まえがき 編集総括 小橋 繁好

 私たちの国に、本当の「危機管理」がないことがよく分かった。

 水産高校の実習船が米原潜に追突され、多くの生徒らが行方不明になっていながら、日本の最高責任者はゴルフを続けた。「事故でしょう」とうそぶく彼の頭には「国民の安全を守る」という意識は全くなかった。

 山陰に続き、瀬戸内でも大地震が起きた。阪神大震災の教訓は少なからず生かされてはいたが、大きな被害が出た。これらの災害復旧で目に付いたのは地方自治体の動きだった。住民側に立った視点での支援策も注目された。 「被害が小さかったからだ」と、地方自治体の施策を過小評価する人もいる。

 しかし、個々の住民にとってみれば、阪神大震災での被害も比較的小規模の地震で受けた被害も同じだ。 危機管理、被害者支援のあり方が改めて問われた一年でもあった。

 今後も起こるであろう大災害に、国や自治体、ボランティアグループなどがどう動くかの「指標」となるのが阪神大震災だ。そのためにも、阪神大震災の「その後」を追い続けなければならない。

  二〇〇一年五月

あ ゆ み
東灘歴史掘り起こし隊 服部 康子 45歳 東灘区
 
 二〇〇一年一月一日午前〇時、テレビから賑やかな世紀明けが報じられている中、私の住む神戸市東灘区は静かな幕開けを迎えました。
 一九九六年、五年前の震災後はじめてのお正月の、まだ瓦礫が残る町で迎えたあの静けさを私は思い出しました。それまでは、大晦日の夜がふけると近くの寺々で突かれる除夜の鐘の音が響き、海からは午前〇時に一斉に鳴らす船の汽笛が聞こえて「あヽ、お正月が来たのだ」と思ったものでした。
  一九九五年一月十七日のあの時、神戸の寺の多くは、重い屋根ゆえに崩れ落ち、六年たった新世紀の始まりでさえ、鐘の音は聞こえないのです。 勤めていたハウスメーカーの定年の年でした。一瞬にして多くの家が失われ、需要が急増した会社から残留を求められ、神戸支店で忙しくすごした日々のことは先年第六巻に書きました。
 その狂乱の時期が過ぎ、退職して自由時間が持てるようになった私は、東灘区役所まちづくり推進課の「東灘歴史掘り起こし隊」に入りました。東灘に残っている由緒ある石碑や道標、建物等を確認して震災前の地図を書き直し、新しく作成するプロジェクトです。
 昨年は古い資料と地図を頼りにその一つ一つを見るべく歩き回りました。そして寺、神社、酒蔵といった後世に残したい貴重な建物のほとんどがあの瞬間に失われてしまったことを改めて確認したのでした。
 酒造日本一を誇る灘五郷の中の魚崎郷、御影郷が東灘区にあります。道を歩けば『酒蔵の道』と書かれた道標がいくつかあるのですが、魚崎郷においては、酒男たちの唄声が響いたあの酒蔵は全滅しました。今は新しく建てられた資料館があるのみです。 御影郷も、テレビドラマ『甘辛しゃん』の撮影に使われた灘泉の蔵の一階が残っているのみです。二階は落ちたとのことで新しくされていました。歩道の両側は新しい家が建ち並ぶただの住宅地、『酒蔵の道』らしき風景はどこにも見られませんでした。
  新しくできた資料館には瓦礫の中から拾い集められた品々やかつての写真などが展示されていますので、ありし日の姿を忍ぶことはできます。しかし、洪水や戦争といった災難にも持ち堪えて、その時々の人々の喜びや悲しみがしみこんだ長い歴史が刻み込まれた伝統ある建物は、もう二度と目にすることが出来なくなったのです。日本酒は現在、洋酒に押されて低迷しています。どのような資料があっても、あの酒蔵が復元されることはないのではないのでしょうか。
  神社や寺は、ほとんど壊滅し、すでに近代的な鉄筋コンクリートの会館に建て替わっているものや現在建築中のものもあります。しかし、境内の片隅に砕けた石片を積み上げたままのところもあります。 歩けば歩くほど、貴重な建物を失った悲しみが胸にこたえました。 阪神高速魚崎ランプの下、国道43号線の交差点の東北の角に、立派な本瓦葺きの伽藍を見せていたお寺を覚えている方も多いと思います。この覚浄寺も、今では草の生い茂る荒れ地に『魚崎小学校発祥の地』と刻まれた石碑と、鐘突き堂があったらしきところに、僅かに石積みが見られるのみです。西北のすみには元禄十一年に建立された永思堂がありましたが、今は跡形もありません。檀家のほとんどが多大の被害を被った酒蔵だったこの寺は、再建資金の調達が出来ないのです。
  東灘区の山手にあたる岡本地区には、谷崎潤一郎が建てた鎖瀾閣がありました。谷崎は関東大震災の後関西に来て、京都、芦屋、神戸市東灘区(当時は兵庫県武庫郡)等に次々と移り住んでいましたが、自分で建てたのはこの一軒だけだったのです。 その貴重な建物もなくなりました。復元委員会が出来て震災直後から運動を続けられていますが、その努力も虚しく、未だに資金の調達は出来ず、何時建てられるのかめどはたっていないのです。土地は岡本の梅林の横に確保されています。なんとか復元が出来る事を深く願うばかりです。(阪神魚崎駅の北、住吉川のほとりにある椅松庵は道路工事のさいに移設が必要になりました。建て替えたのが幸いして倒壊せず残りましたが、谷崎が建てた離れはなく借家の部分のみです) あの建物が、あの寺が、あの神社が、この町にはあったのです。
 神戸も除夜の鐘の音のなかで、新年の光を迎えた街だったのです。それが新しい世紀に生きる人々の心から忘れ去られてしまうのではないだろうか……。 静かな新世紀の始まりに、神戸に住む私たちはまだまだ頑張って再建への道を歩まねばならないのだと、改めて感じたのでした。

一月十七日という日 山中 隆太 41歳 コンサルタント 東灘区

 被災地の神戸でも風化は着実に進んでいる。今では震災の痕跡を探すことさえもままならず、真新しい建物が整然と並んでいる様子が、逆に物悲しい風景として心に沈む。
 視覚からの情報が人間の情報量の大半を占める以上、建物がきれいになればなるほど震災が、そして神戸という街自体が記憶の彼方に葬り去られていくのは仕方のないことなのかもしれない。
 私自身、時とともに記憶が薄れてる。震災後しばらくは、この悲劇を経験していない人にもわかってもらいたいと強く願っていたが、時が経つに連れ、自然体で伝えればいいと思うようになってきた。
 まるで終戦記念日のように、一月十七日だけが震災を顧みる日なのだろうか。「忘れたいけど、忘れてはいけない」。これは震災を体験した人達の共通認識のように思う。そして、振り返る時間が日々に忙殺されているだけで、私たちは決してあの日を忘れてはいない。
  震災復興から生活再建という個々の問題へとテーマが深化した結果、震災そのものが見えにくくなっているのだろう。時が経つほど、あの出来事を伝えるエネルギーに負荷がかかり、目的意識も一層必要となる。それでも私たちはこの教訓を伝えなければならない。次に続く人へ、地震を知らない街へ。
 一月十四日、記憶を呼び戻そうと今年も「こうべあいウォーク」に参加した。昨年は母と娘の三人だったが、今回は妹一家も誘って総勢八人で歩いた。
  同じコースを歩くと一年前と比べて復興の様子が手に取るようにわかる。更地だったところには家が建ち、新しいお店もいくつかオープンしていた。その反面、今も残る支柱が折れ曲がったアーケードや、できたばかりの震災のモニュメントが訴えかけてくる真実は重く、体の芯まで巻きついた。
 神戸に住んでいる私でさえ、こうして歩いて五感で感じ取らなければ刻み続けることはできない。六年という歳月は短いようで長い。深刻化している震災の後遺症は、物的復興に覆い隠されがちだが、本質のありかを探す眼識を持たないと風化は加速度的に進行していくだろう。
  マスコミやボランティアまかせではなく、この土地に住む人達の前向きな発言や意識がより求められる時期にさしかかっているのだと思う。
 私は「六周年」という表現は、なぜか晴れがましい気がして好きではない。身内が亡くなったわけでもないのに七回忌という認識が強い。一月十七日はあくまでも六、四三二人を弔う日なのだ。
 私にとって今年の一月十七日は特別な日だった。三日前の筋肉痛が残っていたが、七回忌を体に刻むため、この日もメモリアルウォークに参加した。
 山手幹線はリュックを背負った人達の行列で埋まり、当時重要な輸送路だったことを改めて思い出させた。途中の防災訓練区域ではバケツリレーや人工呼吸の方法、消化器の使い方などが実施され多くの人が参加していた。震度六を体験する起震車を見た時は、あの感覚が蘇った。もう二度と経験したくはない揺れだった。
 そして最終地点のHAT神戸へ向かった。ドラム缶のたき火を取り囲む人の輪は、まるであの日の小学校のグランドのようだった。追悼の集いが行われ、政府代表の言葉になると急に帰り始める人が増えた。それは形式への、庶民の小さな抵抗のように思えた。政治や復興支援に期待などしていないと、多くの背中が語っているようだった。

  十七日はもう一つ特別な出来事があった。朝、NHKの震災特集で我が家が取り上げられ、娘に対する想いや記録の重要性について話した内容が放映された。ほんの少しではあるが語り継ぐことの意味を伝えられたように思う。
 驚いたのはその後の反響だった。誰が伝えたのか、二十年以上も親交のなかった学生時代の後輩から突然メールをもらった。当時彼は香里園に住んでおり、そこでも相当揺れたが、会社に行ってコップが割れたとのん気に騒いだこと、そして一月十七日は年に一度防災を考え直す日として大切にしたいことなどが記されていた。
  直接会えなくてもこうして震災について話し合えることが、私には一番嬉しかった。その後、何人もが連絡をくれた。この六年間を振り返り、今を精一杯生きることが何よりも大切であることを痛感した。同時に、自分が多くの人に支えられて生きていることも確認できた。
 確かに数の上では神戸の人口は元に戻ったのかもしれない。しかしいったいその内の何割が当初から暮らしていた人なのだろう。今もこの地に帰れない人達が大勢いる。建物は新しく生まれ変わっても、その下に広がる地面は未来永劫何も変わらない。あの時の血も涙も糞尿も、この土地にしみたまま今も残っている。それが真実だ。
 私たちはこの土を踏みしめ生きていく。希望を持って明日へと向かう、力強い足音が地の底まで届いているだろうか。

魅力ある神戸 時本 みどり 35歳 主婦 東灘区

 二〇〇一年一月十七日、被災地は震災から丸六年を迎えた。「七回忌」にあたる今年を意識したのか、市ではいろいろな催しが行われたようだ。
 「震災の時にお世話になった方々に、感謝の気持ちを伝えよう」
  「ボランティアで来てくださった方々を、もう一度神戸にお招きしよう」

 私自身被災し、避難所で長い間お世話になったので、その趣旨も分かるし、「感謝の気持ちを伝えたい」という想いはある。でも、それがなぜ『今年』だったのだろう。
 やはり「七回忌」という事で区切りとしたのだろうか。それとも二十一世紀を迎えたから? 『神戸二十一世紀・復興記念事業』という名からすれば、後者が正しいのかもしれない。
 確かに、市街地はすっかり復興して元通りに戻っているかもしれない。でも、住宅が密集していて全壊、解体、撤去された場所には、まだまだ空き地になったままの場所が数多く残っている。
 ★ 被災した人々の生活は、すべて元のように戻りましたか?
 ★ 被災した人々の心の復興はできていますか?
 今回のような催し物を、今年あわててする必要があったのだろうか。被災した人々全てが「やっと復興したね」と言える日が来るまで、待ってからでは遅かったのだろうか。何かを『区切り』とするのならせめて『十年』は待つべきだったのではと、私は思う。
  被災後「まだ、日々の生活をしていくのもやっとだ」というお年寄りもいる。そのうらで、今回の催しをするために、いくらお金がつぎ込まれているのだろう。
 今年、神戸では『KOBE2001』というイベントが、一月十七日から九月三十日まで行われる。いったい、いくらのお金が使われるのだろう。そのお金を、本当に困っている人達のために使ってあげたら、ずいぶん多くの方々が助かるのではと、考えてしまう。

  私はこういう催しが全て悪いと言っているわけではない。震災時、ボランティアに来てくださった大勢の方々や、心配をしてくださった大勢の方々に、『元気になった神戸』を見ていただく事は、とても良いことだと思う。それに『観光都市・神戸』としては、大勢の方々に観光に来ていただくことも、復興の大きな力となるだろう。
 でも、多額のお金を使ってイベントを行うことが、本当に復興の証しとなるのだろうか。神戸の本当の意味での復興を願うなら、本当に困っているお年寄りや身体の弱い被災者のケアを、もっとするべきではないかと思う。市民が心から復興したと思える時こそ、魅力ある神戸になるのではないだろうか。見せかけだけ復興した神戸にならないよう願う。

心のバリアフリー 守田 基師子 57歳 話し方教室主宰 須磨区

 西暦二〇〇一年! 新しい世紀を迎え、人類の新たな生き方が問われる時代に突入した。あの震災がなければ、多くの人達の人生も自らが描いた青写真に、ほぼ近い形で今があるのかもしれない。しかし……。
  震災から早、六年、様々な経験を経て、今日の我が姿を想うとやはり、ため息が出てしまう。それが正直な気持だ。震災直後の肩に力の入った、「頑張らなくては」という気持ちは、四年目位から徐々に取れて来たような気がする。
 それは、様々な苦しみと多くの出来事によって、生きるのにいちばん楽な道を選べと、教えられたからだ。
  震災から二年程は、生死の境をさまよう娘との闘病生活に明け暮れた。翌年は父の他界。その翌年は母の他界。
  さらに、その翌年は私自身の市議会議員選挙への立候補。被災者の一人として、市民そっちのけで、神戸市営空港建設にまい進する、ぎりぎりの抵抗でもあった。
 なぜか大きな変革を望まない市民。これでは、勇気をもって、普通の市民が大きな挑戦をしたとしても、生かすどころか、その人の多くを奪い去るだけで終わってしまう。なぜか今は、空しさだけが去来する。
  しかし、闘いの後始末が済んだ翌年から、私にも笑みが漏れ始める。
 あれ程苦しんだ娘が、十一年暮れに目出度く結婚。正直この日が訪れるとは、考えてもみなかった。止めどなく、涙が溢れて来た。目まぐるしい年の刻みでもある。今でも病と闘っているが、人生の最高の伴侶を得た娘は夫の転勤に伴い、昨年暮れ遠く埼玉へと引越し、新しい生活のスタートを切っている。
 家族四人、夫々の立場で懸命に努力をして来た。震災当時、東京の大学に在学中の息子も社会人となり、頑張っている。緩やかではあるが、落ち着きを取り戻している。
 今年から更に、生活も変化を余儀なくされた。それは、夫の定年である。すでに退職金は現在の中古住宅購入の際、全てを使い果たした。老後の生活設計など我が家には存在しない。只々、一日刻みの生活をしているのが、現状である。
 生活の安定を欠く今ではあるが、心は不思議と穏やかで、「どうにかなるだろう」と、その日その日を精一杯楽しむ事を心掛けている。不安を思えば切りがない。不安な心を持ち続けるよりも、楽しさの中に一抹の不安がよぎる、という位が心穏やかに暮らせる。この数年間の悲喜こもごもの生活で学んだ知恵でもある。
 二年程前には、焦る心が強く、焦れば焦る程、苦しさ、空しさが増すばかりであった。それまでの人生で感じた事のない寂寥感にも苛まれていた。不思議なもので、大きな望みや期待感を捨て去った今、心の中は穏やかである。しかし、いまだに眠れない夜もある。
  今年もまた、震災記念日が訪れた。一生忘れないだろう。今、改めて想う。震災を境にして神戸が変化したものは何だろう。街のつくり方、被災者の救済、行政の在り方、街に住む人々の考え方。変わってない様な気がする。
 まず自分自身の生き方を問うてみた。ボランティアに参加し、チャリティコンサートを開催した。震災後住民運動にも、初めて参加した。長野県知事になった田中康夫氏と、一緒に動いた時期もある。
 彼は知事となり、県民の考え方を取り入れ、政治の在り方に大きな変革を遂げようとしている。政治そのものが、改める勇気を持てば、この国にも、まだ未来はある。
  国民自らが、夫々自分が何をなすべきかをじっくり見つめて、責任ある行動をまず取る必要がある。選挙の度に棄権を繰り返し、ただ政治家を責める言葉しか出てこない。その政治家を選び、選ぶことすら放棄している。
 その結果、私なりの考えに至った。「自分も大きく変わりたい!」、「周りにも何かを感じて欲しい!」。祈りにも近いギリギリの選択でもあり、自ら火中の栗を拾う行動でもあった。今想えば何と無茶な行動に……。
 被災者をそっちのけにした、神戸市営空港の建設に勤しむ、神戸市議会議員への挑戦である。ど素人の、己への挑戦でもあった。しかし、何の変化も望まず動く事もせず、ただ自身の安定を計り、従来の生き方に留まる多くの市民の前に、我が特攻精神は夢と消えた。
 選挙の事後処理が済んで一年が経つ。凄まじい人間関係の中で、今までにない生きる事の辛さ、複雑な苦しみを数多く体験した。これまでの人生に対する考え方、生き方も正直変化した。それを言葉で言い表すのは難しい。考え方を変えないと、生きるのが辛過ぎるだけであった。
 恐らく震災前の気持に戻るのは難しい。多くの人々の思いやりに支えられたとしても、その傷は決して癒えない。むしろ、人を信じる心が消え失せてしまった。
 六年目にして神戸市は、二十一世紀の復興事業として、派手なイベントを計画している。その為の費用は、何と、六十憶円!。住宅再建、生活の立て直しなどに苦しむ被災者からは、大きな批判の声が出ている。
  研究者からは、全国へのお礼ならば、生活再建や住宅再建の支援制度の実施に、神戸市民が先頭に立って力を尽くして欲しいとの声も出ている。イベントを寄せ集めた形の事業に、市民不在を垣間見る。
 今必要なのは、求められている事をより確実に把握し、震災の教訓を生かして全国、全世界へどう発信してゆくかではなかろうか?
 日本に欠けているもの、それはすべての人に対する平等感、すなわち《心のバリアフリー》の考え方である。人が人として、お互いが助け合う、その当然とでもいうべき政治の在り方が存在しない限り、六千四百三十ニ人の尊い命が無駄になってしまう。
 神戸が先頭に立ち、絶える事なく繰り返えされる天変地異による被害に対しての、支援制度の確立を願って止まない。被災者の一人として自分に出来る事への問いかけ、行動する事をいつまでもあきらめず続けてゆきたい。
  同時に、人々への感謝の心も決して忘れずに。

もう一つの菅原市場 大堀 美重子 54歳 自営業 長田区

 菅原市場の五軒が「スーパー味彩館」を開店して一カ月少々で年末を迎えた。個人店舗として独立する菅原市場の仲間七軒もスーパーの裏で、仮設のまま営業している。今、それぞれに店を建設中で、大堀商店もその中の一軒だ。今年も千枚漬、かぶらで作る菊花漬、昆布・人参・大根で巻く福巻、からしを入れて一口に巻き、昆布で結ぶ玉椿、そして正月用の自家特別製品、芸術的でおいしい酢の物を用意した。
 どれぐらい売れるだろうか。今年は見当もつかない。すぐ前にスーパーが出来て、客足が極端に減少し、開店休業の状態だから。世間の人達は市場全体がスーパーに入ったと思っているようだ。
 十二月三十日。食料品販売店にとって、一年で一番稼ぎ時であるにもかかわらず、大事態が起こった。
 夕方、配達途中にスーパーの前を通りかかると、前の道路で漬物屋がにぎやかに出店しているではないか。男性三人が、白菜漬を山のように出し、種類も色々そろえ、千枚漬までもある。私の頭と胸が「グッ」と締めつけられ硬直した。
  「何で、何で!」
 血圧が急に上がって行くのを感じた。さっそく家に帰って話すと、母もあわてて見に走った。
  菅原市場の仲間として、代々六十年、七十年とやって来た者同士ではないか。まだスーパーを開店して一カ月余りで、店の中にも漬物の納入業者が何軒か入っているではないか。それなのに、それなのに、漬物屋を呼んで来るなんて。店内で売ってない品物を販売するのは客寄せになって有利かもしれないが……。
  「スーパーに入った人達は、義理も人情もない人間に豹変してしまったのだ」。そんな思いで一杯のところに、珍しく理事長の女房が通りかかった。母が涙を押さえながら、
  「三十日に漬物屋を呼ぶなんて」と爆発し、私も思わず続けた。
  「こんな事言いたくないよ。でもスーパーの中でも漬物、売ってるんやろう。余りにもひどいわ。何か恨みでもあるん?
 それに、スーパーの土地代も払ってもらってもないのに。たとえ一坪でも私の家のものなんやからね」。
 すると女房が言った、「私は漬物屋が来て、何を売るのか分からない。知らなかった」。
 漬物屋が塩鮭や肉を売るのかと言ってやりたかった。理事長も女房も知らないとはいったいどんな組織なのだ。
  「土地代はお金が出来たら返します」
 「??? いつ頃」。さらにつけ加えて、
 「五年間かけて出した答。これからは自分自分でやって行かなければならない」 と。
 いつまでも仲間だという気持ちが今だ強く、甘く、手ぬるい考えの私の全身をヒヤヤカにグサリと刺したのである。
  あれ以来、理事長も女房も挨拶もしなくなった。そして、尻を向けて店頭前を歩く。震災直後のあの頃の思いやりは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 私の店も、四月二日の開店に向けて急ピッチで工事が進んでいる。そして次々に個人店舗として独立し、開店する市場の仲間六軒が近くに集まる。
 もう一つの菅原市場だ。

早すぎた罹災証明 山中 敏夫 73歳 会下山ラジオ体操会会長 兵庫区

 未曽有の大震災に対して、直ちに近隣市町は勿論、全国全世界から人的、物的救援と共に義援金が寄せられた。
 金融機関の臨機応変、適切な判断と措置によって、通帳印鑑を失くした人々にも、記憶や証明し得るものの提示により預金等の引き出しが行われた。これは、異常な混乱や不安と困窮を最小限に抑えるのに有効な措置であった。
  しかし、預金の乏しい人々や、生活に必要なすべての家財、物資と共に手持現金を失った人々の中には、早急に義援金の配分支給を求める声が高まりつつあった。
 一月十九日の村山総理、土井衆院議長の現地視察と見舞い、それに続く政府首脳の視察と見舞い、一月三十一日の両陛下のお見舞い日程が決まる中で、被災自治体や関係二十六団体で構成された「兵庫県南部地震災害義援金募集委員会」では、とりあえず現時点で受け付けた義援金を早急に配分すべきとの合意に達した。
 そこで昭和六十一年伊豆大島噴火災害の折に設けられた「生活福祉資金特別措置」を前例的参考にして、第一次の義援金配分を全壊・全焼・半壊・半焼・死亡・行方不明に対して十万円を限度として一律給付することになった。
 二月六日より、県下で、第一次分四百九十億円が、配分され、第二次分百九十億円が五月に配分された。残余の一、〇〇七億円は、被災児童生徒教育助成金、住宅助成等に当てられた。
  この急遽行われることになった配分のために、まず、その基準とすべき被災程度の戸別判定を行わなければならなかった。被災後十日足らずの段階で、行政当局は自らも被災職員を多く抱えながら、最優先すべき救急、救出、食料、衣料、日用品等々の確保と配分、給付に大半の手を奪われていた。
 勿論、全国自治体からの職員派遣とボランティアの応援が数多くあったものの、基本的且つ財政的行政事務と措置は、当該市の職員が当らねばならなかった。
 税務、消防等建築物の構造や設備に精通した職員、土木建築企業や工務店等の建築士や専門家、他府県市町から派遣の専門家、職員が中心となって調査に入った。
  当初、ヘリコプターからの写真による判定も考えられたが、平面的判断では実態がわからないので、外見による判定を行うこととなった。
 一月二十九日〜二月三日の僅か六日間で被災市町村でいっせいに行われ、神戸市以外では多少のバラツキが見られたものの、ほぼ完了し終えた。
 当時、全焼全壊は勿論、半焼半壊でも住人のほとんどは、まだ避難所や、親戚、知友人宅に身を寄せていた。いかに公的調査であるとはいえ、心情的にも又施錠等による物理的条件によって、無人の住居に立入ることはできなかった。また余震の続く中、危険な地域や建物も数多くあったが、早急に被害判定を行う必要があった。必然的に万全を期し得ないことを前提としながらも、外から見るだけの「外視判定」を余儀なくされた。その結果、判定と実被害との大差や調査洩れ等に対する苦情、不満は大きく、不服に対しては限られた期日内ながら対応を行った。
 調査員に対しては、各市それぞれ共通の判定基準を示し、出来るだけ公平、適正な判定が行えるよう指示されたものの、広範な各市町にわたる調査活動に万全を期し難かった。市町によるバラツキや、外視のみで内部被害が不明のため、外見と実害の乖離、個人差によるバラツキ等を克服することが出来ず、多くの苦情と不満を招いた。
  私自身の場合でも、屋根瓦が半分以上脱落していたため「全壊」判定であった。しかし、六戸連棟の二階建て長屋で僅かに傾斜したものの、屋根瓦と壁の一部と家財の破損は除いて、建物の自己判定では「一部損壊」程度と考えた。全壊判定に納得出来ず、同棟の隣人の思いはともかくとして修正申告を行い「半壊」にしてもらった。
 この無理からぬ判定による「罹災証明書」がその後の義援金の給付、生活支援金、住宅再建融資、中小企業融資、復興住宅入居条件等々の被災者助成、支援制度を利用する上に尾を引いてくることになる。
 時間を経た今日、当時の不公平、不合理を唱える人は減っているとはいえ、生活再建の正念場を迎えて、判定の差が今なお少なからぬ影響を残している。
 奥尻、雲仙に比べて総額は格段に多かったにしても、配分対象があまりにも多い阪神、淡路の場合、戸当り給付額は少なかった。義援金の給付をあれ程無理して急ぐことはなかったのではないかと、今になれば思わざるを得ない。
 当時、十万円であれ、当座の多額の出費に役立ち、人心の安定にプラスしたことは確かであった。しかし、呆然自失の心をいやすために、酒代やパチンコ代に少なからぬ金額が消費されたことも一端の事実であった。
 後になって言える批判の「タグイ」であるが、「罹災証明書」は今少し時間をかけて、客観的に納得出来る「公平、適正」な判定に基づくものでなければならないと思うものである。さらに判定の基になる被害調査の具体的な方法や、判定基準を詳細かつ客観的に統一したものを全国的レベルで確立しておくことが必要である。これによって被災者、行政当局、調査員共に精神的プレッシャーが緩和されるものと思う。
 予告なしで発生する、地震をはじめとする自然災害。その構えは、論議と検証の中から確立されつつあるが、問題が広範にわたり、複雑な内容を持つ「罹災証明書」の判定は短時に単純且つ公平に行われなければならない緊急要請と、その後の被災者の支援、自立、再建に伴うさまざまな制度利用や助成に、大きく長い期間の影響を及ぼすものであり、全国どこで災害に遭っても納得のできるものにしなければならないと思う。

(編集者注:山中敏夫さんは、地震時、神戸市会議員でした
も が き
心の病 男性・匿名 35歳 無職 伊丹市 

 寂しい事にもう、震災の話もしなくなってしまった。しかし私は、あの瞬間を忘れる事はできない。今でも震災の特集がないか、イベントがないか探している。二十世紀の最大の災害が、阪神大震災だったりすると、みんなまだ忘れてないんだなと思って嬉しくなる。
 私は七歳で母、二十歳で父を亡くし天涯孤独となった。そして失業・失恋を経験して、震災で我が家のマンションを失った。
 自分にとって家は両親が残してくれた財産であり、妻となる人が売りたいと言えば売ってしまおうという夢が二十九歳の時まであった。それは、私の人格の一部を形成していた。「家持(いえもち)」は、私の安定度を証明する取り柄であったように思う。
 その他お茶の間を築く夢や希望がいろいろあったのに、まさかの震災によって「そがれた」。体の一部分がそぎ落とされたかのように、空洞になっている人格がある。夢の中でも前の家に住んでいた時ばかり浮かんでくる。
 さらに九八年の夏、また不幸が襲った。それは私が働いていた自動車シート製造会社で起こった。震災前、私は事務職だった。しかしその課に将来を期待できなかった。ちょうど組立作業を手助けしていた時期に震災に遭い、そこの上司に誘われて組立課に移動した。
 半年、震災の傷を癒す為にも懸命に働いたが、なぜかまた別の課に移動した。その課で三年働いたが、また組立課に戻らされて二週間後に不幸が襲った。
 組立課に戻ってみると、前の職場とは雰囲気が違っていた。例えれば、リストラの嵐の真っ只中の最前線で勝ち残ってきた先鋭部隊の戦場に、ベルトコンベアーだけが無常に部品を流してくる。前から、一週間で人が入れ替わる激しい過酷な戦場だったが、一層拍車がかかり、さらには悪知恵がはびこって、リストラのために個人を追い込み考えさせる装置のような職場になっていた。
 案の定、一緒に配置移動された数人の内の一人が一週間で別の課に移動となった。私は、ベルトコンベアーの流れにかろうじてついていけたものの、職場の悪知恵に頭を悩ませていた。容赦なく、私の横に熟練した者達が現れては並び、私のペースを乱し、部品の組立の時間を狂わせ追い込んできた。いくら部品を完成させても次から次へと部隊がやってくる。突然罵声を浴びせられ、お互いをけなし合い、バタバタして、極限まで追い詰められた。 十日たった木曜日、熟練者が横にピッタリついて、私を困らせるくらいの超ハイペースで部品を組み立てさせた。私の緊張は頂点に達した。翌日、別の熟練者がきて、私は自分のペースをようやく完成させた。すると、私が困らせた熟練者があやまってきた。
 その翌日、私は見てしまった。係長が取締役に何かを聞かれ戸惑っている姿を。上司たちも、これから先どうすればよいのか何も分かってないなと感じていたので、ついに係長にしっかりしろと文句を言いに行った。
 移動して二週間目の出来事で、卑屈な立場からついに反旗をひるがえした。しばらく文句ばっかり言ってたいが、あまり分かってもらえず、直接の上司である職長と熟練者四人で話し合いとなった。ちょうど、小渕政権が誕生した日で、その話題や職場での訓練の話や「今の職場は悪知恵ばかりだ」とか言っていたら、「俺に知恵をかしてくれ」、と職長が言ってきたので、「人を入れ替えて見捨てるだけでなく、自分でもっと考えろ」と答えた。しかし、その場は分かったような職長の笑い声で、私の反乱は失敗に終わった。
  私は困った。言いたい事は言ったのに、それから先が見えてこない。一日空いた月曜日、手作業の指の訓練の本や震災から読んでいた本を数冊持って行って詳しく説明しようと提出した。ところが、別の部署に行けと言われて仕事をしていたら呼び出されて、そこには工場長他、幹部が数人いて、意見を聞くセッティングになっていた。
  しかし私は数日前からハイテンションになっていたので、怒りをぶちまけ、「手の中に答がすべてある。私は今、仏になっている」など、言い出して「甘えの構造」などの本を武器に、現状を非難し続けた。
  心の奥の今まで溜まっていた何かを、すべて吐き出したい気持ちになっていた。幹部達が全員立ち去り一人にさせられ一時間くらいしたら、総務部の課長がやって来て、部下と三人の話し合いになった。
  その時私は身の上話を始めた。「震災で家を失って、会社の寮に住み込みになって、それから大変だった……」一人で延々と二人相手に一時間くらい、震災からの今までの苦労、人に言えなかった悩みなどをしゃべり続けて悲しみを訴え続けた。
  課長が出した答は、道をはさんで正面にある精神科で診てもらう事であった。そして医院長に「あなたの帰る所はどこですか」と聞かれ「空です」と言い、即入院となった。
 原因は分からない。孤独すぎたのか気質なのか分からない。一カ月入院して退院したら会社をクビになった。九九年に会社を受けまくって四十連敗し、不規則な生活していたら、また体調がおかしくなって二〇〇〇年春に二十日間入院した。
  震災から貯めていた貯金四百万円も使ってしまった。しかし、介護福祉士になるため二〇〇一年から学校へ行く。
 私のこれまでの人生で不幸な順は、両親の死、失恋、地震、就職活動の四十連敗、病気、失業だが、これからの人生には、まだまだ色々なことが起こりそうだ。
  自分の心の奥に潜む甘えや闇と下手につき合ってしまった。その為か、体重が二〇キロ増えたので、もっと上手につき合って行きたい。

生きる 綱 哲男 73歳 貿易商 中央区

 年明けの新聞報道によると、気象庁は二十世紀の国内最悪の地震災害を死者数順に発表し、阪神大震災を第二位にランクしている。一位は関東大震災、三位は福井地震とあった。私たちはワースト2の災害を受けたことになる。
  神戸では阪神風水害(一九三八年)、神戸大空襲(一九四五年)という戦災、そして今回の阪神大震災。幸か不幸か私はこのすべてを体験した。
 阪神風水害で、我が家は胸まで泥(山つち)に埋まり、畳も家具も泥まみれになった。家族総出で土をかいだした。親類の人も手伝ってくれた。「烏原の水源池の堤防が切れた、避難せよ」と他愛のないデマが飛んだりした。
  掃除機のない時代だったので、その後数年間は家の隅々に黄色い山つちが残っていた。山津波といわれた。神戸は昔から水害との闘いの街であった。昭和天皇からお見舞いとして金五十銭也を新札で頂き、祖父はそれを大切に何時までも神棚に供え拝んでいた。私は小学生、日中戦争の最中であった。
 神戸大空襲は終戦の年で、東京(三・一〇)・名古屋(三・一二)・大阪(三・一四)ときっちり二日おきに空襲され焼き尽くされた。当然神戸は三月十六日と予測し家族は徹夜で警戒していたがその夜の来襲はなかった。翌十七日は眠ってしまい、そこを夜襲され焼き払われた。
 六月五日の大空襲では、翌朝マネキン人形のようになった黒こげ死体をそのままトラックに積み上げていた。二つ三つ重なった死体(母と子)は、むしろをかぶされていた。生き残った人々は、着のみ着のまま、真っ黒な顔で眼だけギョロリとさせて、焼け落ちた元町・三宮を飯盒や茶瓶をぶらさげてあてもなく歩いていた。私は中学生で動員学徒だった。終戦までに阪神間はほとんど焼き尽くされた。戦災者には僅かに衣類が配給された。
 天災は忘れた頃にやってくる。いや天災は手を変え品を変えてやってくる。去る一月十七日に神戸で阪神淡路大震災「六周年メモリアル」が開かれ、昨年の災害地(北海道有珠山と三宅島の噴火・東海豪雨水害・鳥取県西部地震)の町会や村会議員、被災者が阪神の被害者と共に被災地サミットとして一堂に会した。それぞれの実情を交換しあい、阪神被災者の主導で国による公的支援拡充と防災対策が求められた。これは各被災地での大きな流れとなろうとしている。
  私は被災者のパワー・エネルギーを感じた。市民は多士済済、六年を経てもそれは衰えるどころか、ますます燎原の火の如く燃え広がりつつある。人間らしく生きる権利を確立し、来るべき災害に備えようと提唱した。
  全くその通りで市民は自らを顧みて、災いを転じて未来の備えとなす、その突破口を開こうとしている。これだけの災害を受けながら、その教訓を生かさなければ、貴い命を失い、営々として築いてきた財産を失ったのは何だったのか。神戸の歴史も文化も人が住んでこそ生きてくる。人なくして街も市も国もない。被災者も国民である。「人命は地球より重い」といった首相がいたはずだ。
  休憩をはさんで地震と防災を考えるシンポジウムがあった。神戸大学地震学の石橋克彦教授、同じく都市防災の室崎益輝教授から、それぞれの専門分野の話を聞いた。私は特に石橋教授の著書を読んでいたので、大いに関心があり、一度じかに話が聞きたいと望んでいた。
 「地震活動期に入った日本列島は、小田原・東海・南海と何処が引き金になるか予測できない」。一連の地震警告は防災体制の急務と、逃げることのできない地震に対する心の準備の必要性を痛感させられた講義であった。「自然は裏をかくことが多い」という。教授の著書は国会でも取り上げられたそうだ。
  しかし私自身は疲れを感じる。この六年間で若さを失ってしまい、人生の終末期の設計を考えるようになった。地震に関係なく歳を取り、高齢者の仲間に入ったことは間違いない。失った時間も大きく、身辺の些細なことにも関わってしまう。木造住宅から仮設住宅へ、そして鉄筋の集合住宅へ。健康な者であっても心身が衰える。
 集合住宅の玄関は鉄のドア、それにドアクローザーというかなり強いバネがついているので開閉が重たい。何回か緩めてもらったがあまり効果がない。遂にクローザーアームを外してもらい、やっと軽くなった。
 周りの住人は重いままのドアを辛抱して開け閉めしている。「軽くなりますよ」と声をかけたが、無関心であった。相変わらずドーンと音を響かせて閉めている。
 上の階に二年程前に仮設から引っ越してきた六十歳代の男性が独り住んでいる。一度会ったきりなので、時たま訪れてチャイムを鳴らすが応答がない。両隣に聞いても会ったことがないという。関わりたくないのが本音だろう。管理事務所に聞いても分からない。部屋の鍵も持っていない。かれこれ一年余り応答がなく、自治会の役員さんも何も掴んでいない。
 県の住宅課に聞いてみると名前は把握していた。詳しくは区の担当へ、ということで、その方へたずねた。結果は入退院を繰り返しており、近く退院するとのこと。それ以上はプライバシー云々という。それから五カ月経つが相変わらずチャイムを鳴らしても応答はない。孤独死を心配する。
  友人の住む復興住宅では、チャイムが煩わしいと電源を切った独居男性がいるという。それでいて「寂しい」を連発しているそうだ。周りの心配りの網に入ってこない人々。永年住み慣れた地域を離れ、連帯の輪からも外れた人見知りをするようなお年寄りは多い。
 孤立、孤独を選び、音のない世界に閉じこもっている。生活も健康も破綻した人々を、どう扱っていけばよいのだろうか。
 東灘区本山中町に四十年住み、娘たちが小学生の頃から、いざ災害の時は家族がばらばらになっていても自宅前の本山第三小学校を集合場所と決めていた。昭和五十年頃から玄関前のスチール製物置には、非常用の缶詰め・食料・水・タオル等々をリュックに詰め(定期的に交換していた)、スコップ・バール・大工道具一式も入れていた。
 しかし、地震当日、小学校の校舎も運動場もすでに避難者で溢れていて入る余地はなく、自宅裏で野宿した。物置は隣の家に押し潰されて、避難用品は何も取り出せず役に立たなかった。
  屋内の家具や本箱には、厚さ七〜一〇ミリ・巾二〇〜三〇ミリの板を敷いて、壁にもたれるように傾けて置き、上部は針金で柱にくくり付けていた。中身は飛び跳ねたが、倒れた家具はなかった。ただし、これは家が傾いたにしろ、倒壊しなかったからの話である。
 現在は鉄筋住宅なので貴重品・ラジオ等避難用品はリュックに、バールは書斎・寝室・トイレの三カ所に(建物がひずむと鉄扉は開かないと聞いている。それに護身用にもなるらしい)、懐中電灯(強力ライト単一型四個)も枕元・台所・トイレに置いている。
 家具・本棚には、やはり板を敷き、内側に倒れにくいように傾斜をつけている。壁はコンクリートなので固定はできていない。
  武士のたしなみというか、命あっての物だねというか、自分だけ先に逃げ出さず、力を合わせて共に脱出することを決めている。建物の下敷きになったとき、助けを求める手段として笛を二つ身近にもっている。これはかつて阪神タイガースが優勝した時に買った黄色い笛だ。
 それから妻といざというときのために消防局の心肺蘇生法コースに参加し、認定証をもらった。極めて簡単な我流防災計画と思っている。
 私の先輩が昨年金婚式を迎えられた。もう一人の知友も、今年金婚式を迎えられる。人生の目標ができたような明るいニュースだ。これに触発されて私たちも計算してみると、奇しくも震災一〇周年目が金婚式になる。それまでは身辺整理をしながら、夫婦ともに健康で平穏無事な人生を生ききって行きたいと念願している。

普通の朝が来なかった 女性・匿名 25歳 学生 灘区

 震災から五年(本稿は平成十二年一月に書かれた)。やっと、震災とは無関係だった人たちに、震災について語れるような気がする。

  地震の前年の四月、親元を離れ、大学に進学するため神戸にやってきた。昼は貿易会社で働き、夜は学校という生活にもそろそろ慣れ、友人もできはじめ、新天地、神戸で成人式を迎えたところだった。二十歳の私には夢も希望も大切な人もいた。なんの前兆もなしにやってきた地震が、そのすべてを破壊した。
  朝、起きた時、すべてを失って全然違う場所にいる。想像がつくだろうか? 誰もが、「さぁ、明日は七時に起きよう」だとか、「明後日に試験があるから明日は勉強しよう」と寝るだろう。あの日は、そんな普通の朝が来なかった。
 この震災で私は、人生に対する考え方が変わった。望んでも、努力しても、定められた人生や運命は変わらないのではないかと思うようになった。神戸にいたことも、生き残ったことも、ただ神のみぞが知る私の運命だったのだと。
 あの日以来、私は夢や希望を持つことをやめた。運命は変えられない。運命に流されて生きよう。望んでも努力しても、私の人生の脚本に書かれていなければ報われない。そう、思うようになった。明日のことはわからない。
 震災後、三年間、神戸を離れた。その間、震災とは無関係だった周りの人は、震災のことを聞きたがった。それに答えるのは、こころが裂けるような思いだった。水や電気を不自由なく使う生活をしながら、神戸で「生きよう」と頑張っている友人たちを思うと、こころが痛んだ。すぐにも神戸に帰りたかった。しかし、私が選んだのは、神戸を見捨てて、新天地で頑張ることだった。
  私は電気を点けていないと寝られなくなった。震災前は真っ暗でないと寝られなかったのに。もちろん、一階に住むのもいやだ。一晩でも寝るのはいやだ。震災について語るのも、語られるのもいやだった。とにかく忘れようと毎日忙しくしていた。でも、人々は聞いてくる。「どんな大揺れだったのですか?」「あなたは、どうしたのですか?」こんな質問にはうんざりした。
  母は、もちろん震災にあってない。そんな私を励ますかのように、「私も伊勢湾台風にあって、すべてを失って九死に一生を得たのよ」と言った。私は思った。台風が来ることはわかっているので、心構えの時間が少なからずある。来るとわかっているものですべてを失うのと、朝、目を覚ましてからその事を知るのとはわけが違うと。地震には、前兆がない。心構えもできない。
 震災後、実家の電話は、鳴りっぱなしだった。地元の友人から安否を聞かれたり、激励の電話だったりしたが、私にはうざったかった。皆、同じ質問をしてくる。それに、笑顔でおもしろおかしく同じ話をしている自分も嫌だった。
 もし、私が死んでいたらどうだったのだろうか。もちろん本当に心配して電話をくれたことは分かっているが、私の死を確認したくて電話してきたかのように思えた。皆が、神戸の被災者を友人に持っていることを自慢したい偽善者に見えた。
 そんな思いもあってか、私は当時の神戸の友人に、電話も連絡もしていない。「もし、死んでいたら」と思うと恐くて電話ができないし、あの混乱の中では、どこにいるのかもわからなかった。私のなかの神戸はあのまま、あの楽しい生活のまま壊れた。生きていればまた、どこかで会えると思いたかった。当時の友人は思い出と共にこころの中にいる。
 今、私は再び神戸にいる。まだ震災の経験のない人に震災の時のことを聞かれる。でも、できるだけ簡単に答えようとしている。被災者でなくては、あの苦労は分からないし、彼らは社交辞令で聞いているだけだろうから。それに、私の苦労話なんて他の人に比べたらたいしたことない。
  もともと、刹那主義的に生きていた私は、震災でますます刹那的になった。私の定められた運命に身を任せて、今、生きている。

く ら し
絆、より強く 長谷川 美也子 53歳 高校教諭 須磨区

 震災は私達に悪夢のような出来事をもたらしたが、いい置き土産もくれた。かすり傷ひとつ負わなかった気楽な立場で物を言う資格はないが、あえて書き留めておきたい。
 それは、伯母一家との絆が以前にも増して強くなったことだ。私の家族は震災後半年間、伯母の家で住まわせてもらった。最初の頃はうまくいっていたが、日が経つにつれて伯母と母との間で、TVドラマの解釈などのつまらない事でも意見が対立するようになった。実の姉妹の気安さで、どちらも自分の意見を通そうとする。気まずい空気が流れることが増えていった。その様な時、私は二階に駆け上がって、一日も早い自宅の完成を父の位牌に祈った。
 四月下旬、勤務先の職員寮に空室ができた。入居申請期限が迫っており、母には内緒で考えた。もし、職員寮に入るとすれば、伯母は何と言うだろう。内心はホッとするだろう。いや、伯母のことだから、ホッとはしても、私達が出ていくと言えば悲しむだろう。いろいろなケースを考えた。何にしても伯母に内緒で申し込む事だけはしないでおこうと決めた。母の不在の時に正直に打ち明けた。「何と言っても姉妹の事だから大丈夫。心配を掛けてすまなかったね。出ていくなんて言わずここにいて」と言ってくれた。母は今でもこの内緒話を知らない。
  伯母の言葉に甘えた私だが、伯母の方はストレスが蓄積されていたのだろう。ある日の夜中、不調を訴えて緊急入院した。この時も従兄姉(伯母の息子、娘たち)は、私に恨み言を漏らすわけでもなく、逆に、夜中の最初の処置を感謝してくれさえした。私達のせいでと詫びると、「あんた達が地震を起こしたんじゃない」と言ってくれた。私ならとても言えない。
 伯母は十日ほどで退院し、また元の生活が戻った。街の復興も徐々に進み、七月中旬に山陽電鉄が全線開通した。疾走する銀色の車体をベランダから見た時、思わず拍手した。
  七月末にようやく家が完成し、元の場所に引っ越した。その朝、伯母は私の弟と二人きりになった時、涙を流して別れを惜しんでくれたそうだ。そして、「姉ちゃんの家を、自分の家のように思ってしまっていた」と言った母の言葉を大層喜び、後日、その言葉が嬉しかったと伯母は私に話した。 その後、伯母は何度も泊まりに来てくれた。「伯母ちゃんのお布団、お茶碗、お箸……」を揃えた。TVから流れる除夜の鐘を聞き、新年を共に迎えた事も二度あった。
 その伯母が、平成十二年五月二十九日に亡くなった。その年の元旦には従姉一家と共に我が家で新年を祝った。よく食べ、よく話し、楽しい一時を過ごした。それなのに、二月頃から寝たり起きたりの生活になり、四月十三日に入院した。具合がよくないと従弟から聞かされていたので、私は毎日、庭の花を手折って病院に通った。だんだん言葉が少なくなり、眠っている事が多くなった。最期は家でと退院したが、しばらくして天に召されてしまった。
  主のいなくなった家を従姉と度々訪れた。掃除をし、遺影に我が家の庭の花を供え、思い出話を飽きることなくした。ある時、椅子に括りつけてあった座布団をめくると、伯母のくつ下がきちんとそろえられてあった。伯母は夜は従姉の家で過ごしていた。翌日履く為に、座布団の下に敷いていたのだろう。日めくりも十二月十四日(平成十一年)のまま吊されてあった。
 「伯母ちゃんが来ての日」には庭の草花を生け、部屋も伯母ちゃん好みにしつらえた。花屋に売っている仰々しい作られた花は、伯母ちゃんの好みではなかった。今は、何の花が庭に咲こうが、どのように飾ろうが、「これ見ン事やねぇ」と言ってくれる肝心のその人がいない。「今は死なれへん。もっと生きときたい」と言った伯母ちゃん、ありがとうね。恩返しも出来ぬまま、伯母に逝かれてしまった。伯母との絆をより強く結んだあの一月十七日が、間もなく巡って来る。

 今生の別れとなりぬ日曜日
      額紫陽花の藍の深さよ

 まだまだとまだまだまだと思ひしに
      天に召されぬ紫陽花の朝

私の原点 名・女性 33歳 主婦 東灘区

 阪神大震災の後、田舎へ帰った両親、一昨年結婚した妹、そして震災結婚した私。それぞれが、家庭を営んでいる。震災があったために、離れた家族なのに、あの頃のことは、もう話さなくなった。でも、私はいつまでも、忘れる事ができないでいる。
 あの日から全てが始まった。そして、ぼんやりと、ただ生きていた私の心が見えるようになってきた。
  妹は現在では良き相談相手となり、お互いの家を行き来しているが、両親と私とはもうダメだと思う。私の方がもう関係ないと言いたい。幼い頃からどうも上手くいっていない気がしていたし、反抗もしていた。でも今は、はっきりと愛されていなかったのだと思う。そう思うと理解できる。
 「家にはお金がない」この言葉は、今日まで幾度となく聞かされた。震災後、誰もが引っ越しのために費用がかかった。お金がいくらあっても足りなかった。だから、私が結婚しようが、入院しようが、子供が産まれようが、両親からは何もしてもらえなかった。それも仕方ない、と思っていた。
 ところが、一昨年に結婚した妹には、多額のお祝を贈っていた事を妹から聞いた。私には、言わないでと、口止めされていたが、私を信頼してくれている妹は、話してくれたのだ。そして言い訳のように、私の結婚の時は、震災があったから何もしてやれなかったのだと妹に言っている。
  母は週三回人工透析をする身体となり、収入は父の年金のみで、苦しい生活をしている様子なのに、妹の事は大切に思っているのだろう。もし地震がなければ…という仮定は大嫌いなのに、どうしても、そこへ返ってしまう。
 地震がなければ結婚しなかったかもしれないし、結婚したとしても、皆から祝ってもらえたかもしれない。両親ともなんとか仲良くやっていけたかもしれない。「もしも」の思いに私の心はくずれそうになる。 もう一年以上も田舎の両親の家へは行っていないし、行きたくないと夫にも言っている。
 昨年の夏、震災後初めて、両親が大阪に住む妹夫婦の家へ来た。私たちも妹の家へ行った。母はいつものように、「お金がないの。地震で田舎へ行ったからね」と言っていた。そして、初孫の私の娘に何もくれなかった。私はまだバカで、おみやげを渡したりした。
 しかし母は、妹の家で泊まったからと妹夫婦にお金を渡した。そして、暑さが厳しいので、田舎の家にクーラー二台をつけて、冷蔵庫を買い替えたと話す。 お金で愛情をはかるのは、私自身、醜いと思っていたが、もうそんなことではない。
 「もう分かったよ」と言いたかった。私にお金を使えない理由として、いつも震災のことを持ち出す母には、もう憎しみしか感じない。今さら恨みを両親にぶつけるつもりはない。ただ憎むだけだ。そして我が娘を愛し、夫にグチを言っている。
 こうして私は、苦しんでいるが、子育て講座に参加したり、友達を作ったりと前向きに生きようとしている。そして、震災の経験を、少しずつ話したりもしている。でも嫌な事があると、つい震災を思い出す。あの日が私の原点なのだろうか。前に行こうとする心と、原点に返る心が私の身体にある。
 一歩でも前進したいが、でも、どこへ行くのだろうか。これが、今の私、震災後七年目の私だ。

(編集者注)本稿は実名でのご投稿でしたが、編集部の判断で匿名としました。
七回忌 安藤 衣子 56歳 パート勤務 須磨区

 一月十七日は、私の人生そのものが消え去った瞬間です。あの時から、六年が過ぎ去りました。私は全ての自信を失い、生きながらにして死んでいたように思います。一方、自分の意思に反して亡くなった人達には、死んでいるのに生きている思いがあったのではないかと思います。 私にとって長い長い六年でした。
 全ての自信をなくす事が、生きて行く上で、どんなにマイナスであるか、身をもって知りました。
  コンロの点火や包丁の扱いができず、未だに料理ができません。あの一瞬の炎に恐怖を感じるからです。でも六年間に自分にできる事から、一つ一つ無理をせずに、ぼつぼつやってきました。
 側にいなくても、私の心の中で生き続けている主人を感じる時、心強く思います。決断しなければならない時には、いつも見守ってくれています。そばに主人を感じ取る事があります。そして迷いなく決断できるのです。
 この六年、仕事を与えてもらった事により、生きてこられたのだと思います。仕事一筋に生きてきた私にとって、他の生き方はできません。仕事仲間に恵まれ、癒され、三時間の労働が生き甲斐になり、一生懸命に働きました。裏表なく生きている実感と幸せを感じました。
 神戸に新しい家が出来ました。一人で生活するには大きすぎる家です。
 今までは、すべて亡くなった主人を第一にし、自分達のことは、二の次にしました。そして、やっと自分達の家が与えられました。「本当にありがとう」の言葉が毎日毎日、口から出てきます。主人の命と引き換えのこの家は、私にとって宝です。
 七回忌の法要は神戸に家を建ててからにしようとの思いが、六年間しっかりと私の心の中で設計され、実現しました。いろんな人達の協力と、真心に支えられてきました。「今日もありがとう。こんなに幸せを頂きありがとう」と心から感謝です。
  一度でいいから、主人に逢いたいです。夢ではよく一緒に生活していますが、悲しい事です。
  長く真っ暗なトンネルの中をさまよい続けた六年間でした。明かりを求めてさまよい、何かを探していたのだと思います。
  一月十四日、七回忌の法要を自宅でいとなみました。一周忌や三回忌と違い、悲しみは薄らいでいました。トンネルの先に明かりを見つけ、抜け出られたと感じました。そこには大きな一輪の蓮の花が咲いているような気がしました。きっと主人もホッとしたんだなあと思いました。これからも感謝の二文字に、私の真心を捧げて生きて行きます。

(編集者注)安藤さんは、地震で圧死されたご主人の遺体が目の前で焼けるという、重たい体験をされました。第1巻から連続して、心の奇跡をご投稿くださっております。
あ く む
車椅子障害者の被災体験 東 千恵子 50歳 主婦 西宮市

 あれは地震の前触れだったのか、平成六年十二月の始め頃、夜中の一時になると、どこからか鼠がやって来て、ガリガリと狂った様に屋根の柱をかじるのです。一週間続いたでしょうか。ぱったりと来なくなり、ほっとしていたら忘れもしません、グラグラと今まで経験した事もない激しい揺れです。
  目が覚めると、辺りは真っ暗。向こうの方で寝ている主人を呼ぶと「早く布団を被れ。じっとしてろ」と言われ身を固くしていました。家がキシキシと音を立てながら揺れ始め、早く止まらないと壊れるかもしれないと思いました。
 その時、近所の家が沢山壊れていたとは夢にも思いませんでした。揺れが止まり懐中電灯を点けようと思ったら不覚にも電池を抜いていました。そこでローソクに火を点けると、外に集まっていた近所の人が「あ、火が出ている。飛び込もうか」と話している声が聞こえました。びっくりして「火事ではありません。ローソクの火です」と告げました。「大丈夫ですか。怪我はないですか」と聞かれて、「大丈夫です」と返事をすると、近所の人は自分の家の中へ入って行かれました。
  私達夫婦は車椅子の重度障害者なので、心配して集まって来てくださったのです。外が明るくなり家の中を見ると、蛍光灯のカサは全部外れ、テレビは逆さまになっています。冷蔵庫や食器棚は倒れガラスが割れて散乱し、壁はあちこち落ちて埃っぽい。水道管がねじ切れて、蛇口も取れて風呂場はひび割れて水浸し、家の鍵はすべて壊れていました。少し家が傾いたのか、あちこちの隙間から風が入って来て寒いし、玄関は隣家の屋根瓦が落ちて足の踏み場もない状態でした。
 溜め息をついていると、三軒程離れた家のご夫婦が立っていて「大丈夫ですか。お宅の屋根は落ちていないし、住めるから良いですよ。私達の家は壊れて住めなくなったので、これから避難します。お元気でね」と挨拶され、その時初めて辺りを見回しました。近所の家が三分の二位潰れて、みんなは近くの小学校に避難していたのです。
  我が家は古い平家の二戸一住宅ですが、八年前に借りた時、大家さんが屋根を取り替たので落ちなかったのです。私達夫婦は車椅子なので、避難所では暮らせず、瓦が落ちなかったのは不幸中の幸いでした。
  私達夫婦は悩みました。電球のカサまで手が届かないし、この散乱した家の中をどうして片付けてよいのやら。足が立たないのでどうする事もできず困っていると、外で呼ぶ声がしました。
  出て見ると主人の母と妹が立っていました。二人が家の中を全て片付けてくれました。ほっとして見ると妹の額から血が流れていました。尼崎の自宅で「タンスが倒れて怪我をしたけど、親と兄ちゃんが心配で、家は子どもに任せて助けに来た」のだそうです。幸い主人の実家は被害に遭わず、水も電気もガスも止まっていませんでした。しかし我が家は鍵が壊れているので、家を留守にできず、水もガスも止まった西宮で大変不自由な生活をしました。
 大家さんは足を怪我して動けないので、仕方なく自分たちで家の隙間を新聞紙とガムテープでふさぎ、風を防ぎました。トイレは風呂の残り湯をタンクに入れて流し、煮炊きをする時はカセットコンロと石油ストーブを使い、市場は開いてないので買い込んでいた食料を少しずつ食べました。一番困ったのは水と風呂です。幸い電気は数時間後に復旧しましたが、給水車が来るまでの三日間は、近所の人から聞いた地面が裂けて水が溢れ出ている所に行き、鍋の蓋や柄杓で水を汲み、ペットボトルに詰め家に持ち帰りました。大勢の人々が順番待ちしているので、自由に汲めるのは暗くなってからです。懐中電灯を点け、車をよけながら寒い夜に一人で汲んでいるのは私だけでした。
 後で聞くと、工場の工業用水だったのですが、何とか水を確保しました。やっと近くの小学校に給水車が来るようになりましたが、毎日二〜三回大きなタンクに水を入れて車椅子で運ぶのは、とても苦しかったです。風呂は週に一度、主人の家で入れてもらい助かりました。食料は尼崎の市場で買いました。
 大家さんが動ける様になり大工さんが来て住める程度に修繕してくれましたが、継ぎはぎで汚く、雨水が染みて常に壁は湿気ていました。一カ月以上過ぎ、初めてガスや水が出て、風呂に浸った時の感激は一生忘れる事はないでしょう。
  近所の八軒長屋で、三軒だけが半壊だったのに、残りの五軒は何も被害がなくても同じ半壊扱いだったのには、納得できません。一方、壁一つで仕切られた二戸一の我が家は、隣が全壊になっているのに、屋根が落ちてないからか一部損壊でした。家が古く、今度地震が来ると危険なので、車椅子住宅に申し込もうと思っても全・半壊でないと受け付けてもらえません。知らない間に外からだけ見て、いい加減な認定だなと思いました。
  しかし遠方より復旧の為に駆け付けてくださった方々や近所の人、そして家族に助けて頂き命があるのだと思います。感謝とともに、全ての物への見方が違って来た様な気がします。

ケ山君の想い出 池田 宜弘 45歳 自営業 長田区

 地震からすぐに、私は当時勤めていた長田のラーメン店関係者の安否確認をした。震災当日にほとんどの関係者の無事が確認できた。確認できなかった者が四名いたが、三名までは数日間で無事を確認することができた。残る一名が中国人留学生のケ山君だった。
 その日の朝、上海にいる彼の姉が心配して、日本で仕事をしている友人に安否確認を依頼した。友人はすぐさま、ケ山君が住んでいた長田区水笠通に駆け付けた。アパートは瓦礫の山になっていた。友人は、その辺りにいた警官らにも助けを求め、ケ山君の遺体を掘り起こした(その情景は、テレビ報道番組で放映された)。
 遺体の状況から、地震の最初の一撃で、安普請のアパートが崩れ落ち、ほぼ即死だったであろうと判断された。
 彼の遺体は村野工業高校に安置された。数日後、(なぜか)川崎食品の職員の手で西宮に運ばれ、火葬された、遺骨は後日、姉の友人によって両親の元に送り届けられた。

  ケ山君が開店二年目のラーメン・チェーン店の長田店にやってきたのは、震災前年の春を過ぎた頃だった。
  店では常時アルバイトを募集していたので、中国人留学生(特に日本語学校の学生が多かった)がよく応募してきていた。ラーメン店だと採用されやすいという思いがあったようだ。ケ山君の前後にも、中国人留学生のアルバイトが何人か働いたのだが、彼らはまだ日本語に未熟で、客との言葉によるトラブルがまま発生していた。
  私たちスタッフは、彼らの会話能力が分かっているので、仕事の内容などは、ゆっくり話し、身ぶりを交えることでコミュニケーションはできる。しかし客にすればそんなことは関係ないのだ。また運の悪いことに、オープンカウンターで洗い場が客の目の前にある。言葉の不自由な留学生にもできる仕事を、ということで洗い場に入ってもらった彼らに追加注文をされることがある。すると、それが聞き取れない時など、聞こえない振りをするので、客が怒りだすというわけだ。
 ケ山君は、きれいな日本語を話した。ホール係(注文を取りに行く)を任せても、安心だった。店の暇な時には、スタッフ間で「なぞなぞ」をよくしたものだが、ケ山君は積極的に参加するだけではなく、ほぼ一〇〇パーセントの回答率を示した。日本語を理解しているだけではなく、相当に頭の回転がいいのであろうと思った。
  ただ、高校生のアルバイトがしゃべる若者言葉にはついていけないようであった。私たちは若者言葉に「何という言い方をするんや」と思うことはあっても、そのニュアンスくらいはほぼ理解できる。英語を学ぶ者が、スラングについていけないようなものであろう。
 ある時、高校生を交えて、おしゃべりをしていると、話題の中に「〜にはまる」という言い方がたびたび出てきた。いつも積極的に参加し、冗談も言う彼が、あいまいに笑っているだけである。ピンときたので「今の『〜にはまる』という言い方が分からなかったのと違うか?」と聞くと、そうだと言う。
 さて、そこでおしゃべりは中断され、どう説明して、どう言い換えればよいか、の検討会が始まった。頭をひねった最後に、高校生の女の子が「夢中になる」ということではないかと言い出し、その場は終了した。それ以後、特に申し合わせたわけではないが、彼が会話に参加してこない時は「今の〜は分かった?」とそれぞれが、聞くようになった。
 ケ山君は料理が得意だった。店では各自食事をとってもいいことになっていたが、毎日ラーメンではさすがに飽きがくる。そんなとき、ケ山君が「何か作りましょうか」と申し出るのだ。中華料理店ではないので、そんなに材料が揃っているわけではないが、あるもので何かと作ってくれた。「生姜を使った冷たいスープ」と「本場中国風餃子(いり卵を具に入れ、大蒜は使わない)」の味は今でもよく覚えている。彼は食べることも好きなようで、食事をするときは実に楽しそうだった。
  ケ山君には、中国人の彼女がいるようであった。多くは語らなかったが、恥ずかしそうに写真を見せてくれたことがある。どうやら、同居しているようであった。好奇心からたずねると、来年四月には国に帰り、彼女と結婚し、アルバイトで貯めたお金を元手に料理店を開きたいとのことであった。
 上海には雪がなく、スキー経験もないとのこと。アルバイト仲間のD君が「それなら一緒に行こう」と、九五年の一月十三日から一泊でスキーに行った。十五日、アルバイトに出てきたケ山君に会うと、顔中あざだらけだった。スキーが止まらず何回か立ち木に衝突したのだと言う。それでも、ニコニコしながら「楽しかったです」と言っていた。貸していた私のスキーウェアを持って来るのを忘れており、「十六日の月曜日は私の休みですから、その次の日に持って来ます」と言ったのが、彼の最後の言葉となってしまった。

 地震が起こった。
 ケ山君の発見の経緯は先述の通りであるが、私達が状況を把握するには、手間取った。スキーに同行したD君が、ケ山君の遺体が村野工業高校に安置されていることを知り、花を供えに行った時には、西宮の火葬場に移送された後だった。そして、それを行ったのは川崎食品の職員だった。川崎食品に問い合わせると、総務部長が会ってくれるとのことで、すぐに出かけた。
 そこで分かったのは、ケ山君は、ラーメン店でのアルバイト(十時から深夜の三時まで)の後、変名を使って、川崎食品で早朝の弁当詰めのアルバイトをしていたことだ。そのアルバイトには彼女(彼女も変名)も一緒だった。
 二人の遺骨は揃って、会議室に安置されてあった。 後日、残りのアルバイト料とスタッフからの「志」を託すと、上海のご両親から礼状が届いた。中国語で書かれていたが、そこは同じ漢字文化圏のこと、なんとかお礼の意思は伝わった。
  手紙の最後に「中日人民友好」とあった。

  〈付 記〉
  ある時、ケ山君が「銭子(チェンズ)」という羽根を持ってきた。中国の子どもはそれを蹴って(サッカーのリフティングのように)遊ぶのだという。彼は足だけでなく、頭や胸などを使って実に巧みに羽根を操った。私達がやってみると、三回と続けることができない。
  現在、私はその「銭子」をはじめ、アジアの伝統玩具や、雑貨を扱っている。別のきっかけがあり、アジアのおもちゃや、遊びを調べ始め仕事につながったのだが、中国に「銭子」があるということをケ山君から教わったことが、東南アジアの羽根蹴り遊びに着目する契機となっている。そして、中国の「銭子」に触れるときには必ず、ケ山君という震災で亡くなった留学生から教わったと言い添えている。何もできなくても、その人のことを忘れず、そういう人がいたのだということを、語り継ぐことが冥福を祈ることになるのだろうと思っているから。
               合 掌
「まだ、温かいよ」 石本 安希子 35歳 主婦 東灘区

 愛
ちゃん、元気にしていますか? いつか会えるの楽しみにしているからね。見守っていてね。

  あの時、私達親子三人は神戸市東灘区魚崎にある実家に里帰りしていた。
  一月十七日早朝、夢うつつの中で家が少し揺れた。実家は築六十年以上で、トラックが家の前を通るだけで揺れることが時々あった。「またか」と再び眠りにつこうとしたその瞬間、「ズシーン」という地響きと共に体ごと沈んだような感じがした。
 私は隣に寝ていた三歳の長女に「布団をかぶりなさい」と声をかけ、添い寝をしていた十カ月の次女を抱き寄せた。すぐに停電となり、ガスのにおいがしてきた。少しの間、とても静かだった。そのうち、隣家で、埋まったご主人に呼びかける声が聞こえてきた。
 そして、私の母の「安希子、愛子、大丈夫〜。返事をして〜」という、すごい声が聞こえてきた。
  私は二階で子供二人と寝ていた。真っ暗な中手探りしてみると、私の肩には隣室との仕切りのガラス戸が、足元には和ダンスも倒れていた。私と長女の間には、枕元の窓ガラスの破片が多数落ちていた。「もし、これらの物が子供達の上に落ちていたら」と思うと、今でも背筋が寒くなる。
 ガラスの破片をよけて、子供を抱え込みながら「大丈夫。私も子供も無事よ」と全身の力をこめて母に答えた。父は二階の別室で「ドアが開かない!」と叫びながら、歩き回っているようだった。
  「愛子の声がしないのよ。愛子〜。あいちゃ〜ん!」母の悲痛な声が聞こえるが、私は身動きも取れず、ただ子供達を抱き寄せるばかりだった。自分の今いる状況が全くわからない。そのうち、近くに住む主人の両親の呼び声が聞こえ、「ああ、無事なのだ」とホッとする。
 しばらくして母が別室の窓を破り助けにきてくれた。散乱したガラスで足を切らないように布団を敷き詰め、まず子供、そして私が外にでた。二階で寝ていたのに、すぐに庭に出ることができた。
 そして、私は初めて家が全壊したことを知った。
 子供達を主人の両親に託し、母と共に妹の名前を呼びながらさがす。妹の寝ていた部屋は、家のほぼ中央の、家具もほとんどない仏間だった。外にでるにはいくつも戸を開けなければならない。が、二階が完全に押しつぶしており、すきまを見つけることすらできない。
  母は、いつもなら妹と一緒に寝ていたのだが、その日に限って、体調を崩していた母のために妹が別室に布団を敷いてあげていた。どうやら家は南西にずれて崩れたらしく、母の寝ていた部屋には二階が直接落ちてこなかったようだ。母が脱出した直後にその部屋も崩れたらしく跡形もなかった。母が助かったのは奇跡だった。
 だんだん夜が明けてきて、周りの状況がみえてきた。近所は八割方全壊していた。母の悲壮な声を聞きつけ、近所の方が妹の救出に来てくださった。私はぐずる子供達をみながら、主人の実家でひたすら待った。
 一階は完全に潰れており、妹の寝ていた場所も特定できない。救出作業は困難をきわめた。どのくらいたってからか、電気工事の仕事をしている知人親子が、自分達の家も全壊しているにもかかわらず、駆けつけてくれた。電気のこぎりを持ってきてくれるがガス臭く、危険なため使えない。
 仕方なく二階の畳を全部どけ、床板をのこぎりで全部切り、ジャッキで二階を持ち上げて下をのぞきこみ、妹を探すという地道な作業がはじまった。大分経ってから、妹の手がみえたそうだが、誰の目にもだめなことはすぐわかった。けれど、誰も何も言わず、様子を見にこようとする母を制止して、作業を続けたそうだ。そして、地震発生から約六時間後、妹は救出された。
  すでに息はなかったが、布団をかぶっていたせいか温もりがまだ残っていた。母は妹に取りすがり、何度も何度も「まだ、温かいよ」と言った。私は言葉も声も出ず、ただ妹のことをみつめるしかなかった。
 主人の実家に妹を運び、公民館にいた医者に、母が無理やりお願いして検死をしてもらった。頭に大きな梁があたったようで即死だった。長く苦しまなかったというそれだけが救いだった。
 夕方、近くで火事が起こった。倒壊した家々はまるで薪のように燃え、火はどんどんひろがった。しかし、消防車が来ても水は出ず、住民のバケツリレーも焼け石に水だった。誰にも止められなかった。
 公民館は避難の人であふれかえり、居場所はなかった。夜になり、主人の実家に移動した。火はまだおさまらず、主人は一晩中火事の様子を見ていた。母は隣室で一晩中泣きつづけた。私は興奮して落ち着かない子供達を抱き寄せ、ただ祈るだけだった。空には、何機もヘリコプターが飛び回っていたが、消火活動をしてくれるわけではなかった。今でもヘリコプターの音を聞くと、あの夜のことを思い出す。
 翌朝、近くのLPガスのコンテナに亀裂が入り危ないからと、避難命令が出た。妹を置いて逃げるのはとても辛かったが、運ぶ手段もなく、とりあえず吹田にある私の家に行くことになった。
 車は大渋滞、電車は西宮北口でとまっている。私は寝巻き姿に十カ月の次女を近所の方がくださったねんねこばんてんで背負い、三歳の長女を自転車の前椅子に乗せて歩いた。主人はインフルエンザをぶりかえした母を自転車の後ろに乗せ歩いた。
 二号線を歩く人はみんなつらそうだった。が、何人もの人が私に声をかけてくれた。「がんばって!」「赤ちゃんの顔がかくれているけれど大丈夫?」温かい励ましの言葉だった。今にして思えば、その時の姿は声をかけずにはおれないほど悲惨なものだったのだろう。今にも崩れ落ちそうなビルの前を何回か通った。今、上から何か落ちてきたらダメだと何度も覚悟した。
 四、五時間ほど歩いてやっと西宮北口についた。気持ちが高ぶっているせいか少しも疲れを感じなかった。駅は避難する人と応援にくる人でごったがえしていた。そして、十三から北千里線に乗り換えた。そこには、日常があった。パンプスを履いてお出かけする人と、ちぐはぐな靴で寝巻き姿の私……。どこでこんなに違ってしまったのだろう……。急に自分達がみじめに思えた。
  吹田の私達の家に両親が避難してきて二年二ヶ月。その間に一言では言い表せない色々なことがあった。父は失意のまま、神戸に戻ることなく亡くなった。私達は母を迎え、妹が大好きだった実家の跡地に家を再建し新生活をスタートさせた。妹が生きていたら、同居することはなかっただろう。妹が身に代えてした母へのプレゼント。
 今、母は孫達に囲まれ平穏に暮らしている。大きな悲しみ、苦しみを乗り越えてやっとつかんだ安らかな日々。一日一日を大切に感謝して暮らしている。本当に大切なものは、何なのか。妹が身をもって教えてくれたのだ。

 いつか会える時は土産話をたくさん持っていくからね。その時は笑顔で会いましょう。

涙も出ない 中野 由 68歳 主婦 西宮市

 深い眠りに入っていたのか揺れたことにも気が付かず、頭の上から額が落ちてきて目が覚めました。 「あー何事だろう」。一瞬何が何だが分からず、右手を伸ばすと蛍光灯のかさが手に触れ、左手を伸ばすと瓦が掴めました。 「地震かしら、家が潰れている。どうなっているんだろう」。阪神間に地震はないと自分で決め込んでいたので、何事が起こったのか分からない。でも火災になれば焼死する。何とかここから出なければと立ち上がりました。
  辺りは真っ暗で何も見えません。寒い寝巻きでは風邪をひく。何か上から着る物はないかと手探りすると、枕元の押入れの襖が飛んでいて中の寝巻きが手にさわり、重ね着しましたがまだ寒い。さらに探し、半纏を重ね着して、さてどうしようか考えていたら、近くに住んでいた娘婿が「おじいちゃん、おばあちゃんどこにいるの」と探しに来ている声が聞こえました。返事をすると、「早くここに足をかけて」と言って引っぱり上げてくれました。
  少し明るくなって回りを見回すと、前の二階建ての家が、我が家の玄関を押し、東側の家が西へ倒しています。我が家が道を塞いでいます。
  「誰か来て、誰か来て」「パパはやく助けて」と助けを求める悲鳴が回りから聞こえて来ます。私が向かいの壊れた二階にあがった時、素足なのに娘婿は気付き「靴持って来るから待ってるんやで」と言って取りに帰りました。
 我が家は一階がつぶれ、二階が傾いてそのまま落ちています。向こう三軒両隣、皆つぶれているのです。こんな大惨事が一瞬にして起こっているのが不思議でした。持って来てくれた靴を履き、つぶれた家を乗り越えて、やっと広い道までたどり着きました。
  通りでは、電柱が倒れ電線は垂れ下がり、今まであった家は皆なくなっていました。
  明るくなってから自分がどんな所から出て来たのか見に行ってみると、よくもまあこんな所から出て来られたものだと、愕然としました。私の寝ている右側に二階が落ちて来て、足元の洋服だんすは倒れて、その上に二階が乗っています。本来なら足の骨が折れていても不思議がない状態ですのに、足がスーと抜けサッと立ち上がれたのです。
 頭の上には一本の梁が横たわっていて支えとなり、隣の家がその上に倒れています。ぼこっと穴の様になり、空間が出来ていました。「ここから出て来たのよ」と皆に話すと、びっくりして「この中から無傷でよー出られたね。足がすくむわ」と言って驚いていました。
 娘が一〇〇メートル程先に、新築して五カ月程の家で無事でした。避難所へも行かず、暖かく足をのばして寝られました。ホッとしたら、お金も何も持たず着のみ着のままだった事に気が付き、余震が続く中、何としても、との一念で現金と保険証、通帳を必死で持ち出しました。これで皆を守れる、と勇気が湧きました。
 学校まで行けば食べる物があるだろう。43号線が落ち、継ぎ目が離れている陸橋をまたいで通り、やっとたどり着きました。しかし、どこへ行っても何もなく帰ってきました。ガスも水道も電気も止まり、さーこれからどうしようと途方にくれて外に立っていると、近所のスーパーから「後でお金を持って来てくれればいいよ」と色々頂けたので、夜の食事をとることができました。
 二日目、消防団の人が走り回っていました。裏のおじいさんもまだ救出されていません。向かいのご夫婦は死体で、その向かいのご主人も、一軒置いて隣のご主人も皆、救出されて三時間程で亡くなられました。その裏の家はお母さんを救出している間に娘さんが亡くなられ、西へ行くと二、三軒先のご主人が、またその裏の大きな家は三人全員が死亡しました。両隣のご主人は骨折され、救急病院に運びこばれましたが、待合所まで血だらけでレントゲンは撮れないし、「骨折だったら包帯で縛っとけばそのうちに治る。死にかけている人の方が先だ」と言って何もしてくれなかったそうです。
  伊丹に自衛隊があるのに一人も姿は見えず、愛知県の機動隊の人が来て遺体を出すのを手伝ってくれました。裏のおじいさんも二階で寝てらして即死でした。その遺体を道に並べ、次から次に戸板にのせ、上から毛布をかけて並べています。
  市から車で集めに回るのですが、何時間たっても来ないので、寒空で遺族の人たちが待ち続けています。泣いている人は一人もいません。こんな時には涙も出ないものですね。
  五十年前、高松の大空襲と南海大地震を体験しました。今度は百年に一度あるかないかの大震災に遭い、退職金をつぎ込んで修理した終の棲家が全壊しました。歳も歳だし、再建には悩みましたが、家のない辛さが身にしみ、あり金はたいて再建しました。
  震災後六年、今はやっと平和な毎日を送っております。

生き埋めからの生還 山口 房子 80歳 西区

 その時、四秒位の横揺れ。「アッ地震や」。何が何だか分からない。枕元で二階に住むご夫婦の呻き声を聞いたと思うなり気を失っていた。どの位の時間が経ったのかもわからない。私は東灘区御影の自宅で地震にあった。
 「アッ埋まっている」。体がひどく揺れたが、上を向いたまま動けない。粒状の壁土と砂が、材木の隙間から一筋になって、左の頬の上に流れる様に落ちて来た。眼と口を固く閉じた。何が何だか分からない。四肢共にビクッとも動かない。呻いていた二人の声は、もう聞こえない。相変わらず砂がチョロチョロと落ちてきて、壁土の臭いが鼻をつく。
 その時、男性二、三人位の話し声に気が付いた。今だっ、「助けてぇ」と腹を絞って叫んだ。近所の人の「おう、すぐ行くぞう」との声に、緊張していた左手が少し柔らかになった様な気がする。「早く……」の声がどうしても出ない。「もうすぐ行くから待っとりよ」とずっと話しかけてくださる。
 もう一度ある限りの声を張り上げて「助けて……」と言うと「おう、すぐ行く」と屋根の上から声がした。何か重い物が体の上にのっているので息苦しい。「今すぐ自衛隊が来るから。アァ、来た来た。五人走って来た」と聞こえた。
 近所の人と自衛隊員に助けられた。私の上にのっていた二階の大屋根をジャッキで取り除き、下りて来られた人達のひとりが「もう大丈夫や」と言った。
 「頭どこやあ」「ここです」手で砂をかき分けて、私の頭を押さえて「これやなあ」「はい」。その時、誰かが「眼を開けてみ」と言ったので、ソッと開けた。もう夜が明けていて、お米屋さんの顔が見えて嬉しかった。
 「体を引き出そうか」「寝巻きの上着を、鋏で切ってもよいか」「ハイ」。「上着を切り取って、肩の方から体を抜こうか」と、私の両腕を取って引き出そうとされたが、足が何かにつかえて出ない。「体の上の物から取ろう」。エアコンの上に洗濯機がのっていた。最後に残った分厚い板を見せて「この板で生命が助かったんや。九死に一生を得たなあ」。私は口の中に、砂が一杯入っているので声が出ない。お米屋さんに心の中で「ありがとう」と言った。「九死に一生」、この言葉を私は生涯忘れない。
 掛け布団をベットの横に広げて、その上に私を寝かせて、バスタオルを胸からお腹に掛け、布団を二つに柏に折って、縁側からトラックに乗せられた。大屋根の三角形の長い底辺になっている、太い横木が引きちぎれているのを見た。材木の繊維が拡がり、中身が盛り上がっているのを見て、恐ろしさに凍りついた。今も思い出すと身震いがする。
 なじみの甲南病院へ入院させて貰った。病院内は、ゴッタ返しており、まさに野戦病院のようだった。一階の病室のベットで横になった時ホッとした。怪我人が次々と運び込まれた。細長い部屋には、ベットが横一列に並べられ、その間はナースが横になってやっと入れる位で、すぐに満員になった。「ここは何の部屋だったのかなあ」。
 先生方の話では、七、九人が入ったらしい。診察を受けてしばらくした時、一番先に入院した壁際の人の家族が急に泣き出された。医師が四人、若いナースが二人付き添っていた。私の枕元で先生方が相談されている。「死亡診断書をどうしよう」「どこから外へ出せるかな」とか。
  私より後、二人目に入院した人の息子らしい人も泣き出された。先生の「駄目です……」との小さい声が聞こえた。病室中に暗雲が立ち込めた。私は掛け布団を着ていても、裸の体がガタガタと震えた。その時また余震。ナースが私のベットの柵につかまり、両足を拡げてじっと耐えている。
 私は「看護婦さん、ベットの間にしゃがみ込みなさいよ」と言った。ナースは「私はそれが出来ません。仕事ですから」と健気にも答えた。ジーンと涙が出てきた。
 お昼になって、お水と幕の内弁当が出たが、入れ歯がないので食べられない。お水だけストローで飲む。夜は水がないので缶入りのウーロン茶を飲む。
 一月十七日から二十日まで、何も食べずに一日二回、コップ二杯の水だけで四日間過ごした。
  入院した夕方、オシッコが出ないので導尿をして貰っていたが、気持ちが悪いので見て貰うと、みな漏れていた。管が尿道の中へ入っていかなかったらしい。「パジャマのズボンから下着まで、皆捨ててください」と言う。もう全裸になってしまった。四肢と共に腰の方も感覚がない。先生とナースが相談して、紙おしめのパンツをはいて、お腹の回りと腿の方に絆創膏をびっしりと貼った。
  二十日に先生が来られて「もうここでは何も手当てが出来ません。西神戸に新日鉄の大きな病院があるので、そこへ行って貰います。甲南病院の救急車で、駐屯している姫路の自衛隊本部まで送ります。二十分ほどの距離です。ヘリコプターが待っていますから、そこで乗り換えて十五分で病院に着きます。向こうの病院では受け入れの用意をして皆待っていますから、よくして貰ってください。五時頃にこの病院を出発します」と言われた。裸の体にお布団を着て、向こうの病院へ行った。

 二十年前に主人と死別して、私一人で生活をしていました。新日鉄の病院とは新日本製鐡所病院のことです。この病院へ入院させて貰った時は、婦長さんが私にと病院の寝巻きを持っておられました。この病院を二カ月で退院しまして、丹波の特別養護老人ホームへ入園させて頂きまして、昨年三月、神戸福祉の東灘区の御尽力で六年目にようやく西神戸に帰る事が出来ました。「ケア・ハウス サンビラこうべ」へ申込みをして頂き、入れました。
  助けて頂きましたお米屋さんの織辺さん、自転車屋さんの小嶋さん、元家主の住田さんにお電話でお礼を申し上げました。三人共お元気でお話が出来まして嬉し涙に暮れました。


「私の家、今、燃えているのよ」 栃尾 正信 55歳 創作壁面彫刻家 長田区

 ド〜ン、ビシッ、ゴォ〜オン、バリバリ、ガラガラ、ドッスーン、ガッシャン。
  これらの轟音は、この日の未明に暗闇の奥から響きわたる大地の悲鳴でした。
  長田区房王寺町のわが部屋は真っ暗闇で、寝床は揺れる波の上のようでした。気が付くと、置き台から飛び出していた二十一インチ型のテレビを左手で押さえ、右手で未だ寝ている家内の胸元を掴んで引き起こしていました。
  闇の中の轟音と大地の揺れは、それからも続きました。それが、十秒だったのか、もっとだったのか。
 しばらくして、闇を探る手に、大きく口の開いた湯沸かしポットが触れました。私はまたもや「アッ、ア〜ア」と叫んでいました。左のお尻から大腿部にかけて、ポットの熱湯の上に座っていたのでした。私は慌てて、下着を剥がすように脱ぎ捨てました。
 それからは静寂の闇の中で火傷の処置をはじめました。クリスマスに使った赤いロウソクを探し、明かりをともし、消毒薬二本分を使い果たして、ガーゼを濡らして処置を終えたのでした。
  あのロウソクが如何に重要な働きをしてくれたことか。闇に三本、四本と立てた時、チラチラ見えた部屋のあちこちに、散乱した物・モノ・もの、の魂が見えました。家内は私を気にしながら悲鳴を挙げつつ、足の踏み場もない散乱した部屋を這うようにして後片付けを始めました。
 下半身麻痺で車椅子の障害者である私には、大きな火傷の痛みも、さほど、感じませんでした。が、気持ちの落ち着きと共に、B5用紙ほどの面積の火傷は、麻痺した神経にもジンジンと痛みを感じさせます。
  団地全体に響く避難の呼び声だけが聞こえてきたけれど、わずか一〇センチも動けません。しばらくしてから、家内が避難場所を探し当てて帰って来ました。しかし、そこは吹きさらしの高台の公園でした。私は、この体では無理と判断して、避難はあきらめました。
 隣の住人は早々と、北区のお姉さんの家に避難したようです。
 今、思い返せば、私の判断は正しかったように思います。車椅子を頼む者が、お尻に火傷を負っている以上、避難場所に行くことなどどだいできません。私は早い時期から「在宅被災者」になることを決めていたのかもしれません。しかし余震は、私たち夫婦を不安に陥れます。
 長い、その日が暮れ、窓のカーテンの隙間からほんのりと、外の明かりがもれてくると、それまで頭の中を駆け回っていた不安が少しずつ消えはじめました。 家内が長田区の地域病院である朝日病院の様子を見に行ってくれました。
  そこは野戦病院さながらの光景でした。大地震で道を塞がれ、阻まれながらも、人々が負傷者を背負い、抱き上げて運び込んでいました。待合室の椅子は、大勢の負傷者でふさがれ、診察を待ち切れずに倒れ込んでいる人や、毛布で覆われた死体が何体もありました。椅子の辺りだけでなく通路の端や、ストレッチャーの上や、受付カウンターの下端にもおかれていたそうです。
  子供の悲痛な叫び声が診察室から聞こえてきます。あまりの痛みに耐え切れなかったのでしょう。大人達は顔を歪め、小さく弱く呻きながら診察の順番が巡って来るのを待っていました。当直の医師と病棟の当直看護婦さん達によって、かろうじて病院の機能を維持していたのです。
 この光景を見て来た家内は、私に病院の異常な緊迫した混乱と、殺気だった人々の様子が理解できる程、リアルに語ってくれました。
  「今、火傷の処置は出来そうにない。病院がもう少し落ち着くまで待った方がよいのでは」との、家内の言葉に従いました。一刻も早く診察を受けたかったのですが、外の状況を察しては身動きできません。病院まで行けるのかも不安でした。そこで、このまま自宅で待つ事にしました。
 その間も余震は断続的に襲います。十二階建ての一階に住んでいる者には、押し潰されそうで不安です。支柱や壁が軋み、その音がいつまでも続きます。余震はいつまで続くのか……。
 家具が部屋中に散乱し、足の踏み場もありません。使い慣れた品々を押し退けるようにして、通り道だけは確保しました。
 安否を確認しに来てくれたのは、家内の弟でした。彼も一時、避難所の小学校に家族を連れて行っていたが、被災した人々で一杯になっていたので自宅に戻りました。その自宅の事も気になりながらも、私たちを気遣って、燃えさかる兵庫区の街々を横切って駆けつけて来てくれたのです。
 携帯ラジオは、中継車から街の被害状況を切羽詰まった声で流し続けていました。電気が来ていないので、この小さなラジオが唯一の情報源でした。こんな状況下で、私は身動きの取れない体にいらだち、焦りが波立つ思いでした。火傷さえ負わなかったら、この重大な時に、出来る事もあったのではないかと思いました。
 一方、生活の生命線である水、ガス、電気は当分の間は望めないだろうと覚悟しました。幸いにも、一、二週間程度の非常用品がありました。携帯コンロとガスボンベ、ペットボトルの水が一箱分、ラーメンにパックに包まれた餅、魚肉類やフルーツ類の缶詰が、ストックとして戸棚に頼もしく並んでいたのです。それらは、歳の暮れの買い置き品でした。
 そうこうしていると、播磨新宮町に住む兄が八時間かけて、安否を確めに車で来てくれました。トランク一杯のペットボトルと携帯ガスボンベに非常食品を積んで、どこを通って来たのか、来てくれたのが、ありがたかったです。兄は昔から機転のきく人であったなあーと、思い出し、この時ばかりは、私も熱いものが頬に流れるのを感じました。
  その日の夕刻時になって、家内は診察してもらえるか、もう一度朝日病院に様子を見に行きました。病院は朝方よりも幾分か落ち着きを取り戻しているようでした。私は火傷した左側のお尻をかばい、右側のお尻に重心を寄せて車椅子に乗り、家内に押されて病院にたどり着きました。私にとっては地震後、初めての外出であり、このときはじめて、凄じい外の状況を目にしたのです。一日中、聞きっぱなしの、あのラジオが報じたとおりの情景でした。
  病院も幾分か落ち着きを取り戻したとはいえ、混乱と、狼狽した状態には変わりはありません。むしろ負傷者は増えていたのです。私は顔見知りの看護婦さんに案内されて診察台に上がりました。主治医は私の火傷の跡を消毒し、抗生物質入りの軟膏薬を塗り、ガーゼをあてがってくれました。 その主治医も、「東灘の自宅から六時間を費やして歩き続けて、やっとの思いで、病院にたどり着いた」そうです。
  「自宅は一部損壊でも、部屋という部屋はメチャクチャやなー」と、私が言うと、傍らで、私の火傷の処置を手伝っている看護婦さんが、ポツリと、
  「私の家、今、燃えているのよ……、家はまた建てられるけど、人の命は元に戻らないものね……」。
 私は、その看護婦さんの言葉に愕然としたと同時に、自宅が燃えているという大きな被害に遭いながらも患者の世話をし続けている人に、看護の魂に触れた思いにさせられました。大きな感動を受けた事を今も覚えています。そしてその言葉は私の人生において出会った、忘れられない言葉です。
 予知ができない地震は、多くの人の命を奪い、街や家を押し潰します。
  病院は正に戦闘中でした。電気がない、氷がない、煮沸消毒用の水がない、ガーゼや包帯が足らない、薬の在庫が底をつく。ないないずくめのなかで、病院は悪戦苦闘していました。
 それでも、その看護婦さんは、私に「毎日処置に来てくださいね」と言ってくれたのです。本来なら即、入院なのでしょうが、あの時はできませんでした。もっと重傷者が大勢いたからです。

  火傷は、完治するまでに三カ月を要しました。私はあの日の外傷性ショックによって、自律神経に支障をきたし、それを今日も引きずっています。

東灘区深江北町での震災日記 新井 尚 59歳 会社員 東灘区

● 一九九五・一・一七
 化け物のような揺れが収まった。窓を開けて外を見る。何だか景色がおかしい。しかし暗くてよく見えない。そして停電だ。
  寝室内はいろんな物が飛び交って落ちたから、手に触れる物が一体何なのか分からない。
  とにかくガラスの破片だらけだから、と靴下を手探りで探す。眼鏡は行方不明だ。
  廊下に出て家族みんなの名を呼んでみる。開閉不能のドアもあるが一応返事がある。

  崩れ落ちた本の上を跨ぎ、転がっている家具を乗り越えて家の外に出る。静まり返って誰もいない。ガスが臭う。
 夜が白み始めた。あっ、家が道路に転がり落ちている。阪神高速の路面が波打っている。高架道路の側面をよくよく見れば、道路の白線が見えるではないか。こちら側へ倒れているのだ。阪神電車のレールが飴のように曲がっている。我が家を取り巻く戸建ての住宅はみな倒壊した。
 これは今まで体験したこともないようなすごい地震だ。
 携帯ラジオで七時のニュースを聞く。「数人の死者が出ている模様」程度の手ぬるい報道。目の前にあるこの惨状から想定される、被害の大きさは伝わってこない。
 我が家は二世代住宅である。古い鉄骨木造二階建てに鉄筋コンクリート二階建てを貼り合わせた形になっている。何が幸いしたか、倒壊だけは免れた。しかし家具や電気器具、食器類はあらかた破損した。建物も外壁剥落、門扉倒壊、勝手口湾曲・・・と内外装にわたって被害を受けた。
  一番奇異だった被害は、居間の内開きのドアが開かないことだった。ドアが一五センチほどしか開かない。といってドアの向こう側には邪魔をする何も見えない。子供を隙間から押し込んで、庭に通じる窓を開けさせる。
 これは後になって分かったことであるが、地震の激しい縦揺れで、家の荷重全体を受けている建物の柱の部分だけが、土中に平均六センチめり込んだ。一方、荷重の掛かっていない床部分はほとんど沈下しなかったために、居間の床が東京ドームの屋根のように丸く室内に盛り上がってしまったのだ。これが内向きのドアを懸命に押しても開かない原因だった。同じ原因で屋外と建物をつなぐガス管、水道管、下水管、雨樋なども折損していた。
 とにかく第一にやることはエネルギーと水と食糧を確保すること。
  近くの商店街へ自転車で走る。いずれの商店も混乱しており、パンも水も買えない。そんな中、一階がつぶれた電気店だけが、店主が建物の隙間を這いずって電池を探して売ってくれた。買えた物はただこれだけだった。
 帰途公衆電話ボックスに三十人以上の人が行列していた。我が家に来れば電話くらい貸して上げるのにと思いながら家に戻った。しかし、すでに家の電話は掛からなかった。
 北側に倒れ込んだ家、南側に倒れた家、生活道路が迷路のようになって使えない。
  あの家の人はもう救出したとか、まだ閉じこめられているとか情報が乱れ飛ぶ。
  西隣の家が我が家に通じる道に倒れ込んでいるため、西側の状況がほとんど分からない。
  北向かいはお年寄りの二人住まい。おじいさんは二階から助け出したと聞いたが、おばあさんはどうなっているのか。へしゃげた一階部分に四方から呼びかけるが応えはない。
  一一〇番も一一九番にも何度か電話した。その都度応対は丁寧であったが、結局パトカーも救急車も一度も来なかった。この状況なら当てにする方が非常識ということであろう。
 食事も忘れてあっという間の一日。夕闇の迫る中、焚き火をして夕飯を作る。
  みんな普段着のまま寝る。

● 一・十八
  夜中じゅう余震が続く。そして救急車と消防車のサイレンが鳴りづめだった。
  近所で大きな火事は発生しなかった。これはこの地域の長時間停電のおかげであると私は思っている。揺れが収まって、すぐ外に出た。プーンとガスのにおいがした。それでもどこからも火災は出なかった。電気のスイッチ操作は各家でなされたと思うし、冷蔵庫など自動的にスイッチの入る機器もいくつもあるが、停電していたためガス爆発に至らなかったのだ。
 生活道路をリュックを背負った人たちが東へ東へと歩く。どこへ行こうとしているのか、みんな無口だ。国道へ出る。横転した高架道路から滑り落ちたトラックは、積み荷のメリケン粉がこぼれて真っ白だった。
  その運転席からは情けなそうに警報ブザーが鳴り続けている。上空には何機ものヘリコプターが舞う。
  深江のコープで買物。単価はどれも百円、一人三点以内の制限。缶詰、ハム、バナナを買う。
  芦屋精道小学校の校庭に半日並んで十五リットルの水を持ち帰る。
 家に戻ってもヘリコプターの音は止むことがない。その中で後かたづけ。余震のたびにあわてて石油ストーブを消す。
 会社の同僚から救援物資が届く。カセットコンロ・水・照明灯・電池・金槌・釘、大いに役立つ。
  夜、天井から懐中電灯をぶら下げて食事をしていると、家の東の道からグゥオーと腹の底に響くような音がする。外に出てみると、中部各県の機動隊救援部隊の車両が何十台と列を組んで、整然と南下していた。

● 一・十九
  川西町の某家で井戸水がもらえたという。また体育館南の住宅展示場でも水がもらえるともいう。水を求め、人間はポリタンクやバケツを持って右往左往しているが、動物だってまた苦しい。飲み水を求めてでだろう、公園の池に犬がはまっているという。助けようとしても吠えてどうにもできない。家にあったコロッケとラーメンを投げてやる。いつの間に元気を取り戻したのか、自分で池から飛び出ていったようだ。そんな池の水も一週間ほどで、大地の割れ目の中に吸い込まれていった。干上がった池は、白鷺が集まってきて絶好のえさ場になっていた。
 芦屋市役所の避難所に伯母を見舞っての帰り道、芦屋から神戸市に入ると街路は真っ暗だった。東灘の東端は電気の縁から見放されている。
 我が家の周りは、薪を積み重ねたように家が折り重なってつぶれている。居住者が残っているのは二軒のみ。不気味な暗闇の中で自活する。
 避難所の救援体制は順次進んでいくのに、自活している者への支援はほったらかしだ。 自活者の調査をしている様子はない。ラジオでも避難所の皆さんは大変でしょうと言っているが、自活者への思いやりは聞かれない。

● 一・二十
 テレビは見られないし、新聞も来ない。社会の情勢が知りたい。
  道に転がり落ちた家、倒れた電柱、そんな瓦礫を踏み、電柱の下をくぐって新聞販売店に行く。
  帰り道、マンホールから水が噴き出しているのを発見した。チリトリですくってバケツに取る。
  広報車から「川西グランドで朝食の差し入れがあります」の天の声。

● 一・二十一
 夜中、鳴り続いていた救急車のサイレンの音の頻度が少し減った。
 大阪府内に住んでいる、お向かいの息子さんが挨拶に来た。
 「東灘小学校の霊安室に安置してあった母は、神戸ではいつ順番が来るか分からないので、自宅のある堺市に運んでそこでお骨にしました」と、母を亡くした悔しさと、生前のお礼を、涙ながらに語った。

● 一・二十二
  冬には珍しい土砂降りとなる。避難所では青い防水シートを配っているが、果たして各家は効果的な取り付けができるのだろうか。雨の中、横倒しになった家を越えて、電気の工事が進んでいる。
  我が家では家の躯体が沈んだせいで、降った雨が、家の四方から内に向かって流れ込んでくる。

● 一・二十三
 今日から出社。みんな登山でもするかのようなスタイルで黙々と東へ向かって歩いている。同じ格好で国道2号線をJR甲子園口駅へ向かう。
 西宮の辺り、サイレンを鳴らしながら各県の救援車が隊を組んで西へ西へと向かっている。みんな我々の救援に来てくれているのだ。その光景に涙が出る。
  帰りは阪神甲子園駅から歩く。43号線はこうこうと照明灯を照らして、あの横転したトラックや傾いた高架道路の撤去作業をしている。日本はこういう作業が素早い。
  歩くこと約八キロ。今まで住んでいた人は、ほとんどいなくなって、不気味な暗黒の世界の中に没した我が家が見えた。電気が灯っていた。明るい玄関にみんなの笑顔があった。十五時に電気がついたという。

● 二・一
 職場近傍で電気毛布を探す。電気暖房器具はすべて神戸に流れており、ほとんど売ってないという。

● 二・三
 宝島池公園の給水車が、自衛隊に代わって今日から長野県飯田市となる。援助の手が、あの中央アルプスの山間の町からも、来ていることに胸が熱くなる。
 三軒先の家の飼い猫がゴロニャン。震災前つまらぬ餌をやっても鼻であしらって見向きもしなかったあの高潔な猫が、主人を見失って三週間、餌をくれと我が家に現れた。

● 二・四
 和泉市の組合が、我が家の横の公園で、炊き出しをやっている。
  鳴尾御影線の街路樹、あの大きな地震にも耐えて、昨日まですっくと立っていたのに、連日渋滞している東西交通や、復旧作業にじゃまなのか、切り倒されていた。

● 二・十二
  裏口付近で水漏れ、やっと水道が来たらしい。敷地内に水道管破断箇所複数あり。修理は出来ないからと市の指定業者はメーターの横に蛇口を付けて帰る。今日からは、もう給水車に頼ることはない。

● 二・十五
  巨大なショベルカーと共に愛知・岐阜・福井の自衛隊がやってきた。周りの住宅の撤去が始まる。北側の住宅二軒から始まった。我が家の倒れかけたブロック塀も撤去してくれた。
  当面の生活はしのげるようにと、我が家の工務店はこの日から三日間、床の水平化工事と裏口のくの字に歪んだ扉だけ直した。そして「後のことは世の中が落ち着いてから考えましょう」といって帰って行った。

● 二・十九
 宝島池公園の給水車が、今日から神戸市の水道局となる。

● 二・二十六
 一週間に一度の大阪での家族入浴もこれで六回目。しかし最近は風呂の利用者も減ってきた。ガスや水道の復旧が進んできたということだろう。我が家にとって喜んでいいのか、悲しいことなのか。
 スーパーは大型テントで被災者の生活用品の販売を始めているが、個人の商店は大半が壊れたままだ。

● 三・一
 途絶えていた損壊住宅の撤去作業。西側の住宅三軒、今日から吹田の解体業者の手で始まる。荷台の三方をベニヤ板や古畳で囲って廃材を運ぶ小型トラック。トラックのこのスタイルは震災のトレードマークとなっている。

● 三・六
 川西グランドで仮設住宅の建設が始まる。

● 三・九
 罹災証明をもらいに区役所へ行く。我が家はどんな認定になるのかと不安な気持ちで列に並ぶ。住所をいうや否や言下に「全壊」と認定される。

● 三・十九
周辺のガス工事が盛んになる。旭川、室蘭、帯広といった北海道のガス会社が懸命に道路を掘り起こしている。地震から二ヵ月が過ぎたが、まだガス・水道なしの生活。これも我が家の生活スタイルとして定着してきた。

● 三・二十一
 やっと水道が出る。ペットボトルやバケツが全部不要になった。
 このとき敷地内の水道管の破断ヶ所三ヵ所を直してくれたのは、隣で住宅解体作業をしていた業者の棟梁である。正規の水道業者は各戸の工事には手が回らなくて来てくれなかった。

● 三・二十五
  敷地内のガス漏れ点検工事は堺市の業者がやってくれた。そして待ちに待ったガスが来た。今日から存分に風呂が楽しめる。一週間に一度の大阪への電車入浴も二日前の十一回で自動的に終了となった。出てみればあっけない感じ。ガスなしの生活を忘れてもう以前どおり、普段どおりの生活をやっている。

● 四・六
 川西町の仮設住宅に灯がともる。
  震災後の復旧は一つの段階を越えた。だんだん町も元通りの生活を取り戻してきている。 しかしまだ我が家の周りには震災の傷跡があちこちにある。

● さあ、春爛漫となった……、いずこも桜が満開だ。
  いま私の家の周りは公園である東側を除いて、すべて無色の更地になった。北向かいの家の玄関跡、ペットボトルに立てた花がただ一点の色彩として春の光に輝いている。庭だけ残った西側のお宅、色あせた景色の中に、ヒヤシンスの紫や水仙の白が、主を求めるかのように小さな存在を示している。
  「見覚えの陶片の散る更地なり」  朝日川柳から
 二階のベランダには、花菖蒲を三十数鉢と、陶器製の水蓮鉢をおいていた。
 花菖蒲の鉢はベランダの床面に置いてあったが、互いに激しくぶつかりあったらしく、粉々に割れたもの、一部欠けたもの、裏返っているものなど多様だった。ベランダ一面に「土と苗と鉢のかけら」が混然となって飛び散っていた。とっさのことで植えてやるところもなく、ビニール袋で育てた。
 あれから二ヵ月半、花菖蒲も成長期に入った。裸の苗を早く元通りの鉢に戻してやらねばと焦っていたが、こんなときに園芸用品を売る悠長な店屋はない。買う人もいないだろう。
 そんな中、植木鉢を妹夫婦が東京から送ってきてくれた。
  おかげで今ほぼすべての苗が新芽を吹き、元気に成長を始めている。
  水蓮鉢はといえば、もちろん水は九割方揺れこぼれてしまい、中にいた金魚も大半が外に飛び出していたが、幸い割れなかった。
 気を失った金魚を、植木鉢のかけらや土が、あふれた水と混じり合って、泥まみれになった中から一尾一尾と水に戻し、今は七尾が元気になっている。しかし、尾ひれを半分失ったもの、頭に黒くケガ跡を残したものなど地震の痕跡はこんなところにも残っている。

      *****************************
 さて、あれから二年半が経った。
 一九九七・三・十七には宝島池公園に慰霊碑が建立された。そこには我が町内での死者が九十七名と書かれている。この狭い町内で大変な数である。
 あの震災三日目の夕方、寒空の中、この公園を「ハッピィー、ハッピィー、ハッピィー」と愛犬を探し求めて、さまよい歩いていた母と幼い子ら三人はどうしているのだろう。その姿が今も心に浮かんでくる。
  町内では震災後、各家の建物取り壊しで、庭木までもが大半なくなってしまった。
 人の犠牲も大きかったが、多くの動物や植物もまたこの震災の大きな犠牲になっている。
 そして各家は自宅の建設費を捻出するためか、見事なほどに一軒分の土地が二軒に分割され、もう庭を造るスペースはなくなった。
  表通りに面したところは、ほとんどが三階建ての家になり、道路が狭く感じられるようになった。
 隣のことを考えずに、各人が一斉に建物を建設した。そのため、例え一つひとつは美的であるとしても、全体としての調和のない、落ち着きのない町並みになってしまった。
 同じ地震に耐えて生き残った人たち、動物や鳥たち、樹木や草花たち。これらを今後、私たちは、同じ体験をした仲間として、大事にして生きていかねばならない。

  六年目を迎えて

 あの日、私は何千人規模の被害者が出るような、途轍もない地震に襲われたと直感で分かった。それに比して当初の地震報道の悠長さにがっくりした記憶がある。起こった事態の大きさ、程度の把握の仕方がまるで駄目だった。
 七時のニュースだったろうか。数人の死者が出ています程度のことを伝えていた。あの報道からはこの巨大地震が発生したという雰囲気が全く伝わってこなかった。
  ラジオやテレビから流された最初の災害情報のニュースソースはどこなんだろう。今回のお粗末な災害報道は実態と全くかけ離れていた。
 こんな情報源を基に、首相や自衛隊や関係箇所が行動を起こしているならば手緩いと云われた今回の結果になるのも当たり前のことだ。最初から千人単位の死者が見込まれる災害だという判断が出来る箇所がニュースソースにならなければならない。
 被災の中心地である、職場から数キロのところに官舎を構えている自治体の長が、出迎えの車で出てきているようでは事態の重要性・緊急性が分かっていない。緊急時の頭の切り替えができていない。
 情報伝達のルートを、国土庁経由から官邸直行に変えても駄目だ。情報源のセンスが肝心だ。
 突然の災害で備蓄が何もない。そして商店もことごとく壊れている。
  外国であれば暴動・略奪が直ぐに発生したであろうが、今回市民は、略奪など思いもつかないかのように、冷静に行動した。
  当日、首相が被災地に飛ばず、北海道に行くという政府の甘い事態認識にも関わらず、首相が責任を追及されずに済んでいる。
  これも国民の、この冷静な行動のお陰と云っても言い過ぎではない。

宮西悠司氏と「まちづくり」
◆日本型民主主義へのヒント◆
高森 一徳     

 
「真野さんは特別だ」

 長田区御蔵通五丁目に、ボランティア団体「まち・コミュニケーション」(代表 宮定章さん)と「プラザ5(ファイブ)」(代表 上田諭信さん)がある。震災ボランティアのほとんどが、避難所や仮設住宅の被災者に注目し、支援活動に努めたのに対し、「町に人が戻らねば、真の復興はありえない」と、「まちづくり」に取り組んでいるグループだ。
 その思いと活動は、第六巻に、両方の主催者である田中保三さんと「まち・コミュニケーション」の前代表、小野幸一郎さんに寄稿していただいた。

  地域交流スペース「プラザ5(ファイブ)」に出入りするうちに、真野地区の「まちづくり」コンサルタント、宮西悠司氏(五十七歳)を知った。
 真野地区は、長田区の東南端、海沿いに位置する。真野小学校の校区で、北の国道2号線、東の長田線・苅藻運河、西の新湊川に、しぼり出されたような地形だ。南部は三ッ星ベルトの工場などゴムや鉄工を中心とした大小の工場や倉庫が並び、北部は商店や密集住宅がある、住・商・工混合のインナーシティ(下町)である。
  真野地区は、かつて「公害のデパート」と言われるほど、公害に悩まされた。大工場による大気汚染や水質汚濁、道路からの排気ガス・振動・騒音、密集住宅区の火災などだ。一時は住人の四割以上が、「苅藻ぜんそく」に悩まされたという。
 その生活環境を改善するために、昭和三十年代後半に「まちづくり」に取り組み始めた。宮西氏は、昭和四十七年から、真野地区とかかわり、「まちづくり懇談会」や「検討会議」、「まちづくり推進会」のコンサルタントを勤めてきた。

  地震の日、真野地区では住人が、瓦礫の下から被災者を救出し、道路を塞ぐ倒壊建物の撤去を行った。火災に対しては、バケツリレーで対応したが間に合わず、三ツ星ベルトの自衛消防団の応援や、ミヨシ油脂からは水圧を上げる発動機、タイトーからはホースの提供を受け、大火をまぬがれた。住人と地元企業が協力し合って、初期消火に成果をあげた。これは、これから大地震がくると予想されている都市の防災担当者たちに高く評価されている。
 地震から三日目には、真野小学校に「災害対策本部」を設置し、避難者の救援と復興に取り組んだ。
 しかし、「真野さんは特別だ」と、他の地域とは別格扱いされた。
  真野地区は、三十年に及ぶ「まちづくり」運動の間に、季節ごとの祭りやイベントの運営のためのグループが生まれ、、そのリーダーたちと住人の間に信頼関係が確立した。また、これらの行事を通じて住人同士が役割分担をし、血縁、地縁、世代や生活の枠を超えた、多様なネットワークができ、地元企業との間にも共生関係が育まれてきた。
  真野地区は、神戸市の「まちづくり条例」にもとづく「まちづくり協議会方式」のお手本で、「住民主体・行政参加型まちづくり」をなしとげた優等生だと評価されている。

 
スサノオ?

 私は真野地区をまったく知らなかった。
  「まち・コミュニケーション」の小野幸一郎さんから、「真野の宮西先生は、スゴイ。まちづくり教の教祖のような人だ」と聞かされた。スゴイの中には、「真野のまちづくり」の実績だけではなく、その「飲みっぷり」も含まれているようだった。私は、ようやく三十代になった若者をも感動させる、宮西氏に興味を持った。
  初対面の印象が強烈だった。宮西氏は、「プラザ5(ファイブ)」で開かれた、まちづくり講座「御蔵学校」の交流会に現れた。少しアルコールが入っていた。そして、当日の講師に毒づき始めた。
 「○○が神戸市長? 馬鹿かぁ〜」。震災時に日本銀行神戸支店長だった方に噛み付いた。○○氏は、被災地の金融不安を的確な措置で切り抜け、その後も歯切れのよい神戸空港反対論を展開して人望があった。そこで、先の市長選挙では、神戸市長に担ごうという運動があった(○○氏は、最初から、首都圏に住む親の介護を理由に固辞していた)。
 ○○氏は、苦笑し、司会の小野さんはオロオロしていた。
  鼻下に髭を蓄え、オウムのグル服のような白衣を着た宮西氏は、「荒ぶる神」スサノオのように見えた。「ツカミ」がスゴイ。

 
地域力

 宮西氏は、「まちづくりは地域力の向上運動」だと言う。「地域力」は、宮西氏の造語だ。住人がその地域で抱える生活上の問題に対して、共同で解決しようとする行動力だそうだ。
 地域力には、住人の地域への関心度、その関心を受け止められる施設や組織、自治能力の三つの要素がある。それぞれを、高めることが、まちづくりにつながる。
 住人の地域への関心度は低い。迷惑施設の建設や公害、災害、治安の悪化などのきっかけがなければ高まらない。優等生の真野地区でさえ、餅つき大会など、季節のイベントへの参加率は高いが、「まちづくり集会」への参加者は、住人の八分の一ほどだ。
 宮西氏は、「これで当然だ」と言う。そして、地域の住人を三つに分類する。「住民」と、「居留民」とその間でゆれている人だ。住民は定住を決意している人、居留民は、まちを「ねぐら」と考え、不都合があれば離れていく人だ。それぞれを住人の三分の一とすると、真野地区の場合、「まちづくり集会」への参加者は、「住民」の三分の一強となる。
 現実には、「全員参加のまちづくり」などありえない。強制力がないし、そもそも住人は、私権を目一杯に主張し、それを超える部分は行政の責任だと思っている。宮西氏の「住人三分の一論」のような割り切り方をしないと、やってられないのだろう。リアリストである。
  過去、「住民運動」で、ある程度の人数を結集し、成果が上がったものは、行政や企業に対する「反対運動」だった。具体的な政策や代替案を提示し、それを運動にまで高めた活動はまれだ。真野地区は、それに挑戦した。

 
「まちづくり検討会議」

  昭和五十三年十二月に、町内会の連合会長三人と、婦人会会長の計四名が核となって、住人に提案する「まちづくり構想」をつくるための、「まちづくり検討会議」が発足した。
  三十五名のメンバーの内訳は、自治会関係者十五名、各種団体関係者四名、商店・工場関係者八名、学識経験者四名、神戸市職員四名だった。
  この中で、各種団体というのは、婦人会、子供会、老人会、民生委員である。
 また、過去に公害で住人と対立した工場関係者も加わっている点が注目される。
 昭和四十六年七月、地区内にできた尻池街園の開園式に出席した宮崎辰雄市長は、真野地区の環境整備への取り組み方の基本姿勢を示した。
 「今までの都市計画は役所主導でつくってきたが、地域の環境改善は現場からの計画が先行すべきだ。どう整備したいかを地区で話し合ってもらい、それと役所のプランを重ね合わせてベストプランをつくり、実行していきたい。地区の皆様には、互いの利害に固執しない真剣な研究を望みたい。市はプランができるまでの間に、土地の確保や都市改造の準備を進める」。
 そこで、「まちづくり懇談会」が、昭和四十六年から五十二年までの間、長田区長の主催で断続的に開かれた。「まちづくり検討会議」は、発足までに時間はかかったが、市長の提言を実行する機関だった。市役所職員も参加し、市がそこでつくられる「まちづくり構想」を尊重するという保証もあった。
  とはいえ、検討会議は、地域住人全員に法的に認知された団体ではない。町内会長など地元有志二十七名を含む任意団体である。
  会議を取り仕切り、運営する人々の立場は、明確ではない。町内会長という肩書きはあっても、法律上の権限はない。そもそも、町内会といっても、真の意味の自治組織ではなく、「外部から自治という幻想を担わされ、内部でもそうあらねばならぬと思っているだけのもの」(宮西氏)である。
 町内会の構成員は、「集めに来られると、断りにくいから会費を払っている」という人がほとんどで、役員も、順番で役目を引き受けている人が多い。
  だが、検討会議は、昭和五十五年七月に、「提案・真野まちづくり構想」をまとめた。構想には、「当面実施したい第一期計画の提案」として、「住宅街区に工場建設はしない」「工場街区に大きな集合住宅の建設はしない」など、私権を制約する「地区計画」の提案が含まれ、「二十年後をめざす将来像の提案」も提示された。
  構想の初期案は宮西氏らが描き、検討会議で幾度も修正を加えて叩き台をつくり、その後に、地区全体の住人を対象とした「まちづくり学習講座」を開催して説明と意見交換を行った。さらに、自治会や各種団体と「まちづくり小集会」を開いて、ヒヤリングを重ねた。この間、住人のまちづくりへの理解を深めるために、「真野地区まちづくりニュース」を五回発行した。これら広報誌や叩き台、構想のパンフレットは、全世帯に配布した。
  構想は住人の投票による支持を受けたわけではない。各段階の集会を通じて、総論に対する強い反対はないという状況でよしとした。構想と提案の役割は、地区をあげてまちづくりに取り組む点に力点があり、具体的内容は事業化の段階で変更できるからだ。また、真野地区は小学校区をまちづくり構想の対象としており、このように広いエリアの住人から全員一致の合意を得ることは、現実的ではなかった。
 検討会議は解散し、昭和五十五年十一月、構想を実現する機関として「真野地区まちづくり推進会」が発足した。メンバーには、小学校の同窓会、「同志会」、同OB会のリーダーたちが加わった。「同志会」は、三十歳以上五十歳未満の人たちのまちづくり勉強会で、ピーク時には百名ものメンバーが加わり、まちづくり活動の核になった。

 それから今年で二十一年目を迎える。阪神・淡路大震災やバブル経済の破綻と不況という試練はあったが、真野地区の町並を歩くと、暮らしやすさが伝わってくる。まず、長田区の他の地区に比べて地震の後遺症の象徴である空き地が少ない。「住民」がこの町を愛し「わが所」と、決めているのがうかがえる。
 全国チェーンの飲食店はほとんどなく、スマートとはいえないネーミングのスナックや居酒屋が並ぶ。この中で、「住民」の濃密なコミュニケーションが交わされ、地域の「よりしろ」の役割を担う人が育っているのだろう。「地域力」の高まりとみたい。

 
二十年後を目指す「まちづくり」

 宮西氏は、「私のまちづくりプランに住民の意思は関係ない」と乱暴なことを言う。私なりに解釈すると、「プロのプランナーは、現在の住民に不利益があっても、二十年後の住民に最大の利益をもたらす計画をつくらねばならない」ということらしい。
  宮西氏は、住民の「現在の意思」と「二十年後を目指すまちづくりプラン」のギャップを、「ノミニケーション」で補ってきたのだろう。
  宮西氏は、真野地区には住んでいない。東京都立大学の建築学科の出身で、神戸には川名教授の紹介で、学生時代の昭和四十三年から都市計画の研究で関わりはじめた。卒業後、コンサルタント会社をへて、昭和四十五年に、神戸地域問題研究所を設立した。住まいは須磨区だ。
 まちづくりには、このような「部外者」が触媒として必要なのかもしれない。地震後、被災地の各地でまちづくりに貢献している建築家やコンサルタントにも、「自宅の属する自治会活動には腰が引ける」という方々が大勢おられる。
 利害が衝突しやすい住人同士の間に、第三者的立場の人が必要なのではないだろうか?

 宮西氏は、「真野のまちづくりは、議員を使わないまちづくりだ」とも言う。農村や、都市部の下町では、地域の問題を解決するのに議員に陳情するのが一般的だ。ところが真野地区のリーダーだった毛利芳蔵氏(故人)は、特定の市会議員に頼らなかった。宮西氏ら専門家や住人有志の知恵を集め、マスコミを味方につけた。
 神戸市役所の職員も、議員を通じて案件を持ち込まれるのを嫌がる傾向があった。直接市民の要求に答える充実感を求めたのか、議員に利権が生まれるのを恐れたのか。
 余談だが、神戸市に市会議員の汚職がないのは、このあたりが原因かもしれない。無党派層が多くなって、住人に議員とのチャンネルが少なくなったのだろうか、議員を通じて市役所の情報が伝達されるケースもまれだそうだ。

 
まちづくりびと

  「まち・コミュニケーション」に集う若者には、建築学科の学生や院生、卒業生がいる。彼らは、安定した大手ゼネコンや地方自治体や公社・公団への就職を目指さず、「住民主体のまちづくり」に興味があるらしい。
  最初、私は宮西氏のまちづくりは、宮西氏の個性と真野の「住民」と神戸市役所の開明的官僚という、三者の産物で、汎用性がないのではないかと思っていた。特に宮西氏の交渉力や、人の特性を見抜いて役割を担わせる能力は、卓越している。しかし、落語家でいうと、古今亭志ん生のような一代芸なら、継承できない。
 だが、心配はなさそうだ。「全員参加のまちづくり」などとロマンチックなことを言わず、リアリストに徹して、「未来の住民への最大利益」を目指すプランをつくり、住人と時間をかけて対話し、修正し、説得し納得させる体力と気力があれば、「住民主体のまちづくり」はできる。

 
日本型民主主義へのヒント

 震災後、ある集会で、「市民無視の神戸市政」というアジ演説を聞いた。発言を促されたので、「賛成です」と答えた。「私は、市民は単に住民票を持っている人とは考えていません。自分の利益だけではなく、世界観と歴史観に基づいた基準をもって、判断し行動できる住民と定義しています。すると、私も含めて、神戸に市民は、ほとんどいないでしょう。いないものは見えないでしょう」と続けた。
 『西欧市民意識の形成』(増田四郎著 講談社文庫)は、西欧の市民意識の源流を、北欧の都市国家に見出している。その貿易商や自営業者が担い手となって市民層が形成された。
  彼らは、教会や領主と戦い、したたかに交渉し、自治権を獲得した。貿易商は、他の都市国家の戦いぶりを紹介し、自営業者は活動を自己責任で経済的に支援した。自衛のためには、死をもいとわなかった。
  担い手とそれを支える市民には、過去を学び未来を意識し責任を持つ歴史観があったし、他の都市国家を知り世界観もあった。自治を守るための犠牲にも耐えた。
  宮西氏が「住人」と「住民」を区別したように、「住民票を持っている人」と「市民」の距離は遠い。
 さらにいえば、神戸市長も、市役所の職員も、自分たちの利益や自己満足だけで仕事をしているとは思えない。対象が、「市民」であれ、「住民票を持っている人」であれ、「住民」であれ、「住人」であれ、それらを無視して都市経営をしているとは思えない。私は、彼らの「善意」は信じてよいと思う。
 問題は、彼らがよかれと思ってやっている計画が、神戸市の住人の理解と支持を十分に受けていないことだ。その原因は、説明不足や説明ベタもあるだろうし、住人のニーズの変化に対応できていない部分もある。
 今や住人は、「自分たちが参加したまちづくり」を望んでいる。貧しい時代には、行政にお任せで、出てきたプランに文句を言い、補償金をかすめ取ろうという住人もいたが、進化してきたのだ。特に被災地では、震災をきっかけに「行政に任せっぱなしには、まさかの時に自分たちの生命と財産は守れない」と実感した人が大勢生まれた。
 神戸市役所は、戦後復興の過程で、「最小の費用で最大の効果」を旗印に都市計画を推進し、ポートアイランドや西神ニュータウンの建設など大きな成果をあげ、社会資本を整備した。しかし皮肉なことにその結果、「費用対効果」の「効果」が上がらなくなった。立派な復興住宅を建てても、「住人の満足度」という効果は、貧しい時代にくらべて低い。同じ費用をつぎ込んでも、効果の上積みがだんだん少なくなる(限界効用逓減の法則)のだ。
  住人は、行政が提供するサービスに「自分たちが参加した実感」という付加価値を求めている。田中保三さんらのように、近隣同士で意見の調整をし、専門家の協力を得て、まちづくりの立案と実行ができる人も出てきた。
  震災復興事業に限らず、公共事業には、住民参加、社会的弱者や環境への配慮など、新たな付加価値が必要だ。そうでないと「限界効用逓減の法則」の壁は破られない。
 非営利組織(NPO)や地域のボランティア団体に、住人からの意見聴取や環境調査をできる限り委託し、要件を満たせば、事業経営そのものを任せればよい。住人の満足度はあがり、「住民意識」が向上し、経営能力を持った人材と組織が育つ。
 神戸市や兵庫県、神奈川県、宮城県、高知県などには、すでにそのような動きがある。しかし、高知県のモデル事業「県民参加の予算作り」に象徴されるように、力点がコスト削減にある。力点は、「住人が住民に進化する」きっかけ作りに置いた方がよい。実績のあるコンサルタントや業者に任せていた事業の一部を、実績に乏しく能力に欠けていたとしても、地域住民のグループにも分担させ、住人が住民に進化する機会を創造するのだ。
  行政の担当者は、提供すべき商品(行政サービス)の構成を見直す時期にきている。
  とはいえ、「全員参加のまちづくり」は、悪しき完全主義だ。「参加しない自由」を主張する住人もいるし、住人の多数意見が、「未来の住人」の利益と一致しないこともある。迷惑施設ができる計画があれば、住人は必ず反対するだろう。
 有権者の投票行動も、常に正しいわけではない。大阪府では二度にわたって、横山ノック氏が知事に当選した。「あほ」とは言わないが、彼に投票した人々は、政治的にイチビッた(ふざけた)のだ。

  時代の潮流は、「住民主体のまちづくり」だ。真野地区のまちづくりは、毛利芳蔵氏という担い手が現れ、宮西氏のような名幹事役が補佐し、住人の中の住民によってなしとげられた。だが、今でも住人の過半数は「居留民」と、どっちつかずの人々だ。この現実を直視するところから、真のまちづくりがはじまるのではないだろうか?
  住人の側も変わらなければならないと思った。

あ と が き
代表 高森 一徳
 今回お寄せいただいた手記の数は、三十六編でした。(表)
  これまでに延べ一、〇二六編の手記を拝見したことになります。
 特に四巻目くらいからは、編集委員の方々にお願いして、「共感できる手記」だけでなく、少数意見や異論も、記録としての価値があれば、手記集に選抜していただくことにしました。
 すると、同じような体験をした方でも、まったく違う感想や受け止め方をされているのがみえてきだしました。
 人の考え方は、その人の立場と考え方の癖と持っている情報で決まるのだと思います。何か問題が起こったとき、「自分が悪い」と考える方もあれば、「だれか(何か)が悪い」と考えたり、「運が悪い」と考えたりする方もあります。これは、まったく「考え方の癖」としか言いようがないものです。
 その人の立場と考え方の癖は、個性です。違って当然です。それらによって決まる考え方が違ってあたりまえです。それを認めなければ、対話ははじまりません。
 まず本音を公開しあい、それを通じて対話が始まり、情報が新たに増えることによって、私たちは考え方が変わったり、異論にも理解を示せるようになったりするのではないでしょうか?

 十年十巻を目指し、本音の手記を集めつづけたいと考えております。今後ともよろしくご支援ください。