油 断
トライやる・ウィーク 小林 良之
(三十六歳 中学校教師 兵庫県三田市)
 私は自宅のあった東灘区で被災し、家屋は全壊、公園での野宿生活、小学校での避難生活、人命救助活動やバケツリレーによる消火作業を体験しました。教師という仕事柄、勤務先の中学校では二千人にも及ぶ避難者への支援も微力ながらさせていただきました。多くの死を目前にしてきただけに、防災に対する思いは切実なものを持っています。
 兵庫県では中学二年生を対象とした「トライやる・ウィーク」を実施しています。学校を一週間離れ、地域の中に入っての体験学習を行うことにより、生きる力を育成するといった趣旨の下、各中学校と地域は互いに連絡を取り合いながら創意工夫を重ね、活発な活動が展開されています。これからの時代を担っていく中学生が、地域の人々と共に仕事をする中で、親しみのもてるつながりを築き、社会の厳しさやこれが自分たちの町なんだという意識を持つことは、人作りといった点でも大変重要なことです。
 私は中学校教師という立場から、直接この「トライやる・ウィーク」に携わってきました。商店での店頭販売や幼稚園での活動など様々な取り組みが行われる中、特に興味深い活動の一つとして、地域の人たちと一緒に町の中を散策しながらの『防災マップ作り』をあげることができます。自治会が中心となって計画されたもので、生徒たちにとっても忘れることのできない貴重な体験となりました。
 防火水槽・送水口の設置場所、公衆電話の場所と台数、緊急避難場所の確認等を行いながら地図に記載していきます。また、崖崩れの恐れのある危険地域も調査し、更に「こどもSOS」として緊急時に対処してくださる家々の調査へと広がりをみせていきました。
 この防災マップ作りには、市の消防署員や区役所の職員そして、東京都から視察団として神戸を訪れていた防災関係者も参加して実に有意義な取り組みとなりました。この活動は、新聞紙上あるいはテレビでも取り上げられ、「トライやる・ウィーク」の取り組みと合わせて防災意識の啓発としても広く紹介されることになりました。
 防災マップ作りを終えた生徒の一人が、「自分たちの住む町を知ることが、人の生命を救うことになるのを知りました」と感想を述べていたことが大変印象的でした。また別の生徒は、「共に活動した地域の人たちと町で出会った時、自然に挨拶ができるようになってとても嬉しかったです」と爽やかに答えていました。これこそ、人と人とをつなぎとめる心の在り方だと感じさせられました。
 教師として私が今できること。それは二十一世紀を背負っていく子供たちに、人の気持ちの分かる、そして人の痛みの分かる心を育んでいくことだと強く考えています。最後の最後はやはり心です。私自身が体験した震災での思いをしっかりと伝え、更に子供自身の人生の糧になってくれれば、多くの犠牲者の鎮魂となると強く信じています。あの日の記憶を風化させないためにも……。
 復興から新生へと新たな第一歩を踏み出し、神戸の町を更に世界に誇れる町にしていきたいものです。災害に強い町づくりは、災害から尊い人々の生命を守るだけではなく、人と人との強い絆をより一層豊かなものにしてくれます。さらにコミュニティーの充実が心のふれあいを培い、お互いの心の支えを育んでくれます。気心の知れた人間関係の構築こそが、いざという時の最善の救助を生み出すことを、今一度見つめ直す必要があると感じています。地域の一員として私も生きている、そして手を取り合いながら共に生活をしているという意識をお互いにもてるような町づくりを願ってやみません。
自 主 防 災 塚本 茂(七十歳 灘区)
 「あら、まあ、塚本さん」
 「???」
 突然に声をかけられて、私は咄嗟に返答ができなかった。そして、その女の人の顔をまじまじと眺め、しばらくしてやっと思い出し、「やあ、お元気ですか」と答えた。「今はどちらの方に」との私の質問に「今は姫路に住んでいるのよ」と、その老 婦人は笑顔で答えられた。
 時は平成十年の夏。所は私が毎月通院している中央区にある神鋼病院の広い待合室であった。
 翌年の平成十一年の夏も、この老婦人と同じ病院で再会したが、今度は神戸の震災復興住宅に入居されたとの由で大分に肥えられ、顔も丸くなってお元気そうであった。
 この老婦人は隣の町内にあった文化住宅の階下にご主人と二人で住んでいたが、阪神・淡路大震災で住宅が倒壊し四日間(九十六時間)生き埋めになった。火災を免れて奇跡的に隣家の老婦人と共に救出された。だが、残念なことには、ご主人は圧死の状態で発見された。まさに生死は紙一重であった。
 私は地区の防犯委員を約二十年間務めているが、この時に一一〇番に通報し生存者の救助を依頼したのは、他ならぬ私であった。
 震災当日より四日目の朝、この老婦人の子息が両親が生き埋めになっている文化住宅の前で断腸の思いで佇んでいると、「こん、こん」と二階が平家になっている倒壊した家の中から音がする。「夢か」とばかりに喜ばれて「生きとるぞ」と大声で叫ばれた。その声を聞いた私は、ご近所でただ一軒だけ通じている中村様宅の電話を拝借し、一一〇番を回して「生存者がいるので一刻も早く救助をお願いします」と頼んだ。そして誰か分からぬが合図の主に「今、警察に救助を頼んだから安心をして頑張れよ。あまり叩くと疲れるから無理をするなよ」と力づけ交替で声をかけ合った。待つこと久しく一時間あまり、八鹿町の消防レスキュー隊員と山口県警の機動隊員が駆けつけてこられた。正に地獄に仏であった。
 そしてその時に「こん、こん」と合図を送られていたのが、病院で再会した老婦人であった。
 思い起こせばあの震災当日、私宅の南の文化住宅の階下で母娘が生き埋めになり救助を頼まれた。当時私は兄が経営する建築業に従事していたが、会社の倉庫が全壊し大工道具が埋まって取り出せないので、素手で近所の人と壁土や材木を取り除いて必死の思いで掘り進んだが、娘さんはすでに死んでいた。残念で今でも忘れない。お母さんを無事に助けられたのが何よりだった。
 石屋川の大師堂から東は大火となり、生き埋めのまま焼死した人が多く痛ましかった。
 そこで神戸市は、大震災による水道管の破裂に伴う断水に備えて、グランドや公園等に百トンの水を貯蔵する耐震防火水槽を市内各所に設置し、消防ポンプ格納庫を作り、灘区内でも十一か所が造られ、消防署や消防団の後援で地区の自主防災や自治会が「神戸市民消防隊」を編成し、遅ればせながら非常時の火災に対する初期消火の対策を講じた。飲料水にも利用できる耐震水槽もある。
 そして平成九年から毎年、一月十七日の午前十時半を期して市内防火水槽設置個所で一斉放水訓練が行われた。
 震災後六年目の今年は、一月十五日に地区の小学生の避難訓練と地区消防団員や市民消防隊の消火訓練が実施され、私も参加した。
 翌十六日には一斉放水訓練が行われた。消防訓練には老若男女を問わず、消防ポンプの始動から一本で二十メートル分のホースの接続や、筒先を握って放水をする動作を、参加者全員が交替で自主的に練習した。
 私も毎年、老骨ながら自主防災の一員として訓練に参加するが、あの六年前の大震災が悪夢のように鮮明によみがえり、真っ赤な炎が脳裏をかすめる。筒先から勢いよく噴き出す水を力強く感じながら、「震災当日、ホースの筒先からは一滴の水も出なかった、そのときの悔しさは……」、消防署員の言葉を思い出して目に熱いものが湧く。このような悲劇は二度と繰り返してはならない。私等の町は私等の手で守らなければならないのだ。
 毎年、この日には消防訓練を通じて防災に徹する決意を新たにし、多くの震災犠牲者の霊安かれと祈る日である。
プレート 時本 みどり(三十四歳 主婦 東灘区)
 阪神・淡路大震災から、もうすぐ五年を迎えようとしていた一九九九年(平成十一年)の年末、全ての仮設住宅が解消した、というニュースが流れた。未曾有の被害をもたらした、あの震災の後、五年で仮設住宅が全て解消したというのは、復興のスピードとしては早かったのだろうか、遅かったのだろうか。
 避難所のラジオから、
 「神戸の町が元通りになるには十年はかかるでしょう」
 アナウンサーの声が聞こえてきて、絶望的な気分になったことを今でもはっきり覚えている。
 自分が生まれ育った大好きな町神戸が、一瞬にして瓦礫の山となり、廃墟になってしまった。町中がほこりで白くモヤがかかり煙っているように思えた。一年が過ぎた頃でも、まだ傾いた建物や、無人になった家などがたくさんあり、あちらこちらで解体作業が行われていた。瓦礫の山はあまり見かけなくなっていたが、その代わり空地だらけの町になっていた。
 ところが、それから二年、もうすぐ丸三年を迎えようとしていた、クリスマスの頃に、田舎の従姉妹がルミナリエの噂を聞きつけて家族で見にやって来た。従姉妹にしてみれば久しぶりの神戸、そして東灘の我が家の近くまで来たのは十年ぶりぐらいだったからだろう、道を歩きながら何気なく、
 「きれいな町やねえ。ここニュータウン?」
 と言われて私の方が驚いた。
 「この辺りは震災でほとんどの家がつぶれて建て直したから」
 と言うと、
 「あ、そうか」
 と思い出したように言った。私達には、ついこの前のことのように思える震災も、体験していない人達にとっては、すっかり過去のことになってしまっていた。
 あれから二年。空地はまだ残っているが、一見すると何事もなかったようなきれいな町並みになっている。モデルハウスのような家ばかりが建ち並ぶ町にはなってしまったが。仮設住宅のあった公園もきれいに整備され、子供たちの笑い声も戻ってきた。でも、いくら町はきれいになっても私自身は震災のことは忘れていないと思っていたし、忘れられることではないとも思っていた。家族全員生き埋めになったこと。多くの友人、知人の死、そして愛犬の死。今でも思い出すと涙があふれてくる。
 ところが十二月に入って『二〇〇〇年問題』のニュースが頻繁に流れるようになった時、自分自身の防災意識がすごく薄れていることに気が付いた。主人に、
 「乾電池あったっけ」
 「水と缶詰、少し買っといた方がいいかな」
 と聞いている自分がすごく情けなくなった。あれだけの震災体験をしていながら、非常時の備えが全くと言っていいほど、できていない我が家。たった数年でこんなに防災意識が低下してしまっていたのか。実際に震災を体験している私でさえこの程度の意識では、全く経験のない人達はどの程度のものなのだろう。
 震災後五年で起こった二〇〇〇年問題は、私にとってもう一度「防災」と言うことを考えさせてくれる良いきっかけとなってくれたと思う。
 私が子供の頃ノストラダムスの大予言というのが流行った。昨年(一九九九年)は、その年だったからというわけではないだろうが、トルコ、台湾をはじめ世界各地で震災や水害が多い年だった。毎日のようにテレビで映し出される被災地や被災者の様子があの日の自分と重なる。きっと、この人達の気持ちが一番よく分かるのは五年前同じ被災者であった私達のはずだ。
 あの日から五年の歳月がたち、町の復興が進むにつれて、人々から震災の記憶が薄れてしまうのは仕方がないことだろう。でも、町がきれいになり仮設住宅がなくなってしまっても、私達被災者には忘れずに伝えていかなければいけないことがあると思う。生命のはかなさや、大切さ、地震(自然)の恐ろしさ、人と人とが助け合うことのすばらしさ、次の世代を担う子供たちに、しっかりと伝えていかなければいけない。もちろん防災の大切さや知識もだ。
 一月十六日、東遊園地にできたという「慰霊と復興のモニュメント」を見に行った。亡くなった知人の名前のプレートを指でなぞっていると、自然に涙が出てきた。「あなたたちの死を無駄にしないように、私達がこの体験をしっかりと伝えていきますからね」と、私はモニュメントの前で誓った。誰もが考えていたよりも町の復興は早かったかもしれない。でも復興と共に薄れていく震災の記憶を語り伝え残していくことが、私達被災者のできる震災復興の一つではないかと思った。
携 帯 電 話 近田 育美(三十二歳 会社員 垂水区)
 もう、阪神大震災から五年も過ぎてしまったのです。
 きっと、体験した人々以外の地震への記憶は、心の奥底に沈んでしまっていることでしょう。思い出すこともほとんどないのではないでしょうか? 阪神大震災を体験した私でさえ、思い出すことが、少なくなっているのです。それは、時間の経過とともに当然のことだとわかっています。しかし、そのことが本当に良いことなのか、悪いことなのか迷ってしまいます。言葉を言い替えて表現するならば、人々の心の中も復興が進んでいるということなのでしょうか?
 私自身ほとんど普段の生活の中で、震災のことを思い出すことはありません。それだけ、以前の生活に戻っているということだと考えています。もちろん、いつまでも「大変だ!」と言っているわけにはいかないのですから当然です。
 私自身震災のことを忘れているのではありません。なんとなく、無意識のうちに頭の中から消そうとしているような気がします。もちろん、体験したことによって人間的に成長したことも多くあります。しかし、敢えて苦しみを体験する必要もなかったのではないでしょうか? そんな心の葛藤が今の私の中にはあるのです。ここ数年間の私は、毎日の忙しさに今までの自分自身を取り戻してきました。大きな被害を受けたわけではないので元の生活に戻るのにさほど時間もかかりませんでした。しかし、元の生活に戻るとともに、変化していく自分自身に気づきました。
 それは、夜です。世間が明るい昼間には、全くないことなのですが、夜になると自分自身でも分からないのですが、「ドキドキ」するのです。それも、布団に入り、今から寝ようとするとそうなるのです。一体自分でもどうしたのか分かりませんが、毎日毎晩心の中で「ドキドキ」しています。眠りに入るまでの意識がある間、「このまま、箪笥が倒れてきたら?」「ひどい揺れが起こったら?」「生き埋めになったら息はできるのだろうか?」……等々、色々なことが、走馬灯のように頭の中を駆け巡って行くのです。それも、同じ事を毎日繰り返しています
 「台湾大地震」を伝えているニュースの中で、生き埋めになっていた人が助け出されたというものがありました。もちろん、とても喜ばしいことで、大変うれしいことでした。助け出された理由が二つありました。一つは、うまくアルコールの入ったビンを数本見つけたということ、もう一つは、携帯電話が見つかったということでした。人間は、水なしでは生きていくことはできません。
 しかし、このニュースの中で私自身に衝撃を与えたのは、携帯電話でした。今まであまり必要性があるとは思っていなかったのですが、このニュースにより私自身に衝撃が走ったような気がします。その時から、私は、寝るときに頭のところに荷物を置いただけでは、寝ることができなくなってしまいました。そうなんです。携帯電話を手の届く範囲に置いておかなくては、寝ることができなくなってしまったのです。「もし、このまま又ものすごい地震が起こったとしても電話さえ手の届くところにあれば、助けてもらえる!」と思えるのです。そのことによって、夜の暗さに不安を覚えていた私自身に安心感という、心のゆとりができました。その半面、携帯電話が枕元になければ、どんなに寒くても、どんなに眠たくてもいそいで取りに行かなければ眠ることさえできません。
 年々、心の葛藤が色々な形で現れてきます。しかし、それを隠したり、わざと押さえつけるようなことは、止めようと思っています。あるがままの自分自身を受け止めながら人間として成長していきたいと思っています。
街並みが、震災前以上に元に戻る頃、私たちの心の中も落ち着きを取り戻してくるような気がします。
残 り 湯 四津谷 薫
(四十四歳 職業訓練生 西宮市)
 「水を下さい」。阪神大地震の翌日、神戸商船大学の校庭に大きく書かれた言葉である。
 これは取材のために無遠慮に爆音を発しながら何台ものヘリコプターを飛ばすマスメディアへ抗議の意味もあったかもしれないが、それ以上にすべての被災者の切実な願いであった。
 時の経過とともに、近隣の市町村、他府県からの給水車が来てくれるようになった。私たちは二十リットルのポリタンクを自転車に乗せて毎日給水車を求めて走った。
 自宅にポリタンクを運び入れると、そのままでは使いにくいので二リットル入りの広口のペットボトルやヤカンに移し替え、手を洗う場合や、食材を洗う時はそれを家族で持ち合って使った。
水を手に入れる苦労に直面して、昨日までの水道の便利さと、空気を吸うように無意識にその便利さを享受していたことを改めて感じていた。
 そして、洗濯や掃除、水洗便所の流水などには、風呂の残り湯などを利用したいと思うのが被災者の普通の感覚である。
震災経験者の教訓のひとつとして、地震直後から、「風呂の残り湯は栓を抜かずに置いておけばよかった」ということがよく言われていた。数日あるいは二、三日の量にしかならないかもしれないが、せめて残していれば、という被災者の思いだったのだろう。
 しかし、これは、風呂の残り湯を残さなかった被災者の言葉なのである。
 震災当時、私は西宮市の戎神社近くに一人で暮らしていた。実家も市内の国道二号線沿いの西の端にあり、いずれも震度七の激震を体験した。
 私の部屋の風呂はユニットバスで換気扇も窓もなかったので、室内に湿気をこもらせないために湯船を使った後は、必ず栓を抜いて水を落としていた。
 一月十六日の夜もいつものように湯船の湯は流してしまっていた。そして翌朝、未明の大地震である。
 夜が白みかけて、自分のいた建物の無事だけを確かめて、部屋中シェイク状態の惨状はそのままにして、とりあえず自転車で十分の実家へ帰ろうと思った。実家がどうなっているかが分からないので、自室のトイレで用を済ませた。そして何げなく水を流した時、流れ終わりの「ゴー、シュ、シュ」という乾いた音ではじめて断水を知った。流しの栓をひねっても申し訳程度に数滴の水滴が落ちてきただけ。部屋中に撒き散らされた、昨夜作ったホワイトシチューの海を、玄関ドアまでの足の踏み場だけでも拭きとっておきたかったが、雑巾を湿らせる水もなかった。
 「せめて風呂の残り湯を抜かずに置いておけば」と思ったものである。
 実家は後日、西宮市から「半壊」と認定されたが、東灘区のマンションで被災してその日のうちに徒歩でやってきた兄一家三人を含めて一緒に住める状態ではあった。台所の一角を整理して食事のできるスペースをつくり、寝る部屋のガラスや瀬戸物の始末をした。
 一方、その日のうちにトイレの問題が生じた。実家のトイレは「建物の外側の配管が、どうも地震で壊れたみたいやわ」という母の言で、便器を使うことは自粛し、その先の下水の本管に出る直前の敷地内のマンホールで用を足す事にした。
 マンホールだから何回分か溜められるとしても、それでも何度かに一度は流さなければいけない。その水は汚水でいいが、その汚水さえないのである。「風呂の水は?」と母に聞くと「底から十センチくらいしか残ってないんよ。おかしいやろ」と言う。
 母はいつも洗濯の予洗に風呂の残り湯を使うので栓は抜かない。現に栓は抜けていなかった。ステンレスのバスタブが壊れた様子もない。しかし、水は底から十センチ程しか残っていないのである。
 東灘のマンションの七階で被災した兄が「そういえばうちの脱衣室から洗濯場のあたりにかけてが一面水浸しやった。あれは風呂の水やったんやな」と言った。
 そのとき、はじめてあの揺れの中では湯船の水はほとんど洗い場へ飛び出してしまうらしい、という事実が判明したのである。

 つまり、風呂の水を残さなかった被災者が「風呂の残り湯を残しておけばよかった」と言っても、あの震度七の揺れの中では「風呂の残り湯」はほとんど「残らなかった」のである。
歩 く
小さな一歩 白倉 貴子(三十二歳 主婦 西宮市)
 五年たった今でも、あの地震はいったい何だったのかと思う。地理的なことを説明されても、「神様のなされたこと」という牧師もいたけれど、どうしても納得ができない。今でも地震に対して、言いたい不満や「どうして?」と思うことばかりだ。
 戦争ならば相手国や人々を憎しみ、事故や事件ならば加害者を……。しかし天災には怒りをぶつける所がなく、自分の中で消化していくしか方法がないような気がする。今までの手記の中には、力強い思いを書かれていた作品や勇気づける内容の作品もたくさんあったが、そこに辿り着くまでの思いは、どんなだったのだろうかと思う。
 平成十二年一月十四日、仮設住宅に住んでいた方の全ての引っ越しが終わった。地震から五年ということもあって、新聞やテレビで取り上げられている。以前私は手記集の中で「もう三年なんだ」と「まだ三年なんだ」のごちゃまぜの気持ち、と書いたのだけど、今の私の中では「もう五年」という気持ちに移っているようだ。あの頃「今、見ている全てのことは、一生忘れないだろう」と「この怒りは終わらない」と思っていたのに……。
 平成十年の年末に、私たちの住んでいた仮設住宅の取り壊しがおこなわれた。自分の住んでいた家が取り壊されるのを見るのは、これで二度目だ。ここには一年も住んでいなかったけれども、やはり壊されるのを見ていると、「確かに私達はここで生活をして、今後のことを考える重い毎日を送っていた」、その思いのある仮設がなくなるというのは、一部ほっとする所もあり、淋しい思いもあったり複雑だった。
 今ではテニスコートとして地震の前の姿になっていて、人が住んでいたと思わせる物は何も残っていない。そこは大きな仮設住宅地と違って、ボランティアや支援物資も少なかった。「同じ被災者でも扱いが違う」と感じたことがあったけど、自分で立ち上がらないといけないんだという強さの根っこを植えていたように、今では思えるようになった。
 毎年、自分の気持ちを素直に書くということで、形に残してこられたのは前進する大きな力になっていた。私のこの五年間は、毎日が小さな一歩だったと思うが、いつの日か自分の歩いてきた道は間違っていなかったと言えるまで、登り下りしながら一歩ずつ進んでいきたい。
旅 立 ち 守田 基師子
(五十六歳 話し方教室主宰 須磨区)
 震災から丸五年が経過した。今でも震災時の恐怖が、まざまざと蘇って来る。只々夢中で駆け抜けて来た。
 以下は、私自身の五年間の記録である。
  一年目
 地震発生時は、三宮にいた。九死に一生を得、余震の恐怖と寒さと食糧難から逃れ、大阪郊外の娘の恩師宅に身を寄せた。途中の大阪の町で、分厚いコートに身を包み、楽しそうに行き交う人々が、私には、異星の人に見えた。
 十日後に初めてお風呂に入った。その日から恐怖心が少しずつではあるが、減少していった。三カ月の避難生活の最中も、娘の看病、神戸の家の片付け、そして家探しに奔走した。夏にやっと加古川で仮住まいがはじまった。
  ニ年目
 この年は娘の病との闘いで明け、闘いに暮れた。あまりにも辛く、さらけ出せるまでに、かなりの年月が必要であった。アトピー性皮膚炎の治療でステロイド剤を使用した。その副作用で症状が悪化し、全身の皮膚がざくろの様に割れ、血と膿が噴出し、衣類も布団もドロドロになった。この時、家中の鏡をすべて隠した。
 娘の苦しみは、次の言葉が全てを物語っている。
 「全身を何万、何十万のミミズが一日中這い回っている。早く殺して!」
 しかも、更なる苦しみが娘を襲った。いつの間にか精神に異常をきたし、娘と家族と自らの命を守るため、刃物が家から消え失せた。必死にもがき苦しんだ。出口が見つからず、精神医療の手を借りることとなる。この年、三月に父を亡くす。
  三年目
 まさに、闘いの日々であった。死さえ覚悟し、諦めかけたこともあった。我が子の苦しみがなければ、多くの苦しむ人の姿を見ることもなく、声を聞くこともない、薄っぺらい人生で終わってしまったのではないかと思う。
 日本の精神医療は、あまりにもひどく、患者と家族は、人間としての誇りを奪われてしまう。これからの年月をかけて精神医療の現場に、人間としての誇りを取り戻すため、努力を続けたい。
 九月に、ささやかな住まいを得て、、神戸市に戻る。昨年の父に続き、母を亡くす。
   四年目
 苦しみの中で、何かに打ちこむ事がなければ、恐らく、潰れていたに違いない。
 市民運動に、初めて参加をした。震災前から疑問を感じていた神戸空港建設の問題である。
 これ以上の自然破壊、環境破壊、負債の増大を傍観せず、今、ストップする勇気を、政治家も企業も市民も持たないと、地球は破滅に向かうだけである。今あるものに感謝して、これ以上の過度の豊かさを求めない方向で生活を見つめてゆくのが、人としての生きる知恵ではないか、と考える。
 その結果、ある決心を固めた。昨年の記録集(第五巻)の『立候補宣言』にもある様に、神戸市議会への挑戦を試みた。「市民からかけ離れた議会を、少しでも身近に感じて貰いたい」との思いと、「ずぶの素人が挑戦する事で、無党派の人々に投票所に足を運んで貰いたい」との思いからだった。
 選挙にまつわる数々の出来事は、驚きと、不安と、怒りと……、いろんな思いが交錯する、不思議な体験でもあった。
 スタッフと事務所探し、リーフレットやチラシの作成、支援してくださる方へのメッセージの依頼、知人を通しての支援者名簿の作成、紹介者用ハガキの作成、ポスターの作成、選挙カーの手配、看板の作製、選挙広報の原稿作成、新聞広告の依頼、選挙用名刺の作製などなど。
 素人の私には、気の遠くなる様な作業の数々で、お金の問題が常についてまわり、時として、大事な人間関係まで壊してしまったこともあった。
 病気を少しずつ克服しようと頑張っている娘も気になりながら、告示直前には夫が倒れ、入院し手術した。告示前に立候補辞退を真剣に考えた。
 その後も選挙カーが傷つけられたり、事務所のポスターの貼り方で警察から呼び出しを受けたり……。
 マイクを持ち、多くの方に呼びかけ、真剣に訴えながら、歩き続けた。
 結果は落選。決して甘くはないとは判っていたが、これ程、市民の考え方が変わらないとは予想しなかった。しかし、いかに地道な運動が必要であるか、日常の生活で市民と行動を共にしてゆくことの大切さを、痛感した。
 あれから約九カ月、今までの人間関係が大きく壊れてしまった部分も、決して少なくない。直後はいろんな思いもあったが、それも自らが招いた結果でもある。
 この十月、ご縁を頂いて、娘は結婚した。親子共々、一時は諦めていた、新しい生活を琵琶湖のほとりで送っている。
   五年目
 平成十二年一月十七日、私は早朝四時半に家を出発した。五時四十六分のあの瞬間は、中央区の東遊園地のメモリアル会場で、大勢の人と、鎮魂のロウソクに灯をともした。涙が溢れて止まらない。その後、会場近くに建設されたモニュメントの地下に刻まれている、亡くなられた方々のお名前に、お会いしてきた。今こうしていると、被災者とはいえ、私はまだまだ、恵まれている方かもしれないと思う。
 その後、神戸港、北野町界隈、新長田、菅原市場、東灘区へと、カメラ片手にノートを持ち、一日中(十三時間をかけて)歩き続けた。どれだけの人と言葉を交わしたことだろう。物好きなマスコミが来たと間違われたこともある。四国から来られたお父様は、
 「息子は神戸の大学に入り、喜んでいたのに、下宿で下敷きになってしまった」。
 思い出を語られる、ぬくもりのある優しいお顔が、とても悲しげだった。
 菅原市場でお店を開いていらっしゃる奥様は、
 「立ち退きを迫られている。しかし、今の土地から五坪ほど、市にただで取り上げられるし、今でもお客さんは減っているのに、やっていけるのか。大変不安です」と、言っておられ、苦しみが続いている現実を話してくださった。
 毎年この記録集に登場される中村専一さんのお店もたずねた。JR新長田駅から歩いて三分程の所にある。お店の外壁には、つたの葉がびっしりと巻き付いている。つたについて尋ねると、中村さんはしみじみとおっしゃった。
 「何でこれを植えたか判る? 私達被災者はこれしかないんよ! 歩く? 登る? そんな生易しいものでは、生きてこられなかった。壁にへばりついて、必死でここまできたんよ」
 私が、今年こうして歩き続けたのにはわけがある。娘の結婚で、やっと娘を送りだし、ホッと出来たのか、今までになく、震災について、見つめなおしたいと強く感じたからだ。これからも、時々、歩き、私なりに何かの形で、残したいと思っている。
 また、今年は、日本全国を時間の許す範囲で旅を続け、各地の人と語り合い、日々の暮らしの問題を、どんな風に政治と結びつけ、活動をされているのか、学んでゆこうと思う。
 先日の吉野川の可動堰建設に反対する住民投票のお手伝いにも、行って来た。日本全国から応援に来ていた。神戸市の運動は、なぜ一枚岩になれなかったのか……。
 地震直後に体と心に感じた痛み、娘の病との闘いで得たもの、選挙で候補者として得たもの、まだこれから、経験するであろう多くのことを活かしながら、少しでも周りの方と、喜びや、悲しみを共有できる人でありたいと願っている。
 坂村真民さん(高校の先輩・宗教詩人)の「念ずれば花開く」という言葉が好きだ。その生き方を後輩の一人として、まっとうできれば幸せである。
 皆様の心安らかなる事を念じつつ、明日からまた、ゆっくりと歩き続けたい。
神戸を歩く 山中 隆太
(四十歳 マーケティング・コンサルタン 東灘区)
 あの日の記憶がどんどん薄れていきそうな気がした。体のどこかにくさびを打ちこまないと流されそうで、この時期に何かしようと随分前から決めていたような気もする。一月十六日こうべiウォークに参加した。
 鷹取の大国公園から三宮の東遊園地までの約十キロ。神戸の表と裏を自分の目で確かめることにした。最初は一人で行くつもりだったのだが、母が一緒に行くと言い出し、前夜には九歳の娘も自分を試すために行きたいと言い出し、結局、親子三代で歩くことになった。その時は世代の違う三人で歩くことにそれ程の意義を感じてはいなかった。
 当日の天候は曇り時々小雨、少し肌寒い朝だった。十時過ぎに大国公園に着くと、既に大勢の人達がつめかけており、反響の大きさをなぜかうれしく感じた。今にも山を登り始めそうな重装備の人、ウィンドーショッピングと同じ感覚の厚底靴の高校生。ベビーカーを交代で押す親子連れ。目の不自由な人、その手をひく人。しかし世代も国籍も超え、歩く目的はたった一つである。
 まず受付で募金をし、ガイドマップと白いリボンをもらって私たちもスタートした。土地勘がないので道を間違えないか心配だったが、まるでアリのように連なって歩く人の群れに、そんな不安も吹き飛んだ。それよりも曲がり角にボランティアの人達が立っていてくれ、一人一人におはようございますと声をかけてくれる。体は寒いが心は温かかった。きっと歩くよりじっと立っている方が大変だろう。そう話しながら私たちはそれぞれに会釈を返した。大正筋を下ってアスタくにづかへ。国道二号線の地下道の震災展示を見て、改めてこの辺りの悲惨な状態を知る。崩れた建物の写真を説明しても娘はほとんど覚えていないようだ。しかし小学校の炊き出しなど断片的には記憶に残っているらしい。娘の薄れかけた記憶を、こうして引き戻す作業が、私の務めなのかもしれないと思った。
 しばらく東進すると昔の下町を感じさせる丸五市場へ。スーパーのパックされた魚しか知らない娘には、ピチピチはねる魚がよほど面白かったらしく、なかなかその場を離れようとしなかった。母が昔の魚屋さんはみんなこうだった、と孫に話しかける。タイムスリップしたような不思議な空間だった。
 娘が「FMわぃわぃ」に寄せ書きをし、その傍らで母は市場の人達と談笑した。一人より三人、それぞれが何かを感じとりながら次のスタンプポイントへと歩を進めた。やがて神戸に居ながらテレビの映像でしか見たことのない場所、菅原市場周辺にたどり着いた。
 まるで次の一手が打てない碁盤の目のようだ。整地されてはいるが、まだ建物はまばらでここだけ違う風が吹いているような気がした。遅々として進まない区画整理を目の当たりにし、五年を経て、広がり続ける復興の格差が目に焼きついた。そしてシャッターを閉ざした菅原市場を通り抜ける。そこここに掲げられた相田みつを氏の詩だけが、希望を持って一歩ずつ進むことを語りかけているようだった。
 破壊された土地に残されたものが新たなコミュニティをつくるには、あと何年かかるのだろうか。たった数十秒の揺れは、人々が何十年もかかって築きあげた絆を、いとも簡単にばらばらにした。お隣の顔もわからない大都会のように、心の距離も離れていくのだろうか。そうではないことを願いたい。
 途中に休憩地点がいくつか設けられ、温かい飲み物をいただいた。こんなに何度もありがとうと口にした日はなかったような気がする。忘れていた大切なものは、いつも自分を突き動かしてくれる。情報化の波の中、そこに行かなければ手に入らないものが、まだまだたくさんあることを思い出した。ほんの小さな収穫の積み重ねが、足の疲労を忘れさせた。
 ふと時計を見ると十二時をまわっていた。まだ半分も来ていない。完歩してから昼食をとるつもりだったが、娘もお腹をすかしており雨も強くなり始めたので新開地で昼食をとることにした。体力が少し回復したところで湊川神社へ。同じように休憩した人が多かったのか、白いリボンが参道を埋めていた。神戸地方裁判所を経て元町通へ。
 あと二キロの案内にほっとしたのか、母の口元がほころんだ。商店街を歩いていると、この辺りに震災を記念したレンガを埋めたことを思い出した。少し探すと足元に娘が四歳の頃書いた絵と、一緒ならきっといいことがあるという気持ちを込めたメッセージを見つけた。娘はしばらく自分の絵をしゃがみこんで見ていた。
 震災を忘れないでほしい。一緒に生きていこう。そんな思いが娘の心に届いただろうか。三宮センター街を経てゴールの東遊園地に着いた頃、時計は既に三時を指していた。十キロ先のゴールは目標でしかなく、本来の目的は神戸のそして震災の現実を体に刻みこむことだった。だから思いのほか時間がかかってしまったのだと思う。ふくらはぎに残ったこの日の痛みは、薄れていく記憶への代償か。いずれにせよ年々遠ざかる一月十七日を、足の裏で感じた意義は小さくはないはずだ。ゴール周辺に広がった参加者の安堵の表情は自分自身への褒美だろう。どの一つも輝いていたように思う。
 感想を記すノートに娘はこう書いた。「いっぱい歩いてとてもつかれました。いろんなことがあったけど、自分の力だめしになってとても楽しかったです。神戸は今でもきれいだけど、もっときれいになればいいと思います」。三年生なりに神戸を思っていてくれていることがうれしかった。そして足を引っ張るのではないかと、娘の参加を拒んだ前夜の自分を恥じた。この五年で人間として一番成長したのは、母でも私でもなくこの子なのだと。来年は誰を誘おうかと話しながら、私たちは家路についた。
友好と信頼 方 政雄
(四十八歳 高等学校教員 伊丹市)
 一月十七日の夜明け前の暗闇の中、ドドンという地鳴りとともに私の家も例外なく机や家具をはじめ家中の物が狂ったように躍りだし、そして崩れ、倒れてきました。叫ぶ家族たちの中で、私も「落ちつけ、落ちつけ」と自分に言い聞かせるように叫びながら、身に降りかかった突然の事態をすぐには理解できませんでした。激しい揺れが続く中、一家が死ぬというのはこういうことなのかという、変に納得した思いが頭をよぎりました。
 揺れがおさまり、あたりに散らばっている服を引っかけ、まだ暗い外に出ました。その時、やはり関東大震災の朝鮮人虐殺のことを考えていました。
 「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「火をつけまわっている」という流言飛語が飛び交い、普通の人々によって六千人もの朝鮮人が殺されたという七十年前のあの出来事のことでした。襲われるのではないか。今にも玄関の戸を打ち破り、手に手に石や棒を持った日本人の集団が上がり込んできて、家族が皆やられるのではないか。鳥肌が立ち、戦慄が走りました。
 そのような恐怖と、そんなことは今あるはずがないという信頼感の入り交じった気持ちが、近所のみんなが集まっている場所へと私を急がせました。気がつくと私や家族がこの日本人の中で孤立しないように、進んでみんなの話題の中に入っている私の姿がありました。
 朝鮮人に対する蔑視や偏見、そこから生まれる差別意識というのは今は昔のように表面的には露骨に現れません。「人」を大切にする人権意識も進み、多くの人の人権に対する見方や考えが、当時とは比べようもないくらい高まっているようにも思います。だから、朝鮮人に対する蔑視差別というのは普段あまり意識することはありません。
 しかし何かのきっかけがあれば、潜在的な差別の意識が突如浮かび上がってきます。それは朝鮮人と具体的に向かい合う時や、自分と利害関係が直接からむ時に浮上してきます。たとえば自分や身内の結婚相手が朝鮮人であると分かった時や、交通事故の示談の相手が朝鮮人であったり、また隣に引っ越してきた人が朝鮮人であったりした時です。
 「あ、朝鮮人か」と思い、利害がからみ関係がこじれると「朝鮮人のくせに」という考えが生まれ、更にエスカレートすると「チョーセンになめられてたまるか」などという思いが沸いてきたりします。つまり突き詰めて言えばそういう人達が私達朝鮮人を取り巻いている隣人でもあるわけです。もちろん、私達とともに歩んでくれる、心ある日本人の友人が大勢いることも知っています。
 私はこの大震災という非常事態の中で、朝鮮人に対する悪質なデマが流れ、その日本人の差別意識が浮上し、自制心が崩れ、パニックに陥り、襲われるのではないかという危機感を持ったわけです。しかしそれが私の思い過ごしであったことが分かるまでには、それほど時間は要しませんでした。と同時にこういう思いを持った朝鮮人は私一人ではなかったということも、後の報道などからも明らかになっていきました。朝鮮人に対して関東大震災の時のようなパニックに陥らなかったのは地震直後から震災関係の報道が次々と入り、住民が冷静な判断力を保てたことが大きな要因の一つであったと思います。
 この大震災で朝鮮人が多く住んでいる神戸、その中でも特に大火災に見舞われた長田区の零細工場や住宅の密集地帯で、同胞に多くの死者が出る大惨事となりました。しかしそのような苦しい中にあっても、朝鮮の伝統的美風である相互扶助が見られました。また国境を越え、同じ地域に住む住人としていたわり、励まし合っている姿が多く見られました。近所にありながらも訪れることのなかった朝鮮学校で、今は朝鮮人と一緒に力を合わせて助け合い、避難生活を送っている話も聞きます。また各地の民族団体から南北の壁を越えて、連日救援物資が送り続けられ、トックッ、チヂミ、焼き肉など、朝鮮料理に空腹をいやし、体を暖め、舌鼓を打ったのは国境を越えた、地元地域に住んでいるすべての人でした。
 そして今、瓦礫の中で等しく被害を受けた住民として、町の復興を目指し、人としてともに生きていくまちづくりに協力し、手を携えて取り組んでいる姿があります。将来、日本に住み続けているであろう在日朝鮮人の子孫達が、私が「恐怖と危機感」をもって関東大震災を思い返した感情ではなく、「いたわりと助け合い」の阪神大震災が思い返せるように、これからも日本人と在日朝鮮人との友好と信頼関係をより深めなければと、今改めて思っています。
 *筆者注 ここでいう「朝鮮」とは朝鮮半島全体を総称しています。


お わ び
この作品は、第五次手記募集の優秀賞に選ばれた作品ですが、編集のミスで第五巻への掲載漏れとなりました。
筆者の方政雄さんと、ご推薦を頂いた山田敬三先生に、心よりおわび申し上げます。(代表 高森 一徳)
現 場 か ら(寄稿依頼文)
経験の共有化 まち・コミュニケーション
代表 小野 幸一郎
 略 歴
1967 神奈川県生まれ
7986 県立大磯高校卒業
1986-
1989
民間国際交流団体「ピースボート」のスタッフを務め、「アジアクルーズ」「日本一周原発クルーズ」等の企画・運営に携わる。その後、築地市場・NTT販売店・印刷業等の職業を経験しつつ、個人的に「登校拒否問題」「ダイヤルQ2問題」「不法就労外国人問題」等に関わる。
1995 阪神・淡路大地震から一週間目に、有志やピースボートと共に神戸市・長田区に入り、生活情報かわら版「デイリー・ニーズ」を発刊。同年7月より「すたあと長田」に参加、96年4月から同グループ編集・発行の「ウィークリー・ニーズ」編集長を務め(98年3月休刊)、またコミュニティFM局「FMわぃわぃ」の番組のディレクター兼DJを務めた(98年2月まで)。
1996.04 「阪神・淡路大震災まち支援グループ まち・コミュニケーション」を設立。
2000.04 震災の経験を生かしたヒューマンスケールのまちづくり支援を目指して組織改編。現在代表を務める。

 私は、この日本という国では、社会に大きな影響を与えた何かしらの「事件」の経験を、未来に生かすということは、いまだかつてなされたことがないのではないかと思っている。だから、私が最も関心を寄せるのはそれをなすためには何が必要なのかということであり、それを実現するために、私はできる限りの力を注ぎたいと考えている。
 唐突だが、これが本稿の結論であり、目的であり、読者の方にこの場を借りて問いかけたいことなのである。それを考えることが「阪神・淡路大震災」に関わった者としての責務だと思う。

 ○ 中途半端な被爆二世が考えたこと
 私の母は長崎で原爆によって被爆した。だから私は被爆二世ということになる。
 私の父は大分の人で、これだけ書くと私はこてこての九州人ということになるが、私の出生地は神奈川県横浜市で、私は九州では生活したことはない。つまりは典型的な「出稼ぎ夫婦」の息子である。
 一九四五年八月九日に長崎市内に投下された原爆「ファットマン」は七万四千人におよぶ死傷者と、数え切れきれない放射能被爆者を生んだ。私の母は投下地点からおよそ一・五キロメートル近くの所で被爆したにもかかわらず、一命をとりとめた。失ったものは母親と弟と左手の指数本、そして決定的に変わったものは彼女の「それからの人生」であった。
 子供の頃、寝物語で母は私に何度も被爆直後の惨状の話をした。おかげで私の脳裏にはそのときの情景が今でも浮かぶ。もちろん私が勝手に想像したものであるが……。不条理な自分の体験を、息子に語らずにはおけなかったのであろう。
 また、自分の痛みを共感してくれる相手が欲しかったのでもあろう。必然的に私の中では随分早くから「被爆二世」という自覚が芽生えたが、そのことを共有できる相手が当然ながら周りにはいなかった。長崎から神奈川に出てきた母は、相当寂しい思いを抱いたに違いない。
 昨年(一九九九年)、久々に原爆投下の日に長崎に行った。そして以前から感じていた違和感を今回も感じた。「核兵器・戦争のない世界を祈ろう・訴えよう」、「あの時を忘れるな」、「経験を語り継ごう」……。それはその通りであるとは思うし、大切な事だ。しかし、被爆から五十年を迎えようとする中でスローガンは(やはり)それなのか?
私は、被爆者の痛みは、原爆投下直後の被害だけでなく、その後の生活状況をも視野に入れて考えるべきではないかと思う。そうでなければ、被爆後三十年以上も経ってから、被爆者であることを理由に自殺せざるをえなかった人達の現実は拾えない。
 原爆投下という現実を生んだのは戦争だが、その後の被爆者の苦境を生んでいるのは他でもない日本社会である。おまけに言えば、原爆を投下したのはアメリカだが、それを正当化させたのだって日本社会だ。
 母の兄は長崎で健在だ。被爆当時中学生だった彼は、「被爆者の悲願」である被爆者援護法が数年前に制定されたのを契機に、体験手記を書いた。その内容は寝物語の母の話より、遙かに詳細であった。その手記は、弟が死に、母親が死に、妹(私の母)が助かって、やがて避難所から出るところまでで終わっている。
 昨年長崎を訪れたおり、私は叔父にこの続きを書くか、もしくは聞かせてくれるようお願いした。答えはNOであった。
 「その後のことは、ひどくて公表できない。(結婚前の)私や私の妹に迷惑がかかる」という事であった。
 被爆とは何か、どういうことだったのかを、いまだ当事者は口を開けずにいる。その経験はその近親者ぐらいしか知る由もない。五十年たった今でも心の傷は癒えていないのだ。
 そして世論はそのことを直視しない。だから私はあれらのスローガンに違和感を覚えるのだ。月並みな言葉でただ祈るだけでは、「経験を生かす」為の、または「平和を創る」為の、人々の内発的・自発的なパワーを引き出すことは出来ないのではないか?

 ○ 島原、そして奥尻で考えたこと
 昨年からまち・コミュニケーションでは、「震災検証」のため、過去の災害被災地を訪問した。一つは一九九〇年に噴火と火砕流・土石流の被害にあった島原と、一つは一九九三年に震災と津波災害を受けた奥尻島である。
 二つの被災地に行って痛切に感じたことは、「山の経験は山に活かし、海の経験は海に活かす」ということである。
 一九九一年の雲仙普賢岳の噴火は、島原市と深江町に多大な被害を与えたが、その大きな特徴は、度重なる火砕流・土石流の被害である。大ざっぱに言えば、おおよそ三年にわたって、災害が起こり続けていた状態だった。噴火で生まれた火山灰が大雨が降る度に麓に大量に流れてくるのである。また、雲仙のもう一つの特徴は、被害を受けた地区の主要産業が園芸・農業・畜産であったことである。生活再建の上で、これら産業は当然のことながら密接な関係があった。
 他方、奥尻は津波災害の恐ろしさである。地震の直後に高さ二十メートルの津波が海岸部の町々を襲い、一瞬にして家を、人を、海に飲み込んだ。特に青苗地区は最も被害が大きく、四千人が被災を受け、百七十二名が亡くなった。
 奥尻の産業の中心は漁業。義援金による被災者支援メニューには、漁船への補助も盛り込まれた。
 同じ自然災害でも、当然のことながら雲仙と奥尻と、そして阪神では背景が全く違う。災害直後の支援体制やボランティアのあり方、また住宅・生活再建における施策のあり方など、共通点は抽出できるが、それでも私は、具体的なノウハウや教訓はむしろそれぞれの地域特性に鑑みる必要を強く感じた。それで「山の経験は山に活かし、海の経験は海に活かす」となるわけである。
 日本は山国であり、島国である。三千三百あるという自治体で同じ様な地域環境をもつもの同士なら、情報を共有し、経験を生かすことができるであろう。「災害」だからといって何でもかんでもひとまとめにしてしまうと教訓もぼやけるし、リアリティーも薄まる。人口が百万人のまちと数千人のまちとを同じ俎上にあげるのは乱暴であろう。
 しかし、南北双方の被災地で感じたのは、中央集権的、もしくは大・中都市的な社会システムを対象として発信される情報の弊害であり、またそこからくる歪みである。私自身が「都市から来た者」だから、よけいに感じたのかもしれない。
 奥尻でお会いした、個人の資格で犠牲者遺族の聞き取り調査をされている青苗地区の男性は、津波災害の教訓が東日本で共有化できていないことを嘆いていた。この五十年の間だけでも東北・北海道で津波災害が再三おきているからだ。当の奥尻でも過去に大きな津波災害があった。彼は大金を使って巨大な防波堤を作ることよりも、地震が来たら津波がくる自分たちの環境を自覚しつづける文化の必要性を説いていた。
 かたや島原でお会いした雲仙災害の際に活躍をされたNPOの方は災害時における全国ネットワークの必要性と地域社会との連携を語られた。しかし私自身は、もちろん視界は「全国」でよいとは思うけれども、重要なのは「全国のどこの誰と」であるかが重要であると感じた。東京で「全国」と言うのと島原で「全国」と言うのでは意味合いが違ってくる。東京や大阪で言う「全国」という言葉の中に、果たして「山岳地帯」はイメージできるであろうか?

 ○ 「自分のポジション」を自覚してこそ「経験」は活用できる−経験の共有について考えたこと
 以上のようなことを通して、私が考える「経験を生かす」ために必要な事は……。
 ・情緒的なヒューマニズムだけで物事を見ないようにする。「かわいそう」「大変」という同情タイプ、「社会のために」「平和の為に」「弱者の為に」という社会派タイプなどがあげられる。これらは行動をおこす上での基本であるが、基本でしかない。ボランティアと言えばまずこれらのタイプを想定されるのでボランティア=善人説が横行するわけだが、こういう価値観だけが全面にでてくると「本当の話」が見えにくくなる。
 ・自分の経験を「個人的な事」としてだけでまとめないようにする。人は往々にして自分の体験の意味を自分自身か、もしくは近親者・関係者の範囲内に見出そうとする。もちろんそれはそれで必要なことではあるが、下手をすると全ての出来事を自己完結的にまとめてしまう。純粋に個人的な事というのはあるだろうが、「私」という領域だけでケリをつけてはいけない話だって当然あるはずで、その分別ができないと今度は「全部、社会のせい」「全部、行政のせい」という思考放棄に向かう。
 ・自分を取り巻く社会について自覚ができるようにする。「社会」には、いろんなカテゴリーがあり、しかもそれは重複している。私たちは、何らかの社会に身を置いており、身を置いているということは「関係している」ということだ。「関係しているけど、関係ない」というのは、状況の問題でなくその人の意志と自覚の問題である。
 と、まあこんな風に考えてみたが、如何なものだろう? 
 では何故日本では「過去の経験を生かす」ができないのか? それは今あげたようなことがなされてないからではないだろう。
 では何故なされないのか? それはたぶん、そんなことを考える必要に迫られないからだろう。もしくはそういう教育を受けてきていないからだろう。
 私が、まち・コミュニケーションの活動を行っているのは、私自身が自覚している社会性に照らした結果によるものである(が、しかし財政的には全く社会性を逸脱している)。読者の皆さんは如何であろう? 「経験を社会に生かす」ことはその社会にいる一人一人の理解なしではありえないことではあるが……。
姫路こころのケアネットワーク 活動の記録
〜神戸から一番遠い仮設住宅〜
姫路こころのケアネットワーク 
代表 岸岡 孝昭
略 歴
1946 兵庫県生まれ
1995 阪神・淡路大地震の翌日、芦屋市に給水支援に入り、その後仕事を持ちながら、
ボランティア組織を立ち上げ現在に至る。

 一 はじめに

 姫路城が遠方に見える阪神・淡路大震災旧玉手仮設住宅の入り口に立つ。ブルドーザーが爆音をたてて、整地作業をしている。一九九九年七月二十六日に最後の入居者が退去してから、雑草が我が者顔に背丈ほどに生い茂り、掲示板に貼られたお別れ会のポスターが、今にも風に飛ばされそうに寂しく音を立てて揺れている。一週間もしないうちに更地になり何事もなかったように元の静けさを取り戻す。
 五年前に仮設住宅が建設されるまでは、周囲二、三百メートルには住宅もなく寂しい場所であった。今は、住宅が建ち並び、飲食店やコープもでき新しい町が誕生している。五年の歳月の流れを改めてかみしめながら目を閉じると、出会った顔が、浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
 最盛期には被災者が二百五十世帯も入居し、賑わったのが夢のようだ。この仮設住宅を中心に、姫路市内四ヵ所(約五百五十世帯)が私たちの活動場所であった。

 二 ボランティア活動との出会い

 地震の翌日、姫路市の職員として芦屋市に給水応援に行ったのが、私をボランティア活動に駆り立てたきっかけである。
 消火用水がなく、猛火で手のつけようのない火災現場、倒壊した家屋をぬうように逃げまどう人びと、幼い子どもを背負い持てるだけの荷物を持ち避難場所を探す夫婦、横転した阪神高速道路、鳴り響く何種類ものサイレンの音。この世の地獄が、強烈に心に焼きついた。
 また、一日遅れの救援と、お握り一つも持参できなかった愚かさが、罪悪感となり、傍観するだけでなく、「今、何かしたい」と自分の中でやむにやまれぬ思いが生じた。
 給水応援に従事しながら、芦屋市役所内へ避難した市民と関わり、手さぐりで、ただひたすらに話を聴かせていただいた。感情移入で泣き崩れることもあった。思いを共有し、相手の思いを全面的に受け入れるのに徹した。
 そして、同じ場所で同じ人との出会いを重ねるごとに、深まりが増してきた。そのような活動を繰り返すうち、自然な成り行きで、大阪の「こころのケア」のボランティア団体に入り、避難所訪問が始まった。
 団塊の世代のワーカホリックが、あの日からボランティアホリックへと変わった。活動への思いは多々あるが、「今、この時、なにができるか」の思いで行動することが責務と思い今日に至る。

 三 仮設住宅の概要

 震災では三十万人を超える人々が家屋を失った。これらの被災者は避難所生活の後、三月下旬から仮設住宅へ次々と入居していった。仮設住宅の形態は、一般的には2Kで、入ってすぐに台所があり、その横に狭いユニットバスがある。続いて四畳半と六畳の和室という間取りである。私たちのアンケート調査によると、家族構成は、独居世帯が四三%、夫婦のみの世帯が二七%、夫婦と子ども世帯が一三%、三世代世帯が二%であった。
 姫路仮設では壮年男性の独居が三〇%と多く、これらの人々は、年金を受ける年齢には達しておらず、震災で仕事を失い再就職も難しく、蓄えを取り崩し、なすすべがなかった。
 仮設住宅入居当初から、「孤独死」「アルコール依存症」「自殺」などの精神面の問題が指摘されていた。姫路仮設も壮年期男性の前記の症状と失業者の多さが目立った。
 入居時から、コミュニティー形成の重要さが叫ばれ、我がグループも自治会の立ち上げに関わった。しかし、仮設住宅住民は、既存の地域社会との連帯感が薄く、自治会役員が二次被害者になる。
 震災後五万戸に及ぶ仮設住宅が建設された。その一部は被災地外の加古川、姫路、大阪府下など神戸から遠隔地にある。これらの遠隔地に移り住んだ被災者の多くは、常に「早く神戸に帰りたい」という願望を抱き、行政の対応の遅さに苛立ち、攻撃の的をボランティアに向けるなど、被災地内の仮設住民とは大きな差異があった。
 最も西に位置する姫路仮設は、神戸からJRで一時間程かかるところにある。大小四カ所の仮設用地は、小学校建設予定地や、公園や、公共用地だった。姫路駅からも遠く、路線バスの回数は一日に数本で、便利な神戸市街地で生活していた住民の多くは不平不満の連続であった。時間と経済的な理由で、信頼できる通い慣れた病院をあきらめ、やむなく姫路市内の医療機関に変更した人が多かった。
 また、震災後、一年を過ぎると失業保険が切れ、神戸市内への再就職を望んだが、不景気と、雇用があっても遠隔地ゆえに採用されなかった人もいた。姫路市内での仕事は、仮設住宅住民ということで日雇いなどの仕事以外、みつからないという、厳しい環境であった。
 姫路市内の仮設住宅への入居は、九五年の四月中旬から始まったが、当初応募者は殆どなかった。そこで常時募集に切り換え、九五年十月頃には玉手地区以外の三地区は満室になる。不人気の原因は、神戸市街地への交通の不便さと西の遠隔地へ飛ばされる(追いやられる)という侘しさである。

 四 恵まれた仲間

 九五年の七月までは、週末ごとに東灘区の避難所を訪問し、四月下旬から入居が始まった姫路仮設へは平日の夕方、戸別訪問をした。最初は一人で戸別訪問するが、日増しに入居者が増え、限界を超えたので、仲間を募り、ピーク時には三十名を超えるボランティアが活動した。最初から関わった仲間は一人で、その仲間は今は休憩中である。時間の経過と共に活動内容も変わり、ボランティアの入れ替わりは致し方ないことである。継続活動の必要さを感じつつエネルギーを持ちつづける難しさを体験した。
 現在活動している仲間の活動動機は、様々である。被災地で活躍する若者に触発され参加した主婦、自宅近くの仮設住宅の住民が、誰にも看取られず「孤独死」し、死後二十八日経って発見されたとのマスコミ報道をきっかけに参加した夫婦、今年は、ボランティアをする年と皆で決め、参加した家族。
 また、職業も様々である。カウンセリングルームから現場へ活動場所を移した人、障害者施設でヘルパーとして活躍する女性、血圧計を片手に常に笑顔の絶えない看護婦さん、自治体職員で、行政の支援の行き届かない隙間を埋めようとする人。このような個性あふれる仲間が私たちのグループである。
 仲間のほとんどは、ボランティア活動未経験者で、先入観、固定観念を持たない素人集団である。震災後、グループを立ち上げ、日常的に被災者支援に関わったエネルギーは、活動した私たちも今もって理解できないところである。こうしたエネルギーを出すことができるのがボランティアなのだと思う。
 ・グループの決まりごと
 人間は潜在的に「人のために役立ちたい、何かしたい」という思いを持っている。同じ思いを持つ者が集まれば仲間ができ、グループが生まれる。
  「姫路こころのケアネットワーク」も「被災者のために何かしたい、関わりたい」という思いで活動が始まった。
 初会合で決まった活動方針は次の通りであった。
 ■ 主な活動は戸別訪問とする。
 ■ 十四の心で聴く(「聴」という字のつくりを上から順に読むと)。相手の話を肯定的に聴き、否定しない。
 ■ 「やることは、自分たちのできることだけ」と割り切る。手に負えない問題は、専門家のアドバイスを受けるなり、行政につなぐなりして、取り込まない。
 ■ 活動は強制しない。
 ■ 自己の行動には責任を持つ。
 ■ 活動に対して家族の理解を得る。家族の理解がないと人の話は聴けない。
 ■ 活動を生き甲斐にしない。相互依存に陥り、被災者の自立を妨げかねない。
 活動の初期には、仲間が自分勝手な思いで独走したり、他のグループから「私たちの縄張りを荒らすな」と嫌がらせを受けたりしたこともあった。その都度、活動からの撤退を考えたが、被災者の「見捨てないで。訪問を楽しみに待っているのに」の言葉に励まされ一九九九年七月二十六日に、最後の退去者を見届けるまで仮設住宅への訪問活動を継続できた。

 五 姫路仮設のでき事・思い・嘆き[活動記録集から抜粋]

 ・ 一九九五年
 四月十四日  仮設住宅で活動開始。戸別訪問。皆さん何者かと警戒している。冷静を装うが、緊張の連続で足が地につかないハイ状態だ。これでは話は聴けない。
 六月二十日  二カ所の大規模住宅とも入居がピークに達する。生活環境の急激な変化で多種多様な相談が頻繁にある。即答できないことは後日、調査して連絡する。
 雨上がりの住宅内通路はぬかるんで歩けない。
 七月十九日  十九歳の末子を亡くされた母親と面接中、突然、暗闇の中で手さぐりするような状態(フラッシュバック症状)に陥られる。とっさのでき事に、ボランティアのほうがパニックになった。
 七月三十日  入居一週間目の男性が亡くなった。自治会もなく私たちが会葬のお手伝いをする。
 八月十四日  アルコール依存症の女性患者を保護する。行政の福祉部門は関わりを拒否した。保健所の職員に連絡を取り、警察に一時保護をお願いする。民生委員の経験が役立った。
 九月八日  被災者の一言。「好き好んで姫路に来たのではない、行く所がなく仕方なく来た。島流し、姥捨山だ」。入居に対して愚痴ばかり。聴くのもつらい。
 十月四日  姫路では情報収集が十分でないので、神戸の「仮設住宅連絡会」に出席する。仲間の熱気に圧倒された(これ以降、情報の収集と現状の発信に奮闘する。気が付けば一年の内百日も神戸に行くこととなった)。
 十月十八日  隣人の安否確認が取れないと連絡があり、警察官の立ち会いで確認した(この頃から、仮設住宅内での孤独死が問題になりつつあった)。
 十一月十二日  姫路仮設でも孤独死。二十七日間も気付かなかったとは……。マスコミから「ボランティアとして……」とマイクを向けられ、言葉もなく落ち込む。「毎週二回は訪問していたのに、最悪だ。自責の念で一杯だ。今後も先入観を持たず、一軒一軒丁寧に訪問する」と答えるのがやっとだった。
 今は、ボランティアが仮設を支えている。行政の顔は見えない。二度と悲劇を繰り返さないために自治会、民生委員と相談し、各自が安否確認の方法と緊急時の連絡先を部屋の中に貼ることを申し合わせる。
 「何のための戸別訪問?」と、理解者である自分の家族からも厳しい一言。
 十一月十六日  凶器を振りかざし、「隣の七人家族の声で寝られない。天涯孤独だ。別荘(刑務所)に入れば食事の心配はいらない」と、息巻いている。やっとの思いで取り上げた。危機一髪の介入だった。想像を絶する治安。
 十一月二十三日  他グループから嫌がらせを受ける。ボランティア活動にも縄張りあり、新参者は場所代がいるのか? 理解できない。
 十一月三十日  立ち上げに関わった自治会の会長から言われる。「用事の有無にかかわらず一度は立ち寄ってほしい」。あてにされると居心地がいいが、相互依存に陥る危険もある。抜き差しならなくならないように、距離を取らなければならない。
 十二月二日  思いが通じ、神戸市の職員を仮設に招き住民交流会が実現した。発案者として、コーディネイトを引き受ける。事前調査で住民のニーズは把握済みだ。糾弾集会にならないように、「職員も被災者」だと説明したせいか、和やかな雰囲気で意見交換ができた(交流会を契機に担当職員が決まり以後頻繁な訪問活動が始まった)。
 人の弱みに付け込む布教活動が目につく。目に余る布教もある。成り行きを見守りたい。
 十二月四日  年末が近づくと借金の申し込みや、生活保護についての相談が増加した。当座の支援はする。保護申請は本人申請が原則と、距離を置くことにしているが、深く関わらなければならない人もいる。人を見て支援の強弱をつけることが必要だ。画一的な活動は意味がない。
 十二月十六日  毎日現場に取り組んでいる者の実感としては、学問は役に立たない。傷を受けた人は敏感である。愛されたら、それだけ愛せるようになる。
  未知のボランティア活動。試行錯誤の連続である。
 生活基盤の支援では、子どもが置き去りにされている。自分の気持ちをうまく表現できない子どもに関心を持たなければならない。不眠、赤ちゃん返り、音に対する異常な反応、虐待などの症状、事件が起きている。
 十二月二十日  クリスマス会で人形劇を上演するが、子どもたちに喜怒哀楽の表情がない。心を閉ざしている。子どもの笑顔が見えるのはいつの日だろうか。
 地元自治会と仮設住宅自治会の交流会を計画する。やっかい者扱いしないで、仮設を理解して地域住民に関心を持って頂きたい。
 十二月二十三日  寒さ対策に電気ストーブ、電気敷布、あんかを多数配布する。後方支援者に感謝。
 四トン車一杯分の生活用品バザーを実施。今も生活用品が不足している。大変な賑わいで、短時間に売り切れる。
 十二月二十六日  この時期には珍しい雪が降る。寒波で水道管も心も凍ってしまう。隙間風で室内温度も氷点下。
 十二月二十七日  今年最後の有給休暇を取り戸別訪問。趣味のゴルフもおあずけだ。何が魅力なのか、ボランティアにのめり込んでいる。
 十二月三十一日  ボランティア十五名で二百食分の年越しそばを準備した。今年は、震災で明け、ボランティアで年越しだ。非日常的な一年だった。

 ・ 一九九六年
 一月三日  三が日は家でゆっくり休養と思っていたが、三日には自然に足が仮設に向いた。
 今年も無理せず「やることは、私たちのできることだけ」をモットーに最後の一人まで見届けたい。
 ローソク一本で暖を取っている人がいる。心の支援はできても経済支援はできない。活動の限界を知る。
 一月十五日  仮設NGO連絡会の一員として上京し、被災地の現状を発信する。オーバーワークで体調がおもわしくない。ボランティアホリックに陥っている。
 一月十九日  「兵庫県こころのケアセンター」に立ち寄る。現状報告とケースに対するアドバイスを受ける(仮設閉鎖までご指導を受ける)。
  一月二十日  活動に無関係な人から嫌味を言われる。ゴルフのための有給休暇なら何も言われないのに、ボランティア活動だと、「何の目的で? いつまで続けるのか?」など、外野席はうるさ過ぎる。
 一月二十五日  グループワークのできない仲間に振り回される。仲間の一人から、はっきり伝えるべきだと後押しされ、「あなたは、一人で活動できる人だ。私達のグループには、束縛できない」とグループから脱退してもらう。集団活動ができない人は、切らなければならない。辛いがリーダーの役目だ。「虫の目と鳥の目」を兼ね備えなければならない。
 二月十一日  戸別訪問時に被害妄想のお年寄りに、鋏を胸に突きつけられる。奇抜な行動で隣人と日常的に衝突している(後日、保健所に連絡をすると何故その時に連絡しなかったと注意された。強制入院のタイミングをはかっていたようだ)。ボランティアの立場では、事件として訴えられない。
 二月二十一日  ふれあいセンター運営費の使途について仮設住民間で中傷合戦。センター運営は、住民、自治会、ボランティアの三者連携が必要と社会福祉協議会に訴え続けたが、社協のみの運営である。住民の不満が噴出して当然だ。
 三月十一日  前自治会長は、自治会活動で消耗し、公営住宅(空き家)に入居したが、「寂しい、寂しい」と電話が入る。空き家入居は元気な人でないと入居後が大変だ。このように、退去者に対しても支援が必要だ。電話コール、絵手紙、訪問などが考えられる。
 三月十八日 自主運営のできないT仮設。一方、今日から住民主体でふれあい喫茶を開店するS仮設。女性リーダーは雑音に馬耳東風で、豪快さときめ細かさを兼ね備えたセンター運営をしている。
 三月三十一日  震災を契機に家族の絆が問われているが、家族によって絆は様々である。ある女性は、「息子夫婦と同居すると言っただけで、嫁は実家に帰った。私のことで夫婦仲を割きたくない。仮設の鍵を返却しなくてよかった。もう少し仮設に居すわるか」とつぶやく。
 四月十七日  医療費免除が切れ、「お金がない」と通院しない人がいる。ある女性は、癌と告知され年末まで入院していたが、免除が切れた途端に退院した。日増しに病状が悪化している。ボランティアの非力を嘆きながらも訪問する。
 四月二十一日  ボランティアの真価を問われる時期に差しかかっている。相談内容も様々で、まるでソーシャルワーカーである。
 五月十二日  様々なイベントを計画する。こんな声も聞こえてくる。「私たちは乞食ではない。哀れな思いまでして参加したくない。皆はいつまで甘えているのか」と言いながら、その人の奥さんはしっかり配給物資を持ち帰っている。男のプライドか。
 五月十四日  入居者二百世帯に対して生活保護受給者四十五世帯。蓄えも底をつき極限状態だ。積極的に申請を促さなければ餓死者が出る。
 五月十九日  「人は、助けを求めるために問題行動を起こす」といわれるが、あまりにも問題が起き過ぎる。ボランティアもパニックだ。
 六月三十日  「身体介護のできないボランティアは役に立たない」と住民から強烈なパンチを受ける。活動方針にはそぐわないが、逃げることはできない。介護疲れの家族からのSOSだ。排便介助が今必要なのだ。受けて立とう。
 七月五日 ボランティア主催で復興住宅応募の説明会を開く。「保証人がいない」「神戸市民でないといけないのか」「離婚して罹災証明がないが、応募資格はあるか」「最後まで当たらなかったらどうなるか」「引っ越し費用は出るのか」「兄弟だけ(高校生と二十一歳の姉)でも入ることができるのか」「ペットと一緒に入りたい」。意外な質問に戸惑う。即答できない案件は、神戸市にファックスし、丁寧に答えて頂き、各戸に伝えた。
 七月十四日  日本赤十字本社で「仮設の現状」を説明する(この時期は、様々な専門家グループから参加要請が入った)。
 八月六日  「心まで貧乏していない」。同じ目線でないのか、強烈なパンチを受けた。
 八月二十七日  第二次一元化募集に応募した人は一桁だ。住民は、「引っ越し代がない」「病人がいて動けない」「思った所がない」「今の生活が安定している」「最後までがんばる」「姫路に永住したい」「引っ越しする意欲がわかない」など、思いは様々である。
 仮設間移動には二十人が当選している。これは現実的でない。
 九月一日  神戸の文化住宅へ転居する住民の本音を聞いた。「復興住宅へ入居したかったが、隣人の嫌がらせに耐えられなかった」。苛めも陰湿だ。 
 九月十九日  「対人関係に携わる者として」疲れがたまっている時だ。作り笑顔で活動すると、それ以上に疲れがたまる。疲れた時に、疲れた顔を見せるのはまだよいが、作り笑顔で接するのは相手に失礼である。
 十月十三日  神戸市選挙管理委員会からの不在者投票の案内文が、センター内で紐も解かれず積み上げられている。自治会は配布していない。選別して、ボランティアが常に配布する。行政は、センターに送れば事足りると考えているようだ。
 十一月二十七〜二十九日  奥尻島へ復興状況の現地調査に出かけた。自分の目で確かめ、今後の活動に活かしたい。「百聞は一見にしかず」だ。
 十二月一日 毎回訪問時にノックしていたが、部屋の中からの応対だけだった。今日は窓から顔を出し「元気ですよ」と答えてくれた。やっと訪問の成果が出てきた。感激の一瞬である。
  十二月二十八日  今年も東京からボランティアがきてくれた。遠来の仲間には、温かく迎えてくれる家庭を訪問してもらう。辛い思いは土産にならない。

 ・ 一九九七年
 一月三十日  アルコール依存症の主人を持つ奥さんから、「主人が工事の音がうるさい、決着をつけると、今、日本刀を持って出て行った。何とかして」とSOS。駆けつけて、事なきを得た。
 二月一日  ボランティア主催の復興住宅見学会。恒久住宅への関心のなさを埋めるため、食事と健康風呂付で実施した。大成功だった。
 二月十五日  仮設住民と行政のアドバイザーが、本人(障害者)の意志を無視して仮設内移動を強行した。邪魔者は人気のない場所へ追いやるのか。人権問題だ。
  二月二十八日  酒害教室をふれあいセンターで実施する。保健所にお願いしたが「予算がない」の一言だった。多数の住民が参加し意義ある勉強会になる。
 三月二日  復興住宅見学会。この時期にタイムリーな企画と自画自賛。バス一台のチャーター代は高額だが、先ずは応募してほしいものだ。前回以上に真剣な眼差し。その気になってくれた。
 三月二十九日  心理カウンセラーを交えてワークショップ。「思い・悩み」を本音で共有する。
 四月十七日  今日から仕事に出る人から、「行くことは(住民の)誰にも言わないが、ボランティアには最初に言いたかった」と電話が入る。嬉しい一瞬である。「何回も面接を受けたが、仮設(住民)というだけで、断られたり賃金を値切られたりする。今日から出勤する所は、皆と同じ条件で仕事に行ける。差別され辛かった」「よかったね」。
 五月四日  T地区の入居者百十七世帯中、復興住宅の一元化募集者は六十四世帯だ。このまま居座る人ばかりだと、仮設が仮設でなくなってしまう。「居心地のいいのはボランティアが支援するからだ」と嫌味を言われる。行政は理解していない。分かっていない。
 五月七日  S地区からのSOSの発信が頻繁になってきた。「蓄えがなくなり、食べていない」「明日が見えない」「何日も食べていない」「冷蔵庫はカビの宿」。行政に連絡すると「いつまでも仮設、仮設というな。特別扱いしない」「言いたいことがあるなら窓口にこい」。問題が起きないと動けないのか。
 アルコール依存症のDさんは、今日も朝からウイスキーをストレートで飲んでいる。奥さんに暴力を振るい、ペットの犬に当たる。訪問中も、奥さんに頭からグラスの氷を浴びせた。以前にはなかったことである。ボランティアの限界を感じた。
 五月十八日  自治会のリーダーが机を叩きながら女性ボランティアに長時間罵声を浴びせた。「活動場所を与えてやっている」。祭り上げられのぼせているのか?
 七月十九日  仲間の看護婦と出張血液採取。アルコール依存症の男性は腹水が溜まり限界だ。
 八月十七日  最高齢者(九十一歳)、三年目の夏は、越せそうにない。転居先は決まっているがもたない。一度は恒久住宅へ入居して欲しかった(数日後、子どもに看取られ旅立った)。
 九月八日 自殺願望者に危機介入。鴨居にひもを掛け自殺寸前だった。行政のアドバイザーは、「自殺をするな。思い止まれ」というが、自殺しようとする気持ちが聴けない。自殺したい気持ちに沿える聴き方ができていない。資質を疑う。
 九月二十日  「引っ越したら、生活保護は切られる」と思っている人に、「引き続き受給できる。連絡済みですよ。安心して引っ越ししてください」と説明する。
 十一月二十日  仮設内では不登校、幼児虐待、果ては援助交際まで起こっている。対応するのは、活動の領域を超えているが、投げ出すことはできない。事実を行政につなぐことが私達の役割だ。
 十二月三十日  支援も命懸けだ。年越しそばの準備中に、リーダーが突然、暴力を振るってくる。逃げるのが一番。これ以後、このリーダーは住民からボイコットされ自治会は解散した。嫌なでき事だった。

 ・ 一九九八年
 一月九日  ふれあいセンターの運営費の使途について不平不満。住民を無視した社会福祉協議会の運営が原因だ。運営費がなければ、住民同士のいがみあいはなかったと思う。
 十日間、絶食状態の男性。「水だけでも二週間は生きていける」と強がりを言いながらSOS。当座の生活費をそっと渡した。中年男性はプライドが邪魔するのだろう、「生活保護は受けたくない。餓死するか、裏街道を歩むか、自分で判断する」と息巻いている。
 二月三日  テレビ局から絵柄になる取材を要請される。即座に断る。私達はマスコミのために活動しているのではない。結局、生活保護の申請に同伴している映像になった。
 二月二十八日  青天の霹靂。兵庫県共同募金会からNHK歳末助け合い募金の配分の通知をいただいた。地味な活動が認められた。最高の贈り物だ。明日からまた、がんばるぞ。
 三月三日  仮設住民の幼児ワイセツ事件。マスコミは伏せると思ったが大きく報道した。痛恨の極みだ。
 三月十九日  久しぶりにNGO連絡会議に出席する。各グループとも活動の展望が開けず、暗中模索だ。助成金目当ての参加か。助成金が取り持つ縁か。これでは「砂糖にたかる蟻だ」。
 四月五日 退去が進み、治安が悪化し、入居者は閉じこもりがちだ。元気アップイベントを計画したい。
 四月十日  元リーダーが閉鎖中のふれあいセンターに乱入し、パイプイスを振り上げて大暴れした。先日までのふれあいの場が、壊れた備品の残骸に変わった。心もすさむ。ふれあいも助け合いもないまちだ。行政は逃げてばかり、処方箋を出してよ。
 四月二十日  地獄の仮設。「自分は、もうすぐ退去するが、後に残る人が気掛かりだ。不心得者がいるだけで、仮設全体が色眼鏡で見られる。残念だが仕方がない。後の人を頼みます」と退去者の一言。できる範囲で支援する。
 五月四日  家族の絆。震災を契機に絆、絆と言われるが、第三者が立ち入れない。家族には様々なスタイルがあり、認めなければならない。
 五月二十二日  市役所の民生保護課で覚悟の割腹自殺未遂があった。中年男性は不器用で、このような形でしか、思いを伝えることができない。最悪の事態にはいたらなかったが、八針縫う。入院もせず帰宅する(数日後の抜糸も自分でする。常識では考えられないことが起きている)。
 五月二十五日  仮設住宅の窓ガラスが多数壊される。百五十戸中百戸と、ふれあいセンターが被害にあった。無残な状況に心もズタズタだ。沈痛な思いで現場に立ちすくんだ。
 六月三日  「仕事もない。蓄えも底をついた。誰にも相談できない」と言う人に、誘われるまま部屋に入る。周囲を見渡すと入居当初の救援物資だけだ。壁に立てかけたふすまに、小さな傷口が無数にある。ナイフを投げつけた痕跡だ。生活保護制度すら認識していない。当座の生活費を援助し、早急に行政につなぐ。自爆が心配だ。
 六月七日  相生の中学生たちが、清掃のボランティア活動にきてくれた。継続的な支援に感謝する。彼らの声が仮設住宅に活気を与える。何物にも代えがたい贈り物だ。
 六月十四日  「あの時、母を背負って、橋の欄干に身を寄せ、ここから落ちたら痛いだろうなぁとのぞきこんだことが昨日のように思われる。あの時から苦しい生活が続いている」「姫路に追いやられ毎日が嫌で嫌でたまらなかった。ただボランティアさんにはとても感謝している」、退去者の言葉だ。
「神戸に帰れば何とかなる。神戸、神戸」と口癖のように言われる。神戸の現状を分かっていないのか、あるいは現実逃避か、理解に苦しむ。しかし、神戸に帰りたいという望郷の念は強い。
 六月二十一日  「今もこの住宅にいるのは、自分が防犯委員をしているからだ。これまで復興住宅に八回応募したが、わざと行政が抽選箱に入れていないのではないか。防犯委員をするのではなかった…」。この人は、落選のたびに自分に言い聞かせている。肯定も否定もできない辛さ。
久しぶりに参加したボランティアが、入居者の少ないのに喜びを感じるより、一抹の寂しさと侘しさを感じるという。複雑な気持ち理解できるよ。 
 七月一日  K新聞の取材。神戸に行って百回発信するより、新聞記事になるほうが数百倍の威力がある。姫路仮設を忘れないで。
住宅撤去の住民説明会が始まる。行政のアドバイザーは「三ない」状態だ。復興住宅の斡旋物件を持っていない、権限がない、時間がない(ゆっくり話を聴いてくれない)。
住民の一言。「こころの許せるのはボランティアだ」。
 七月十七日  雑草が伸び放題、歩けない状態だ。
 七月二十三日  住民の引っ越し先(神戸)のボランティアに支援をお願いするが思いが伝わらない。信頼関係は築き上げて行くもので、手渡しできるものではない。
 仮設支援グループには行政も距離を置く。「活動によって居心地がよくなり、入居者の退去が進まない」と言われる。それはないよ。
 引き上げる時期なのか、最後まで関わるべきなのか、撤退する勇気がない。行政受けするために活動しているのではない。今は、行政の苦情処理係的な活動である。
 九月八日  「昨日、引っ越し先へ掃除に行ったが、移りたくない」「自分を納得させようとするが……」。思いを聴かせて頂くと、落ち着きを取り戻し、引っ越しされた。
 九月十九日  行政職員とボランティアの二足のわらじを履くことで、辛い面と頑張れた面がある。職場では、正直なところ辛かった。行政と微かな緊張関係を保ちながら活動することに意義がある。行政の下請けではない。一市民として隙間を埋めているだけだ。
 鍵渡し後、すぐ引っ越しした退去者のひとこと。「地獄の仮設から一刻も早く、引っ越ししたかった」。
 引っ越し時に、ペットの処遇に迷い、周辺住民にイライラの矛先を向け警察へ連行された人がいる。とばっちりを受けた住民が気の毒だ。
 十月二十四日  復興住宅、HAT神戸で「お元気ですか・元気ですよ」の同窓会。場作りが目的だ。
 十一月二十二日  神戸市垂水署から電話があった。退去者が復興住宅でお風呂場で亡くなった。「身寄りが分からず困っている。部屋のなかに貴方の電話番号があった」という。動揺しながら連絡先を伝える。頼られていたのだ。それにしても先日までお元気だったのに……。
 十二月十三日  活動で立ち寄る度に、仮設撤去で様変わりしている。何とも言えない切ない思いになる。入居者は、なおさらだろう。解体業者が、嫌がらせのように廃材をまだ入居者のいる玄関口に山積みしている。
 十二月十八日  M記者から「NPO法人格は取らないのか」と取材を受ける。「法人格の有無で社会的な評価が生まれると思うが、行政とは距離を置きたい」と答えた。独自路線で行く。取得するメリットはない。
 十二月三十一日  今年も大晦日まで活動した。ボランティアホリックになっている。自己分析できる間は活動できる。

 ・ 一九九九年
 一月五日  アルコール依存症の人が、一年前肝機能低下で腹水が溜まり緊急入院した。退院後アルコールは一滴も取っていない。「今度入院したら命はない。まだ死にたくない」と言ってがんばっている。ところが、今は、パチンコ依存症。依存の対象が変わっただけ?
 一月十日  「ボランティアの訪問に身震いする。玄関ドアを開けると外気が入って暖房費が嵩む」と、今日は歓迎されない。外気温度は氷点下を記録している。
 一月十七日 一・一七KOBE「灯り」鎮魂の思い。ふれあいセンター前で、「祈り・願い・思い」を込めて竹筒百五十本にローソクを立て鎮魂イベントを行った。仮設内で十名が亡くなった。 
 「人は人によって教えられ、人は人によって救われる」。活動は自分に返ってくるものだ。
 一月二十八日  被災者の苦情電話を、ボランティアに回すな。職場の電話窓口に被災者から電話がかかり、対応に苦慮しているからと、回してきた。ボランティア活動を、仕事場まで持ち込まないで欲しい。勝手な時だけ利用して……。有給休暇のボランティア活動にクレームをつける職場へ苦情電話を回すとは迷惑千万だ。
 二月三日  引っ越し用に福祉貸付金の給付を受け、その足で神戸へギャンブルに出かけた人がいる。無一文になって帰ってくる。途方に暮れているので見かねて引っ越しを手助けしたが、行政アドバイザーは最後まで支援してあげてほしい。
 二月十三日  お金を貸した人に電話で督促をすると、ヤクザを介して脅迫された。最初から返済を期待してはいないが、善意を食い物にしていることが許されず督促した。三十万円のポケットマネーは痛いよ〜。貸した方が悪いと諦める。
 復興住宅への入居を待たずに、また一人亡くなった。仮設は、死ぬ所ではない。出ていく所だ。
 二月二十六日  戸別訪問した中年女性から「この悪いしこりは癌」と胸を見せられる。私も男性だよ。医療費の工面がつかないので、生活保護の申請を勧めた。この人は男性と同棲している。同居だと生活保護が受けられないが、同棲だと受けられる。同居と同棲の違いをいくら言っても理解できない。少し障害がある人だ。
  三月一日  深夜に、「痛くて我慢できない。救急車を手配して」と、腰痛の持病を持つ男性から連絡があった。駆けつけて担架に乗せ、緊急入院させた。四月早々に神戸に引っ越しする予定だが心配な人である。
 「お返しができないまま一生を送りそうだ」と、おっしゃるので、「元気な顔が贈り物だ」と元気づける。
 三月二日 障害者の引っ越し依頼を行政から受け荷物の確認に行くが、悪臭と散乱した荷物に閉口してしまう。手伝うエネルギーが湧かない。行政にうまく使われている。できないと断る勇気も持ちあわせる必要がある。
 三月十日  神戸から「子育てに疲れた」とSOS。以前から気になり行政機関につないでいる人である。男手一つで子育てはしんどいよね。
 三月二十一日  八十五歳の女性の引っ越し。見送りの人にどこへ行くのとたずねられ、「コンクリートの林に引っ越す」と答えた。平屋に引っ越したいのだ。「私の行き先どこ」とも言った。嘘のような本当の話だ。環境の急激な変化で老人特有の症状が出ないといいが、心配だ。
 三月二十三日  ボランティア主催で地域の老人会、自治会、民生委員を招いてお別れ会を開いた。本当にお世話になりました。住民に代わって感謝します。
 この時期になっても転居先に妥協ができない人がいる。本人の自覚を待つしかない。
 四月五日  活動は暗中模索だ。被災者支援は常に手さぐり状態が続く。住民のニーズ把握ができずに支援はできない。現実逃避して引っ越しをキャンセルした人がいる。この人は時が解決する人だ。せき立てたら自爆する。
 五月十四日  姫路の公営住宅に引っ越した障害のある人が、居心地が悪いのか仮設にUターンしてきた。下着姿で解体作業を不安そうに身を隠して見ている。これは参った。すぐ保健所の相談員へ連絡する。今は見守るしかない。例外中の例外と、保健所と互いに連携を取りながら関わりを持つことにする。親族への連絡は私が頼りだ。 
 五月二十五日  M地区のKさんは、最後に残った一人だが来月に引っ越しが決まった。ところが、自分の行き先と引っ越し日が分からず、不安で眠れないと訴える。個人のボランティアが関わり過ぎて、書類も本人に渡していないからである。人生の終末まで付き合う覚悟であればよいが、一時の思いで深く関わることは自立の妨げになる。個人ボランティアにこう警鐘するが、分かってくれない。
 六月五日  ゴミまで神戸に引っ越し。片づける元気がないのか、荷物の三分の一はゴミである。不器用な男性で失業中だ。仕事が見つかるまで目を離すことができないが、連絡は電話だけが頼りだ。困ったら区役所に行くんだよと何回も何回も言って別れた。ところが、一カ月も立たない内に餓死状態で発見されたと連絡を受ける。あの時、嫌われても関わるべきだったと自責の念にかられる。人一人助けられない自分が嫌になる。
 六月十日  入居者は廃材か。解体廃材が入居者の周辺を埋めつくし、これでは生活ができない。ここまで嫌がらせするのか。人を人と思わない。生活権の侵害だ。
 六月十五日  SOSを発信していた高齢者が、鎮痛剤を飲んで自殺未遂。発見者として関係方面に連絡した。ここまで追い込んだのは退去後の不安だ。毎日訪問して大事に至らずよかった。今後の支援について専門家のアドバイスを受けなければならない。事情があり希薄な家族の絆。以前から息子さんとは連絡を取っていた。「神様・仏様・ボランティアさん」と感謝を受けるが割り切れない気持ちだ。
 六月二十八日  仮設の最後の居住者になった女性。「一人になってせいせいしている」と強がりを言いながら、男性物の下着を干している。
 七月四日  HAT神戸の復興住宅で同窓会を開く。三十一名の人が神戸の各所から参加し近況報告をしてくれた。私達は、「場作り」が目的だ。
 七月二十六日  最後の居住者がこっそりと引っ越しした。あっけない幕切れに、後味が悪く割り切れない思いだ。深く考えると落ち込んでしまう。よくがんばったと我がグループを褒めてやって。

 六 マスコミに育てられたボランティア

 被災地から遠く離れた市外仮設住宅では、当初、行政からの支援が望めず、情報も届かなかった。そのような状況下でボランティアは仮設住宅内で起きているでき事や住民の要望の収集に奔走し、被災地へ発信することが、大きな活動であった。幸運にも発信する機会に恵まれ、被災者の思いを代弁することができた。
 また、地道な戸別訪問活動がマスコミに取り上げられ、新たな人との出会いに恵まれ、活動に弾みがついたこともあった。マスコミによって育てられ、元気付けられた事は否めない事実である。ボランティアは、活動に対する理解をマスコミに求めることも大切なことであると考えている。

 七 情報収集の大切さ

 専従スタッフを持たない団体の代表者が、一年の内百日以上も被災地に出向き、会議やシンポジウムに参加し、繰り返し忘れられた市外仮設住宅の現状を発信した。
 その結果、情報交換は勿論のこと活動に必要な資金援助、協働プロジェクト、事例研修会などのネットワークが生まれ、活動が点から線へ、そして面へと広がっていった。
 力を入れたのは情報収集である。「情報は待っていても届かない。取りにいくもの」と時間の許すかぎり情報の源に入り、自分で消化した後、実践に活かしてきた。例えば、北海道南部地震の震源地「奥尻島」に出かけ、被災者のトラウマからの回復プロセス、復興状況等の調査をした。

 八 活動は、行政の補佐か?

 私たちの活動は、行政の補完活動ではない。しかし、緊急性のある仮設支援では、残念ながら行政の一端を担う活動もあった。行政機能がマヒしている時期は、致し方ない事である。しかし、割り切れないでき事もあり、行政不信に陥ったこともある。利用する時は利用し、不必要になれば捨てる「使い捨てカイロ」のような存在ではないかと悩んだこともある。
 行政とボランティアが、対等な立場に立たなければボランティアの展望はない。対等な立場に立つには、ボランティアの側も、独自性を持ち、行政とは距離を置き自立し、成熟したグループになることが必要である。まずは、活動資金を自己調達するだけの体力をつけなければならない。

 九 戸別訪問

 私たちの活動は戸別訪問活動が中心で、住民の生の声を聴く活動である。戸別訪問ではまず声と顔を覚えてもらい顔馴染になることである。次に情報提供、ニーズ把握、行政手続きの代行、住民同士のふれあい、最後は心のサポートへと繋げていく。最初は「何を持って来た」「何しに来た」「何も話すことはない」とドアさえ開けてもらえなかったが、訪問を定期的に重ねるうちに心が通じたのか、少しずつドアの隙間が広がり、ある日ドアから顔を出し「ご苦労さんです」と返事があり、思わず「やったー」と叫んだこともあった。
 定期訪問で声を覚え、閉ざされた心を開いてくれたのである。目線を下げ、相手の立場に立たなければ、懐に入ることはできない。
 日常生活では見えない景色を見、問題解決の一助になればと直接解決に携わったこともある。常に試行錯誤の連続で、活動休止寸前まで追い込まれたことがあったが、住民の「あなたたちの訪問を楽しみに待っている」の一言で思い直し「最後の一人まで」を合言葉に活動を継続できた。

 十 イベントの開催

 訪問活動には、一度に多数の住民と関われない限界もある。そこで、住民同士のふれあい、助け合いの場所設定のため、季節に合ったイベントを実施した。クリスマス会、餅つき大会、子どもの日、母の日プレゼント、キャンプ、コンサート。また、被災地ツアー、市民交流会、復興住宅見学ツアー、野島断層と明石海峡大橋見学ツアーなど、時期に即した企画もした。イベントをきっかけに人間関係を築き、住民同士のふれあいと助け合いのきっかけ作りもできた。参加できる人、できない人との見極めも目的の一つで、次回の戸別訪問では、不参加者を重点的に訪問し、疎外感の解消に努めた。イベントには資金が必要だが、活動を支えてくれる支援者のご協力で様々な企画を実現できた。

 十一 活動後の「ふりかえり」

 被災者支援が深まれば深まるほどボランティアが二次被害者に陥りやすい。そのためにもボランティアの傷ついた心の回復を活動後の「ふりかえり」で行った。活動時間よりも「ふりかえり」時間を長く取ることもしばしばあった。
 「ふりかえり」とは、被災者の悩みなどの重い荷物を一人で背負わず仲間と共に悩み、考え、感動する、共有化と分担化のことである。
 活動の記録も「ふりかえり」のひとつである。「その時の思い」を記録に残した。嫌なこと、楽しかったこと、嬉しかったことなどキーボードを叩きながら文章化する。記録したことで、その日は安心して忘れることができる。後日、記録を読み返し、「あの時、この時」の思いをふりかえり、心の立て直しをはかった。最終的には、貴重な記録が保存でき、記録集の作成に繋がった。
 グループ内には、家族単位で参加する仲間もいる。いつも家族単位ではなく、適当に距離を置き、無理のない活動である。参加することで、話題の共有と互いの再発見があったと聞き、家族単位の参加の素晴らしさを感じた。

 十二 今後の活動について

 仮設住宅で起きたこと、復興住宅で起きていることは、特異なケースではなく、すべての地域で起きていることである。今まで見えなかった景色を見て、価値観、人生観も大きく変わったし、肩書のない社会で、自立し、楽しく生きていくライフスタイルを見ることもできた。
 活動で知り得た貴重な体験を自分だけの宝にせず、地域社会に還元する事が今後の課題である。
 立ち上げ時は、仮設支援の限定活動と決めていたが、ボランティア活動の不思議な魅力と、メンバーと共に充実感を味わった体験をした私たちに活動撤退は考えられないことである。今後も被災者支援に関わり続けたいと考えている。
 また、新しい活動も考えている。例えば、地域では、老人施設での「心のサポート」支援を行うことを検討中である。グループの独自性を活かし、これからも「聴くことから始まるボランティア」を継続していきたいと思っている。
 仲間の中には個人的に、障害者自立支援センターの立ち上げに関わっている人や以前の活動に戻った人もいる。各人が震災ボランティアとして学び、培った心を今後も、それぞれの立場で生かし、実践することが、私たちの責務である。
 「情けは人のためならず」ということわざがあるが、ボランティアも最終的に自分に返ってくるものであると考え活動に励みたい。

 十三 活動をふりかえり〔総括〕

 震災後、「今、この時、なにかできないか」の思いでボランティア活動に参加し、姫路仮設での活動は、仲間を募りグループを立ち上げ今日に至っている。「なにか関わりたい・なにかできないか」の一途の思いで走りつづけたが、被災地外での支援は、地域住民や職場の無理解や、仮設住民との軋轢に心を傷め、必要以上のエネルギーを使った。
 当初は、ボランティアというファッションに乗り遅れまいと、多数の市民が仮設支援に参加し関心を示した。しかし、時間経過とともに風化し、忘れられる速度も速かった。被災を体験しない当地では致し方ないことであるが、私たちが住んでいる兵庫県で起きたことは忘れてはならない。
 私は、震災当初から温度差を感じながら被災地へ活動に出向いていた。「一時の熱い思い」のなかでの組織支援は盛り上がる。しかし、継続性や個人としての動きは鈍く、被災地内外で姫路市民の顔が見えなかった。城下町特有の保守的な土地柄と一言で片付けていいのだろうか? 
 少子高齢化時代を迎え、共に助け共に生きる共生の時代に扶助、共助の連帯が生まれるのだろうか。「所詮よそごとだった」では余りにも寂し過ぎ、問題意識がなさ過ぎる。小さな町単位で物事を考えるのではなく、グローバルな視野と視点を兼ね備えなければならない。
 グループに対する地域からの支援は皆無に等しかった。しかし、心ある少数の人的支援に恵まれ、仮設住民の最後の一人まで見届けることができた。活動を通し、素晴らしい仲間に恵まれ、「人間は一人では生きていけない」という至極当然のことを学び、「支え、助け合う」ことを実感し実践できたことは、何物にも代えがたい体験である。
 仮設住宅開所後の半年間は、行政の支援者の顔も見えずボランティア支援が唯一のよりどころであった。被災地内仮設住宅の落ち着きとともに行政の目は、被災地外仮設住宅への支援と移行していった。一九九五年十月のふれあいセンターオープンと併せて神戸市職員(仮設住民は一〇〇%神戸市民)のきめ細かな対応と業務を超えた支援訪問には目を見張るものがあった。
 兵庫県からも「ふれあい交番」「生活支援アドバイザー」「県民スタッフ」等々の行政支援者が活動し密度の高い支援があった。
 しかし、いつともなく神戸市職員の顔が見えなくなって(復興住宅の応募が本格化)から住宅内の治安が悪化していった。仮設住宅解消に向けての緩やかな対応はなく、退去率を上げることに奔走された節もある。支援者の熱心さと強引さは紙一重で、「個人情報の垂れ流し」「社会的弱者への人権無視」「強引な住宅斡旋」等々の問題を引き起こしたことも事実である。ボランティアに不平不満が数多く寄せられパニックに陥ったこともある。支援者である前に一人の人間として被災者心理を理解し、相手の価値観を認め、生き方を認める心を持ち合わせることが必要である。同じ目線で対等な思いで被災者支援ができていたら「地獄の姫路仮設」と酷評されることはなかった。
 そのようなフィールドでボランティアは、一人ひとりのすさんだ心を一時でも癒そうと、ふれあいを求めて、季節にあったイベントを実施した。行政批判でなく苦言と受け取ってほしい。大多数の行政支援者は仮設住民に慕われ、寝食を忘れ、自分の事のように支援されたことも見ている。事実、真実を伝えることで次に繋いでいただきたい。
 未曾有の大震災への支援は未知の世界で、マニュアルはなく試行錯誤の連続だった。情報収集に各種のボランティア会議、事例研修会、講演会などに参加し資質の向上に努めた。
 「継続は力なり」のことわざがある。最初から最後の一人まで関われたエネルギーは何だったのだろうか。先ずあげなければならない要因は、人と人との出会い、即ち仲間との巡り合いである。グループワークを重んじること、活動への力の入れ方の強弱、人との距離の取り方などは身についたものである。「聴くことから始まるボランティア」「やることは、自分たちのできることだけ」の活動理念を理解し、あるときは親身に、あるときは距離を置き臨機応変な対応ができた。豊富な人材に恵まれた。行政機関への連絡は行政に精通した人が一手に引受け対応に当たった。その結果、活動分担が明確化でき行政とも顔の見える関係が築かれた。
 二つ目は、専門家支援者の存在である。「兵庫県こころのケアセンター」には、常に自然体で温かく見守っていただき、対等な立場で必要なときに必要な指導と協力を得ることができた。ボランティアの目線でアドバイスを受けることは活気と資質の向上につながった。レイプ事件の時は、ファックスで危機介入の指導を受け傷口を最小限にとどめた。自殺願望者への対応、アルコール依存症の人への対応、被災者のこころの回復プロセスなどの諸問題にも、迅速なアドバイスをくださり、ボランティアが燃えつきないように、定期的なグループワークで、活動で傷ついたこころを癒していただいた。
 「兵庫県こころのケアセンター」の活動範囲ではない地域だったが、活動当初からコンタクトを取り支援を得た。センターへ出向いて面接を受けたり、現場へ来ていただき勉強会とか現場視察をお願いしたことも度々あった。私たちのグループの名前と似ているので、分室と言われたこともある。グループにとってセンターの存在は大きかった。
 三つ目は、全国各地から寄せられた支援である。遠く北海道からの男爵いもの贈り物、活動を紹介したNHKテレビ放送をご覧になった、青森の「みちのく銀行」頭取からの高額寄付、講演の縁で東京のボランティアグループの日本テディベア協会会員と知り合いになり、イギリスから送られたテディベア、各種助成団体からの助成金など数え上げればきりがない。
 前線の活動者と後方から支援をしてくれる人、その中間でお世話くださるグループの様々な関わりで活動が成り立つのである。小さな小さなグループであっても記録を残し実績を積み上げれば評価を受ける。支援は物質的な物以上にかけがえのないエネルギーになった。支援者に対して報告と礼状を送る感謝の気持ちを持ち合わせることも忘れてはならない。
 四つ目は、他グループとのネットワークである。愚痴をこぼしたり、情報の発信、交換の場であったり、勉強会であったり、たまには飲み会であったり、ホッと一息つける仲間作りが必要である。大きなネットはできないが気心を知り尽くした仲間は、あるときは、大きな力となり、小さな波から大きな波を呼び起こす無限の力が潜んでいる。活動内容もフイールドも違うが、互いに追い求めていることは同じであり、実践家であることは強力である。一声掛ければ多数の賛同者を得ることもできる。
 五つ目は、情報発信と情報収集は自分の足で、必要なときに必要なことを発信し情報収集することである。狭いエリアへだけの発信は堂々巡りで向上がない。広いエリアへの発信によって、多くの機会に恵まれる。情報は人から得るものでなく自分から取るものである。「口は一つだが耳は二つ」。情報を得ることは活動の資質向上に繋がり、選択肢が豊富になる。人に伝える情報は、自分のもの(完全消化)にしてから波状的に流した。しかし、震災情報は、複雑多岐な情報過多でファックス量の多さには閉口した時期もあった。何はともあれ、先ず身体を動かすことから始まる。

 〔ボランティアの専門性〕
 専門家でないボランティアが被災者のこころのサポート活動を継続できたのは、トレーニングとボランティアの「ただひたすらな傾聴」の思いで、全戸を対象とした戸別訪問活動のなかから築き上げられたものである。住民のニーズにあった催物と情報提供の中から自然な気持ちで接することができた。ボランティアと被災者という立場でなく一人の人間として、支援の受け手と担い手の役割を分担している。
 常に活動後の「ふりかえり」を大切にした。ある時は、「ふりかえり」に長時間掛けたこともある。「一人でないよ、私たちもいるよ」と、顔の見える戸別訪問である。打ち解けるまでに時間が掛かる人、そうでない人、人様々であるが定期訪問で信頼も得ることができた。
 現実は、楽しい思い出より、住民間のトラブルとか中傷に心痛める事がしばしばあった。特定住民からの罵声、中傷で幾度となく活動撤退を考えたこともある。最後まで頑張れたのは、ボランティアの不思議な魅力に取りつかれた仲間の連帯感である。戸別訪問で起きたでき事、思い、感情を仲間とふりかえりの場で共有し共感することは、仲間うちでのケアだった。まさに「支援者に対する支援」である。ボランティアもトレーニングを積めば、緊急時のこころの支援は十分できることを実証できた。
 心の傷を癒すのに、五年とか十年の節目はない。心に傷を負った者は、その傷と一生涯付き合わなければならない。他の病気のように症状が消えて治るのではなく、「忘れたくない」「忘れよう」「忘れたい」という気持ちが共存し、自己治療力で薄くなっているだけである。生活再建がままならぬ時期には、被災者は、日々の生活に追われ片隅に追いやっているにすぎない。支援者は「いつまでくよくよしているの」「いい加減に忘れなさい」という乱暴な言葉だけは慎まなければならない。
 被災者が抱えている課題は様々であり、潜在的なものなのか震災の影響なのか区別がつきにくくなっている。明白なことは、これらの人々が、被災を体験したという事実である。「被災者だからといって、同情と憐れみは必要ありません」「自分たちの力で問題解決にあたります。しかし、どうしても力の足らない部分があります。そのときに、同じ社会に暮らし、共に生き、行動する仲間として力を貸してください」と被災者の一人は言う。
 被災者の課題や問題は、被災地の特別な現象ではなく、私たちを取り巻く地域社会の問題である。仮設住宅で起きた数々の問題は、まさに凝縮された社会矛盾である。問題と課題を共有し、社会変革に繋げたい。

 〔記録後記〕
 あらためて記録をひもときながら、出会ったあの顔、この顔、支援をくださったあの人、この人との出会いを整理しました。
 ボランティアの限界と可能性を秘めた活動で、燃え尽きることなく継続できたことは、支援くださった皆さんのお蔭です。感謝、感謝。
 ボランティア活動が、特別なものでなく日常的なものとして地域で根づくことを願いつつ結びとします。
明日のインナーシティを支える 株式会社兵庫商会
代表取締役 田中 保三
略 歴
1940 兵庫県武庫郡魚崎町横屋生れ。
1995 阪神・淡路大震災で六棟の社屋、倉庫のうち五棟を全焼。
周りに大勢の犠牲者が出たのを見て、生死紙一重を実感し、命の尊さを知る。
地震から一週間後よりボランティアの若者達と交わり人生観が変わる。

 混乱の中で
 地震の朝、須磨区名谷の自宅の混乱にひと段落をつけて、車で会社のある長田区御蔵通五丁目へ向かった。須磨離宮公園経由の広くて安全な道を選んだ。
 東須磨近辺で停滞したので、わき道に入って驚いた。道路上にブロック塀が崩れ落ち、道路をふさいでいる。倒壊家屋もあり、その中からけがをした人が毛布にくるまれて、両脇を抱えられて避難しているではないか。
 この光景をみて、やっと神戸が震源地だとわかった。子供のころから神戸は地震がないと何度も聞かされていたので、震源地はてっきり関東か東海地方だと思っていた。
 本道へ出て停滞をかいくぐり、通常は二十分の道のりを二時間かかって会社に着いた。八時半ごろだった。本社ビルが倒壊し、三階の事務所の伝票類がくすぶって、すでに全六棟の社有建物のうち五棟と社有車十四台が焼失していた。
 この場に居合わせた社員は、郊外の小野市と加西市から自動車通勤する三人組だった。彼らは丸山地区回りの細い道を選んだので停滞に巻き込まれなかったそうだ。
 翌日から三週間にわたって毎日、彼ら三人と加東郡に住む社員とが、握り飯、漬物、時に煮しめ、豚汁などを持参して、被災した社員の昼食を賄ってくれた。
 この間、得意先、取引先商社、メーカーなどからも、昼夜を問わず救援物資を運んで頂いた。ラーメンに始まり、水入りのポリタンク・ペットボトル、米、みそなどの調味料、プロパンガスボンベ、同コンロ、カセットコンロと同ガス、ナベ、ヤカン、文房具、ぬれティッシュ、ティッシュペーパー、ジャンパーなどの衣類、自転車、ミニバイク、軽四輪車まで頂戴した。
 飲食物や衣類は、自宅が全焼、全壊、半壊の社員の順に持ち帰ってもらった。
 これらの暖かいお心づかいが、私を変えた。

 ボランティアとの出会い
 一月下旬にピースボート(ボランティア団体)の梅田隆司君と巡り合い衝撃を受けた。新湊川の河原のテントを拠点に、次々とやって来るボランティアを機敏に采配し、人に安堵を感じさせるその人柄に、私は仏教の「無財の七施」(ものを施すのではなく、優しいまなざしや笑顔などの七つの態度による施し)をみた。親子ほど歳が違うのに、彼に教えられ、地元の者としてどう動くべきかを考えさせられた。
 彼は二月上旬に、自転車八百台とプレハブ(三間X三間)二棟を神戸港に持ってくるという。そのプレハブを必要とする人をさがす、地元窓口になってほしいと要請があった。これがきっかけで、ボランティアに深く関わることになった。東灘区から須磨区まで、受け入れ希望者が見つかり、最終的には約二十棟を提供してもらった。
 最初は東京から大工が来てくれたが、やがて地元の大工一人を抱え、「手元」をボランティア(ガテン・チームと命名した)が務めた。屋根に上っての作業もあったが、奇跡的に一件のケガもなく完成させた。
 この二月から四月上旬にかけて、新湊川の河川敷公園に、大勢の若者が、色とりどりのテントを所狭しと張って大活躍した。若者の活気が充満し、昭和二十年代から三十年代にかけての長田のにぎわいさながらだった。やはり、まちには若者が大勢いなくては元気が出ない。
 二月半ばに、焼け跡の社有地の一部をピースボートの基地に提供した。夏には、SVA(曹洞宗国際ボランティア会)も加わった。その後、「仮設NGO」「公的支援ネットワーク」などの団体も受け入れた。これらのボランティアグループが大きな輪になればと思ったが、それぞれ向かうところが違っていて、分散型になり、大きなベクトルにならなかったのは残念だった。
「まち・コミュニケーション」
 震災の年の夏、ピースボートの一員だった、小野幸一郎君(「まち・コミュニケーション」代表)と再会した。「今、ほとんどのボランティアが仮設住宅に目を向けている。でも、まちが元に戻り、人が戻ってこなければ活気が出ない。まちに人が早く戻れる仕組みを作らないと、仮設も結局なくならない」と語り合った。秋頃から、SVAの浅野幸子さんにも加わってもらい、「まちづくり協議会」の書記役をかってでた。
 翌春、小野君と浅野さんとで、「まち・コミュニケーション」を立ち上げた。会社の仮設事務所の三階を提供し、事務局とした。
 多くのボランティアと協力し、御菅(御蔵通・菅原通)地区の一周忌追悼式を行い、花祭り、仙台古川町、平塚市、尾張一宮市、博多の七夕飾りをいただいての夏祭り、河内音頭の盆踊りは、五年目も続いている。
 だが、地震直後に集まった若い人たちの多くは帰り、ボランティアの数も激減した。地区に戻ってくる住民の数も頭打ちだ。仮換地がすでに決まっていても、諸般の事情で再建できない人も大勢いる。受け皿住宅ができたが、元の住人で入居できた人は、三分の一強に過ぎない。当初の見通しとは、まったく状況が違っている。
 平成十二年春、「まち・コミュニケーション」は、地権者や専門家の先生方のご協力を得て、共同住宅「みくら5(ファイブ)」を完成させた。
 「みくら5」は従来のように先に建物があって、そのあと入居者が入って来るのとは違い、先に住む人の人間関係があって、その上で建物が出来たのである。その一角を占める「プラザ5(ファイブ)」こそは、支え合いの実験の場である。行事として、「ふれあい喫茶」「健康チェック」「食事会」「映画会」「落語会」「パソコン教室」「写経の会」「座禅の会」まではじめた。
 みくらの御婦人たちが「地域のことは地域で支え合おう」との言葉どおりに、「まち・コミ」と一緒になって運営されている。
 高齢者の多い個の地域で老後の不安を少しでも解消し、集って暮らす楽しみを発見し、仲間と語り合える場になれば、と思っている。

 インナーシティを見直そう
 当地区は神戸の下町で、文化住宅や長屋が多く、一戸あたりの床面積も敷地も狭い。一街区に私道ばかりで、公道がないところもあり、道路の幅員も狭かった。老朽家屋が多く、権利関係も複雑で、立て替えも困難だし、防災上も問題があった。
 しかし、逆に、地代や家賃が割合に安く、昔から住んでいる高齢者の方も多く、それがコミュニティの豊かさをかもしだしていた。人情が厚く、助け合いの精神を育み、生活がしやすく、昔懐かしい雰囲気がただよって、住民の愛着心も深かった。
 こんなまちは、インナーシティと呼ばれ、どの都市にも必ずある。震災は、これをどう再生させるかという課題をあぶり出したのではないだろうか。
 住民の一人ひとりが、他人事と思わず、自分たちのまちのことに関心を持ち、行政がこれまでのように、郊外に分散開発を進めるのをやめて、その費用をインナーシティに投じて再生を図れば、親・子・孫の三世代が同居できる場が創れるのではないだろうか。これからのまちづくりのあり方として、費用対効果の視点から考えても、有効な選択肢だと考える。
 地味ではあるが、それこそが、震災で全国ばかりか世界各国から暖かい支援を受けた神戸が、先駆けの役割を果たし、発信すべき価値ある所業だと思う。

 震災の贈り物
 会社は灰燼に帰したが、社員四十人の命は助かった。なくしたモノに対する執着を離れ、残った人材とモノをどう活かすかに全力をあげた。その過程で、梅田隆司君をはじめとする、若いボランティアのみなさんと知り合え、「ガテン・チーム」で一緒に汗を流し合った。それまで、茶髪、ピアスに拒否反応を示していたが、ともに行動してみて、外見と中身は大違いと分り、それ以後何の違和感もなしにつき合えるようになった。
 また、まちの人たちとも深く関わりを持てるようになった。こんな立派な人がおられたのかと驚きの連続で、「このまちのことは、このまちで支え合おう」という趣旨に賛同し、一緒に行動する人の輪が得られた。こんな気持ちは震災前にはまったくなく、自治会費をただ黙って払っているだけだった。震災は私に大きな変化をもたらしてくれた。
 さらに、都市計画の専門家や学者の先生方、僧侶の方々、マスコミ関係者や、全国の方々との出会いがあった。これらの人々から、今なお物心両面のご支援ご教示をいただいている。なくしたモノより、こうして与えられたモノの方が、数え切れなく多く重たい。

 梅田隆司君の死
 ボランティアたちとの接点をつくってくれた梅田隆司君は、その後東京に戻り、神戸の経験を生かしピースボートの中心人物として活躍した。しかし、地震の翌年八月二十六日、山梨県高根町をオートバイで走行中に、急ブレーキをかけた前の車を避けようとして反対車線に出て転倒し、対向車と衝突して心臓破裂で亡くなった。
 彼には他者の悲しみや痛みを自分のこととして受け入れられる度量と、あらゆる場面で、エネルギーを惜しまず投入し、そこから真実をつかみ取る感受性があった。各地からきた若いボランティアをまとめるリーダーシップは見事だった。
 年齢を超えて共鳴し合えた同志は、二十九歳の若さで天国に召された。

 傍観の罪
 かえりみると、悲しみや苦しみの中でも、誰かが支えてくれていた。大勢の人々のお陰で現在の自分がある。その暖かい支えさえあれば、どんな苦難でも乗り切れる。私は数多くのご恩によって目覚め、おせっかいかもしれないが、地域の活性化に少しでも役立つなら、汗をかこうと思っている。地域の問題を他人事とせず、積極的に関心を向けたい。われ関せずを決めこむことは、悪にさえつながる。
 出会いを大切にし、さらなる出会いを期待して、行動したい。
トルコの被災地で神戸を想う 遊空間工房 代表 野崎 隆一
略 歴
1943 大阪市生まれ
1967 神戸大学工学部建築学科卒
東急不動産、ZOOM計画工房、東亜貿易を経て、・遊空間工房代表取締役、神戸まちづくり研究所事務局長。
共著に、「都市の記憶」「まちづくりと民間文化施設」(以上、市民まちづくりブックレット」)「震災復興が教えるまちづくりの将来」
 ■ はじめに
 昨年(一九九九年)十月、トルコ建築家協会の招聘で、神戸の震災復興の体験を語るためトルコを訪問し、被災地を見ると共に、アンカラ、イズミール、ブルサ、イスタンブールの四大都市で報告会をしてきました。
 あれから七カ月が経過しています。その間、いろんな場所でトルコ訪問について語る機会があり、報告書も作成しました。しかし、時間の経過の中で、自分はトルコ訪問から何を学んだのか? それは自分にとって果たしてどんな意味があるのか? 自問し続けてきたように思います。
 出発前のミーティングで、メンバー全員で確認し合ったことは、先入観を持たずに出かけ、注意深く出来る限り情報を集めようということでした。「日本では考えられない壊れ方だ」「日本の耐震技術を教えてあげよう」という発想では、一方通行に終わり何の教訓も得ることができません。トルコの現状を充分理解したうえでなければ本当のアドバイスにならないばかりか、我々自身の教訓にもならないと考えたからです。

 ■ トルコという国
  歴 史
 トルコは、紀元前六千年に既に文明のあった世界で最も古い歴史を持つ国です。国中が遺跡だらけといっても過言ではありません。ヒッタイト、ヘレニズム等多くの文明の後、ローマ帝国、オスマン帝国を経て、一九二二年現在のトルコ共和国が建国されました。
 建国は、衰退したオスマン帝国の末期を救う形で、国父といわれる軍人英雄ケマル・アタチュルクが列強との戦いに勝利して成し遂げられました。アタチュルクは、その後政治家として国の近代化を進め、イスラムの力を封じ込めて完全な政教分離を確立しました。
  日本びいきの国民性
 日露戦争で日本がトルコの宿敵ロシアに勝って以来、トルコ人は親日的です。アタチュルクは寝室に明治天皇の肖像画を飾っていましたし、「トーゴー(東郷平八郎海軍大将)」という銘柄のビールがいまでも生産されています。我々が訪問した時も「地震のことは日本人が一番良く知っている」と非常に期待されていました。
  国際的環境と民主化
 トルコはヨーロッパとアジアの境目にある国です。西欧的近代国家の側面と東洋的遊牧民族的側面の両方を持っています。双方が混ぜ合わさったものが国民性となっています。
 トルコでは、西のギリシャ、北のロシアは歴史的宿敵と見なされています。また、東のイラン・イラクとはクルド問題、イスラム原理主義の進入などで緊張が続いています。そのため今でも軍隊が国の要であることに変わりはありません。国内での左翼の台頭やイスラム原理主義の台頭を抑えバランスが保たれているのは、軍の存在があるからなのです。当然そのような状況で、過度の民主化はバランスを崩す要因として牽制されることになります。このことは、復興の方法にも大きな影響を与えることになります。

 ■ 被害の原因
  北アナトリア断層
 今回の地震は、この断層に沿って発生しました。地震は数十年おきに東から西へと震源地を移動させながら起きていました。一九六七年にはサカイヤでマグニチュード7以上の地震が発生しており次はイスタンブールだと言われていた矢先でした。実際、我々が帰国した一カ月後、十一月十二日に今度は数十キロ東のボル県デュズジェを震源とする地震が発生し五百人以上の死者が出ました。現在、次はイスタンブールで一年以内に起こるというデマが流れてパニックが起こっているといいます。
  殖産興業〜人口集中
 トルコはもともと食糧自給率一〇〇%を誇る農業国でしたが、産業立国を目指す近代化政策により工業化が進められました。今回、大きな被害を出したコジャエリ、サカルヤ、ヤローバ、イスタンブールは、ヨーロッパに近いことから工場誘致が早くから進められました。外国企業の進出も積極的に行われ、トヨタ、ホンダ、ブリヂストン等の日本企業の工場もあります。雇用が生じると、農業の合理化による余剰労働力の発生もあって、地方から多くの人々が押し寄せてくるようになりました。トルコ全体での人口増加は一〇〜一三%なのに、今回の被災地区では、一九七〇年以降二四〜三〇%という勢いで増加しており、現在でも毎年二十五万人が、この地域に流入しておりトルコ人口の二五%がこの地域に住んでいるという状況です。
  ゲジェコンド〜都市政策の後追い
 一九五〇年代の法律では、工場建設に際して従業員の住宅を併設することが義務づけられていましたが、すぐに工場誘致優先のため緩和されました。そこで発生したのが「ゲジェコンド」という非認可住宅です。「ゲジェコンド」は、トルコ語で「一夜にして建てられた不法占拠住宅」を意味します。「ゲジェコンド」は大都市に集中し、首都アンカラでは七〇%以上が、イスタンブールでは六〇%近くがそうだと言われています。
 一九六六年には「新不法占拠住宅法」が制定され、「改良、撤去、予防」の三つの施策がとられました。しかし、一九八〇年には、早くも条件付きの緩和措置がとられ、一九八五年には一定条件下での建築許可免除が認められるなど実質的な法の骨抜きが進みました。都市基盤の整備されていない地区にどんどん住宅が建てられ、自治体は後追いの形で道路・水道等の整備をするという構図が定着してしまいました。膨大な流入人口に住宅を供給するということで、環境整備や安全性ということの無視が正当化されたのです。 
 トルコのマンション事情
 トルコにおける集合住宅の供給は六五%が民間企業(分譲方式)によるもので、三〇%は日本のコーポラティブに似た協同組合によるものです。現在も公共住宅の建設は、ごくわずかのシェアを持っているにすぎません。
 被災地周辺は、ここ数年住宅バブルの状態で住宅建設がより投機的になり、小さな建設会社が劣悪な非認可住宅を競って建設しています。今回の震災被害は、その大半が二十年以内に建てられた「ゲジェコンド」と呼ばれる中高層住宅でした。我々がイスタンブールから被災地に向かう高速道路から見える丘陵地には、「ゲジェコンド」と思われる建設中集合住宅の現場が延々と続いていました。
  建築の耐震技術
 トルコにはちゃんとした耐震基準がありました。そして一九九八年には、日本並みの基準に改訂もされていました。新基準で建てられた建物はほとんど存在していませんが、旧基準で建設された高層ビルや伝統的な知恵で建てられた低層住宅にはほとんど被害がありませんでした。木造の骨組みに泥煉瓦を積んだ古い民家の隣で、まだ新しい鉄筋コンクリート造の集合住宅がぺしゃんこになっている光景に何度も出くわしました。問題は耐震基準が古かったのではなく、基準を守るシステムがなかったのだと思います。基準に従って構造計算をしたり、施工監理をしなかったのです。その意味で制度上の問題であり、人災であるといえます。

 ■ トルコ建築家との対話
  建築家の責任
 どこの会場でも訊かれたのは「日本では、建築家や建築技術者の責任はどのように問われたか?」という質問でした。それに対し「建築家が設計し監理した建物では、ほとんど被害がなかった」といった回答をしていましたが、その後、トルコ建築家会議所が地盤の悪い地区の住宅開発を止めるために自治体相手に訴訟までしたという話を聞き、責任のレベルの差を突きつけられた思いがしました。トルコでは、インテリである建築家はリベラルと見られ復興の場でも政府からは敬遠されているような印象で、そのことに対してフラストレーションを感じているようでした。社会的な責任感が強く、政治的な発言も多く、建築家が国会議員であることも珍しくないという在りように、日本の建築家との大きな違いを見せられました。
  自然災害とは?
 トルコの建築家の発言で印象に残ったのは、「日本もトルコも地震国である共通点を持っている。我々地震国の国民は、これまでも地震の中で文明を築いてきた。お互いに、地震と共存する知恵を分かち合って行きたい」というものでした。そこには、個々の災害という視点を超えて、自然災害の普遍性を見つめようとする姿勢が見られ新鮮なショックを感じました。神戸で我々が苦労してきた復興の課程を、どのように全国に発信出来るのかという問題と通じる視点が、既にそこにはあります。

 ■ 他国の災害から学ぶもの
  復興と民主化
 災害からの復興では、被災者がどの程度自立的に復興を担えるかが大きな要素となります。神戸で言われた「住民主体」それがトルコでどの程度までできるのか。逆に神戸における「住民主体」の中身がトルコで問われたともいえます。「住民主体」は「情報公開」と対でなければ意味をなしません。国内外に緊張を抱えるトルコと大きな自信を持って都市経営をやってきた神戸市の間に「情報公開に消極的」という共通点を見てしまうのはうがちすぎでしょうか。亡くなった草地賢一さんが良く言われていた「災害は避けがたく民主化を迫る」という言葉が胸に重く沈みます。
  災害は社会的弱点を衝く
 阪神大震災では、老朽家屋に住む高齢者と整備の遅れた密集市街地の住民が被害を受けました。トルコにおいては、雇用を求めて農村から出てきた人々が被害を受けました。神戸においては、郊外開発が一段落し都市インナーの再整備が課題として考えられるようになった矢先でした。トルコでもわずか三年前の国連ハビタット会議で、この地域の安全性について大きな警告と改善への提案が行われた矢先でした。対策が遅かったと後から言うのは簡単です。災害はほとんど予告なしに起こり、その時点で最も弱い部分を確実に襲い被害を拡大します。
 そこから得られる教訓は、長期的対策と併行して、被害を最小限にする短期的即効的(防災コミュニティ、建物補強等)な対策を行うことの重要性です。

 ■ 最後に
 トルコ建築家会議所から招請を受けた時、神戸の復興経験をどのように伝えようかといろいろ思案しました。しかし、十日間彼らと行動を共にして、知識の面では何も伝えるものがないことが判りました。トルコのことは、彼らの方がよく知っています。結局、いろんな問いかけをしても最後は「専門家」として「市民」として、自分はどのように責任を果たすべきかという形で自らに返ってくることになります。我々の訪問の最も大きな成果は、両国の建築家が十日間そのような問いかけの時間を互いに共有したということに尽きるように思います。
 今、デリンジェという地区ではC・C・Cという建築家を中心にしたNPOが、神戸のNGOの支援を受けて「住民主体」の復興を実践しようと頑張っています。小さな芽であっても、トルコで「住民主体」が実現することに希望を持ちながら、神戸における「住民主体」を言葉通りのものにすべく、まだまだ頑張らなければと思っています。
台湾大地震復興状況と
ボランティア活動
市民社会研究所所長 今田 忠
略 歴
1937 大阪府生まれ
1959 東京大学卒
日本生命財団、笹川平和財団、阪神・淡路コミュニティ基金代表を経て、
現在市民社会研究所所長、(株)都市づくり研究所代表取締役、中京女子大学客員教授ほか。
著書・共著に、「フィランソロピーの思想」(林雄二郎、今田忠編、日本経済評論社)ほか。
監訳書「台頭する非営利セクター」(ダイヤモンド社)など。

 一九九九年の暮れも押し迫った十二月二十七日、二十八日の両日、今回の大地震で大きな被害を受けた南投県埔里鎭を訪問する機会を得た(二十六日関西空港発、二十九日関西空港着)。
 訪問者は中辻直行阪神高齢者・障害者支援ネットワーク代表、こころのケアの専門家である川端頼子、内坂由美子のお二人と今田の四名、案内は楊孟哲台北師範学院講師。
 当初の予定では楊孟哲先生のコーディネートで、台北でセミナーを開催する予定であったが、参加者が少ないため現地を見せてもらってから交流会を開くことになった。
 突然に中辻氏から声がかかり、様子も分からないまま現地入りし、様子が分からないまま帰ってきたのであるが、台湾の某基金会(日本の財団法人にあたる)がスポンサーであるとのことで、経費はすべて先方持ちの申し訳ないような訪問であった。宿舎も圓山大飯店という蒋介石夫人の宋美齢が建てさせ、迎賓館として使われていたという豪華なホテルであった。このホテルもホテルの社会貢献として無料で我々に提供されていた。
 通訳として、セブン・イレブンの台湾法人であるPresident Chain Store Corp国際チームの蔡香齢さんが二日間同行してくれた。彼女も会社の社会貢献の一環として、出勤扱いになるとのことであった。
 実は黒田裕子さんが翌日に合流する予定であったが、セミナーが中止になったため、直前に関西空港から引き返すというエピソードもあった。
 私は一九九二年二月以来ほぼ八年ぶりの訪台であった。前回は台北のみであったから、セミナーが中止になり現地を訪問出来たのは幸いであった。
 以下、埔里での被災状況とボランティアを中心に、その他の関連事項を報告したい。

 1. 埔里での避難生活
 埔里ではまったくタイプの違う避難生活を見ることが出来た。
 (1)慈済大愛村
 その一つが、神戸にあったような仮設住宅群である。戸数はあまり多くはなく二百戸余であるが、中心部の通路は、煉瓦でカラフルに簡易舗装されている。一戸の広さも神戸のものよりはかなり広く、約十二坪。畳の部屋が三室と広間でバス・トイレ付きである。もっとも世帯の人数が多いので、実質的にはかなり狭い。高齢者のみの世帯や単身高齢者は入居していないようであった。
 仮設住宅地の中央奥に集会室が設けられているのは神戸と同じであるが、かなり広くしかも木造で暖か味がある。全体に神戸の仮設住宅群より雰囲気が明るい。花が植えられていること、こどもの姿が見られることなどのためであろうか。
 これらは行政が用意したものではなく、仏教慈済慈善事業基金会という民間の財団が建設・運営している。集会室の前は奇麗な庭になっており、そこに「慈済大愛村」という大きな石碑が立っている。
 この基金会は一九六六年に設立された歴史の古いもので、日常的に慈善活動を行っており災害援助の経験もある。今回の震災にあたっては会員以外からも多くの義援金が寄せられ、それを財源にして運営している。入居者は家賃は不要で、光熱水費のみを各戸についているメーターに基づいて負担する。
 ライオンズ・クラブのバッジをつけた老人が案内をしてくれたが、ライオンズ・クラブも支援をしている。企業は赤十字への寄付が主で、直接の支援はないとのこと。ここは仏教系であるが、健康相談や診断にはキリスト教系の医師、看護婦が診療所を仮設住宅内に開設している。また一九九九年末までは無料の公衆電話が設置されている。入り口には派出所(もともとこの場所にあったらしい)もあり、かなり整った環境だ。

 (2)守城
 ところが同じ埔里でも先住民の少数民族居住地である農村地区の守城では状況がまったく違う。黄美英という中年の女性人類学者が、学生ボランティアを指揮してエネルギッシュに動きまわっているが、農村部には行政や民間の支援が来ないので自力再建をせざるを得ない。先住民はもともと仕事が少なく、アルコール依存症に陥りがちであるし、老人、こども、女性の生活が、地震を契機に深刻化しているという。農家から土地の提供を受けて公民館のようなものを建てることを計画しているが、資金のめどが立たない。
 被災者は仮設に暮らしている。こちらの仮設は温室のような遮光プラスチックの屋根のカマボコ兵舎のような共同住宅で、大雨には耐えられそうもない。台所、バス、洗濯室は共用、トイレは外に仮設のものが設置されているだけで、居住環境は「慈済大愛村」に比べるとかなり厳しい。この仮設は隣の小学校の用地に政府からの住宅再建資金で住民が自力で建設した。しかしこのような仮設に長い間暮らせるわけでもなし、今後が心配である。
 今回の震災で台湾政府は持ち家所帯に対して、仮設住宅を提供するか、あるいは一人あたり二〇万元の住宅再建資金を給付するか、どちらかの選択制にした。守城のような農村部では、離れた土地での仮設住宅では生活ができないために、住宅再建資金の給付を受けて、自力建設するしか選択肢はない。
 ここの住民の中には仮設にも入れないで雨露をしのぐだけのテントで生活している人もいるし、片方の足と一方の目が不自由な老婆が、貨物コンテナの中で一人で暮らしているといった胸の痛む状況もある。
 このような問題は発展途上国であれば国際NGOの支援の対象であるのかもしれないが、台湾はもはや先進国なので国内で解決してもらわなければならないのだろう。このような問題に地道に取組む助成機関の活動が求められる。

 (3)菩提園
 三つ目の事例は、売れ残りのマンションを高齢者の避難所に転用している例である。これを運営しているのは仏香書苑文教基金会で、この基金会は震災対応のために化育基金会や弘道老人福利基金会、南山人寿愛心種子会の関係者が設立した基金会である。
 このマンションは菩提園という仏教徒用の分譲マンションで二棟からなり、入居済みの一棟は半壊してしまったが、まだ販売が完了していなかった棟は被害が少なかったために、老人用の避難所に転用しており、約百名が入居している。宝蓋建設という会社が建てたマンションである。仏教徒用のマンションを建てるような会社であるから社会貢献の理念で提供しているのかもしれない。もっとも入居者の家賃は無料であるが、基金会からオーナーに使用料は支払っている。ケアを要する人には特別のベッド配置をしており、医師の診療も受けられるようになっている。
 もともと分譲マンションなので、居住環境も良い。しかし、数人の相部屋であるから、仮設住宅が整備されれば、そちらに移りたいとの希望が多い。高齢者用の仮設が用意されるのかどうか詳しい事情は分からない。いずれにしろこのマンションの使用期限は二年ということで、それまでに住居の問題を解決しなければならない。

 2. 日月潭の被災者
 震源地に近い観光地の湖、日月潭では、観光の中心地は復旧しているようだが、対岸では、まだテント生活が行われている。テント生活者の一人で一九二二年生まれの老人に日本語で話を聞くことが出来た。老人は一九三五年の地震をよく覚えていて、人生に二度も大地震を経験している。長じて日本軍に徴兵され、樺太からレイテに出撃し、捕虜となり、戦後故郷の日月潭に戻り、茶の小売りを中心にかなり手広く商売をしていた。震災で半壊し一家八名でテント生活を余儀なくされている。テントといっても間仕切りのある、かなり大きなものである。テントのための器材や機具は兄弟からもらったそうだ。家族の助け合いが生きている。
 我々が訪ねた翌日から別の場所を借りて商売を再開するということで、準備が整っており、なかなかの生命力である。

 3. ボランティア
 二十七日の夕刻七時から埔里の市街地でボランティアとの交流集会が開かれた。主催者は新故郷文教基金会の江大樹執行長、会場は女性団体の事務所らしい。参加ボランティアが約十五名、三分の二が女性である。
 話題としては川端頼子さんと内坂由美子さんの心のケアの問題が中心で、とくにボランティア自身の心の問題への関心が高かった。川端頼子さんは長野県小布施町の新生病院のホスピス病棟で仕事をしているケアワーカーで、大きな精神的ショックの後に経験する「悲嘆」について、専門的な話を分かりやすく解説された。
 そのほかボランティアのネットワークコーディネート機関、ボランティアの研修への専門家としてのソーシャルワーカーの関わり方などについての質問があった。
 基隆から現地に入っているフリーのソーシャルワーカーである戴招元氏は、新聞にも取り上げられ、新しい形の慈善を目指して『愛的文摘』という雑誌を発刊するなど、なかなかの活動家らしい。

 4. NPOマネジメント・スクール
余談であるが、仏香書苑文教基金会の事務所に、「非営利事業管理研修班」のポスターが貼ってあった。南華大学と仏香書苑文教基金会の共催で、五日間連続のコースである。受講料は一万五千元、日本円で約五万円であるから、安くはない。
 詳しくは聞くことが出来なかったが、NPOという言葉を使っていた。

 5. 神戸元気村
埔里には、先住民の集落も含めて、「神戸元気村」のボランティアが早くから入っていて好評をもって迎えられているようだ。

 6. 霧社
 二十七日の夜は霧社の近くの山荘で泊まり、翌朝、霧社の街中で朝食をとった。霧社は先住民の町で、日本統治時代の一九三〇年に抗日闘争の起こった地である。街中の小さな公園に霧社事件の抗日記念像が建てられている。この事件については、台湾の人と話はしなかったので、現在の対日感情は分からない。

 7. 感想
 これらの見学を通して感じたことは台湾の人たちの自立精神と家族の絆の強さ、それに基金会といった民間団体による多様な活動が行われていることである。また義士とか志士とかいわれるボランティアの純粋さである。行政は自立を支援するという立場に徹している。
 行政の緊急対応は、神戸の場合より、はるかに迅速、適切であったようだ。少数民族の問題等があるにしても、比較的早い時期に生活再建が行われているが、これから長期的には多くの問題が出てくることが予想される。
 神戸でも同じであるが、震災前からの諸問題が震災を契機に顕在化してきたものが多い。
 急峻な山肌がえぐり取られたままになっており、治山・治水には膨大な作業と費用を要する。政治的にも大きな問題になってくることが予想される。
 (この報告には同行の内坂由美子さんの報告も参照させて頂いた)
シタタカ者で行こう トラベルライター    田中 維佳
略 歴
1967 オーストリア生まれ。
1989 国立音楽大学を卒業し、証券会社で堅気の勤め人を経験後、香港の飛行機会社の客室乗務員となって世界をウロつく。ここで旅にハマって人間観察系旅行作家に化け、現在は台灣に住む中国人と結婚中につき台灣在住。
著書・共著に、「ずっとアジアを旅していたい」(ベネッセ)、「おどろ気 ももの木 台湾日記」(毎日新聞社)、「アジア大バザール」(講談社文庫)がある。

 倒壊する台北のホテルに近郊の高層アパートビル。著書の出版記念パーティーを数日後に控えて日本に帰国した、台灣在住の私がこの映像をテレビで見た時は、文字通り肝がつぶれた。震源地から遠く離れた首都台北でもこのありさまでは、震源地にさらに近い桃園にある私の家などひとたまりもないに違いない。慌てて現地にいる旦那に連絡を入れるも、国際電話は混みあっていてまったく繋がらない。
 「台灣全体が壊滅状態? すでに私は未亡人?」
 涙が出るくらいに心配して台灣に戻って来たところ、何事もなかったように落ち着いた街の風情に却って拍子抜け。何人かの友人にお見舞いかたがた連絡を入れると「揺れたのは揺れたけど、台北で倒壊した建物は二棟だけで、両方とも違法建築だよ」と聞かされる。その二棟だけをテレビで大写しにし、さも壊滅といった報道を繰り返すものだから、台灣全土がズタボロになったかのような印象を受けちゃうのだ。
 「まったくマスコミっていうのは!」
 憤る私に台灣人の友達は言う。
 「でもいいじゃない、お陰で世界各国のレスキュー隊が来てくれて、義捐金も集まったわけだから」
 ははぁ、なるほど。そういう考え方もあるわけかと驚いたが、当の台灣人だって何もしないで指をくわえて見ていたわけではない。
 「何かできることはないか」
 人々は集まり、救援物資はあれよあれよという間にうずたかく積み上げられた。輸血用血液が足りないと聞けば、人々は献血所にわっさわっさと押し寄せる。
 「すでに充分な血液が集まりました」、列に並ぶ人達に告げる係員に
 「被災者のことも考えろ!」
 献血所前の市民が怒ってつかみ掛かる。
 「血液は保存がきかないので、ありすぎても仕方がないのに……」
 しかし、公務員である採血係の人たちは逆らえず、延々と残業を続けたそうだ。
 民間からの寄付は政府の投入資金を軽く上まわり、テレビではお金を寄付した人の名前と金額を画面端のテロップにて公開。フルネームが出てしまうのだから、「メンツを大切にする」台灣人が、何千元単位のはした金を出すはずがない。日本では寄付を募りはしても、払った人の名前や金額は当たり前だが公開されない。国民性を深読みした、なかなか心ニクイお金の集め方だと感心した。
 多くの個人や企業が、集めた義捐金を寄せたのは政府内政部(日本でいう内閣)と、民間の仏教団体である慈濟功徳会である。
 日本では赤十字への募金が多かったように思うが、まったくの民間団体へ巨額の寄付が集まるあたりも興味深い。
 今回の地震はもとより、台風にともなう水害などなど、なにかしら災害が起こると、いつも揃いのヴェストを着てボランティアに各地からやってくる慈濟功徳会の人々の姿は、テレビでもよく見かける。
 「ああ、あれはボランティアの人だ」
 被災者は揃いのヴェストですぐ分かり、震災当日から混乱なく、暖かい食事の炊き出しが行われたのだという。
 どれもこれも敬服してしまう手際の良さではあるが、あまり感心しないことも数々起きている。
 山地に住んでいることもあり、なかなか救援物資が届かなかった先住民の村。苦肉の策でヘリコプターにて物資を上空から投下したのだが、配られたものはペットボトルの飲料水。しかし、彼らはもともと井戸水の出るところに住んでおり、まったく意味のない救援物資となりはてた。
 被災地の視察に来ていた李登輝総統の乗ったヘリコプターが、被災者のテントをぶっ飛ばす。
 「何をするんだ!」
 文句を言った被災者に
 「そんなこといったって仕方ないだろう!」
 総統が怒りまくった。危害を加えておいて怒っていてはどうもイケナイ。
 同行したヘリコプターの一機が埔里に着陸する際、そばにあった木をなぎ倒し、一人の少女がその下敷きになって死亡した。「命からがら震災を乗り切った人を、現地視察に来た総統のヘリが殺してどうする」なのである。
 今回、死亡者に百万元、重傷者に二十万元、軽傷者に十万元、全壊家屋に二十万元、半壊家屋に十万元という見舞金が政府から支給された。被災者に対する優遇策として、銀行ローンの五年据え置き、健康保険料と診察料の半年間免除、新規住宅ローンが百五十万元までは無利子などが決められたが、今度はこれを目当てに住民票を被災地に移そうとする人が出る。
 離婚訴訟中だった夫婦の奥さんが地震で亡くなると、見舞い金を巡って婚家と嫁の実家が揉めて裁判沙汰になったりもする。
 「ああもう〜、なにやってんの?」
 エゲツなさには呆れてしまう。
 しかし、まことに不謹慎な言い草を承知で書くと、二〇〇〇年三月に行われた総統選挙前に地震が起こって良かったと私は思っている。こんなにも素早く見舞金などの政策がとられたのは、与党国民党が来たるべき総統選挙を踏まえてなかったといえばウソになるからだ。

 日本ではナマズなのだろうが、台灣では地下にいる「牛」が暴れて地震が起こるというような、迷信がかった表現をする。
「牛が暴れ始めたのは、総統選挙に党推薦ではなく出馬した立候補者を、国民党が党員から正式に除名しようとしたからだ」
 天災を政治に利用して票を集めようとする人があるかと思えば、被災地をひと目見ようと観光客が詰めかけて屋台が出現する……。
 震災を見世物にするなどもっての外だと思っていたら、今度は政府までもが、
 「倒壊した建物をそのまま保存し、地震博物館にして観光客を誘致する」
 七棟の「立入厳禁」の建物に、「取り壊し厳禁」のオフレを出してしまった。
 七十二時間が限度と言われる地震救出神話を覆すごとく、近くにあった冷蔵庫の中の水と食べ物で必死で持ちこたえ、奇跡の救出となった台北の兄弟。彼らをモデルにした映画を製作しようではないかという話が持ちあがる。
 なんでもかんでも、地震を「利用」してしまうのだから訳が分からない。

 地震から三カ月。私は震源地の仮設住宅へとインタビューを取りに向かった。
 無残にも家屋が倒壊して歯抜けのようになっている南投縣の大地には、
 「耐震設計、震度八にも耐えられる!」。
 大きな看板の出ている、モデルハウスがあちこちにどどぉ〜んと出現していた。まわり一面に更地が広がっている中で、豪華にデコレーションされたモデルハウスは、なんとも異様であった。
 かなりの被害を受けた南投縣・中寮。二階が一階になるほどに潰れ、ひしゃげてしまった役場は解体されずにそのまま放置。
 役場の人に話を聞いてみると、政府から指定を受けた七棟のうちの一つではないらしい。
 「重要な観光資源なので、残しておいて博物館にしようと現在申請中なのです」
 ひぇっ! 七つでも充分に多いというのに、まだ増やすか……。
 震源地集集には集集線という単線の列車が通っていたのだが、これも地震で道路とレールが寸断。修復工事中で列車が通らないのをいいことに、集集駅ではレールの上に寝そべって記念撮影をする家族連れが何組もあった。
 こんな彼らを見ているうちに、私はふと「これが台灣の復興スタイルなのではないのだろうか」と考え始める。
 復興にはどうしたってお金が掛かる。「エゲツない」だの「不謹慎」だのと、私なんかが彼らを非難している場合ではないのだ。
 「被災地ツアー」を催して国内外から大勢の人が来てお金を落としていってくれるのなら。屋台で観光客が食事をしてくれ、儲けることが出来るのなら……彼ら台灣人はそうして潤うことの方を歓迎しているのだから。

 各国からの援助、特に阪神大震災を経験した方々が、台灣に分け与えてくれた知識やノウハウは大きかった。日の丸のついた仮設住宅は軍隊によってほんの数日で設置され、早くから「心のケアが大切だ」というアドバイスを受け、被災地にカウンセラーは今や常識。震災から四カ月半、何もかもが素早く手配された印象を受けるのだが、被災者の九割に住居が割り当てられたと政府が発表しても、いまだテント暮らしを強いられている人もいる。二〇〇〇年二月十三日、経済苦を理由に被災者が自殺……。
 決して道は平坦ではないのだが、台灣には大きな武器があるように私は思う。地震と聞いて取るものもとりあえず『何かしたい!』と必死になり、献血所前では喧嘩までする台灣の「熱き人々」。震災を金儲けや観光のタネにしてしまう、「エゲツない」までのしたたかさ。これはちょっと真似できないシロモノではないだろうか?
 震災から一カ月ほど過ぎた頃から、私の住む台灣北部などでは特に
 「地震、そういえばあったなぁ」
 すぅーっと人々の興味が醒めつつあるのを、私は感じている。台灣はオランダから始まって海賊やら日本、はては中国本土から渡って来た国民党と……数々の征服者に揉まれ続けて今日に至る。「嫌なことは、さっさと忘れて諦める」思想でなくては、生きて来られなかった人達が台灣人でもある。震災直後にあれだけの関心を寄せた被災地以外の人々が、いかに「熱しやすく冷めにくい」まま、被災者達を見守って手を差し伸べていかれるのか……。これが今後の課題に違いない。
 だから、これを読んだみなさんが被災地観光や倒壊建物巡りという彼らの口車に乗ってくれることを
 「もっとシタタカにやらかしてくれ!」
 台灣人を煽りつつ、私は密かに願っている。
あ と が き 阪神大震災を記録しつづける会
代表 高森 一徳


 今回も八十二編の手記をお寄せいただきました。この時期になっても、発信すべき情報をお持ちの方が大勢おられるのは、望外の喜びです。第一巻でさえ、「原稿が集まるのか」と心配していました。「地震から六年目で、ようやく書く気になった」と、心の封印を解かれた方もあります。継続してご投稿くださっている方々には、心から感謝を申し上げします。
 財政面では、協賛会員や阪神・淡路大震災復興基金からのご支援、加えて編集、校正、選考作業にボランタリーに継続的にかかわってくださっている皆様方のご協力に支えられて、第六巻の出版にこぎ着けました。

 第五巻あたりから、地震直後の出来事だけでなく、震災をきっかけに始まったボランティア活動や二次災害など、地震後の出来事に関する手記が多く寄せられるようになりました。今なお復興が進まない問題は、その原因のほとんどが地震以前に求められます。そして、被災地に住む私たちにさえ、「震災とはなんだったのか」が分かりにくくなってきました。
 そこで第六巻では、現地に行かれた有識者にお願いし、トルコと台湾の大地震の報告記を寄稿して頂きました。いずれも、宗教や大家族制度が求心力を持ち、軍隊でサバイバル訓練を受けた成人が大勢いる社会です。また、地震以来、継続してボランティア活動をされている方々から、支援する側の思いや経験もご寄稿願いました。
 このように、複数の視点からみることによって、はじめて震災の検証ができるのではないかと考えます。そして、検証の結果は、個人の立場や考え方の癖によって違って当然です。私たちの会が、お互いに、腹蔵なく検証結果を語り合い、できれば、一部を共感し合える場のひとつになれればと考えております。
 地震から六年目。地震で重たい体験をされた方々は「体験の相対化」ができはじめ、それ以外の方々は「他人の体験への関心」が問われる時期のようです。

 今回も編集・校正作業には、井原悦子、小橋繁好、高森香都子、森本博子、山本保子の各氏のご協力を得ました。ありがとうございました。
 スタートから危ぶまれた私たちの活動も、皆様方のご支援で、十年十巻が実現しそうです。ホームページのヒット数も二万を超えました。とはいえ、手記の数は逓減しております。来年からの三巻に寄せられる手記は逐次ホームページに掲載し、それらは毎年ご希望者にお配りする小冊子に収録します。そして、第十巻は十年間に寄せられた手記を総集して、再び市販本で出版します。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。