーを飲みながら新聞に目を通し、TVのスイッチを入れた。画面から流れ出る映像は「あの日」を近づけようと意図したはずだったが、私には余計遠のき色あせて見えた。世界中どこにいても神戸を見ることができる魔法の箱は、私たちを、神戸そのものを一種のオブラートで包んでしまう。
ことさら記念日のように扱うメディアの報道に、リアリティを感じないのは私だけだろうか。十時十五分王子公園サブグラウンドに集合。点呼の後、スタッフの腕章を袖に通す。ウォークにはうってつけの天気で、既に多くの参加者が早くから集まっていた。
 飲物配布のテントには二十数名のボランティアが一列に並び、机に缶コーヒーを置いた。
 「おはようございます」
 「いってらっしゃい」
 「ありがとうございます」
 普段使い慣れている言葉のはずなのに、いつもより温かく心に染みる。ただ机に並べていただけの缶コーヒーは、いつしか手渡しに替わっていた。
 大きなリュックを背負い、西宮から歩いてきた人。ベビーカーを押しながら歩く夫婦。大学生の男女グループ…。予想されたように参加者は年配の方が多かったが、たくさんの人達の笑顔に触れたことが私自身の活力になった。
 準備体操のあと、井戸敏三知事の出発の合図とともにウォーク開始。ほとんどのボランティアも後を追うようにウォークに参加し、ゴールの神戸東部新都心(HAT神戸)を目指して歩き始めた。たった二キロの道のりだったが、生きていることの喜びと、生かされていることの責任を感じながら歩いた。私は一人だったが、一人ではなかった。多くの仲間と歩いているような気がして自然に笑みがこぼれた。
 正午前に到着し、追悼のつどいまでは少し時間があったので、数カ月ぶりに「人と防災未来センター」に入ることにした。
 三階には当時四歳だった娘の写真や私の復興史が展示されているコーナーがあって、「人と防災未来センター」は私自身を当時に引き戻してくれるモニュメントのような存在であり、心の拠り所でもある。
 この類の記念館としては、入館者数は悪くないらしい。確かに風化は進んでいるが、関心を持ってくれる人も数多くいるということであり、県外の人にもぜひ見てもらいたい施設である。
 そして正午に黙祷。きっと何万何十万という人達が神戸に祷りを捧げているのだろう。そう思うと熱いものがこみ上げてきた。
 地元の小学生が「しあわせ運べるように」を歌った時、あちらこちらですすり泣く声が広がった。自分の年齢から八を引くことより、成長の速い子供たちの八年と、復興の八年を重ねるほどに、涙は止まらなくなった。そして、この八年の長さと重さを実感せずにはいられなかった。
 十年一昔。あと二年も経てば神戸も一区切りされてしまうのだろうか。
 いつまでも過去ばかりに目を向けず、さあ十年経ったからと、もう一歩踏み出すことを世間は促すのだろうか。それは月日をモノサシにしなければ、何かをきっかけにしなければ、次へと進めない人間の弱さなのだろう。
 でも「あの日」を記憶にとどめ続けるエネルギーをいつまでも失ってはならないと私は思う。
第2部  震災体験とその意味(初掲載者の手記)
私と阪神大震災 加藤 玲奈(10歳 西条市立神拝小学校4年 愛媛県)
 私は今小学校の四年生十歳です。この前、学校の国語の授業の「十歳を祝う」というので、生まれてから今までの十年間のことをいろいろと調べました。私にとってその中での一番大きなでき事、それは阪神淡路大震災です。
 その時私は二歳三カ月、大阪の吹田市に住んでいました。小さかった私は地震のことはあまり覚えていません。でもお母さんに聞いてみるといろいろと教えてくれました。大きくゆれ、電気が消えたこと。食器だなから食器が落ちて割れる音が聞こえたこと。お母さんはおなかに赤ちゃんがいたけど、ねている私を守ってくれたこと。いつも通っていた高速道路がたおれてしまったことなど、たくさんのことを教えてくれました。
 私のおじいちゃんとおばあちゃんは芦屋に住んでいます。小さかった私は毎日おじいちゃんやおばあちゃんと電話で話すのがとても好きだったそうです。芦屋の町は地震のえいきょうがすごくあったところです。だから電話が通じにくく私は毎日さびしい思いをしたそうです。
 でもおじいちゃんの家はつぶれず、二人とも無事でした。でも家の中ではテレビが落ちたり、タンスや本だながたおれたり、食器がたくさん割れました。電気がとまり、ガスや水道はとても長い間止まっていました。だからおばあちゃんは川でせんたくをしていました。私は「桃太郎のおばあさんみたい」と言って喜んでいたそうです。
 道がつぶれていたので、おじいちゃんの家にはいつもの何倍もの時間をかけて行きました。お母さんは自分の育ったところがなくなってしまうようでさびしかったと言っています。知っている人がおおぜい亡くなったそうです。
 私は四歳の時お父さんの会社の転きんで愛媛県に引っ越してきました。そして、平成十三年三月二十四日、芸予地震という大きな地震にあいました。その時私は八歳、この地震がとても大きくゆれてこわかったことを覚えています。
 この日は松山に出かけていて、私はデパートの一階でこの地震にあいました。地面が大きくゆれ、化しょう品売場のガラスのビンがガタガタと音を立ててゆれながら落ちて割れ、何だか空気が粉っぽかったのを覚えています。急いでお父さんの運転する車で家に帰りました。家に入ると朝出発した時とはちがい、食器がたくさん落ちて割れていました。
 阪神大震災の時は、もっともっと大きなゆれが長く続いていたとお母さんが言ったので、私はすごくこわかったです。
 大きな地震も小さな地震もこわいことにはかわりありません。私はこれから生きていく中で大きな地震や小さな地震にあうかもしれないし、あわないかもしれません。今、いろんな研究が進んでいて、地震がくることが早くに分かるようになってきています。本当は地震は起こってほしくないけれど、少しでも早く予知ができるようになって少しでも被害がへればいいと思います。
 地震は、ほんの一しゅんの間に起こり、多くの人が亡くなります。あの日も「また明日がある」と思いながら眠りにつき多くの人が亡くなったのだと私は思います。だから私はこれからの毎日をあの時もう少しがんばっておけばよかったとか、もう少しやさしくすればよかったとこうかいすることのないように毎日を一生けんめいに生きていきたいと思います。そして日本だけでなく世界中の国に地震が起こらず、毎日を平和に過ごすことができればいいと願います。
焼け残ったわが家 匿名女性(54歳 神戸市須磨区
 どすーんという音で目が覚めた。わが家は九階建てマンションの八階だから激しく揺れた。
 揺れが収まってベランダから外を見ると、隣の工場から火が出ていた。
 上着を取り出すこともままならず、パジャマのまま夫と外に飛び出した。避難所にいるところを、西神に住む妹の夫が車で捜しに来てくれ、彼の家に転がり込んだ。
 二日後地下鉄が開通したので、板宿にある自宅の様子を見に戻った。一区画の全てが焼け瓦礫となっている中に、わが家があるマンションが黒くすすけて建っていた。半年前に新築したばかりだった。
 わが家は焼けなかったが、九階建てマンション二十三戸のうち、二階の一戸と、三階の一戸が全焼した。壁に亀裂が入り、受水槽が瓦礫の下に押しつぶされていた。全壊判定だった。
 家の中の家具は全て倒れ、足の踏み場もない。台所では食器と米と油と小麦粉が入り混じっていた。よくこれでかすり傷一つせず脱出できたものだと、驚くと同時に鳥肌が立った。
 夫と私はしばらくの間、妹の家に世話になることになった。私達夫婦には子供がなく、妹の家族とはいい関係にあった。義弟がいつまでもここにいればいいと、私達のために居間に続く部屋を空けてくれた。
 妹のところは夫婦と高一の娘、中二の息子、小五の息子、それに私の母の六人家族だった。
 子供たちが大きくなり、そろそろ建て増しを考えているような状態だったから狭かった。お互いに我慢や譲り合いが必要だった。
 夫はここから会社に通い始め、十日ほど経ったころ、
 「目がおかしい。視線のすぐ右が一カ所白く抜けて何も見えない」
 と言いだした。眼科で診てもらうと目には異常がなく、脳腫瘍の疑いがあるということで、脳外科を紹介された。
 余震の残る二月に入院し、手術を受けた。手術は成功で、以前より賢くなったというくらい順調に回復した。夫の入院中は私も病院に寝泊まりすることが多かったが、五月二日に退院し、また妹の家に戻った。
 その間、わが家の方は、さいわい土台がしっかりしていたし、コンクリートの劣化もなかったので修復ということに決定していた。しかし、人手が充分に確保されないのか、足場が組まれたまま、補修は遅々として進まなかった。
 電気、ガスは復旧していた。水道は復旧していたものの、受水槽がこわれたままだった。ただ、地上の散水用の水道は使えた。排水管には異常がなかった。電話は表通りまで復旧していたが、マンション内の線が焼けて溶けていた。運がよかったのはエレベータが無事だったことだ。
 夫は、妹の家から再び出勤し始めた。そして、次の土曜と日曜日は一度、自宅に戻って寝てみようと話していた。その金曜日の夜のことだった。
 居間で夫が新聞を読んでいた。そばで甥のSとNがふざけて暴れていた。妹は台所で明日の準備をしていた。私は風呂から上がり、居間に続いた部屋で髪を乾かしていた。他の家族は二階に上がっていた。
 突然、夫の怒鳴り声が聞こえた。
 「何度言うたらわかるんや、S君は中学生にもなってまだわからんのか」
 床に倒れているSに殴りかからんばかりに手を振りあげていた。私がとっさに「やめて」と飛び出したのと、妹が飛んできたのとが同時だった。SとNは妹の後ろに隠れた。いつも穏やかな夫の行為に誰も言葉が出ない。
 しばらくあって、妹が子供たちに「早く二階に上がりなさい」と言った。まもなくそれぞれ部屋に引き取り、やがて静まっていった。私は眠れなかった。これまで夫が大きな声を上げることはなかった。夫婦喧嘩らしいものもなかった。それが世話になっている家であのように声を荒げるなんて…。さすがに子供を叩きはしなかったが、手を振りあげるとは。
 夫はストレスの限界だった。三カ月の休暇中に仕事は山積みだったろうし、通勤時間が倍になった。自宅からなら自転車で三十分だったのが、満員電車で一時間くらいかかる。また疲れて帰ってきても、家族が大勢いて落ち着くことができない。そんな毎日が続いていた。
 しかし甥達にすれば、自分の家でいつものように遊んでいるだけなのだ。そんなことを考えると自分の家のないことが現実を持って悲しく、布団をかぶって泣いた。
 翌朝、簡単なおにぎりを作り、お茶を詰め、夫と家を出た。
 自宅付近には人通りがほとんどなかった。
 これまでにも自宅には着替えや必需品を取りに帰ったり、後片付けに何度か戻ったりしていたのに、昨夜のことがあったせいか、あるいは震災後初めて自宅で眠るのだという気持ちからか、特別な気分だった。
 マンションはひっそりしていた。家に入ってまず電源のブレーカーを入れ、そしてテレビをつけた。NHKの人形劇『三国志』の再放送をしていた。
 自分の家はなんと静かで安らぐのだろう。天井や壁に穴があき、あちこち傷だらけだが、よくぞ残っていてくれたと思った。
 「妹の家が落ち着かないのだったら、アパートを借りてもええよ」
 「いや、もう大丈夫や」
 その後、毎週末を自宅で過ごすことにした。
 家具、ふとん、衣服、生活に必要なものはほとんど揃っている。ただ肝心の水がきていない。
 夫とポリタンクややかんなどを持って、一階まで水を汲みにゆく。エレベータが壊れてなくて本当によかった。
 ガスはガス会社に連絡すれば使えるのだが、水が家にきていないので使わないことにして、食事はほとんど外食にした。
 夜、食事から戻ってくると、街灯の薄明かりの中に暗い建物がぼうっと建っている。雨の降る夜は廃墟のようで不気味だった。この世にふたりきりしかいないような気がするときもあった。
 このマンションは半年前に新築されたばかりで親しい人もいなかったが、誰かに会えないかと時々耳を澄ましてみた。しかし、めったに人に出会うことはなかった。
 思わぬときに人の声がすると、会いたいと思う半面、電話がないので、不審者の場合を考え、声を潜めて外の様子をうかがった。まるで隠れ家に住んでいるようだった。
 毎週末をこの家で過ごすようになって、いそうろう生活もスムーズにいくようになった。
 マンションの修復は予想外に長引き、約一年後の十二月下旬、ようやく自分の家に住むことができた。周りの更地にもぽつぽつマンションや工場が建ちはじめ、人々も少しずつ戻ってきた。
 遅々とした修復ではあったが、八年経って新しい町ができた。地震のとき一番新しかった我々のマンションが、一番古くなってしまった。
斎場の出来事 常田 和代  (豊中市)
 過ぎ去ったあの日の思い出は、つい先日の出来事のように黒く、重く、身体全体にのしかかってきます。
 地震の起こる二日前、一月十五日の早朝、父が急死するその時まで、両親、妹、主人そして二人の子供達、愛犬一匹と毎日の暮らしを平々凡々に、にぎやかに、のどかに送っておりました。
 父が身体の不調を訴えたのは、たったの二日間。朝食をすませ、いつもの薬を飲み、「あーおいしかった」の一言を最期に家族の目の前で息を引き取りました。
 十六日は斎場の会館(翌日、高速道路が崩れ落ちたすぐそば)で通夜。葬儀を予定していた当日の十七日五時四十六分、祭壇のロウソクが突然消え、遺影が倒れ、祭壇が音と共に崩れ落ち、舟形の台の上に乗ったままの柩が我々の所へなだれ込んできました。
 一瞬の事でした。数分間はなにがなにやら、ただ呆然と見ているだけ。何をしていいのやら、頭の中は真っ白でした。
 逃げよう、火を消そう、父の写真と位牌を手にして、とにかくこの場から離れようと必死でした。親戚の人達と共に逃げました。
 私達の住んでいた西宮市はひどい被害に遭い、水もガスも出ませんでした。亡くなった方も大勢おられます。
 自宅は全壊。父をお骨にしても連れて帰る所がなくなりました。行く所もなく、火葬場が使用不能のため私達六人は会館で喪服を着たまま一週間を過ごしました。
 湯飲み茶碗で口をゆすぎ、顔を洗いました。
 やっと火葬ができる当日、親切な方からいただいた一升びん一本の水でせめて髪の毛だけでもきれいにと、氷のように冷たい水で、六人の髪を泣きながら洗いました。
 カチカチになった三個のおにぎりを大人六人で分けて食べた味は今でも忘れられません。
 冷たい雨の降る中、私達六人だけで見送った葬儀でした。その七日間に地震の犠牲者の方々の遺体が、父の柩を先頭に百体以上もフロアに並べられました。
 白木の棺に入った人、毛布にくるまれた人、シーツに巻かれただけの人。ある遺体のそばで泥だらけの顔をした小学一年生くらいの女の子が呆然と立ち尽くしていました。あの娘は今どうしているのでしょう。
 父が急死したことで自宅から離れ、家の下敷きにもならず、誰一人ケガもなくまた、はぐれることもなく、今こうしていることに喜びと感謝をしています。家の解体の日、土足で一歩部屋の中に踏み入れる足は重く、震える身体を支える足の力の弱かったことが忘れられません。 
 少しでも立派な家から嫁がせてやりたいと思いを込め、築いてくれた両親の愛の家、子供たち二人の成長を誰よりも知ってくれている柱、たたみ、そして私達の結婚家具、何もかもがメチャクチャ。その一つひとつにお礼とお別れを言いながら、動くと揺れる家中を泣きながら歩き回りました。
 ありがとう、ありがとう、そしてさようなら。
 現在は残った土地を売り、思い出と別れて、大阪に住んでおります。西宮に戻りたかったけど父との思い出が一杯ある所での生活には自信がなかったのです。七年間にはつらい事が山のようにあり、その分うれしい事もありました。それを家族で乗り切ってきました。
 人の情けも受けました。家族の心が一つになりました。
 父に救ってもらった六人と一匹の命。生と死を分ける一瞬のあの時。
 ありがとう、おとうさん。ありがとう、おじいちゃん。私達は今こうして元気に生きています。あなたが守ってくれた今の幸せ。ありがとう。
 毎日の食膳を囲みながら、父に語りかけ、忍んでおります。父の仏膳にも私達と同じ夕食の膳を、あの日からずっと続けてお供えしております。
 父がいつも皆を見守り、そばにいてくれるように思うのです。
 終わりにあの日、あの時いろいろとお世話になり励まして下さった方々に感謝しております。ありがとうございました。
 愛犬エリーは通夜の日から動物病院に預けていましたので助かりました。後に引き取り、平成十年六月十九日、私達の見守る中、父の亡くなった時刻に息を引き取りました。十三歳でした。
得たものを糧に 小山 るみ(50歳 神戸市東灘区)
 私の苦手なもの、それは地響きのような音、ヘリコプターの爆音、それと満月…。トラックが地響きと共にやって来ると、私の体はハッと身構える。
 あれから八年経つのに地震への恐怖は体にしみついている。ヘリコプターの爆音は、絶え間なく飛んでいたあの日の記憶を思い出させる。それに満月。地震直後に見た赤い月、そして震災で初めて迎えた夜、余震におびえながら、変わり果てた無残な我が町を冷たい月明かりで見た絶望感。夢なら覚めて欲しいと何度思っただろう。
 あの日の前日は、お正月気分が抜けきらない連休の最終日、単身赴任中の夫が、夕方に赴任先の大津に戻ったので、中一の娘と二人で夕食を済ませた。後片付け中ラジオが「神戸で震度1」と伝えていた。それが恐ろしい前触れと誰が考えただろう。
 そして、翌五時四十六分。ゴォーッという地鳴りを聞いた。確かに聞いた。次の瞬間、私は放り上げられたのか、四つん這いで激しい揺れを経験した。いや、あれは揺れなんてものではない。シェイク、つまり激しく振り回されたとでも言うべきか。大地の怒り、いや憎悪さえ感じた。「こんなの初めて」と叫んだような気がする。しかし、それは実際に声を出したか、頭の中に浮かんだだけだったか定かではない。ともかく、二十数秒間、すさまじい物音を聞いたはずなのに、一切の記憶がないのだ。
 そして、揺れが収まったとき、二階の娘の部屋に駆け上がった。電気がつかない。真っ暗な中、娘を呼んだ。部屋に入ろうにも落下物で前に進めない。娘の「大丈夫。お皿が跳んでる」とちょっと間の抜けた声が返ってきた。
 何とか物をかき分け、部屋を出て来た娘と外に出ようとしたが、玄関ドアが開かない。ベランダに出、塀が崩れた所から外に出た。ベランダにあったサンダルを娘に履かせ、私は干してあったソックスを二枚重ねて履いた。
 国道はそれでも車が走っていた。真っ暗な中で、車のライトが唯一見えた光だった。歩いて来た人が、
 「駅の方では壊れた家から『助けてくれ』と言う声がしとる」
 と言って通り過ぎた。
 明るくなって見えて来た惨状。波打つ道路、ガス臭、傾いたマンション、崩れた家々、運ばれて行く亡くなった人、けが人、コンビニの前には長蛇の列、空には火災の黒い煙。今でも断片的に映像のような記憶が蘇る。
 避難所で姑の持っていたラジオに皆が集まり、息を呑んでニュースを聞く。高速道路が倒れた、駅舎が崩れ線路が寸断、大火災が発生。音のみで伝えられる惨状が響いた。
 最初の夜は避難所で家から持ち出した毛布にくるまって寝た。電気もガスも水もなく、食料も非常灯も届かず、寒さと不安に震えた。余震の度に悲鳴があがり、尋ね人の声が夜通し絶えることがなかった。娘は私の手を放さなかった。
 翌朝、冷えきった空気の中で国道にずらりと並んだ自衛隊の車の列を見た。自衛隊の初動態勢の遅れなど不備が取り沙汰されたが、実際に彼らを見た時の安心感、危険な中で働いてくれた彼らへの信頼感は、忘れることができない。批判で人が救えると言うのか。
 公衆電話に並んで夫の勤務先に無事の連絡を入れた。夫は業務に出て不在、「無線で伝えます」と交換手が答えた。私は知らなかったが、放送業務の夫は近くまで来ていたのだ。後で聞いたことだが、大津でも尋常でない揺れを感じた夫は、すぐ局に出社、中継車を支援に出す決定に、自ら要員を申し出た。もちろん名神は不通、国道171号線をひた走りに走ったそうだ。宝塚付近から停電で信号はつかず、大渋滞。夫は何百メートルか走り、交通整理をし、局車を通す。そしてまた渋滞、走る、交通整理。また。それを何度繰り返したことか。
 やっとのことで西宮に到着。被災地を目の当たりにした夫は、木造の我が家の無事を半分は諦めたという。私と娘が夫に再会したのは三日後の深夜。私は緊張が解けたのか夫に「怖かった」としがみついた。
 あれから八年、神戸に戻って来て五年半。失った物も多く、つらいこともあった。家を建て直す間、二回の転校を余儀なくされた娘は不登校、姑は脳梗塞で倒れ、ようやく回復して来たとき、夫が胃の全摘出手術。
 娘が荒れたとき、夫の入院中、何度泣いたことだろう。なぜ震災で生き残ったのかとさえ思った。その娘も大学生になり、震災で亡くなった家庭教師の学生さんの追悼演奏会も開いた。夫も社会復帰している。
 震災への思いが年月と共に薄れてゆく。薄れていかなければ人は生きていけないのかもしれない。震災は多くの人に爪痕を残した。しかし、生き残った私達はそれから得たものを糧に歩み続けなければならない。あの悲惨な中に多くの善意があったこと、多くの温かい触れ合いがあったことを忘れてはならない。多くの犠牲者のことを忘れてはならない。
哀しみと・怒り 田中 良平(コピーライター 神戸市東灘区)
 ●哀しみは風に託して
 東神戸の最大激震地といわれた森南町で、僕と妻は生き残ったのが幸運としか言いようのない状況で全壊被災した。
 近隣では八十数名が犠牲となり、生き埋めで重傷の両親を運び込んだ東神戸病院では、フロアを埋め尽くした遺体を囲む近親者の修羅場にも対面した。
 この夜以来、僕は自身や家族の「被災」を、語ることをやめた。近代都市の災害が六千人を超える犠牲者を出した事実を語り継いでも、百人の被災者には言いつくせない百のドラマがあり、個々の哀しみは、言葉や文章では伝えきれないと気付いたからだ。
 犠牲者も遺族も、他者からのいかなる言葉にも癒されないだろうし、同時に、言い訳さえ空しい遺された者は、明日も生きつづけなければならない条理を背負っている。
 先端科学が地震を解明し予知したとしても、都市の完璧な防震や防災が望めないことも思い知らされた。だから哀しみは心の奥に深く沈めて、思い出は風に託して風化に任せようではないか…これが亡き方々への僕の鎮魂の思いであり、願いでもある。
 
 ●被災の生傷をえぐる「被害」
 だが…震災後の復興についての怒りは胸に深く、いつまでも抱きしめてゆきたい。機会があれば、繰り返し伝えたい。
 阪神・淡路大震災で生き残った市民が被ったのは、被災というよりも、震災直後から始まった復興という名の「被害」であった。それは傷跡の消える日はないと思われるほどの、大きな後遺症となっている。
 震災直後の住民離散の中で、わがまちでは唐突に区画整理事業が決定された。
 住民の合意を必要とする基本原則を無視し、瓦礫を前にして呆然自失している被災者の混乱を絶好の機会として強権を発動した行政のやり口は、将来に語り継ぐべき悪政である。つづいての整理事業を中にした住民と行政の対立は、後遺症となって被災市民の傷口を広げた。
 あわてて立ち上げた区画整理反対住民運動は、二年三年と時間経過の中で疲れ果て、行政側による懐柔画策の噂の中で予想通りに内部分裂を起こしてコミュニティーは崩壊。近隣が憎悪し合う無惨な終幕を迎える。
 行政への抵抗六年の県下最長記録を残して妥結した森南第三地区(二丁目)は、八年後のいまは逆に整理事業から放置されたように、第一、第二地区の事業が完了したピカピカのまち並に挟まれて、お上へ反逆したさらし首の様相を見せている。もちろん反目した近隣同士の傷口はふさがらず、治癒していない。
 八年が経過したいまごろ、強震にも耐え残った鉄筋マンション数棟と住宅数十棟が、わずかな道路拡幅のためにまだまだ長い耐用年数を残しながら解体され、再建させられている。社会資産と復興資金(税金)の壮大な浪費である。
 復興にあたっては、お上は法を甲冑にまとい十年二十年の時間も気にしない。被災者は無力で、明日さえ待てない切迫感に追い立てられる図式となる。…神戸が廃墟となった翌年、公費解体と消費税値上げの期限切れに狩りたてられた被災者は、考えるゆとりもなく再起・再建に走った。
 その結果、まち並は画一的な工業化住宅の羅列となり、住人の個性や棟梁の技をさまざまに見せて心豊だった阪神間の風情も、先人が受け継ぎ残した神戸の地域文化も消滅した。
 市民の権利を踏みにじるのも悪政だが、市井の文化崩壊を傍観するのも悪政だろう。だから阪神・淡路大震災は、犠牲者と全被災者に痛ましい苦難を残したばかりでなく、人間が定めたはずの法律や行政機構に裏切られた無惨さも思い知らせてくれた。震災が残した人的、文化的、社会資産的損傷を考えれば、まぎれもなくそれは被災というより「被害」と呼ぶにふさわしい。
 この問題は、将来、地震がこの国のどこで発生しようと復興の過程で繰り返される怖れがある。だからいつまでも記憶し、記録するべきだろう。
 
 ●怒りのハコ、永遠に姿を残せ
 被災八年を経て、驚くより「またか」と怒りに熱くなる事例が現れた。
 かつての重工業工場跡地の灘浜一帯を開発し、高層住宅群エリアとしたのがHAT神戸である。目前に瀬戸内海、背景に六甲山脈と、環境は素晴らしい。
 ところがエリアの整備が進むにつれて、神戸市民は異様な施設の出現に驚き、建物の姿に(しゃれではなく)ハッとした。一辺四三メートルの立方体、巨大なガラスのハコ「人と防災未来センター」である。簡単に言えば震災記念館であり、隣接のコンクリートのハコとの二棟から構成された、国と県との共同事業である。神戸の百人の被災者があの施設を見たとたんの反応はたった一つだろう…ガラスのハコに地震がきたらどうする?と。地震発生時、割れたガラスが凶器となって死傷者を増やしたことを市民は見たし、美しい高層ビルのガラスの外壁が破砕して落下し、階層がひしゃげるパンケーキクラッシュの生々しい姿も目前に見てきた。
 僕は建築の専門家ではないから技術的反論は控えるが、この施設を企画した国と県、設計した建築家が、この場所にこの建物を建てた真意はなんだろうか、まさかガラス建築の強度実験ではないだろう。それとも建築の審美や優劣の基準には、被災者のトラウマ(精神的な傷)への配慮のような心理的要素や、温かい気配りなどは無用なのだろうか。
 ガラスへの驚きと怒りが僕だけでないことを、次の事実が皮肉にも証明していた。それは…入口に施設案内のカラー刷パンフレットがあり、その横に薄緑色のA4ワープロ打ちのペラシートがあった。トップに打ち込まれたタイトルが建物へ寄せる見学者の疑問質問の多さと、素人のガイド嬢では回答も応対もできない困惑を語っていた。
 そのキャッチフレーズは「なぜこのような建物なのだろうか?」と自問し、回答が述べられている。内容は建築専門用語をちりばめイメージすり替えをねらった釈明文で、責任逃避文である。
 「阪神大震災級の地震に対しても被害が発生しないようになっている」との解説は、さらに震度の大きい場合は諦めろということらしい。
 館内は震災の映像・パネル・被災物・情報資料の展示だが、近年のハリウッド映画の特殊映像処理やバーチャル画像を見慣れた目には、なんとも底の浅い虚像としかいいようがない。
 例えば深江地区でドミノ倒壊した高速道路や、落下寸前の道路先端にしがみついたバスなどの写真は有名だが、地震発生の午前五時四十六分の「前後」数分を映像表現するために、主観のカメラ目線がバス内部からフロントガラス越しに、地震発生につづき目前で崩壊する高速道路をリアルタイム風に撮影し、効果には大音響と大震動が添えられている。
 テレビのドキュメント番組の回想シーンに「イメージ再現」とテロップが添えられる手法であるが、もちろん「お断り」のテロップなどはなく、大まじめに虚像と実像の混合映像を押しつける。このような底の浅いコンセプトのイメージ再現映像よりも、当時、空撮や地上での実況中継に飛び込んだテレビ局にテープの提供を願い、またアマチュアのテープの協力も願い、それらを編集したらはるかにインパクトのある映像が完成しただろうに。
 また市民の提供による被災物品は提供者には忘れがたい物であっても、あの場に展示されては「作り物」の臭いにまみれてしまうのだ。広島の原爆記念館の展示品とは、基本的に背負う重荷の質のちがいをプランナーは知るべきだろう。被災者の神経を逆なでするようなガラスのハコと内容は、これも長く記憶と記録に残すべきだと思う。
 震災の記録を風化させないことに異論はないが、デジタル社会の現代、モノとしてではなく情報としての保存が考えられなかったのだろうか。また投下した予算(税金)と効果のコストパフォーマンスが果たして整合しているのだろうか。被災者として、納税者として、記憶して記録すべき怒りは深いのだ。
生きることが恩返し 平田 和(72歳 神戸市東灘区)
 また一・一七が来た。
 あの日、自分を守ってくれるはずの家が凶器となってわが身に襲いかかった。あのときのことは今なお忘れがたく、細部にわたってよく覚えている。前日の午後六時半過ぎに、ゆらゆらと揺れた。夫は感じなかったという。当日、早起きの私は灯油のストーブをつけ、電気ごたつに入って新聞を読んでいた。神戸版に「昨日の地震は震度1」とあった。と、その時、
 「あら、地震だわ。夕べの続きかしら」
 ところが、だんだんひどくなってくる。「これは大変だ。危ない。どうしよう」。とっさにストーブのそばに寄った。四つんばいになって。ところがだめ。はじき飛ばされる。「どうしよう」
 何回も繰り返して、必死の思いで何とかにじり寄った。やっと火が消えた。耐震消火のはずなのに。途端にがらがらっ。
 私は、こたつと倒れてきた本棚の隙間に閉じ込められた。
 あたりはしーんとしている。真っ暗。
 「あっ、こたつを切ってなかった」そこで思いついた。苦笑した。
 「そうだ、停電しているんだ」
 二階には夫が寝ている。その時は私にはまだ一大事が理解できていなかった。
 「どうして私がこんなになっているのに、夫は助けにきてくれないんだろう。声もしないし、まだ寝ているのかしら、どうしたんだろう、おかしい」
 と思いながら、階段を下りてくる音を期待していた。
 そんなことを思っていたとき、しばらくたってから、急に夫の声がしだした。
 「助けてくれー。助けてくれー」
 夫は教師だった。その職業で鍛えられた大声は、外までよく響いたらしい。
 「どこですか、今助けを呼んできます」隣人の若い男性だった。
 いろいろの末、夫は何とか助けられた。
 「家内がいるんだ。助けてやって」
 私は冷静にそのやりとりを聞いていた。
 「今は体力を蓄えておくべきだ。あんまり騒いではいけない。静かにしていよう。いつ助けられるか分からない」。
 その時、他の声がした。
 「助けてください。生き埋めになっているんです。お願いします」。
 そこで私は声を出した。
 「タスケテ」
 「どこですか。音を出してください。どこか分からないー」
 中では外の音がよく聞こえるのに、外ではあまり聞こえないらしい。
 そこらを手探りすると棒切れのようなものがあった。私はそれを振り回した。ガンガンガンガン。
 「もうちょっと、こちらに来られませんかー。もうちょっと」
 こたつと倒れてきた本棚の隙間を、私は声の方にかろうじてにじり寄った。片手が誰かの手に触れた。グウーっと引かれた。近所の奥さんの声がした。
 「奥さん、しっかりー」
 「ありがとうっ」
 そうして私は何とか脱出できた。
 もう明るかった。明るかったと言っても、日頃とは違って、あたりがなんだかボウーっとしていた。と思ったのはあとになってからである。
 その当時よく聞かれた。「どれくらい埋まっていたんですか」と。
 でも分からない。時計なんてなかったし、そんなこと出られたときには考えもしなかった。
 大分たってから、仙台からわざわざきてくれた夫の弟が言った。
 「よくまあ、あれで助かったな」と。
 他にも大勢の人がそんなことを言った。新聞の死亡欄で私の名前を探した人もあったという。
避難所に行った。
 国道2号線沿いの公衆電話が通じて、夕方、長女夫婦が迎えに来てくれた。神戸に二人の娘がいたが、それぞれが一部損壊ですんだ。一軒を建て直さざるを得なかったと分かったのは、あとのことである。
 それからの数カ月は、いろいろありすぎて語り尽くせない。
 ともかく、その年の九月二十五日に、なんとか家を再建することができた。
 十月十日には姑の七回忌の法要をした。
 そして、その明くる日から、夫の闘病が始まった。夫が不調を訴え出したのは八月の末か、九月に入ってからである。
 「食事が喉に詰まる」
 日ごろは神経質なくらいに、ちょっとの異変でも医者に行って、検査をする夫である。地震の前年にもいろんな検査をして、その年の末に合格した夫である。
 「検査に行ったら」と勧める私に対して、
 「引っ越しが済んで、法事を勤めたら翌日行く」 

 言い出したらかたくなな夫であった。今になれば、どうしてあのとき無理にでも、と悔いが残る。かかりつけ医のアドバイスをもらって、前年検査に行った病院の放射線科を訪れ、宣告が下ったのはその月の下旬であった。半月以上待って十一月の中旬入院、治療。しかし宣告は、治らないということだった。翌年三月、心を残しながら退院。つかの間の新しいわが家を楽しんだ。
 「ああ、ええ家やなあ。せめて五年、いや三年でもええからここで暮らせたらなあ」
 しかし、嫌がっていた再入院をしたのはその七月一日だった。そして八月七日。最期。
 「家を建てておいてもらってよかったねえ」
 なんて残酷な言葉も何件かかけられた。
 私はその後、地震のときに受けた第十二胸椎圧迫骨折のあおりを受けて、コルセットの恩恵を受ける身となった。身体に色々と故障がでたが、いずれも「ストレスが原因」という診断で今日に到っている。
 友達が言う。
 「あんたなんか幸せで、ストレスなんかたまりようがないやんか」
 外からはそう見えるのだろう。私もいろいろ報道される人たちに比べればそのとおりだと思う。
 地震で亡くなられた方々のご家族の心境はいかばかりか、と思う。
 でも私が心や身体に受けた諸々の傷も癒えてはいない。ますます奥の方に閉じ込められる一方なのである。今になっても。
 よく報道される。復興住宅にこんな慰問があった、このような人が訪れた、等々。申し訳ないとは思うけれど、でも私も被災者なのだ、と。
 何か、取り残された思いがある。こんなことを考えたらバチが当たるとは思うのだけど。どうして私はこんなに自己中心的なのだろうと、その考えを打ち消すのだけれど。でも、思ってしまう。
 一人暮らしの老人のために、この頃配慮がある。そんなことで訪ねてくれる人もある。でも何か癒されない。地震さえなければ、あんな目にあってなければ、私の人生は穏やかに済んでいたろう。
 引きこもり老人にはなりたくない。
 そして、無為に時を過ごさないために趣味を持つ。それが仕事なのだと思う。ところが、それが身体にこたえる。そうなると、
 「何のために生きているの、何もしなくてはいけないことなんてないのに、なんで」
 と考えてしまう。
 昨年のお盆過ぎから、大変な体調の時を過ごして、近所のお医者様に筆舌に尽くしがたいお世話になった。
 介護保険のケア・マネージャーさんにも、ヘルパーさんにも、そして娘たちにも、その家族にもいろいろと迷惑をかけた。お陰様で今日を生きている。
 そんなことを考えると、「生きて行くことが恩返しなのだ」とも思う。
 一・一七。いろいろともの思う日が、またまた巡ってきて、私は一人でこの文章を、その時の体験を初めてつづっている。
妻と義母の死 藤本 博之(80歳 兵庫県小野市)
 阪神大震災で、妻博子とその母伊藤久子が帰らぬ人となってから、はや八年が過ぎ去った。
 たまたま平成十四年十一月二十三日付読売新聞「泉」欄で「阪神大震災を記録しつづける会」の記事を読み、記憶をたどりながら当時のことを記してみた。
 神戸市東灘区本山中町三丁目の妻の実家で、父伊藤鹿重郎(九十四)、母久子(八十四)の看病のため、長女藤本博子(小野市)、次女枝廣操子(大阪市住吉区)、三女片桐和子(茨木市)、従妹中野政子(伊丹市)の四人が交替で付き添っていた。
 平成六年十二月三十日、父死亡。翌三十一日告別式。慌ただしく年末年始を過ごし、一月十四日から妻博子が母に付き添っていた。
 一月十六日、私が職場から帰宅したのは二十一時過ぎであった。その日は、妻の実家に泊まるか、自宅に帰るか迷っていたが、とりあえず自宅に帰り、妻に電話した。
 「今家に帰ったよ。おばあちゃん変わりないか」
 「うん、大丈夫よ」
 「それから、祭壇の蝋燭は火をつけないで、電気蝋燭にして、線香も火をつけないほうがいいよ」
 「わかった。二十日に帰るからね。じゃあ、おやすみ」
 妻との最後の会話となった。
 一月十七日、ひどい揺れで目が覚めた。五時四十六分。再び揺れた。激しく長かった。停電していた。
 どれほど時間が過ぎたか、電気がついた。テレビをつけた。神戸が破壊され燃えている画像が目に焼き付いた。
 妻が気遣われた。電話をかけた。呼び出し音はしている。しかし、電話に出ない。何度かけただろう。誰も出ない。母を連れて避難したのか。不安であった。
 三木市志染の娘の家(篠原)へ電話をかけた。
 「本山へ電話したが誰も出ない。様子を見に行ってくれないか。公園、学校に避難しているかもしれない」
 篠原充(娘婿)が単車で東灘へ出発した。娘雅子が迎えに来てくれ、篠原宅で待機することにした。その後電話不通となった。
 妻は母を連れ出せただろうか、不安は募るばかりであった。テレビの画面は絶望的なものばかりであった。
 夕方、充が帰ってきた。
 「駄目だった。片桐さんらが到着していて、警察隊から生存していない報告を受けたと話してくれた。二階が崩れ、一階を押しつぶしていた。ひどくて手がつけられない。明日皆で行こう」
 一月十八日九時過ぎ、充と乗用車で出発した。吉川まわりで神戸トンネルを出ると、破壊された市街地が現れた。復員列車で見た神戸と重なって見えた。
 国道へ入ると、車の列で遅々として進めない。どれ程時間が過ぎたか、住吉神社付近で私だけ下りて徒歩で向かった。
 実家は無残に破壊されていた。義弟の片桐さんが待っていた。
 「この瓦礫の下に二人がいるんだが、どうしようもない。連絡しているから皆が来るまで待ちましょう」
 私が一緒にいたとしても助けられただろうか。瞬間、頭が空白になった。
 夕方、枝廣夫妻が到着した。早朝大阪住吉を出発したそうだ。続いて充が到着した。日没、横浜から伊藤家四女の堀田悦子が主人の龍也と到着した。テレビで宮地病院が壊れているのを見たと言っていた。明日、自衛隊が来るというので、一応堀田夫妻が残って、皆帰宅することにした。
 一月十九日、遺体収容の連絡があり、充、雅子と現地へ向かった。
 瓦礫の空き地に、義母と妻が義父の遺骨の横に寝かされていた。妻は紫色の顔を横に向け拗ねているようだった。頭を抱えてやったが、表情は変わらない。
 枝廣、片桐、堀田、藤本の家族がそろった。伊藤家長男のマンションも壊れ、息子の昌宏が来ていた。
 遺体を東灘健康センターへ移送した。
 室内には遺体が並べられていた。妻の上には一八二、義母の上には一八三の番号札が置かれた。次々と遺体が運ばれてくる。検死が始まると全員室外へ出された。
 検死が終わり、二人の遺体を自動車に乗せ、一族全員、小野市育ヶ丘の自宅へ向かった。
 家に帰り、布団の上に二人を寝かせたときは夜明けごろだった。
 やっと落ち着いたとき、涙が流れ、あとはどうするか考えが及ばなかった。
 神戸は祖父が明治十七年、加東郡の農村から出てきてから、父が生まれ、私が生まれ、昭和二十二年まで居住した故郷である。一日も早くよみがえることを祈る。
救援看護師としての体験 政岡 千種(59歳 看護師 松山市)
 あの朝、松山でもひどい揺れだった。
 寝床の中で「うわーどうしよう。机の下へ行った方がええじゃろか」などと、考えながらじっとしているとその内おさまった。
 出勤して、午前中に医師と回診に回っていると、患者さんのどのテレビにも激しい火災の様子が映っており、大変なことになったなとは思ったが、こんな大災害になるとは、その時は思いもしなかった。
 私にとっては、明石に住んで神戸の会社に勤めていた息子の安否が確認出来ない事の方が重要な問題だった。
 幸い夕方六時頃「無事」の知らせが入り、ほっとしたものの刻々と入る被害の拡大のニュースに、信じられない思いでいっぱいだった。その二、三日後、総婦長から「救護に行ってもらうかも分からない」と予告があり、「行く」ときまったのは二十三日の午後。
 早速病院をあげて準備にとりかかり、救護に必要な物は勿論、文房具、日用品に至る迄、全ての物が翌二十四日には揃い、夕方には荷作りが完了した。二十四日の午後三時すぎから県庁で関係者の打ち合わせがあり、現地から帰った日赤の人達の話が聞けたのは心の準備をするのに大いに役にたった。自分達の準備もそこそこに翌二十五日、医師、看護師、保健師、県庁職員、運転手等総勢十一人で出発した。
 その夜は津山に一泊し、ここでも神戸方面から帰ってきた人達からある程度の町の様子を聞く事は出来たが、実際に目の前に広がる惨状は、とてもこの世のものとは思えなかった。
 やっと長田区の保健所にたどり着き、目的地の五位ノ池小学校の場所を聞いたが、どう行ったらいいのか分からない。ウロウロしていると、愛媛県の医療班のプレートを見たのか一台のバイクの若者が近づいてきて
 「五位ノ池小学校? ついといで!」と言うが早いかさっさと道案内をしてくれた。おかげで時間を無駄にすることなく、その日十四時すぎにはもう診療を開始する事ができた。
 ここには八百人以上の人達が学校のいたる所に避難してきていた。水もガスもなく、勿論暖房もなく、みんな着の身着のまま。食事はおにぎりや冷たい弁当が殆ど。トイレも校庭に粗末な簡易トイレが五基あるだけ。校内のトイレを使用するときは大便は新聞紙にくるんで備えつけのゴミ袋に入れるという状況だった。
 それでもみんな生きている事に感謝しつつ精いっぱい生きており、校長先生をはじめ、他の先生方も献身的にバックアップされていた。
 私達も夕方からふえる患者さんに合わせて診療時間を延ばしたり、当直体制を組んで、いつでも診られるようにしたり、受診者名簿を作って、次来た時すぐ名前が分かるようにしたり、カルテの住所欄に今生活している教室名を書いたりして、最大限、患者さんの生活背景を理解すると共に、少しでも満足のいく治療が受けられるようにと努力した。
 充分なことは出来なかったが、私達がいることで安心してくれる人達や、くすり、注射等で元気になっていく人達を見るのは大きな喜びだった。
 近隣の医療機関や保健所の助けを借りながら、無事一週間を乗り切り、次の愛媛大学医療班にバトンタッチをして、神戸の街を後にしたが、帰れる私達と違って、ここでこれから生活を立て直さなければならない人達のことを思うと、後ろ髪をひかれる思いだった。
 あれから八年、時間の経過と共に私自身の関心も薄れつつあることも事実だが、あの時改めて感じた「人間いつ何があるか分からない」という思いは、その後の私の人生にとって、大きな教訓となり、今も私の心の中に脈々と生き続けている。
 「明日はないかも知れない、ならば今日一日を」と思うと、おのずと謙虚になり、何事にも感謝の念が湧く。
 あの時、無事だった息子は今も明石に住み、神戸で働いている。
 滞在中に一度自転車を一時間以上こいで訪ねてくれた息子に、
 「お母さん、もう一寸若い人がきた方が良かったんじゃない」と言われた救護活動ではあったが、私にとっては貴重な体験として今も心に残っている。
 そして「神戸」は私の中で、今も特別な存在であり続けている。
生かされた僕 村岡 明(37歳 東京都)
 僕は、地震から五日くらい経ったその道を大きなバケツを持ちながら歩いていた。
 傷ついた家を出てまっすぐ甲南山手サティまでの道。一本下れば瓦礫が続く国道2号線が横たわっている。サティ山側へ少し歩いた所にある給水できる蛇口へと歩く僕は、近くで水が手に入ることを幸運だと思っていた。
 そして、サティの駐車場に並べられているものが目に入ってきた。毛布がかけられている。
 一緒に避難している近所のおばちゃんから、死体置き場の場所がなくて困っているなどといった情報を聞きかじっていたので、それだと思った。
 もう少し近づいたときに、それは「それ」ではなくなった。
 毛布から腕がこぼれていた。
 足がすこしはみでていた。
 ああ、「人が死んでいる」
 そう僕の体が脳みそに教えた。「死体置き場」などというイメージは吹っ飛んだ。
 更にそれは、水を汲んでからの帰り道。
 僕は先ほどの駐車場をなんとなく避けて遠回りしていた。ある家から突然女性の号泣が聞こえてきた。その家を見てしまう。家は崩壊していた。崩れた玄関の向こうで何人かの人が地面にうずくまっている。
 生き埋めになっていた家族がやっと見つかったのだ。しかし、その人も死んでいた。道で会えば会釈くらいはしたことのある人だった。
 重たい水を持ってやっと自分のマンションへ辿り着いた。外壁がはげ落ちている。崩壊はまぬがれた。裏の家は崩壊していた。隣の家には電信柱が突き刺さっていた。
 揺れの波次第では、自分の部屋に突っ込んでいても全然おかしくなかった。
 そのとき再び僕の体が知ったことがある。突然脳みそに教えてきたのだ。「僕は生き延びたのだ」ということ。
 二月も終わろうとしていたと思う。大阪で映画を見た。映画が大好きな僕は、一カ月に何本も見るような人間だったので、本当に本当に久しぶりに見る映画だった。確か、「不機嫌な赤いバラ」というタイトルだった。シャーリー・マクレーンやニコラス・ケイジが出ていた。愉快な映画だった。何度も笑ったり、はっとしたり、なかなかええやん、などと思ったりした。
 そして、見ている最中にまた急に来た。映画を楽しんでいる自分に、突然気がついた。大好きな映画をこんなに気持ちよく俺は楽しんでいる。こんなに「幸せなこと」があるだろうか。俺は今「幸せ」を手にしてそれを味わっているのだ。
 僕も、他の被災者と同様に「何か自分にできることはないのか」ということを考え始めていた。
 しかし、しばらくの間、自分なりに何ができるのか、ということについて考えがまとまらない時期が続いていた。しかし、それはまたふと訪れた。
 「ああ、小説を書こう」
 三年くらい経ったある日、芦屋に引っ越してから少し経った頃、新しい家へ帰る道すがら、そんな思いが僕の心の中にふとやってきた。もともと僕は小説を書く人だったので、「何かをしなくては」という気持ちにはやっていたときは、震災のことを小説に書こうと思ったことが何度もあった。しかし、いざ書こうとすると、震災について何を書けばいいのか分かっていない自分にいつもぶち当たっていたのだ。僕が目の当たりにしてきたものは壮絶を極めているものばかりであるはずなのに、なぜ、何も書けない、なぜ、何もできないのだろう、とあがいていた。
 そして、ふと小説を書こうと思い立って書き始めた小説は、実際、震災を描いたものではなかった。
 人間の人生はある日突然ぶった切られ得るものであること。人間は死に臨んでいる。日常の中に幸せを感じられるかどうかが生きていることそのものであるのだという実感。
 そう、僕は、震災を味わったことによって体中で理解したことについて書いていたのだ。それは、震災について描いてはいなかったかもしれないが、僕にとっての震災そのものであることに間違いはなかった。
 生き延びた者には果たすべき義務があるのだと思う。「俺は生き延びた」と分かったときから、その感覚は体にすみついていた。そして、その義務は何なのかともがいていた頃よりも、自然に自分ができることに向かっている今の方が、間違いなく心は平安だ。自分ができること、僕にとってそれは、震災が降りかかったことによって理解したことを伝えることだ。
 震災を生き延びた者として自分に何ができるかをようやく掴めた。震災から何年もかかったけれど、こうして初めて僕は、あの震災を乗り越えていけるのだと思う。
 そして、乗り越えたらまた、生き延びた者として新たにするべきことが生まれるのだろう、そんな気がしている。「生き延びた」とは「生かされた」ことなのだ。だから、僕は確信のように感じている。僕の人生はあの震災から再び始まったのだと。
生まれてきてありがとう 矢島 千佳子(55歳 兵庫県芦屋市)
 一月十七日、阪神大震災で家が全壊、突然、娘の人生は奪われてしまいました。
 十九年住んでいた家は、築七十二年の筋交いのない、雨漏りのする危険な家だったので、阪神大震災の起こる一年前頃から建て替えたいと必死になって行動しましたが、実現できませんでした。
 家を建て替えていれば娘は亡くならなかったと思います。
 大学生活、恋愛、就職、十八歳からの厳しい、そして楽しかったであろう人生の全てを娘は失ってしまいました。
 私はいつも
 「親は子供のためなら、命を賭けて助けるのよ」
 と言っていたのに、娘の命を助けることができませんでした。
 娘を亡くしてから私の生活も、考えも変わりました。
 家族で食事をしに出かけたり、ボーリングに行ったりすることもできなくなってしまいました。
 真面目に暮らしていれば絶対不幸はこないと信じていましたが、そんなことはないのだと思うようになってしまいました。
 一九九五年一月二十日、義兄(実姉の夫)の尽力で姫路の近くのお寺で、娘のお葬式を執り行うことができました。
 悲しんでいる余裕もなく、助かった十三歳の次女の心の傷を思い、しばらく実姉の家で暮らさせてもらうことにしました。姉を亡くした次女の寂しい時間が少しでも減ればと思い、学校を探したところ、姫路にあるミッションスクールに幸い通学させることができました。
 時々次女と一緒に芦屋へ帰り、全壊した家の跡片付けをしました。
 「屋根瓦はめちゃめちゃ重たくて疲れるね」
 と娘と話しながら一枚一枚地面に落として、アルバムや娘たちの大切な本を取り出しました。
 実姉の家では辛い気持ちをぶつけるように亡き娘の友達や私の友人に手紙を書いたり、毎週土曜日に実姉の家まで夫が運んで来てくれた土壁の被った洋服を姉や私の母に手伝ってもらいながら洗濯をしたりして過ごしました。
 三月五日芦屋に帰り、四月二日に近くのマンションへ引っ越しをするまでの一カ月は、私の実家で暮らしました。
 全壊した家から三面鏡だけ取り出せたのですが、家具は全てなくなってしまったので、近くのスーパーまで引き出しケースを買いに自転車を走らせたり、引っ越し後は、洗濯した洋服を次女と一緒にダンボール箱に詰めてマンションへ自転車で運んだりする毎日でした。
 そのときは分からなかったけれど、震災後ずっと忙しく身体を動かしていたかった。今になってみると娘を失った辛さを紛らすためだったのだと思います。
 「お元気?」
 「お元気になられたみたい」
 などと言われる度、とても辛く思います。
 子供を亡くして元気になれる訳もなく、元気になったと決めつけないでほしいと八年経っても思います。私は毎日を淡々と暮らすだけで精一杯なのです。
 町で娘に似た人に会ったとき
 「二十六歳になっている娘は、こんな感じになっているのかしら」
 と思い、娘に似合いそうな洋服を見つけては
 「もう買ってあげられないね」
 と思ったとき、胸が痛み、涙がこぼれます。
 震災後に運転免許を取得しました。
 「お母さんが運転するの知らないよね、貴女を迎えに行ったことも、送って行ったこともないね」
 と運転しながら娘に話しかけています。
 娘の誕生アルバムに
 「生まれてきてありがとう」
 と書きました。
 娘に会いたい。そして
 「十八年いろいろなことを努力してきたね」
 「お母さんの話しを聞いてくれたね」
 「『育ての母』と言われたほど、五歳下の妹の面倒を見てくれて、可愛がってくれたね」
 と言ってあげたいです。
 
あとがき 代表 高森 一徳

 おかげさまで、第9集までこぎつけました。第8集で14編にまで激減した応募手記は、今回はなんと38編と、第7集(36編)を上回る数が寄せられました。

 これは、第8集への応募数を知り、このままでは第9集の成立が危ういと同情した新聞各社(朝日、神戸、日経、毎日、読売)の記者さんたちが記事にしてくださったおかげです。
 この種の活動は、人の一生に似ているところがあります。生み出す(始める)のも大変ですが、どう終えるかも大変です。栄養剤や薬の点滴で「スパゲティ症候群」状態になっても延命するのがよいのか、尊厳死がよいのか?

 「10年で終了する」と決めて始めた活動です。スタート時には、「この修羅場に、(締め切りの3月15日までに)手記を書ける人が果たして何人いるのか?」と企画そのものを疑問視されました。240編も手記が寄せられたのには、主催者側の私たちが驚きました。
 だが「時間がたつにつれ投稿数が減少するのは当然で、自然の流れで『安楽死』できればよい」と考えていました。結果として第9集が上梓できなくても、それ自体が記録ではないかと思っていました。
 
 しかし、第8集で終わらせてはならないと考える新聞記者の方々がいて、また自分の記録を残したい人々がこれだけおられるというのも記録です。15編を選抜し掲載させていただきました。

 今回の選抜には、5人の編集委員があたりました。貴重な記録でも、応募要項の「原稿用紙5枚程度」を超えるものは、断念したり、一部をカットさせていただいたりしました。これまでの8集もこの基準で編集しましたので、あしからずご了承ください。
  
 編集委員にもこの9年間でずいぶん異動がありました。編集総括の小橋繁好さんは、地震発生時には新聞社の東京本社勤務でしたが、その後大阪、金沢と転勤。現在は出向して金沢のテレビ局のエグゼクティブ・プロジューサーとして活躍されています。高森は2001年からシンガポールに再度の駐在をしております。井原悦子さんと村川利夫さんは大阪府、高森香都子のみが神戸市在住です。
 編集委員の現住所がこれだけ散らばっていても編集活動ができ、私たちの震災の記録がホームページを通じて毎日100件以上検索されているのは、インターネットのおかげです。
 メールの投稿比率も年々増えています。そういう意味では、「阪神大震災を記録しつづける会」も「時代の子」だと痛感します。

 第9集を編集し終えても、「未来の被災者へのメッセージ」(第1集募集時の呼びかけ)は、まだまとまりません。
 阪神大震災が日本の過去の災害や外国の震災と大きく違うのは、「豊かな社会を襲った災害」という点です。
 しかし、自助努力で、あるいは行政からの補助によって、物理的にも経済的にも、世界標準からみてうらやむような復興を遂げた人々が、幸せではない。今回の掲載作品でいうと、平田和さんの『生きることが恩返し』が典型的な例です。ご本人も当惑されているように見受けられます。
 この事実を「贅沢な悩み」と切り捨てるには、あまりにも大勢の方々が該当します。現代の日本の社会全体に普遍的に存在する、「衣食住が満たされた後の、生きがいの模索」というテーマにつながる、大問題でしょう。
 震災後被災地で盛んになった、ボランティア活動やNPO活動への参加が、処方箋の一つでしょうが、人見知りする人や、「慈善と偽善は紙一重」と考える人にはむきません。
  
 先日、一時帰国した折に、深夜、開いているコンビニを探しに、次女の運転で小ドライブをしました。空き缶を窓から道路脇の草むらに投げ捨てた私を見て、次女が、
 「お父さんの日ごろの行動と、『阪神大震災を記録しつづける会』の活動が全く結びつかない」と言います。
 「深夜の赤信号は直進してもよい」と断言するくらい順法精神がなく、公徳心に薄く、他者への思いやりに欠ける普段の私を見て、かねがね疑問に思っていたようです。
 「あの時、だれもが『自分にできることはないか』と考えた。たまたま、私は記録を残す活動を見つけたのであって、世のため人のためといった、高邁な精神でやっているのでは全くない」と答えたら、すっかり納得していました。

 地震は、日本の国全体に拡散している問題を、前倒しで、集中的に顕在化させました。
 被災地には、将来、日本全体を襲う課題が山積しています。
 結論を急がず、淡々と記録を残し、後世に引き渡すのが私たちの役割です。

 あと1集。来年には、「ずっと続けてほしい」との励ましや、「なぜやめるのか」とのお叱りが寄せられるでしょうが、自然体でこの活動を終結したいものだと考えております。

平成15年8月