まえがき 編集総括 小橋 繁好

 地方自治体の防災会議に出席した。災害対策、災害救助、支援組織、広報活動など、ほとんどすべての防災関係団体を網羅している会議だ。
 全部合わせると300ページにも上る資料が配布される。そこには、防災危険箇所、災害発生と同時に発足する緊急体制組織図、連絡系統、担当者名、備蓄品などについて、こと細かく記されている。事務局は大変だと思う。資料の整理、前年度との変更点の確認など、担当者の防災にかける熱意は伝わってくる。
 最後に防災計画なるものを了承して会議は終わる。会議の途中で、何度か出席者からの質問を受付ける時間がある。でも、誰一人発言しない。疑問の余地がないほど、資料が精査されて提出さているからかもしれない。必要なことは、資料のどこかに書かれている。
 問題は、その資料が生きた資料になるかどうかだ。そして、とっさの判断力。
 会議に緊張感はなかった。阪神大震災は遠くなりつつある。
2002年7月
阪神大震災を記録しつづける会
編集総括 小橋 繁好
残った建物 服部 康子(66歳 神戸市東灘区)
 皆さんは、神戸の東灘区に異人館があることを知っていらっしゃいますか。私は、東灘区で生まれ、東灘区で育ったのに全く知りませんでした。ある講演でそれを聞いた時の驚き……。しかもその家が今も残っているというではありませんか。
 講演のお話は、阪神間での文化の始まりについてでした。それは宝塚に映画の撮影所があったことなどでしたが、ロシア革命の後、日本に亡命してきた白系ロシア人が深江の浜にあがり、そこから神戸の音楽が始まった。やがてその一区画は音楽村と呼ばれるようになって、昨年亡くなられた朝比奈隆さんの音楽もそこから発祥したと語られたのです。
 ロシア革命は1917年のことですから大正時代です。そのころ建てられた家があの激しい阪神大震災を耐えて今なお残っているとは。本当だろうか? 本当にそんな家が今も存在するのなら、見たい。
 昨年『七年目の真実』の中で書いた「東灘歴史掘り起こし隊」の先輩に、そんな村があったのか尋ねました。さすが歴史掘り起こし隊員です。すぐに「それは異人村のことではないかなー」と返事が返ってきたのです。
 場所は定かではありませんでしたが、おおよその見当をつけて車を走らせました。国道2号線の赤鳥居の交差点を南に下り43号線を越えると深江大橋があります。そのすぐ手前に昔の防波堤が今も残っています。その北の道を左に曲がりました。深江の浜に異国の人が着いたとしたらその辺りに違いありません。住宅地らしき所を探して車を走らせると、震災の被害がいかに大きかったかを物語る光景が目に入りました。古い家などまるでないのです。行けども行けどもそこにある家々は、明らかに震災後建てられたと思われる新しい家ばかりです。こんな所に大正時代に建てた家があるのだろうか。
 最近建ったばかりと思われるマンションの前に車を止めました。もう歩いて探すしかないと思ったからです。少し行くと芦屋市に入りますここで見つけなければ、深江ではなくなるのです。
 一緒に来た同僚と二人で歩き出しました。ほんの一筋ほどを歩いて曲がった所で私たちは目を見張りました。蔦にまかれた三角屋根の古い家が目の前にあるのです。角に丸みのあるスレートの瓦、木製の上げ下げ窓、まぎれもなく大正時代の家がそこにあったのです。さらにもう一軒、すぐ先に同じような家があります。三軒目ははたして昔のままなのか判断できませんでしたが、何となく異人館の面影を感じました。
 多分、その一区画が音楽村だったのだろうと思います。現在、一般の方が住んでいらっしゃるので「ここに異人館あり」とマップに書き入れることはひかえましたが、私達一同は、あの大震災に耐えて残った家があったことを喜びあいました。
 大地震というと、まず頭に浮かぶのは関東大震災ではないでしょうか。その大震災に耐えた建物と言えばアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが建てた帝国ホテルが有名です。そのライトの設計になる旧山邑邸別館(現在淀鋼迎賓館)が芦屋にあります。この建物も阪神大震災で被害を受けながら残ったのです。ライトの設計がよかったのか、山の斜面に建てられて地盤が良かったのか、いずれにしてももう一つライトの神話ができたような気がしました。
 戦後56年を過ぎた現在、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」という言葉があったことを知っている方がどれほどいらっしゃるでしょうか。この甲子園ホテルは、終戦後は進駐軍に接収されて、将校宿舎とクラブに使用されていましたが、今は武庫川女子大学甲子園会館となっています。
 平成12年、武庫川学院のシンポジウムに寄せていただき、懐かしさに胸がいっぱいになりました。この建物がライトの愛弟子、遠藤新の設計であったことを知ったのはつい最近なのですが、褐色のタイルとレリーフテラコッタに飾られたシンメトリーの建物、芝生の庭園には東屋も昔のままでした。昭和五年の建造物です。私は幼き日、父に連れられて何度か訪れたことのあるホテルです。
 東灘区には昭和8年に完工した御影公会堂が、国道2号線の北、石屋川の東側にあります。先の建物ほど有名ではありませんが、当時としてはモダンな三階建ての建物で、昭和20年の空襲に、そしてこの震災にも耐えました。御影には世良美術館(神戸市建築文化賞、兵庫さわやか街づくり賞)も昔のまま残っています。
 昨年、御影公会堂と同じ清水栄二の設計になる魚崎小学校(飛行機を上から見た形でした)が解体されました。せっかく残ったのに…と卒業生の一人である私はとても残念です。前々から建て替えを言われながら、震災で残ったので、このまま残そうかという話しが出ていただけに、淋しさを感じました。
 あれから8年目、新しい建物ばかりの街で、あの大地震に耐えて残った建物に出会うと、そこにその建物があるというだけで、何だか力づけられる思いがします。今なお忘れられないあの日々を、ともに戦った戦友のように思えて。
異常心理 田村 琢司(63歳 大阪市)
 私は昭和43年5月16日、北海道新任教員研修を大雪青年の家の講堂で受けていた。「教育現場では何が起きるかもわからないから教師は何時も沈着な行動を取ることが大切だ」という趣旨の講演の最中だった。突如マグニチュード7・9の十勝沖大地震が襲った。この規模の大地震は記憶がないこともない。だがそれははるか彼方の記憶もおぼろげな出来事である。
 私は岡山県生まれだ。小学校に上がる前だったと思うが地震に気付き逃げる時踏み下ろす足が畳に思うように着かなかった感触だけは不思議に記憶に残っている。
 余談から新任教員講習に話しを戻したい。地震がおさまって演壇に戻った講師は演壇を飛び降りて避難したことと演題とのちぐはぐをしばらく言い訳をしなければならなかった。不気味な余震が講習終了後宿舎に入っても止まなかった。

 十勝沖大地震から27年後、私は大阪の淀川工業高等学校に転勤して1年目だった。前日酒に酔っていつもより早く床に就いたものだから翌日早朝4時過ぎに目が覚めてしまった。布団から出て居間でその日の授業の下調べをしていた時だった。なんの音だったか。シャーンと耳が鳴った記憶がある。ほとんど同時に大揺れを感じた。これは普通の地震じゃないぞ、と瞬間感知し得たのは先の十勝沖大地震の経験があったからだろうと思う。
 阪神淡路大震災の時の私の自宅は激震地の東灘から数10キロ離れた大阪箕面市栗生間谷西の粟生団地の5階だった。1階と5階とでは揺れ方が違う。眠っていて地震に起こされたのと私のように目を覚ましていたのとでは事情は大きく違うだろう。
 5階の私の部屋はこういう状況だった。座っていた私の真後ろの本立てが私の頭上に倒れかかり目前のテレビがぐらっと傾いた。順序は言えないが部屋中のものが次々と倒れた。
 六畳の間は色々な破損物が散乱した。この時咄嗟に私はなにもできなかった。茫然自失とはこういう時のことを言うのだろう。やがて団地の階下や通路で声がしだした。
 小指で触れても倒れそうなぐらい傾いたテレビを台の上に据え直しスイッチを入れてみると猛火に包まれた都市の火災地獄が映っている。寝室をのぞくと妻が布団の上に無言で座っていた。
 「おい、でっかい地震だったなあ」と言ったが、返事もしなかった。彼女の受けたショックの大きさを物語っている。やがて気をとり直し居間に出てきて一つ何かを片付けては「大変」と連発し始めた。
 私は最寄りのバス停に行ったがバスは動いていないことを知り、通りかかったタクシーに乗り込んだ。運転手さんから阪急北千里駅にいく途中大阪市内の状況をたくさん仕入れた。阪急北千里駅でタクシーを下りてみると地震のため電車は不通、運休と告知幕だったか看板だったかが出ていた。
 またタクシーに乗って自宅まで帰ろうと思ったが何時までたっても目に留まらず走って自宅に戻った。とりあえず学校に電話連絡を取ろうとしたが不通だった。テレビで学校の臨時休校を知った。それで家の片付けは妻に任せて午後からその日学校を半日休暇を取り行くことになっていた阪大病院までジョギングがてら行った。
 朝出勤途中、循環器病院の手前の歩道に人が倒れていたのを私は思い出した。あおむけになっていた人と地震との関係は不明だったが、午後再びそこを通り抜けようとする時までそのことをすっかり忘れていたことは実に不思議な現象だった。何故あの時駆け寄って
 「もし、あなたどうされたんです? 大丈夫ですか」と言わなかったのだろうかと思った。
 地震のショックで、自分があの時異常心理の状態にあったのだろうという言い訳は果たして成り立つのだろうか? 自分のことしか考えない都会人の無関心を持ち出しても見るが半分も答にはなっていまい。路上に倒れている人を目撃したショックよりも、もっと大きな緊張状態が目の前のショックを消すというような心的メカニズムがあるのかもしれない。
 阪大病院に行く途中、愛媛県から学会出席のため大阪にやってきたという人と同行した。二人の会話はやはり地震のことだった。これは私のセリフだ。
 「もの凄い地震だったですねえ、私は十勝沖大地震も経験していますからねえ、今度のもあれと余り変わらなかったですよ」
 「ほう!大地震を二つも、ご自宅は大丈夫でしたか?」
 内容はこうだったというだけで勿論正確な直接法の会話ではない。
 不思議なことに、ここで初めて当時寮生活をしている娘のことが心配になった。すまないと今も思っている。
震災後の小学生徒数の変化 高島 節子 (69歳 キリスト教児童伝道師 神戸市西区)
 私はキリスト教の児童伝導を始めて今年で17年になります。
 震災後、現在の場所に落ち着いたのは1997年(平成9年)9月からです。
 こちらに来てから西は播磨小学校から、東は二葉小学校、長楽小学校等の校門近くで、子供用のトラクトを配るようになりました。
 被災の次の年に岩岡の仮設住宅に移ってから、ヤマハのパスワゴンを利用させていただけるようになりました。このパスワゴンで、あちこちの小学校に、キリスト教のトラクトを運びます。
 私は被災前から、須磨区の板宿小学校の前の西部教会に属しています。水曜午後は、教会の近くの小学校にトラクト配布にゆきます。東は長田区の二葉小学校、長田小学校、池田小学校へと。西側へは、西須磨小学校、若宮小学校へと。
 今の家から東へは、せいぜい垂水小学校までです。北は、地下鉄西神中央駅近くの竹の台小学校、美賀多台小学校あたりまでトラクト配布にゆきます。
 このようにあちこちの小学校に出かけるので、子供たちの震災後の移住が手に取るようにわかるようになりました。震災後子供たちは、家族と一緒に西の方に移り住む者が増えたようです。
 震災前までは長田区の二葉小学校、長楽小学校、池田小学校、長田小学校の生徒数は今より多かったです。最近私が池田小学校の前でトラクトを配っていた時、学習塾のチラシを配っている男性がいました。震災後、池田小学校の児童数はすごく少なくなったとこぼしておられました。
 私の知る限り、現在の長田区の小学校の生徒数は平均して百人強ぐらいでしょうか。平成12年の春から千歳小学校は、近くの大黒小学校と合併して、大池小学校になりました。長田区の隣の板宿小学校の生徒数も震災後は随分少なくなりました。二百人ぐらいでしょうか。
 それでは長田区、須磨区の子供たちは家族と一緒にどこへ移住したのでしょうか。彼らは私の知る限り、西の方に移住したようです。
 私がここに来た頃は、まだ大久保南小学校も二見西小学校もありませんでした。私が岩岡の仮設住宅にいたころ、岩岡小学校の生徒数は千人以上と聞きました。確かに私がたくさんのパンフレットを持っていっても足りず、2回ほど配ったことを覚えております。また私が帰宅途上、岩岡小学校の生徒たちが遠い道のりを歩いて帰るのに会いました。
私は西神中央近くの美賀多台小学校、竹の台小学校、春日台小学校、樫の台小学校にもトラクトを配りにゆきますが、各々生徒数は多いです。それぞれ七百人ぐらいいるでしょうか。
 西の方の播磨小学校は、地方で生徒数は少ないです。でも山陽線東二見駅前の二見小学校の生徒数は五百人以上いると思います。
 山陽線魚住駅近くの錦浦小学校、江井ヶ島小学校等は、生徒数は七百人以上いるでしょうか。谷八木小学校も人に聞くと七百人以上とのことです。藤江小学校、貴崎小学校、林小学校、大観小学校、明石小学校、朝霧小学校等も生徒数は多いです。舞子小学校の生徒数は七百人以上と聞きました。人丸小学校も七百人以上と思います。
 国道250号バイパス沿いの有瀬小学校、伊川谷小学校、高津橋小学校、神陵台小学校は各々五百人以上の生徒数でしょうか。
 この近くの枝吉小学校、鳥羽小学校、出合小学校、玉津第一小学校、沢池小学校等も生徒数は決して少なくありません。
 遠い所ではJR土山駅から、二見小学校、平岡東小学校、蓮池小学校まで歩いてトラクトを配布に行っています。蓮池小学校の生徒数は三年前に比べるとこの頃大分増えました。学校の周りに住宅が随分と増えたことがよくわかります。二見小学校は生徒数は七百人以上いますかしら。平岡東小学校の生徒数も五百人以上いると思います。
 二見地区は住宅が増えたので新しく二見西小学校が建てられました。生徒数は七百人以上です。JR大久保駅南の大久保南小学校も建てられましたが、生徒数は七百人ぐらいでしょうか。
 各小学校の正確な生徒数は、私は知りません。ただ、震災後、長田区、須磨区の生徒数は著しく減少しただけ、西の方の小学校の生徒数が目だって増えたことだけは確かです。
 長田区に比べると、須磨区の小学校の生徒数は極端には減っていないようです。
平成12年5月7日
わからない 川畑 和弘(38歳 会社員 神戸市須磨区)
1月17日。神戸の人はこの日を絶対忘れない。私は当時、最も被害の大きかった長田地区のすぐ近くに住んでいた。揺れて30 分もしないうちにあちらこちらから煙が昇っていた。人々はどうして良いか分からず、ただうろうろするばかり……。
 警察、消防そして自衛隊、だれもこなかった。そのうちヘリが来た。でも報道のヘリだった。爆音だけを残し、撮影が終わるとさっさと行ってしまった。
 友人の家は当日の夜燃えた。火が迫ってきたが、だれにも止められなかった。気の毒でかける言葉もなかった。
 数日して援助物資と書いた箱が小学校に届いた。中身は生ゴミだった。あちこちで窃盗団が出没していた。文字通り火事場泥棒だった。
 妻と二人で大阪に脱出した。大阪は普通だった。食堂でテレビを見ながら「神戸は大変らしいな」と行って、酔っ払いが食べ残しをして去っていった。これを見て無性に腹が立った。
 その後、神戸は善意だらけになった。公共の道路や建物はきれいに再建された。
 しかし、一歩路地に入ると空き地が目立つ。都市計画の名の元に、泣く泣く土地を拠出させられた者。保険金が出ず、二重ローンに苦しむ者。商店街には全然活気がない。
 市長も知事も震災に一区切りがついたとしてさっさと辞めていった。国は構造改革、構造改革で忙しいらしい。阪神淡路大震災は地方の出来事、すでに過去の出来事なのか?
 あれから7年。何をもって震災復興と言うのか? 私には分からない。
夫婦の道 安藤 衣子(57歳 パート勤務 神戸市須磨区)
 「生と死」の選択さえできなかったあの1月17日の大震災の記憶から、何年が過ぎ去ろうとも私は脱出することができません。「百歳まで生きるんや」と元気一杯だった主人が、あっけなく私の前から姿を消して、早7年を迎えます。生き抜く強さのあった主人の強烈なパワーは今でも私を包み込んでくれます。私達夫婦は、これから「二人で一人」の夫婦の道を歩む事を許されなかったのが残念です。夢と希望に満ち足りて生きてきた私達を引き裂く自然界の大きな力には勝つことが出来ませんでした。
 「六十歳からが本当の夫婦やで」「夫婦しようなあ」とお互いに声をかけ合ったものでした。それが52歳で引き裂かれてしまいました。
 何か悪い事でもしたのでしょうか。自問自答をくり返しました。31年の結婚生活は山あり谷ありの大変な人生でした。ゼロからのスタートです。夜、昼なく働きづめで3人の子供たちを育て、主人も私も一生懸命生き抜きました。主人は姿を消してしまったのですが、毎夜のように夢の中に若い姿で会いに来てくれます。
 別れ別れになっても私達は夫婦なのです。60歳、70歳、80歳になっても夢の中でデートできれば素晴らしい事です。夢の中しか私達は会えないのですね? でも夢は無限です。これから先の人生は、「一人で二人」で生き抜きたいものです。
 主人と結婚出来たことを本当に感謝しております。いい人と巡り合い31年間の付き合いでした。しあわせでした。今は一人暮らしの平凡な生活に慣れましたが、何かを忘れているように思います。たぶん気力がなくなったのだと思います。何もできなくなっております。
 しかし仕事は人間を強くたくましくさせてくれます。仕事は素晴らしいものです。今の職について13年12月21日で丸6年目を迎えました。震災後すぐ仕事についた時には心身とも疲れきっておりましたが、私は命をかけて働きました。
おかげで私に信用と自信がつきました。何物にも代えられない大きな宝物です。6年目にしてようやく手に入れる事が出来ました。これはほんとうにうれしい事です。
 あの震災で生きがいを見失った私にとって、これは大変なことです。進んできた道は間違っていませんでした。そしてこの道を教えてくれたのは主人です。私は夫を人生の師として生きて行きます。仕事をさせてもらう有難さを感謝し、我が身を大切に使って行きたいと思います。長い六年でした。あらたに始まる一年をしっかり頑張って、実績を重ねたいと思います。
 この働きのごほうびに私は、あの日本一の富士の山を見に行きました。雲一つない素晴らしい富士山を目前にして、自分の心が小さなことに気付きました。強く大きくたくましい富士山は、勇気と力を与えてくれました。強く生きていける活力を頂き、しっかり働いて社会との絆を保ちたいと思います。
 楽しむことが大の苦手の私は、これから楽しみを一つでも多く体験して行きたいものです。生から死に向かって歩んでいる私達に、突然不幸はおそってきます。愛する人を亡くし、時が過ぎ去っても忘れる事の出来ない悲しさは、自然のままに流す方が良いと思います。あわてる事はありません。ゆっくり気長に悲しみと向かい合って、自分自身を見つめることが出来れば、悲しみから逃れることができると思います。
 だれもが通る道です。避けては通れません。必ず経験することです。目に見える世界はある日突然消えて無くなります。何一つ守れるものはありません。命だってそうです。家だって、財産だって、守る事はできません。
無力だった三人組 匿名・男(28歳 生協職員 神奈川県相模原市)
 もうあの日からこれほどの時間がたっているのですね。私はあの日は友達と飲んで家で寝ていました。仕事をやめてしまい家でけだるい感じのところを母に起こされました。
 「大変よ。神戸で地震があったんだって」
 二日酔いでだらだらしていたかったですが、さすがに私も目を覚ましました。私の実家は横浜だったので大震災には特には関係なかったし、親戚もいるわけではなかったのですが、私はちょうど無職でしたし、時間ならあったので、無職の友達二人に電話して、神戸にボランティアに行こうと決めて三人でその昼には集合、特に何も用意することなく、東名高速に乗って神戸に出発しました。
 テレビで高速道路が落ちているのも見ていましたし、車でどこまで行けるかわかりませんでしたが、とにかく三人で交替しながら行こうと決めて車を走らせていると、私達の心は妙な正義感と、失礼ですが、お祭気分に満たされていました。東名高速にはめったに見ることのない自衛隊のめずらしい車と、消防車ばかりが走っていました。運転に疲れてきた私達はパーキング・エリアで休もうとしました。サウナもあったのですこしここで仮眠しようと思い中に入ると、自衛官ばかりが寝ていたのには少々おどろきました。仮眠をとってから、再び出発。高速道路はやはり途中までしか乗れませんでした。地図を見ながら高速の下の道を走りました。大阪を過ぎたぐらいから少しずつ具合がおかしくなってきたことに気付きました。
 道路は渋滞してきましたし、車でなく、バイクや自転車で移動している人が神戸へ近づくほど多くなってきました。コンビニには商品をぜんぜん置いていませんでした。何も用意もして行かなかった私達は「水でも配ろうか」ぐらいしか考えていなかったので「どうしようか?」ってことになったのです。とにかくここまで来たんだから先へ進もうということになり、神戸に近づいていくと、テレビで見た高速道路が落ちていました。
 「うわーテレビと同じだ」かなりの衝撃的な破壊的な建設物が実際目の前にあると、災害の恐ろしさを感じました。
 家の壁がはがれていたり、まるまるつぶれていたり、電線が手のとどくところにあったり。しかし、神戸の人たちはそれぞれ自分の食料調達やらで忙しそうでしたし、「いったい私達三人になにが出来るのだろう?」となってしまいました。
 「学校に行けばボランティアとかやってるんじゃないか?」と思い行って見ましたが、大災害のあった次の日にボランティア活動もしていませんでした。自分たちの無力さを感じました。三人でアイディアを出し合いましたが、このままじゃ私達はただの災害の見学者だし、自分たちのお金にも余裕もないし、出直そうと、横浜に帰ることにしました。
 その後、ボランティアの募集を見ましたが、私は次の仕事を決めてしまったので参加できませんでした。神戸のみなさんにはわずかですが募金をさせていただきました。私達にはそれぐらいしかできなかったからです。すみません。
海外で体験した阪神大震災 大西好宣(40歳 団体職員 神奈川県横浜市)
 その日の朝、僕は仕事でタイのバンコクにいた。次の目的地であるカンボジアに向かうため早起きした僕は、テレビも見ず、いつものようにホテルをチェックアウトし、空港のラウンジでくつろいでいた。日本で起こっている大惨事など知る由もなかった。
 ビジネスマン風の二人組の日本人男性が声高に話しながらラウンジに入ってきた。「……関西で…地震が…」「…うん…大きい…情報が…ない」 途切れ途切れの会話を耳にはしたが、その場では全く気に止めなかった。

 プノンペンはバンコクよりさらに情報が届きにくい。仕事中もまたその前後も震災の話は一切現地の誰からも出なかった。仕事で会ったどの人とも笑顔で別れた。

 プノンペンで初めてそれらしき報道に触れたのは、仕事を終えてホテルに戻った午後5時半。ロビーのテレビの前に人だかりがしていた。日本人のおばさんたち(ボランティア団体の人だろう)が右往左往して何やら騒いでいる。しかしこの時、僕は余りにも疲れていた。一刻も早く部屋に戻りたかった。僕は皆が大声でまくしたてているのを尻目に、テレビの横を逃げるように通り抜けた。

 僕が地震のニュースを見たのは、それから2時間後。ホテルのジムの中だった。夕食後にちょっと運動でもしようと、マシンで軽いジョギングをしていた時のことだ。CNNテレビだっただろうか。マシンの前にあるテレビ画面に、いきなり地震の光景が映し出された。倒壊したビル群。ぐにゃぐにゃに曲がった高速道路。燃え上がる街。あちこちで響き渡るサイレンとヘリコプターの音。どれもこれもが信じられない光景だ。
 「はて、どこの国だろう」。すると画面の右上に見慣れた日本語で「○○放送」の文字が。「ほう、日本のテレビ局か。うん?」
 次の瞬間、僕の目は凍り付いた。画面の中央下に、「神戸市」の文字が。反射的にマシンの緊急ストップボタンを押す。「ばかな!」

 どの位その場に立ち尽くしていただろうか。ふと正気に返った僕は猛然と部屋にダッシュ。ドアを開けるなり、襲いかかるように電話の受話器を取った。姫路の実家は大丈夫だろうか。いや、どうか無事でいますように。必死の思いで、ナンバーボタンを押し続ける。3回、4回…10回、11回……。だめだ。
 何度繰り返しても繋がらない。仕方なく受話器を置く。「よし、冷静に考えよう。緊急事態だから、回線がパンクしているに違いない。いや、ひょっとすると電話の中継局すら甚大な被害を受けているのかも。とすれば、直接姫路に電話してもだめだ。東京の勤務先が助けてくれないか? いや、東京とプノンペンとの時差は2時間。とっくに営業時間は終わっている」。
 僕は、名古屋に住む弟に電話をかけることにした。何か情報を持っているかもしれないと思ったのだ。5回以上かけても繋がらない。うーん、ここもだめか。

 そこでハタと気付いた。そうか、このように海外が注視する大緊急時には、国際回線そのものが満杯になってしまっているのだと。これはもう、回線に空きが出るまでひたすら待つしかないと腹をくくった。
 その後約1時間おきに電話をかけ続け、やっと名古屋の弟と連絡が取れたのが日本時間の深夜。間延びした声が聞こえた。彼によれば姫路は震度4で、かなり揺れたらしいが神戸よりは随分ましで、両親も無事だとのこと。これでまずは一安心。一方で、犠牲になった神戸の人たちに思いを馳せる。

 実はこの時、営業時間外だった勤務先の総務課長は、ねばり強く僕の実家に電話をかけ続け、両親の無事を確認する努力をしていてくれたことを後で知った。
三つの地震 綱 哲男(74歳 貿易商 神戸市中央区)
 今年は「1・17ひょうごメモリアルウォーク2002」に妻とともに参加した。スタート地点の王子公園から震災7周年追悼のつどいの会場である神戸東部新都心(HAT神戸)までの2キロコースを歩いた。建設中の阪神淡路大震災メモリアルセンターの隣接地で式典は開催された。
 短冊に記帳を済ませ、式場では兵庫県立西宮高校音楽科の合唱団による献唱があり、全員黙祷の後、実行委員長である井戸敬三兵庫県知事の式辞、政府代表村井仁防災担当大臣の挨拶、遺族代表の言葉があり、最後に新野幸次郎兵庫会議代表による「1・17宣言」が読み上げられた。各自献花をすませて式典は終了した。
 会場のあちこちで内閣府や政府各省による震災関連展示、各地のボランティア組織による炊き出しがあった。妻と共に甘酒、ぜんざい、豚汁を焚き火の前で立ったまま頂き、その味は震災当時のあの寒さ、暖かさを思い出させた。あの頃小学校の校庭で「おとうさんどうぞ」と手渡された熱かんの大関のコップ酒は忘れられない思い出となっている。小学校の校庭でぶらぶら歩きながらの酒の立ち飲みなど、もう二度とはできないだろう。
 淡路島のコーナーでは水仙の花束を貰った。妻はウォークで知り合った元小学校の先生に花束をわけていた。その方から、帰途、御影郡家地区の慰霊碑に水仙をお供えしたというファックスを頂いた。
 私達は次に神戸市役所南の東遊園地へ直行、慰霊と復興のモニュメントに水仙をお供えした。親しかったご近所のご夫婦の名簿にも合掌した。「1・17 KOBE」希望の灯りの竹筒にも給水させてもらった。富山県から送られた雪で約六〇〇という雪地蔵が作られていた。あの日以来もう七周年になる。1・17を迎える度に深い感慨にひたる。あの日に連れもどされたような一日でもあった。
 この震災にまつわることに対して、妻は忘れよう、忘れたかのように振る舞おうとしているようだ。私はこの事を記録し風化させたくない気持ちが強い。「夫婦相和し」という言葉が教育勅語にあったが、こと震災に関しては「夫婦相反し」である。
 人間の頭は忘れ去っていたような体験や見聞した事を何かのきっかけでふと思い出させるものだ。地震で自宅を失ってからはやたらと地震の情報が目につく。専門家の間では東海・東南海・南海を地震三兄弟とたとえ「同時多発」の恐れありと警告している。
 私は昭和19年12月7日(13:35)の東南海地震(M7・9)を尼崎で感じている。当時は中学生で学徒動員され尼崎の製錬所で働いていた。鉱石から銅を取り出す仕事だ。午後の作業が始まって間もなくモーターの騒音と振動の工場で大きな揺れを感じ、近くの工員に大声で知らせた。すぐにモーターは止められ全員外への指示で工場の広場に出た。途中天井から落下してくる鉱石粉をかぶった。海抜ゼロメートルの敷地はユラユラとよく揺れ、両足を踏ん張って立っていた。パイプの通っている木造の櫓もガタガタと横揺れしていた、近くから通勤していた人は塀越しに自宅の方向を覗きみていた。
 太平洋戦争中のことなので被害など知る由もなかった。地震の呼称すら知らなかった。ただ軍部から「この地震が京浜・阪神の軍需工場の集中している地帯でなかってよかった云々」と発表された。軍部は名古屋を中心とする中部地方の被害を覆い隠した。戦後の発表によると死者行方不明者1223名、住家全壊17599に達したとある。敗色濃い戦時下、詳しい被害報道もなく、援助のなかった被災者の辛苦はいかばかりであったか、今更ながら身につまされる。
 当時発行された中央気象台による「極秘」調査慨報を最近見る機会があった。その冒頭には藤原咲平技監(当時)の調査私見があり、それによると「静岡愛知三重の被害大、線路沈下汽車転覆、橋梁より墜落、軍国重大なる時機において軍需工場の破壊を伴い、生産力上の障害大。しかし鉄道橋梁の被害の復旧に軍・鉄道工員が協力、日夜兼行して盛んに工事中なり…振動周期やや長めにして建造物の被害顕著、津波も伴いたり。地震規模は大の大」とある。
 また当時すでに過去の地震記録を列挙し、今後においても大震の発生に対し警戒を要すと、警告していた。
 尾鷲に住んでいた私の知人は、その時海の水が沖に引いてゆき、黒い海底が広がってゆくのを見たと話していた。記録によると尾鷲で8〜10メートルの高さの津波が襲ったとある。神戸の震度は4、小被害と報告されていた。
南海地震は昭和21年12月21日午前4時19分(M8・0)で、私は神戸市生田区(現中央区)多聞通二丁目の自宅二階で家族共々熟睡していた。大学生だった。突然の揺れで目をさました、木造二階建ての家はキッキキッキときしんで揺れていた。布団をかぶっていた。外で人の叫び声がしたので父親があわてて寝間着姿のまま階下へ降りた。後日、神戸の震度は4と言われたが長い揺れであった。これも記録によると死者行方不明者1443名、住家全壊約九千、特に高知・和歌山・徳島の被害が大きく、津波被害(高さ4〜6メートル)の方が地震によるものより大きかったとある。兵庫県の被害は死者50名、家屋倒壊330と記録されていた。
 この地震も敗戦直後の事であり、交通通信ままならず、物資欠乏、食料とくに米の配給時代であったため、食料確保が大変であった。しかしアメリカ進駐軍の援助もあり、また当時の吉田茂総理が高知県出身というのも心強かったようだ。
 この地震が起こる前に「近く大地震がある」という予告とも流言ともつかぬ噂が広がっていた。私はあまり関心はなかった。今にして思えば東南海・南海の間隔はきっちり二年であった。
 私の40年来の取引先が静岡県浜松市にある。東海地震は既に約20年前に警告されている。その頃、よく浜松に出張していた。ある日、時間外で銀行の通用口から入れてもらった時、貼り紙の注意事項が目についた。「地震の警報は必ず支店長が受ける。支店長が行員に知らせる。銀行のシャッターはすぐにしめる。行内に残った客の用件は速やかにすませる事」。
 「東海地震に係る業務の取扱いについて」と題したパンフレットも貰った。地震警報発令時の対応について記されていた。
 来店中の客の普通預金(ATM)支払いは行う。
 営業店舗以外のATMは停止。
 手形交換業務は停止。
 休日、開店前、閉店後に警戒宣言が発令された時、それが解除されるまでは臨時休業。
 20年前の資料だが静岡県ではすでにこんな対策をたてていた。まだ阪神大震災を体験していなかったので、ただフーンと感心していた。正直いって人ごとのように感じていた。しかし気になったのでこのパンフレットは手元に保存していた。
 この20年の間に浜松の取引先は事務所も居宅も鉄筋二階建てに建て替え、家具もすべて固定されていた。家具の固定はともかくとして、建物そのものは東海地震にも耐えられるのではないかと素人目には思える。
 阪神大震災の一週間後、浜松の社長は電話で「綱さん、神戸で地震があるとはねー、東海地震といわれていたのにねー」と絶句していた。
 地震で家を失い、仮設住宅から鉄筋の集合住宅に移り住んだ。大都市に住む一市民として、防災について考えさせられる。次の地震に対する警告や、防災についての啓発セミナーも盛んだ。
 もし新しい場所へ移り住むのであれば、そして資力があれば、予想被害情報を生かし活断層、地盤を調べ、安全な土地を選び、そこに基礎を固めた、耐震耐火住宅を建設することは夢ではない。これを実現した学者さんもある。しかし普通の市民にはこれは不可能に近い話だ。安全な土地を探し、そこに耐震住宅を建てる事は高齢者にとっては特に至難の技だ。
 今の私には防災の場あたり的というか応急処置のような事しかできない。とりあえずは近い将来容赦なく訪れるであろう不意の来客、無情な南海地震サンの余波で、神戸の震度恐らく5程度に耐えられ、24時間は自活できる準備と心構えを自己責任ですることと独り合点している。神戸が再び震源になるような大地震は私の人生ではもうなさそうだから。
あとがき 代表 高森一徳
 8年目の手記の応募数は14編でした。第1巻の240編はもちろん、第7巻の36編に比べても激減しました。震災の記憶の風化と浄化の結果でしょう。

  この活動は、10年10巻を目指したいと考えております。10年目は節目でもあり、総集編なので文章量も容易に用意できます。今回の第8巻と来年の第9巻が胸突き八丁でしょう。かといって、投稿数が減らないのも不自然です。

 この2〜3年、ご投稿者はもちろん、ボランティアや賛助会員の方々で鬼籍に入られた方が目立ちます。健康に留意し、歴史の目撃者として記録を発信し続けたいものです。