まえがき ボランティア元年から 編集総括 小橋 繁好
  二十一世紀へのカウントダウンが始まった。不透明な先行きの中にも、情報技術社会の幕開けを報じる記事が新聞に踊る中で、こんな短い記事が載った。

  阪神大震災の仮設入居者ゼロに
 一九九五年一月十七日に起きた阪神大震災で、被災者向けに建設された仮設住宅最後の入居者が十四日、引っ越しをして、ピーク時に約四万六千世帯が暮らした仮設住宅が解消された。(朝日新聞二〇〇〇年一月十四日夕刊)

  阪神大震災の仮設住宅孤独死、233人
 阪神大震災の仮設住宅で、独り暮らしの人がだれにもみとられずに亡くなる「孤独死」は二百三十三人にのぼることが十三日、兵庫県警のまとめでわかった。内訳は男性百六十一人、女性七十二人。死因は病死が二百四人で、自殺が二十人、事故死が九人だった。仮設住宅は十四日にもすべて解消される見通し。(朝日新聞二〇〇〇年一月十四日朝刊)

  最後の震災「避難所」消えた
 阪神大震災の発生直後に設けられた避難所のうち、神戸市兵庫区の本町公園に居住を続けていた一世帯二人の被災者が二十二日、建物を撤去して転居した。避難所は入居者の仮設住宅への移転に伴い、震災から七カ月後の一九九五年八月に制度上は廃止され、その後は移転のめどがたたない被災者らが「旧避難所」として住み続けてきたが、これですべて解消した。(朝日新聞二〇〇〇年四月二十三日朝刊)

 阪神大震災に限れば、「避難所」「仮設住宅」という言葉は「死語」と思っていた人が多いのではないか。だが、それが消えるのに五年の歳月が必要だった。しかも、そこで二百三十三人の命が失われた。

 今回の体験記募集にも、一九九五年一月十七日の「出来事」を綴った手記が数多く寄せられた。その中で、これまで報告されたことがない、いくつかの「埋もれた話」に出会った。
 地震直後、信号も止まり警察も間に合わない中で、何人かの若い男の子たちが交通整理をしていた。自分のことだけでも必死なのに、人のために動いている彼らをみて、胸が熱くなったという。(「混乱の中で」)
 水を求める被災者に、自分が持っていた水筒の水をボトルに移し替えてくれた自衛隊員がいた。(「水筒」)
 震災時にホテルでレストランサービスの仕事をしていた時、復旧工事のために長期滞在していた人と出会った。地震がなかったら決して巡り合うことがなかった人との文通がいまも続いている。(「片隅の額」)

 ボランティア元年といわれた一九九五年。そこで芽生えた木は、大きく育っている。今回、ボランティアの原動力となった人たちにも活動の記録を寄せていただいた。
 支援の輪は世界に広がっている。その後に起きたトルコ、台湾地震についても現地リポートしていただいた。
 体験記を募集し、出版し続けるとともに、ボランティア活動を記録することも大切だと思う。それはまた、私たちの会の重要な使命でもある。

  二〇〇〇年六月

月  日
蔦(つた) 中村 専一(六十歳 自営業 長田区)
 行政が被害の大きかった長田地区を復興するためにかけた網が、逆効果になって現れている。昭和五十年に作られた法律によって「震災復興」をしようとしている。正に時代錯誤である。
 被災住民の一人として、もがき苦しみながらの五年が過ぎた。その中で嫌いな言葉を三つあげることができる。
 1 がんばろう
 2 協働のまちづくり
 3 プロ
 まず「がんばろう」はすべてのものを焼失してしまって最低限の生活さえままならない人、肉親を失って立ち直れない人などには、残酷な呼びかけだ。たとえるならば楽しく散歩をしていて、突然千尋の谷底に突き落とされた人に、がんばれと言っているような感覚がする。谷底からはい上がれる人が、どれだけいるのだろうか。「手をさしのべる」イコール「国の援助」という手助けがあって、はじめてはい上がれると思う。
 インフラ整備に無駄な税金を投入するのを目のあたりにして今でも納得がいかない。義援金は大勢の被災者には焼け石に水である。ボランティアの方々の善意に頼り切って、旧態依然の対応しかできない日本は正に「後進国」そのものであろう。
 次に、「協働のまちづくり」をしようという神戸市の態度は、被災者を愚弄している。
 網をかけずに「共同」で町を創るのが筋というものだ、協働とは「住民が行政に協力をせよ」という意味が含まれている。「再開発や区画整理をやるから、住民は行政に協力をせよ」、こんな態度で震災復興をやろうとしている。従来の住民参加型の行政でなく、参画させるべきだ。即ち住民と行政が対等な立場で知恵を出し合って「共同のまちづくり」に転換すればすばらしい街が出来ると思う。
 再開発第二種の一番大きな特徴は、行政がどんなことがあっても事業が貫徹できるような法体系になっていて、住民のための法律でないところが最大の問題である。
 すべての住民を追い出して行政の土地にする。そこで長年生活や事業を営んできた方々の「個人資産」はゼロとなり、強制収容された「資産」の等価のビルの共有面積が与えられる。法律的にはビルの床を売るのではなく、与えると条文に謳われている、背筋に冷たいものが走る。法律という名の下にこんなことが許されるのだろうか?
 震災で全てを焼失し、借金をしてやっと建てたプレハブの建物も、以上のような法律で強制収容されてしまう。それがいやだという人は強制買収した土地と建物をお金に計算して渡され、ハイさよなら。これでその地区の権利は一切なくなってしまうのである、私は絶対に納得することはできない。
 次に、震災後に再開発や区画整理の網がかけられた地区には、協働のまちづくりをするために「まちづくり協議会」ができた。神戸市内で百団体以上発足した。その協議会に、行政の費用でまちづくりの「プロ」であるコンサルタントが派遣され「住民案」の作成をゆだねられる。
 第三者が聞くと良いシステムで、立派な街ができそうだが、私の住んでいる地区を含めて、内容はまるで違う。コンサルタントは行政に楯突くような「住民案」を作ると今後は仕事がなくなる。また、事業費が大きいほどコンサルタントの収入も大きくなる。出来上がった街がどうなろうと、コンサルタントは責任もない。街が失敗するのはそこに新しく住む人たちの責任である‥‥と。
 こんなプロはご遠慮願いたいが、さりとて素人である「住民」がそんな案を出せるわけがない。他街区ではほとんど「住民案」が出されたが、事業が遅々として進まないのはこのような理由によるものと思う。
 本当に住民の立場に立った「プロ」を地元は望んでいるのだが、五年たった現在もその望みは満たされていない。だから私は「プロ」が大嫌いである。
 以上のような五年間を何かにとりつかれたように「街づくりをしよう!」と突き進んできたが、立ち止まって振り返り「街は創るものだろうか?」との疑問を感じるようになった。
 街は長年にわたって出来上がってきたのが、本来の姿である。確かに震災という大きなダメージをどう工夫するか、課題は重い。
 街づくりの役員はしんどいが、プロに頼らずプロを使って自分たちで考え、立案して都市計画の大幅な変更を含めた提案を出すべきだと考えている。
 こんな五年間のストレスが積もりつもって、昨年(一九九九年)十一月二十四日に心臓の病気を発病してしまった。
 私は震災後百三十日位で店舗の再開店が果たせた。そのときにこの焼け野原で本当に商売が成り立つのだろうか?
 焼け跡からはい上がろうとの思いを込めて店舗の横に蔦を植えた。
 その蔦は五年経って壁面を覆い尽くしているが、まだ街も私も復興していない。蔦のように私がはい上がれるのはいつの日であろうか。
先生、不事です 長谷川 美也子
(五十二歳 高校教諭 須磨区)
 昨年(一九九九年)の八月十五日、加古川プラザホテルで四十二歳になる卒業生の学年同窓会が開かれた。私は挨拶で震災にふれた。I君がすぐに我が家に来てくれたが不在で会えなかったこと、ドアに名刺をはさんでおいてくれたことを披露した。そして、そのメモ用紙がわりの名刺には、「先生、不事ですか」と書かれてあったことを暴露した。大爆笑であった。国語が苦手であったI君らしいなと、あのとき私は笑ってしまった。この日もお互いに生きていればこそ笑えるのだ、みんな元気でいようねと挨拶をしめくくった。
 その、あの日から五年の月日がたった。あの年は一月十四日から三連休であった。十四日には新婚間もない卒業生のHさんを訪ねた。
 「先生が来る」というのでわざわざ駆けつけてくださったおかあさんを交え、熟女三人が怪気炎をあげた。外には雪が舞っていた。十五日の夜は、同僚の母上のお通夜に参列した。翌日、告別式が営まれた。ある先生が「今年はもうこんな服(喪服)着たくないね」と言われた。皆同じ思いであった。ではまた明日と別れた。
 そして、一月十七日を迎えた。夜中、何だか寝苦しく、冬にしては蒸し暑かったのを今でも覚えている。いつも通り午前五時に起床し、朝食の準備をしていた。電気が消えた。眼鏡がはずれた。?!と思う間もなく大音響とともに家が揺れた。こんなところ(神戸)にも地震やと思いつつ、テーブルの下にもぐり込んだ。テーブルの下にはいろいろな物を置いていたので、お尻が出ていた。太めの私は「お尻入らへん。友達のNさんだったらもっと入らへん」などと思うゆとりもあった。すぐにおさまると楽観していたからだ。多くの人が亡くなったり、長田の叔母の家が焼けたりしたことを知ったのは二日後のことだ。斜めに倒れていた大きな本箱の上をよじ登り、真っ暗な庭へ飛び出した。「斜めに」とは明るくなってから分かったことだが、何かが私の体を押し上げてくれたように感じた。ばかばかしい話かも知れないが、亡き父がそうしてくれたのだと今でも私は確信している。年末には、父の一周忌をすませたばかりであった。
 震災を機に生活に一つ変化があった。それは犬が家族の一員になったことだ。その犬、ゴンは震災後の九月に生まれ、十月に我が家に来た。更地が多かったので、番犬として同僚からもらった。最初のころはただの犬としての存在であったので、抱いてやることも写真を撮ってやることもなかった。かわいらしさが分からなかった。半年を過ぎたころから写真が増え、写真店に笑われるほどになっている。立派な成犬になってしまった今は、ゴンぬきの生活など考えられない。ゴン自身も自分を犬だと思っていないようだ。まだ恵まれている方だとは思うが、私にも震災後、いろいろなことがあった。けれども、とにかく生きている。ゴンと散歩できる幸せをいつもご先祖様に感謝している。
 あのときには命さえあればと誰もが祈ったはずだ。それなのに時間がたつにつれて欲が出てくる。瓦礫と化した物への未練や愛惜の念が湧きおこってくる。あのときのつつましい気持ちはどこに行ってしまったのだろう。けれども、生きさせてもらった「感謝」の気持ちだけは持ち続けているつもりだ。三連休が明けて出勤する日だったので助かった。もし休日であれば私は五時に起きていない。私の枕元にはテレビが転がっていた。助かった多くの人がそうであったように、生と死は本当に紙一重の差だ。六千三百人の遺影の中に私がいてもおかしくないのだ。あの服を着てもらうことになっていたかも知れないのだ。我が家は建物が倒壊したわけではないから、明るくなれば自分で脱出できただろう。しかし、それはラッキーな結果論で、何かの下敷きになっていた可能性もあるのだ。私は父に生かされたのだ。
 多くの人々の協力、愛情をいただいて今の私はある。とりわけ、半年間も私達家族を住まわせてくれた伯母、物心両面で世話をしてくれた卒業生のA君達にはあらためて感謝感謝だ。職場の皆さんにも心の中であらためてお詫びとお礼を申し上げたい。当時私は学年主任という立場にありながら学年の生徒のことも、学年の先生方のことも放り出して自分のことだけにかまけていた。激震地に住んでいるのは私だけだとか、車に乗れない私には通勤手段がなかったのだとか言い訳はしてみるが、あのときの私のぶざまな姿は、今思い出しても恥ずかしくなる。
 この震災で卒業生T君のお母様が犠牲になられた。十年以上お会いしていなかったが、遺影のお母様は私が覚えていたままのお顔であった。「家が焼け落ちる前に救い出せてよかった」と言うT君の言葉が今も私の心に残っている。合掌。
甘 え                     山中 敏夫(七十二歳 元神戸市議会議員 兵庫区)
 本年(二〇〇〇年)正月四日のNHKテレビの番組で、中坊公平氏が「これからの日本人は、縦系列のお上からの支配、行政依存、不満、反発、そして自分だけ(自分の地域だけ)への利益要求と誘導を求めてきた『日本型政治土壌』から脱却し、横社会の連帯、協調、公平を高め強めなければならない」と指摘していた。
 これを聞いて私はいたく同感した。市議会議員時代、理想を掲げ、求めてきたものの、左右の思想政党を問わず中央から地方に至るまで、住民の「エゴ」をいかに獲得するか。税金をいかに我に、我が地域に、我が支援団体に、職域により多く配分してくれる政治力を議員に求め、実現の如何によって支援の可否が決定されてきたことに対する疑念を払拭しきれていなかっただけに、「我が意を得たり!」の感があった。
 このことは、大震災に遭遇した人々にとっても当てはまると思った。
 第二集にも述べたが、避難所の第一夜、あの非常事態のなかで「わしらは税金払うとんやから、こんな時こそ行政は、水もめしも毛布もチャンと揃えて面倒みてくれなアカンやないか。ナアみんな、そうやろ」「そうや、そうや、ほんまやで」と周囲の多数の声を聞いたときの思いがよみがえってきた。
 震災二年目から始めた、神戸市老人大学のシルバーカレッジのボランティア「木工グループ」の活動の中で、仮設住宅の車椅子用の三メートルもの長いスロープを受注して届けたとき、材料代は頂けることになっていたのに、「あんたらはええわなァ。わしらみたいに何にものうなってしもたモンとは違うて、人の世話を出来る余裕があるんやからナア! オオキニゴクロウサン」「あの……、実は材料代が一万五千円かかってますのやけど」「なにぃ! わしらにそんな金あると思うとんか。あんたら金もヒマもあるんやから出しといて」「……」。現地にはりついてお世話をされているボランティアの方に、「一寸約束が違うのではないか」となじると、「材料代はちゃんと負担して頂くことになっているんですがネ……」と結局材料代はパア。私達の負担になってしまった。
 その他、重度障害者の方の起き上がり補助器具を工夫して届けた時も、「こんなもん、わしの役に立たんわ。いらん」とそれっきり。
 仮設住宅の床下に犬や猫が出入りしてうるさいので、隙間を塞ぐ仕事の求めに応じ、材料代九千円を請求したが、「そんなもん、あんたらが出してくれるんとちがうんか。わしらそんな金払う余裕なんかあらへん」の返答。依頼を受けた区の社会福祉協議会に相談して何とか払って貰った、等々。
 大半は良識のある善良な人々であるが、あまりにも突然の大きな被害、収入の途絶え、これまでの隣人、知友人関係の中断等による痛手に対して差し伸べられた支援に甘えが芽生え、一部の声高な人の誘導で少しずつ拡がっていった。
 失った財産、特に住む家を再建するための個人補償を求める声は被災者大半に拡がり超党派的要求となってさまざまな具体的提案と運動が行われてきたが、僅かな支援制度を見るに止まっている。
 「災害は忘れた頃にやってくる」、古くからの戒めのことばである。しかし、その恐ろしさ、悲しさ、辛さ、不便さ等々の被災の実体験は、その被災地では次世代、或は次々世代に巡ってくることになるであろうし、いかに大災害とはいえ局地的であり、数十キロメートル離れた大阪の状況はまだ脳裏をかすめているし、東京に於ては「まだ地震のときのこと言ってるの?」といった感覚になっている。トルコ、台湾の地震にしても、実体験者の私達がいつまで思いを持続しうるだろうか。
 関東大震災の教訓で建築物の難燃化は建築基準法等の改善で進められたし、都市計画法でも改善はされてきた。しかし区、整理手法による減歩方式は、ただでさえ狭い都市の住宅敷地をより狭め、ムリなペンシルビルや、木造三階建てを増やし、中間検査が強制されることになったとしても大方の建築物は、資金の乏しさの中で安普請、手抜き工事の横行を認めざるを得なくしている。救急救援物資の備蓄にしても、各自治体の財政難から実施率は極めて低いままである。各家庭、各人も就寝時枕元に非常袋を置いているのはもはや僅かである。
 この教訓を無にしないためには、物質的な充足だけでは成し得ない復興、心の復興に重点を移さなければならないと思う。
それぞれの震災 高島 節子
(六十六歳 キリスト教児童伝道師 西区)
 一九九九年八月、蝉の鳴き声を聞きながら、震災をふり返っております。被災後いろいろ苦労しておられる人たちのことを、忘れることができません。
 私の通う教会の被災者たちの現状も、参考になると思います。
 七十すぎのある女性は、仮設住宅に住まなかったせいか、未だに県、市営住宅に入られないで、困っておられます。彼女も震災で家を失いなさいました。震災後、個人でアパートを借りなさり、現在までそこにおられます。とにかく部屋代が高いので、困っておられます。
 別の女性は昨年(九八年)から中央区筒井町の、新しい市営住宅に引っ越しなさいました。彼女が王子の共同の仮設住宅にいた時は、いろいろ困っておられたようです。でもせっかく新しい市営住宅に入れてもらっても、周りに工場があって、空気が悪いようです。それで彼女は、喘息に苦しんでいるとのことです。

 Oさんは震災当時、長田区の市民病院の近くにおられました。震災後、被災者として優先的に農協のアパートに入られることになりました。現在もそのアパートにおられます。彼女の家族は、今年の夏から他の被災者たちと協同で、合同住宅を目下建設中です。震災前の土地は公園になるので、少し離れた土地に、高層住宅を建てておられます。二〇〇〇年春に完成の予定だそうです。
 ある家族は、岩岡の仮設住宅に、一年以上おられました。でも、未だに県、市営住宅には入られません。この家族は運が悪いのか、今は明舞の古い住宅におられます。二年契約で、後で優先的に希望する住宅に入られるそうです。今度はそうあってほしいと願っております。
 私の震災前の住居の更地は、今は駐車場になっております。セメントを敷かず、少し地固めしてあるだけです。大家さんは高齢で、聞くところによると、息子さんも借家を再建する能力がないとのことです。
 私たち借家住まいの者は、震災で少しの物を失いましたが、大家さんは、大きな財産をまともに失いなさいました。その損失は返ってきません。財産を持っておられた人たちは、まともにこの震災で、財産を失いなさいました。そのため自殺した人もおられることを、耳に致しております。
 一方、今度の震災で、考えもしなかったような、得をしておられる人も、少なからずおられます。私はある女性から「震災肥り」ということばを聞きました。震災で得をした人たちのことです。彼女の友人は、失う物は少なかったのですが、震災後いろいろ恩典を受けられたそうです。その人も、震災後、安い市営住宅に住んでおられます。このような人も大勢におられるのが、今度の震災の特色ではないでしょうか。
 借家住まいの大勢の人も、確かに住居を失いましたが、自分の家を失ったわけではありません。しかし、借家がなくなったので、「罹災証明書」には、全壊のマークがつきます。そして全壊の者には、いろいろと得なことがありました。仮設住宅にも、無料で入られることになりました。
 この仮設住宅に入られた人は、すごく得をしています。頭の痛い敷金なども必要なく、無料で、仮設住宅で生活できたわけです。毎月高い家賃を払っていた者には、すごい福音でした。それに続いて、また安い公営住宅に入られるようになったのです。大勢の被災者は、この特権にあずかりました。確かに被災当初は、集団生活で苦労なさった人たちも、多くおられたはずですが、関東大震災に比べますと、今の富める日本で、ある被災者たちは、とても得をしたことになります。私は自分の受けた被災者への義援金の全部を書きとめております。
 九五年二月     一〇〇、〇〇〇円
 九五年四月     一四〇、〇〇〇円
 九六年十月     一〇〇、〇〇〇円
 九七年六月      五〇、〇〇〇円
 九八年十二月 一、二〇〇、〇〇〇円
 計        一、五九〇、〇〇〇円
 また被災者は、お金だけでなく、いろいろと生活必需品を受け取りました。
 私も被災者として、現在住んでいる県営住宅に入れていただくことができました。
 こういうことを、震災から五年ほどたった今では、記録しておくのも、後世のために役立つかもわかりません。
 いろいろ不満を持っておられる人も、おられますが、今回の震災は、外国に比べますと、不幸中の幸いでは、なかったでしょうか。
封印を解く 乾 富子(五十歳 主婦 東灘区)
 あの日から五年、私の住む魚崎の町も、美しい町へと変身をとげました。近くの川井公園もリニューアルされ、子供が利用させていただいていた頃の面影はすっかりなくなりましたが、次の世代の母子が楽しく遊んでいます。グランドの地下には巨大水槽が出来ていて、防災設備もととのっているそうです。
 あの日以後、四三号線の頭上で何カ月も停止したままだった六甲ライナーも、今では六甲アイランド高校、ノルウェー学校、カナディアン・スクールの生徒を乗せて満員で走っています。住吉川も以前にもまして、ジョギングの人が多くなったように思います。
 主人は、「自然がしたことでも、自分がしたことでも、とにかく済んだことは、済んだこと。前を向き、これからどうするかを考える」。そう言いました。
 私はそこまで割り切れるタイプではありませんが、自宅の全壊という現実を突き付けられ、後ろを向きたくても向けない、これはもう夫についていくしかない。そう思って気がついたら、五年が過ぎていました。
 あの日、どのようにして魚崎小学校までたどりついたか、たった三分の所にあるだけによく覚えています。でも、近所の人とのことや、その他いろいろ言わない方がよいと思うことの方がたくさんあって全部は書けません。それにこの時のことは、当時小学六年生だった下の娘が、思い出すと一番悲しがります。
 上の娘は、中学三年で、二カ月後に受験を控えていました。先生方も私学の受験がせまってくる中での地震だったので、さぞ、あわてたことでしょう。あまりきつい事を書くと、学校批判になるのでやめておきますが、とにかく地震後の対応は、「まずい」の一言につきました。

 約三週間、魚崎小学校の体育館でお世話になりました。遺体と二日間寝たこと、カチカチのおにぎりや冷たい弁当を食べたこと、毛布を奪い合ったこと、その他いろいろ……。
 驚いたのは、鳥取から送られてきた救援物資の中に、子供用の水着が入っていたことです。これを本当のテンヤワンヤと言うのでしょうか。
 そんなこんなで、人間の極限状態を見てしまいました。悲しかったのは昨日まで親しく話をしていた人が、鳥取からきた物資の中にあった暖かそうなジャンパーを先取りし、自衛隊がヘリで校庭に落としてくれたピンクの毛布を、さっさと取って家に帰ったことです。
 こんな事もありました。どこかの会社がトラックで、お菓子をたくさん運んできてくれました。みんな並んだのですが一人だけ割り込んだ人がいました。当然トラブルになりました。そのおじさんの言い分を聞くと「ワシは被災者や。先にもらってなぜ悪いんや!」ということです。ちなみに彼の自宅は無事でした。
 悪い話ばかりではありません。魚崎のK医師は、毎日体育館へ来て診察をしてくれました。私の近所の人の中にも看護婦さんがいました。医者の務めを立派に果たして下さり、命の大切さを改めて知ることになりました。そのお医者さんの姿を、避難していた子供たちがしっかりと見ていたと思います。
 楽しかった話をします(魚小にて)。
 苦しみの中で、いろいろアイディア作戦が生まれました。一部紹介します。
 一、ペットボトルの再利用。自衛隊の給水車が来て、ペットボトルを半分にカットし、蛇口の代わりにした。
 二、避難者名簿を作成した。
 三、水運びに、スチュワーデスのカートや、手押し車(工事用)を利用した。
 四、石油のタンクを水入れにして保管した。
 五、プールが洗濯物干し場になった。
 六、家庭科室で料理をした。
 七、寒さしのぎにダンボールを利用した。
 八、トイレットペーパーを、クリーニングのワイヤーハンガーを曲げて掛け、仮設トイレで利用した。
 九、自衛隊が作ってくれた食事の配布の手順を考えた。
 中でも一番役に立ったのが、使い捨てカイロと携帯電話。残念ながら当時我が家は電話は持っておらず、NTTが学校に無料で取り付けてくださるまで、どこへも連絡が取れず苦戦を強いられました。
 もう一つ、いや二台役に立った物、バイクと自転車。自転車は家の下敷きになって壊れたものが多かったようです。我が家は、私のも子供のも無事でした。バイクは、新婚時代に主人が乗っていましたが、その後、車に換えてからは持っていませんでした。何とか手に入れて、主人が職場(ポートアイランド)まで乗って行きました。それまで子供の自転車で通勤していたので、ほっとしました。久し振りに乗ったので「怖い」と言っていましたが、車では味わえない楽しさがあるように見えました。でも、バイクを乗った後ろ姿を見ると、お尻の所がやたらと太っていて、いかにも中年のおじさん。それに全体にプリン、プリンしていて、とても格好いいとは言えない姿でした。ちなみに、これはバイクではなく、スクーターでした。
 その時のスクーターは、二十歳になった娘が大学に通学するため、JR住吉駅まで毎日乗っています。何事もなかったかのように。
 避難生活の後は、親戚の家で、いわゆる震災同居をしました。突然の同居生活はお互いに軋轢が生まれ、苦しいもので、親類も、別の意味の被災者になってしまいました。
 その後、現在の家に引っ越しました。この家は震災前に、上の娘が中学卒業と同時に引っ越す予定だった家です。あと三カ月地震が遅れていたら、新居で震災になり、全壊は免れたでしょう。
 ところが、震災前に話し合いをしていた不動産業者も今回の震災で、自宅兼店舗が焼けてしまいました。この家は、その不動産業者が自分で建てた家だったため、売り手も買い手も大変でした。全壊した家の土地は、この不動産業者に買っていただきました。現在は、その不動産業者が新しい家を建て、我が家とはまったく関係のない人が住んでいます。結果として、二組の家族が新居に入ることになったので、これでよかったと思っています。
 我が家を解体する時、次女が小さい時に買ってとても気にいっていた、小さなポシェットが、ポツンと落ちていました。私はこの日まで泣かなかったのですが、さすがにその日だけは、心の中で大粒の涙が出ました。
 新居に入って喜んだのはよいが、はっと気が付くと、ふとんがない! おばあちゃんの家の物を使っていたから、すっかり忘れていました。そこでポートアイランドの「コーズ」へ行って、安いふとんを買いました。
 主人が深江のレンタカー業者を探し、軽トラックを借りました。ついでに、ほとんどなくしたキッチン用品も買って帰ったのですが、これがまた大変。どの道路も一杯で、ポートアイランドから脱出するのに三時間かかりました。現在は、島からトンネルも出来て、便利になっています。実は、主人の職場はポートアイランドで、、日頃は「ポーアイはオレの庭だ!」と言っていました。でもその日だけは、「オレの庭」ではなかったようです。
 おりから、小雨がポツポツ。ブルーのビニールシートを、自転車のロープでくくり、しっかり荷作りしたつもりが、やっぱり素人。走っているうちにはがれてきて、途中で横道へそれて直そうと思ったのですが、身動きがとれず、信号停止の時にあわてて下車して、二人で直しました。五月とはいえ、雨がとても冷たかったのを覚えています。
 トラックの中で主人と、いろんな話をしました。何だか夫婦の絆が、深くなったような気がしました。結局六時間かかり、ポートアイランドから魚崎まで無事に帰ってくることができました。その夜、家具も何もないだだっ広い居間で、買ったばかりのふとんを敷いて、家族四人で寝ました。
 次の日から、主人、私、子供、それぞれ職場に、学校に、みんな元気で出発しました。五月の空が前日の大騒ぎの一日を消すかのように、美しく、まぶしく見えました。
 これで私の震災は、終わったわけではありません。友人を亡くし、子供の同級生の両親も亡くなりました。魚崎の人々の中にも、大きな心の傷を背負った方がおられることと思います。私は、職場以外全部なくしましたが、まだ生きています。天国の神様が、まだ死んではいけないと言ったのかもしれません。
 最後に、魚崎小学校にボランティアに来てくださった人々のことをお話します。
 最初の頃は、何がなんだか分からないまま、毎日が過ぎていったように見えました。急いで駆けつけて、何か役に立ちたい。そう思ったまでは良かったのですが、実際は現実の「壁」に立ち向かえないまま、疲れて帰って行かれたようです。特に男性は、力仕事を任され、二、三日で弱音をはいている学生さんがいました。その後、市の職員や遠方の方が出たり入ったり、本当に改めてお礼を言いたい気持ちです。特に印象に残っているのは、東京の国立市から来られた、豚汁を作ってくれたおじさん。とてもおいしかったです。でも関西弁には、いささか苦戦をしていました。
 こんな「イヤ」な人もいました。
 私の知り合いの人にお孫さんの服を頼まれたので、学校へ行って救援物資の店開きがあるかどうか、ボランティアさんに聞くと、「二時からあるかも」と言ったので、その時間に行きました。すると、五十歳ぐらいのおじさん(ボランティアかどうか分からなかった)が、「そんな物ない! あんたあつかましい!」と言いました。私は、あつかましいお願いをしたのでしょうか。友人の家族は、息子さん夫婦とその三人の子供がいました。もちろん魚崎の人です。あの日、息子さんの奥さんと二人の孫(一人は赤ちゃん)を亡くしました。残されたのは、友人と、おばあちゃんと息子と孫の四人になりました。私は、その孫(三、四歳ぐらいだった)の服が少ないと関係者の人に聞いたので探しに行ったのです。私は、そのおじさんがどういう理由で魚崎小学校にいるのか、どういう立場の方か分かりません。何度も言いますが、魚崎の町も、夫も子供も通った魚崎小学校も、私にとって結婚以来生活をしている場所であり、第二の故郷です。どこのどなたか知らない人が、人の家に来て土足で入り込み、言いたいことを言っている。そう思うと、腹わたが煮えくり返りました。
 特に後半、たまねぎ形テントができた頃に来られたボランティアの中に、目に余る人がいました。パンと牛乳をもらうため、毎日魚崎小学校へ通っていました。そんなある日、男女の学生らしきボランティアの人が、パンを置いている机の前で何やら話し込んでいました。その様子は、どう見てもボランティアをしに来ているように見えません。うっすらと化粧をし、この町で起こったことなど、私には関係ないといったような顔をしていました。彼女は何をしに魚崎小学校に来たのでしょうか? まだまだ思い出すことがいっぱいです。
 ○仮設へ行った人のこと。
 ○トイレや風呂で、苦労したこと。仮設トイレは汚れがとてもひどく、使えないものがあった。
 ○近所の自動販売機が、メチャメチャに壊されたこと。
 ○ある家族が、配布された毛布を独り占めにしたこと。
 ○お金のことで、イヤな思いをしたこと。
 ○コインランドリーで失敗したこと。井戸水を使っていたので、主人のシャツの色が変わった。

 私は多くの物や人を失いましたが、夫も子供も無事で、今、新居で新しい生活を営んでいます。苦しい経験をされた方が多い中、贅沢を言ってはいけないのかもしれません。
 今回、初めて震災をふり返りました。これからも何かあるごとに、思い出すことがあると思います。自分の気持ちを封印することなく「震災の語り部」でいたいと思います。
き ず な
父と母 川畑 守(五十三歳 会社員 中央区)
 父は死んだ。享年八十三歳。平成八年九月八日午前八時十三分、ポートアイランドの神戸中央市民病院のベッドで息をひきとった。
 父は地震を体験した。近所の小学校での数カ月の避難所暮らしや名古屋での疎開生活などが身にこたえたのかもしれない。八十歳ぐらいまでは元気だった。歯もほとんど自分の歯だったし、杖もつかず腰も曲がらず背筋を伸ばして、さっさっと歩いていた。
 そんな時、少し体調を崩したのか、胃の具合が悪いと言って「ちょっと行ってくる」と近所のA病院へ行った。「あのヤブ医者め……」とぶつぶつ言って帰ってきた。しばらくして、再び調子が良くないというので、「ちゃんと診てもらおう」、と中央市民病院へしぶしぶ出かけて行った。
 父は、すぐ帰れると思っていたらしい。ところが、即入院だった。母はあわてたが、すぐ退院できると気軽に思っていた。担当医が母を呼び出し精密検査の結果を告げた。「あと三カ月の命です。手術しても駄目です」。
 膵臓癌だった。父は煙草も吸わず酒も飲まなかったのに。私は驚きとともに、「なんで」と耳を疑った。父は何も知らずにベッドに横になり眠っている。私は「この人もやがてあと三カ月余でこの地球から消えて無くなるのか」と不思議で信じられないでいた。そして自分が死んでゆくのを知らずにいる父に、一抹の哀れさを感じた。死を知らずに死を待っている。なんと悲しいことだろう。
 母は平静さを繕い、自宅にほとんど帰らずベッドの横で泊まる日が多くなった。私は父とは仲が悪く、地震後それが深くなっていた。だから見舞いにもあまり行かないでいた。死んでいく父に何を話せばよいのか。さよならも言えない。しかし、何故か突然ある日、生きている内にこそ和解しておこうと思い立った。「お父さん、守やで。早よようなりや」と物心ついて以来初めて自分から父の手を握った。死ぬ前に握手をすることによって和解を示しておこうと考えた。その父の手にはもはや握り返す力は残っていなかった。
 父は入院後二週間足らずで、この世を去った。偶然にも私は父の死んでゆく姿を目の当たりにした。人間ってあっけないものだ、と戦慄して涙も出なかった。
 父の死後、母は一人暮らしになった。震災で名古屋に疎開していた両親は、神戸に戻り、四十年余り住み慣れた中央区を離れ、見知らぬ土地の垂水に移り住んでいた。
 震災後、私は両親と一、二カ月は同居したが、父との折り合いが悪く、父の方から母を連れて出ていった経過がある。その父が亡くなっても、母は残された垂水のみすぼらしい家に、「子供達には、子供達の家庭があり、誰にも迷惑をかけたくない」といって、ひとりで暮らすことに固執した。
 母は大正十五年生まれで、七十三歳になる。数十年前に道で転んで、関節炎になり、両膝を痛めた。震災後、痛みがよりひどくなったらしく、電気治療や鍼に通っていた。
 そんなある日、私は母にどうしているのか、と電話をかけた。すると電話の向こうから陽気な母にしてはまれな、弱々しい声が飛び込んできた。「風邪ひいて近くのお医者さんに通ってるんやけど、どうも具合悪い」と眠たそうに、まるで夢遊病者のうわごとのように聞こえてきた。「こりゃおかしい。変だ。死にかけとんちゃうか」と私は、いてもたってもおられず、愛車一〇〇ccのバイクに飛び乗った。二月のうす寒い風の吹く中、夕闇せまる国道を、八十キロでとばし母のもとへ急いだ。
 母の目は、とろんとして輝きを失い、生気がない。顔がおたふく以上に丸くはれあがって、ひとりで起きられないでいる。「どないしたんや!」と私はその姿を見て愕然とした。私はすぐ救急車を呼んだ。歩いて行けるというだけの便利さの、母の通う個人病院の院長は、紹介状を書いて中央市民病院へ行ってくれ、と言ってきた。「中央市民病院」と聞いて、私と母はとっさに「父の死」を思い浮かべた。紹介状など無視して、救急車の介護員から知った垂水の徳洲会病院へ急きょ変更した。救急車は、夕暮れの街中を、ピポピポとけたたましくサイレンを鳴らし、赤いランプを点滅して走った。
 母は一カ月余りの入院だけで済んだ。抗生物質の投与のしすぎで、それを体内から排出し、点滴をうち続けて回復した。元気だった頃の母と較べて、体が小さく縮こまり、小皺の増えた母を見ると、私は老いの侘しさを感じた。母は気丈にも退院後も、ひとりで暮らしている。
紙のマンション 斉藤 哲史(十七歳 高校生 西宮市)
 阪神大震災から、もう五年が経とうとしています。けれども、僕はあの日のことをはっきりと覚えています。僕は震災の時はまだ小学校六年生で、姉は今の僕と同じ高校二年生でした。新居に引っ越してまだ一カ月目のことでした。やっと荷物を片付けたばかりで、机もベッドもピカピカでした。
 僕はその当時まだ姉と二人部屋で、二段ベッドの上段の方に寝ていました。あの日はなぜか、嫌な予感がしていて、朝早く四時ぐらいから起きていました。けれどもベッドから降りていっては、姉の目が覚めて迷惑がかかるので、ベッドで横になっていました。
 すると五時四十六分、「ゴー」っとものすごい地響きとともに、ものすごい上下の揺れを感じました。家が崩れたのではないかと思いました。食器の割れる音、母の叫び声がとても恐ろしくて僕は布団にくるまっていました。そしてベッドの下段にいる姉のことがとても心配でした。ただ二段ベッドが壊れないことだけを願っていました。そしてだんだんと揺れがおさまってきました。
 母が子供部屋に駆け込んで来ました。すごく僕達のことを心配してくれていました。姉も父も僕も、みんな大丈夫でした。
 しかし、母は僕達の部屋に来る時に、割れた食器の上を素足で通って来たせいで、足の裏を切ってしまいました。それに、電気がついてから初めて分かったのですが、母の足には、青いあざがたくさんありました。よく見ると、たんすの跡がくっきりとついていました。母の部屋には、父でも一人では持ち上げられないとても大きな和箪笥があり、母はそれの下敷きになっていたのですが、僕達が心配で、それを押しのけて来たようで、大変驚きました。
その後テレビの報道を見て初めて地震の状況が分かり、交通機関もすべて動かない事が分かりました。そして父から「哲史、水を買ってこい」と言われました。母は危ないから外には出るなと反対しましたが、今後の事態を考えると、どうしても水が必要なのですから、一人で水を買いに行くことにしました。
 外に出てとても驚きました。僕の親友のやっちゃんの家の、一階部分がなくなっているのです。けれども、どうしてあげることも出来ませんでした。そしてローソンに行くその途中で何人もの人が、瓦礫の下敷きになり、うめき声が聞こえました。助けられた人もいましたが、無理だった人もいました。こういう状況の中を通り過ぎてローソンにたどり着き、水を十本買うことができました。
 帰り道に、公園にやっちゃんがいました。僕は水を三本あげ「僕の家に来るか」と聞きましたが、首を横に振るだけでした。祖父が死んだショックでしゃべれない様でした。
 とりあえず僕は家に帰りました。そしてまた驚きました。改めてマンションの外観を見てみると、ピカピカだったマンションの水道管が折れ、壁には亀裂が入りぼろぼろでした。そして家族で屋上にのぼって西の空を見ると真っ赤になっていました。そして消防車のサイレンの音がけたたましく鳴り響いていました。こんどは神戸に住む祖母が心配になり、電話をしました。しかし電話は、つながりませんでした。その日は部屋を片付けて、余震に怯えながら家族いっしょにリビングで寝ました。
 その時、心から家族っていいなって思っていました。次の日、僕は十二時ぐらいまで寝ていました。みんなもう起きて、いろいろ用事をしていました。僕は父と食べ物を買いに行きました。スーパーはすごい人でした。何軒も行きましたが、無料で水やお菓子をくれる店もあれば、商品はあるのに売ってくれない店もありました。こういう時にこそ、その人の人間性が出るなと思いました。
 その日以後、僕は配給物資を取りに行ったり、水をくみに行ったり、街を見に行ったりの日々を過ごしていました。そしていろいろな悲惨な場面を目にしました。鉄筋のマンションがまるで紙で出来ているように曲がっていたり、電柱が折れていたり……。
 あの地震で家や食器は壊れてしまったけれども、家族が生きているだけでも良かったです。それに僕は本当に家族のありがたさを思い知らされました。もう二度と、あんな出来事は起こらないで欲しいです。
守るべきもの 北川 京子(五十九歳 ヘルパー 中央区)
 今ごろ幼い子の受難がとても増えてきています。生まれてくる子は、親と場所を選ぶことができないのです。二歳の男の子の孫を子守していると、時々私は思うのです。もし、この孫の身に何か危険が起きたなら、どんな思いにかられるだろうかと。
 地震の時に、たまたま泊まりに来ていて、一緒に寝ていた孫とともに圧死された女性がいます。また、私の知り合いの方は家屋の下敷きになりました。その方は孫が皆の力で必死で助け出された時、「まだ、体温があったんですよ」と涙声で語っていました。
 平成七年以降は、急激な時世の流れに追いまくられました。平成八年暮れに叔母の夫が仮設で死にました。翌年はポートアイランドの仮設住宅の叔母の所に、毎日自転車で通いました。
 叔母は自力で生きられる状態ではなかったので、仕方ありませんでした。私は仕事と両立で、ただ、気力だけで行動しました。平成十年のある日、叔母は朝家を出てからまもなく、仮設の自宅の場所を忘れてしまいました。失語症にもなっていました。自分も私達のことも忘れてしまっていました。それ以降、叔母は遠くに入院しています。
 それから、仮設住宅を引き払わなければならなくなりました。それで、住所を私の所に仕方なく変更しました。叔母は入院する一寸前、公営住宅が当たっていましたが、辞退することにしました。
 叔母の所へ送られてくる書類の処理が、目の悪い私にはとても重荷でした。
 もうすぐ介護保険が始まります。叔母は要介護一級です。
 平成九年に切迫流産を乗り越えて、長女から初孫が生まれました。翌年、長女が運転免許を取りたいというので、その間私が孫の子守をしました。長女は約一年かかって、やっと取得したけれど、私は疲れました。
平成十一年が明けると、長女の主人は、かなり遠方に転勤になりました。一年以上帰って来られないとのことです。しかも、景気の低迷のため、給料はカットされました。生活が困窮して、娘はバイトに行くことになってしまいました。
 長女は早朝と夜とに働きに出ます。私はそのため、早朝と夜、孫の子守のため毎日自転車で通いました。だが、そのうち長女も私も限界がきてしまったのです。二人とも体調を崩してしまいました。けれども、早朝のバイトだけはやめられないのでずっと続けています。
 神戸は物価が高いと思います。
 二〇〇〇年を迎えるに当たって、何かが起こると言われていたけれど、私達は別に何も買いだめしようともしませんでした。そんなゆとりなど、ないからです。
 震災の時准看護婦だった次女は、あの時、足を骨折していました。歩行が大変な状態だったのに交通の便の悪さにもめげず、尼崎まで休まず通ったのです。
 今、自力で高等看護学校に通っています。今の私には何もしてやれません。でも、いつも娘達のことを気にかけています。
 その次女も、去年倒れました。私は飛んで行き、病院に連れて行きました。この子もかつてよく病気をしてくれました。高校の時、「いつ心臓が止まっても不思議ではありません。お母さん、覚悟しておいてください」、と伝えられた時は、目の前が真っ暗になってしまいました。次女には、その他、いずれは手術もできず、失明するだろうという目の病気もあります。
その次女が看護婦を目指し、励んでいる毎日です。
 娘達とはよく口論したり、意見が対立することもよくあります。けれど、後になって「やっぱりお母さんが言うのが正しかった」と話しています。「だけど、私も今年は六十だからね。分からないことが多くなったよ」と笑いながら言います。私には力はないが、娘達のこと、叔母のことなどをいつも見守っています。
 誰が病気になってもそうですが、身内に起こるとなおいっそう胸が痛くなります。
 十一年暮れに、孫が風邪がきっかけで、肺炎になってしまいました。娘は用事で行けないので、私が病院へ連れていったのです。レントゲン検査、血液検査、尿検査、、診察そして、点滴をしてもらいました。長時間ずっと抱いたままでした。「いちゃい、いちゃい」と、ときどき泣き声を出していました。娘のときもそうだったけど、命さえ助かればと、強く心の中で祈るのみでした。
 守るべき立場の人は、時には命がけでも、守るべき幼きものを、守ってあげねばならないと思います。
一本の線 安藤 衣子(五十五歳 パート勤務 須磨区)
 平成十一年九月、私は神戸に帰りました。長い長い月日を転々としながらいろんな人たちの誠意に支えられ、生きて来られました。夫と共に、自分の人生そのものをなくした平成七年一月十七日を思いおこせば、何も覚えていないほど遠い過去になっております。しかし主人のことはすべてを思い出すと共に、時間が流れ去っているにもかかわらず、蘇る思いの深さに心を痛めます。
 新しい家が平成十一年四月に建ちました。新しい出発です。でも心に喜びが沸き上がることはありません。自分一人これでいいのだろうか、申し訳ないと思う心がどうしても強く喜びを押さえ込みます。どうすることも出来ないことなのにと思う半面、主人の死を土台にしている現在を思うとき、やはり辛い悲しみがあります。前を向いて生きていけばよいものを、やはり震災のキズは癒えることはありません。毎朝毎晩主人に「ありがとう」を唱える日々を送っておりますが、本当にすまないと思います。主人は、まだまだ人生を歩み続けられた人だと思ったとき、どうしても悲しい気持ちになります。
いつまでたっても行ったり来たりしている自分がおかしくなる時があります。でも私は五年目を迎え、この気持ちのままでいいのだと思えるようになりました。行ったり来たりでいいのです。一生この震災のキズは忘れてはならないのです。世界で一人しかいない主人だったのだと五年を過ぎて知りました。
 これからも主人を思い続ける人生が、私の人生だと思えばとっても楽になります。違う人生を求めたため、悲しい心を甦らせたと思います。一人の人間がこんなに尊いとは感じたこともなければ思ったこともありませんでした。生きているのが当然のように思い生きてきた人生を反省します。その日その日を大事に生き抜く強さを私は欲しいです。努力しなければと思います。
 一人で生きているのではなく、私の心には主人が生き続けております。一人で二人を心から強く感じ取ることができました。目に見えるものだけではなく、目に見えないものを感じられるようになりました。また大切にしなければならないと思っております。でも「よくやったね」と主人はほめてくれるでしょう。
 私は家を建てるにあたり、こうしたい、こうするべきだと強い志を抱いて行動したのではありません。周りの人たちに支えられ、ここまで来られたことは本当に幸せだったと思っております。長い長い五年間でしたが、一つの節目として、何とか二年後に迎える平成十三年の七回忌は神戸でという思いが叶えられたうれしさは言葉で表現出来ません。辛かったことや寂しかったこと、悲しかったいろんなマイナス面をプラスに出来たことが一番うれしかったです。
 神戸に帰ると仕事を失う心配がありましたが、社長さんにお願いして働かせてもらうことになりうれしかったです。鷹取から西明石間通勤時間四十分、私にとってこれは何が何でもやりとげなければならないのです。暑いとき、寒いとき、体の調子の悪いとき、本当に辛いときがありますが、この仕事が私の体と心を支えてくれます。社会とのつながりの一本の線なのです。生きている、生かされている一本の線を断ち切ることは出来ません。仕事も五年目に入り、やっと覚えきったときで、これからはいろんなことにチャレンジしたいと思います。
震 災 後 綱 哲男(七十二歳 貿易商 中央区)
 私は人生の一時期を、戦前・戦中・戦後として区切ってきた。これによって記憶や記録を整理してきた。それがあの日以後は、震災前と震災後に分けて考えるようになった。震災前の自分を第一の人生。震災後を第二の人生とし、大別して仮設時代と、公営住宅への引っ越し後としている。私の年齢からみて第二の人生が短いのは仕方がないと思っている。
 震災丸五年目の一月十七日、妻と共に神戸ポートアイランドホールで行われた「阪神・淡路大震災犠牲者神戸市追悼式」に参加した。開式に続き、黙祷の間、チェロの独奏「鳥の歌」を聞くにつれ当時が蘇ってきた、続いて追悼曲としてソプラノ歌手佐藤しのぶさんの「故郷」が神戸市室内合奏団の伴奏で献唱され、参列者の思いを深めた。笹山市長による神戸市の名簿記載の犠牲者四千五百八十三名の追悼、市会議長、県知事の追悼の辞の後、神戸市混声合唱団による「星に願いを」「すきな町」が献唱された。
 遺族代表のことばに続いて、港島小学校を始めとする各区の代表九校、八百十九人による「地震にも負けない強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きて行こう」で始まる「しあわせ運べるように」が合唱され、遺族・主催者・来賓に続いて私たち一般参列者の献花があり式典は終了した。
 参列者は約四千五百人という。妻はこの二年間、闘病生活で入退院を繰り返し現在も通院している。一時間の式に耐えられるかどうか不安もあったので、出入口近くに席をとっていたが幸い事なきをえた。
 私たちは震災一年目の追悼式にも参加するつもりであったが、慰霊碑が東灘区本山の中野北公園に建立されたので、身近な人々でもあり私はこちらに参列した。東灘区本山中町二丁目には四十年近く住んだ。一丁目の犠牲者は十一人、二丁目四十二人、三丁目二十二人であった。犠牲者名はこの慰霊碑の裏に刻まれている。
 妻は仮設のふれあいセンターで行われた震災イベントに役員として協力した。日頃お世話になっていたボランティア、婦人会の方々を招待し、在日中国文化芸術団や地元マンドリンクラブの演奏があった。「あれから一年、頑張っています。ボランティアの皆さん有難うさん。今日は暫くの間ですがおくつろぎ下さい」と張り紙していた。正直なところ仮設住民は外見上は明るく振舞っていた。
 仮設入居時、当座の生活必需品を支給され、入居についての条件が一冊のしおりにまとめられていた。「入居期間は六カ月、その後六カ月を限度に更新できる」「本日から自活していただくことが前提です」とあった。住民の自助努力を求めていた。がんばろう神戸。蘇れ神戸。当座の必需品と六カ月でどうなるのか。その時は何とつれない通達と思っていた。
 戦時中「われらはみんな 力のかぎり勝利の日まで 勝利の日まで」と国民の士気を鼓舞する歌があった。みんな歌った、みんながんばった、しかし勝利の日はこなかった。
 あの時、自宅の寝床を飛出し、妻の手をとって脱出し、数日間自宅裏で野宿した。芦屋の娘宅に通い、鈴蘭台の弟宅の二階に住み、西区西神の仮設で三年、そしてポートアイランドの住宅に引っ越して一年九カ月になる。
 五年を経て、自活し自立するのは当たり前のことであった。この感情は終の住処でこそ「そうだ」と自覚できることであり、仮の住い、仮の暮らしでは無理な話であった。
 阪神大震災は天災とか天変地異として受け止められている。災害列島の住人はこれを一種のあきらめ、自然現象ととらえている。一人ひとりにとって、当初は不運とあきらめ、自分だけではないという運命的な連帯感、同病相憐れむ的な生活を送ってきた。これは建前である。五年たって、頭で理解できても体が納得していない。
 倒壊した高速道路の横を通り抜け、瓦礫の夜道を妻と二人で毎日往復二時間歩いて娘宅に帰っていた。足のまめがつぶれ皮がめくれていた。妻がフト漏らした「地震を恨む」という一言がいまだに耳にこびりついている。身も心も寒々と疲れ切っていた。私は「五年はトシとったなー」と自嘲していた。無残な町並み、騒音と埃っぽい風、土壁の臭い、今では音を消した白黒テレビの画面のような静かな風景しか脳裏に浮かんでこない。これが五年間ずっと体内で尾をひいている。
 震災は被災者にとって不幸な災難であった、一人の市民が不幸であれば、同じ多くの市民もそうではないのか。公営住宅に移り住んだ被災者の多くは鉄の扉で守られた密室で息をひそめている。逃れる事のできなかった災難と甘受している。今の住まいは災害復興住宅ではないので、ボランティア活動からも取り残されている。仮設の時のように孤独死が相変わらず報じられている。明治以前ならこのような天変地異、社会不安、不況に見舞われれば、とっくに世直しのために改元し人心を一新していただろう。
 私は仮設の原点を見たくなり、西区西神の第三仮設跡を訪ねた。しかしそこは三年間住んだ思い出、懐かしさをかき消すような、荒涼たる空き地、金網で囲われた殺風景な原野としか映らなかった。
 背丈程の枯れ笹に覆われ、僅かに残る仮舗装の道にはもう杖をついて歩くお年寄りの姿はなかった。これは神戸の裏通りだ。
 私は神戸に生まれ育ち、家庭を持った。親子三代神戸に住んでいる。この町を通り一遍の外観だけの復興でなく、心の通い合う温かい人間の住む町にしたいものだ。妻の心が癒されたとき、仮設から移り住んできた人を一人でも多く訪ねてみたいと思っている。
こ こ ろ
不平等な幸(さち) 岡部 真記(十九歳 大学生 横浜市)
 一九九五年一月十七日から五年間、何度原稿用紙に向かっただろう。この気持ちを風化させてはなるまいと、記録に残さねばならないと、何度鉛筆を握っただろう。けれどそれらは全て未完成に終わった。書けば書く程、嘘になる。伝えようとすればするほど伝わらない気がしてくる。
 一月になるといつも憂鬱になっていた。私は今生きているのに、何もしていないのではないか。「生きている」というのに。「生」に対し向き合わねばならないという脅迫に近いほどの意識が襲いかかってくるのだ。
 阪神大震災を経験したのは中学二年の時だ。西区に住んでいた。ドッドッドという地響き、崩れ落ちる本の音、ガラスの割れる音、寝ているベッドが登りのジェットコースターのようにたてるガタガタとした音……。私の五時四十六分の記憶。ほとんどは音である。しかし、音も揺れもその記憶はもう薄れている。私が震災を思い出すとき一番に目に浮かぶ光景は、ベランダの窓から見た赤い空だ。煙がもくもくと上がり薄い赤色の空が私の目の中に焼き付いている。それと同時に浮かぶのは通学途中に見た、燃え尽きた街。真っ黒に燃えた鉄筋コンクリートの骨組みと、そして妙にガランとした広い灰色の空間。ニュースで流れる、燃える長田付近の街には、自分が見たベランダからの空と、黒い鉄筋コンクリートが重なりあう。テレビの画像と、私の記憶。いくつもの断片的なシーンがつながり重なるその度に、背筋がゾクゾクする。炎があがり、もくもくと流れる煙の下にあの街があることを知っている。大勢の人が立ちすくみ、花を供え、手を合わせていたことを思い出す。
 「死の側から見る生の世界」という言葉が、たしか天声人語に載っていた。死んでいることが普通で、生きているということが異常な世界のことだ。何もないことが普通で、何かあるということが異常な場所のことだ。今まで普通だと思っていた「現実」はまるで滑稽な劇のように思えた。震災後に初めて見たコマーシャルは車の宣伝だった。赤いスポーツカーが広い道路を風を切ってさっそうと走る。あまりに、「非常識」過ぎて唖然とした。もちろんどうして今、このような状況にCMを流すのかという怒りもあった。しかしそれ以上に「車を買う」こと自体が全く意味のないことだった。例えば化粧をすることも、ハイヒールの靴をはくということも、街にネオンが輝くということも全て、全く無意味な話だった。
 五年間幾度となく「尊い命が失われた」という言葉を聞いた。確かに命は尊い、多分正しい。けれど、まるで選挙時の当選者数のように増え続ける死者の数を見てどれほどの人がその命の数を実感できただろう。今生きているという命の重さを感じるとはどういうことなのだろうか。「生きる」とは偶然に過ぎないのではないか。私は震災の直後勝ち誇ったように笑った。生きているということを単純にすごいと思ったのだ。死んでいる人が大勢いるかもしれないということをよそに、私は自分が幸運にも生きている、なぜか分からないが生きている、生かされている、それだけで嬉しくて仕方がなかった。因果応報ではない「生」と「命」を私たちはどうとらえたらよいのだろうか。「尊い命」とは何だろう。何だったのだろう。
 今、東京で大学に通っている。震災は頭の片隅にしかない。けれど眠る前、ベッドの上で時々思う。「もし、今地震がきたらどうなるのだろう。」少し大きな地震があった時友達から電話がかかった。「今の揺れ、ちょっと大きかったな。震災思い出すな」
 家族も友達も死ななかった。「神戸出身なの? 震災に遭ったの? 被害はどうだった?」、そう聞く人の中には、私が「みんな無事だったよ、大変だったけど」と言うと少しがっかりしたような顔をする人が時々いる。その度に私は自分が伝えたいのはそんなことではないと思い、けれどまた伝えきる自信がなくて口をつぐむ。辛い人や苦しんでいる人は神戸にはまだ大勢いる。けれど自分より苦しい人はもっといるのだからと語るのをためらう必要はないはずだ。そう思っているのに、うまく言えないことが多い。
 今私が感じること、感謝する気持ち、いろいろなことがあの日から始まっている。幸せだと感じる時、欲しいものが手に入った時、それが本物かどうか確かめようとする。形あるものはみな壊れてしまう。本当のもの、目に見えないもの、そういうものしか残らないから無意識に探している気がする。
 手を合わせて祈る。震災の日がくる度私の中の止めどない「思い」が溢れ、何かが始まる。神が世を創ったならば、その真理を一度でいいから見てみたい。世の中のからくりを見てみたい。平等に配分されない幸と不幸のわけを知りたい、そんなことを考える。
トラウマ 上野 美佐子
(四十一歳 主婦 宮城県岩沼市)
 私が地震に遭遇したのは、兵庫県の三田市という所です。私にとっては生まれて初めてのすさまじい揺れでしたが、それでも、家具は倒れる事もなく、食器棚の中身がこぼれ落ちた程度でした。
 私と主人は和室で、二人の娘はとなりの部屋の二段ベッドで寝ていました。とっさに子供達の事が気になりましたが、恥ずかしい話ですが、恐怖で身動きできず、頭まですっぽりとふとんの中にもぐり込んだまま、主人に「子供がー。子供がー」と叫んでいました。足元がふらつく中、主人がとなりの部屋へ行き、寝ぼけまなこの子供達を一人ずつ和室へ連れて来てくれました。
 それから四人で、ふとんの中にもぐり込んで、完全に揺れが収まるまで様子をうかがっていましたが、実際には揺れていないのに、いつまでもからだが揺れているようでした。
 あの震災では、かけがえのない命を落とされた方や、大怪我をなさった方が大勢いらっしゃいますが、運よく怪我はしていなくても、心の傷を受けた方は数え切れないほどいるのではないでしょうか。
 私の次女もそのうちの一人だと言えます。前に主人が、二段ベッドで寝ていた子供達を一人ずつ順に運んできてくれたと記しましたが、その時主人は、下の段に寝ていた長女を先に連れ出し、その後次女を連れて来たのです。あれからもう五年目になろうとしている今でも、次女は、「あの時おとうさんは、私よりおねえちゃんを先に助けた」と言って主人を責めるのです。年子で女の子同士で何でもお揃いで、分け隔てなく育てているのに、あの時のあの出来事が主人への不信感として、心の奥のどこかに今もあるようです。私が主人といっしょに行って、それぞれ一人ずつ同時に連れ出していれば、次女にそんな想いをさせずに済んだし、主人も責められずに済んだと思うと責任を感じます。『火事場の馬鹿力』などという言葉がありますが、いざという時に、素早く、適切な行動をとることは、本当にむずかしいと思います。
三 線(さんしん) 男性・匿名(三十九歳 会社員 東灘区)
 昨年(一九九九年)僕は、「心の復興は、しない」と、手記に書いた。
 つい最近、それが体の異常に及んだ。病の苦しみを知るにつれ、まだまだ安全圏にいる自分が「心の復興」の本当の意味を取り違えていた気がして、恥ずかしくなった。
 震災から五年を目前にした二〇〇〇年一月十五日、僕は鷹取から三宮までを歩く「こうべiウォーク」に参加して長田区を歩いている最中、右胸の奥の方になんとなく痛みを覚えた。翌日、まるで矢でも貫通したように、右胸と背中の同じ部分に大きな傷ができていることに気がついた。「寝ている間に、ムカデにでもかまれたのだろうか」と思った。その日の夜から、両側の傷口からろっ骨にかけて、本当に五寸釘で打ち抜かれたような痛みが走り始めた。
 我慢して仕事をしていたが、とうとう耐えられなくなり病院に行ったところ、「帯状疱疹」と診断された。過度のストレスが原因でろっ骨沿いの神経がやられてしまい、その両端が傷となって皮膚上に吹き出していた。「精神的に限界に来ている最初のサインですよ」と医師は言った。体力の衰えている人では重症に陥り、後遺症に悩まされるのだという。僕は三週間の安静を命じられた。
 僕は決して精神的にも肉体的にも弱くない方だ。友人知人親戚家族に恵まれ、衣食住も事足りており、趣味やスポーツも幅広くこなす。常に体を動かすことを心掛けているので、同年代の人にくらべ体力も格段にあり丈夫だ。震災後、過労で二度倒れたことはあったが、すぐに回復した。おそらくこれまで心に閉じ込めてきた震災がらみの苦しみや、仕事上でのハードルなど、さまざまな負荷が複合したのだろうが、「ついに来たか」とも「頑丈な自分がまさか」とも思った。
 「帯状疱疹」は、震災後しばらく、震災ストレスによる病としてマスコミなどで取り上げられたことがあったと思う。我々の住む被災地には、この病で苦しんだ人が大勢いるはずだ。発症して分かったが、安静にしなければならないことと、治療費が風邪などにくらべかなり高額なことの二点が、忙しい身にさらに大きなストレスとなってのしかかってくる。生活がどうにも立ち行かなくなり心に大きな傷を持ったがために発症してしまった人にとって、追い討ちをかけられるような病気だ。病気になって初めて「心の復興」にまだまだ遠い人のことがほんの少し分かった気がした。

 病状は、ありがたいことに急速に回復している。ストレスから来る病気なので、心が満たされることが何よりの処方薬だ。二年ほど前から始めた沖縄の三味線「三線」も、大きな癒しとなった。
 大学時代にNHKのドラマで初めて沖縄戦のことを知って以来、沖縄のことが心に引っかかっていた。震災後、避難所に沖縄音楽の超大物ミュージシャンが飛び入りでやって来て、ハンドマイクで演奏をしているのを見て、平和や環境、そして人に対する「沖縄的な感覚」に強い心のうるおいを感じ、沖縄を初めて旅した。ほうぼう歩き回って、ふと立ち寄った市場で「弾いてごらん」と三線を手渡された。それから、安い飛行機のチケットを入手しては沖縄の山や海を訪ねるようになり、いつしかその市場で三線も買った。
 最初は自分で適当に弾いていたが、類は友を呼ぶのか、楽器の世界とはこういうものなのか、不思議と同好の人と多く出会うようになり、今では老若男女いろいろな仲間に教えていただけるようになった。音楽を通じ人と出会うたび、自分がどんどん前向きになっていくのが分かった。
 下手だが、三線を弾くと、心が「無」の状態になる。沖縄の島や海、おだやかな人々も思い出され、心が落ち着く。目で楽譜を追い、指で弦をはじき、耳であの独特の琉球音階を捉えることで、無心になれる。発病後は、仕事をしている時や考え事をしている時は傷がうずくことが多く「胸に来てるなあ」と思うが、三線を弾く時は痛みを忘れ静かな気持ちになる。これを音楽療法というのかな、と思った。
 自分が演奏家なわけでもなく、あまり深く考えたことはなかったが、音楽は聴くだけではなく、楽器を弾くなど自分が主体的に関わっていくことでさらに心を癒す効果があるようだ。僕らは本当にこの震災で、世界に先立って共生社会について大事なことを知ることができた。今年は「心の復興は、しない」から少し成長して、「心のケアは、してあげたい」人間になりたい。最近は多忙を言い訳に積極的にボランティアに携わることが少なくなったが、この経験を地域社会に活かし、三線を使ったボランティア活動をしてみようか。三線仲間もきっと協力してくれるはず。「心のケア」をしてあげることは、結果的には自分の心を癒すことにつながるのだから。
電 話 女性・匿名(三十二歳 主婦 東灘区)
 昨年(一九九九年)七月に妹が、入籍だけという形で結婚した。仕事も退職し、引っ越しをして新しい生活を始めた。
 妹が一人暮らしをしていた、尼崎の2DKの部屋は、私と住むために借りていた所だった。その部屋に同じ尼崎に住んでいた両親と妹、全壊になったアパートより私の夫(当時は結婚はしていない)、そして、東灘区で一人暮らしをしていた私の五人が住むことになった。
 それから、両親が田舎へ行き、私は結婚して、妹が一人で住むことになってしまった。約五年半、家賃を払い、一人で頑張っていた妹が、やっと幸福になる。そう思うと本当にうれしかった。
 妹の結婚が決まり、尼崎の2DKの部屋から引っ越しをするというころ、母が変なことを言い出した。それまでも電話がよくかかって、私を困らせるぐらいであったが、私と妹に「赤い自転車はどうした。あのお皿はどこへいった。ホットプレートがあったと思う」と、すでに処分したものを、妹の部屋に持っていったと思い込んでいる。
 両親が住んでいた家は半壊であったが、引っ越し業者に頼んで、ほとんどの荷物は田舎へ持っていったはずだ。そしてその段ボール箱の三分の一は今でも納屋に入ったままになっている。妹の部屋に持っていったものはごく一部の生活必需品だけだった。母の記憶は地震以前に捨てたものまで、妹が持っていると言い出すほどになっていた。
 父は田舎のわずかな土地で畑仕事をはじめ、元気でいるが、母はどんどん悪くなっている。都会の生活に慣れていた母は、友人と遊ぶこともなく、買物にも行かずに、家にこもる生活をしている。昔の記憶が浮かんでくるのだろう。震災に遭う前の思い出が、母にとって楽しい記憶だろうと思う。
 母は、入退院をくり返し、どこにも行けずテレビばかり見て生活している。年をとってからの移動はよくないと聞いたことがあったが、母はまさにそうだったと思う。発作的にかける電話に、その気持ちが表れていたのだった。両親を田舎へ行かせなければよかったのに、あの時どうして、もっと話ができなかったのか、と後悔するばかりだ。
 震災からまる五年、もう六年目になるのに、あの時の自分の行動や、心の動き、思いやりの気持ちが欠けていたのだと、反省してもしきれない。何をあせっていたのだろうか。とにかく早く普通の元の生活に戻りたいという思いが先走り、結婚、引っ越しと、ゆっくり考えるべきことを、わずかの期間で終わらせてしまった。それはきっといつまでも尾を引くことになるだろう。
 尼崎の2DKの部屋がなくなったので、私の生まれ育った場所には行くことがなくなった。やはりさみしい。母もそう思ったのかもしれない。親子は、いずれ別れなければならないと思う。そして、妹も私も結婚することは予想できたと思う。母は震災以前から病気になっていたが、こんなに早く悪くなるとは思わなかった。身体も心も病んでいく母を私はただ、見守るだけだ。
お 酒 女性・匿名(五十三歳 自営業 長田区)
 復興一番と日本中に知られた菅原市場。あれから六年。区画整理地区の市場付近は未だ何も変わらず、仮設店舗のままである。
 これがまた報道の方々の興味をそそるらしく年末年始にかけて、各テレビ局などの報道陣が詰めかけた。市場の客人より、報道陣で賑わった年末だった。
 去年の秋、仮設の我が家のど真ん中に、六メートル道路が通った。いったい私の土地は、どこに移転させられるのだろうか。
 来年には本建築ができるだろうか。
 不安いっぱいで二〇〇〇年を迎えた。
 一月半ばのこと。
 もう朝なのか。また二日酔いかな。口の中はしびれ、気だるい体を起すと、体中が痛い。いったいどうしたんだろう。目もうつろに見渡すと、パジャマもろくに手を通さず、服は枕元に散らかっている。昨夜、何が起きたのだろうか。顔をこすると、頬に痛み、首は重く、背中、腰共に痛く、右肩の痛みはひどい。おそるおそる手鏡をのぞき込む。肩には二カ所の黒く大きな  打撲傷。これには仰天して血の気が引いた。
 打ちどころが悪かったら「死」。「アル中の主婦殺される」。疑われるのは主人。それはない。やさしい主人に申し訳がない。身を整え階下に降りる。階段下の発泡スチロールの箱はつぶれ、砂糖缶はひどく変形している。「ええっ、これは何だ」
 気を構えてキッチンに行くと姑がいつものように降りて来ていた。異様な空気だ。
 「あんた、酒は飲まんといて」「部屋に帰ってと言ってもぐずぐず言うて」「飲みたけりゃ部屋で飲んで」
 私は空白で全く覚えがないが、日頃の不満をぶつけて怒らせてしまったようだ。
 朝食も、NHKドラマ「あすか」もそこそこに店出しに走った。
 いつもは二日酔いなどみじんも見せず、テキパキ身をこなし、いい子ぶっている私はどこかにふっ飛んで行ってしまった。
 毎日毎日なぜ飲むのだろう。アルコールはやめようやめようと、毎日が私の大きな課題なのだ。
 「今晩これだけ飲んだら終わり。明日は飲まないぞ」。しかし、この気持ちは夜になるとぐらつき、アルコールに手を伸ばしてしまう。少し飲むと、とても気持ちよくなり、もう少し、もう少し、これくらいは大丈夫。盗み酒はスリルもある。そしてあれ―。空白の地獄へと落ち込みこれが災いの原因となったのだ。
 なぜなんだろう? 禁酒に関する本も読んでみた。震災から新聞の記事によく載ったアルコール依存症。
 「そうだ、そうだ、これに私も依存するのだ。何も考えないですぐに寝られるもの」
 震災後、学校の避難所を出てから飲み続け何の効果も上がらない。やめようと思えば思うほど飲んでしまう。上がるのはアルコールのメーターばかり。
 次の夕食、姑はビールを私の前に置き、「ビールぐらい飲んだら、あとで酒を飲まんかったらええんやから」と言った。
 私は無言。誰にぶつけることもできない怒りを胸に、いいえビールが飲めない情けなさです。早々とご飯をかき込む。
 次の晩もビールがテーブルの上に。
 「飲んでやるもんか。飲んだらあかん」。この日もお茶だけを飲んで、夕食を早々と終わらせる。
 三日目、姑がちょっと席を外したすきに、主人のお酒をちょっと失礼と飲みかけると「それがおまえにはアカンのや」とたしなめられる。この日は私の大好物のお好み焼。ビールがあったらどんなにおいしいだろうと思いながら食べた。
 五日目。来客。いつものように客人の方が「みえちゃんは、ビールだろう」と言いながらブランデーを飲んでいる。
 「今日は先ほどから寒くて、これにしてます」。口数少なくお茶を飲む。
 六日目。来客。昨夜と同様お茶で三時間ほどおつき合い。
 こうして十日近く過ぎた。打ち身が消えるまで飲まずにおられるだろうかと半信半疑だったのに。
 姑はアルコールに弱く、ビールをコップ半分も飲めば茹でダコのようになる。だから飲む人の気持ちも余り理解できないどころか、極端に嫌うのだ。
 常々、聞けよ悟れよと言わんばかりに、
 「あの人昔、アル中だったけど親が連れ帰って直したんよ。酒を飲んでると近所のおばあさんのように痴呆症になるで」
 「あの人くさいわ。飲んどったらすぐわかる。飲む人嫌いやわ」
 私は耳にタコ。返事もろくにせず聞き流す。
 私だって飲みはじめるまでは、酒飲みは嫌いだったもの。きっかけはどうあれ、「禁酒」の原因を作ってくれた姑に大いに感謝しなければならないのだろう。
 でもね、もう一人の強い心の自分を優先させ、意地と意志でアルコールを遠ざけたい。これからが本当の戦いになりそうだ。
変わる思い 芳崎 洋子(四十歳 保母 宝塚市)
 震災から五年目を迎えた今年、テレビや新聞では多くの企画が行われた。けれども私は、そのどれからも目を背けていた。一切をシャット・アウトしようとする自分がいた。それが逃げであることは、十分に分かっていた。そんな自分にズルさを感じながらも、正面から震災と向き合うことを避けていた。
 五年の日々を積み重ねながら生きていると、いろいろなことが起こる。そのことに埋没しながら、一日を精一杯に過ごす。その日一日で、かなり手いっぱいだ。そうすると、過去のことを振り返る機会は、どんどん減っていく。ましてや、震災のあの苦しんだ日々に戻るということは、今、「慌ただしい」時を過ごしている私にとっては、大きな時間のロスだ。けれども、これらの字を見るたびに、私はふと我に返る。心が荒れると書く「慌」、心を亡くすと書く「忙」。自分は、今、そんな時を過ごしているのではないかと。
 私自身、震災とは常に向き合っていたいと思っている。なぜなら、今の自分があるのは、あの震災後の数年間、潰れそうになりながらも、もがいてもがいて生きてきた日々のおかげだと感じているからだ。けれども、いつも向き合っているわけではない。もしかしたら、向かい合いたいと思いつつも、どこかでそれを拒否しているのかもしれない。
 その一方で、細かいことはどんどん忘れていく。一瞬にして変わってしまった風景や、水集めに走り回っていたこと、冷たいご飯を食べていたこと、電車が動かなかったこと、人の態度に傷ついたことなど、今、思い出せることは、断片的で、大雑把なくくりでしかない。今、現在も震災の後遺症で苦しい毎日を送っている人達のことや、きっと私達と同じ思いをしているであろうトルコや台湾の人々のことにまで、思いを馳せることはないに等しい。そんな自分に、薄情さを感じながらも、それが生きていることなんだと、開き直っている私がいる。
 しかし、そう感じる時に思うことは、震災によって亡くなった何千人もの人達のことだ。紙一重の差で生死を分けた震災で、生き残った者は日々、記憶が薄れていく一方で、亡くなった人達は、今、何を思い、何を感じているのだろう。亡くなった人達に「思い」などないと言われればそれまでだが、実際に亡くなった伯父、伯母、従兄弟のことを思い出す時、それを感じずにはいられない。また、それを考えると、自分の薄情さをさらに痛感する。自分を責めることで、何とか震災とつながっていようとしているだけなのかもしれないとも思える。
 震災から二年半経った頃に書いた戯曲で賞を頂き、今年(平成十二年)の六月に、名古屋で上演されることになった。あの頃、鬱積していた思いを全てぶつけた作品だが、今、読み返すと、自分がこんなことを感じていたのかという驚きのようなものがある。それと同時に、今の気持ちとの大きなずれをも感じる。今さら震災なんてと思う人も多い中、まして名古屋の人が、そんな時間的なずれのある作品を、どう捉えてくれるのかという危惧がある。離れた名古屋の人だからこそ、という安心感も一方ではある。
 そこで私は、五年経った今の気持ちを戯曲にしてみた。人が震災を忘れていく中で、亡くなったまま、そこに立ち止まっている少女の話だ。書いている間中、改めて自分が震災から遠く離れてしまっていることを感じていた。二年半前に書いた作品よりも、ストレートな感情が出てこないからだ。曖昧な台詞でしか訴えられない自分に、もどかしさがあった。それを演じてくれる役者にも、どれだけその役の思いを理解してもらえたかは分からない。
 しかし、試演会で上演された三十分のその作品は、三本の中から選ばれて、今年の十一月に本公演として、伊丹で上演されることになった。優れているからではなく、書き切れていないからこそ、きちんとした作品にするために、敢えて選んでもらったのだと、私は捉えている。
 本公演にするためには、大幅に書き直さなくてはならない。ラストで少女に言わせた「でもそれでイイよ。忘れることは、生きてる人にしか出来ないことなんだから」という台詞。本当にそれでいいのだろうか。自分の中では、釈然としていない。そのことも含めて、もう一度、真剣に震災と向き合う必要がある。そしてそれは、私が今、望んでいることだ。
 変わりつつある震災への思いを抱えながら、一歩ずつ、その時、その時に自分が何を感じているのかを確かめつつ、これからも進んでいくのだろうという漠然とした思い。それが、五年経った今、感じていることだった。
仕 事
片隅の額 藤原 恵美子(三十一歳 パート勤務 灘区)
 西暦二〇〇〇年。二〇〇〇というきりのよい数字に人の心は躍り、何にでも「ミレニアム」の枕詞をつけて強調する。奥深い根拠がなくても、物事や気持ちが整理されていく。
 二〇〇〇年一月十七日。震災に対する思いもまた、まる五年を費やして、ひとつの形を作り上げる時期なのかもしれない。
 年始の新聞の投稿欄に、こんな表題を見つけた。「震災がくれたもの」。マンション再建の間に仮住まいした二つの土地で、それぞれ思いがけず人の温かさにふれた、という内容だった。
 「震災で失ったものは」と問われて、思い浮かぶもののない人はいない。ただ、その内容は、即答できるものから、表現のしようのないものまで、大きさも形も多種多様だ。考えたくもない人だっている。失ったものが取り戻せるなら、それを信じて、また、二度と返らないものなら、心の中に安置させるために、人は五年を費やした。その途中、全く正反対の発想の、震災が何かをくれたという思いを抱くことがあっただろうか。
 五年かかったが、今なら落ち着いて貴重な出会いを思い起こせる。そうなった自分の環境を幸せだと思う。
 私は、ホテルでレストランサービスの仕事に従事していた。朝食準備のため早朝出勤し、ホテルであのときを迎えた。その瞬間からホテルのありようは、変わった。
 春の営業再開から、お客さんの大半は、復旧工事に従事する電気会社の人たちになった。多い時期で二百名が宿泊していた。早朝に一斉に現場に向かわれるため、毎朝の食事もほとんど一斉だった。黙々と短時間で食事をし、さっと出発する。
 その頃のことを私はよく覚えていない。書き留めているものもほとんどない。お客さんも従業員も疲れていた。異様な空気だけは感触として残っているが、どんなふうにお客さんに向かっていたのかは、記憶から抜け落ちている。
 それは、私のしていた仕事が上滑りだったからだろう。私は、現状を否定するだけで、改善する気力も能力も持ち合わせていなかった。しかし、あの頃味わうことのなかった接客サービスの醍醐味を、今になって違う形で取り返そうとしている。
 今でも手紙をくれる人がいるのだ。その人は、定年退職した電気会社から雇われて、臨時に派遣され、ホテルに長期滞在していた。毎朝一番にレストランに来られていたので、よく覚えている。震災がなければ決して出会うことのなかった縁、決して体験することのなかった接客。ホテルがホテルらしさを失ったと嘆くだけだった私は、五年経ってようやくその尊さに気がついた。
 一九九七年四月、ホテル住まいを終えて半年経った頃、近況を綴ってくださった。
  暇があってもなかなか出かけることが出来ず、
 とのことだった。同六月、仕事に悩む私に、こんな意見をしてくださる。
  自己の置かれている立場で何が最善か、またそれが他人様にどの様な印象を与えるか、「定められているからいつもと同じでよい」ではなく、通り過ぎず、それはもしや間違いではと考え見直す
 大切なのは、そういう気持ちだと教えてくれた。また、
  ややもすれば忘れがちなというか当たり前の様に考えられている人と人とのつき合い、とりわけ家族の絆について考え続けるのは大切なこととし、同時に、歌を贈ってくださった。
  ひと歳余 お早ようの縁 忘れずに
  便りある彼女 幸多くあれ

  大体毎朝五時半頃妻とウォーキングに近くの宇治川堤を往復約四キロメートル歩くことが最大の日課
だそうだ。
 一九九八年になると、
  朝は眠くて起きられず、
と書いていらっしゃる。五時半にはもうレストランが開くのを待っていらっしゃったのに、と何だかおかしい。
 夏の手紙に、
  日中は暑いし、気紛れに、夕食後に氏神様の御香宮から桃山陵、山科川へ出て、約一時間半程歩いています。これと言った趣味はなく、ここのところ小枝を拾ってきては、妻と孫娘へのペンダントを作り、四ケできあがったところです。
 悠々自適のご様子が感じられる。
 一九九九年十一月
  私も満七十歳になり、市バスの敬老乗車証をいただきました。
  いつまでも文通のみに終わるかも分かりませんが、おつき合いくださることを願っております。

 私の部屋には、この人の詠んだ歌が掲げてある。最後の宿泊のとき、ホテルへ贈られた額だ。
  大地裂け 救援の衆 任務終え
  こころを残し 宿を旅立つ
 震災を知る従業員が一握りとなったホテルで、私は退職の日に部屋の片隅に放置されていたこの額を、そっと持ち帰ってきた。
奇跡の家 服部 康子(六十四歳 東灘区)
 一九九五年一月十七日未明、私はあの大地震を自宅のベッドの上で迎えました。私の体は宙を舞い、それは絶叫マシンさながらでした。激しい揺れが終わって、道から聞こえてくる人声に、外に出ようとして初めて部屋に閉じ込められてしまっていることに気がつきました。倒れた家具、はずれたドア、散乱した食器などをまたいだり、踏ん付けたりしながら、やっと外に出ると、多くの人が倒壊した家に閉じ込められていたのです。神戸市東灘区が、最も倒壊家屋が多かったことを後で知りました。
 その頃の私は、インテリアコーディネーターとして大阪にあるハウスメーカーで働いていました。職業柄、地震後に仕事は急激に忙しくなりました。受注が押し寄せたのです。今までの職人さんだけではとうてい建てられる数ではありません。会社はお客様の要望に応えようと新しく下請の工務店を参入させたりしましたが、工事を思うように進めることはできませんでした。最初につき当たった問題は、多くの道が倒壊した家で塞がれて通行不能になっていて、資材の搬入がままならなかったことです。それによって当然、運搬費を予定より多く支払わなければならなくなりました。更に職人さんの不足から賃金も上げなければならなくなったのです。
 こうしたことが重なると、今まで通りの契約額で工事をすることが不可能になってきました。お客様に追加料金を請求できるのか、できないのか、私達は悩みました。会社としては、できる限り契約の条件は守りたかったからです。
 私達の気持ちとは裏腹に、困ったことはそれだけにとどまりませんでした。遠方から未知の工務店を参入させたことが、裏目に出たのです。初めて私どもの会社の仕事をする職人さんは、私達が当たり前と思っていたことを知らなくて、できない人も多かったのです。こうなると一つひとつ細かく指示を出さないと、思うように工事が進行しないばかりか、やり直しが続出しました。
 もはや契約工期を守ることが至難の業となってきました。無責任な工務店や不慣れな職人さんによる仕事の質の低下。私たちは現場を見に行っては落胆して、職人さんの入れ替えを何度となく繰り返す結果となりました。それはお施主さんに不安を与え迷惑をかけることになったのです。一つの打ち合わせに行くのにも電車はまだ開通していないのです。幹線道路は一般車の乗り入れが禁止されています。バスを乗り継いで何時間もかけて行かなければなりません。私たちは極力信用を裏切らない建物をつくることに努めましたが、不本意な工務店もいて、職人さんの入れ替えにも手間取りました。その間に工事はどんどん遅れ、お客様のいらいらは増すばかりです。多くのご迷惑をかけながら、不手際をお詫びし、ただただ会社の誠意を信用していただくしかなかったのです。
 私も罹災者の一人、「仮住まいで不自由な生活を強いられて、もう限界だ」と言われる気持ちがよく分かるだけに辛い日々でした。
 地震直後は、地震前に建てたお客様の家の一軒一軒が、果たして大丈夫だったかどうか心配でした。会社の者は手分けして徒歩で一軒一軒を訪ね歩きました。幸いなことに倒壊は一軒もなく、さらに類焼を必死でくい止めたお客様の努力もあって、大火の中で一軒だけ焼け残り「奇跡の家」と週刊誌で取り上げられたという知らせが、ともすれば滅入ってしまいそうな気持ちを、苦しみの中で一筋の喜びとなって支えてくれました。
 あれから五年、欠陥住宅が巷の話題になっています。どさくさにまぎれた、心ない業者による、そうした工事も沢山目の当たりにしてきました。少しでも安く、一日でも早くというお客様の要望を満たすことはできませんでしたが、欠陥住宅は一軒もつくらなかったことだけは、今分かってもらえていると思っています。非常事態の中では、急ぐ気持ちがあって当然ですが、家というものは一度建てたら何十年も住むのです。人の気持ちは事態が安定すると時間の経過と共に変わるものです。一時の思いで焦らずにじっくりと考えて、価格の安さだけを優先せずに長い目で判断することが、良い結果に繋がると思います。そして、中間検査と完工検査の検査済証を必ず受け取ってください。希望通りの間取りができなかったり、思うように窓が開けられなかったり、多少の不満が残るかも知れませんが、違反は絶対にしないことです。例えば、つくってはいけない所に窓を開けるとか、規定以上に一寸だけ庇を伸ばすとかで検査を受けなかったりすると、それがずるい業者の隠れみのになって、欠陥住宅をつくることが往々にしてあるからです。
 今は定年を迎え会社を辞めましたが、これからも家を建てられる方のお役に立つことをしていきたいと思っています。
入荷予定 女性・匿名
(三十一歳 会社員 奈良県橿原市)
 私の職場は大阪市内にあるスポーツ用品の販売店です。入社してから十三年間、アウトドア用品の担当をしています。
この長い仕事の歴史の中で、忘れられない貴重な体験が、五年前の阪神大震災です。
 私は当時から奈良に住んでいるため、被災はしていませんが、仕事を通じてあの震災の恐ろしさと悲しさを知りました。
 当時、私のアウトドア用品の売場はシーズンオフのため、ビルの最上階の八階へ移っていました。
 地震のあった一月十七日、私はたまたまカゼをひいていて前の日から休みをもらっていました。明け方、ゴォーという地響きに驚いて目を覚まし、次の瞬間、今までになく激しい揺れに、あまりの恐怖でうずくまったまま動けずにいました。
 しばらく余震が続き、何もなかったかのようにまた静かになり、父と母と、「すごい地震やったなあ。これは相当大きい地震やろう」と話をし、熱がまだあったため、布団に戻りました。
 再び、目覚めた時は、もう朝九時を過ぎていました。そしてテレビをつけ‥‥。画面には燃えている神戸の街が映っていました。この時初めて、明け方の地震の大きさに気付いたのです。
 私は会社に電話をしました。会社もやはりガラスが割れるなどの被害があったらしく、この日は応急処置でガムテープを貼ったり、倒れた什器を元に戻したりと、男性社員がバタバタしていて、営業どころではありませんでした。
 次の日、朝から数十人のお客様が来店し、乾パン、ポリタンク、ガスボンベなどは、すべて売り切れました。昨日の地震のせいだということは分かりましたが、その時はまだ、その後自分が体験するショッキングな出来事を予想できずにいました。
 それは地震から三日目のことです。この日、開店と同時に百人以上のお客様が押し寄せました。昨日売り切れたポリタンクなどを求めて。昨日注文した商品が入荷と共に一瞬にして売り切れ、買えない人が大勢いました。私達は、必死で商品を探しました。あらゆる所に電話をし、メーカーの倉庫に直接取りに行き、段ボールごと店に運びました。けれど、それもまたたく間になくなりました。
 この状況は、もちろんうちの店だけではなく、ホームセンターやスーパーなどから注文が殺到し、メーカーも品切れ状態でした。新潟や石川からも何百個ものポリタンクを仕入れたりしました。「午後に入荷予定」とビラを貼れば、それをずっと待つ人達もいました。
 こんな日がそれから一週間以上続きました。神戸から歩いて買いに来たという人はリュックサックまで買って一杯つめこんで行かれました。テントや寝袋も重いのにかかえて行かれました。
 求めていた物がどこに行っても手に入らず、何とかしてほしいと泣かれたこともありました。一人で二つ、三つ買おうとする人に怒鳴りつける人もいました。
 このようなすさまじい光景の中、私達はものすごく複雑な思いで動き回っていました。毎日遅くまで必死に働きました。そんなことぐらいしか、あの時私達にできることはなかったのでした。
 ある人に言われました。
 「わしらがこんな思いしとるのに、そのおかげでもうかっとるんやろ」
 それは、ひどく、心につきささる言葉でした。泣きそうになりました。けれど、その人はきっともっとつらいのだろうと思いました。
 実際、この一週間、びっくりするくらいの売り上げがありました。それは事実でした。ただ、私達はそのことをだれ一人喜んだわけではありませんでした。お金をいただくたび、本当に心が痛かったのです。本当につらかったのです。
 あれから五年、今も同じく、販売の仕事を続けていますが、あの日々を忘れたことはありません。自然の、地震の恐ろしさ、人間の弱さと強さを身近に見、感じたあの日々を。
 そして自分の仕事に対しても考えさせられた貴重な体験となっています。つらく悲しい毎日の中でも、「ありがとう」と、心から喜んで言ってくれた人もいたのです。
 五年という月日の中で、日本中の人の記憶から少しずつ薄れてきているのではないかと、私は最近思います。
 けれど、これは忘れては絶対にいけない事実なのです。戦争と同じように今もなお、傷の癒えない人が大勢いるのですから。
 人が人を傷つける今の世の中ですが、自然が人を傷つけることがあり得ること、そしてそれは予告なく訪れること。だからこそ、そんな時に自分で自分を守れるように対策を考えておかなければならないことを、私達は絶対に忘れてはならないのです。
へっぴり腰 森田 知成
(三十一歳 会社員 静岡県袋井市)
 平成六年から七年にかけて、私は神戸三宮(中央区)の浪花町のコンビニエンスストアで、深夜のアルバイトをしていた。勤務時間は午後十時から翌日の午前九時まで。
阪神大震災の前日の一月十六日の夕方、私が自分の部屋のベッドで寝そべり、雑誌を読んでいるとき、軽い地震を感じた それはすぐにおさまり、「なんだ、もう終わりか」と思ったことを覚えている。不謹慎と思われるかもしれないが、神戸という町はめったに地震などない所で、そこで生まれ育った私は、たまの地震には好奇心のみで接する癖がついていた。
 その日もいつものように午後十時に店に入った。相棒は私と同じフリーターのOさん。深夜勤務は危険防止のため、必ず二人以上と決まっている。
 私とOさんは、その日の仕事(商品の陳列など)を早めに片付け、客の少ない翌日の午前五時頃にはバックルームに入って一服し、来たるべき朝のラッシュアワーの忙しさに備えた。
 午前五時四十分、隣接するホテルのベルボーイが店に入って来るのが、モニターに映る。私はOさんに「ええよ、俺いくから」と言って席を立ち、レジに入った。
 午前五時四十六分、私がベルボーイからお金を受け取った瞬間、店外でドカーンと大きな音がした。私も彼も、反射的に店の入口に顔を向ける。集配のトラックでもぶつかったのかと思った。交通事故の際の衝撃音にそっくりだった。
 一度そむけた顔を、客の方へ戻す間もなく、激しい揺れは始まる。商品は一斉に棚から飛び出し、カウンターは大きく波打つ。今考えるとよくそんなことができたと思うのだが、ベルボーイの彼は、頭を手で押さえて走って外へ出て行った。
 私はと言えば、立つこともままならず、ふるいにかけられたかのような揺れに、身を任せるしかなかった。外に停まっている車は、火にかけたポップコーンのように跳ねる。水道管の破裂により、みるみるうちに足元は水浸し。レジは開閉を繰り返し、ガコンガコンと音を立て、紙幣が飛び散る。何も考えられず、何も行動できない。
 大変な地震のようだと分かりかけた頃に、揺れは終った。それほど突然であったし、きつかったし、得体の知れない恐怖を伴うものだった。
 私はあの感覚を思い出すとき、ロデオの暴れ馬を連想する。無理矢理振り落とそうとしているような、悪意を感じるほどのヒステリックな揺さぶり。人には言わないが、私には今でもあれは自然現象ではなく、何者かによるものではないかと思えるときがあるのだ。
 停電で暗闇の中、しばらくじっとしてから、恐る恐る動き出す。踝まで水浸しの上、一歩ごとに何かが足に当たる。それでも手探りで奥へ進み、倒れた大型冷蔵庫をくぐる。
 「Oさあん、大丈夫やったあ」と声をかけると返事があったのでまず安心した。
 二人で外へ出てみると、むせるほど空気が埃っぽく、ガスの臭いが充満している。あちこちで非常ベルが鳴り続け、(店の近辺はオフィス街である)、救急車だか消防車だかのサイレンも一つや二つではなかった。何か雰囲気がおかしい。。そう感じるほど、私は身をもってあの揺れを体験していながらも呑気だった。
 あの数秒で六千人以上の命が奪われたなどと、想像だにできなかった。これは震災体験者にある程度共通するのではないだろうか。自分がここにこうして生きている、その事実のみで、皆もきっと大丈夫なのだと勘違いしていたような気がする。

 現在私は、わけあって静岡で暮らしているが、妻が気付かぬほどのごく小さな地震に出くわしても、毛穴が引き締まり、心拍数が上がる。
 あの一月十六日の夕方の小さな地震。あれを最後に、私の地震反応ともいうべきものは変わってしまった。一生このままであろう。
 しばしば、店の防犯カメラに映った自分の後ろ姿をテレビ番組で見かける。カウンターを両手で押さえておろおろしている。
 「へっぴり腰」という妻の言葉は、毎年の決まり文句となっている。
 「あれはな、地球を押さえとんのや」
混乱の中で
水 筒 大川 博行(七十一歳 灘区)
 地震で我が家は瞬時にして半壊となった。あの揺れようではペシャンコに崩壊しても不思議ではないと思う程の大揺れであったのに、古家はよく耐えてくれたものである。感謝、感謝。三カ月後に大修理を施し、現在では安住の日々を送っている。
 被災直後の一月末の寒い日の夕方五時頃のことである。夕食の準備をしていた妻が遠慮気味に、
 「お父さん、水がないわ」と言った。
 仮設給水所への水貰いは私の担当である。適当な容器が見当たらないので、ペットボトル三本を持って給水所へ急ぐと、十人ほどが、やかん、鍋、バケツ等色々な容器を持って並んでいる。寒さをこらえながら順番を待ち、暗がりが一段と寒さを増し皆無口である。二十分位経過したであろうか? 後方には懐中電灯の光でおよそ十五人位が列をつくっていた。
 順番が進み前の人の十リットル用のポリ容器に八分目位満たされたとき、自衛隊の一トン水タンク車が空になり、蛇口から水が出なくなった。次は私の番であるのに。女房には申し訳ないが、「まあいいか」と、独り言。
 私の後ろに並んでいた人たちは、長時間待ったにもかかわらず、誰一人として怒ったり、怒鳴ったり、文句を言う人もなく三々五々散って行った。その光景を見て、被災者の冷静な行動に感銘を受けた。この様な光景を見ていた自衛隊員は、
 「御免なさい、すぐ持って来ます」と、告げたが被災者からの反応は全くない。
 私もその場から二、三歩踏み出した時、別の自衛隊員の方が、
 「おっちゃん悪いな……。水がなくなって」と言った。その時、私が抱え込むようにして持っていたペットボトル二本が地面に落ちた。空の音が耳に入ったのか、
 「空やな……。ちょっと待って、そのボトル貸して」と言いながら自分の腰に下げていた水筒を手際よく取り出しボトルに移し替え、なお同僚隊員の水筒の分もボトルに注ぎ手渡してくれた。
 思いもしなかった突然の出来事に、私はただ呆然とその場に立ち止まったままである。
 自衛隊員各自が携帯する水筒の水は、状況によっては命の綱とも言うべきほど貴重なものであるにも拘らず、その貴重な水筒の水を貰ったのである。
 「貴重な水ありがとう」とお礼を言うと、自衛隊の方は、真剣な顔付きで、
 「給水を任務としている私達にとってこんなに辛いことはない。水なしで帰られた被災者の方には誠に申し訳ないです。一本は空やけど御免ね。すぐ引き返して水持ってきます」と頭を下げて仮設給水所を急ぐようにして立ち去って行った。
 私はあの自衛隊員の方の被災者への思いやりと気配り、そして咄嗟の冷静な行動に胸打たれ、目に熱いものを感じた。今でも当時の仮設給水所の前を通ると、あの時の情景が走馬灯のように脳裏をかすめる。
 部隊名も名前もわからないあの隊員の方に一言「ありがとう」と申し上げるとともに、自衛隊の皆様の真摯な生活支援に心からお礼を申し上げたい。
天狗倒し 草地 研吾(三十二歳 会社員 東灘区)
 松谷みよ子・作「こわいものたんけん」という本がある。
 不可解な自然現象を列記した内容で、その一つに「天狗倒し」と呼ばれる自然現象について書かれている項目がある。
 「真夜中。木こりが山小屋で寝ていると、はるか彼方で大木が倒される轟音が聞こえる。
 驚いて外に出ても、当然闇夜では何も見えない。一体誰がこんな夜ふけに木を切っているのか不思議に思うことがある。
 またある時は夜中に突然、小石が四方八方からバラバラと小屋めがけて飛んでくるような音がする。恐る恐る外に出てみると石一つ落ちていない」などと記されている。

 二十四年前の深夜。
 寝室で初めて聞いた「地鳴り」は、この天狗倒しだと、幼心に恐怖感を抱き、眠れない夜を過ごした覚えがある。
 それ以来、あの阪神大震災の前年の夏まで毎年、この「地鳴り」が自宅の裏山から聞こえていた。この現象をどう呼んでよいのか判断しかねるため、ここでは「地鳴り」と書く。

 二十四年前の昭和五十一年、私は東灘区御影山手六丁目に引っ越してきた。御影北小学校に転校し、三年生だった。
 寝室を北側(山側)にもらい、部屋の窓は大きく、六甲の山並みが目の前に迫っている。
 徒歩五分でうっそうとした、六甲の森に入ってしまうほど、山に近い場所である。
 「地鳴り」が聞こえるのは夏の真夜中。
 それも午前二時近い時が最も多かった。
 昼間は外出している機会が多いせいもあるだろうが、聞こえたためしはない。
 夏の夜、暑いので窓を開けて寝ている時や学期末試験で徹夜している時など、この地鳴りは明らかに六甲山中から聞こえてきた。
 聞こえる回数は不確定だが、ひと夏に二回ほどは必ず聞こえる。音は、大木どころか、山崩れが起こったのかと思うほどの轟音だ。
 その間約一、二秒ほど。
 伐採した大木を数本地面に立てておき、巨人がその強力な手で一気に、それも瞬間的に横殴りに倒す、という表現が適している。あるいは工事現場でクレーンなどを使い、建物を壊す時に崩れ落ちる音、とも言える。
 深い闇の山中にこのような音が、瞬間的に響き渡る。
 六甲山中を走る新幹線の騒音ではないかと考え、JR西日本に問い合わせたが、新幹線が地下を通る真上で、地面に耳を当てて聞かないと騒音など聞こえないと言う。
 聞こえてくる場所は大体決まっているように思われた。灘区の高羽交差点から御影山手の新神戸変電所に通じる一本道がある。高羽交差点から親和学園前を通り、二、三の大型マンションを通り過ぎると、人家が全くない道となる。この人家の全くない数百メートルの道あたりから聞こえてくるのである。
 方角でいうと、阪急御影駅から北北西の山中となり、鶴甲団地からは真東の山になる。
 地図上では、坊主山(三七六メートル)と記されている。
 それともう一つ、大きな疑問を今でも持ち続けている。
 たとえ年数回とはいえ、あれだけの音を、御影山手の住民が聞き逃すはずがない。
 必ず誰かが、聞いているはずだと思う。
 夏の夜、山側の窓を開けて深夜起きていた人はいたはずだ。残念ながら友人や会社の同僚に話すことはあっても、近隣住民に聞いたことはない。
 なお、震災後は三年間は一度も聞こえていない。その後私は結婚し、実家を離れたので現時点で聞こえるのかどうかは分からない。

 以上がこの二十四年間、いや私が引っ越してくるもっと以前から続いていたかもしれない「地鳴り」についての記述である。
 私の両親は南側(海側)の部屋に寝室があるせいか、そんな音は全く聞いたことがないと言う。しかしこの地鳴りが聞こえる度に、私は最初から親に説明してきた。
 小学校の頃は何をどう説明しても、夢でも見たのでしょ、と笑って済まされていた。
 しかし震災のつい前年まで、間違いなく毎年聞こえてきたのである。
 今では、あの音は地震の前触れで、この数十年間、断層が少しずつ、ずれていった音ではないか、と親と話し合っている。
三角公園 愛川 弘(七十一歳 尼崎市)
 高速新開地の駅を地上に上がると三角公園に出る。あれから五年、地震の傷痕も見られない。それほど広くない道路に挟まれた三角形の広場。なぜか老人も若者もここを集合場所によく利用している。あの朝、その三角公園に不安げな人々が集まって来ていた。その中に私もいたのだ。
 前に建っていたビルが傾いている。各階の窓からブラインドが垂れ下がっていた。まるで黒くくり抜かれた目から涙を流しているように私には見えた。
 その横に建っていた銀行も、傾いた銀行にもたれ掛かっている。付近の木造家屋の多くは一階が座り込むように地面に崩れ、二階がかぶさり、その上に屋根がのっていた。
 平成七年一月十七日のその朝は寒かった。立ち上る黄色い埃の幕が辺り一面を見通し悪くしていた。腕時計を見る。十一時過ぎになっている。あれからもう六時間にもなるのか。
 「あれっ。また揺れた。あの屋上の看板が落ちる」、公園に集まって来ていた男が叫ぶ。公園は、ビルからかなり離れている。倒れかかったビルの屋上にある銀行の看板が、ひっきりなしの揺れに、止め金具が壊れたのだろう。落ちてくる。最初の揺れは、五時四十六分に起こった。大きな地震であった。あれから何十回となくこんな揺れが起こっていた。
 こんな恐ろしい不安なことを六十五年の人生の中に二度も経験するものだろうか。
 昭和二十年三月十七日。アメリカのB29の空爆により、この一帯はすっかり焼き払われた。私はその時十六歳だった。夜中から始まった空襲が夜明けまで続き、付近が白み始めたころ空襲は終わった。私の家も焼かれた。屋根に落ちた焼夷弾が屋根を燃やし、裏庭に落ちた焼夷弾は、裏の樹木を焼き払った。日頃から用意されていた砂袋を投げつけたが、とても消すことが出来ない。皆は逃げるしかないと覚った。
 常々私は、妹を背負って逃げる手はずになっていたので、妹を背負い、防空頭巾を被り、その上から薄い布団を被って燃え盛っている道路を逃げた。途中、両親とも他の弟妹ともはぐれ、夜明けとともにうっすらと付近が見えてくるころ、私と妹は国鉄(現JR)の高架下に座っていた。幸い高架下までは火が回ってこず、二人は火傷一つ負わずに朝を迎えた。
 はぐれたら三角公園に来るように、と母親に言われていたので、焼けただれた市街電車の敷石をたどって歩いた。架線が焼け落ち、敷石の上で跳ねている。ときどき架線から火花が散った。敷石が熱い。焼け落ちた辺りの建物にはまだ火が残っていた。柱が黒く炭になっている。私も、背中の妹もすっかり煤けていただろう。
 三角公園まで来ると、多くの被災者が集まっていた。両親も弟妹もまだ来ていない。黒く焼けた人間が大八車で運ばれてくる。男か女かも見分けがつかない。炭の人形である。救護班の医師と看護婦が、運ばれてくるけが人の治療についている。火傷の水泡をはがし、薬を塗り、包帯を巻いていく。けが人はすでに死んでいるのか、うめき声一つ出さない。
 次々と黒焦げの遺体が運ばれてきて、映画館の前に並べられていく。けが人、遺体と運ばれてきて、医師も看護婦も休む間もない。運ばれてくる黒炭の中に両親がいないかと探す。けが人の中に弟妹がいないかと見る。だが、両親でも弟妹でもなかった。安心してよいのか。これから運ばれて来るのか分からないだけに体を固くして立っていたのを思い出す。
 その時と同じこの場所で悲嘆に暮れていたあの朝の自分を見る。
 地震のとき、私は前日から花隈駅に勤務していた。電車は不通。三角公園から尼崎まで歩いて帰るしかない。駅にあった地図を毎日見ているので、新開地から尼崎まで三十六キロもあることを……。
 道路に面して並んでいた建物がことごとく崩れ落ち、瓦礫が道路まではみ出している。道路のアスファルトも大きく波打ち、裂けていた。歩くのにも危険な場所ばかりである。瓦礫の中に生き埋めになっている人がいるのだろう。付近の人々が集まり、倒れた柱をよけ、壁土に埋まっている家具を引き出し、木片で土をかき出しながら叫んでいる。瓦礫の中から声が聞こえるのか、耳を地面につけ、おーい、おーいと声をかけている。通る人々はそれらの声にも足を止めることがない。私も電話が通じない家が心配であった。昨夜は、妻は一人で恐ろしかっただろう。大丈夫と思いながらも、生き埋めの現場を見ると心が重い。早く、早くと、重い足を引きずり、八時間かけて帰宅した五年前がうそのようである。今日、三角公園に立って、私は二度とあのような恐ろしい経験はしたくないと祈るのである。
地下鉄で 前山 政子(七十一歳 主婦 西区)
 暗い。こんなものだろうかと、一足外に出て思わずあたりを見まわしました。ここ新興住宅地は長い夜がまだ深々と沈んで安眠の揺籠の中でした。
 駅までは歩いて十分と少しの所を、五時台の始発に三十分も早く家を出てしまった私達でした。支度が出来てしまうと、落ち着けない老人の特性でしょう。闇に戸惑って思わず身震いしながら歩き出しました。
 「駅は開いているかしら」、一人言のように呟きましたが、間髪を入れずに主人から「阿呆」と軽い一喝が私の背中に飛んできました。
 グリーンスタジアムの裏側の傾斜を迂回した途端に、ぽっと、まるで光の器を置いたような駅舎が、星一つない闇の中に浮いているように見えました。
 駅長さんが一人でした。一メートル位の立看板を運んでいました。無料パスを出し、挨拶してホームに降りました。
 所在ないままにふと仰いだ空から、白い灰のような雪が照明の中にまるで遊泳するように舞い降りていました。異常に暗かったのは、雪が降る曇り空のせいでもあったのです。
 「富士山は見えるだろうか」と北の空の様子から、急にそのことが心配になりました。
 主人は太平洋戦争終局の十二月に米国の軍艦で帰国して浦賀に着き、その朝の富士山から受けた感激が忘れられないで、時折こうして眺めに行くのを何よりの楽しみにして、今日も連れ立ってのその旅でした。
 神戸市営地下鉄三宮行きの一番電車は総合運動公園を発車しました。
 平成七年一月十七日のことでした。
 私達は詰めてもらって何とか腰かける事が出来たほどに座席はもう一杯でしたが、立っている人はいませんでした。この人たちは夜明け前の断ち切られた眠りを引き継いだようにそれぞれリラックスしたポーズで、軌道を走る確かなリズムが心地よげで、過ぎていく駅の幾つかも夢うつつでした。
 電車が停止し、扉が開くのと全く同時でした。
 ガチャン。頭上に百雷を浴びたほどの轟音でした。そのすさまじい間隙をぬってカ、ミ、サ、ワの場内アナウンスが途切れてかすかに聞こえていました。
 座席から弾かれて、うそのように二本足で突っ立った瞬間、傍らの金属棒にしがみつきました。同時に、左右の激しいローリングを感じました。
 突拍子もない激烈な衝撃にみんな叩きつけられたように、形をくずし、「あ」とか「う」の一言さえ出ない有様でした。あるいは轟音にかき消されたかも知れないけれど、そんな一言を発する間もない一瞬でしたから。
 吊り革の踊りが静まり、漸く静かになりました。けれどその間はずいぶん長い時間でした。
 全く知らない者同士という関係だけでなく、肝をつぶしてしまった人達でしたから誰一人口をききませんでした。言葉も弾かれてしまったほどの恐怖のどん底でした。
 漸く振動が落ち着くと、一体何事だろうと誰もが思いました。お互いの目を見合うばかりでした。重大な操作ミスだろうか、あるいは変電所の爆破ではないだろうかとも思いましたが、ホームの照明も電車内にも電気系統の異常はありません。その時です。
 「地震」と、ぼそっとつぶやいた人がいました。けれど言葉を引き継ぐ人はいませんでした。
 地震だろうかという不納得の方が強かったせいでしょう。
 テレビやラジオの情報源からは隔離された地下鉄の車両内で、私達はそれぞれが思いめぐらしながら、地下鉄側の説明を待ちました。
 状況に応じた指図があるだろうと、みんな元の席に腕を抱えて座り込みました。
 黙りこくっているこの間は時を追って不安が増大していきました。それぞれが目的を持った早朝の事で、この時間を我慢し兼ねる空気になってきました。
 「地震でーす」、一区切りのあと、「電車はバネがあるので揺れますが、この方が安全です。ホームは危険ですから出ないでください」
 小走りに帰って来た運転手の言葉でした。
 重苦しい宣告のように聴きました。
 地震だったと受け止めた瞬間、改めて余震の恐怖がのしかかってくるのでした。
 どうすれば良いのだろうと、去就の判断もし兼ねてみんなおろおろと落ち着きません。
 ふと私は今日のスケジュールが狂ってしまうと気付いて、息子に相談してみようと思い、「家に電話する」と言うより早く先頭車両から、後方にしかない電話器に向かって走り出しました。
 「危ない。止めとけ。余震がくる」
 主人の太い、一段と大きな必死の声が追いかけてきました。ダイヤルを回し終わると同時でした。
 「お母さん、大丈夫、どこ」
 嫁の性急にたたみこんでくる声は異様に上ずって聞こえます。
 「怖かった。もうおしまいかと思った。心臓麻痺一歩手前」、一気に話すその続きを途端に息子が引き継いで、直下型で震源地は近いと思うから、すぐ引き返すようにと、非常事態だと言い聞かされました。四人の子女にしがみつかれて、息子は身動きが取れそうにありません。
 もう逡巡はありません。暗いこの夜が明ければ朝になる。時間は日中かけても、主人と二人で帰ろう。二、三の注意をしてくれた息子の思いのこもった言葉に応えなければと思いました。
 元の車両に戻ると、腕組みしたまま座席に黙然とする男性と共に、皆電車が動くのを待つ様子です。
 そのうち駅長さんが来て、見通しがたたないから個々に行動してくださいと、外へ出る道案内に立たれました。
 階段には照明がありません。駅長さんが足許を照らしてくれる一本の懐中電灯が頼りで一段一段上りました。

 上がり切ってほっとしたときでした。
 異様な空気が口や鼻を塞ぐようにおおってきました。その圧迫感に、一瞬たじろぎました。けれど知りたい一心でゆっくり周囲を見回しました。鼻をつままれてもわからない真の闇です。
 夜明け前とはいっても、ここは神戸の中心部です。当然都会の明かりがあるはずと思うのとほとんど同時に、地震でどうかなっているとようやくひらめきました。
 気がつくと総毛立ちました。だが、一刻も早く見たい気持ちで必死で見えない闇に目を見開いてなおも凝視し続けました。
見えない、やはり何もない。町が消えてしまっている。
 遥か向こうに、ちょうど螢が明滅するような光がただ一つ、夢のように見えるだけ。
 息すると塞がれるあの感じは、結局煙でもなく、埃っぽい空気で、今でも喉の奥までからむ感触の記憶がよみがえります。逃げたい気分でした。
 この状況で全く不案内の地に放り出されてしまった私達でした。めいめいが暗中模索で、ただ駅長さんを取り巻いて途方にくれました。突然乗用車が、闇のベールを引き裂きました。ライトに浮かび上がった、ものの散乱する舗道は、車が走れる状態ではありません。そこへもう一台、客らしい人を乗せたタクシーが、空車の赤い掲示板のまま、左右に傾き前後に跳ねて、狂ったように目の前を通っていきました。
 ヘッドライトが暗闇を切り取った景色は、車両内の衝撃や息子の言葉を重ねてもなお信じられないものでした。
 この世の地獄かと思いました。
混乱の中 河野 祐子(二十九歳 主婦 灘区)
 あの日の前夜、私達夫妻はスキー旅行から戻りました。
 地震では、我がハイツは外傷もなく、全住人無事でした。だからまさかもっと他の地域ですごい事になっているとは、その時は思いませんでした。家にいるのは不安だったので、隣の人達と車に乗りラジオをつけました。
 するとラジオでは神戸全体に大地震がおきた事を告げていました。急に少し離れて住んでいる両親達が心配になり、電話をしましたがつながりません。しかし、隣の奥さんは実家につながったので、私達の両親にも連絡をとってもらい、両方の両親とも無事の確認がとれましたが、どういう状況にいるのかわからず心配でした。
 ラジオで聞く状況はすごく、いつまた大きな揺れが来るかもしれません。二軒隣の御夫妻の両親が灘区にいて、連絡が取れずにいた事も気になっていました。私達は灘区でも阪急六甲より北に住んでいたのですが、下のJR六甲道付近から炎が見えてきました。あの火事はどこなのか、その御夫妻の両親が心配で、私達の車に乗せ見に行きました。JR六甲道駅に近づくと、倒れた家がどんどん増え、全く違う世界になり言葉が出なくなりました。そしてその御夫妻のご主人の両親の住む周辺は大火事で、近寄る事もできません。近くにガソリンスタンドがあり、炎がいつそこまでいくかという危険な状態なのに、消防車も来ていません。逃げる人でごったがえしていました。
 「多分ダメだろうな……」、ご主人がもらす言葉に、私達は何も言えませんでした。奥さんの両親は、阪神沿線にいるとの事で急いで向かいましたが、周りの状況はもっとひどいものでした。JRの高架は崩れ落ち、あちこちで電柱や家が倒れ、国道2号線へ出ると、車道に建物が崩れ、左車線も右車線もないかのように車がごったがえしていました。
 信号も止まり警察も間に合わない中、何人かの若い男の子たちが交通整理をしていました。自分の事だけでも必死なのに、人のために動いている彼らを見て、胸が熱くなりました。彼らのお陰で車もなんとか進め、奥さんの実家近くに行けました。
 そしてその周辺の景色に驚きました。爆弾が落ちた街の様に思えたのです。あちこちのビルから炎が出て、黒い煙で空は曇り、道路に家や家具がぐちゃぐちゃに飛びだしている……。奥さんの両親は無事でした。
 ふと一人の座り込んだおじいさんが目に入り、駆け寄りました。おじいさんはシャツとすててこ姿でボーッと座っていました。座っている横が家だったらしく、壁もなく家の中の物がぐちゃぐちゃにつぶれていました。私が「おじいさん大丈夫?」と尋ねると、「ああ多分足が折れとる」とつぶやきました。おじいさんに顔を近付けると、耳から血が出て、ちぎれそうになっていました。私はすぐ車にいた主人を呼んで「この人病院に連れてって」と泣きそうに叫びましたが、その老人の奥さんらしき人は「いいです。大丈夫ですから」と言うのです。私は「何が大丈夫なん? ケガしてるのに大丈夫じゃないやん」と泣きながら怒鳴ってしまいました。そして「誰かこの人を車に乗せるのを手伝って下さい」と声を掛けると、すぐに若い男の子が手伝いに来てくれました。
 またもや若い男の子の親切に、心を打たれ、涙がポロポロ出ました。おじいさんの足は骨折しているようで、動かすと痛がりましたが、数人の力を借りて車に乗せ、JR六甲道近くにある救急病院へ、何とか遠回りしながらも運びました。
 病院は大勢のケガ人であふれて、外で治療を受ける人で一杯でした。おじいさんを降ろすと、奥さんはやっと正気になったのか「ありがとうございました」と私たちに手を合わせてくれました。車で移動するのがとても困難で、これでは急ぐ人たちに迷惑をかけると思い、すぐ家へ向かいました。
 JRの駅の近くにある主人の仕事場は、周りの悲惨さからあきらめていたのですが、建物が辛うじて建っているのを見て、本当に運が良かったと思いました。
 家の近くまで戻ると全く違う静けさで、スーツを着て仕事に行こうとしている人も見かけました。「こんな時に仕事?」「電車動くと思ってるの?」。悲惨な現場を見て来た私たちには信じられない行動でした。同じ震災でもこんな近くでこんなに差があるなんて、不思議な気持ちになりました。
 ラジオから次々に各地の悲惨な出来事や死者が次々増えていることを聞き、次は自分たちの番ではないかという恐怖がありました。その夜は隣のご夫妻たちと共に、家にあった石油ストーブで暖をとりました。家は食器が多少割れただけで大きな損害はありません。ただ私の大きな鏡台の鏡は粉々でした。「鏡は女の身代わりだから、あなたの代わりに割れたのかもね」と後に言われました。
 夜になって、二軒隣の御夫妻が戻ってこられ、やはり御主人のご両親はあの火事の中だったようで、今も手がつけられず、行方不明とのことです。眠れぬつらい夜を過ごされました。
 私たちは、続く余震と暗闇に怯えました。ストーブの明かりの中、励まし合いながら過ごしました。周りは月明かりだけで、月がこんなに明るいものだと初めて知りました。その夜は満月で、私は今でもきれいな満月がきらいです。
 地震のショックからか「空襲だ逃げろー」と叫ぶ老人もいました。私たちには生まれて初めての死を感じる体験でしたが、もっと昔に恐ろしい体験をした人がいる事を初めて感じました。
 私たちは次の朝、実家へ行くことにしました。会えないままの両親が気がかりでした。実家へ戻るまでも、ひどい状況をたくさん見ました。家やビルが倒れ、中央区の北野通を通ると、ガラスが割られ服を盗られたブティックもありました。こんな時にドロボーをする人がいる事を悲しく思いました。
 私の実家は須磨の西隣の塩屋にあり、驚いたことに周りは穏やかで、外で遊ぶ子供がいるほどでした。ガスと水は止まっていたものの、電気はついていて、テレビも見られました。ニュースを初めて画面で見ました。電話も通じていたので友人にもかけました。
 明るい部屋で食事をした時、テレビの向こうで火事や家の下敷きになっている人のことを思うと「いいのかな? ご飯食べてていいのかな?」。そんな申し訳ない気持ちで涙が出ました。
 何も出来ない自分に余計悲しくなりました。今まで電気、ガス、水が当たり前にあり、食事にも困ったことのない私には、この地震は勉強になったかもしれません。泣いて食事もろくにできない私に、母は「泣いてたってしょうがない。助かったんだから、生きてるんだからしっかりしなさい。食べなさい」と叱りました。
 そう、私は無事だった。仕事は何カ月かはできず、多少の借金はしたものの、家も仕事場も家族も友人もみんな無事だというのはあの大震災の中では、本当に運が良かったのだと、本当にありがたいことなのだとつくづく思いました。そして自分が今まで恵まれた世の中に生まれ育ち、甘ったれていたことを身をもって知りました。
 かけがえのない家族や家を失い、一生あの地震を忘れられない人々が大勢いる。形あるものは何も失わずにすんだ私たちのような人間は、街が整備され時がたつと、まるで何もなかったかのように元の生活に戻れる。しかし、だからこそ私たちは、あの地震を忘れてはいけないと思います。「あの地震さえなければ……」と一生思い続けるつらい体験をした人々が、大勢いることを忘れてはいけないと思います。そして犠牲となって失われた命を忘れず、助かった私たちは命を大切にしていこうと思います。そして地震後授かった息子の命があることも、当たり前ではなく、感謝すべきことだとつくづく感じています。
人と故国 入谷 萌苺
(フリージャーナリスト 東京都世田谷区)
 当時、中国人留学生の作っている月刊紙の翻訳記者だった私は、被災した留学生や華僑の方々を取材させてもらいました。震災直後、神戸を見てから、取材に訪れた大阪の領事館では、中国から留学生の安否を問い合わせるファクスが殺到し、領事館の方々は対応に追われていました。どこの国でも、親が娘や息子を思う気持ちは同じです。中国のマスコミでは、当初、現地の映像がなかなか手に入らないまま、震災の情報が伝えられたといいます。留学生を送り出したご家族は、大いに不安を募らせていたのです。
 春節のパーティーのために中国政府から送られていた費用約四十万円が、そのまま被災者救済対応の運営資金に回されたという話を領事の方からうかがいました。話を聞きながら、春節がすんでいなくてよかった、と思ったものでした。
一方、南京町の近くの避難所で華僑の老人が、「この震災のおかげで数十年ぶりに、中国上海に帰ります」と語っていたのが印象的でした。「今度帰ったら、もう日本にはおそらく来ないだろう、わしの人生にはもう時間がないから」。
 震災が人と人とを結び、ときには、人と故国をも結ぶのだと思いました。
 それから五年が過ぎようとしています。
 マスコミで紹介される神戸の街は、かなり復興してきているように見受けられます。
 私自身は、自分のことばかりに明け暮れて過ごしました。この間に私は、東京へ移りました。
 しかし、たまに神戸や実家のある淡路島に帰ると、いろんな変化に気付きます。地震発生直後は目に見えなかったけれど、時が経過し、かえって顕著になった被災状況が出てきているのではないでしょうか。復興からとり残されている場所は、そこだけ震災直後のまま時が凍結しています。
 この元旦に訪れた先山千光寺は、六角堂が壊れたまま無残な姿でした。国生み伝説のある淡路島で、この山は世界で一番先にできた山といわれています。にもかかわらず、一番最後まで震災から復興できないかもしれません。崩れた石段や石柱を見ていると、震災はまだ終わっていないのだなという思いが、心にあふれてきました。
 私自身の当事者としての体験は、あの震災当時に神戸で印刷製本をお願いしていた小さな写真作品集があったことです。『美国夢譚』。初めて訪れたニューヨークの撮影を記念して発行した作品集でした。
 「一杯珈琲使我感到以前没有過的感覚。……」という、中国語の散文のような詩が冒頭に記され、十四枚の写真のタイトルも中国語です。政治的なことなど、何も考慮せずに、ただ中国の人にも見て喜んでほしい、そんな願いを自分なりにこめていました。
 ところが、その制作中に阪神・淡路大震災が起こりました。
 印刷工場は神戸だったのです。
 もうダメだろうと思いました。工場に預けてあった原版のフィルムも、台なしに違いないと、諦めていました。しかし、震災の数日後、「是非色校正に来てください」、そんな連絡が入ったのです。工場の担当の方が、渋滞の中を車で迎えに来てくれました。交通規制があって、歩いた方が速いなあ、この分では今日中に大阪へもどれるのだろうか、そう思いながら、神戸に向かいました。
 「ほら、いい仕上がりでしょ」
 印刷機の横には、白いポリタンクが並んでいます。
 工場の方々が必死で水を確保し、印刷をしているのです。裁断前のページを見せてくれました。職員の方々は出勤も大変だったはずですが、納期を守るために、懸命に仕事をしてくださっていたのです。
 当時は、私自身、そのことの意味にあまり気付いていなかったかもしれません。工場の方々は被災地だからといって信用をなくさないように、ちゃんと仕事ができるということを証明されていたのだと思います。震災のために、経営不振に陥った会社もありました。
 これまで、中国から来られた方に出会うたびに、私はこの写真集をプレゼントしてきました。今後は、受け取ってくださる方に、阪神・淡路大震災で私が見たことを語るようにしていきたいと思います。
ジェンダー 叶 ゆり(三十三歳 主婦 京都市)
 「トイレはどうしたの?」
 聞かれて一瞬、何のことかとまどった。震災当時、一カ月半の出張取材を終え本社に戻り、上司から一番に聞かれたのがこの質問だった。
 私は当時テレビ局の記者で震災当日より被災地で取材に回っていた。もし私が男性なら上司は同じ質問を発しただろうか。恐らく否だろう。男性スタッフと昼夜取材に回り、建物は壊滅状態で便所など使えない。女性がどうやって用を足したのか、その答えが私の口から聞きたかったのか、或いは聞かれて戸惑う私の対応そのものに興味があったのか。本人は軽い出迎え文句で発したのであろうがその後何度も同じ質問があった。聞かれた方が不快になればそれはセクハラ発言だ。
 不本意に互いを傷つけ合ったりするのはジェンダーの問題に限らず、日常茶飯事である。しかし啓蒙的な役割を担うマスメディア業界の、しかもニュースの最高編集権を持つ人物がそれに無頓着であるのは問題だ。
 震災とジェンダーに関する報道は震災直後は皆無であった。その後しばらくして被災者は女性が千人以上も多かったことが明らかになり、七月二十一日の「朝日新聞」には被災女性電話相談の四ヵ月をまとめた記事が掲載されている。
 そこには震災が女性に与えた影響が詳細に伝えられ、レイプとレイプ未遂の相談件数が三十七件もあったという報告がある。「町が一時期、家が壊れて電灯がなくなった。後ろからリュックをつかまれて、立ち入り禁止のビルに引きずり込まれた」「半壊の家に物を取りに帰って泥棒と出くわし襲われた」など生々しい事例があげられている。三十七件の中で警察に訴えた被害者は二人だけでその二人も訴えを取り下げていた。被害者は心身ともに大きな傷を負いながらもその経験を言葉にして語れない。沈黙を余儀なくされるところに、女性への暴力の問題の特質がある。
 電話で相談する行為にも、被害者の立場ではどれほどの苦痛を強いられ、多くのエネルギーを必要としたことか。
 被災者の高齢者問題も、寿命から考えて女性の方が多い。神戸にこれほどお年寄りがいたのかと思うほど、避難所や仮設住宅はお年寄りで溢れていた。これまでこの人達はどこで息をひそめて暮らしていたのかと思わせる光景でもあった。
 このように非常事態においては、社会的弱者が自らの弱さを思い知る。しかしメディアはその実態を殆ど伝えない。反対に被災地に立つ女性リポーターの活躍ぶりが目立ったりする。弱者どころか強い立場の女性を象徴する姿である。著名な女性キャスターが被災地に毛皮とハイヒールで乗り込んで非難された。当然だ。僅かな想像力さえあればそれが非常識であることは子どもでもわかる。寝間着でいる被災者の心情より我が身の防寒が大切なのだから仕方ない。そして不躾にマイクを被災者に向け、カメラに向かってこれが被災地の様子だとコメントする。全国の大衆が見るのはその強く果敢な女性の姿である。しかし、実際には彼女のコメントは地元スタッフが取材で拾ったものでつくられる。衣食住やそれこそトイレをどうするかなどに構う暇もなく取材に回って書かれたコメントだ。
 地元局のスタッフは、自分やその家族が被災者でありながら取材者でもある。被災者の心が分かるから取材には気をつかう。五年ぶりにきた被災者からの賀状に当時の私のリポートに涙が出たと書いてあった。感動的なリポートをした記憶はないが、安否も分からない家族・親族を案じながら、取材に回っていた私をきっとこの人は理解したのだろう。
 地元スタッフは気配りをして取材に当たる。例えば局の弁当を被災者の前では食べない、また避難所で休んでいる被災者への取材は控えるなどの通達があった。そこに被災地とは縁のない東京のキャスターたちが乗りこんでくる。取材はよい、全国にリポートを発信するのもよい。しかし土足でずかずかと踏みにじるのはいけない。
 地元局では取材者と被災者との信頼関係を大切にする。それからもずっと関係は続いていくからだ。しかし取材される側にとっては地元局も東京キー局も「マスコミの連中は」になってしまう。せっかく注意をして取材をしても、突然嵐のように来て、散々荒らしてさっと引き上げてしまう取材者がいればその信頼関係は途端に崩れてしまう。それをとりもどすのはゼロからよりも難しい。いったん壊れたものを修復してそれからまた築くのだから。
 ジェンダーの問題に限らず、強者優先のマスコミの実状が震災取材でも顕著であるが、本文の趣旨にはずれるので詳細は省く。女性の人権侵害のセクハラ発言や、震災後の混乱に紛れてのレイプ事件など、ジェンダーの問題が浮き彫りになっているのにマスコミは殆どとりあげない。そして颯爽と活躍するかの女性が映し出されている。伝えられない実像と、作りものの虚像が伝えられている対比は何としたものか。双方を目の当たりにしたのが震災被災地での取材であった。
 女性被害者のジェンダーの問題を、女性キャスター自身がじっくり伝えてみてはどうだろう。今からでも遅くはない。彼女らがそこに視座を据え、虚像が実像に歩みよろうとしたときに問題解決の糸口が見えてくるのかもしれない。そして震災が教訓をまたひとつ私たちに残してくれるのかもしれないのだから。
パ ン 斎藤 美佐子
(四十六歳 主婦 千葉県松戸市)
 あの大地震を私達家族は大阪府茨木市の国道一七一号線沿いにある小高い丘の上の団地で迎えました。小さいながら不安になるような長い揺れの後に、地鳴りと共に襲ってきたこれまで経験したことのない大きな揺れ。でも震度五でした。ですから、これは神戸の皆さんが経験したことに比べれば本当にささやかな体験記でしかありません。でもささやかゆえに、人々に知られることもなく埋もれて行きそうなことを少し記録しておきたいと思います。
 団地内では、多くの家で食器が全滅しました。高層棟の上階では多くの家具が倒れました。給水塔が一基壊れ、十数棟、約三百世帯が給水車のお世話になりました。
 これは千里ニュータウンでも同様だったようです。水が出ない、食器がない、となれば誰しも考えるのは、とりあえずカップラーメンと水を買ってきて食事をすることです。私の知り合いの多くはそうしました。お店のそれらの品物の在庫量は限られていますから、当然売り切れになってしまいます。そのことをマスコミは、
  「被害の少なかった千里でも多くの人があわてて買いだめに走ったため、ラーメンなどが売り切れている」と報道しました。これには少々腹が立ちました。買いだめしたのではなく、自分たちがそれでなければ食べられなかったのですから。
 さて、当時我が家には小学校四年生、六年生と中学校三年生の子供がおりました。彼らはパンが大好きで、一日に一度もごはんを食べない日があってもかまわないが、一度もパンを食べない日があるのは堪えられない、というくらいでした。地震のあった日は家に買い置きのパンがあったのですが、翌日パン屋さんへ行ってみると、一つのパンもないのです。
 「パン工場も被災したのかもしれないね」「それに、この道路の状態では、他の工場からも配送できないしね」と子供たちと話していました。国道一七一号線は神戸へ向かう車で大渋滞しており、ほとんど動いていないように見えました。
  それにしても一週間たっても、二週間たってもパン屋さんの店頭には一つのパンもなく、まさに開店休業状態でした。何軒かのパン屋さんを回ってみても、スーパーへ行ってもどこも同じ状態でした。給食でパンを食べられる小学生はいいのですが、お弁当の中学生は少しもパンを口にすることができません。買物に行こうとするたびに、「パン買ってきて」と言われました。
 あるパン屋さんが
  「パンは作ってるんだけど、こういうときには被災地へ優先的に送る契約になっているとかで、うちらには全然入ってこないんよ」と教えてくださいました。
 家へ帰ってこの話をしたところ、それまで「パン、パン」とうるさかった子供たちがその日から一言も「パン」と言わなくなりました。神戸の人々の状況を日々ニュースで見ていますから、子供心に何かを感じたに違いありません。パンを我慢すること、それは直接神戸に行ってお手伝いすることのできない子供たちにできる唯一の、消極的なボランティアだったのかもしれません。神戸の人々がきちんとした食事をとれるようになるまで、自分達はせめてパンくらい我慢したっていいのではないか、そう思ってくれたのでしょう。
 一カ月ほどして、やっとスーパーで食パンを見つけて買ってきたとき、とても嬉しそうな顔をしました。それはパンを食べられる嬉しさと、こちらにも配れるようになったのは、神戸の復興のきざしだと喜ぶ気持ちとの混じったものだったように思います。
 団地の丘の下の方には、屋根瓦のずれた所に青いシートをかぶせた家々が、地盤の悪い所を示すかのように、列になって並んでいましたが、秋になっても、その数が一向に減りませんでした。なんでも、業者に頼んではあるが、神戸の方を優先的に工事しているため、順番待ちでいつになったら直してもらえるか分からないということでした。でも誰も文句を言わずに待っているのでした。
 「神戸のためなら」と、みんなが思っていました。
 神戸の復興は地元の人々だけでなく、周辺のすべての人々の願いでもありました。関西の人々は、みんな神戸が大好きなのです。まだまだ多くの問題は残っているのでしょうが、人々の生活の完全な復興を心から願っております。
継 続
どうして続けているのですか? 辻野 光昭(二十歳 大学生 西区)
 「ボランティアやっていて、つらかったことはありますか?」
 震災から五年を迎えようとしていた頃、「週末ボランティア」の被災者訪問活動を取材に来ていた新聞記者が私にそう聞いた。少し躊躇してから首を縦に振ると、続けてこう質問してきた。
  「どうして続けているのですか?」
 毎週土曜日に被災者を訪問する「週末ボランティア」は、基本的に被災者のお話を伺い、依頼があれば簡単なお手伝いをするのが活動だ。私が初めて参加したのは、平成十一年二月十三日から。震災からすでに四年が経過し、仮設住宅から復興住宅への移転が順次進んでいる時だった。小雪が舞い、まさしく心から冷える天候の中、何軒も仮設住宅を回ったが、ほとんどがすでに転居済。留守宅も多く、お話を伺えたのはたった一軒しかなかった。
 その後、三月、四月と月日が進むにつれて、ますます訪問状況は厳しくなる。転居が完了して空家がほとんどで、転居確認が活動の中心になっていた。仮設住宅にまだ入居者がいても訪問を断わられ、ドアすら開けてもらえない状況だった。震災当時から活動を続けている人たちによると、それまでのようにボランティアなら誰でも何でも受け入れるという環境ではないらしい。周りの人はどんどん復興住宅への移転が進むのに、なかなか転居先が決まらず取り残されて行くのだから、「もう誰とも話したくない」とふさぎこんでしまうのも無理ない。
 「もう仮の住居ではなく、終の住処の復興住宅なのだから、そこまで訪問する必要はないのでは?」仮設住宅での活動さえも思うようにいかない中、このような反対意見もあったものの、「週末ボランティア」では六月から、仮設住宅と並行して復興住宅への訪問も開始した。
 一つの復興住宅にいろんな場所の仮設住宅から転入者がある。そのため復興住宅には、週末ボランティアが訪問したことのない人も多くいる。とりあえず、ローラー作戦でお年寄の多い住宅棟を一軒一軒訪ねていった。
 反応は鈍い。お話を聞けずじまいのことも少なくない。
 ボランティア活動を始めて一年。この間、自分のやっていることにどのぐらいの意味があるのだろう、本当に被災者のお役に立っているのだろうか、所詮は自己満足ではないか、と幾度となく疑問符をつけた。訪問を断わられるのは自分の態度がまずかったのだろう、あの時こう対応すれば良かった、などと反省することしきり。もう今日を最後に辞めてしまおう、そう思ったこともしばしば。新聞記者に「辛かったことはありますか?」と聞かれうなずいてしまったのは、こういう部分からである。
 それにもかかわらず実際には活動をし続けている。「どうして続けているのですか?」と記者が聞いたのも合点がいく。この「どうして続けているのですか?」は飽きるぐらい聞いた質問で、記者に限らず私の知人やボランティアの仲間にも言われたことがある。
 「必要としてくれる人がまだいるから」。これが私の答え。実際その通りで、断わられることも多いが話をしてくださる方もまだまだ多い。収入の問題、交通の不便さ、部屋にある装置の使い方が分からない、悪質な訪問セールスや催眠商法……。一番よく聞くのが「近所の人と話をすることがない」というコミュニケーションの問題だ。震災で長年住みなれた場所を離れ、仮設住宅での生活。せっかくそこでお互い助け合い仲間ができたのに、また復興住宅へ移ってバラバラになった。そこでもう一度仲間を作るのはなかなか容易ではない。
 壁が薄い仮設住宅では、隣近所の声や外の音が聞こえた(それが欠点でもあったのだが)。戸や窓を開けてお互い顔を合わせると挨拶をした。そこから交流というものが生まれた。しかし復興住宅では重い鉄の扉を閉めると外部の音はほとんど聞こえない。お互いに見ず知らずの人がほとんどで、顔を合わせても声をかけることさえしない。どんどん孤立化が進み、「寂しい」と嘆かれる。そのつらさは、ボランティアのそれとは比べ物にならない(本当は私がつらいなどと口にすべきでないだろう)。
 だからこそ、お話し相手の「週末ボランティア」の訪問を喜ぶ方はまだまだいる。「来るのを待ってたんだよ」と準備されていた方、歌が好きで一緒に歌う方、中には「別に話すことはない」と言いながらも喋り続けた方。帰り際に「次はいつ来てくれるの?」「まだ話すことはいっぱいあるんやけど」「また来てくださいね」という言葉が聞こえる。私たちが住宅内を歩いていると、住人の方から声をかけられることも。
 始めは訪問する側も訪問される側も初対面でありやや作り笑顔だが、お話を終えてお別れの時には心からの笑顔が自然に出てくる。その笑顔が見られるかぎり、まだまだ週末ボランティアは必要だと思うし、活動を続けていこうと思う。
 初参加の人、久しぶりに参加した人も毎週数名はいる。そういう人たちがまた続けて参加するのも、そして五年経過した今でも毎週約二十名の参加者がいるのも、週末ボランティアの必要性を感じているからだろう。
川柳カード 西尾 定久(七十一歳 芦屋市)
 阪神・淡路大震災から五年目を迎えて、新聞、ラジオ、テレビは特集を組んだ。その中で私が興味を持ったのは、高齢者の生活環境に関する報道だった。兵庫県内で仮設住宅に入居した全世帯数の四十二%が六十五歳以上であり、その半数が一人暮らしだという。
 我々の学習グループが、震災ボランティアに変身して、芦屋市内では最も戸数が多かった七百四十六戸の仮設住宅群へお手伝いに行ったときのことである。
 県から草花の苗木約三百個が支給されるので、配分方法を協議した。全戸に配るには数が足らず高齢者のいる世帯を対象にし、激励の言葉を添えたカードを作ることにした。私は百枚分引き受けたが、元気づけの言葉が頭に浮かばない。
 窮余の一策として、朝日新聞の地方版に出ていた震災に関連する川柳から拝借することを思いついた。震災の年の十一月下旬のことである。
 カードの冒頭に書く川柳が決まると、後の文句がいくらでも出てくる面白さがあった。それらカード作りの原稿が、最近古い資料束から出てきた。
 十四種類のカードの内容を繰り返し百枚になるまで手書きで作成した。その中の半分を紹介しよう。朝日川柳、その短評、それに「師走目前、火の用心、寒さに備えましょう」とのスローガンを添えた。
 ・米といで明日の不安をとり除く
 あすへの準備をすることで前進する息吹が聞こえてくる、そんな作者自身の意気込みを感じますね。
 ・リュックから出せぬ我が家の貴重品
 大切な物をひとまとめにすることは今回の震災で学んだ教訓でした。
 その物を置く場所は家族には分かる様に、外部からは分からない位置を選ぶことが肝要ですね。
 ・音もなく何して暮らす人だろう
 秋深き隣は何をする人ぞ
 これは芭蕉の俳句です。
 師走も目前ですね。寒くなると家の中にこもり勝ちです。時々は温かい格好で外で手足の屈伸運 動をすると気持ちいいですよ。
 お体をお大切に、火の用心。
  ・いま生きる執念を娘に教えられ
 私も身近な人の慰め、励ましの言葉、身にしみました。
 子供たちや兄弟の顔を見ただけで涙が出て、こんな嬉しいことはありませんでした。
 ・捨て石となって変わった周囲の眼
 おはようございますの一言から隣近所のお付き合いがはじまります。
 話し相手を持っている方は宝を持っているのと同じです。
 触れ合いの輪が大きく広がるといいですね。
 ・神よりも人の情けに助けられ
 何よりも心嬉しきことですね。
 遠い親戚より近いお隣さんという言葉もありました。
 お体を大切に。
 ・被災地に笑いが戻る寅さんロケ
 人を笑わす芸能人は仕事以外では難しい顔をしていますね。
 テレビアップの寅さんもそうでした。
 映画になれば大笑いの泣き笑いコンコンチキ、その主人公に拍手喝采。
 泣くほど笑える映画が見たいね。

 註 ロケの日の寅さんの顔は常にない厳しい顔付きでした。病気を秘し我慢に我慢を重ねて、仕事に臨んだ責任感だったことを、後で知り驚きました。
 「寅さん、ほんまにありがとさんでした」

 震災ボランティアとは、多事多端のよろずボランティアだった。この世の中で知らないことが実に数多くあり、汗顔の至りだった。生涯学習の研究材料も増えて、私たちは、まさしくボランティアで、勉強させていただいた。
仮設訪問 福本 康喜(二十八歳 警備員 長田区)
 平成七年一月十七日、阪神・淡路大震災が起こった日でありました。
 私が小さいころよく買物に行った菅原市場が火の海と化して、またたくまに燃え広がって、あたり一面焼け野原になりました。自宅は一部損壊で、家族ともども助かったが、何もできない自分を情けなく思いました。そのような思いから、平成九年十二月に行われた越年越冬活動に参加させていただきました。
 神戸の冬を支える会や、神戸YWCA、日本バプテスト連盟、関西学院大学の「労働問題研究所」の方々と一緒に、炊き出し、ビラ撒き、三宮などの地下街などをパトロールしてホームレスの人々を励ましたり、お話し相手になったりしました。ボランティアをする前はすごくむずかしいものと考えていましたが、やりはじめるとすごく簡単でした。今日からでも、明日からでも、いつでもできると分かりました。
 平成十年十二月二十六日に、別のボランティア団体「週末ボランティア」の活動に、初参加しました。
 神戸市西区の仮設住宅を中心に、訪問活動をしておりました唯一の団体です。仮設住宅の住民の方々の悩み事や、生活相談、公営住宅などの当選の可否、世間話などを、戸口でお話をお聞きします。
 ある仮設の人は、公営住宅になかなか当たらないと私達にお話をしてくださったり、また別の仮設の人は、あがってくださいと言って中で世間話などをした後帰り際に、うれし涙を流されたり、阪神大水害の時のお話をしてくださった人などいろいろありました。その後終了ミーティングの会場で、訪問先で感じた事や、初参加の感想、連絡事項などをみんなの前で発表して一日の訪問活動は終了します。
 訪問活動をしている時に、調査員と間違えられたり、サラ金の取り立てと間違えられたことも何回かありました。
 私が一回だけ参加して終わらなかったのは、ボランティア活動は継続しなければ答が見出せなかったからです。二回、三回と回数を重ねれば、自分の考え方、捉え方などが分かっていくし、仮設住宅のことも見えてきます。それまで私は新聞でしか、仮設住宅の事を見ていませんでした。
 ボランティア活動を通じて、現場の意見を重視しなければならないと学んだので、会社の仕事にもよい影響が出ました。
 今年で震災から五年を迎えますが、心の復興及びケア、住民主体のコミュニティー、復興住宅での孤独死ゼロ、閉じこもりゼロをめざした復興計画が絶対必要です。
 そうしなければ、仮設住宅で学んだ事、震災で学んだ事などの教訓が活かせないと思います。
 私もボランティア活動を、無理なく継続できるように頑張っていきたいです。
 震災五年の重みを大切にして、ボランティア活動で学んだ知識などを、仕事や、地域コミュニティー活動に活用して、六年目に向かってまい進していこうと思います。
 生活再建などの問題が山積しておりますが、被災者自身ではもう解決できる問題など一つもないと思います。もっと踏み込んだ公的支援が必要です。そのためには、みんなでもう一度署名活動をして、国会議員などの方々と共に勉強会をして、政府に理解を求めるべきです。
 五年たっても長田区の人口は元に戻っていません。人も町も復興してこそ本当の復興です。震災が残した問題を、私達被災者全員で一つひとつ解決しながら、六年目に向けて有意義な年にしたいと思います。