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体験記 第5集 「阪神大震災 私たちが語る5年目」

発行 阪神大震災を記録しつづける会 発売 神戸新聞総合出版センター

定価 1200円(税別)

1999年7月30日 発行


地震さえなければ、

地震があったから・・・

「豊かな時代」に暮らす私たちに残された問題はますます多様化してきた

被災地の外と共通する課題も多い

地震から5年目を迎えて浮き彫りになってきた真実を、61編でつづる<震災体験手記第5巻>

選者たちが5年を振り返る座談会を巻末に収録

 

      (無断転載はご遠慮ください)

  


も く じ
投稿者の氏名、年齢、職業は投稿時
* タイトル 筆 者 * タイトル 筆 者
まえがき  いつの日か 小橋 繁好 3 共に生きる リストラ 匿名・男性
1 支え 語らいの後に 赤西 裕之 たんす 匿名・男性
ひなげしの花 東條 健司 スケープゴート 山根 洋子
医師のボランティア日記 湊 健児 4 心 おっちゃん 後藤 妙子
語り部 西田 公夫 これでいいのだ 加藤 克信
被災地の下呂温泉 中島 由博 孤独 川畑 守
歯車 岡本 美紀 敷き布団 北川 京子
無償の責任 山中 敏夫 震災とストレス 匿名・女性
四年前の受験生たち 野口 元子 告白 若松 貴也
生きる希望 清重 智子 父のうつ病 高杉 智子
「鳥の歌」 川端 充宗 三回忌 森 啓和
遊びを届けよう 岡部 秀夫 娘の腕時計 三川 範彦
よろずボランティア 西尾 定久 二十一世紀へ 尾崎 淳二
畳六百枚 岡田 智晶 拒絶反応 近田 育美
在宅介護 中井 貴美江 夫の変調 岩崎 美代子
2 住み家 解体工事 藤原 恵美子 5 遠く離れて 「これがカリフォルニアよ」 根本 正枝
精一杯 匿名・女性 元兵曹がみた震災 大橋 光正
当選通知 綱 哲男 夜景 築地原 三紀子
四年がかり 徳島 喜代子 一日違いで 宗安 美幸
ひび割れ 小椿 千恵子 被災を免れた者の証言 名児耶 貴之
瓦礫 大仁 節子 6 あの日から 寅地蔵 中村 専一
仮設住宅の生活記録 佐藤 一志 百五十冊 北村 幸男
3 共に生きる 伯母の旧姓 芳崎 洋子 片足のマラソンランナー 白倉 貴子
千歳飴 元橋 紀久子 立候補宣言 守田 基師子
娘への手紙 山中 隆太 在日一世 高 奉淀
私の十大ニュース 匿名・女性 鳴き声 渡邊 芳一
母の死 森 美佐子 ある被害 池田 美樹
妻への供養 藤田 定義 震災から 二反田 静香
運命 匿名・女性 まさかの時に 高島 節子
満ち足りて 大掘 美重子 言葉 多田 とし子
輝く子供たち 批榔 妙子 各賞選考委員
座 談 会
酒居 淑子/笹田 信五/田中 國夫/
田結荘 哲治/山田 敬三(敬称略50音順)
学年だより 長谷川 美也子 あとがき だまし絵 高森 一徳
  まえがき  いつの日か
  1999年5月
阪神大震災を記録しつづける会
編集総括   小橋 繁好
 「今度、震災を担当することになりました」
 昨年秋に神戸支局に転勤した記者から連絡があった。
 彼が新聞記者になったのは震災以後だ。現場を体験していない記者が増えている。震災報道は第二世代に入った。
 「熱しやすく冷めやすい」と言われるマスコミだが、震災報道は粘り強く続けている。これだけ長期間、担当記者を置いて継続取材させることはまれだ。

 しかし、被災地と遠隔地との温度差は確実に広がっている。「一・一七」に震災以外の記事をトップにすえた東京の新聞もある。
 「ニュースでなくなる日」は、それほど先ではないかもしれない。

 朝日新聞の記事データベースで調べてみた。
 ことし五月十日まで、「阪神大震災」を扱った記事は二万八千八十二本にのぼる。地震発生直後は「阪神大震災」という呼び方はしておらず、最初にこの言葉が紙面に登場したのは一九九五年一月十九日だ。
 その後、九五年 一四三二一本
      九六年  五六五〇本
      九七年  四一三三本
      九八年  二九六〇本
      九九年  一〇一八本
と続いている。
 九九年はまだ途中だが、記事は減り続けている。しかも、年月を経るに従って、大阪本社版の記事が目立つ。全国紙だが、東京近辺で配られる紙面には載っていないケースが多い。

 さらに、これらの記事の中で、「風化」という言葉が含まれている記事を検索してみた。
    九五年 三六本
    九六年 五六本
    九七年 六二本
    九八年 六四本
    九九年 四八本
 「風化」というキーワードには、「風化を防ぐ」という趣旨の記事も含まれているので、一概に判断はできない。しかし、まだ五カ月しかたっていないのに、九九年の記事本数の多さが気にかかる。「風化元年」になる予感さえする。

 また、「阪神大震災」がどのくらい社説で取り上げられたかを調べてみた。
  九五年 一〇一本
  九六年  一九本
  九七年  一五本
  九八年   八本
  九九年   三本
 説明はいらないだろう。
 いつの日か「阪神大震災関連の記事はありません」となるのだろうか。

 この体験記も第五集となった。
 記録し続けることの重みを、改めてかみしめている。


1 支え
語らいの後に 赤西 裕之(三十八歳 会社員 西宮市)
 「えっ、まだボランティア続けとんか?」
 大阪在住の友人は不思議そうな顔で私に言った。震災から四年、その間、被災者は避難所から仮設住宅へ、そして恒久住宅へと移り、ボランティア達は形を変え、そして激減した。現在(平成十一年一月時点)、被災地で活動するボランティアは一日当たり数百人と聞く。「四年たって、どんな事しとんねん?」友人は続けた。私が「仮設住宅で主に高齢者の話し相手やけどな」と答えると、「話し相手か、ふーん」と分かった様な分からない様な顔をした。
 「活動は話し相手です」と聞けば、訪問して、相手と話をしてそれで終わりと思われるかもしれないが、実際は「話し終えた時点」から始まることが実に多いのだ。それは、今後のボランティア活動のヒントを得たり、高齢化社会における問題点を見出したりする事もあれば、時には自分自身の持つ可能性を発見したりする事もあった。
 被災者の抱える問題点の解決の入り口になる事があるかと思えば、更に別の問題が見えてくることもある。
 私がこのボランティアに初めて参加したのは震災の年の六月からである。新聞の「ボランティア募集記事」を見て決心したのであるが、その当時の活動内容は「仮設住宅での草抜きと住民への支援」と記載されていた。それが今、なぜ「話し相手」なのか。これまでの軌跡をたどってみよう。

 一年目(平成七年)
 「草抜きなら私でも出来る」。そう思って第一歩を踏み出した。ただ、住民に対する支援ではとまどうことが多かった。周囲のメンバーも私と同じく「ボランティア初心者」が大半であった。仮設住宅を一軒ずつ訪問しながら、決められた時間内でいかに多く訪問するかに気をとられ、いつも焦っていた。
 当時の仮設住宅は、入り口の段差が解消されていなかったり、設備面での問題も多く、私達が訪問しても、その場で対応できないことが多かった。

 二年目(平成八年)
 グループの方針は、「一軒でも多く訪問」する事だけにとらわれず、必要があれば部屋でじっくり話を聞く態勢へと変わりつつあった。今の原型が出来たのであるが、問題も多かった。ある一人暮らしの高齢者(女性)を訪問したとき、帰り際に「今日は沢山話が出来て楽しかったよ。でもお兄ちゃん達が帰ったらまた寂しい生活に戻るのか」と言われドキッとした。一回きりの訪問ではなく、個別に再訪問する必要性を感じ、私個人での再訪問を始めた。私達のボランティアは基本的に毎週土曜日に活動していたので、日曜、祝日等の何日かを個人訪問日とした。

 三年目(平成九年)
仮設住宅の入居率は未だ六割程であったがボランティアへの参加人数がかなり減少してしまった。再訪問や住民への伝達等が思うように行かず、訪問先で、「訪問に来ても後は放ったらかしにするんやったら、もう何も話す事ないわ!」とどやされる事もあった。

 四年目(平成十年)
復興公営住宅の完成が相次ぎ、仮設住宅の入居率が大幅に低下した。半面移転先が決まらない方の焦燥感が増し、「心のケア」の問題が更に大きく取り上げられた。今迄個別訪問していた方は公営住宅入居後も訪問を続けている。仮設後の新しいコミュニティー作りで悩んでおられる方も多い。もはや被災者へのボランティアという感覚ではなく、広い意味での「高齢化社会におけるボランティアの可能性」について考え始めた。

 五年目(平成十一年)そして今後
口達者でもなく、何の特技もない私にも話を聞いて、うなずき、多少の感想を述べるだけの技術があったことに気づいた。この四年間、実に多くの話を聞いた。震災直後から今日までの歩み、戦中戦後の苦労、過去の武勇伝、人間関係の難しさ、新しい生活への不安など。これらの話を基に、新しい何かを築いていきたい。「人間が人間らしく生きるためには何が必要か」を痛い程知らされた被災者の声が「真の先進国」への原動力となるように。
ひなげしの花 東條 健司(五十八歳 「週末ボランティア」代表 須磨区)
 一九九八年の一月二十四日はその冬でも一番寒い日でした。被災地に三年間、毎週土曜日の仮設住宅訪問ボランティアを行って来た私たちは、その日も、数えで九十二歳となったばかりの正也さんとともに四十一名による訪問活動を終えました。

 次の月曜日に職場へ、いきなり正也さんのお嬢さんから電話がかかりました。「お仕事中、お知らせしてよいかどうか迷いましたが、父が昨日の朝ふとんの中で意識不明で見つかり病院へ運ばれ手を尽くしましたが、脳をやられており時間の問題だと宣告されました。
 まだ亡くなっていないのにこう言うのはおかしいですが、父はしあわせものでした。毎週土曜日にボランティアへ行くために、数日前からそわそわし始め、土曜日は朝早くからうろうろして 手が付かず、時間になるといそいそと出かけていました。みなさんに相手になって頂くのが嬉しかったのでしょう。
 軍人あがりの父は、ガンコ厳格一辺倒で、家族にも笑顔一つ見せない性格でした。それがボランティアへ行き始めてから、見る見る柔らかくなってゆくのが判りました。晩年になって、やさしさやうれしさを経験させてくれたボランティアのみなさんに、父はしあわせでしたと感謝を申し上げたくて…」と静かなお言葉でした。

 正也さんが私達ボランティアの集合地点に初めて現れたのは、震災の年の秋のことです。「わたしでも参加してよろしいですか?」
 そう言いながら少し腰の曲がった細身の正也さんは熱心に、仮設の方に、自分が大病から健康を取り戻した「玄米食」の紹介をして、少しでも健康に役立てて頂けたらと考えて、とその抱負を述べられました。
 「お話を聞くだけでよいのです。何か自分に出来ることがあるという考えは、どうぞ捨てて下さい」。そう言ってレクチャーで牽制するこのボランティア集団に、正也さんはその後、ほとんど「皆勤」の状態で参加をし続けてくれたのです。
 お年を伺うとあと六ヵ月で満九十歳になると聞いて、ひそかにメモを控えておき、九六年の三月十四日、土曜日の集合レクチャーのときに「正也さん九十歳のお誕生日おめでとう!」と、いきなり花束の贈呈をしました。
 そのときのクチャクチャになった正也さんの顔は、揺れる優しいひなげしの花の色とともに、一生わたしの記憶に残るものでした。
 数々のエピソードや話題を残して、二年半のボランティア活動を終えられた正也さんのお通夜には、急にもかかわらず二十数名のボランティア達が集まり、わんわん泣いて良い送りをしました。翌日の葬儀は新聞でも取り上げられ、「九十二歳のボランティア逝く」と報道されました。祭壇の写真は、「家中探したが笑っている写真はこれしかなかった」と家族の方が言われていた、ボランティアの訪問先で写したスナップでした。

 ボランティアを巡る環境がきびしくなり、事情を知らない外部の人達からの「もう立ち直っているはずだ」「甘やかしの助長だ」との心ない非難にもかかわらず、私達は被災者の元へと毎週通い続けています。

 それは、あの正也さんが身をもって教えてくれた次の発見に由来しているのです。
 「他人と対等につき合うこと」の願望、それは実はボランティア自身の願望であり、実は現代社会が失おうとしている大切なものへの模索であり、まして突然の災禍にいまだ戸惑いを続けている多くのお年寄りたちが、見ず知らずの私達の訪問の中にそれを見出してくれているそのことが、毎週毎週の訪問活動を新鮮なものにしてくれているのだという、その事実の発見なのです。

 バリバリの軍人上がりの正也さんは、お嬢さんが語られていたように、敗戦後の五十年の生活をきびしく、まるで世に隠れるかのようにして生きてきました。そして最後に、その五十年の全てをかけて、このメッセージを私達に託してたのではないか……。

 さようなら正也さん。一年後のわたしたちは、今まだこのように・・・・・仮設住宅の訪問を続けていますよ。
医師のボランティア日記 湊 健児(四十三歳 医師 長崎県西彼杵郡)
 平成七年二月二十七日(月)晴れ
 前日の佐世保発の夜行寝台で、朝の九時過ぎに大阪着。到着三十分前あたりから、電車の窓から倒壊した家や崩れた壁、屋根に青いビニールシートをかけた建物が目立ち始めた。
 大阪でJRに乗り換えると、少しずつザックを背負った人も見かけるようになったが、私ほど大きなザックを背負っている人は見当たらず、少々場違いな感じがした。地震発生からすでに四十日になり、かなりの人が普通の生活に戻りつつあるように感じられた。しかし電車からはかなり大きなビルが潰れたり傾いたりしているのが見えたし、民家らしい小さな建物の倒壊があちらこちらに見かけられた。
 住吉、灘間は代替バスが運行していたが、駅の構内は混雑していた。それでも多くはスーツを着たサラリーマンで、当初テレビで見たようなザックを背負った人々は少なかった。駅から山の手に歩き出すとボランティアの人が道案内をしていたが、東神戸病院を尋ねても分からないという。駅の近くだと聞いたので、道行く人に尋ねながら五分程で到着した。道路際やちょっとした路地で、民家や商店が倒壊していた。
 待合室はどこでも見られる外来風景でことさら被災地の病院という光景ではなかった。
 早速事務の方に会って、一週間のスケジュールの説明を受け、医局の上の図書室を宿泊場所にさせてもらい、着替えを済ませた。私の部屋にはもう一人宮城県からの先生が寝泊まりしていた。隣の当直室にも北海道から三名、神奈川県から一名の医師が応援に来ていた。ワゴン車に毛布を二枚敷いてベッド代わりに使っていた。
 昼からは、福井県から来ている看護婦さんと自転車で地図を片手に本山地区へと出かけた。駅の近くの住吉神社は、境内の石灯籠が倒れて散らばっていた。すでにあちこちで建物の取り壊しやビルの補修が行なわれていて、粉塵が立ち込める中をマスクをして歩いている人が目についた。
 訪ねて行っても家が全壊で行き先の分からない人もいれば、マンションで大丈夫だからと玄関を開けようともしない家庭などさまざまだった。かろうじて倒壊を免れたものの、隣の家が倒れかかっていて、結局自分の家だけでは修理のしようがない人もいた。その人は戦災にあったこともあるし、その頃を思えばと言っていた。その二軒隣の家は一階が完全に潰れて道路に飛び出していた。とにかく早くガスが使えればと言っていた。
 夜は五時から当直になった。久しく救急から遠ざかっていたから、少し不安を感じながらの当直だ。早速五時過ぎに脳卒中らしい患者が救急車で運ばれてきた。八十過ぎの女性はCTの結果、小脳腫瘍の出血による脳室穿破と診断され脳外科のある神鋼病院へと転院した。神鋼病院は神戸製鋼が最近建てたばかりということだったが、今回の震災で被害が二十から三十億円で、ベッド数も縮小しているという。
 次は呼吸困難を訴えて、ボランティアの若い女性が運ばれてきた。長期になってストレスもたまってきているらしい。付添の二人の若い男性が「思いつめる人ですから」と言っていた。そう言う二人の若者も顔色が青白くて疲れている様子だった。
 夜、医局でコーヒーを飲んでいると、T先生達が地震直後のことを話していた。内臓破裂が多かったこと、特に膀胱や小腸、大腸が多かったという。血尿や低酸素血症の患者が多かったともいう。T先生は四日間ほとんど眠らず、五日目にやっとリネン室で仮眠を取ったと新聞で報道されていた。
 その後練炭を使っていて一酸化炭素中毒になったおばあさんも運ばれてきた。一緒に倒れていた娘夫婦は別の病院に運ばれて行ったと言う。他に船で失神して、頭を打った人や、胸痛発作の人などが救急搬入された。それ以外にもこの夜は避難所で風邪をこじらせて、肺炎を心配して来る患者が目立った。

 三月一日(水) 曇り
 夜は避難所回りで若葉園という所に行ったのだが、ここでは責任者の方が少し酔っていて気がたっていた。近いうちに今の避難所を出るように言われたと言う。配給の食事も同じものばかりで冷たくて、毎日食べられたものではないと言っていた。そばで飲んでいるもう一人の人がそうだと相槌を打つ。
 よくみると自分達が毎日食べている弁当によく似ている。後で聞いたら病院にも同じものが配給されているのだという。夜に食べるときもご飯は硬いし、いつも決まったように硬い冷えたハンバーグにシュウマイか肉だんごがついている。長期に食べるには無理だろうなと思った。ストレスがたまった上にこの食事では、一時消化管出血が多かったというのもうなずける。何だか叱られたようで後味の悪い訪問だった。
 帰ってから九時過ぎに病院を抜け出し尼崎のお風呂に三日間の垢を落としに出かけた。
語り部 西田 公夫(七十三歳 無職 神戸市北区)
 愛知県芸術文化センターで催された「神戸YWCA支援チャリティコンサート」の幕間に、震災の体験などを話すように依頼された私は、ホールの舞台の上で眩しいほどのライトに照らされ、片手にマイクを握りしめ膝を小刻みに震わせながら喋っていました。
 被災地の行政からは放置され、受け入れ先の自治体からも無視されたために必要な情報が手に入りませんでした。また援助らしきものも一切なく、加えて移住地の心ない人から「被災者のくせに」との暴言を浴びせられました。困窮している被災者の実情を話し、今後二度と私達のような存在をつくらぬよう訴えました。
 当時私は名古屋のあるボランティアの団体に所属して「震災の語り部」をしていましたが、二百人もの聴衆に語りかけた経験はありません。客席の反応など考える余裕もなく、ただ無事に終わり依頼者に恥をかかさずに済んだことのみに安堵して舞台を降りました。
 ところが、後日知人から、
 「大成功でした。被災者の窮状を話された時、ハンカチで目頭を押さえながら聞いておられた方が、私の周りにも大勢いましたよ」と聞き、それがお世辞ではないとわかったときには嬉しさが込み上げてきました。そして「話し方の巧拙だけではなく真心で真実を語れば必ず理解してくれる人がいる」と、その後の活動に自信を持つことができました。
語り部といっても素人の私が招かれるのはせいぜい十人から五十人ほどの市の有志達の集まりで、新しいまちづくりなどを熱心に論じ合う中で語ってきました。
 名古屋市内だけではなく、郡部へも足をのばしました。廃れゆく藁葺きの農家を保存するために公園内に移築し、そこを集会場として使用しているグループに招かれたこともあります。囲炉裏を囲み手作りの香の物を肴に杯を交わし、心づくしの竹の子ご飯に舌鼓を打ちながら語るという珍しい経験もしました。
 被災者の実情をインターネットを通じて全国に発信してもらったこともありましたが、震災が風化していく中では反応は今一つのようでした。
 被災地でのボランティア活動が一段落してからも、若者を中心にいろいろな支援が続けられていることを知り感謝しました。しかし、そのいずれもが私達を素通りするようで、
 「ここにも被災者がおるねんど」
と叫びたくなるような、もどかしさと苛立ちを感じました。
 震災記念日に愛知県は、タレントのアトラクション付きという派手な行事を催し、名士をはじめ多くの人を招待しましたが、なぜか被災者はだれ一人招かれませんでした。
 県外被災者の組織づくりのために兵庫県に協力を要請しましたが、名簿づくりに必要な被災者の住所の公表を拒否するという頑迷な態度に終始したためその運動は難航しました。しかし、支援者達の粘り強い活動のお陰で「被災者の会」の発足を見ることができました。その会合の席で一人の老婦人が、
 「帰りたい、帰りたいと言うとった主人、神戸の土よう踏まんと逝てしもた」
と沈痛な面持ちで話されるのを聞いた私は、胸が詰まり何の言葉も返し得ませんでした。
 また年配の女性の方が、
 「九十二歳になる母が動けるうちに神戸へ連れて帰りたい」
と述べられましたが、仮設優先枠という非情な壁に遮られ、願いは叶えられぬままに母御は逝去されました。このような事例は枚挙にいとまないほどでしたが、メディアに取り上げられることはまずありませんでした。

 同じ被災者なのに県外へ出たというだけでなぜ、不合理な差別を受けなければならなかったのでしょうか。
平成十年の夏、運良く神戸へ帰ることができましたが、私の周りの人達のほとんどが県外被災者についての詳しい知識がなく、中にはその存在すら知らなかった人がいて驚いています。
 愛知県にいる間、兵庫県から依頼されて、レポーターとして原稿を送っていましたが、行政を厳しく批判するような文章は必ず訂正か削除されました。また、被災地の新聞に「情報が欲しい」と投稿した文章が載ったのを目にした県の係の人から、「『ひょうご便り』をはじめ、諸々の情報を提供しているのに、これ以上どのような情報を望むのか」と、叱責に近い言葉をもらいました。
 県外被災者のためにいくら立派な方策が立てられようとも、それを運用する人いかんでは絵に描いた餅になりかねません。
 行政が今のような姿勢のままでは、今後災害に遭い県外への移住を余儀なくされた人達が、私達の轍を踏むのではないかとの懸念が拭い切れません。
被災地の下呂温泉 中島 由博(五十歳 下呂町役場職員 岐阜県益田郡)
☆私達にできることを

 何とかしなければ、同じ温泉地として。特に下呂温泉は草津、有馬と並んで日本三名泉というつながりがある。関西方面からのお客様も多い。旅館組合の温泉タンクローリーを使い温泉出前の経験を生かせる、等々の声が災害直後から挙がり検討を重ねた。
 幸い旅館組合のメンバーの中で親交のある有馬温泉旅館「御所坊」の社長の金井さんに窓口になっていただけることになった。金井さんは有馬ボランティアの代表である。
 活動期間は一月二十五日から二泊三日ずつの十日間、四班編成で、各班の構成員は十一名である。
 活動内容は自衛隊が避難場所に設営した風呂に下呂温泉を給湯することである。二日目からは、四トン半のタンクローリーは有馬で給湯し、神戸市内へ搬送した。二トンタンク二基積載のトラック二台は水道局の給水車として手伝うことに決め、二十四日午後八時、有馬温泉に向かって出発した。

☆下呂温泉をテントの風呂へ

 二十五日朝、金井さんの旅館で朝食をいただく。カップ麺を準備してきた私達は恐縮するが、「これも私達にできるボランティア」と意に介されない。有馬のボランティアの車を先導に最初の給湯場所の神戸市東灘区本庄小学校へ向かった。
 校庭には自衛隊が設置したテントの中に縦横それぞれ二メートル、三メートルの鉄パイプの枠にシートをはめ込んだ浴槽があり、その中に温泉のホースをのばす。「初めての風呂で本当に気持ちが良かった」と言う声を聞き私達も感激しながら次の長田区御蔵小学校へ行く。
 テント張りの風呂の入口に「女湯」の暖簾が掛けられていて心が和む。しかしこれは浴槽が一つしかないので、男女一日交替に入るためだ。今日は女性からということで、「明日は下呂温泉でないので残念」と男性に言われた。

☆喜ばれた洗髪

 中央区の北野小学校と諏訪山小学校には風呂はない。校内放送により校庭の手洗い場に集まって来た人達が、次々とカップ麺の容器などで湯を掛け合って洗髪を始めた。
 被害の大きいところから救援活動が進んでいるため、この地域はまだ風呂とまではいかず、せめて洗髪だけでもということのようだ。
 「銭湯に四時間並んで五分入れた」「洗髪したいのでモーテルへ行ったら七千円だった」という声や、「ヘルメットを脱いだようだ」「温泉の匂いがする」「こんなにお湯をもらってもったいない、贅沢やわ」などという声の中、タンクローリーのヘッドライトを浴びて洗髪が続く。

☆器と人が足りない

 二日目タンクローリーは、十字架が傾いた教会の横にある、あけの星幼稚園へ。ここでは乳幼児の入浴とシャワーができるようになっており、神戸市ボランティア「がんばろう神戸」の活動基地になっている。昨日残しておいた温泉を幼稚園のタンクに移したあと、須磨区の佃煮工場の播磨食品さんへ。準備していただいたお湯を補給した。毎日四トン半のお湯と燃料代は相当なものになると恐縮するが、「遠い下呂温泉から来ていただいており、おかげさまで家も無事だったので神戸市民としてできるだけのことはしたい。ただこの周辺の地区では水が出ないのでタンクを一つ貸して欲しい」と言われた。播磨食品さんの好意、有馬温泉のボランティアの方々の温かい心に触れた。
 一方タンクを積んだトラック二台は水道局の配水地で給水し御影町内へ。地震後初めての給水車にドンブリまで持って来る人もいる。比較的被害の少ない地区は十日たってもなかなか水が回ってこない。どこも容器と人が足りないのである。

☆回り出した活動

 三日目の二十七日の朝、救援物資のタオルや飛騨牛などとともに昨日頼んでおいた二〇〇リットルと二〇リットルのポリタンクを積んだ下呂からのトラックが到着した。
 これによって私達の活動は、タンクローリーによるお湯の運搬とそれをポリタンクに小分けして配達するボランティアとの連携、タンクを積んだトラックは水道局の給水の手伝い、という二つの行動を確立した。知らない土地で長期間にわたって人員交替をしながらの活動には、単純な動作の繰り返しが望ましい。特に有馬の方々に毎日誘導していただくのが心苦しいという私達の思いが形となって現れた。こうして多くのことを学んだ私達の十日間の活動を終えることができた。
歯 車 岡本 美紀(二十二歳 学生 西区)
 阪神大震災から三年が過ぎた一九九七年八月、仮設住宅支援団体の「週末ボランティア」で出会った仲間達と「REMEMBER被災地|みんなで探そう大切なこと|」というテーマで、二泊三日のワークキャンプを企画した。
 三日間、仮設住宅に泊まり込んで仮設住宅の人々とじかにふれあうことで、震災を肌で感じてほしい、神戸を忘れないでほしいというメッセージを、全国に発信したかった。
 仮設住宅訪問、ふれあい喫茶、すべての企画が順調に進んでいった。ところが二日目の草刈りで私たちは大きな壁にぶち当たった。
 まともに昼食をとる間もなく、正午の一番暑い時刻から草刈りを始めた。
 「向こうもやっといて」「ここも頼むわ」。自治会と私達とのコミュニケーションがちゃんと取れていなかったことから、もめにもめた。冷静に聞けばなんでもないことだったんだろうなと思う。今なら、住民の方達が悪気があって言ったんじゃないと思える。
 でも私達の心の中には「暑い中、草刈りをしているんだ」という気持ちが強過ぎた。「ごくろうさんです」と涼しい顔をして通り過ぎていく住民の人達を見て「これでいいのか」「これって本当にボランティアなのか」、なんだか、気持ちだけが空回りしている自分達に気付いた。みんなに笑顔がなかった。
 「ボランティアは自分も楽しまなくちゃ」、いつも週末ボランティアの代表に言われていた言葉が身にしみた。ボランティアって何なんだろう。楽しい、楽しいで進めてきたこの企画。初めて大きな壁にぶち当たった。
 その後、仮設住宅の人々がバーベキューを開いてくれた。でもさっきの草刈りでのいざこざが心のどこかに残っていて、心から楽しめずにいた。
 そんなもやもやが吹っ飛んだのはその後だった。震災後、被災地のことを歌で訴え続けているシンガーソングライターの岡本光彰&ザ・ひょうたんなまズさんのコンサートで、歌に合わせて住民とボランティア達が手をつないで、輪になって踊り出したのだ。感動した。本当に鳥肌が立ちそうなくらい感動した。いろんなことがあったけど、みんないっしょうけんめい生きているんだって。みんないろんなパワーを秘めているんだって。なんだか理屈抜きに心で感じられたような気がして。「あー、今日は一日楽しかった」って、そばにいたおばちゃんが言ってくれた時、凍りついていた気持ちが溶けていくように思えた。
 いつか、光彰さんが言っていた。人間は一人ひとりが歯車だって。一人の人が誰かに出会って、またその人が誰かに出会う。そうやって、一人ひとりの歯車がうまくかみ合って歴史は動いていくんだって。あの言葉の意味が今なら分かる気がする。
 その後、住民の方達と心を開いて話せた。わだかまりも溶けて、「冬も絶対ここへ戻ってきます」と心から自治会の方々に言えたこと、何だかとても嬉しかった。
 私達は大切なことを見失っていた。役に立ちたい。喜んでもらいたい。気持ちばかりが先走りし過ぎて、相手と向き合うことを忘れてしまっていた。一緒に楽しむ気持ちを忘れてしまっていたのだ。
 あの三日間が終わってから、毎週の仮設住宅訪問も、肩ひじはらず取り組めるようになった。被災者の方の役に立ちたい、良い話し相手になりたいという思いよりも、共有できる時間を一緒に思いっきり楽しみたいと思うようになっていた。言い返す言葉はいらない。ただ黙って頷きながら話を聞く。私達にできることは鏡のように相手の姿を静かに映すことだけだ。

 本当に心を開いて、本音で話し始めてくるとなぜか、震災以外の話をしてくれることが多い。戦争中、二十二日間も太平洋の上で飲まず食わずで生き抜いたんや。昔こんな仕事をしてたんや、若い頃柔道がめちゃめちゃ強かったんやで……。戦争なんて本当は苦しかったはずなのにおじいちゃんの目はキラキラ輝いていた。命がけで戦ったこと、きっと一生の誇りなんだろう。一生の心の支えなんだろうな。そんな誇りまでを大震災は奪っていった。家が崩れていくのと同時に人々は必死で守ってきた心の財産をも奪われてしまったのだろう。
 でも誰かがその人の心に耳を傾けたら、きっとその人自身も自分の心に耳を傾けることができる。自分の口で喋って自分の耳でそれを聞く。そこで改めて、そうか自分はこんなことを考えてたんだ、ああ、あんなこともあったなあ、って思うこと、きっと私達にもあると思う。私達が鏡になって相手の気持ちや、心の状態を映し出してあげることで、問題がはっきりしてきたり、その人自身の尊厳を取り戻すことができるのだ。
 この四年間、被災地で出会った人々が私達を育ててくれた。何を学んだのか。それをかたちにすることはむずかしい。でも、生きることを楽しめ、めいっぱい生きろ、そんなメッセージを様々な人の生きざまから感じ取れたような気がしている。
 約束の冬。再び、仮設住宅に泊まり込んだ。そこにはもう被災者とボランティアという壁はなかった。一人の人間として同じ時間を生きていた。次こそは成功させると思っていても結局は同じように失敗を繰り返すのかも知れない。でも、何かをやりたいと思う気持ち、そしてそれを行動に移すことの勇気をずっとずっと忘れずにいたい。
 大切なことなんて本当は目には見えないし、簡単に答えの出るもんじゃない。一人ひとりが感じたすべてのことが、きっと大切なことだったんだと私は思っている。
無償の責任 山中 敏夫(七十一歳 無職 兵庫区)
 震災直後は、みんなが無意識に、無我夢中で助け合い、励まし合ってきました。被災者自らもごく自然にやってきました。国の内外を問わず大勢の救援活動が行なわれ、ボランティア元年と言われました。
 私自身は、ひとまず落ち着いた翌九十六年三月、震災と共に少子超高齢化社会に向けて、福祉ボランティアの需要が増えることを予想し、その活動にかかわることのできる知識と心構え、技能を習得しておく必要を感じました。そのために、神戸市の老人大学「シルバーカレッジ」、福祉コミュニティコースに入学しました。
 爾来ほぼ三年間、週に二回の講義と、隔週一回くらいのスポーツ、レクリエーションの実技講習を受けてきました。その中で、一般的教養や知識と福祉にかかわる勉強をさせていただきました。しかし、当初求めていた介護、介助などの実技は習得することができませんでした。それは一クラス百二十名の学生の実習や、見学を受け入れることは、福祉施設にとって物理的に無理だからです。頭の中だけの勉強となりました。
 そこで実技を学ぶために神戸市民福祉交流センターや、兵庫区社会福祉協議会の行なう実技講座、研修会に参加してきました。しかし、講座や実習だけで身につくものではなく、松本地区まちづくり協議会の救急救命研修や、県の自然学校カウンセラー養成研修に参加し、兵庫区社協のボランティア受講者の有志十数名でグループを作り、実際に現場で活動する中で実技を習得しつつあります。
 とは言っても、まだ車椅子利用者の外出介助程度で、在宅の寝たきりの人や、病人さんの介助まではなかなか到達することはできません。でもベテランの先輩の方を見習ううちに少しずつでも覚えたり、できるようになると思います。ただ、自分も年を重ね、正直体力が低下するなかで、重労働や長時間の介助は無理だと思いますが、相手の方とのコミュニケーションを充分に持ちながらグループの共同作業を行なえば体力の許す範囲内でできることはたくさんあると思います。

 次に、これまで行なってきた活動の具体的事例の一端を述べたいと思います。
 まず、シルバーカレッジでは授業の他に、二十五のボランティアグループがあります。介助、手伝い、慰問激励、生きがいづくり、仲よしづくり、給食、送迎、清掃など、特徴的な活動を約四百名が行なっています。そのほかに四十余りのクラブ活動の約五百名の有志が、絵画、書の施設内展示や、抹茶、煎茶の接待など趣味を生かしたボランティア活動を行なっています。
 また、卒業生は「わ(輪)」と名付けたグループを作り、五、六百名が多様な活動をしています。
 私はそのうちの「木工グループ」に属しています。震災直後は、仮設住宅の入口段差や浴槽の踏み台、手摺、棚、収納箱などを作りました。私は九十六年六月から参加しました。たまたま木工本職は私だけだったので、仮設の需要も一段落したこともあって、学内の備品や教材など営繕的なものに移行しました。
 併行的に被災学生の求めに応じて生活の利便のための木工作品や、保育園、幼稚園、乳児院、地域ふれあいセンターの備品などの製作を続け、現在では隣接地に建設された「シルバーハイツ」の入居者の求めに応じた仕事が増えつつあります。
 材料は、知人の木工業者や、建築現場の残材、廃材をもらい受けていますが、どうしても足りないので材木店から買って原価は請求させていただいています。私達はこの仕事の中に創意と工夫と趣味を生かして、「くらしの中に『木』のぬくもり」を取り入れていきたいと願っています。

 次に兵庫区社会福祉協議会に属するボランティア活動について報告します。
 九七年二月に兵庫区社協で行なわれたボランティア講座名の「ときめき」をそのままグループ名にして、中学二年生から七十歳までの男五名、女十二名、計十七名で四月に結成発足しました。
 まず、垂水養護学校生徒の毎月末の土、日曜の外泊ショートステイのお手伝いから始めました。
 月に一度、親元を離れて自分達で食事の買い出し、調理、仲間とボランティアとの交流夕食会、ゆうべの語らい、後片付け、就寝。翌朝の起床、洗面、トイレ、朝食、外出についてのミーティング、車椅子での外出(毎回行き先は変わります)、帰ってからの反省会までがお手伝いです。下半身が全く動かず、手も言語も不自由で、健常者にとっては意志の伝達が分かりにくく、動作に時間を要する作業です。しかし、彼らのいっしょうけんめい生き抜こうとする強い意欲に励まされ、反省させられます。
 個別に病院の外来案内や介助、中間病院の食事や入浴、話し相手の手伝い、全盲老人の外出介助、退院老人の介助などに毎週曜日を決めて参加している人が五人います。不定期に仲間とローテーションを組み、人工透析患者のマイカー送迎をする人、毎日一時間半程ながらも老人保健施設の夕食の手伝いをする人、盲聾唖の人のために手話や指文字で通訳や案内をする人などがいて、各々の能力と条件に合わせてささやかな活動をしています。このほかに、障害者団体や、社協、行政、ボランティア団体などの行事や催しの手伝いの要請に応じて参加しています。
 この活動を続け、高めていくために、第二日曜の午後、兵庫区荒田公園の旧ボランティアセンターに集まって「月例会」を開いています。過去一カ月間の各自の活動を報告し、相互学習を行ないます。その後、ボランティアセンターに要請のあった活動の紹介を受け、自分の条件に合えば参加申し込みをして散会します。この例会の報告と紹介はすぐ「ニュース」にして会員に郵送します。ただ、昨年秋頃から会員の家族が病気になったり、婦人会やPTAの役員に就任したり、自分の体調不良などで参加者は半減しました。しかし、少人数になっても無理をせずに続けていこうと励まし合っています。
 「ボランティア」とは無償の行為であると言われていますが、金銭的に報われることはなくても大変な報酬をいただいていることに気付きました。
 その一つは、心身をうごかすことで日々の健康と充実感を保持できること。
 二つには、これまでの自分の生きた世界以外のことを知り、新しい出会いで新たな友人、知人を得たこと。
 三つには、強制されない自発的行為のため、創意工夫の楽しみと喜びがありおのずと励みが出て、疲労や苦痛が少なく、生かされていることへの感謝の念が湧き出てくること。
 といったとても大きな徳をいただきました。

 しかし、無償であっても責任は全うしなければならないので、無理や能力外のこと、嫌なことははっきり断る勇気が必要であることを学びました。
四年前の受験生たち 野口 元子(五十四歳 主婦 大阪市旭区)
 「オバチャマ、就職決まりました」、昨秋のある日、A子ちゃんからの電話です。「よかったね」あれからもう四年もたったのかなあ。
 大地震の日、私が住んでいる大阪の家も本箱、食器棚の一部、お仏壇のお線香立て、テレビなどに被害がありましたが、その後知った神戸のことを思うとかわいいものです。すぐに神戸の北区の妹に電話すると、電気が消えているので何が何だか分からず、親子四人で震えているけれど、電気以外はさほどの被害はないということで一安心しました。
 大変なのは地震の前日にセンター試験を受けていた姪です。姪の学校は長田区にある兵庫高校です。
 「学校の所が一番大変。担任の先生のお家も焼けたみたい。お友達のお家も壊れている」と、やっと通じた電話でそれを聞き、大学受験はどうなるのだろうと思いました。私立大学の入試は二月一日からですが、電車がいつになったら動くか分かりません。そのうちJRが三田経由で姪のいる「山の街」まで行けるようになっていることが分かりました。
 「クラスのお友達でオバチャン宅から受験できる人がいたら一緒に来なさいよ。五人くらいは泊まれるから」と申し出ました。
 最初は「そんな、悪いから」と言っていても、電車は動かない、大阪のホテルは満員、親戚はいないとなると「お願いしていいかしら」と言うほかありません。
 部屋を片付け、ふとんや机を用意して待っていると、雪のちらつく一月三十日、姪を含めて五人の高校生が我が家へ来ました。まだ水の出ない家の人もいて、「わーい、お湯が出る、オバチャン髪洗っていい」と大喜びです。子供のいない我が家に若い娘さんが五人も来て主人も猫もうろうろ。その間に余震がたびたびあり、その都度ドキッ。
 大学受験という人生の大事な節目の娘さんを預かる、私の方にもプレッシャーはかかりますが、あのときはそんなことを考える余裕はありませんでした。今私ができることは、暖かい部屋と食事を提供することだけです。
 彼女たちが受ける大学は、兵庫医大、関学、関大、近大、武庫川女子大、神戸薬大、甲南大、大阪外大です。五人とも自分の家からは下見に行っていますが、大阪から逆に行くことは考えてもいませんでしたから間違っては大変です。
 一月三十日までに、道順や時間、交通費などを、夫婦で調べまわったので、今では関西の私大にはほとんど行くことができます。五人とも同じ部屋には寝られませんので、翌日が、受験の娘さんには、個室で早く寝てもらいました。大学も被害にあっているのでお弁当とお茶は持参です。前日夕食後はお弁当のおかず作り、朝受験の娘さんを駅まで送り、その後は残った娘さんのお昼と、おやつ作りです。冬なので風邪でもひかせては大変です。
 中でもお家が火事にあったA子ちゃんには、私も他の四人の娘さん達も気をつかい、地震の話はなるべくしないようにしました。でもテレビも新聞も毎日そのニュースばかりです。
 あとでA子ちゃんのお母様は「A子はお宅へ着いて初めて教科書の字が目に入ったそうですよ」と言われました。
 「何も持ち出せなかったけれど、まだパジャマの上からコートを着て靴を履く時間があっただけ幸せでした」。A子ちゃんのお宅は地震のあとすぐ近所の火事が移ってきたそうです。とりあえず親戚の所へ行ったそうですが、そこには他の家族も来ていてお風呂にも入れなかったとか。
 夕食のとき主人は「みんなは若い、若いときでよかった、まだ希望はいっぱい持てる、頑張ろう」と励ましました。私も、五人家族が増えても困らない体力を持っていてよかったと思い、食事作り、掃除、送り迎えに、二週間頑張りました。その間も受験の結果の心配や、余震があったりで五人の心も不安でいっぱいだったと思いますが、だんだん共同生活も楽しくなり、「いつかこんな受験があったねーと笑って言えるようになりたい」と言うようになりました。
 神戸に水を持って行ったり、炊き出しのお手伝いに行ったりはできませんでしたが、私なりの地震のボランティアだったと思っています。
 これを機会に今は国際交流センターに登録してホームステイのボランティアを引き受けています。
 「オバチャンの英語で大丈夫?」とびっくりされていますが、
 「ハート、ハート。何とかなる」。
 地震の二週間が私の大きな自信になっています。
 「来たい人は来ていいよ」と姪に言いましたが、いざ来てみると何を食べさせよう、など不安もありました。しかし、お弁当、昼食、おやつ作り、送り迎えなど、次から次と用事があり、考えている時間もなく、本当にあっという間の二週間でした。

 なぜばなる、なんとかなる、元気があったら人間は強いとつくづく思いました。
生きる希望 清重 智子(三十三歳 保母 明石市)
 「絶対、元の場所に戻りたい」「早くこんな所から出て行きたい」「震災さえ起こらなかったら普通に暮らしていたのに」。四十代の女性の方はたまっていた思いを吐き出すかのように話した。
 「私には子供がおるから、まだ、気が紛れるのかも知れない。一人暮らしのお年寄りの方などはもっと大変な思いをしているのだろうに」
 仮設住宅の訪問のボランティアを続けて三年が過ぎた。まさかこんなに長く続くと思わなかったし、震災から四年もたって仮設住宅が、まだ残っているとは思いもよらなかった。この三年間多くの人達に出会い、ひたすら話を聞いた。初めの一年は地震のときのこと、仮設住宅での慣れない暮らし、震災前のことなどが多く、それでも人々は前向きに生きていこうという希望があった。

 二年目に入ると仮設住宅は仮の住まい、公営住宅に当たらない、どうなっているのか、ボランティアに言っても何も変わらないと諦めや絶望感を持っている人達が多く、訪問していても、無力感を感じ、行政に対して何もできない自分に悔しさを感じたときもあった。
 しかし、それでも訪問先でたくさん話ができたことを喜んでいる友達もいた。
 「こんなにたくさん話をしたのは久しぶりや、ありがとう」。話を聞くことしかできない私は本当にこれでよかったのだろうかと悩み、
 「今日は本当に楽しかった。毎週こうやってどこかの仮設をまわってるねんな」と言った方が、明日からも少しでも希望を見つけて生きていって欲しいと願わずにいられなかった。

 三年目からは月一回から二回のペースで訪問活動に参加するようになった。公営住宅にやっと当たったと喜びの報告を聞くようになった。人々の中に安心感が出て来たが、公営住宅での生活に不安を持つ人も多かった。まだ仮設住宅での生活の方がよかったのではと、考える人もいて、これから新しい人間関係を作ることに不安を感じている人も多かった。公営住宅に移っても訪問して欲しいと特に一人暮らしのお年寄りの多くの方がそう話していた。
 公営住宅への転居が始まった。仮設住宅から人の姿が消えた。現在残っている方達への訪問を続けている。空室だらけで一軒、二軒とひっそり住んでいる。今までだと必ずすれ違う住民の方がいたのに、今はボランティア同士で会う方が多い。住んでいる人達とも戸口で話すことが多くなった。
 平成十一年のお正月に、新しい公営住宅で甘酒の炊き出しをした。新しい市営住宅に、ほとんど高齢者の方ばかりが住んでいた。当日使うはずの集会所にはお通夜の準備がしてあり、別の所ですることになった。亡くなった方は、とうとう新しい部屋に入らないまま息を引取ったと聞いた。
 住民の人が「この間も救急車が来てたな」と話をしていた。
 甘酒を炊いていると多くの住民の方が集まって来た。一人ひとりがコップの甘酒を取り「ありがとう」と言って受け取っていた。私の友人が「お鍋を持って来ていいよ」と言った。数人の人が近所に足の不自由な人がいるとか、家の中で寝ている人がいるので配りたいと言ってお鍋を持って来た。その時私は住民の方が助け合って生活しているのだと少し安心した。公営住宅は外から見ると、活気があるように見えた。

 この三年間いろんな人に出会い、いろんな話を聞いた。私は被災していないので被災された方の経験のすべては理解できないと思う。しかし、この三年間は毎週話を聞き、一緒に泣いたり笑ったり、怒ったり、ときには励まされたり、ときには怒られたり、少しは仮設に住んでいる方と心の交流ができたと思った。というより学んだことの方が多かった三年間だった。
 ボランティアというよりも一人の人間として、仮設に住んでいる方の苦しいこと、悲しいこと、嬉しいことの話を聞くことによって、また、話をしている人自身も話すことによって、自分という人間を取り戻していたのではないかと思った。そこからまた生きようという希望が生まれて来るのではないか。人は一人では決して生きていけないと思うし、誰かが自分の話に耳を傾けることによって、話す人も聞く人もお互いに生きる希望を見つけ出せるのではないかと思った。
 「震災さえなかったら普通に暮らしていたのに」と四十代の女性の方は話した。
 「震災があったから、生きようと思った。ええ経験させてもらった」と言ったのは七十代の女性の方だった。
 どちらも震災四年目で訪問した仮設に住んでいる方の言葉だ。
 震災は終わっていないと思う。わたしが生きる希望を見つけたように、被災された方がきっときっと生きる希望を見つけることを信じつつ、これからも訪問を続けていきたい。
「鳥の歌」 川端 充宗(三十六歳 食文化研究家 灘区)
 一九九七年一〇月、神戸市教育委員会が公募した「まなびすとネット市民講師制度」(注1)に登録し、市民講師のボランティアを始めた。ストリート・パフォーマー(街頭バイオリン弾き)として、公民館や学校の課外活動で、地域住民、PTA、あるいは児童を対象に、音楽を面白おかしく演じるというものだ。
 これまでの人生において音楽は、自分自身の慰めか、親しい友人が相手の、ごく個人的な趣味であった。それをボランティアに使おう、外に向かって何かを訴えようと思ったのは、大震災より二年九カ月の日々の中で、自分なりに心の癒しが終わり、気持ちの立ち直りを確かめてみたかったからだ。

 大震災の起こった日、近くの小学校に避難する時、家族には真冬の寒さを考えて、厚手の上着を着ることと、精神安定のために、何か大事な物を一つ持って出るように指示した。私はバイオリンを持ち出した。避難先の小学校の門が開放されるのを待っている大勢の人込みに、やけに音量を大きくしたラジオから、この大震災の模様を伝えるアナウンサーの声が聞こえていた。同じ内容のニュースを繰り返すよりは、何か心落ち着く音楽でも流せばいいものを、と思ったのを覚えている。不思議と、真冬の寒さを感じなかった。

 市民講師としての最初の活動は、神戸市東灘区の住之江公民館でのミニコンサートだった。「三歳児を持つお母さん達の学習サークル」にお招きいただいた。本番一週間前にリハーサルに出かけた。
 その日は、一九九八年一月一七日だった。公民館の応接室で指導主事さん、館長さんとの短いミーティング中、震災当日のお話となった。公民館は阪神本線の住吉駅より山側に徒歩五分の所にある。大震災の痛手が大きく、三年目を迎えた当時でも、周囲には看板の立った空き地が残っていた。
 コンサート会場に案内され、あとはご自由に使ってくださいと、言い置いて係の人が出ていった。念は押されなかったが、この場所は一時間後、公民館のサークルが使う旨は前もって聞いていた。さっさとバイオリンの調律を済ませ、音を出すことにした。公民館には前もってコンサートのプログラムをお渡ししてあるので、あとは、リハーサルして本番に備えるだけである。

 明るい元気の出る曲を中心のミニコンサートのリハーサル。いよいよ、最後の曲となった。プログラムに載せていない、個人的に、つまり、集まった皆さんにわがままで聞いてもらいたいと思った曲。それは「鳥の歌」だ。今は亡きチェロの名手カザルスが、世界平和を祈って国連のコンサートで弾いた。政変で祖国を追われた音楽家の魂の叫びだ。
 直前のリハーサルは、本番とまったく同じ進め方で行う。「鳥の歌」の演奏に先立ち、曲についてのコメントを聞き手に向けて話し出す。無論、リハーサルなので、がらんどうの空間を相手の一人芝居だ。
 「最後まで聞いていただいて、ありがとうございます。楽しく愉快な時間を過ごすことができましたでしょうか」
 次の台詞が出るまで時間が空いた。自分の中で、本当にこの曲を弾いていいものかと、まだ迷っていた。音楽による外へ向かっての初めての訴え。亡き人々への想い。
 「プログラムにはありませんが、最後に大震災で亡くなられた全ての人達へ、黙とうして聞いて下さい。『鳥の歌』です」
 そして、弾き出す。弓を持つ手がこわばっていた。疲れと緊張のせいばかりではない。
 半分を少し過ぎた時、私は、泣いている自分に気付いた。楽譜がうるんで見えない。バイオリンを台に置き、椅子に前のめりに座った姿勢でハンカチで目を押さえた。
 弱虫め。自分をなじった。脳裏に次々と、大震災の日から三年間の出来事が浮かぶ。三歳児の母親たちは、震災当時、どんな体験をしたのだろう。本番は、笑顔で終わらせる。訴えるべきことは、希望。亡くなった人々から受け継いだバトンを胸に生きることだと。だから、この曲は弾かない。
 ふと、遠くでざわめきが聞こえているのに気づき、私は時計を見た。予定の時間を五分過ぎている。慌てて片付けて、公民館の応接室に戻った。
 「来週土曜日、お世話になります。よろしくどうぞ」と軽く頭を下げ、公民館を後にした。真冬だというのに、ほおに当たる風は寒さを感じなかった。
                                 
(注1)教育委員会生涯学習課が一般市民を講師に募り、九七年一〇月より活動開始。趣旨は、生涯学習の充実と交流の促進。
遊びを届けよう 岡部 秀夫(四十九歳 学校教職員 大阪市都島区)
 神戸の子供たちへのケアを、遊びの観点から行った活動の第一回目の記憶をたどってみた。
 平成七年二月五日、七人の教師仲間で西宮中央体育館に避難中の子供たちへ「遊びを届けよう!」とボランティア活動に行ってきた。家が倒壊し、おもちゃも何もなくなってしまった子供達のストレスは考えようもないほど大きい。最低限の生活を強いられている保護者には、子供たちにファミコンなど買い与える余裕など全然ない。西宮市はガスも水道も止まったままで、倒壊を免れた家も毎日の生活は、まず「水くみ」から始まる。五日は愛知県小牧市のタンク車による水が配給されていた。どこの家でも家族総出の水くみで、子供たちもみんな手伝っている。水をくみ終えると家族と一緒に帰らなければならず、遊びを仕掛ける間もない子供たちがほとんどであった。
 体育館に避難している子供たちはというと、あまりいない。親戚などを頼って、他府県に出向いているという。(兵庫県より全国へ約二万二一二〇名)それでも、水くみにきた子供たちや、残っている子供たちに遊びを仕掛けてみた。
 はじめはとまどっていた子供たちも久しぶりの「遊びの世界」に夢中になってのめり込んできた。保育園に通う女の子はいつまでも離れようとしない。「紙ちぎりのばし」というチャレンジランキングの種目を行った時、お孫さんと参加したお祖母さんは必死であった。一位になって獲得したメダルを、お孫さんの首にうれしそうにかけておられたのが印象的だった。
 いかつい感じのお父さんが、小さい子供さんを二人つれて「おーきに、おーきに」といいながら入ってこられた。ボールをけって遊ぶ子供達に目をほそめられるお父さん。こんな事もできない状態にあるのかと心が痛んだ。
 午後からは、今津駅の近くにある西宮市立津門小学校に設けられた避難所に移動した。ここでは炊き出しの合間をぬって、子供達に遊びを仕掛けていった。炊き出しの責任者に「ちょっと子供達と遊んでいいですか」と聞くと、「子供達に遊んでもらうんやろ!」と軽口が返り、下町のいい雰囲気を感じた。のりのいい子供達と相撲・鬼ごっこ・なわとびなど昔の路地裏遊びを展開した。
 今も昔も子供達は一緒であった。遊びに興じる子供達に向けられる大人たちの目は、どの目もあたたかく、そばをとおると「子供達と遊んで頂いてありがとうございます」とか「子供たちがほんとうに楽しそうです」と喜んでくださった。
 紙芝居を始めようとすると、おばあちゃんはお孫さん達を呼びに行かれる。若いお母さんは小さい子を抱いて飛んでこられる。あちこちで暖かい交流が生まれていった。離れようとしない子供達を相手に長時間、予定外のプログラム展開となった。
 帰るときにちぎれるようにいつまでも手を振ってくれた子供達を見て、来て良かったとつくづく思った。
 二月十二日は八名で津門小学校と高木小学校に行った。高木小学校では「ジャンケンで連続三回勝ちできるかな?」ということで仕掛けていった。ところが初めは引いて「やらない」と言う。遊びが出来るような雰囲気や環境でないだけに、子供たちの気持ちは痛いほど分かる。それでも勧めると、あっという間にのってきてくれた。子供達はやはり遊びがすき、遊びながら育つと再認識した。
 その様子を見ていたレクリーダーの人たちはびっくりし、あらためて「遊びの必要性」を感じたようであった。ドッヂボールをしているボランティアと子供達の中に入れてもらい、より夢中になって楽しめる「王様ドッヂボール」を紹介した。「切り」があって、「一気に楽しめる」要素のあるドッヂボールにみんなが夢中になった。
 その後はお得意のチャレンジランキングの種目「一分間ジャンケン」をやった。あるボランティアの方から「すごいですね。今度ぜひ遊び方を教えてください」と頼まれた。
 ここには、ここに必要なものがある。そう信じて活動を続けた。そのうち長縄を子供達と始めた。「目標! 長縄五十回連続飛び!」。子供達は夢中になって挑戦し、「やったー! 達成!」「今度は六十回に挑戦!」「次は七十回」とより高い目標を掲げ挑戦し続けた。のっている子供達は挑戦意欲満々であった。なんと二百八十九回という記録を小学校四年生の女の子が出してしまった。続いて、一回も飛べなかった子がみんなの声援を受けて、九十回も飛んでしまった。子供達って、本当に宇宙人だと思った。
 京都、大阪、兵庫から集まった仲間達は、体は疲れたものの、自分たちの持てる力を少しでも生かしてあげられた喜びに、再度出向くことを確認しあった。快い疲れの中に、少しの満足感と子供達の笑顔がいつまでも頭から離れなかった。
よろずボランティア 西尾 定久(七十歳 無職 芦屋市)
 避難所への給食手伝いが終わった五月上旬よろずボランティアの活動がはじまった。「こんにちは!○○さーん! ボランティア委員会から参りました。お邪魔します。これを差し上げてくれとのことです」こう言って、除虫薬セットをお渡しする。これは芦屋市内の仮設住宅を訪問した際の第一声だった。
 この活動のため、私は二つの地域を選び、除虫薬セットを勘定し、大きな布袋に入れ、一人で目的地に出発した。一軒ずつ玄関のガラス戸をたたいて、声をかける。出てきた人は、一瞬警戒心を見せる。そこで冒頭の口上を述べるのだ。
 さらに「もうここに馴れはりましたか?」と聞く。相手が安心の表情を見せて、話し出したら、まずは会話が続く。
 ご主人が九十歳という、おばあさんはスリムな体で玄関口で正座し「わざわざ来ていただいてありがとさんでございます」と丁寧に頭をさげた。その品のよい所作に、私は照れた。
 「役所から、こんなええ住宅に入れてもろうて、生活必需品から、もうあなた、いたれりつくせりで面倒みてくれはる。ありがたいことですわ。不満や不足なんてありゃしまへん」とまたもや両手をついて深々と礼をした。大阪生まれと言っていたから、もしかしたら大店の「浪速のいとはん」だったのではないか、と思ったりしたが、とても謙虚な物言いをする人に、私は声も出なかった。
 ある仮設住宅では、七十年配の元気のいいおばあさんが、開口一番「あんた!、これちょっと見てみい、役所は何を考えて、こんな高いところに付けたんよ、あんた、手突っ込んで底まで届くか、その郵便受けによぉ」と息巻いた。
 私はなだめるように「小母ちゃん。このことは必ず連絡しとくからな、そんなに怒りなはんな。付けた業者もあかんけどな、避難所におる皆さんのために、一刻も早く仮設を建てることが、先決やったんよ、それまでの辛抱やて」と、説明した。
 果たせるかな、七月半ばに、郵便受けの位置手直しの日曜大工作業が実現した。大半は建設関係者の個人参加で、一般も含めて四十人近くのボランティアが集まった。三人一組で、既設郵便受けの固定したねじをはずし、新しい位置の穴あけ、そのねじどめ、という分担で作業を進め、朝十時過ぎに始め、二時間あまりで、当日予定分(約二百戸)を完了した。これ以後、追加依頼に応じて、順次処理されていった。私も仲間と組んで、七十戸あまりの郵便受けの手直しなどの作業を片付けた。
 さて、訪問活動に戻る。ある六十年配のおばさんは小柄ながら、いかにも働き者らしい口調で、地震直後のいきさつから商売再建のプランまで、四十分以上もしゃべり続けた。
 「あの日以来、こんなに話をしたのは、あんたが初めてだわ」に二人して大笑いした。今にして思えば、仮設住宅入居直後の被災者だったせいか、話し合える人を待っていた感じを受けた。
 大半の入居者の表情は明るく、一人暮らしのおばあちゃんの笑顔には、訪問時の自分自身の堅苦しさが抜けた。
 ある定年退職したご主人とは、生涯学習の話に発展したこともある。人と会う約束も忘れてしまって、一時間以上も立ち話をした奥さんもいた。これらの訪問が、こんなふれあいまで計算して、行政が考えていたなら、立派なことと言えよう。痛手を受けた人たちの自立への、そして復興への息吹が、すでに仮設住宅から始まっていたからだ。
 ここでは、前向きな人間の生きるたくましさを、私は教えられた。被災後、五年前から参加してきた朗読ボランティアも、三月から再開された。週一回、三十分の朗読活動も大事だったが、もっとほかに手伝うことはないのか、気になり始めていた。チャンスはいっぱいあったのだ。
 芦屋市ボランティア委員会の呼びかけで、給食、仮設住宅への救援物資配送、日曜大工手伝い、家庭訪問等の支援活動に参加した。それは震災前のボランティア活動では、見られなかった行動力が新鮮だったからだ。救援処理機能が生き物みたいだった。もちろん人間の活力にはスピード感覚も加わり魅力的だ。戦う集団といった方がわかりが早いだろう。
 私自身の体が攻めの活動リズムにうまく乗った感じだ。はっきり言えば、ボランティア活動によって、私は新しい世界を見せられた思いだったのである。この年の暮れ、芦屋市内の「ふれあいセンター」のお手伝いに入り、閉鎖後、同所の記録誌まで作り、良い勉強をさせてもらった。
畳六百枚 岡田 智晶(六十七歳 元教員 広島県福山市)
 振り返ると私は三回にわたり救援活動に参加した。つまり長田区へ二回、東灘区の六甲小学校へ一回である。私の住む広島県東福山市では大震災の一月十七日の午後にははやくも救援対策合同本部が市民団体によってつくられ、合計九回にわたり出動、これに私も参加した。その第三回目に参加した時の様子を中心に紹介したい。
 一月十七日早朝、私は激しい体の揺れに目を覚ました。「地震だ。いつもとちがう」と思うと体が固くなった。妻が飛び起き外を見た。
 さっそくテレビをつけると地震情報が流れており、淡路島の北部が震源地であること、洲本、神戸が震度六、福山は震度四であり、映像に地震発生のさいの放送局の室内の状況が報道された。
 私達はそのあとずっと、テレビに釘付けになり被災の動向を見守った。赤い炎と黒煙を上げて燃え続ける長田区の住宅や工場、横倒しになった阪神高速道路、倒れた家屋に閉じ込められた人々を救出する人達。死者は刻々と増えていく。
 何かしたい、何とかしなければと思っていると、「被災者達を救え」と医療生協、保育園、民商、自由法曹団などの民主団体が立ち上がり、救援対策合同本部が設置された。その第三便に私も便乗することができた。
 一月三十一日、合同本部は、二月四日から五日に被災地に風呂を設置し、畳を提供することに決定した。「広島県東部畳組合青年部」から六百枚の畳を届けたいとの要望があったからである。
 二月四日午前六時三十分、私達は民商の加賀合同本部次長の車を先頭に、無線連絡での段取りを済ませ、合計七台で出発した。
 昼過ぎ頃、長田区駒ケ林公園に着いた。被災地の空はよどみ、埃っぽかった。顔がざらざらするので白いハンカチで拭うと、茶色になった。
 公園の中は高い金網の柵で囲まれ、その柵に沿って両側にたくさんのテントが張られていた。被災者のほとんどは柵の内側に住み、外側にはベトナム人や新しい転入者など、二百人くらいいた。柵内の北側には、東西の柵で区切られた救援物資配給のテントがあり、数十人の被災者が並んでいる。被災後すでに十九日。被災者達の衣服は薄汚れ、疲労感が見られる。
 現地の責任者と打ち合わせ、風呂の設置を始める。テント張り、風呂の柵づくり、敷板設置などを大工の岡田さんと左官の渡辺さん、配管を倉田さん親子、ボイラー設置を加賀さんという具合に、それぞれの持ち場に応じて作業を進め、私も足手まといにならないように頑張った。
 工事が始まると、ときどき被災者がやってきた。「何を作っているの」「風呂にはいつごろから入れるの」「ベトナム人しか入れないのですか」「日本人だけですか」などと聞いてくる。そこで、自治会代表、ボランティア代表などに集まってもらい今後の運営について話し合ってもらった。
 翌日は畳の運搬の手伝いである。
 畳運搬車は十トン車で、長さが十二メートルある。瓦礫で通れないところもある。所々に「大型車進入禁止」の標識があるが、緊急物資の輸送なのでやむを得ないと判断して車を進めると向こうからパトカーがやって来た。しかし警察官は軽く敬礼をして通り過ぎた。こうしてやっと前原町の小学校にたどり着いた。
 この小学校は六階建の大きな小学校であったが、教室も廊下も、学校全体が被災者で埋まり、校長を中心に全職員が多くのボランティアの救助を受け、救援物資を配ったり、大きな鍋でうどんを作ったりと、頑張っていた。「畳の上でやっとくつろげます」「これで畳の上で死ねます」と久しぶりに畳の上に座って喜ぶ人の声を聞くと何とも嬉しくこの活動が何物にも代えられない思いがした。
 畳の運搬から帰るとすでに風呂が沸き、被災者達が入浴していた。風呂場はテントを張り、青いビニールシートで囲ってある。お母さんに入れてもらっているのか赤子の泣く声がほほえましい。十九日ぶりで入浴できたとのこと。
 福山に帰って二日後、合同本部に神戸のベトナム友好協会から「ベトナムの人達が風呂を大変喜んでいます。よろしく」と言っていると電話があった。また第四便に参加し、その途中に公園へ寄ると、被災者達が明るい笑顔で「風呂は自治会で運営しています」と話してくれた。入浴の際の注意書きは日本語とベトナム語で書かれている。私はその言葉を読み、なにか体が暖まる思いがして、じっと見つめていた。
在宅介護 中井 貴美江(五十五歳 ヘルパー 芦屋市)
 今朝も六時四十分頃に、近くのKさんから電話があった。
 「カーペット、今日の大型ごみに出せる?」
 この方は、目も耳も不自由です。ご主人は昨年夏より入院のため、七十八歳のKさん一人が家にいます。福祉の世話を受けるのはいやといっていましたが、大勢の人に説得され、昨年春よりヘルパーが週に二回来るようになりました。娘さんは二時間ほどかかる所に住んでおられます。

 私は阪神大震災でいろいろな方々から助けていただき、心より「ありがとうございます、ありがとうございます」の日が続きました。こんな事ばかりではいかん、私にもなにかできる事はとヘルパー養成講座を受け、平成八年三月にヘルパーになりました。一回の訪問時間は二時間、あっという間に家事援助の時間は過ぎます。利用者の笑顔に見送られて、快い気持ちで訪問先を出ます。
 Kさん宅の場合、ご近所のWさんより、
 「在宅は無理なのとちがう? 火はどうするの? ヘルパーがいない二十二時間、他人のあんたが責任持てる?」といわれ、愕然としました。ガス調理台を電気に替えてもらい、ほとんどの器具を押しボタン式にしてもらいました。Kさん宅は全壊のため、そのほかの生活のすべてが変わりましたが、使い方をようやく覚えてもらいました。ご飯も自分で炊けるようになり、テレビも画面に額を寄せれば見えます。
 ところが、Wさんが言われたように、ハプニングがあります。
 先日も、朝七時にトイレが詰まっているとの電話がありました。駆けつけると、トイレ、台所が汚水びたしです。カーペットがずくずくです。午前中かけて掃除し、最後に消毒をと思い、Kさんを担当する福祉係に電話し、「消毒業者を紹介して欲しいので、Kさんのヘルパー責任者へ連絡してほしい」と言いました。
 「今日は休日で、連絡できません」
 「休日でも生活しているんです」
 Kさんは目が不自由なため、あらゆる物を床において生活しています。今からどうして生活するのですか。娘さんと福祉の方が来られて、ようやく落ち着きました。
 独居老人は一人ひとりが自分らしく生きるために必死です。四年前、地震のときはみなが一斉に何もない所からのスタートでした。しかし四年が過ぎますと、高齢者は取り残されます。公的な援助は必要ですが、近隣の方々の援助がもっと大切ではないでしょうか。 
 ヘルパーとして三年、何か役に立つ事をと飛び込みましたが、どこまで役に立っているのか。公的なヘルパーをしながら、一日も長くKさんが在宅でおられるように、応援したいと思います。割り切れない自分の心と戦いながら。

   

2 住み家
解体工事 藤原 恵美子(三十歳 無職 灘区)
 近隣の解体工事は、震災の年の五月がピークであった。取り壊し作業だけをとってみれば、いともあっけなかった。家が壊れるのに時間はかからないということは、地震が証明済である。家屋がその面影を消すのには、半日を要すれば十分である。けれども、細かい部分の取り壊しや瓦礫の処理のため、作業は何日間か連続して行われる。
 その間、住民の関わり方は十人十色である。立ち会いに熱心な人、ご近所に入念に挨拶をして回る人、全く姿を現さない人もいる。転居の場所や仕事の状況など、事情も様々であろう。どうこうと批評をする気は起こらない。
 我が家は、損傷や亀裂はあるが、家屋の原形はとどめていた。両隣両向かいが解体を余儀なくされて、結果、我が家は言うなれば孤立した状態にあった。好むと好まざるとに関わらず、周囲の状況を時を追って見続けた。
 北向かいは寺院である。山門と古い木造建築の本堂は惨憺たる崩れ方をした。取り壊しは早かった。一カ月以内に、プレハブの本堂と住居が建設された。その住居は、組み立てるという表現がぴったり当てはまるような簡易な構造である。まるで模型を作るかのごとく建てられた。その単純さに驚くほどであった。
 南側は、四軒が入居していた長屋である。詳細はつかめない。住んでいた人の姿を見ないまま、痕跡がないほどきれいな更地になった。見通しがきいて、もう一筋南まで見えるようになったが、無人らしい。家によっては、夜になると電気がついている所もあるが、依然、人の気配はない。防犯対策であろう。
 西隣の家は、二階部分が傾いていた。住んでいた老夫婦は市外に引っ越したと聞いたが、一切姿を現さない。解体の間じゅう、目と耳とに強烈な刺激を受けた。借家なので未練も薄いのであろうか。それとも、かつての住まいが消えていく過程を傍観するのが辛いのか。工事に立ち会わないお隣さんの心情を、あれこれと想う。もう一軒向こう隣の人に会った。「あんなにまで埃がたちのぼるとは思わなかった」と、溜め息をついておられた。
 東側の家の解体工事は、我が家にとって一番厄介であった。すぐ際まで建物が迫っている。住居用ビニールテープとビニールシート、古毛布などが、土埃対策となる。わずかな隙間も出さないように、壁面をそっくり覆っていくのである。大柄の男性が何人もかかって作業を進めた。もちろん、隣は隣、我が家は我が家、別々のグループがそれぞれ仕事を進めていく。片方は取り壊し、他方は防護と、夢はないのに大がかりなことであった。
 解体工事の人は、何の断りもないまま我が家の敷地に入って段取りをした。
 空き地だらけになった近隣に、家が建ち始めたのは、その年の十一月初旬からである。工事音は、悩まされるという範囲をとっくに超えていた。日常生活音として慣れてしまったほどである。日曜日も四方のどこかで音がしており、工事が完全に休みということは稀である。たまにそんな日があれば、静かすぎて違和感すら覚える。
 土埃が舞い込むのも当たり前になった。二階北側の和室の窓を開けていたら、一日で畳に白い砂埃が乗った。南側にもなかなか布団が干せない。気にならないのが不思議である。感性が麻痺している。震災以来、物事や生活習慣の基準軸が、自分や家にはない。絶対的な力に、常に圧迫されているような感じがする。
 それでも、雑多な用事がたくさんあるので、一つひとつ処理しているうちに月日は流れていく。たまに繁華街に出かけてみれば、気後れする。しかも、そう遠くない別世界大阪などになると深刻である。自分の身の回りだけが孤立しているような感覚を覚える。了見がとても狭くなっている。被害の大小によらず、我が家や近くの状況が、生活を支えることだけに懸命になっている。震災前までの価値観と随分差があると、ようやく気づくのである。
 復興がうたわれ進められているのは、確かに住んでいる町のことであるが、自分の力でではない。自己回復ではない。変わりつつある状況をとらえてついていくだけで精一杯である。人が震災後謙虚で冷静であったと評する向きもあったが、違うと思う。時の経過を振り返ることはできても分析する余裕などなかった。もちろん先の見通しは立たない。心を無にして、目の前の問題を片付け続けるしかなかったのである。
 平成十一年秋、三年半以上が経ってやっと、北向かいの寺院の改修工事は終了した。山門の側にある掲示板は、まだ真新しいままで使われていない。きっと、ここには、生きていくのに必要な心得や忘れたくない教えが入るのであろう。最初の言葉は何か、落ち着いた気持ちで、掲示を待っている。
精一杯 匿名・女性(四十七歳 自営業 箕面市)
 阪神大震災のその日も、私は五時に起きて子供のお弁当を作っていた。野菜が煮えるまで、火をつけたまま居間でテレビをつけた。その瞬間、大きく揺れた。テレビがテレビ台から落ちそうになったので、それを支えようと立った瞬間、私の座っていた所に本箱二つが倒れてガラスが散乱した。関東大震災を思い出して慌てて火を止めに台所へ。主人や子供達も起きて来る。電話が通じない。主人が長男に「公衆電話が混む前に、おばあちゃん、おじいちゃんに電話して」と命じた。
 両方の両親とも家は壊れても傷もせず無事なことを確認してほっとする。帰ってきた長男は「近くのローソンの電柱が倒れていた」と報告した。私立中学校へ通う長男だが、電車も止まっているので学校を休ませ、一緒にテレビを見る。最初はたいした被害じゃないと思っていたのが、被害が明らかになっていく度に、増えていく死亡者数に心を痛める。
 子供の中学は兵庫県にあり、建てたばかりの新校舎の床が抜けたり、校舎が傾いたりで、電話が通じた五日目、「当分休校」の連絡が入る。先生も生徒の安否の確認に追われている。長男は中高一貫の私立に入学していたが、実力を試すために他の高校を希望して、入試が控えていた。結局、三学期の授業は一日も行なわれず、独学した。
 その間に引っ越しをした。住んでいたマンションは買い手がついていたが、決済予定の三日前の地震のためにキャンセルになった。仕方なく、新しい一戸建ての決済のため一時高利のお金を借りた。売却するマンションの売る部屋には何の被害もなかったが、渡り廊下の隅のひびを見て地震の不安から、なかなか新しい買い手がつかない。結局地震から四カ月もたった五月に買い手がついた。前の買い手がつけた価格から六百万円も下げて売らざるを得なかった。短期の高金利で借りた分と値下げ分、住宅ローン以外の大きな負債が雪だるま式に増えて、今も生活を圧迫している。
 実家も家全体にひびが入り、傾いて戸の開閉ができない。屋根は瓦もなく、職人さんもなく、なかなか修理できなかった。やっと着工したが、小さな屋根の修復だけで二百万円という高額がかかった。さらに壁全体の塗り直し、風呂、戸の修理で数百万円支払った。年金者の父の預金はゼロになった。いくらか補助金を借りようと被災認定に来てくれるよう市に申請したものの、二カ月待っても来てくれない。あきらめて自力で修理したが、病気になった時に入院費もない状況だ。
 こちらも泣きたい状態の時に、自治会や職場、校友会、PTAなどから被災者救援のカンパ金を割り当てられた。生きているだけでも感謝せねばと寄付をした。
 幸い長男は、四国の有名進学校に合格した。ところが、学費以外に寮費も必要になる。そんなゆとりは震災でなくなった。買い替えた古い一戸建ての修理もしないと住めない。結局長男は希望を断念し、家から通える高校に進学した。
 今まで素直でこつこつ真面目に勉強していた長男の性格が一変した。運命論者になって、「生も死も人生も、努力で変えられるのじゃなく、運命で決まっている」という風に考えるようになり、病気になっても一切医者に行かなくなった。勉強もまるでしなくなった。
 大震災で大勢の罪もない人が亡くなり、世の無常を目のあたりにしたせいかもしれない。
 幸い家族や親戚で亡くなった人はいなかったが、経済的被害や精神的ダメージは大きかった。
 カップラーメンやガスコンロなどを持って友人、知人を見舞いに行った主人。道で壊れた家やビンに花が活けてあるのを見ると悲しみを新たにした。しばらくはいつでも逃げられるようにと、服を着てペットボトルを用意して眠った日々。宝塚では長い間ガスが使えず、箕面まで風呂に入りに来ていた友人。
 大変な日々であったが、そんな中で嬉しいことがあった。大学時代の友人と長い間音信のなかった高校時代の友人が心配して「大丈夫」と電話をくれたことである。大変なとき、心細いとき、心配してくれる人がいると知るだけで心の中が温かい気分になる。
 まだ仮設住宅で暮らす人々がいるのに心が痛む。もう二度と阪神大震災のような惨事は起こってほしくない。しかし、こういう経験を通して人は強さと優しさを身につけてゆくのかもしれない。大変なときにも自分のできることを他の人にする。痛みを知る人間は他の人の痛みを思いやることができる。そして精一杯一日一日を生きていくしかないのだ。
当選通知 綱 哲男(七十一歳 貿易商 中央区)
 平成十年仮設住宅で最後の元旦を迎えた。私達は第四次の災害復興住宅入居募集に、五回目でやっと当選し、四月の入居が予定されていた。初日の出を拝みながらのラジオ体操はできなかった。元旦早々新幹線に飛び乗って新横浜経由で東京都町田市に向かった。体調をくずして娘宅にいる妻が大晦日に救急病院の世話になった。震災二年目あたりから震災の後遺症でうつ状態になっていたのだ。もう仮設での生活も無理なようだ。
 引っ越しまでの四カ月間、仮設で男の一人住まいを体験した。手狭な台所では、手のこんだ料理ができないと妻がよくこぼしていた。どうしても外食が増える。寒風のもと屋外での洗濯、スイッチを入れてすぐ中に入る。屋外の洗濯機が盗まれるという事件が中央区であってから、役員の注意で洗濯機にはいつも水を張っておくことになっていたが、もうその心配はなさそうだ。バストイレ洗面所のユニット形式の浴室で湯につかっていると、浴槽ごと冷えてくる。明け方、床下からの底冷えで目が覚める。床板も外れて、踏むと畳ごとボコボコ落ち込む。修繕するのも引っ越し間際なので辛抱することにした。夏は反対に天井からの熱気とクーラーの冷気が渦巻く。仮設住宅もよくできてはいるが、三年くらいで修理が必要だ。住む方も同じく三年が忍耐の限度だろう。
 当選したポートアイランド住宅は兵庫県が住宅都市整備公団の空家を借り上げた「公団借上県営住宅」である。借上見込み戸数は六十六戸、鉄筋コンクリート十四階建、3DK、五六〜七五・である。募集要領によると、この六十六戸はあくまでも過去の空家発生戸数で、空家の状況によっては入居が遅れることがある。空家が発生してから内部を改装し、その後に入居という段取りだ。今回の応募から幸いにして七十歳に達したので、優先順位は一位となった。順位は家族構成、健康状態により一位から六位までに分かれる。私の当選順位は二十三位なので担当者の話では予定日通りの入居が望めそうだ。妻の健康状態を考え、神戸中央市民病院に近い住宅というのが選択肢の一つだった。それに空家なので入居日が新築に比べて早い。一日も早く仮設を出て恒久住宅に入りたい、というのが申し込み時の心境だ。
 家賃は被災者向けに特別減免制度があり、入居者の収入、住宅の立地条件、規模に応じて異なる。入居後五年間が減額対象となる。この住宅は兵庫県が公団から二十年を限度として借り上げ、県営住宅として供給している。この二十年は私の残りの寿命を考えてみると妥当な時間のように思える。
 入居に伴う資格審査が始まった。

 一、日時、場所  平成十年一月二十二日、兵庫県公社館一階大会議室。
  必要書類   私の場合、当選通知書、住民票謄本、所得証明書、健康保険証、り災証明、仮設住宅使用賃貸契約書、家賃特別減免申請書、印鑑など。
  手狭な仮設内でこれらの書類を揃えるのは骨が折れる。神戸市長と結んだ仮設使用契約書が見当たらない人も多かった。私の審査はオーケーで当選通知の葉書に「合格」の赤印を女子事務員が押してくれた。
  一つの関所を越えたようだ。

 二、三月二十五日  ひょうご女性交流館で請書審査
  必要書類  入居請書正副二通、連帯保証人の所得証明、印鑑証明、在職証明、入居者名簿、入居回答書
  書類の合格者に兵庫県が当選順位に従って入居の号棟、号室を決定した。希望をはさむ余地はない。ふれあいセンターでも、鍵をもらうまでは安心できないと真剣な面持ちで話し合っている。当選、落選の人も感情を抑えて引っ越しの段取りを話していたが、どうしても当落のグループに分かれてしまう。最後の一元化募集に落ちたショックは否めない。当選を手 放しでは喜べない。

 三、四月二十日は神戸市教育会館で待望の鍵渡し、入居説明会の日であった。持参書類は、通知書、敷金領収書、仮設住宅返還届書と仮設の鍵一本。
 私は受け取った鍵を持ってその足で割り当てられた住宅に向かった。地震でわが家を脱出して以来、初めて味わう住みかである。ぼんやり畳に座っていた。カメラで家具も電気器具もないがらんとした部屋を撮った。公園で子供の遊ぶ声が聞こえる。

 三年あまり住むとがらくた道具がたまるものだ。妻は引っ越しの一週間前に帰ってきた。娘達も手伝って大掃除と拭き掃除を済ませた。役員さんをはじめ仮設の人達も次々ローソクの火が消えるように引っ越していった。役員さんはその後も仮設にやって来て何かと気を配ってくれた。引っ越してから畳や壁の拭き掃除に戻ってくる人、お世話になりましたとあいさつして回る人、ゴミを残していく人、立つ鳥後を濁さずの部屋、あとは野となれ山となれ、覗いていくとおもしろい。何の前ぶれもなく行き先も不明のままトラックで出ていく人、当選を諦めて民間住宅に去っていく人、悲喜こもごもの風景が展開された。
 私達はあとに残る人達に握手のあいさつを繰り返しながら、金網で囲まれた仮設住宅を後にした。妻は涙もろくなっている。移転の日時のずれはあっても平成十年末で仮設九十七戸中、七戸が残ることになる。最終移転者は五月の予定だが、市とリース業者は仮設の部分撤去を三月頃から始めるそうだ。
 私は震災以後の年月を第二の人生として、たとえそれが短くとも充実したものにして終わりたいと考えている。
四年がかり 徳島 喜代子(七十二歳 無職 大阪府豊中市)
 四年目の今年一月十七日、応急修理のままだった北側の壁を塗り、これで、半壊の修理を四年がかりで終えた。
 三十五年前、共働きで建てた豊中市蛍ヶ池の我が家である。子供たちは独立し、地震の半年前、夫を亡くして一人住まいだった私は、大工さんに頼んでやっと修理が完了した。
 あの朝、私は二階のベランダの柵にしがみついて「神様助けて!」と、夢中で声にならない声を張り上げていた。
 辺りは不気味な静けさで、近所の人の声も、すぐそこを走る阪急電車の音も、国道を走る車の騒音も聞こえない。
 「誰も居ないんだ、地球が裂けて、私一人とり残されたんだ。いや、芳香がただよってくるのは、天国の匂いなんだろうか」
 本箱にあった本が、夜具の上に散乱し、柱時計がコチコチと時を刻んでいる。あれ? 目も耳も、正常ではないか。
 少し落ち着いて、わが家の観察を始めた。二階の屋根が裂けて、ようやく明るくなってきた空が見える。壁は横に亀裂がはいっている。
 テレビをつけて、地震とわかった。水道は出るが、電話は通じない。
 玄関の戸をこじあけて道に出た。芳香は北隣りの家の庭の臘梅(ろうばい)とわかった。屋根や壁の割れ目から芳香がただよってきたのだ。
 近所の人々は口々に「こわかったねー、お宅大丈夫」となぐさめ合ったが、無傷の家は見当たらない。しかし、我が家の惨状を目の前に緊張がとけると、力が抜けて行く思いだった。
 とは言え、一人暮らしの私は、自分を励まし片付けにかかった。靴を履いて食器のかけらを拾い始めた。じゅうたんは、ガラス片が深く刺さっていて、捨てることにした。
 テレビは神戸方面の大被害を終日伝えていたが、街にはスキーを担いだ若者もいた。
 電話が通じ始め、子供たちや兄弟や、普段は縁のうすい親戚からまで、次々お見舞いの電話をもらい、ずい分励ましになった。
 役所の調査で「半壊」の証明書がとどいた。以後、水色のビニールシートに囲まれた生活が始まった。大工さんが引っ張り凧で、町会の紹介の大工さんに、裂けた屋根にシートを張ってもらったが、以後の工事はそこ次第になり、かなり待たされた。
 しかし、築三十五年の木造二階家は、建て替え時期に来ていたが、費用のこともあり、修理して住むことにした。
 ボランティアだと言って、いろんな業者がやってきた。「お宅は次の余震ですぐつぶれますよ」「屋根が傾いている。危険です」などと、危険を強調して工事契約を迫った。
 断ると、「親切で言っているのに、下敷きになって死ね!」と捨て台詞を残した自称工事監督もいた。屋根修理は、瓦を全部接着剤でくっつけるだけの修理屋もいたとかで、「だまされるな」が近所の合言葉になった。
 老後の貯えは、どんどん消えていった。先ず屋根を直し、亀裂の入った内壁は、ベニヤ板で押さえ、クロスを張って間にあわせた。床の修理、風呂釜の取替え等など、十数回の工事となり、最後が北側の壁の仕上げで、くしくも四年目の震災記念日の今年一月十七日に出来あがった。
 四年経っても、あの時の恐怖は去らない。
 今でも密室は怖い。建具は全部外していたが、去年からフスマを立てた。寝室は今もフスマを閉めない。音に敏感になり、電車のゴーっと遠くで走る音が聞こえたりすると、ドキッと心臓の止まるような衝撃を受ける。今まで気が付かなかった近所の家で麻雀をする音が聞こえたりするから、聴覚が緊張しているのだろう、過敏症か不眠が続く。
 貯金が消えてしまったが、生きていくことのすばらしさを認識した。兄弟たちから思いがけない見舞い金をもらい、みんな老齢なのにと、うれしく、有り難く涙が出た。
 地域の人たちから、いろんな助けを受けた。近くの寺院は、檀家かどうかに関係なく、独居老人の家に月一回、手作りの食事を配ってくれる。私にも心のこもったお弁当がくる。
 地震は私に、地域社会とのつながりの大切さを教えてくれた。何かの時、真っ先に助け合えるのは隣近所の人たちだった。そんなことから、地震のあと私は地域の老人会に仲間入りして、月三回の公園掃除や、雑巾縫いの奉仕活動にも参加している。会のテーマは、「社会へは何のお礼も出来ないが、せめて自分の生活が元気であること」とある。
 こうして生活すると、改めて七十歳代の人生も趣があると感じだした。先日から十日余り私は風邪で寝込んだが、近所から七草粥が届いたり、キンカンの甘露煮をお見舞いにいただいたり、ご近所や老人会の仲間から励ましを受けた。
 半壊の家も何とか修理したし、これからは元気で、出来る限りは奉仕活動をしながら、ここ蛍ヶ池で余生を送りたいと願っている。
ひび割れ 小椿 千恵子(六十六歳 無職 垂水区)
 私の家は地震の前の年の六月に外壁のモルタルを塗り替え、物置やガレージなど新しくし、外回りを直した。五百万円近くを支払い、もうこれで十年は大丈夫と老後の準備をしたつもりだった。私の家は神戸の西部にあり、家から、西の方に明石のパール大橋が見え、景色の良いのを自慢に思っていた。
 ところが、阪神大震災で、家の敷地が大きく揺れてしまい、せっかく塗った外壁のモルタルが、百本以上のひび割れを起こし、北側のモルタルの一部は落ちてしまった。ひびは自分でコーキングし、落ちたモルタル部分は友人が来てセメントでつけてくださった。
 しかし、近所の人が次々に新興産業のアルミナムボードで外壁を直し始めた。一平米で二万三千円、二百平米余りあるので五百万円近くかかってしまった。
 お風呂のタイルも百枚以上ひび割れた。これも自分でコーキング材を塗った。
 柱が揺れたために、家の中の柱の近くの壁は皆落ちてしまった。私は三種類の材料を買い、毎日二時間くらいかけて、壁塗りをした。台所や脱衣場の壁は壁紙の裏に水をつけて、自分で切りながら貼った。もちろん、見えるところだけで、重たい家具は動かせなかったので、後の方はそのままといういい加減なことだった。しかし、ぱっと見たところはきれいに見え、娘が、「ママがやったの」と感心していた。
 昨年の夏にアメリカ人が家に来た時には、お風呂場のブルーのタイルのひびに、白いコーキングをした不細工なところを指して、「これが地震の爪跡でございます」と見せていた。
 ところが、近所の人が次々と工事を始め、きれいに直し始めた。私もきちんとしなければいけないと思い始めた。ちょうどその頃、大風と大雨が降り続き、階下の部屋にタラタラと雨水が漏り、壁が濡れ、障子にしみがついた。
 私は二階のベランダのひび割れにもコーキング材を塗ったが、日が当たるとゴム状のものが固くなり、めくれあがってきて雨漏りの原因になってしまっていた。
 雨漏りだけは職人さんに直してもらうことにした。彼らはベランダ一面にゴム状のものを流し込んでいた。本職の人は下地を塗り、糊を塗ってから、壁を塗っていた。私が前に塗った家の中の壁は、三年目にひび割れて、めくれ上がってきていた。私が下地に糊を塗らなかったのではがれてしまったのだ。
 お風呂のタイルも上からタイルもどきを貼ってきれいにしていただいた。
 庭の外のセメントにもひび割れが新しく入っていた。東から西にひびが続いていた。とりあえず見えるところのひびの上にセメントを塗っていただいたが、地面の北側が下がって家の中央部にひび割れができ、二階の柱の横の壁にもひびが入っていた。やはり北側が地盤沈下しているのだと思ったが、「あんたが生きている間に家が倒れたりする心配はないだろう」と言われた。
 娘が「ママの家は寒い」と言うのでよく調べてみると、カーテンの裏のアルミサッシの戸が少し開いたまま動かなかった。大工さんに頼んで、電気のこぎりで下側を切っていただき動くようになった。
 寒くなってから、戸が動かなくなった。障子も唐紙も皆、下を削っていただいて、動くようになった。家全体が下がってきているのだと思う。
 台所のアルミサッシの戸の鍵がかからなくなった。鍵屋さんに来てもらうと「あんたのところの戸は全体的にくるっているからなあ」と文句をたらたらと言われた。犬がいるので、普段はほとんど鍵をしていない。だが、私も六十六歳になり、いつ死ぬかもわからないと思い、百万円ほどかけて修理を終えた。
 しかし、外から見ると、ベランダの手すりが錆び付いている。私は錆止めを塗り茶色のペンキを塗った。下の白い壁に茶色のペンキが落ち、何度も塗り直しをした。
 お正月に息子の家族四人、娘の家族四人と妹と私で、十人で食事をすることになった。十個揃っている食器がひとつもなかった。
 地震後に私は小鉢、お皿、湯飲みなど五、六個のセットは買っていたが、十個はなかった。あの日、地震で食器棚が倒れ、みなこわれてしまった。
 こんな時になぜか私の歯が一本折れてしまった。続いて、台所のガス台が古くなり、ガス洩れのようだったので、新しく替えるはめになってしまった。
 次に何が来るのだろうと思っていたら、パートの仕事をクビになってしまった。
 まだ人生は終わりではない。
 不安を抱えながら、これからくる困難に負けずに対処していかなくてはならない。だれからの援助もなく、一人で頑張っていかなくてはならないのである。
瓦 礫 大仁 節子(七十五歳 会社員 東灘区)
 私が被災したのはマンションの十階であったが、平成四年にマンションに入居する日まで三十数年間生活した住宅が全壊した。引っ越しの日、夫が突然「お前は俺を生まれた家から追い出す気か」と言ったほど、その家には執着があった。
 その家は震災直後は二階の窓ガラスは一枚も壊れていなかったが、一階はスカートのひだの様に縦に引き裂けていた。
 日がたつにつれて外側のモルタル塗りの白い壁が地上に落ちていった。そして二階が一階の様になって、北側の大きな枇杷の木に引っかかるようなかたちで傾いていった。その枇杷の木はすぐ北を走るJRの線路上に止めてあった貨物車に届きそうな気配であった。
 地震で貨物車は自宅より百メートルほど東側にある森村の踏切の近くで転倒した。レールの下の土がえぐられていた。二月十四日ころには、貨物車は線路が修復されて自宅の北側に止められた。
 その頃、JR線は二月八日に芦屋から住吉までは開通したが、上り、下り線で四本ある線路のうち、中央の二本だけで走っていた。
 森公園は避難所の食糧基地であった。雨の降る日、傘をさして食事をしている私を探しあてたJRの人から、二月十八日からは複線で走りたいので、私の家を解体したいと申し出があった。二月十四日に最初の解体が行なわれた。
 家財道具は引っ越し後も三分の一ほど残っていたが、何も取り出すことはできなかった。一階の天井板がタンスなど家具の上に落ちていた。それを取り除けば天井板が落ちて工事の人が負傷するかもしれなかった。階段が途中でぶら下がっていた。しかも、荷物を取り出しても置く場所がなかった。家を失うということはこんなに残念なことであったのか、すべてはレッカー車の下に潰え去ったのである。

 なき夫と若き日を生きし家なれば
 瓦礫に向ひ別れを告げぬ

  瓦礫引取り物語
 その家には一年中花が咲き乱れていた。私の家は丁字形の露地の奥にあった。その家が見える南側の道まで帰って来るとなぜかほっとすると近所の人が言ってくださっていた。
 二月十四日にJRの手で解体された家の瓦礫は、六月五日になって、神戸市から引取りの通知があった。
 しかし南側の公道から北上する私道の道幅が狭く一番小さなレッカー車でも通れない。すぐ前には東から西へ通じる私道があったが、両側の家屋が倒壊して橋をかけたようになっていた。
 最初に来た業者はすぐに帰ってしまった。
 二番目の業者は親切な人ではあったが結局手を引いてしまった。しかし、三番目の業者を紹介してくださった。その業者が引取り方法を検討した結果、一筋南側の公道から、更地となったお宅を通らせていただき、その東隣りのお宅のブロック塀を壊し、庭を壊して北側に入ってもらった。そこでも納屋が壊れていた。
 私の家を含めて北側三戸分の瓦礫の処理に着手することになった。
 自宅には太い黒塗りの梁があった。レッカー車がそれをつかむのに何度も苦労していた。
 スチール製の赤い本棚はあめのように曲がって出てきた。冷蔵庫他電気製品もあったが何一つ満足に使えるものはなかった。四カ月間雨に濡れて、オレンジ色のタンスは紙切れのようになっていた。ただ一つ餅つき用の石臼だけを家の形見にと残してもらった。その昔その石臼で餅がつかれた日もあった。

 引き裂けし木の端がみな我の身に
 突きささり迫る瓦礫みつめて

  都市計画のこと
 線路ぎわの家の跡に佇むとき、三十数年間暮らした日の思い出が込み上げてくる。そしてなつかしさで心が和むのであったが、平成十年十一月、神戸市の都市計画案に住民の九割の人が賛成した。
 十一年三月九日に神戸市に第一次案が出され都市計画事業が決定した。事業は、同年中に着工するという。
 この土地は道路になってしまうのである。あとしばらくで消え去ってしまう。
 震災で家を失い、土地まで失うことになった。
 震災の前年、ガンで他界した夫が生きていたらどんなに残念に思うだろうか。
 夫の親から絶対に手放してくれるなと言って託された家であったのに震災で壊れてしまった。
 そして土地も追われようとしている。
 夫の親には伝えようもない。
 移り変ってゆく人生の流転の激しさに捉えようもない不安を感じる。
 早く新しい換地をもらって、新しい家を建てたい。それが私に与えられた使命のような気がする日々である。

 大仁さんは、このような家に対する思い入れから、旧宅だけでなく近隣の写真を撮り始めた。
 その数は、五百枚を超え、平成十年には神戸市内三カ所で写真展を開いた。
 六月二十八日から七月十二日 中央区三宮町   フェニックス プラザ
 八月二十四日から九月十八日 東灘区森南町   兵庫信用金庫・東灘支店
 十月十三日から十一月十三日 中央区東川崎町  県立神戸生活科学センター・生活情報プラザ
仮設住宅の生活記録 佐藤 一志(六十三歳 無職 兵庫県伊丹市)
 一瞬、時間が止まった。ゴーと音が聞こえた。近くに航空機が突っ込んだと思い込む。マンションの三階より、すぐ外へ出て見る。真っ暗な中で、地震だと気が付いた。電気、ガス、水道が止まり、懐中電灯を手探りで捜したが見つからない。部屋の中は、すべて目茶苦茶。妻と声をかけあい、怪我のないのを確認した。
 もう仕事の時間だ。我に戻り自転車で三十分の職場に着く。三人の社員が呆然と立ちすくんでいる。言葉のないまま、片付けが始まる。朝食もとれなかった。寒い、腹がへる。気が付いた時はもう日が暮れており満月が震災の町を照らしている。
 あぁまた余震だ怖い。その夜全半壊の中ローソクの灯りで携帯コンロを使い空腹を満たす。水は学校にある。二日目、近くの体育館へ入り込む。
 八十人ほどの人々が避難している。見知らぬ人々が動き回って被災者のわがままを聞いている。
 三日目の朝、パンやパックの牛乳とカンパンを頂く。京都市より、と知らされた。寒いので寝付かれない。疲労と動揺が収まらない。借家を探しに出るが、町中何でも早いもの勝ちで凄まじい。こんな小さな町で争ってもしかたないのに。希望と現実に苦しむ。
 四月、仮設住宅の鍵の引渡しが始まり我先と競う。一時も早く身体を休めないと倒れてしまう。伊丹市全体で、五カ所六六〇戸では少し足りない。奥畑五丁目の(株)クボタ鉄工所所有の競技場、野球場の中に二八〇戸、全三十二棟が置かれ、一五棟百十九号が私の住まいになった。
 一面識もない人々が続々と入居して来る。十日程でほぼ埋まり、グランド内に砂利が敷かれ街灯、小路もでき一つの村が生まれた。部屋の中には、白い電話機が用意されていた。日本赤十字社よりの毛布、敷布団、薬箱、目覚時計などが支給され、カーテンも付いている。六月には、県がエアコンを取りつけてくれた。あとは食糧の買い出しだ。
 郵便物は今のところ一通もない。友人より家具類が届く。また涙。友情の絆が深まる。
 仮設の中を見て回る。急にパトカーがきた。一人の男性が亡くなった。一週間だれにも知られずに悲しい。
 集団生活にも順応しなければならない。しかし、両隣の声が聞こえる。テレビの音、電話のベル、入浴中の音、戸の閉まる音、罵倒する声。酒をガブ飲みしている人。もうたまらん。何なんだこの人達は。
 「ふれあいセンター」が完成し、各棟より代表者を選ぶようにいわれる。ようやく三日後の七月一日、行政とのパイプ役には、五棟に住むT夫妻が任命され、各棟の代表者も決まった。市の住宅課、コミュニティ課、社会福祉協議会、ボランティア連絡会と職員出席の下で活動を開始した。
 Tさんは台風、事故、大雨などの対応で、苦役をこなしたが、半年たった十二月初めに倒れて入院した。暮れの餅つきを楽しみにしていた。病床より、「皆に元気と喜びを」とのメッセージが奥さんから届く。すぐに代表者と相談。「やろう」の一声、即、段取りが決まる。
 二百キロのもち米に、歓声が響く。前夜から仕込みをし、十二月二十六日午前八時、寒空の下で、大勢の人が広場に集まった。「ありがとう」があちら、こちらから聞こえる。震災後初めてのよろこびを貰う。
 仮設で平成八年を迎える。静かな三箇日。望郷の念にかられる。
 二月、Tさんを見舞いに行く。
 「何とぞ仮設の人達を見守ってください」。言葉少ないが、仮設の人たちを気遣うようすに、手を握りしめ、
 「心配せず病気回復に専念してください」と強気で室を出たものの、涙が込みあげる。やるしかない。仕事は定年となったが、憩う間もない苦悩の日々にとまどう。何事にも体当たりで腹を立てずに横にして。
 独居老人より、「風呂場の明かりが付かない。水が止まらない。出掛けた住人がガス湯沸器をつけっぱなしでお湯が流れ出る。戸が開かない。自転車、オートバイを盗まれる。覗かれる。猫が入ってきておかずを食べられる」との苦情を受ける。喧嘩の仲裁もあり頭の中の交通整理が出来ない。
 公衆電話や自動販売機に火を付けられ、警察に連絡する。いつもの警察官、I警部補は、えらぶらず、みんなから尊敬されている。ふれあいセンターでお琴や尺八を演奏し、心に安らぎをくれ、県警音楽隊を呼んでくれた。未だ仮設の巡回終わらず、ごくろうさま。
 近くの西高校の花壇作りに住人も参加し、花をいっぱいに咲かせた。語らいのベンチも置き、主婦らの井戸端会議が始まり冗談も聞こえた。ひとときの安息にその夜はぐっすりと寝込む。
 朝から友愛訪問。民生委員、ボランティア連絡会のメンバーが、助け船を仮設に出している。関西電力、朝日新聞社厚生事業団、市内の企業、学生さんの支援、数え切れない恩、善意は決して忘れることはない。
 Tさん宅が再建され、喜びも束の間の平成八年四月二十九日、Tさんは六十九歳の苦闘の人生を終えた。さようなら。
 「いよいよ仮設住宅返還の期日が迫る」と知らせる第十九号のニュースによると、仮設内で五月六日男子が誕生した。暑い夏も乗り越えた。十月、新天地の復興住宅への抽選が始まり嬉しく慌ただしさに笑顔が戻る。
 平成九年四月、私も、恒久住宅へ移転した。五十戸の共同住宅。鉄の扉だ。
 「震災前の元の所へ帰りたい」。独居老人の半数は言う。
 「あんた、だれ」。訪問先の一人住まいの老婦人が言い出した。痴呆が急に進んだようだ。
 またまた私の活動が始まった。保健婦さん助けて。
3 共に生きる
伯母の旧姓 芳崎 洋子(三十九歳 保母 宝塚市)
 阪神大震災から四年。その日、私は震災で亡くなった伯父、伯母、従兄弟の墓参りに行った。神戸へ向かう車から見える街並みはきれいなのに、その一つ一つが、私に四年前のその場所の様子を思い起こさせる。自転車で、倒壊した建物の間を縫う様にして、神戸の伯父宅へ向かった時の光景だ。それはいつものように、私の胸を締め付けた。
 墓参りに行く時は、必ず伯父の家があった所へも行く。今は、駐車場になっているその場所が、最も私を苦しめる場所だった。それなのに、今回は違った。四年の歳月によって、すっかり変わったその付近の景色の中に、駐車場はあたかもずっと昔からそこにあったかのように、違和感なく溶け込んでいた。伯父の家が、本当にここにあったのかという気すらした。あまりのあっけなさに、私はその場所を早々に引き上げた。
 たった四年で、こんなにも変わってしまうものだろうか。それは勿論、復興された風景にも言える。しかしそれ以上に、自分自身の気持ちに対してのほうが強かった。
 未だに、神戸の地や震災関連のニュースを、生理的に避ける私がいる。それなのに、伯父の家があったその場所に、動じなくなってきている私もいる。忘れたくても、忘れられない思いに苦しむ一方で、忘れまいとしながら、忘れかけている自分が恐ろしかった。人間の記憶って、こんなものだろうか? それとも、私は何かを封じ込めているだけなのだろうか。
 そうなった理由の一つに、戯曲があると思う。震災後、言葉にならない様々な思いに潰されそうになっていた私は、それを戯曲に書くことで、内面の均衡を保っていたところがあった。それらは、上演される当てのない、自分のための作品のはずだった。
 その第一作目は、震災で蟻のようにたやすく命を失い、混乱の中で、葬式も出せなかった伯父一家への思いを綴っている。全身全霊を傾けて、思いを吐き出した作品だった。それが、ある戯曲賞で最優秀作品に選ばれ、平成十二年以降に上演されることになった。
 また第二作目は、震災の際に、様々な人の、様々な反応の間で感じた、気持ちのずれを書き表した。人の何気ない言動で傷ついたことを、ぶつけた作品だった。
 それが、ひょんなことから昨年(平成十年)末に、大阪で上演された。戯曲は、自分の元にある限り、私のものだ。けれどもそれが一旦、上演となると、演出家、役者の手に渡り、観客という多くの人の目にさらされることになる。私は、目の前で繰り広げられる自分の作品を見ながら、どこか遠い、違う世界のもののように感じていた。あの、必死でもがいていた私は、どこへ行ったのかと。戯曲を書く以上、上演されることは、この上もない喜びだ。しかし、それと同時に、私のものではなくなるということを意味していることも知った。
 その一方で、その作品は、上演前に新聞で取り上げられたこともあり、思いもかけぬ人達が来てくれた。中でも、亡くなった伯母の弟さんが来てくれたことには驚いた。なぜなら、伯母達の納骨の日に、伯母の兄弟達と私の家族との間で、ちょっとしたいさかいがあったからだ。
 伯母は父の兄嫁なので、私とは直接に血のつながりはない。まして伯母の兄弟達とは、たまに顔を合わす程度で、深いつきあいはなかった。それが、震災のために席を同じくした私達には、それぞれの思いにずれがあったのだろう。些細なことで、互いに気分を悪くしていたのだった。そのため、それ以来、私の中で 伯母の兄弟に対するこだわりがあった。それなのに、私の書いた芝居を見た後、私のところへやって来た伯母の弟さんは、登場人物に伯母の姿を重ね合わせて、涙を流していた。それを見た私も、涙で言葉が出なくなった。どんなことがあっても、伯母を亡くした悲しみは互いに同じなんだと、改めて感じた。
 伯母は、私とは血はつながっていなくとも、同性ということもあり、伯父一家の中では一番近い存在だった。第一作目の戯曲の元となった十分間の作品が、震災から三年目の頃にテレビで一部、放送されることがあった。亡くなった伯母が、主人公だった。その翌日、家の庭にマフラーと毛糸の帽子が落ちていた。我が家の庭には、犬が二匹も放されているうえ、道路からは階段と二重の柵で隔たっている。家族以外のものは入ってこられない場所だ。不思議に思った母と私は、それらを手にとって調べてみた。すると、小さな縫い取りで、伯母の旧姓があったのだ。伯母の旧姓は珍しいので、私達は伯母以外にその名を知らない。間違いなく、落ちていたものは伯母の物だった。母と私は、伯母が何らかのメッセージを伝えているのだと思った。それが何であるかは知る術もない。けれども、それがこうして今の私へと繋がっているのだと、私は信じたい。
 震災から数年は、新しいことなど、何も受け入れられないと思う私がいた。それが四年たった今、私は予想もしなかった様々なことを経験し始めている。それは「希望」とはほど遠いものだ。それでも、震災を通じて歩み始めることだって出来るのかもしれないと、少しは思えるようになってきた。
千歳飴 元橋 紀久子(三十三歳 主婦 大阪市鶴見区)
 あの日はもうすぐ出産を控えて興奮していたのだろうか。いつもなら絶対に起きない時間に目が覚めた。初めて聞く音の後、大きな揺れを感じた。地震だ。
 上から何も落ちてこない場所を探し、三歳の息子を引き寄せる。ぐっすり眠っていた息子は、少し目を開け私の顔を見るとまた、眠ってしまった。夫は階下で寝ている両親に声をかけた後、テレビをつけ周囲の点検を始める。
 その間、私は息子を抱きしめたまま震えていた。ショックで陣痛が始まりませんように、頭の中はただそれだけ。息子を帝王切開で生んだ私は、一週間後に次の子も予定日より二週間早く帝王切開で生むことになっていた。自然分娩するのは怖かった。
 陣痛は始まらず、その日は一日中ぼうっとテレビで神戸の惨状を見ていた。
 二日後実家の母から電話があった。「粉ミルクはいくつ買ったの」と。
 息子のときは母乳で充分間に合ったので一つも買っていなかった。
 「もし母乳が出なかったら入院中に買ってきてもらえばいい」と話すと、
 「あちこちの店で粉ミルクが売り切れているから、もしものときのために買っておいたほうがいい」と言われた。
 慌てて何軒かの店に行ってみると確かにない。売り切れの情報を聞いて一斉に買い占めたこと、救援物資として何缶も買って被災地に送る人がいること、多くの店が注文したため問屋も発送が間に合わず交通事情も悪い今、いつ入荷するかわからないと店の人から説明された。仕方なく更に何軒かの店を回り、三缶だけ確保した。
 被災地の人には申し訳ないが、この辺りの赤ちゃんのために今はミルクを送るのをやめて欲しい。被災地には他の所からも届くのだからと真剣に思った。
 用意万端、神戸に住む知人も無事だと分かりほっとしたのもつかの間、別の心配事が出て来る。あの時ほどの揺れではないとは言え、まだときどき余震がある。
 「もし手術中に地震が来たらどうしよう」、頭の中を神戸の崩れた病院の映像がよぎる。この不安は前もって何かを準備することも何かで紛らわすこともできないまま手術の前日、つまり入院の日を迎えた。
 病院に着くと病室が満室のため分娩室横のベッドしかないと言う。一度帰って翌朝来てもいいと言われたが、寂しいのをけんめいに堪えて送り出してくれた息子のことを思い、そのまま入院した。被災地で出産予定の人が近隣の病院へ、その病院で予定していた人が満室のため別の病院へという具合になっているのだろう。
 翌日手術の前に、夫と息子と母が来てくれた。点滴をつけ車椅子に乗った私を見て顔の引きつった息子に「赤ちゃんを先生に出してもらって来るからね」と笑って言ったが、内心手術中に地震が起きませんようにと冷や汗をかいていた。
 結局何事もなく、長男より少し小さな男の子を出産。その晩十一時過ぎ看護婦さんが「そろそろ麻酔が切れますが痛くありませんか」と巡回に来て聞いてくれた。その日手術した私達二人はそろって「大丈夫です」と答えたのだが、それから少しして、余震が起きた。
 ほかの部屋から新生児室に走って行く足音が聞こえ、私達は悲鳴を上げた。最初赤ちゃんが心配だったが、赤ちゃんは先生や看護婦さんが助けてくれるだろう。でも私達は。個人病院ではエレベーターはない、二階にいる私達は病院の外へ出ることができない。すでに揺れは収まっていたにもかかわらず、頭の中には壊れた病院の映像が浮かびパニックに近い状態だった。
 ふと気がついて、持ってきた携帯ラジオをつけると震度三だった。この前までは震度三でも大騒ぎをしたが、震度五を経験し、震度七の惨状を見た今は少し安心してしまう。叫んだせいかひどく痛みだし、駆けつけた看護婦さんに鎮痛剤を入れてもらい、イヤホンでラジオを聞きながら、そのままいつの間にか寝ていた。
 数日後、新生児室まで歩く練習をした。息子に早く会いたいと思ったのは本当だが、私を歩かせているものが他にもあることも感じていた。ベッドに十二人並んだ赤ちゃんを見ると、ほとんどの子が予定日より早く、三千グラム以下で生まれていた。地震のせいだろうか。
 母乳も充分出て、三缶も買うことはなかったと思いながら十一日後退院した。
 そして今年の秋、お宮参りの時とはすっかり変わった中山寺で、兄のスーツを着た次男と夫が手をつなぎ、以前はなかったエスカレーターに乗っていた。反対の手に千歳飴を持って。
娘への手紙 山中 隆太(三十九歳 コンサルタント 東灘区)
 あの頃はまだ四歳になったばかりだったね。ベッドの半分を覆った本棚が目に入った時、お父さんの息は一瞬止まりそうだった。そしてかけより体中をさすって怪我がないか、夢中で確かめたんだよ。「助かったから、運がよかったでは済まされない」という気持ちは死者の数が増えるにつれどんどん大きくなっていきました。
 ほんの数センチの違い、ほんの数秒の差が幾千もの生死をもてあそび、生かされた側にいる自分達の存在の意味を考えずにはいられなかった。今日元気だから明日も元気だろうという延長線上の生き方はできなくなった。健康でいても、良い行ないをしていても、それは寿命とは関係ないのだと思うようになった。今日を生きようという思い、今日を生きている喜びはあの日に芽生えたような気がします。
 きっともうあんな大きな地震は少なくとも君が生きている間は神戸にはこないと思う。それよりも事故や病気の方がずっと恐ろしい。以前はそんなことなかったのに、お父さんは地震がきっかけで死というものを、ものすごく身近に感じるようになりました。
 それは四年たった今も変わらず、明日も元気に目覚めて欲しいと君の寝顔に毎晩のように祈ります。手を握らなければ安心して眠れないお父さんの癖はいつになったら直るんだろうね。
 この間久しぶりに地震直後のビデオを見たね。大阪のおばあちゃんの家にしばらくお世話になっていてときどき片付けに帰っていた時の一こまです。神戸で何があったか、地震がどれほど恐ろしいものなのかを覚えていてほしくて、手を引いて瓦礫の中を歩きました。
 小さかったからほとんど覚えていなかったけれど、今はたこ焼き屋さんが建っている場所で若い男の人が亡くなったことや、本山第二小学校にたくさんのテントがあって家をなくした人達が暮らしていたことを興味深く聞いていたね。
 君の記憶のかなたに霞んでいたものが少し蘇ったような気がしました。ビデオを見たおかげで忘れかけていた部分に新たに記憶の刷り込みができたようです。こういうことを繰り返すうちに、君が大きくなった時に小さな頃の地震の体験を誰かに話せるようになれば嬉しく思います。語り継ぐことが、貴重な体験をした私達の義務だと思うからです。
 もうこのあたりでは地震の話はほとんどしなくなったし、日常の会話にふさわしい題材ではなくなりつつあります。世の中のどんな出来事も人が興味を持つのはほんの短い間です。でも震災を風化させないためにいろんな人が多くの努力をしていることも忘れないでいてほしいと思います。
 君が小学校に入学してからもさまざまな行事がありました。プレハブの講堂で入学式をして、その年の秋までは運動場の真ん中に建てられた仮設の校舎で授業を受けましたね。だからしばらくの間は走りまわる場所がなかったのでつらかったと思います。はじめての運動会は近くの中学校を借りて行なわれました。そして十一月新校舎が完成し、みんなで引っ越したね。それまで使っていた仮設校舎はあっという間に取り壊されました。
 「中に入ると、なんかすごくきれいですごくひろかったです。たいいくかんはきれいで、花恋はびっくりしました。校舎がこんなにきれいだと思いませんでした。楽しそうでした」
 新校舎についてのその頃の作文です。希望をいっぱいにふくらませ、できたての校舎を探険した様子がよくわかります。そして平成十年四月に運動場も完成し、また子供達の賑やかな声が戻ってきました。すべてが新しくなったけれど、震災前と大きく違うことが一つあります。運動場の一角にログハウス風の震災資料館ができたことです。
 ちょうど四年を迎える頃、二年二組全員でそのログハウスに行き、先生のお話やその時の様子を聞かせてくれたね。地震が起きた時刻をさしたまま止まった時計、高速道路やマンションが崩れた写真、そして亡くなった四人の生徒の写真。いつまでも忘れないように、神戸で起こった悲しい出来事を心に刻むためにログハウスは建てられました。これから入学してくる子供達は地震を知らない世代ですが、それでも毎年こうして語り継がれていくのだと思います。お父さんはとても大切なことだと思います。
 また地震のことを話そうね、地震を知らない弟にも話してあげようね。
 この間お風呂で歌ってくれた「しあわせ運べるように」という歌にとても感動しました。最近の朝会でよく歌うらしく、見せてもらったプリントはぼろぼろでした。この詩にあるように毎日を大切に生きていこうね。
 ずっとこの町で暮らしていきたいね。
私の十大ニュース 匿名・女性(二十八歳 無職 栃木県那須郡)
 毎年、年末に報道される「今年の十大ニュース」を見ても、自分には関係のないことと客観的にとらえていた。しかし、四年前の震災を体験してから、いつ自分の身に降りかかってくるかも分からないということを味わった。そして、すべてのものに対して驚くことがなくなってしまっていた。
 震災後、さらに私を襲った離婚と昨年の東日本の集中豪雨は私の十大ニュースの一、二、三番目を一生決定づけてしまう出来事となった。
 私は地震の前年の結婚を機に、長田区五位ノ池町に住んでいた。そこに起こった暗闇の中の突然の衝撃は地震によるものと認識するまで時間を要するほど激しいものだった。人々の叫ぶ声、人を探す声が飛び交っていた。夜が明けると落胆の様子が行き交うすべての人の顔に刻まれていた。
 頭に傷を負った老女が私にすがって言った。「この歳になってまで、どうしてこんな目に遭うの。家と一緒に潰されてしまえばよかった。もう生きたくない。生きていたくない」。そんな人と絶望の空気で道路はいっぱいだった。
 それから一カ月、水と食糧の配給を受けて避難生活にも慣れた頃、向かいのアパートから人が飛び降りた。家も子供も失った六十四歳の女性の自殺だった。その人は近くの小学校に避難していて、そのアパートの住人ではなく、落ちた所は人の家に駐車してあった車だった。自分の命を絶つ場所を捜し求め、実行してしまったその人の心情は計り知れないとしても、他人に迷惑をかける自殺には疑問を感じた。自殺された家の人が血のついた車と地面を掃除している光景はとても気の毒で、思わぬ二次災害に遭ってしまったと、自殺した人に対してより同情した。
 私は傷だらけの人を見ても、死んだ人を見ても涙は出なかった。危険な建物の中や横を歩いても恐怖心がなくなっていた。水を求め、食糧を探し、生きることに必死で、自分の感情を出す余裕もなかった。
 報道されることはなかったが、大勢の人が自殺した。自分のことだけを考えて自殺できる人はうらやましかった。私には家族があり、何よりも愛する主人がいた。主人の経営する会社は借金状態で、何とかやりくりしていた所への災害だったので、再建の見込みはなく、生活は苦しい日が続いた。いっそ死んでしまった方が楽になれると思った。今までの当たり前の生活がどんなに幸福なことだったか、今さら分かってもどうしようもない。
 それから三年、崩壊した神戸には仕事はなく、借金は増え続けた。時間がたつほど夫婦生活にまで影響を及ぼした。それは、人の心までも蝕み、とうとう夫婦の絆にも破綻をきたした。災害は生活だけでなく、人の心も変えてしまうことを思い知らされた。これも二次災害になるのだろうか。
 そして私は何もかも失ってしまった。生きる気力がない。生きている意味が分からない。物も食べたくない。何も考えられないはずなのに、当時の出来事が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる。眠りにつくことさえままならなかった。
 どうしてよいのかわからないままに栃木県の那須に昨年七月移り住んだ。ときの流れに逆らわず那須の自然に身をゆだねているといつの間にか食事が喉を通るようになった。眠れるようになった。そんな中ふと空を見上げると空が青いことに涙がこぼれた。木はそこに、ただあるだけなのに、生きているんだ。そんな当たり前のことに感動し、涙がとめどなく流れた。私には手がある。足がある。目もある。自分の体を眺めた。自分がただここに生きていることに喜びを感じた瞬間だった。それから少しずつ自分というものを取り戻して生活できるようになった。
 そんな矢先、八月二十六日、二百年に一度と言われる洪水にあった。夜通し鳴り響く雷と豪雨で家の隣の川は氾濫し、辺り一面濁流が流れ、遠くで救助の声はするが、避難することすらできなかった。家と一緒に流されてしまうと思った。不思議と恐怖心はない。このまま死んでもいいと思い、眠りについた。
 翌朝私は生きていた。
 そして私は自分の体を見回し、生きていることの喜びを再び感じた。水の流れる音の中、かすかに差し込む朝日に感動し、涙が溢れた。自然の織りなす美しさを味わうことができた瞬間だった。
 自然は私を何度も苦しめたが、人があまり気付けない、本来当たり前だと思ってきたことに感動する心をくれた。
この先、私に何が起ころうとも、この気持ちを忘れないで、生きていきたい。
 今私は二十八歳。たとえ、私の十大ニュースの上位三位を変える出来事が起こったとしても、ほんのささやかなことに感動できる気持ちを、ただ生きていることの喜びを深く心に刻み、前を向いて歩いていく。その気持ちを失わないことが、私の心の復興だ。
 今あるささやかな幸せを、一人でも多くの人に感じて欲しい。振りかかってしまった災難に落胆するより、今身の回りにある幸せに気付いてそれを大切にしてくれることを私は願っている。
母の死 森 美佐子(二十八歳 主婦 大阪府枚方市)
 私の実家は淡路島にあり、金光教の教会である。私は高校卒業後、大阪で就職し、結婚した。
 阪神大震災で実家は半壊した。潰れた側と、無事だった側と、真っ二つに裂けた。潰れた方の建物は川に面しており、下が納屋で、その何本かの柱が上の家を支えていただけの、全く基礎のなっていない建築だった。
 両親は潰れた方の家で寝ていたが、幸いその日は、朝六時からの御祈念のため、五時ごろに起きたので無事だった。父は潰れた方の家で用事をしていたので生き埋めになってしまったが、これも幸い右手首骨折だけですんだ。
 私は翌日実家に帰りその光景を見て立ちすくんでしまった。あまりにもひどい。家がない。ショックが大きすぎて声が出ない。さらにゾッとしたのは両親が寝ていた布団の上に梁が落ちていたことだ。両親が生きていることが奇跡的に思え神様っているんだとも思えた。
 その日から復興に向けいろんな事がスタートした。父は右手が使えないため、すべてが母と姉二人の肩にのしかかる。私は週末に帰ることしかできない。途方に暮れながらも唯一の救いは、みんなが明るかったことだった。とくに母は「どうにかなるよ」的な性格だったので、苦しいときでも笑顔は消えなかった。
 時が過ぎ、少しずつ復興が進み、家の建築も始まった。このころから急に母の髪の毛が白くなったような気がする。
 震災から一年、私の結婚が決まった。九六年十月十二日に結婚式。家のことも気になりつつ、衣装合わせなど、大まかなことを決めていく。九六年六月十五日、大阪で相手方の両親と顔合わせをし食事をした。家の復興、私の結婚式、すべて順調なように思えた。
 ところが五日後の六月二十日、父が倒れた。脳内出血だった。一命はとりとめたものの左半身に麻痺が残った。
 この時から、母の肩にあらたに父の看護(病院通い)という重圧がのしかかってきたのである。八月初旬、父の病状が平行線のため、結婚式はキャンセルし九月中旬に入籍した。
 父の入院中に家は完成した。結局父は一年近く入院し、九七年四月に退院したが、食事以外何もできない。寝起きも下の処理も自分でできず、すべて母の手を借りなければならない。
 父の介護という重圧がまた新たにどっしりと母の肩にのしかかる。
 その年の八月、私は長女を出産した。
 「帰ってきて生んでもいいよ」という母の言葉に甘えることは出来なかった。これ以上母の仕事を増やしてはいけない。結局大阪で出産し、二カ月後長女を連れて実家へ帰った。これがまさか母との最後の別れになるとは知らずに。
 同じ年の十一月、二番目の姉が結婚した。今まで山あり谷ありだったけどみんな幸せだった。母も幸せだったに違いない。家事、教会のこと、父の介護と多忙な毎日の中での孫の誕生、娘の結婚は、少しでも母の気持ちをいやしてくれたと思いたい。
 そして震災からちょうど三年目の九八年一月十七日の早朝に母が倒れた。父と同じ脳内出血だった。病院に運ばれたときには意識はなく「あと二、三日の命です」と宣告された。手術の出来ない場所が出血し、どうすることもできないらしい。今まで一番がんばってきた母が、何故こんな目にあわなければいけないのか、信じられなかった。
 母は意識が戻ることなく一月三十日の早朝、息を引き取った。六十二年という短い人生だった。この時は神様の存在を否定した。
 震災からの母の心労は計りしれない。母の死をすべて震災のせいにはしないが、少なからず影響はあったように思う。震災の日から何かが少しずつ狂い始めたような気がしてならないのだ。震災がなければ今でも明るい母は生きていたと思ってしまう。
 早くも震災から四年。復興は進み新しい家が建ち並び、道路も整備され、明石海峡大橋も開通した。明石海峡大橋の完成は母もとても楽しみにしており、「橋が出来たらミサちゃんの家にもすぐに行けるなあ」なんて言っていた。
 あんな大きな地震があったとは思えないほど町には普通の生活が戻りつつある。しかし私の家族の一月十七日の傷は、一生消えることはない。
妻への供養 藤田 宗義(六十三歳 無職 大阪府八尾市)
 私は地震まで、西宮市五月ヶ丘に三十四年間住んでおりました。
 震災で同年三月に八尾市高安町北に替わりました。十六室居住マンションです。最初は一階に私と家内、二階に長男夫婦と孫二人が住んでいましたが、子供達だけ八年の夏に近くに新築しました。
 なぜこの方面に来たかと申しますと、長男の嫁の実家が近鉄長瀬駅近くにあり、この近くは地震も少なく何かと都合が良いからです。
 震災当時私は地元でいろいろと役員をしておりました。被災地では(上ヶ原公民館)百八十人のリーダーとして活動しておりました。もちろん家は全壊です。
 四日目にふと家内の方に気を向けて見ると随分弱っておりました。吹田市の方に実姉がおりまして、そちらに一度避難しましたが日々に悪くなり同月二十五日に三田市国立病院に入院、半年を経て何とか退院できました。私は公務員でしたが体調を悪くして五十八歳で退職、勤続三十八年でした。第二の職場は西宮甲子園の方でした。
 八尾市では初めてのマンション生活です。鍵一つで外出するのも便利ですが上階の雑音に少し悩みもあります。六月に三田病院から退院した妻が再び体調を悪くして同年十月に大阪府立羽曳野病院に再入院しました。平成八年十二月末日に退院したものの翌年一月二十九日朝容態が急変し病院に入る手前でそのまま息を引き取りました。
 その後家内の病気について調査を願い、一万人に一人という、肺にカビが入りどんな薬も勝てない悪い病気だと分かりました。被災者で震災死の場合二百五十万円が支給される事を知り、いろいろと調査をして頂き、やり取りの末(西宮市との間、約半年かかり)再入院は該当しないとの返事でした。震災で即死の場合は金が入り、苦しんで苦しんで多額のお金を病院に払い、この点については今でも納得いきません。家内は犬死にも等しい思いです。今私が言っている事に該当する方々は多くあるのではないでしょうか。
 その後私も甲子園までの通勤が負担になり近くのJRの駐輪場で働いておりましたが、家内の死亡で心身共に疲れて働く気になれず、一年八カ月で退職して一年間何もしないでおりました。
 私は若い時から卓球が好きでした。今は毎週西宮中央体育館に通い、仲間との交流を楽しみにしております。
 昨年十月より午後の四時間程度、警戒員として西宮駅近くに勤めております。
 震災五年目に当たる今年一月十七日に妻の三回忌も終え、私自身も毎月一回は病院で診察は受けておりますが、六十三歳、まだまだこれからだと思っております。妻を失うという大きな心の痛手はありましたが、これからも周りの人たちの励ましを支えに元気で明るく人生を送って行きたいと思っております。又子供や孫達に心配をかけない様に、毎日を感謝して前向きに生きて行く事が妻への供養になると思います。
 私の住んでいるマンションは高安西小学校の北側ですので、孫(男、二年生)の元気な姿を見、又幼稚園に行っている孫(女、年少組)の元気な姿をときどき見ながら、おじいちゃんおじいちゃんと寄ってくれる、これが今は一番の幸せです。
 私は現在までに三度死にそこなっております。三十一歳の時、勤務中(外交)に急性かいようで救急車で入院、五日間生死分からず。二回目は震災日二階の天井で頭を打ち二十分間気がつきませんでした。三回目は同じく二月六日、交通事故で半年間ムチ打症で通院。現在もまだ少々痛みがあります。
 交通事故の時、よくもあの時死亡しなかったと今でも不思議です。ある人が言いました。今はお墓も満員ですよ。昔のことわざにあるが、二度ある事は三度あり、もう私にはないと思います。この気持ちで毎日感謝をして長生きをしたいと思います。
運 命 匿名・女性(三十一歳 主婦 東灘区)
 震災をきっかけに結婚しました。突然、夫を両親に合わせることになったのは、震災の起こったその日でした。
 夫の家は全壊し、私の両親と妹が暮らしていた家も半壊しました。私が住んでいたアパートだけが無事だったものの、電気が一番最後に復旧した東灘区にありました。二月から私と妹が生活するつもりで借りていたこのマンションが、夫と両親、私たち姉妹の避難所となり、ここで生活したことが、結婚を決定することになりました。
 半年後、両親は四国の実家に移り、私と夫は、夫の友人のマンションを借りて、妹は私と住む予定だったマンションで独り暮らしをはじめました。地震がなければ一緒に生活し、家賃も半分支払う予定でした。このことは今でも申し訳なく思っています。
 でも、だからといって、妹に家賃を払うお金はありませんでした。働いていないからお金がありません。地震がなければ私は新しい仕事を始めていたはずでした。
 無一文で嫁となった私に、夫の両親は何も言いませんでした。ただ、将来墓を守ってくれるようにとの思いで、受け入れてくれたようです。私も頑張っていこうと思うだけでした。
 地震から二年、結婚二年目に、神戸市の特別優待マンションが借りられました。そして、新しい生活が始まると同時に子供を授かりました。体調があまりよくなく、八カ月頃から入院し、帝王切開で女の子が生まれました。入院が長かったので費用がかかりましたが、夫の両親が半分以上も支払ってくれました。しかし、恩着せがましくすることもなく、退院後も大変お世話になりました。
 でも私はつらかった。それは私の両親からの援助がなかったからです。お金の面だけではありません。私の退院後、一日もわが家に泊まって孫の世話をしてくれませんでした。
 震災後、郷里に帰った両親は、無人の古家を内装するために、貯金のすべてを使ってしまいました。持病のある母は、何を思っていたのか? 父は何を考えたのか? 将来のことを十分に考えたのでしょうか。ぼけてしまったのかと思えるほどお金を使ってしまいました。
 ついに、妹にまでお金を借りていたのでした。何も知らなかった私は、激しい怒りで身体が震えました。もっと早くに気づいていれば、もっともっと連絡を取り合っていればと、反省するばかりでした。
 孫にお祝いもできないほど苦しくなって、産院でなにもできないと言われた時、ああ、地震さえなければこんな情けないことにならなかったのにと思い、悔しくて泣きました。そして、そのことがきっかけになって、私は両親に対して、不信を募らせました。妹には本当に申し訳ないが、もっと早くに教えてほしかったと思いました。
 それから母は、人工透析が必要な身体障害者となったため、治療費の負担が軽くなり、なんとか年金で生活ができるようになりました。孫に何か買ってあげたいと、電話でいろいろと言ってきますが、私は「妹にお金を返してからにして」と冷たく言ってしまいます。
 こんな親に夫からの援助を頼むことはできません。まして、夫の両親が聞いたらどう思うでしょうか。
 結婚も引っ越しも、あまりに急なできごとだったので、冷静さがなかったと思います。震災当時の生きているだけでよかったと言う気持ちも薄らいで、欲がどんどん大きくふくらんでいます。お金があれば、妹にも、バカな親にも援助ができます。そして、私もほしいものがたくさん買えます。
 でも、それではあまりにも夫に申し訳ありません。夫は家計に責任を持ち、私にお小遣いをくれるので、決して生活に困るわけではありません。私は安心していればよいのですが、私の親や妹のことを思うと苦しいのです。
 夫の親とは震災のことは話題にもなりません。夫も、もはや過去のできごとと思っています。でも私は、あの震災がなければ、運命はまったく変わっていたのではないかと思ったりします。
 ただ、授かった子供は、心から感謝して育てていきたいと思っています。
満ち足りて 大堀 美重子(五十二歳 味噌・漬物製造販売業 長田区)
 地震の年に大学受験した長男が今春卒業するのです。
 長男に就職のことを尋ねると「このことは聞いてくれるな」「友達も次々面接に行ったけどアカンらしいわ」などと話しますから少しは就職活動しているのかなと安心していましたのに、全くその影すらないのです。
 世の中、大企業倒産、合併、リストラなどと大不況のどん底です。
 震災の上に厳しい就職難です。
 何の技術もない者がそう簡単に職につける訳もありません。
 親も何の手助けもしてやれません。
 地震で全焼した菅原市場の中の小さな小さな大堀漬物店は不況の影響をもろに受けています。私の住んでいる御菅地区は、区画整理事業にかかっていて震災五年目に入った今でも換地も決まらず周りは更地がいっぱいです。
 家族五人食べて行ける状況ではありません。親は早く社会に出て自立してほしいと願うだけなのです。

 春は過ぎ、夏も去り、秋が終わりました。
 度々聞くと怒るし、気をもんでいた日々でした。
 ある日、知人が「ご長男の就職は決まりましたか」と尋ねてくださいました。
 「まだなんです、どうするつもりなのか困ったものです」と答えるしかありません。
 「それでは本人と直接話しますから」とバイト先に携帯電話をしてくださいました。
 その日、長男は上機嫌で帰ってきました。
 その方は非常に忙しい方なのですが、会社側の都合のよい日に合わせて面接にも立ち会ってくださるとのことです。
 何だか神様からの使者のように思われました。
 数日後、長男は締め慣れないネクタイを何度も締め直し、リクルートスーツに身を包み、最高のおしゃれをして、面接に出かけました。
 三時間に近い面接は緊張しっぱなしで、こちこちだったとか。
 「えー、君。そうだったのか」
 「君、どんなに感じたか、何か言ってごらんよ」
 「ウー、フー、ンー」
 ため息ばかりで言葉になりません。
 初めての経験でしたので相当パニックに陥っていた様子です。
 同席してくださった知人は、席を立っての挨拶のタイミングをはじめ、ときどき合いの手を入れてくださったりとても気を遣ってくださったようです。
 二、三日して、早くこちらから返事をするようにと長男を促しても、なかなか決心がつかないみたいで、
 「行く、行かないかは僕の考え一つや」。偉そうなことばっかし。
 そうこうしている時、親戚の叔母に「えっ、清太郎君まだ就職決まっとらんの。ええ話やないの。返事は三日以内やで」と言われ、あわてて会社に連絡をしたのは、面接から一週間後でした。
 その後数回人事部の方や社長さんとの面接に出かけました。
 なぜ今まで就職活動してなかったのかと何回も尋ねられたそうです。
 本人の気持ちも固まり、決定したのが、十二月十五日。やれやれと胸をなでおろしました。

 「ボランティアをしていてよかった」と実感していました。
 去年の夏ガールスカウト、ボーイスカウトの全国大会のお手伝いに十日ほど行っていたのです。
 卒業論文は阪神大震災をテーマにした「大震災の爪跡」だそうです。
 教授から「読んで感動した。就職先に持って行きなさい」とおほめの言葉をいただき、最高点をつけていただきました。

 次男が成人式を迎えました。
 三年間預かっていた高校生のヒマワリ娘(編集者注 第4巻参照)が志望大学に合格しました。
 今年は本当に素晴らしい年が迎えられ、この上ない幸せをかみしめています。
輝く子供たち 批榔 妙子(三十九歳 主婦 芦屋市)
 震災直後の学校で、子供達は価値観が根底からひっくり返された日々を送ったに違いありません。
 運動場は駐車場になり、仮設のトイレや自衛隊のお風呂や、給水車が並び、体育館では多くの人が寝泊まりしている。一日中ボランティアのお兄さん、お姉さんがいて、放課後いつまでも遊んでもらえて、また、先生は夜中まで学校にいました。
 震災前だと、学校での宿泊は許可が下りなかったし、子供会などで校庭や施設を利用したくても、申請や手続きが必要でとても遠い存在に感じていました。
 地震で多くの地域の人が学校に集まりました。大人も、子供もお年寄りも。こんなにも人がいたのかと思うほどでした。そしてそんな中で一番輝いていたのは子供たちでした。普段の学力重視の価値観では気付かなかったような良いところが、どんどん出てきます。いっしょうけんめいに水くみをする子、お年寄りに優しい子、自分で考えて行動し、大人を手伝おうとする子などです。
 また、子供の周りにも、親、地域、学校が一体となった関わりができて、まさに理想的な環境だと思うほどでした。
 しかし六月が過ぎ、避難者が仮設へと移り、ボランティアの人たちが去った後、急速に学校生活が元のリズムへと戻っていったあたりから、特に高学年の子供達の様子が変わったように思います。  集中できない、フワフワしている、そして時に反抗的な目をする。
 いじめや暴力も、ひそんでいるようで、二学期頃には授業が成り立たなくなるクラスも出てきたほどです。
 そして、それは子供たちが大きく成長する時期と重なることもあり、中学へ行ってからも不安定な心をかかえているように見受けられました。
 色々な価値観があることを知った子供たちには、矛盾が見えてきたのではないでしょうか。
 そして大人はそれに対して明確な答えを示すことができないのではないでしょうか。
 さらには、その子供たちを覆う無力感が刹那主義的な行動を支配しているのではとも感じました。
 そんな折り、市の教育講座で「子供の心のケア」がテーマのお話を聞き、その中で子供が本来持っている力を引き出そう(エンパワメント)という考えに出会い、強くひかれました。「人は誰でも安心して、自信をもって自由に生きる事ができる」というメッセージがあり、そのためにできることを子供たちと一緒に考えようというのです。そして、そのためのプログラムがあるということを知り、何とか子供たちに受けさせたいと考えました。
 今こそ大人がその人生をかけて「いっしょうけんめい生きることは素敵なんだよ」「一人ひとりは無力でも私達にはできることも沢山あるよ、しなくてはいけないことも沢山あるんだよ」と伝えなくてはと感じました。
 その後、同じ思いの親達で子供会や、PTAに働きかけました。ちょうど神戸市須磨区の事件の時期と重なったこともあり、共感を集め、そのプログラムのワークショップを開くことができました。
 それをどれくらい子供たちが理解しているのかは、計ることはできません。我が家の子供達もまだまだ思春期真っただ中で、不安定な心は相変わらずですが、少しずつ落ち着いてきているように感じます。
 昨年の夏休み長女が灰谷健次郎さん作の「太陽の子」という本を読み、その読書感想文の中で「死んでしまったお父さんは、ふうちゃんの心の中で、ずっと生き続けているのです。私は自分の心の中にはどれくらいの人が生きているのだろうと思いました。そう思ったとき、命とはどんどんつながっていくということを感じました」と記してあるのを読み、とても心が熱くなりました。
 子供たちが震災で生かされた命の重みを知り、心豊かに逞しく育つよう、今後も応援していきたいと思います。
学年だより 長谷川 美也子(五十一歳 高等学校教諭 須磨区)
 阪神大震災から三年、我が勤務校でも全校をあげて黙祷した。一周年の時と少しずつ受け止め方も違ってきている。全壊、解体そして再建のエライ目に遭ってきた私でさえそうなのだから、他の地域の人のそれは推して知るべしだ。
 三年前の一月十七日、十八回生のスキー野外活動を一カ月後に控えていた。いろいろ協議したが、中止やむなしとなった。その三年後、平成十年一月十八日、二十一回生はスキー野外活動に出発した。職員は三年前の出来事や、当時の生徒の思いなど忘れたかのように準備に走りまわり、生徒も嬉々として列車に乗りこんだ。月一回の「学年だより」もスキー特集号と銘打って、出発前に各担任の雪にまつわる思い出を綴ったものを出した。
 三年前の一月十六日にはH先生が徹夜でワープロを打ち、印刷にまわすだけとなっていた。それなのに、翌朝の震災で「幻の学年だより」となってしまった。一年後の卒業文集の一ページを飾るまで、H先生のファイルに眠っていた。「スキーのしおり」冊子も須磨寺商店街の小さな印刷店が倒壊したため、土埃にまみれてしまった。
 今回の「学年だより」スキー特集号は無事に発行できた。三年前の苦労をともにした担任も今の学年団には何人かいる。けれども、震災にふれた文章を書いたのは、H先生と私だけだった。示しあわせたわけでもないのに、あの時の生徒たちにスキーに行かせてやりたかったという思いを二人とも綴った。あの時、中学生であった今の生徒は、何の憂いもなく出発できる幸せをかみしめていたであろうか。
 マスコミのとりあげ方も変わってきている。私の記憶違いかもしれないが、震災一年目には午前中はもちろん、午後九時ごろまでテレビ各社は特集番組を放映していたと思う。それが三年たつと、一月十六日の夜から十七日の深夜にかけて放映されている。ビデオに録画しなければ、普通の人は見られない。起きていて見よと言われるかもしれないが、明日の勤務を考えれば不可能だ。
 十七日の番組の取り上げ方も、一年目と比べて特集番組がめっきり減った。十八日からスキーに出かけた私はよくわからないが、おそらく一本も関連の番組はなかっただろう。
 テレビ局の態度に憤慨した私ではあるが、そういう私は何を見ようとしているのかと考えた。十八日からの野外活動の付き添いを考えると、とても徹夜は出来ない。ビデオに撮れば帰宅後に見られるが、あいにくビデオは故障していた。他の人に録画を依頼するのは簡単だが、そうまでして私は何が見たかったのか。結局、第三者の目で悲惨な出来事を見直したいという好奇心に似た気持ちだけではないのか。
 我が家はお陰様で多くの人々の助力で、元の生活に戻っている。先祖のお陰と毎夜、仏壇に手をあわせている。だから、余裕を持って傍観者の目で画面を眺めているのではないだろうか。夜のニュースの一部に仮設住宅の暮らしを取り上げた番組を見ても、かわいそうだ、気の毒だとは思う。しかし、何もしてさしあげられない。震災から一年ほどたった頃、北海道の豊浜トンネルで大事故があった。あの時もテレビの実況中継があった。すごいなあと巨岩爆破の様子を暖かい部屋で見た。あの時も、同じ気持ちだった。人間とはそういうものかもしれない。自己嫌悪に陥る時がある。
 仮設住宅に住まう人にインタビューする番組がある。現状を伝えるには欠かせないとは思うが、さて、それを見た私には何が出来るのだろう。マイクを向けた記者さんは、その後、何をしてさしあげたのだろう。
 聞いていると、ほとんどの人には息子も娘もいる。肉親でさえ仮設から親を引き取れないのに、私のような他人に何が出来るのか。
 識者やカウンセラーが実態アンケートをとっているが、それが何につながるのだろう。私も一度、どこかから回ってきたアンケートのたくさんの問いに回答した。「学者」から返ってきた結果のばかばかしさにあきれ果てた。だからどうしてくれるの、だからどうなのと問い返したい。もっとも、この件に限らず私はカウンセリングなるものが普段から嫌いなのだが。
 私たち名もない普通の人間が今なしうること、それは震災を忘れないことだ。一月十七日に一人ひとりに起こったこと、それにまつわる喜怒哀楽を忘れないことだ。震災関連の記事、書籍があれば立ち読みでもよいから目を通す、それくらいは誰でもできる。できれば、つたなくとも何年たとうともその時の思いを文章にしてみることも風化を防ぐ方法だと思う。
 スキーも終わった。私たちが神戸からの団体と知っていて、震災に触れた話をバスガイドさんがされた。「私たちにとって八月六日(原爆投下の日)と、一月十七日と、六千四百三十は忘れてはいけない数字です」と言われた。
リストラ 匿名・男性(五十歳 無職 兵庫区)
 平成七年一月十七日、火曜日は、奇しくも仏滅であった。
 私は仕事に向かう車の中、ラジオのニュースでそのことを知った。その時は千葉県市川市で息子二人と暮らしていた。
 神戸には老いた父母が住んでいた。父との確執によって疎遠になっていたが、先日、母との電話で話をした矢先のことだった。
 早々に仕事を終え、食い入るようにテレビにかじりついた。横転した阪神高速道路、線路ごと落下した高架、さけた道路から噴き上げる水、無惨に折れたビル、押しつぶされた住宅の前で泣き叫ぶ若い男性、助け出されて座り込んで動こうとしない老女。体育館に転がる遺体、病院は野戦病院化し、紅蓮の焔が長田、兵庫区の街を襲う。電気、水道、ガス、電話、交通等のライフラインが、一瞬にして失われた地獄絵がテレビに映る。
 「ウチは無事やった」。母から電話が来たのは翌日の夜。テレビには、空襲後のような不気味な黒煙が神戸の街を包み、数機のヘリコプターが上空を舞っている。「電気はすぐに点いたけど、水とガスがアカン」と母は嘆き、「風呂の水を汲み置きしておいたから、大事に使っておるわ」。食料を聞くと、
 「おにぎりや弁当が支給されとるし、年寄り二人やからなんとかなる。心配せんでもいいよ」。
 母の元気な声に安心したが、テレビの映像は壮絶を極め、評論家たちが一斉に国や行政、政治家や役人の無力を唱え、連日連夜論じ合っていた。

一月三十日・月曜日。
 「まだ水とガスが使えんから大変や。給水車に貰いに行くんやけど、この歳で水の入ったポリ缶持って、毎日、四階まで階段を上がるのがしんどい、寿命が縮むわ」と、母が電話で笑い、こぼした。
 母が倒れた! 十二月十二日の早朝だった。湊川にある病院のICU室で、母は駆けつけてきた私と二人の孫を、優しい笑顔で迎えてくれた。
 「震災時の無理が心臓に負担をかけた」担当医はそういって、「ここ四、五日がヤマ」と付け加え、私を見た。担当医の予告通り、入院して五日目の深夜、ICUから出ることもなく、正月を迎えぬまま、母は逝った。心筋梗塞。七十四歳。
 神戸に生まれ育った父は、神戸を出ることを頑として拒んだ。だが私が神戸に戻ることは大変な暴挙で、現在の役職をほうって、一から生活基盤を築くなど、それは私にとっても、途方もない困難なことだった。
 しかし暴飲がたたり体の不自由を余儀なくされ、手足となり尽くしてくれた妻を失った父は今、家事さえもままならない。そんな父を千葉から傍観しているわけにもいかず、神戸に仕事があるとの保証もないままに、私は三十年ぶりに、九歳と十五歳の息子を連れて神戸の地に戻ってきた。
 とにかく、そうして新しい生活が始まったのだ。クラックの入った道路、傾いたままの家屋、復旧工事の騒音の中での生活。次男はそんな環境にも馴染み、日々を新しい友達と元気に過ごし、私と長男は、震災景気で成り上がったという小さな建築会社に就職した。
 だが、このころすでに神戸の建築業界は低迷に陥っていたという。「震災で十年仕事があるとタカをくくっていたが、二年でこのざまや、復旧が早すぎたんや。この先潰れる会社が増えよる」人々は不安を口にした。震災後建築業者が雨後の筍のように増え、震災の前年に比べ倍以上という。それら「にわか建築業者」が希少な仕事を奪い合い、互いの足を引っ張り、潰し合っていると。
 私の勤める会社も他業者同様の経営難に全員(といっても九人)の減給、いっさいの手当なしを余儀なくされ事業主任以下、三名を残し全員がやめるという醜態。もっとも、事業主の人格という問題もあったのだが。
 以前にもまし横暴になる経営者について行けぬと、私の息子が神戸から姿を消し、消息を絶った。そして昨年の暮れ、そんな私にも、仕事がなくなった。ていのいいリストラであった。
 港や繁華街の美観はもどりつつも、一方裏に入ると、倒壊した建物が撤去されただけの更地、公園や造成地に建ち並ぶ仮設住宅。きらびやかなハーバーランド、ルミナリエ。しかし、その横の路地には、今日も失業者達が混迷の中を徘徊する。
 震災前、住みたい町として、いつも名前が上がっていた神戸、それは遠い遠い日のことのようだ。正月を迎え、私も五十一歳。この歳になり、混迷する不況の中、果たしてもう一度出発出来るのか。神戸にさえ戻ってきていなければ、との思いがよぎる。
 神戸にいて、あの悲惨な震災を受けた人々は、まぎれもなく直接被災者である。しかし、私どものような震災による間接被災者も存在するのである。
 「あの震災さえなければ」と思う気持ちは同じである。神戸の街にすっかり根付いた十二歳の息子の未来のために、明日のために。
 がんばろう被災者! がんばれ、神戸!
たんす 匿名・男性(三十八歳 会社員 東灘区)
 町の景観はそれなりに新しくなり、人々の気持ちも仕事にレジャーにと向かい、震災の話もあまり出なくなった。周囲の人がクールに見えるのは気のせいなのか。
 僕と妻はいまだにテレビや小説の感動的な場面に胸が詰まって涙が出る。店の人や観光客になんだか妙に人なつこく話しかけたり、社会ってこれでいいのだろうかと、ひどく思いつめたりする。僕らだけ心の復興から取り残されて、あの時のままなのだ。
 自分達の町のことにしても、たとえば、仮設住宅にボランティアに行ったなんて言うとすごく高尚な趣味に見られる。ひび割れた歩道に転んだ人がいればみなが手を差しのべ、まちには「神戸が好きやから頑張る」のメッセージがあふれていた。震災後の「誰かの役に立ちたい」という不思議な高揚感は、あっけなく震災前のレベルに戻った感じだ。きっと仕事に家庭に趣味に、みんな自分のことで手一杯なのか、クールだ。あの温かだった「神戸マインド」はもう消えてしまったのだろうか。

 僕と妻はあの日、御影の自宅で寝床に倒れてきた大型洋服だんすの開いた両扉の中にすっぽり収まる形で助かった。たんすは激しい揺れに何度も倒れては起きを繰り返した。その都度観音開きの扉は開閉したのか、六カ所ある鋼鉄製の蝶番は砕けていた。自らの両腕を床に何度もついてへし折って、僕らを守ってくれた。
 自宅周辺では大勢の人が瓦礫に埋もれたのに、自分の手で救出に関われたのはたった一人。自分の力ではどうにもならない瓦礫の山ではあったが、あまりの無惨さに腰も引けていた。「なんでもっと頑張れなかったか」という無念さは今も心を離れない。
 その日から近くの避難先で親兄弟知人八人が家族となって暮らした。僕は大阪に勤務していたが、たんすに家族の絆をもらったような気がして、家族が安全な状態になるまでは被災地を離れる気がしなかった。女手が多かったことやあまり救出の役に立てなかったこともあって、出社や疎開で大阪に向かう人達を尻目に地元に留まった。
 そこで得たのは、家族労働、地域労働の原点だった。坂の町での水の調達は男でも大変だ。女は汲んで来た貴重な水の一部を使って効率的に洗濯をしたり、食事を作ったりした。余震の恐怖、日没後に訪れる闇の恐怖、日々汚れていく身体、男は女や高齢者を守り、女は風呂に入れなくても笑顔を見せた。人間関係に疲れることもあったが、みんなが地域や家族の一員という意識を持った。
 一週間後、一時間半かけて瓦礫を乗り越え、西宮北口まで自転車で行き、そこから阪急で出社した。被災者であっても問答無用に業務を優先させる気運が満ちていた。被災地以西に住む社員の多くは自腹を切って大阪にマンションを借りた。大阪ではきちんとスーツを着て身なりを整え、通常の営業活動をしなければならないからだ。滅私奉公の姿は賞賛された。
 僕が震災後すぐに出社しなかったことは、好感を持たれなかった。神戸と大阪と言うより、地域と企業のギャップを感じた。職場は通常業務と神戸方面の営業支援とで昼夜もなく、修羅場のようで、一旦復帰すると離れられなかった。被災地は戦場のようだったが、ここは軍隊のようだった。
 大阪から西に向かうと渋滞でその日のうちに帰社できない。もし西宮北口駅の雑踏に自転車を置いて盗まれたら、御影に戻れなくなる。もし大きな余震がきたら二度と家族に会えなくなるかもしれない。死ぬときは家族と一緒にという思いがあった。ここでは風呂もあり、食事も不自由しないが、毎日何時間かかってもみんなの元に帰りたかった。
 上司に懇願して深夜、暗闇の中を瓦礫を乗り越えて帰り、また翌朝西宮まで自転車をこぐという具合だった。あるとき、終電車後に西宮まで歩いていたら、ミニバイクの人が西宮北口まで乗せてくれた。ありがたさに涙が出た。
 あちこちの避難所での活動も命じられた。内容は被災者支援だが、目的は企業宣伝である。ロゴの入った看板や幟を避難所に立て、救援物資を配布するときは必ず企業名を名乗るよう指示された。避難している人の写真を撮って、安否を気づかう知人に郵送を代行するといった、いかにもな企画も行なわれた。どこの企業もやったことだが、生活復旧後のため今、恩を売っておこうというものだ。
 大企業なので避難所では信用される。ご苦労様と労ってくれる避難者もおり、被災者の魂を売るような気がして、努めて高齢者や子供の話し相手など仕事以外のこともした。企業宣伝と救援活動、企業人と生活者のはざまで、やるせない思いを抱きながら働き続けた。たんすがくれた家族や地域への思いは、以後深まるばかりだった。
 はからずも震災で、企業社会が地域社会に優先される日本のシステムを見た。
 神戸、阪神間の住民は大半が勤め人だ。さらにその大半が大阪に勤務する。せっかく大きな犠牲や地域での得がたい経験をもって自分達の町を考える機会を得たのに、企業を中心に回る社会はその余裕を与えてくれない。企業に乗っかっている以上は、地元より大阪の会社の方が優先されるのはしかたないことなのか。町にビルが無造作にいくら建とうが、仮設や復興住宅で独居老人がいくら死のうが、町の人全体の問題にならないのが残念だ。
 あのとき多くの人がこれまでと価値観が変わったと言ったのに、日本は神戸から変えなければいけないと言ったのに、結局企業中心社会に神戸の心は押し流されたのだろうか。
 それなら、僕ら夫婦だけでもあえて、心の復興はしないでおこう。あのときの神戸の心のままでいよう。あれ以来、僕らは残された生の時間を逆算して考えるようになった。あとどれくらい生きて、その間何ができるのか。そしてたんすがくれた命を家族と一緒に有効に使い切りたい。さらにはその一部を自分を生かしてくれた神戸に捧げることができたならと思う。三十代も最後となる今年は、一念発起のチャレンジをしようと思っている。
 たんすはわが家の絆として、蝶番は割れたまま、大切に使っている。
スケープゴート 山根 洋子(五十歳 養護学校教諭 東灘区)
 震災からもう三年八カ月がたった。地震で、自宅も勤務先の中学校も全壊した。当日、出勤はしたものの、娘(当時高校二年生)を自宅近くの小学校に避難させたままでは勤務する訳にもいかず、一月十九日の朝、阪急岡本駅から徒歩で線路伝いに西宮北口まで出た。そこから大阪までは阪急電車が走っていた。
 武庫川を通り過ぎると別世界で、昨日までの神戸でも見られた普通の景色が目に入り、何が現実で何が夢なのか判断がつかなく、めまいがするような気持ちになった。大阪に着くと自分の身なりと駅の構内を歩いている人たちの服装の違いに恥ずかしさを覚え小さくなっていたことを思い出す。そして、その日の夜遅く山陰の実家にたどり着いた。
 当時、一般の人がそれぞれどのような見通しを持って行動していたのか知る由もないが、私は二年や三年はもう神戸では生活できないのではないかと判断した。今思うとそれは明らかに間違った見通しであって外見は神戸の町は立派に復興している。そして、自分自身も神戸の学校で毎日普通に勤務している。
 なぜそんな判断をしたかというと、ひとつは私が激震地に住み、勤務校も近くで同じく激震地区だったからだ。唯一の情報源であるラジオも死者数十名などと実数と明らかに違うような報道をしているのを聞き、マスコミすら情報を集められないくらいひどい被害を受けたと思ったためである。
 しかし、ある意味では私の判断が全くはずれたものでないことも事実である。最初六カ月と言われた仮設住宅は、まだ神戸市では残っていてそこに住む人が大勢いる。
 私の住んでいたマンションは、部屋の割り当てについての話し合いが長引き、平成十年八月ようやく着工となった。
 今まで七階建てだったマンションが公開空地を大きく取られ十四階建てになる。竣工までには一年数カ月かかるという。
 私が元の住居であるマンションに戻れるのは震災後五年をはるかに過ぎた時期となる。
 こう考えると、二、三年で何とかなるという見通しは甘いくらいである。こんな判断をしたため、震災後しばらくは戻れないと娘を実家の近くの高校へ転入させた。また、私自身は、職場に出なければと仮住まいの場所として大阪の借家を探して移った。半年間そこから職場に通った。転入、借家探しに数日かかったため、被害のなかった上司や同僚より出勤が遅れてしまった。そのことが私の心にいまだに尾を引くほど大きな心の傷の原因となった。
 つまり、出勤が遅れたのは自分自身のことばかり考えて、職場がどんな状況かも知らず好き勝手な行動をしていたからだと言われたのである。同じ職場には持ち家が全壊した人は二名だけだったので、被害がなかった上司や同僚にはこちらの状況を全然理解してもらえなかった。
 また、被害がなかったにもかかわらず初日から勤務しそこなった上司のあせりもあってか、何が何でも全員出勤すべきだという考え方一色に職場は染まってしまっていた。そのような中で、遅れて出勤した私は上司からは罵倒され、同僚の何人かからは冷たい視線を受けたり、仕事の協力を拒否されたり、数千冊もある図書館の本の荷造りを一人でするよう仕向けられるなどの扱いを受けた。
 家という大きな財産を失い、近所付き合いをしていた友人たちも散り散りになってそれだけでも大きな喪失感を感じ心の痛手は大きかった。その上、このような冷たく意地の悪い職場での数カ月の生活は私の神経をずたずたにするほど身にこたえた。
 ついに九五年の十月に病気休暇を取ることになった。このときも上司は「医者が診断書を書くんやったらしょうがないやないか」、「しんどかったんはお前だけやない。みんな疲れてたんや」と休んだことを非難するような物の言いようだった。このような扱いを受けた悔しさは、いくら親友でも同じ職場にいなかった人にはいくら話してもわかってもらえなかった。カウンセラーに話してもむなしさが残るだけで、自然と自分の殻に閉じこもるようになった。もう元の職場に戻ることは避けたいと思った。
 運良く九七年四月に養護学校へ転勤と同時に職場復帰することができた。今は、今までとは全く違った環境の中で仕事に専念できている。しかし、心の中に固まりのような物を持ったまま表面上は忘れたように装って過ごしていた。
 そんな時、『今、まだ、やっと…』が出た。その中に教員の「復職」とある。きっとこの人なら私の思い、そして考え方が、話が通じるに違いない。同じ視点で物ごとを見て考え話ができる人が存在するならば何としても話をしたいと思った。「阪神大震災を記録しつづける会」にお願いすると、まず手紙で問い合わせてみてはどうかと言われた。手紙を出すと、しばらくたって電話がきた。
 勤務する市は違うが同じ学校の教員だ。同じように震災後病休を取らざるを得なかった辛さなど、私の話すこと全てを理解してもらえ、相手の方の話されることがツーカーで通じた。
 「あなたは、決して間違っていません」と言ってもらえたことで、今までのどんなカウンセラーや医者の言葉よりも私の心を軽くすることができた。
 震災後、、いろいろな立場の人の「心のケア」だとか、行動マニュアルなどが研究されまとめられているが、避難所となる学校の教職員についてまとめられたものはない。
 美談はあるが、現実は美談だけでなく私のような例もある。いわゆる私のような立場は心理学で言われるスケープゴートであったように思う。おそらく私のような思いをした教職員は少なからずいるはずである。
 物理的な被害の記録だけでなく、このような心理的な被害の記録もするべきではないだろうか。物資などのことだけでなく、人間の行動も含めた災害時のマニュアルが作られなければならないと思う。
 また教育委員会も震災による教職員の病休などの資料を公表してほしい。また、私の勤務校の上司のような、上司としての資質に欠ける職員のチェックもしてしかるべきだと思う。震災後、教頭から校長へと昇格させるなど、いかに現実を見ていなかったかがはっきりわかる。
 さまざまなことで教育界は非難されている。その一つの原因はこのような教育界の体質にあるのかもしれない。子供を一人の人間として大切にしない教職員(上司)は同僚も大切にしないのである。
4 心
おっちゃん 後藤 妙子(五十二歳 主婦 埼玉県浦和市)
 阪神・淡路大震災のテレビニュースを、チャンネルを換えながら一日中見ていた。被害の大きさに夜になっても興奮はおさまらない。何かをしなければ、私にできる何かを。夫はシンガポールに出張中だった。有り余る時間を困っている人々に提供しようと思っても、良い方法が思い浮かばない。仕方なく京阪神に住む友人、知人に安否を伺う葉書を書いた。
 翌日、その葉書を簡易書留で出したくて郵便局に行くと、「ただ今、すべての物資の輸送が乱れています。配達が可能なのか、受取人が所在地におられるのか、不確かな状況ですので保証できませんが、よろしいでしょうか」と聞かれた。
 丁寧な説明を聞いていると、郵便屋さんに迷惑をかけるようで気がひけたが、自分の気持ちの高まりを鎮めるためには、投函した事実を作る以外に方法がなかった。
 神戸市兵庫区荒田町に住んでいるおっちゃんからだけ、四日も過ぎたのに何の連絡も入ってこない。おっちゃんと気安く呼んではいるが、私達がシンガポール駐在中にお世話になった人であり、夫のゴルフ仲間であって血縁関係はない。
 神戸の消防本部に電話をして火災が発生した場所かどうかを尋ねると、被害の状況ははっきりしないが、火災で焼失した場所ではないことは分かった。
 地震から五日目の午前十時ごろ、やっとおっちゃんから電話が入った。
 「Fです」
 「エー。生きてたの」
 「今ね、郵便やさんが外でFさーんと、大きな声で」
 おっちゃんは嗚咽で声が続かない。
 「怪我は、食事は、お金は」
 「怪我してまんねん。パン一個」
 「そんな所にいないで、こっちにおいで」
 同じ日の夜、今度は出張に出ている夫から国際電話が入った。夫は地震のニュースを出張先で知り、毎晩浦和に電話をかけていたが、直通番号でかけたにもかかわらず、オペレーターが「ライン イズ ビジー」と言うばかりで繋がらず、心配していたそうだ。
 おっちゃんはその日の夜中に、杖をついて背中にリュックを背負って我が家に着いた。電話をかけ終ってすぐ、線路も道路も寸断された神戸の町を、痛めた足を庇いながら歩きどおしで港まで。港から順番を待って船に乗り、大阪港まで。地下鉄で新大阪駅に出て、新幹線で東京駅まで来たら、京浜東北線がまだ走っていたので、駅で一泊せずにそのまま我が家まで来たとのこと。
 それにしても、郵便屋さんの責任感には頭が下がる。全壊してしまったおっちゃんの家は無人になっていた。たまたまその日、泥棒が横行しているという噂が広まり、おっちゃんが取り出せるだけの貴重品を探しに戻っていたわずかな時間に郵便屋さんが名前を大声で呼んでいたそうだ。
 疲れを癒した数日後から、おっちゃんは逃げ出すときに痛めた足の治療のために外出するようになった。おっちゃんから今後の身の振り方など何も聞いてはいなかったが、私はそのわずかな時間を利用して、浦和市役所や埼玉県庁に出向き、他県での被災者の公的受入態勢を尋ね歩いた。市や県の対応は素早かった。公的住宅の空家に、優先的に一年間は無料で入居できる準備が整えられていた。これでおっちゃんの気持ち次第でいかようにも対応できると私は安堵した。
 ところがおっちゃんは通院の帰りにハローワークに通い、職住併合の寮の管理人の仕事を見つけて、浦和を後にした。
 おっちゃんがいなくなってから、日本赤十字社の義援金一律十万円の分配が開始された。神戸市役所に手続きの方法を電話で問い合わせると、罹災したときの市町村役場の窓口まで来てくださいとの返事だった。私は怒った。すぐに当時の国土庁長官の部屋に直接電話を入れ、不合理な受取方法を改め、全国の赤十字社で義援金を受け取れるように善処してくれるように陳情した。三カ月後、おっちゃんの銀行口座に義援金は振り込まれた。
 おっちゃんは、私達が帰国したときには神戸の文化住宅に一人で住んでいた。六十歳に手の届く年齢では定職も見つからなかったようだ。
 おっちゃんは、二年程寮の管理人の仕事をしていたが、寮の閉鎖に伴い、失業した。戻ってきたのは我が家だった。痛めていた足は十分に治療を受けなかったらしく、庇って歩く姿勢が椎間板ヘルニアを誘発し、目は白内障で失明寸前の痛々しい体で帰ってきた。もう職探しをする意気込みもなかったし、神戸に戻る体力もなかった。一週間、二週間と同居が続くうちに、私はおっちゃんと定年退職した夫との三度三度の食事作りに疲れが出た。
 おっちゃんの自活は無理のように思えた私は、浦和市の高齢者福祉の職員に相談した。
 おっちゃん、ごめん。特別養護老人ホームでしばらくお世話になってちょうだい。
 本当にごめん。
これでいいのだ 加藤 克信(三十三歳 会社員 伊丹市)
 震災からもう、何十冊の本を読んだろう。
 ざっと目を通した雑誌も含めると三百冊ぐらいになるだろうか。避難している会社の八畳の寮の部屋で、哲学、心理学、法律学、小説、マンガなどを読み、あれ以来、どういう言葉を使って正確に自分の被災の悲しみを表現すればいいのかを探し続けてきた。
 その中で私の心に引っかかった単語が、「甘え」と「正当防衛」であった。
 地震で家を失っていない人は、家を失った人に仮設住宅が用意され、わずかな義援金をもらえたことについて、「被災者は甘えている」と厳しい言葉と共に、自立を促そうとしている感じがある。悲惨な出来事にあっている人の中にさえ、そういう人がいる。
 私も震災で国や会社にどっぷりと甘えさせてもらった。私は七歳で母を、二十歳で父を亡くし、天涯孤独になった。そして、失業、大失恋と、われながらなぜ生きているのだろうと思いつつ、地震まで時を過ごしていた。そして、震災で唯一の取り柄の我が家をも失った。
 だが今回だけは特に助けを提供してくれる場所があることで甘えさせてもらっている。しかし、本当は甘えていないのである。やむを得ず甘えているだけで、自立したいのだ。
 そう、あのときみんな、自然のもたらす残酷さに唖然としてなす術を失い、日本人特有の自然観からくるあきらめによって、悲しみを心の深くに沈めようとした。だから、その悲しみの代償と生活の見通しの支えに、せめて甘えさせて欲しいという感情が生まれた。間違いの始まりは地震だ。
 しかし、ここで問題となるのが、各人自分の地震以前の人生で、特に幼児期に甘えられたか、甘えられなかったかの個人差だ。それが震災の心の癒し具合に影響を及ぼし問題を起こしていると思う。今回の震災を機に、甘えられなくなった子供たちの悲しみも忘れてはならない。
 甘えを昔から必要でなかった人は、震災を通過点とできるが、甘えることができなかった人は、この震災での甘えの恩恵にあずかろうと、その対象を家族や夫婦そして県や国へと自分の要求を叫び続けていくのである。そして、その叫びは恐らく永遠に続くのだ。
 心理学者の土居健朗氏は、「甘えはまさに愛憎一如そのものなのである」と言う。愛(愛着や自分が好き)や憎しみ(恨みや妬み)の感情があいまって、甘えさせて欲しいと繰り返す。今回の甘えが終わっても、また、これからもどこか、だれかに訴え続けるのだろう。
 しかし、その訴える原因として、私は被災者は甘えさせて欲しいのが原因ではなくて、地震という不意の事故から自分達の生活を守りたいという「正当防衛」を原因とし、どこかに、だれかになんとかして自立できる道を作って欲しいと、訴えているような感じがする。今回の甘えは、刑法36条でいう「急迫不正の侵害に対して、自分又は他人の権利を防衛するための、やむを得ない行為」である、正当防衛なのではないだろうか。
 やむを得ずに避難して、義援金を懇願した。一旦はあきらめようとしたが、半年たって急増した火災保険の訴訟や賃貸借契約の訴訟などは、被災者が甘えずに自立するための、悲しみを含んだやむを得ない反撃行為であると痛切に感じる。
 自立するために初めに甘えがあり、その甘えを叫ぶ手段として悲しみを含む正当防衛があると考えるが、逆に世間はその叫びに困惑し、被災者を疎外し風当たりが強くなる。やはり、今でも被災者は何かに傷つけられているのである。
 その何かとは、外的なものだけではない。地震以降に各自の目の前に現れた、前途多難な人生への想像にも精神的に落ち込まされている。地震以前に心に闇を持っていた被災者には、自分の内なる情景を映し出した町の崩壊が再建されていく今、前途多難な闇にますます侵食されている。
 引っ越しにしても、新しい家具を買うにしても、ローンにしても、人生の中で二、三度経験すればいいことを、この二、三年で、破綻しないように計画し、実行に移さなければならない。それを、考えて想像するだけで、落ち込む。しかし、世間の人には実感できない。
 地震から三年目に伊丹市の公団が当たった。寮を出て、再建された西宮市の香炉園のマンションを手放し、自分に「これでいいのだ、よくやった」と言い聞かせている。
 「甘えるな」とか「自分を正当化するな」とか、被災者も自分自身を傷つける必要はない。世間も、もう一度震災当初の同情とまでもいわないが、絶対に見捨てないという暖かいまなざしで見てほしい。そして、私を含め被災者が、いつか震災を通過点と受け入れ、自分の中に潜む甘えや闇と上手につき合い処理しながら納得し、晴れ晴れとしたよい空気を吸えるようになることを強く願う。
孤 独 川畑 守(五十三歳 警備員 中央区)
 「死」は究極「孤独」である。
 最近新聞紙上に「孤独死」が載るのが目立つ。特に仮設住宅に住む働き盛りの一人暮らしの男性(五十歳代)に「孤独死」が多い。この言葉は今まであまり見かけなかった言葉だ。
 なぜ孤独で死んでゆかねばならなかったのだろう。私も震災後五十歳を過ぎてから、「孤独生活」を三年半してきた。幸いにも自宅は一部損壊で全壊を免れた。私の一人暮らしの朝は、コーヒー一杯で朝食を済ませ、あたふたと仕事に出て行く。持ち家だったから、家賃はいらなかったが、震災前からの商売の借金が残っていた。それを返済する責任がのしかかっていた。いやおうなしに働かざるを得なかった。
 商売人からサラリーマンになるという、「脱サラ」の逆だった。だからストレスが多かった。タバコも震災前は一箱ぐらいだったのが、軽く、二箱あくようになった。ガードマンというだいたい一人で、一日中立ち仕事が多い職業なので、よけいにイライラが多くなったせいかもしれない。同じ値段ならロングサイズを買い、とにかく節約、節約だった。タバコもアルコールも贅沢だが、やめるとストレスが溜まり、気が狂ってしまいそうだった。
 昼飯はコンビニか弁当屋さんでまかなった。出来合いの物ばかりだ。だいたい五百円までに抑え、お茶とコーヒーは魔法びんに入れて毎日持参した。毎日のことだったから、馬鹿にならない。きりつめた。
 好きな晩酌のビールもスーパーで最低の値の発泡酒を一ケースでまとめて買った。普通のビールと発泡酒では値段に雲泥の差があった。とにかく安く酔えりゃよかった。飲めるだけ幸せだと思った。
 孤独に耐え切れずに「電話魔」になった時期があった。ガランとなった家で一人でいると、夜になると人が恋しくなって、小さな黒い電話帳を片っ端からめくり、人の声を聞きたくて電話をかけまくった。アルコールで紛らわそうとしても、酔えば酔うほど人恋しくなった。
 昼間は仕事をしているから思わないが、帰宅して夜が深まるにつれて言い知れない孤独が忍び寄ってきた。
 「誰かと話したい。あいつはどないしてるんやろ、声が聞きたい」。自分が地震後ここにこうして生きているよと、自分の存在を証明したい気持ちが心の底にあった。深夜遅く時を忘れてかけ、怒鳴り返されたことも度々だった。一人でいると、孤独というさびしさが毎夜襲ってきた。小さな物音にビクッとして一人が恐ろしかった。
 そんな孤独を癒してくれた一つは音楽だった。ボリュームいっぱいにしてクラシックから演歌まで、一人涙を流しながら聞いた。音楽は苛立つ心を和らげてくれる。心のふるさとへ導いてくれる。まるで母のように慰めてくれた。悲しみ淋しさに沈んでいく自分の心をやわらかく暖かく包みこみ引き上げてくれた。誰も相手にしてくれなくても、自分には音楽があった。
 もともとカラオケが好きで、毎日のように歌っていた。音楽を友としよう。その思いが募って、それじゃ自分で作詞してみようと思った。カルチャーセンターの「作詞教室」をみつけ入会し、今も続いている。また、震災前「小説教室」へ行った経験もあったので「文章教室」へも行った。どちらも大変だった。これらに加えて、地震前から新聞会館のKCC「合気道教室」に通っていた。三宮の新聞会館はなくなったが、めげずに長田教室へ通った。そのお陰で今は黒い帯を締めている。
 とにかく「孤独」から逃げるのではなく、孤独の壁をぶち破り、積極的に外へ出て、自分の好きなことをした。その間に、人は社会的存在ゆえに、いやでも知らない人々と交流せざるを得ない。
 月二十万円にも満たない給料だが、家計をきりつめて、家に引きこもらず外へ出た。早や三年、もう三年。
 人は夢や希望を持たなければ生きて行けないのではないか。その日その日を流されるままに生きて行くのは「生きる屍」でしかない。
 私は「孤独」に打ち勝つために常に積極的に外へ外へ出て行った。落ち込んで弱気になる自分を自分で叱咤激励し、自分の心に火をつけ続けた。じっと一人考え込んでいては死んでしまう、発狂しそうだった。
 人間は常に孤独な存在だ。「死」は突然前ぶれもなくやってくる。その日まで。
敷き布団 北川 京子(五十八歳 ヘルパー 中央区)
 震災から四年が過ぎたといっても、神戸の表通りが、年々建て替えられ模様替えされただけの気がします。その反対に、人の心の奥がどう変化していっているかなど、ほんとうは誰もわかりはしないでしょう。震災直後は必死だったから、動けるだけ行動できたのですが、昨年後半には心身ともに病み、通院を余儀なくされました。いろんな事がありすぎたのです。
 同世代の人は、意欲はあるが体の方がいうことを聞かないなどと言っています。しかし、このときの私は意欲もわかず、動く気持も生じませんでした。
 思えば、平成七年の大地震に遭い、その後自らの胸元を、徐々に閉じていく羽目になってしまったのです。
 平成七年四月、やっと、母たちは避難所からポートアイランドの仮設に移りました。しかし、母は仮設をつなぐ大通りをわたる際、大型トラックがひっきりなしに通るので、さけようとして転倒し、大けがをしました。その上市民病院で両目の手術もしました。苦しみのあまり屋上に上がり、死に場所を探したりして、看護婦さんに迷惑をかけました。全快しないまま退院し仮設に戻ったのですが、現在また入院しています。
 平成八年暮れ、母の主人が八十一歳で急死しました。それ故に翌九年は毎日のように、母に呼びつけられました。歩行困難のため通院介助を必要とします。その上、思考不明確な状態なので、なにもできません。その他、買い物、生活の細々したこと、書類の解読、手続き等役所通いなどの世話を抱え込む羽目になりました。
 平成十一年の一月の早朝、私は仮設の人からすぐに来るようにとの連絡を受けました。仮設にひとり居てもらっては迷惑になると言われ、即刻その日、半強制的に入院することになったのです。長期受け入れの所はどこにもありません。役所や病院にいろいろ相談しているのですが確実な回答は今も届きません。
 年金で病院代をまかなっていますが、介護保険近しとのことで、役所や病院の言っている内容がはっきりせず、どうなっているのか見当もつかず困っています。住所も一応引き払っているのですが、元の仮設の所なので、支援金はもらっていません。
 病院から特別老人ホームの申し込みをするように言われました。しかし、役所の紹介した特別の方は無理といい、老人ホームの面接を受けました。その後連絡はありませんが、その時が来ても、母が老人ホームで集団生活をする能力があるのか、私は疑問です。
 今にして思えば、私の震災後の離婚も、時代の流れと歴史の変わり目の大きな壁に、運悪く遭遇したような気がします。震災後、昼夜を問わず続いた無言電話は、昨年の暮れで止まりました。別居している子供達のために電話番号は変えないことにし、自らを的にして頑張りました。そして負けませんでした。苦しみは自分一人で十分です。
 でも昨年末頃より、私は徐々に体調を崩していったのです。老人や障害者の介助の活動をしているのに、自らの心身が病んでしまったことに、この上なく意気消沈してしまいました。人に話せば楽になると、よく言われますが、本当に大きな悩みや苦しみに直面したときは、幸せそうな周囲の人を見ると、一人で口をつぐんでしまうものです。
 私も、住んでいる木造文化住宅が、先日上にあがってみて、震災直後よりだいぶん傾いているのに、大変驚きました。我が家の部屋の壁はすすけて茶色に変色しています。その四隅は隙間が目立つので、震災以後ガムテープを貼り続けているのです。天井などにはたきをかけるとたるんだ天井板が今にもベリッといいそうです。何もしなくても、この四年間天井からは少しずつ埃が落ちてきています。
 地震の直後から、生きていることは、すばらしいことなのだと思いこもうとしていました。しかし、新しい年を迎えるごとに、これから先の残された時間をどう生きるべきか、大きな問題だと思われてなりません。
 昨年病気の時は、重い布団を敷いて寝てみました。だが三日坊主でした。人並みに敷き布団の上でのびのびと落ち着いてゆったりと眠る気にはどうしてもなれないのです。いまだに衣服を着けたまま、体を丸くして横になり目を閉じます。何時、いかなる時、何が起こっても、どんな知らせを受けようとも、手早く対処できるようにとの思いからです。それもそのことが、今はそれほど、苦痛ではなくなってきております。
震災とストレス 匿名・女性(三十五歳 学童保育指導員 東灘区)
 あの日から四年。今年も黙祷から始まる朝が来た。同じ被災者の中にも、この四年間を短かったと感じた人もおられるだろうし、とても長く感じた人もおられることだろう。「神戸の街」としては確実に復興していってはいるが、それは、あくまでも表面的なものであり、まだまだ個人としては、なかなか復興にこぎつけられない被災者も多い。仮設住宅の入居期限が今年の三月まで…ということだが、まだ行き先の決まっていない世帯が一二〇〇世帯程あると新聞に書いてあった。家がないのは、もちろん困る。だが、全員が恒久住宅に移ったからといって、全て復興したと言えるのだろうか。

 私の家も全壊だったが、ありがたい事に平成八年末に元の住所に家を再建することができ、平成九年初めには新しい家で人生の再スタートをきることができた。まだ仮設住宅に住む人が多い時期、私達は順調にスタートをした様に思えた。

 最初に体調が悪くなりだしたのは、引っ越してからわずか半年後の、その年の夏だった。それまでも、震災後はずっと「不眠症」と「便秘」に悩まされていた私だったが、この時初めて「喘息」というものを経験した。病院の先生に
 「震災後、空気が悪かったからでしょうか」とたずねると、
 「それもあるかもしれないけれど、震災のストレスにも原因があるかもしれないね…。震災後、大人の喘息の患者が増えたんだよ」と言われて驚いた。

 その後、何度となく喘息を繰り返していたが、昨年の夏には、今度は体中に「湿疹」ができた。私は元々肌が弱く、虫さされ等でかぶれやすかったので「またか…」と思っていたのだが、みるみるうちに広がって胸も背中もおしりも手も足も湿疹だらけになってしまった。最初は近くの皮膚科で診てもらっていたのだが、薬を飲んだり塗ったりした時だけ少しおさまり、薬が無くなるとまたひどくなるので、総合病院に行ってみることにした。総合病院では、
 「病巣感染かもしれない」と言われ、耳鼻咽喉科と歯科で検査を受けたのだが、原因は見つからなかった。その後、知人から良く診てくださると評判の皮膚科を紹介していただき、アレルギー検査をしてもらったのだが、結果は全てマイナス(陰性)だった。
 「やっぱり原因はわからないか…」と内心がっかりしていると、先生が、
 「あなたは震災の時はどうでしたか」とたずねられた。
 「家は全壊で、私は生き埋めになってましたけど…」と答えると、先生は、
 「震災のストレスだと思いますので、ゆったりとした気持ちで、のんびり過ごしなさい」とおっしゃった。
 たしかに、私にとって震災から今までは、あっと言う間に過ぎたと思う程慌ただしかった。避難所、仮設住宅、文化住宅、現在の家と、転々と引越しをした。その時は、生きていくのに精一杯で一生懸命頑張ったのだが、コロコロ変わる環境に「心」と「身体」がついてこられなかったのだろう。こんなに身体が悲鳴をあげる程、ストレスがたまっていたと自分でも気付かなかった事が、本当に不思議だった。
 震災の時は、私と同じ様な経験をされた方は数えきれないぐらいおられると思う。その方達も多かれ少なかれ、私のように身体の不調を訴えておられるのだろうか。特に、他の人になかなか不調を気付いてもらえない一人暮らしのお年寄りが気にかかる。

 県も市も、被災者が恒久住宅を確保したら、それで震災の事後処理が終わったと思わずに、被災者の「心と身体の復興」を見届けて欲しいと思う。

 その後、私は…と言うと、できるだけのんびり過ごす様に心がけ、食事と運動に気を付ける様にしている。そのおかげか、最近は少し便秘がましになったように思う。不眠症は相変わらずだが、部屋の電気をつけっぱなしにしているとなんとか眠る事ができるので、一晩中電気をつけて寝る事にしている(真っ暗になると地震の時を思い出して眠れなくなるので…だから昼寝はOKです)。湿疹は一時に比べると少しはよくなった様に思うが、半年たった今でも、身体中に気持ち悪いほどある。これが治るまでは、温泉にも海にも行けないだろう…。喘息は、ありがたい事にこの四カ月程は出ていない。思わぬ震災の置き土産達にとまどっている私だが、気長に心と身体を治していこうと思っている。
 一月十七日、午前五時四六分、たくさんのロウソクの前で、亡くなった方々の冥福と被災者全員の心と身体の健康を祈った。

 全ての被災者が、元気に、笑って暮らせる神戸にもどりますように……。
告 白 若松 貴也(十九歳 学生 京都市)
 今日、一つの事件が起こった。とある男性が私が通う教会に、お電話をされてからこられた。話は大変せっぱ詰まっていた。一昨日、山に登られ自殺を考えられたそうだ。理由は牧師との二時間くらいの話によって分かることになる。
 その男性は、眼鏡をかけておられ、黒いバッグと小さな手荷物、足は不随で手は痺れている、といったご容体だった。礼拝堂の前で深々とお辞儀をされ、そして話の前に、神に自分の全てをさらけ出したいと語られ、話がはじまった。
 その男性の年齢は六十五歳。阪神淡路大震災で全てを失われた。航空自衛隊に在職していた頃、その男性は、友人から長田区に一軒の家を買い受け家族と住んでいた。長田区は、災害が一番激しかったと言われているところだ。
 あの震災の日、家の火災で奥さんと娘さんを亡くされた。娘さんは半年後、ジューン・ブライドになる予定だった。凄じい現実を語られた。私たちは隣の県で起こった災害についてあまりにも無知だった。
 震災の後、自己破産宣告だとかを考えられたらしいが、いろんな事情でできなかったと話される。
 震災前のその男性は、五十五歳で退職なさったものの、再就職の見込みがない毎日だった。レーダー関係の仕事をしたいと考えられ、奥さんに借金してでも仕事をしてみたいと胸中を話され、そして仕事は成功した。日本海、琵琶湖、太平洋、いろいろなところにお得意様をつくられた。
 震災の日、たまたま仕事が入り、神戸に家族を置いて福井まで行かれた。そしてその日の朝早く帰ることになったのだが、高速道路の落下で足が不随になった。その後は苦しいことばかり。もうたくさんだと、聞く方が思うくらいの悲惨さだった。
 その男性は、ボランティアの方々の支えがあって、今を生きていると話された。仕事をしていた時に周りから借りたお金や、車のローン、結婚式場のキャンセル料などを合わせると、全部で八〇〇万円の借金があったらしい。それを二年かけて全て返却された。そして家族のお骨が埋まっている奥さんの故郷に帰ろうと決意された。そこで一年間、歩けるようになるためのリハビリを繰り返された。
 ある法事の日。親戚方が集まられて宴会となり、酔った勢いである人に言われたそうだ。いくら震災にあったからといって女一人の家に入ってきて長く住んでいるというのはおかしくないかと。それが教会で告白された日からあまり日がさかのぼらない時の出来事だった。そんなことを言われて以来、不思議な壁みたいな物が、その男性と奥さんのお姉さんとの間にできたようだ。それに耐えられないようになって家を飛び出された。
 一路故郷の北海道へ。その一心で飛び出されたのは今から六日前。こづかい程度のお金しか持たずに出てこられた。本当はもうすぐ年金が二十二万円入ることになっており、それを待って北海道に帰ればよかったのだが、待てなかった。
 プライドが邪魔をし、そこにいられなくなったのだ。そして一昨日、奥さんとの楽しかった思い出のある山へ登っていかれた。そこで死のうと決意して。しかしできなかった。
 お世話になったボランティアの人たちに、もちろん直接は一人ひとりにお返しはできないとしても、自分が一生懸命に生きることがせめてものそれに当たると思われ、踏みとどまられた。それから台風で一日降りてこられなくなり寒い中、雨に打たれながらそこに泊まられた。
 その男性は、「もう誰の世話にもなるまい。出来ることなら次は自分が恩返しをする番だ」と締めくくられた。
父のうつ病 高杉 智子(三十二歳 フリーアルバイター 東京都目黒区)
 仮住まいでの新生活に慣れるのが精一杯で、あっという間に過ぎた最初の一年。新居再建のために奔走した二年目。そして何もかもが順調で着々と新居が完成へと向かっていた三年目。父の様子がおかしくなった。
 「新しい家で生活する資格なんかない」
 そんなことを言い出したのだ。さらには仕事のこと、親戚のこと、母や私のこと、毎日の生活のこと、何もかもが不安なのだと言う。
 祖母の死や、父の職場でのありがた迷惑とも言える昇進など、地震からの三年間には地震に関係ないことでもいろいろと父を悩ませることが相次いだ。けれど父は、地震の当日からその後の処理まで、実に毅然と迅速に的確に対処してきた。なかでも地震の直後は、住んでいたマンションに閉じ込められた人を救出したりという武勇伝まで残している。
 離れて住んでいる私と弟が東京から三日後に駆けつけた時にはすっかり家の中が片付いており、どう見てもせいぜい引っ越しの途中程度という感じだった。仮住まいの先もすでに決まっていたくらいなのだ。その後の地震以外の諸々の出来事にも、精力的に解決へと動いていた。
 それなのに、である。間もなくやっと元の暮らしが戻ってくるという時になって。
 いわゆるうつ病らしい。父は日ごとに自信を失い、何もかもネガティブに考えるようになり、定年まで半年という職場もやめてしまった。電話の音に脅え、人との接触も極端に嫌う。しまいには「自分が働かずに税金を払っていないから、町の電気が日に日に暗くなっている」などと妄想まで抱くようになってきた。
 また、もともとお金への執着が大きかっただけに、これから暮らして行けるのか、という心配にことのほかとりつかれたようだ。新居再建の費用をローンを組まずに現金で払える経済力があり、その上老後を充分豊かに過ごせるだけの蓄えがある。年金だってそれなりに入ってくるし、私達子供にも親に仕送りするくらいの余裕はある。何も心配いらないのに、何度も貯金通帳を見せて説明しても、父の不安は消えなかった。
 この状態には母が参ってしまった。私達子供はせいぜい週末に実家に戻るだけだが、母は毎日父と対峙しなければいけない。耐え切れなくなった二人は心中まで考えた。この展開には、さすがに私もまずいと思い父を入院させた。入院先で重度の精神障害者に接したことが幸いし、父は「まだ自分にはできることがある」と自信を取り戻していった。二カ月ほどで退院し、一年以上たった今も通院はしているものの、普段の生活に支障はないようだ。
 こうした一連の騒動を、すべて阪神大震災のせいにするつもりはない。年齢的なことも、元々の性格もあるだろう。でも、もし地震がなかったら。あの時の恐怖、その後の心労、年老いてからの仮住まいという新生活、義援金をもらうために長蛇の列に何度も並んだこと、心配してくださった方々への礼状、新居再建に関するマンション住民の討議や込み入った手続きなど。きっとまだまだ私の知らないことがあるだろう。老体に鞭打ちながらそれでもやらなければいけないことが山のように目の前に降りかかっていたのだ。新居完成間近という本来なら手を叩いて喜んでいいことを目前に安堵したとたん、張りつめていた糸が音を立てて切れてしまったのではないだろうか。
 何カ月も避難所暮らしをした方も大勢いた。四年を過ぎた今も仮設住宅で過ごしている方がいる。被害を受けた中では両親は恵まれている方だと思う。大切な人を失ったわけでもない。
 離れている私などは、両親には申し訳ないのだが、身内に大きな被害を受けた者がいたおかげで自分を見つめ直す機会が得られたと感謝しているほどだ。それまでより強い自分になれた、何か不幸に見舞われた人に対して優しくできるようになったと。しかし、このような感情を当事者に求めるのは酷だ。うつ病になった父には、私には計り知れない葛藤があったのだろう。実際地震以降の父は体も急に衰えたようだ。
 今年、あの悪夢の日から丸四年を迎えた。新聞やテレビでの報道はめっきり減った。実家が落ち着きを取り戻したように、被害を受けた街並も人も、確実に再生の息吹を吹き込まれているように感じる。しかし、何時またあの日のような突然の災害が、誰かを襲うかもしれない。「心の傷に時効はない」とは、あるテレビドラマの台詞。そう、これは地震だけでなく、どんなことにも当てはまる。何年もたっているのに、と一笑に付さず、悲しみも、喜びもしっかりと心に刻んでおきたい。
三回忌 森 啓和(三十五歳 学習塾講師 兵庫県宝塚市)
 父は二年前の一月十七日に亡くなった。肺ガンだった。満六十一歳。勤め先を定年退職して、二年もたたないうちの死だった。
 その三カ月後父の死に気落ちした母が急逝した。私はわずか四カ月の間に両親を失った。
 母の葬儀を知らせるために母のアドレス帳を開き、次々と電話をかける途中で、旧知の母の洋裁仲間の方に連絡を取った。
 母の死を告げると、他の方々と同様一瞬の沈黙があった。そしてその方はこう言われた。
 「うちの主人も一月に亡くなったばかりよ」。ガンだったそうである。
 ご主人とは一面識もないが、技術畑の方で、定年後も嘱託として元気に働いておられると、亡き母から折にふれ定年後の処し方の理想として聞かされていたので、本当に驚いた。
 そのときの電話はそれで終わったのだが、後日その方が我が家を訪れてくれた折りに、もう少し詳しくお話を聞くことができた。
 驚いた。
 肝臓のガンで発生部位は違っていたのだが、その発症のタイミングが父とあまりにも似ていたからである。

 それは一九九五年一月十七日、震災の日に始まる。
 幸い、父もその方(I氏)も家屋が倒壊したり、身内に死傷者が出たりすることはなかった。震源からやや離れた尼崎に住んでいたからだ。電話がかかりにくいことを除けば、ライフラインも間もなく完全に復旧した。この点、神戸や芦屋、西宮、宝塚の被災者よりもわずかに幸運だった。
 しかし、家の中は物が散乱し、外壁は割れ落ちていた。妻を助けて、自宅の復旧を行なった。
 さらに、外回りの補修を業者に依頼しなければならなかった。幸いうちの方は長年懇意にしている建設会社があったため、他の家より早く修理をしてもらえたが、I氏はどうだったのだろうか。震災直後の混乱ぶりを思い出すと、かなりの苦労があったと思われる。
 他にも、役所への義援金の申請や、食料の買い出しとやることは山ほどあった。しかも交通機関も 役所も商店も、すべての都市システムが混乱していた。あらゆる場面で思うようにはいかないことが多かったはずだ。

 そして、そんな中で父もI氏も勤めに行き始めた。震災後、二、三週間の頃だったと思う。
 I氏の職場は同市内で、比較的近かったが、交通機関が麻痺していたため、徒歩で通った。
 父の職場は神戸の中心にあった。JR神戸駅から南に下ったK重工だった。
 JRで行けるところまで行き、そこから会社までの往復を歩くという強行軍だった。最初は芦屋の駅から歩き、次は摂津本山、住吉と鉄道が復旧するに従い、歩く距離は短くなっていった。それに伴い、朝家を出る時刻は午前四時から、四時半、五時と徐々に遅くなっていった。
 しかし、一月、二月の厳寒期に未明の町を何時間も歩くことは難行だ。しかもその町の道路はひび割れ、陥没し、瓦礫や街路樹が横たわっていたりする。また、瓦礫処理や建物の建て直しに伴う粉塵が大量に浮遊している。二月頃、私の住む宝塚でも、町を薄茶色の粉塵が覆い続けていて、いつも景色がぼんやりとかすんでいた。
 父はその頃通勤にマスクを着用していた。目にも痛いほどの粉塵だったと言う。
 やがて、九月になり父は何とか勤めあげ、定年退職となった。
 I氏は体調不良を訴え、勤めをやめた。
 そして、年末父は舌にガンができた。I氏は肝臓にガンができた。父の舌ガンは放射線療法で消えたが、その二カ月後、しつこい咳に悩まされるようになる。トイレに立つのも辛そうになった父は、入院し検査を受けた。肺に二カ所のガンができていた。十月に入院した父は病院で年を越し、逝った。一度は軽快していたI氏も同じ頃に入院し、やはり一月に亡くなった。
 震災の後、被災地の人々は驚くべき量の粉塵にまみれ、やり場のない怒りや悲しみの中で異常なストレスを受けた。
 父は愛煙家だったので、震災だけがガンの原因とは言えないが、発症に対する大きな原因の一つが震災後のあの過酷な通勤にあったと私は確信に近い思いを抱いている。
 被災による死亡者数に父の死は数えられないが、やはり、父は被災が原因で死んだのではないだろうか。
 そして恐らく父と同様の死を迎えた方も多いと思う。被災地における被災後のガン発生による死亡者数や、胃潰瘍などの発生数の統計はないのだろうか。
 今年、一月十七日我が家では両親の三回忌を行なった。
娘の腕時計 三川 範彦(七十四歳 無職 兵庫区)
 震災五年目、外は寒い風が吹いている。わが家はトタン張りのパネルハウスであるが、暖かい日差しが窓から入ってきて昼からは温室のようである。自分で建てた仮設住宅で内装は家内と私がした。ガラスウールの断熱材を隙間なく張りつめたお陰である。ガラスウールは体につくと痒くてたまらない。中を合わせてゆっくりと鋏で切ってホッチキスで止め、幅広の紙テープですっかり被った。
 むさくるしいわが家であるが、すっかり慣れて住みやすくなった。地震から四年も過ぎると、近所には以前より立派な三階建ての家が建っている。表通りにはビルのような大きな家も建っている。しかし、まだまだ広い更地が駐車場になって人は半分も帰って来ていない。わが家の本建築には諸事情がからみなかなか踏み出せない。

 一月十七日の阪神大震災で、家は完全に崩壊、娘を亡くした。おとなしい優しい子であった。本当に辛かった。
 昨年十二月「阪神大震災を記録しつづける会」の交流会に来ていた東海テレビが、一月に取材に来た。「虚無感で何事にも無関心で、ただ碁席で気を紛らわしている」と話した気持ちが聞きたかったと言う。不思議に何もする気がしない。仮設住宅で孤独死の人の気持ちがよく分かる。
 碁席で人と接するのがただ一つの救いである。

 妻はストレス解消のためか家の前にプランターを並べて花づくりをした。一昨年(平成九年)の秋から神戸市老人体育大学に入って卓球もしている。私は病弱でとてもそんな元気はない。

 平成十一年は年賀状で明けた。娘が亡くなったとき心配してくださった方々から心温まる年賀状をいただいた。
 震災のとき探しまわってくれた、三十五年間音信のなかった友達。碁席でお相手をしていた、西宮から見えていた奥さんから丁寧な添え書きをした年賀状を今年もいただいた。年末からご主人とヨーロッパ旅行をされて、「ベルギーの有名なボビン式レース編みの敷物です。娘さんの写真の前に敷いてください」と立派な品を送ってくださった。お手紙と一緒に一月の十六日に届いた。
 三十八年ぶりに訪ねてくれた旧友は、娘の写真を見せてくれと言って残念がって慰めてくれた。十五日には娘の親友がご主人とお子さん二人を連れて来られ、長い間お話をして老夫婦を大いに慰めてくださった。娘の中学校の部活(卓球部)の先生は、今年も来てくださった。この方は、地震の直後、完全に潰れて分からなくなった家のあとを探して花を置いてくださった。
 娘が仲良くしていた三つ年上の従姉妹からも美しい花籠が届いた。もう三人の子持ちで忙しさで手一杯だ。九十四歳の叔母さんが湊川からテクテク歩いてお参りに来てくださった。
 娘の勤め先の方々が忘れずに、きれいな花とお志を送ってくださった。娘が天国から皆さんを呼んでいるようだった。

 娘は一生を精一杯生きていたのだ。そしてそれぞれの人に何かを残していたのだ。皆に励まされている自分の腑甲斐なさを恥じる思いだった。
 忙しい十七日だった。皆様を見送って妻と黙ってじっと顔を見合わせた。
 娘に話しかける気持ちで仏壇の前に座ってじっと写真を見た。娘の腕時計が横でまだ時を刻んでいる。
二十一世紀へ 尾崎 淳二(六十四歳 無職 西宮市)
 「ガン、ガン、ガン」すさまじい音で眠りを破られたあの日、一瞬何が起こったか分からなかった。西宮市南部、百戸が住む八階建、築二十七年の分譲マンション。大型トラックが突っ込んだか、ゴジラが地底であばれだしたか、想像を絶する上下動だった。
 大地震は、大阪府南部で昭和二十一年に南海地震を経験した。未明、寝巻き姿のまま飛び出し、四つ辻で近所の人達と震えていた。
 今度の地震は外へ出る余裕もなく、布団の上に飾りダンスと本箱が八の字形にのしかかってきた。逃げなければ、と焦るが妻も私も身動きができない。
 ようやく腹ばいで抜け出し、ふすまを手でたたき破って脱出した。別室で寝ていた息子が天井から落ちた蛍光灯や皿などが散乱した台所を抜けて「大丈夫か!」と声をかけてきた。我が家はそのまま避難できたが、鉄の扉が開かずバットで廊下の窓をたたき壊した人もあった。
 明るくなると、惨状がはっきりした。厚い防音ガラスが割れ、廊下の天井に穴が開き、コンクリート片がとび出し、隆起している所もあった。痛みは感じなかったが、鏡を見ると顔一面に血がついている。飾りダンスのガラスが凶器になったようだ。
 幸いなことに電気は間もなくついた。電話も通じていた。安否をたずねる親類に「水道とガスはだめだが、一応住める状態」と知らせた。
 一段落したところへ、勤務先から電話が入った。「何人出て来られるか分からない、タクシーを拾って、来てくれ」とのこと。当時、私は定年後の契約社員で、午後、国道2号線の夙川橋へ向かった。神戸の岡本から歩いてきた同僚と出会って相乗りをし、大阪へ向かった。梅田界隈には地震の痕跡もなく、まるで白昼夢を見たようだった。
 夜八時ごろタクシーで帰ることになったが、超渋滞に巻き込まれた。二、三分走っては三十分動かない状態。夜明けまでには帰れるだろうとの予想が、深夜になるほど緊急車両の出動で走れない。阪急今津線の阪神国道付近でタクシーを降りて、歩いた。歩道も混んできたが、やっと昼前、自宅に着いた。疲れも空腹も感じなかった。
 やがてマンションには、危険を示す赤紙が貼られ、引っ越す人が相次いだ。駐車場の太い柱に×型の亀裂が入り、ガス管は修復不能、水道管も破損。再建のため、六月末までに全戸退去と決まった。我が家を含め、転居先が決まらない数戸が「全壊マンション」にぎりぎりまで居残った。
 近所のやさしい豆腐店のおかげで井戸から飲料水を確保、下水用は夙川から運んだ。西宮YMCAが救援基地となりボランティア活動が開始され、大変お世話になった。朝夕支給の弁当でひもじい思いはしなくて済んだ。衣料品や日用品も全国から、そして世界中から贈られてきた。洋服や防寒具は今も役に立っている。
 炊き出しで印象に残ったのは、韓国民団西宮支部の参鶏湯(サムゲタン)だ。鶏肉の雑炊に高麗人参のほのかな香り。おまけに板チョコをもらい、身も心も暖まった。
 マンション再建中の引っ越し先は手狭になるので、不用品を処分した。古道具屋に喜ばれたのは意外にも畳だった。被災地で古本を集めているボランティアがあり、大量に提供した。児童書などを地方の学校に贈ったそうで、しばらくして、かわいい礼状が届いた。瓦礫になる寸前の品々でささやかなお返しができた。
 被災地では、自衛隊やボランティアの活動が際立っていた一方、給水や代替バスを待つ人達の冷静で、整然とした行列も評価された。各地から応援に来た代替バスも大渋滞には勝てない。私が乗り合わせたある日、そんなバスのドアを叩く人があり、だれかが「運転手さん、あけてやって」と叫んだ。一瞬、車内になごやかな空気が流れた。
 私達のマンションは平成十年春、三年ぶりに復興した。行政の指導、補助で防災や環境が重視され、建ぺい率も厳しく、公開空地と埋め込み式の街路灯が増えた。数えてみると街路灯は五十九個。新築マンションの特徴らしいが、まるでホテルかクリスマスのようで、省エネに逆行の感じもする。
 建築面積が減った代わりに八階建から十四階建になり、見晴らしは良くなった。タンスは物置に収納、本棚は作りつけにした。
 贅沢な悩みかも知れないが、ハイテク即ハイコストで、管理費、光熱費などアップした。平成十二年春から介護保険料も必要だ。年金生活者にとって先行きの不透明感がつきまとう。
 震災後、初めて読んだ本は、中野孝次氏の『清貧の思想』だったが、四年間のつましい生活で身につけたノウハウを生かし、心豊かな二十一世紀を迎えたい。
拒絶反応 近田 育美(三十一歳 会社員 垂水区)
 毎年一月が近づいて来ると、各メディアにおいて阪神大震災の特集が組まれ、思い出す機会が多くなります。
 以前は報道番組などはよく見ていました。どちらかといえば、好んで見ていたのです。しかし、一年が過ぎ、二年が過ぎと、年を重ねる毎に、心の中で、何かが変化を始めました。
 今の私は阪神大震災の影響など全くなく、平凡な日々を過ごしています。毎朝会社へ行き、ときどき会社帰りに友人と食事に出かけたりします。また、休日には買物に行ったり、映画を見に行ったりします。何の不自由もない日々を過ごしています。今となっては、阪神大震災が起こり、不自由な生活をしていた頃のことが嘘のように思われてなりません。

 阪神大震災を体験したことによって、私は自分自身が少し変わったように思います。確実に震災前とは違っているのです。ものの考え方、日々の生活、一番好きな物、その他、いろいろと変化してきています。
 私は、毎日会社から家へ帰るとまず、テレビをつけます。しかし、じっとテレビの前で座って見ているのではなく、何かをしながら音だけを聞いているといった感じで過ごしています。いろいろなことを済ませて落ち着いてテレビを見られるのは、晩の九時から十時にかけてくらいです。この時間帯には、ニュースなどが多く、報道番組や、何かの特集を目にします。もちろん阪神大震災の特集番組などもときには目にします。
 しかし、私はあまり見たいとは思わないのです。いいえ、できる事なら、全く見たくはないのです。なぜと聞かれても、私自身でも理由が分からないのです。大震災から一年目でまだ神戸の傷跡が大きく残っていたころは、阪神大震災の特集番組はよく見ました。そして、「そんな事もあったなあ」と大震災の大変で苦しかった生活を思い出しては、便利になった生活を本当にありがたいと考えていました。そのような考え方をしていた自分がいつの頃からか阪神大震災について目にするのを、とても苦痛に感じるようになっていったのです。
 通勤の電車の中から神戸の町並みを目にしています。新しく建てられた家が目につきます。その半面では、まだまだ大震災の傷跡が残ったままの場所も目につきます。そんな時、「やっぱり神戸が元の町並みに戻るのには十年くらいはかかるのかなあ」とぼんやり電車の外を眺めています。それ以外は、毎日の忙しさに大震災のことは頭の中からすっかりなくなっています。
  しかし、忘れている記憶が阪神大震災の報道番組や特集で思い出されます。体験している以上、思い出すのは当たり前だとは分かっているのですが、なぜか、心が苦しくなります。
 阪神大震災についての特集のテーマは、仮設住宅、一人暮らしの老人、新しく出発をしようとしている人々の紹介などです。しかしそれが、たとえ明るく希望のある内容であっても、私はあまり知りたいと思わないのです。
 私は決してマイナス志向な考え方をする人間ではないのですが、以前とは考え方が違っているのです。いいえ、違っていないのかも知れません。阪神大震災の話題についてだけ、体が拒絶反応を起こすのです。
 大震災で私自身や家族、家について大きな不幸があったわけでもなく、震災を体験した人々の中では、被害の少ない幸運な方でした。しかし、今までに体験した事のないほどの大きな衝撃を受けたことも事実です。その大きな衝撃は年々薄らいで行っています。しかし、阪神大震災の報道番組によって忘れかけていた何かが鮮やかに蘇って来るのです。
 世間の人々にはいろいろな教訓として伝えなくてはならない事が多くあります。また、現在の神戸の実際の風景を知ってもらう必要もあります。あの大震災を風化させないためにも多くの内容を人々に知らせる必要性もあります。
 しかし、報道内容をどうこういうのではなく、私のように心の片隅に引っかかりがある人がいるということも知って欲しいのです。きっともっともっと年月が経過したなら、私も落ち着いて阪神大震災についていろいろな事を考えられるのだと思います。
夫の変調 岩崎 美代子(三十六歳 主婦 倉敷市)
 激しい揺れを感じ、子供達を起こしたのは五時四十五分過ぎ、テレビを急いでつけ地震速報を見るがなぜか神戸の震度だけが出ない、岡山で震度4だった。
 不思議と思う半面、おかしいと感じ、子供と一緒に一階のリビングに降りていくと間もなく電話が鳴った。平成五年十二月より神戸に単身赴任している主人からだった。
 「俺は大丈夫、生きとるからな」とたった一言で切れた。十円一枚で公衆電話から掛けたと後で聞いた。昨夜の最終の電車で戻り、まだほんの数時間しかたっていない。今の電話変だったと子供達と話をしていると、次の電話が鳴った。
 主人と同じ寮にいる人の奥さんからだった、寮の壁は剥がれ落ち凄い様子だと言う。電話も、もう掛けられないし使えなくなるからということだった。
 七時過ぎになり主人から二度目の電話があった。
 「凄いことになっている、周りの家は一階がつぶれてしまっているし、警察署や消防署に電話しても誰も出ないし」。その後、こちらから何度連絡を取ろうとしても全くダメだった。

 そのころ神戸に居た主人は、寮生達と生き埋めになっている人々の救出をしていた。はじめの頃は、生きて助け出されても、時間がたつにつれて、すでに事切れ冷たくなった人もいたという。
 まだまだ余震は続いていた。私は家で掛かってくる電話に対応していた。それは心配して主人の安否を気づかってくれる人々からで、生きているということに感謝しながらも本当に顔を見るまでは信じられないと思った。今すぐにでも神戸に行きたいという気持ちだった。どうにも出来ず親子四人遠く離れた岡山で夜を送った。
 一方神戸では余震が続く中、主人たち何人かが同じ部屋に集まって一夜を明かした。朝になると、近所の人々が寮に来て、ストックしてあった食料品(寮生が持っていた食料品、売店にある食料品など)をみんなで分け合い食べた。子供にとっては空腹はとてもつらいものだ。
 しばらくしてガス漏れのため、避難勧告が出た。しかし、避難所には人が入りきれず外に出されてしまった。昼過ぎになり家に帰ることになり、ワゴン車二台に八人が分乗し六甲山を山越えし三木市、小野市を通り姫路に出てきた。姫路から電話があり、家に向かっているからということだった。本当に帰って来られるのか、不安だった。

 無事な姿を見たのは十八日のもうすぐ日が暮れそうな頃だった。生きている、でも本物なのかと思わず疑った。
 家に帰ってから主人の様子が何かおかしい事に気がついた。こたつの中にすっぽりと入り、何かを見ている様子もなくボーっとしている。テレビもあまり見ようとしない。話を聞くと、
 「本当に帰って来て良かったのか、帰る家がある自分たちはいいが残された人々はどうするのか、すごく後ろめたさが残る」と言った。神戸にいてもっと何かするべきではなかったのかと悩んでいたらしく、だったら岡山にいて出来ることをしようと言うことで、献血に行き、気持ちだけしか出来ないけど募金をした。
 恐怖は体も覚えていた。朝起こそうとして揺らすと大きな声で叫ぶ、
 「頼むから体を揺らさないでくれ」と言われた。大人でもこれだけ怖かったのだから子供達の心の傷は計り知れない。
 震災の前、子供を連れて何度か神戸に遊びに行った。テレビで映し出される神戸の街の様子はとてもショックだった。
 当分の間神戸には行けないのか、と子供達に聞かれ、震災の数カ月後に神戸の街を訪れた。街は本当にテレビで映し出されたそのままの姿だった。でも子供達には神戸の本当の姿を自分の目で見て欲しかった。同じ日本に住んでいるのだから。

 その後、平成八年三月に主人は単身赴任を終えて、無事に我が家に帰って来た。神戸で経験したことは決して忘れないだろう。
 平成七年一月十七日が、みんなの心から忘れ去られることがないようにと思う。
5 遠く離れて
 「これがカリフォルニアよ」 根本 正枝(四十八歳 主婦 シンガポール)
 一九八九年、主人の仕事の都合でカリフォルニアに住み五カ月が過ぎたころ、大地震に遭遇しました。場所はサンフランシスコに近いサンノゼという所です。

 今にして思えば、とても貴重な体験でした。日本人とアメリカ人との国民性の違いも知りました。
まず、私の家のまわりは夕方でしかも住宅地であったにもかかわらず、火事がありませんでした。もし火を使っていても、とてもすぐ消しに行ける状態ではありませんでした。立っていることすらできなかったのですから。
 それなのに火事にならなかったのはアメリカ人は料理をしない、というのは別問題として、調理器具がほとんど電気だったからではないかと思うのです。停電になればすぐ消えてしまいますので、地震のときはガスより安全です。

 私はアパートの五階に住んでいました。大きな揺れが一応おさまって外に出ようと思ったとき、まだ外は明るかったので、懐中電灯を持たずに出てしまいました。
 ところが非常階段は真っ暗でした。部屋に戻る時間もなく、とにかく降り始めたのですが、途中で一歩も進めなくなりました。実は途中まで懐中電灯を持った子連れの日本人家族と一緒でしたので、なんとかその明かりで降りられたのですが、子供の足は早くあっという間に置いてきぼりになってしまったのです。
 さらに、この五カ月間一度も非常階段を使ったことがなく出口がどこにあるのかさえも知りませんでした。非常階段は場所を確かめるだけでなく、一度は使ってみる必要があります。
 そしてパニックになっていたのですが、アメリカ人の男性が来てくれて一緒に一歩ずつゆっくり降りてくれました。降りている間中「大丈夫だから、落ち着いて、すぐに外に出られるから」と何度も何度も声をかけてくれたのです。その男性は私を外に出すと再び真っ暗な階段に向かって行きました。
 カリフォルニアは夜になるととても冷え込みます。
 アパートの住民は着の身着のまま外に飛び出して来ていますので、半袖や薄着の人達が大勢いました。私も車の中にトレーナーなどを入れてありましたので薄着の人に貸してあげたりしました。この地震以来、私は車の中で生活できる程いろいろ用意して詰め込んであります。
 住民の中には年配の方も大勢いて外に出てからもパニック状態になっていましたが、アパートのマネージャーの女性が一人ひとりに声をかけ明るい笑顔で抱き寄せていました。私にも「これがカリフォルニアよ」と笑っていました。

 主人は地震の後すぐ会社を出たのですが、いつもなら二十分で帰ってくるはずが三時間もかかりました。信号機がすべて止まってしまったそうです。しかし、どの交差点でも近くの住民が交通整理に出て、渋滞はしたけれど混乱は全くなかったそうです。車は一台ずつ順番に進み、クラクションなど全く聞かなかったと言っていました。

 日本では地震の直後に自分の家もほうっておいて人のために動けるものでしょうか。私だったらできないと思いました。あのボランティア精神はどこから生まれるものなんでしょうか。
 その日は夜中まで部屋に戻ることは許されず、車の中で寒さをしのぎました。
 外ではあちこちでバーベキューが始まりました。

 翌日からのラジオも元気を出そうと言いながら楽しい曲ばかりが流れました。
 スーパーマーケットでは水が無料になりました。
 家の中は散々でしたが、心はすぐ回復しました。

 この地震が日本だったら、都心だったら、なかなかこうはいかなかったと思います。
 今すぐ助けが必要なとき助けてもらえました。お互い助け合うことができました。私達に欠けている何かを学んだような気がします。
元兵曹がみた震災 大橋 光正(七十一歳 無職 北海道)
 私は阪神・淡路大震災を遠い遠い北海道から、テレビで見ていただけです。倒れた建物の下敷きになり、助けることができないのに、建物に火がついて燃えていました。断水で消火もできません。こんな恐ろしいことが平成の大平和のなかに起こったのです。亡くなられた方はお気の毒であり、心からご冥福をお祈りします。
  ひとつだけ分かったことがありました。それは昭和二十年三月十日、私が海軍二等兵曹として体験した東京大空襲に比較すれば、極楽のようなものだということです。
  「阪神大震災を極楽だと? お主、老兵さん。頭がぼけてぱあになったのか」
  と言われるかもしれません。しかし、私は正常だと思っています。正常かどうかは、この私の手記を読んで、判断してください。

  昭和二十年三月九日、日本の首都東京はサイパン、グアム、テニヤン島から飛んできたB29三百機の大空襲を受け、焼失家屋二十七万戸、死者十万人を出すという、大損害を受けました。B29は当時の世界一の重爆撃機で、一機に五トンの爆弾を積むことができました。
  そのとき海軍二等兵曹の私は、横須賀市久里浜の海軍通信学校で軍務に服していました。この学校から東京方面を見ると、夕焼けのように真っ赤でした。
  スピーカーが、「対空警戒戦闘部署員、派遣防火隊、整列急げ」と繰り返し命令を伝達していました。イタリアに輸出する目的で製造されたが、戦争激化で輸出できなくなり、日本海軍の正式銃として使用することになったE式銃に、実弾四十発を弾帯に所持して警戒に当たりました。日本軍に撃墜されたB29の搭乗員が、パラシュートで落ちてくることもあるからです。
  三浦半島各地の高射砲がダダン、ダダンと撃っている音がひっきりなしに聞こえてます。
 私の心臓もドキン、ドキンと激しく鳴っていました。

 翌朝、電車で東京の救援に行きました。通過する各駅の側線に、焼けてスクラップになった電車、貨車など数十輌が見えました。よく電車が動いているなと感心したほどの被害でした。この空襲のとき国鉄を守って殉職した国鉄職員数名がいました。山手線の新宿駅長さんは旅客の誘導に命をかけて戦い、火だるまになって倒れるまでメガホンを手から放さなかったそうです。戦後、ローカル線の駅長を務めた私には、大変印象に残る出来事でした。

  東京に着き、電車の戸が開くと、何とも言えない生臭い匂いが車内に入ってきました。後で分かったのですが、これは焼死者を野焼きしている匂いでした。
 隅田川ほとりに焼け残った海軍経理学校に七日間泊まって、焼死体の後片付けをしました。
 隅田川に浮かんでいた小型船は上部が全部焼けていました。船底だけが、木の葉せんべいのようになって浮かんでいました。その木の葉せんべいと木の葉せんべいの間に、無数の焼死体と溺死体が浮かんでいます。この死体にロープをかけ、よいしょ、よいしょと引き上げました。まるで銅像を引き上げるように重かったです。一体残らず引き上げて、兵舎に帰りました。

 腹が減って、おにぎり一つ、乾パン一個でも食べたいと思いましたが、何一つ配給はありませんでした。水を飲んで寝るだけです。

 翌日、昨日と同じ場所に行き川面を見てびっくりしました。またまた無数の死体が浮かんでいるのです。この死体は下から浮かんできたのか、上流から流れてきたのか分かりません。
  一度東京湾に流れて行ったが、東京が恋しくて上ってきたという怪談も伝わってきました。
  自分の家が恋しくてたどり着いたが、焼かれて無くなっていたので、「うらめしい、うらめしい」と言ってこの焼け残った経理学校に入って行ったというのです。
  「おれは確かに見た」と古兵が、さも本当のように言って若い兵隊を脅かします。兵隊といっても私はそのとき十八歳の少年兵、夜が恐ろしくてトイレにも行けませんでした。灯火管制を実施しているので、長い廊下もトイレも薄暗く、白衣を着たおばけが出そうで金玉がちぢんでしまい歩けませんでした。

  隅田川から引き上げた死体は、どの顔も火に焼かれ、もがき苦しんだと見え恐ろしい顔をしていました。溺れる者は藁をもつかむと言いますが、小さな木片をがっちりつかみ、放そうとしても放れないこともありました。
  その頃は日本中がB29の焼夷弾攻撃でみな焼けて、助けてもらいたい人ばかりだから、衣一枚の助けもありません。
  阪神大震災では、日本各地から食料、衣類などたくさん集まり、ボランティアで手伝う人も大勢いたようです。仮設住宅まで建ててもらっています。
  だが、東京大空襲は違います。焼死した自分の妻や子供の遺骨を背負い、泣きながら自分の手で米を炊き、焼け跡から焼け残った柱と、焼けたトタンを集めてきて仮設住宅を建てました。手伝ってくれる人は、兵隊さんだけでした。

  五十年たった今でも、大橋元海軍二等兵曹は、泣きながら家を建てていた人のことを思うと、涙がとめどなく流れてきます。
  東京付近の各市町村の火葬場を総動員しても遺体を焼くのが間に合わず、名前の分かった者は各隊で勝手に野火焼きしてもよいという政府の許可が出ました。
  東京のど真ん中で日本兵が東京都民を野焼きした。信じられない人は、私よりもう少し偉い人の書いた東京大空襲の本を読んでください。
夜 景 築地原 三紀子(十九歳 学生 新潟市)
 中学三年生の時、関西方面へ修学旅行へ行った。田舎育ちの私は、見るもの全てが新鮮だったし、都会の風景に圧倒されそうになっていた。
  神戸へ行った日の夜、私達はロッジから歩いて展望台へ向かった。真っ暗な山の上から緊張感を持ちながら、「せーの」で見下ろせば、目の前に華やかな夜景が広がっていた。右を見ても左を見てもキラキラした光。車や船が玩具の様に動き出す。こんな綺麗な景色、見たことない。感激して泣いてしまった。
 「また来るから」そう呟いて神戸の街を後にして一年もしないうちに、あの都会の街並が、変わり果てた姿で私の目に飛び込んできた。道路が割れている。線路はグニャグニャ。家は屑の塊。これは、私が見た街じゃない。どこか別の世界だ。今現実に起きている事を信じたくなかった。
  文明を急ぎ過ぎたのか? 自然に逆らって罰が当たったのか? 死者の数がほんの数分でみるみるうちに増えていく。さっきまで元気だった人が、一瞬の揺れで感情のなくなった人間になるのかと思うと恐ろしくなった。でも、現実に背を向けちゃいけない。
 私は今迄、都会の人は冷たい、というイメージがあった。しかし実際そこへ行ってみれば、そのイメージはがらりと変わった。そこは人情あふれた人でいっぱいの街だった。あの頃の事がよみがえる。道を丁寧に教えてもらったこと、「お前さん達ゃ新潟から来たんか。コシヒカリだな。米はちゃんと食ってるか?」と言っていたタクシーのおじさん。
  TVでは、連日阪神大震災を取り上げていた。知らない人達が集まって、空き地で夜たき火をしながら話しているのが映った。おにぎりを他の人に分けている人の姿があった。名前も知らなかった人と助け合って生きている。同じ悲しみを一緒になって乗り越えようと必死に生きている。はっとした。ぼんやり生きてる自分が情けないと思った。そうだ、人間は、生きる為に生れたんだ、私は、それを教えられた気がした。
  私達は、復興の願いを込めて義援金と手紙を送った。私達にだって出来る事はいくらでもある。地域は違えど、同じ人間だから。確かに、被災者にしか分からない耐え難い痛みもある。でもそれは同じ私達人間の苦しみでもあるのだから。
  しかしこんな思いもあった。あんな大都会が一瞬にして崩れた、それが本当に元に戻るのだろうか、そっくりそのままに返るんだろうか。
 年月が経つと、阪神大震災の事など、ニュースで取り上げる事もなくなっていた。私も、その事を忘れかけそうになってしまっていた。震災から一年半が過ぎ、高校のクラス旅行で行く所を決める事になった。ふっと思い出した。「また神戸へ行きたい!」。嬉しい事に、もう一度神戸へ行けることになった。

 クラス旅行二日目の夕方、神戸のロッジへ着いた。荷物を置いて一段落すると夕食だ。その後皆でカラオケをした。そして、あー楽しかった、と部屋のドアをあけると、神戸の街を一望できる窓の外には、紛れも無い、あの夜景が広がっていた。
 ああ、神戸の街が戻ってきた、チカ、チカと動く光を見たら涙が出てきた。再びこの夜景を見られた嬉しさもあったし、ここまで元に戻せた力の凄さに感激した。夜景に、なぜか温かさを感じた。街の復興を信じた人達みんなで創り上げた最高の夜景だと思った。神戸は百万ドルの夜景と言われるけれど、お金にはかえられない、見ている私達の心がほっとする、温かい夜景だった。


  この地震で失ったものは大きいけれど、それ以上に得たものが、私達にもある。「日本人は忙しそう」とよく言われるけれど、目まぐるしく変化し続ける世の中で私達が忘れかけていた、人との助け合いだとか、ふれあいとか、何気ない優しさを、少しは取り戻した気がする。神様はきっと、当たり前だが忘れてしまいそうなこれらの大切さを教えるために、地震を起こしたのかもしれない。
震災からもう四年かもしれないけれど、まだ四年なのである。忘れたい過去かもしれない、でも、忘れてはいけない過去でもある。

  この様な災害は、いつ起きてもおかしくない。災害が起きた時に限らず、日頃の生活の中でもこの震災を通して教えられた協力の大切さや他人への思いやりは忘れずにいたい。
一日違いで 宗安 美幸(二十七歳 理容師 大分県中津市)
 私は阪神大震災に遭ってはいません。でも遭う可能性は十分あったのです。
  私には十年以上文通している友達がいます。その友達が兵庫県の短大に行っていたので、友達がそこにいる間に一度、遊びに行きたいと思っていました。兵庫には、私の好きな漫画家の手塚治虫先生の記念館があったのも理由の一つです。そして友達が「卒業するまでに遊びにおいで」というので、友達が冬休みの間に遊びに行くことにしました。友達は芦屋に住んでいるけれど、新幹線で行くと、新神戸より新大阪の方が芦屋に近いというので新大阪までの往復切符を帰りの時間まで決めて買いました。

  友達の住んでいるマンションはJR芦屋の近くにあります。なんでも、このマンションのオーナーはホテルのような作りにこだわっていて、ガスを使わず、すべて電気で安全にできるようにしているとのことでした。実際使いやすいのだそうです。
  次の日は私の誕生日だったのですが、偶然友達と入ったレストランは、当日が誕生日の人はケーキをくれると言うので「神戸っていい所だな」と思いつつケーキをいただいて帰りました。その日、大阪の海遊館へ行ったのですが、入場券を友達に渡す時、強い静電気がはしりました。冬は静電気が起こりやすいそうですが、私は今まで一度も静電気が起こったことがなかったし、その後も全くありませんでした。もちろん友達もです。

 その次の朝、宝塚にある手塚治虫記念館へ行きました。行く途中にある宝塚歌劇記念館は外からでしたがじっくり見ました。タカラジェンヌの専門ショップにも行ってみました。ブロマイドや写真集は、ただ一言、すごいですね。おかげで組の名前を全部覚えました。手塚治虫記念館の方は、手塚先生の生原稿や、昔のアニメが見られたり、先生の書いたマンガのコミックスが全冊置いてある部屋があったので、友達と読みふけっていました。


 その日の夜神戸のCD、ビデオ店へ行き、ひどく感激しました。なぜなら私の好きな音楽グループのビデオがデビュー当時から現在発売されているものまで全部そろっていたからです。しかもCDもかなりの枚数がそろっていました。それで私はこの機会にビデオとCDをそろえることにしたのです。ビデオを十本くらい買ったらお店の人が笑っていました。でも品揃えが良いので、ますます神戸って良い所だなと感じました。

  そうこうしているうちに私が大分へ帰る時間がきてしまいました。でも何だか名残惜しいので、大分に夕方着く予定だったのを、新幹線を何時間か遅らせて帰ることにしました。それで神戸を出たのが夕方過ぎで、もう辺りは暗くなっていました。そのときなぜか新幹線の中で「この夜景を見ることはもう二度とないだろうな」と思いました。もちろん友達が短大を卒業したら、行くあてがなかったのもあります。でもそれが、ある意味で予感になるとは夢にも思いませんでした。その日の夜に無事に大分へ帰れたことを友達に連絡しました。神戸で買ったビデオは重くて持って帰れなかったので友達に頼んで翌日宅急便で送ってもらうことにしました。

 次の日、運命の朝がやって来ました。私は「テレビを見てごらん」という父の声に起こされました。私は何事かとテレビをつけて見ると、そこには昨日までいた神戸が映されていました。しかし、それは昨日までのあの神戸ではありませんでした。崩壊した芦屋駅が映ったので友達のことが気になり電話してみましたが、つながらず、不安が募りましたが、昼過ぎに友達から電話があり、けがなど何もしていないというので安心しました。友達によれば住んでいるマンションは新しく、作りもしっかりしていたので壁にひびが入ったくらいだったそうです。それにホテル指向のオーナーのおかげで火災など起こらなかったよう。友達は電車が不通になったので歩いて知り合いの家へ行ったそうです。

  私が友達に「無事でよかった」と言うと友達は「美幸ちゃんの方が無事に大分へ帰れてよかった」と言いました。確かに、まさか半日前までいた神戸に地震が起きようなど考えもしないことです。思えば海遊館の静電気も地震の前ぶれだったのかも知れません。神戸の夜景を見るのが最後かもしれないと感じられたのも、神戸に住む人々の生活の灯火が、やがて起こる大地震への消えまいとする輝きに変わることを予感したからなのでしょうか。

  四年たった今でもそのときの海遊館の半券と、地震前日の「七・一・一六」と書かれた芦屋|大阪間の切符を持っています。神戸から帰ったその日は、それは楽しい思い出の品物でしたが、翌日には一変して貴重な忘れられない何だか複雑な気持ちの品となってしまいました。
被災を免れた者の証言 名児耶 貴之(三十六歳 自営業 東京都中野区)
 阪神大震災の実際の体験者は数知れない。しかし、被災を免れた者の証言はあまり多くないので、幸運にも罹災しなかった自らの体験と災害に対する思いを披露したい。
  私は現在東京に在住しているが、震災当時は仕事の関係で大阪の淀川区に住んでいた。家族、親類は全て関東に居住しており、関西にいる知人はすべて仕事関係の者だけだった。震災の発生を知ったのは、たまたま休暇で行った長野のスキー場の旅館でだった。テレビには「甚大な被害」と何度も繰り返すアナウンサーの声とヘリコプターからの神戸の上空の映像が流れていた。神戸に親類のいない私は冷たい話だが、ほとんど心配事がなく、まるで映画を見ているようであった。

  翌日、鉄道は大阪までは動いていたので無事に戻った。おそらくは目茶苦茶になっているであろうと覚悟したマンションの自室は何事もなかったかのように、整然としていた。わずかにエアコンの電源ランプが点滅していて、停電があったことを窺わせた。電気、水道、ガスなど何も問題なかった。後で分かったことだが、私の住んでいた所は、神崎川と淀川の中洲にあり、幸運にも地震波がすりぬけていった。その証拠に両川向こうの尼崎市と大正区はかなりの被害を受けており、長い間、水道、ガスが不通だった。まさに被災地の中にある安全地帯であった。

  数日後、一年前まで住んでいて、被災地の中心となった東灘区の本山を見に行くことにした。正直に言えば興味本位だ。鉄道はなく、道路はあちこち寸断され大渋滞のため、約三時間かけて自転車で行くことにした。
 
 大阪から神戸方面に行くには、国道2号線と国道43号線があるが、国道43号線を選んだ。理由は何度もニュースの映像に映し出された阪神高速の高架橋倒壊現場を見たかったからだ。
 神崎川を渡って尼崎市に入ったとたんに、最初の被災家屋を発見した。かなり古い木造瓦葺きで、その家だけ倒壊していた。この辺りは、もちろん交通量は多いがまだ秩序があった。所どころ、歩道が崩れていたり隆起したりしていて、その度に車道に自転車も歩行者もはみ出していた。
 やがて、尼崎市から西宮市に入った。段々と倒壊家屋が目立ってくる。家が道路側に倒れていると、歩道は押しつぶされて大きく車道に出る。二車線の道が一車線になったりと、さらに渋滞の原因を作っている。

  阪神の鳴尾駅を越えると辺りは一変した。ここまでは阪神鉄道が通っていた。ここから先、明石の方まで鉄道は不通になっている。歩行者が極端に増えた。まるで祭りのような賑わいだ。ただ違うのは行く人も来る人もみんなリュックを背負っていることだ。彼らは何キロ歩くのだろうかと思いながらすれちがっていった。
  芦屋川を越える。コンクリートで固められた河川敷で水を飲んでいる人もいる。やがて、高架橋の無残な姿を見て、そら恐ろしい感じがした。鋏のついた重機が解体作業を始めていたが、はたして何カ月かかるのだろうか。それより、元通りになることがあるのだろうかと思った。
   青木に着いた。鷹取ほど有名にならなかったが、ここも焼け野原だった。古い商店街の並ぶ素朴な町だったがなくなってしまった。
 青木から北上して本山に着いた。火災は少なかったものの、倒壊の被害としては最大級だったこの町は、しんと静まり返っていた。電柱や家がほとんど倒れ、大部分の道をふさいでいる。だから車がほとんど走っていない。電気もないので何の音もしない。鳥のさえずりだけが聞こえる。まるでゴーストタウンのようだ。駅前も悲惨だった。駅前のビルの二階のベランダが地中にのめり込んでいる。たしか一階は商店が並んでいたはずだ。果たしてその人達は。引っ越してきた時に初めて家具を揃えた、大きな二階建のコープこうべは完全に平家の瓦礫になっていた。いつも通ったお好み焼屋さんは道が閉ざされてたどり着けなかった。というより、もう道がどうなっているのか分からなかった。形あるものがこんなにも脆いとは思わなかった。

  さすがに、人には向けられなかったが、写真を何枚か撮って、2号線を大阪に戻って行った。今度は逆に、静寂から、人の流れ、車の大渋滞、そして段々と回復する秩序を戻って行った。大阪府に入ってファーストフードの店に入った。注文すれば食べ物でも飲み物でも何でも出て来る。ついさっきまで何もない世界にいたのが嘘のようだった。まるで何かのアトラクションを見てきたようだった。

  自分自身はいくつかの偶然によってぎりぎりのところで何ら被害を受けなかった。しかし、電気や水道に特段の感謝の念も浮かんでこない。慌てて食料の備蓄をしたりもしない。これが本音だ。
ただ、災害というものは歴史やテレビの中だけでなく、実際に起こるのだということだけは理解できた。心のどこかで備えだけはできた。
だから、見てきた光景の記憶だけはいつまでも鮮明に保っておこうと思っている。
6 あの日から
寅地蔵 中村 専一(五十九歳 飲食店経営 長田区)
 私が映画監督の山田洋次氏と会話をしている、それも私の店で。これは夢か現実か?
 こんな気持ちは、大地震の時にも経験した。あの時はこれは夢だと思ったが、現実であることを突きつけられて愕然となった。そして、あれから四年が過ぎた平成十一年一月十七日、山田監督は私が作った食事をおいしそうに召し上がっている。
 これが実現したのは、地震後にできた街づくりの会合に加わったのがきっかけだ。その会合の参加者の中に、寅さんの十六ミリ映画をもって避難所を廻っているボランティアがいた。映画が終わると被災者の方々がすごく明るい笑顔になるという。それなら、いっそ「男はつらいよ」のロケ誘致をしようと、活動を始めた。
 「何とかなんないの」、寅さんの口上よろしく、誘致は何とかなって、大成功。しかし、その十カ月後に主演の渥美清氏が亡くなった。そこでロケの記念碑を作る案が出、私は震災のモニュメントになるようなものにしたいと提案し了承された。そこで二、三回会合をしたが、建立費と設置場所の問題に直面し、話を前に進めることができなかった。ところが、京都在住の方から、寅さんのレリーフが持ち込まれた。
 追いつめられるとよいアイデアが浮かぶもので、地震直後に新長田駅の東口復活運動で交渉したJRに相談することにした。平成九年十月二十一日に電話をした。すると早速翌々日、神戸支社総務企画課長の難波克興氏がわが家を訪問してくれた。私は寅さんのレリーフを駅の構内に設置することを要望し、協力をお願いした。そして十一月十一日、正式に駅構内に設置することを了解するとの返事をもらった。
 その後、メンバーと協議を重ねた結果、レリーフの代わりに、地震で亡くなった方々の鎮魂と街の復興を見守ってほしいとの願いを込めて「寅地蔵」にしようと決定し、JRにも変更を申し入れた。
 十一月三十日に尼崎の仏師、阪田庄乾氏に制作をお願いした。まだ予算はまったくないのに、「何とかなる!」と、まさに寅さんを地で行く行動だった。
 翌年の平成十年一月十六日には、松竹東京本社の松本行央次長が、わが家を訪れ、「寅地蔵」を松竹が了解することと、詳細なデザインは双方で詰めることで合意した。
 この間、建立場所はロケ地の菅原にという意見もあり、一月二十五日に現地の方と話し合いを持ったが、費用のことや、まだ区画整理が進んでいないなどの理由で、現地建立は断念した。
 何としても渥美氏の三回忌の八月四日に間に合わせたい。私は焦った。
 二月十五日、私とメンバーの末延氏は、仏師に地蔵さんの費用を無料にしてほしいとお願いに行くための待ち合わせをしていた。そこでたまたま、神戸長田ライオンズクラブの理事と行き合った。ライオンズクラブが、創立二十周年の行事を予定しているとのことなので、「寅地蔵」も加えてほしいと申し入れた。
 仏師は、「材料費の三十万円は何とかいただきたい。後はボランティアで制作する。皆さん三方一両損ということにしましょう」と言われた。仏師は制作費を無料に、JRはコンコースの壁面を無料提供し、我々は実費で走り、不足分は自腹ということだ。
 二月二十七日、ライオンズクラブの理事の方がわが家へ来られ、必要費用の一部として五十万円の寄付が決定したと知らせてくれた。本当に何とかなった。三月十日、ライオンズクラブより三十万円を受け取り、仏師に渡した。通常の制作費は二百万円くらいするらしい。
 四月十七日に地蔵のノミ入れ式をした。完成までには、銘板の文案づくり、設置の詳細の打ち合わせ、式典の企画、案内状の作成などで、皆さんの協力を得た。七月二十一日に、ライオンズクラブから残金の二十万円をいただいた。しかし、このままでは相当の資金不足だ。見通しのないまま八月四日の除幕式を迎えた。
 当日はものすごい暑さのなか、構内は式典参加者と報道陣であふれんばかりになった。JRが近隣の駅員を応援に繰り出してくれて助かった。緊張と暑さで上着の袖から汗が滴り落ちるありさまだったが、イベントのすべてが無事、盛会のうちに終了した。大勢の方々からお祝いをいただいたので、資金不足は解消した。何とかなった!
 翌日の反省会では、活動を記録集にまとめたいと提案した。全員賛成だが資金は? 何とかなる! 兵庫県のフェニックス基金に申請し、三十万円の助成が確定した。現在私のパソコンへデータを打ち込んでいる。本当に何とかなるものである。
 そして平成十一年一月十七日、山田洋次監督がテレビ番組に出演のため神戸入りすることを聞き、ロケのお礼を兼ねて食事会をしたいとお願いし、快諾を得た。首記のような場面が実現したのだ。

 そもそも、私がこのような活動に入ったのは、地震後に学識経験者が街づくりの勉強会をあちこちで立ち上げてくれたお陰だ。寅さんの映画の上映ボランティアともそこで出会った。地震後に私の住んでいる地区は、「都市計画決定」の第二種市街地再開発の網がかかった。そこで私もそれらの勉強会に参加して勉強をするうちに、この法律はとてつもなく理不尽な法律で、住民を愚弄するものだという結論に達した。
 そこで、自分のできる範囲で、街づくりに係るようになった(編集者注 第4巻参照)。昨年(平成十年)三月二十六日には、私の店の北側にオープンしたピプレホールのイベントを手伝い、三月二十九日には、被災者支援法案を国に要望していた伊賀興一弁護士からの依頼で、個人の資産や借り入れ、売上など、実名で国会に提出する資料の提供に協力した。被災地の自営業者がなぜ支援を必要としているかの調査資料になった。

 九月十一日、NTT千葉の主催で、「防災フォーラム」が開催され、神戸からの三人のうちのひとりとして、私もテレビ電話で体験発表をした。反響が大きかったらしく、その内容を本にすることになり、私が撮り続けている写真も使ってもらって十二月二十七日に出版された。
 十一月十日、国連NGO居住権擁護団体「ハビタット国際連合」の法律顧問のスコット・レッキー氏とわが家で会合をした。氏は開口一番、「再開発になぜ反対しないのか」と問いかけた。賃貸住宅や、狭小宅地の方々のように、メリットのある人もいるので、丁町単位で反対ができない旨など、通訳を交えていろいろ話した。
 十二月十八日は、東海テレビの取材を受けた。東海地震が予想されるため、今回の地震の経験者を取材して問題点を探るとのことで、協力した。
 明けた一月十二日には、私たちの地区の街づくり協議会でもめた末に提案した「第一期着工街区」の起工式が行われた。納得できない方々は反対運動を起こす。
 
これまでの活動から、街づくりはプロのコンサルタントに白紙委任するのではなく、素人の発想が必要であることを学んだ。私は寅さん流に、まず行動を起こし、「何とかなんないの」と行政に自分たちの提案をぶつけていきたい。「稚想鬼進」でこれからも行動することにしよう。
百五十冊 北村 幸男(七十六歳 無職 長田区)
 「愛着あるものには能捨の心を」と経文の一節に言われている。物に執着してはならない、要らざるものは思いきって捨て去れ、とのお諭しであろう。よくわかっているつもりながら、なかなかそれが実行できるものではない。あれもいい、これも欲しいとついつい要りもしないものを買い込んで、しまいには置場も無くなってしまう、これが一月十七日のあの地震の日までの凡人の姿だった。

 私について言えば、本への執着がそれだった。あのまがまがしい一月十七日の朝、さいわい家屋は倒壊しなかったけれど、家具や備品などはこわれ、階下の狭い部屋に置いてあった書棚、本箱は三本とも横転して、ガラスは飛び散っていた。激震がやや落ち着いた頃、折り重なっている書棚をひとつひとつ引き起こして、でんぐり返っている本を拾い集めた。それは口で言うほど簡単な作業ではなく、渾身の力をふりしぼっての、大仕事だった。無我夢中でやり続けたものの、気付かぬうちに足の靭帯を痛めて、その後しばらく整形外科に通わねばならぬほどであった。

 家の中はどこもみなひっくり返っていたから、放り出された本はとりあえず何冊かずつまとめてビニールの紐でくくり、家の横の空地に積み上げた。上に青いシートをかぶせて雨よけにした。この仕事だけでも約一週間はかかった。仕事が終わってやっと家の中が片付いた時は、ほっとした。
 震災の後片付けに追われているとき、妻が言った。「地震で本棚が倒れてきて、本の下敷きになって亡くなった人があるそうよ」「ああ、新聞に出ていたね」「本もバカにできないのよね。あなたもこの機会に本を整理しないと」「うん、そうだね」。もともと私も、老い先は長くもない、残された日々にどれほど読めるだろう、後生大事に本ばかり積んでおいても仕方がないなと思っていたのでそう答えた。

 「何冊くらい残しておこうかな」「そうね、まあ百冊ってとこかな」「うーん、百冊は辛い、二百冊」「だめよ、百冊にしなさい」「だめか」。とうとう百冊ということで、私は折れ、くくってある本の選別にかかるが、これがまた難儀な仕事だった。これだけは置いておきたいと思うのを抜き出して数えてみると、まだ三百を超えている。また、その中から選別をやり直す。全集ものもばらして、その中の何冊かにしぼる。これがまた大変。
 乏しい財布をはたいて買ったものばかりだから、大して価値があるものなどあまりなかったが、どうしても手放したくないものがある。学生時代、一心に読んだ経済学関係の名著数冊、文学関係の個人全集、近現代史の叢書類、太平洋戦争と海軍予備学生に関するもの、古典叢書、宗教関係の数十冊など、一冊ずつ手にとってページを繰りながら「廃棄の部」に放り込むことはかなりの苦痛であった。
 やっとの思いでこの二分割の作業を終えて、「残すもの」の部に何冊入っているかと数えてみるとざっと百五十冊。うーん、まあいいや、これくらいなら辛抱しよう。そう思って廃棄の部の何百冊かをひとまとめにして、粗大ゴミの日にせっせと集積所に運んだ。ああ、あれもこれも処理車の鉄の歯でズタズタに刻まれてしまうんだなと思ってしばらくその場を離れられなかった。

 だが、放棄してからなんとなく気持ちが軽くなったのも事実である。大切だ、必要だ、絶対に手放せないと考えていたことが私の妄想に過ぎなかったことが、今ではおかしくさえ思われる。
道元さん、さようなら、チェホフさん、荷風さん、さようなら。そして一月十七日の大地震くん、私の目から鱗を落としてくれて本当にありがとう。
片足のマラソンランナー 白倉 貴子(三十一歳 主婦 西宮市)
 去年「阪神大震災を記録しつづける会」に自分の気持ちを少しでも整理することができるかもと思い手記を書いた。これで全てを終わらせるつもりだった。

 投稿したことすら忘れていた頃テレビ局の取材をしたいという話がきた。自分の中では終わったことと片付けたものをまた全部ひっくり返されてぐちゃぐちゃになるのかもしれないという怖さを持ったけど、話をせずに終わらせてしまうのも失礼だと思ったので会うことにした。

 テレビ局の方は私の話すことを「聞いてくれた」。私にはただそれだけでうれしかった。
 「まだ若いのだから」とか、「あなたよりも不幸な人は大勢いるのだから」と言われていたから、悲しい気持ちや追いつめられていく行き場のない怒りをどうにかして分かってもらいたいという思いがあった。話をすればするほど「もう充分。うんざりした」と突き放されていたからうれしかった。
 そんな私ですら、地震の特別番組を「もう三年なんだ」と「まだ三年なんだ」のごちゃまぜの気持ちで見ていたし、『今、まだ、やっと…』の出版記念会に出席されていた方々のお話を聞くことができず、本も読めないままでいる。

 自分の話を聞いてもらったことでうれしかった、という体験をしていながら私にはできない。「かわいそう」だとか、「何とかしなくちゃ」と言っても、遠景画を見ているようなもので、第三者のきれい事でしかないように思える。仮に私が他の被災地へ出かけたとしても本心では「他人事」と思ってしまうだろう。
 しょせん人間関係なんて利害関係で、人間なんて残酷で冷血なものだということかもしれない。くやしいけれども。事実、いろんなところでいろんな事件や災害が起こっているのに何もしようとしない私達がここにいて、気に止めようともしていない。
 そんな思いを持っている反対側で「私にでもできることをやってみたい」と考えていたけど、なにをしていいか分からなかった。ボランティアだのチャリティという言葉は嘘くさくて、見下す感じがあって、素直に受け止められない。

 去年カナダへ行った時「片足のマラソンランナー」の展示物を見た。すごくショックを受けた。ガンで片足を切断したにもかかわらず、生き残った者の責任を受け止めて走り出した彼の強さに、頭をかち割られた思いでその場所から立ち去れず「私にもできることはこれだ!」と思った。
 彼はガンが再発して途中でマラソンを止めなければいけない体になっても希望だけは持ち続けていたし、自分を哀れんで「なぜ僕が」と言ってないで、事実を認めて、闘い抜こうとする姿を見せてくれた。
 彼の意志を心の真ん中で受け止めて、伝えていくことが「私にもできること」だと考えている。毎年行なわれているチャリティマラソンにも今年から参加をした。

 自分のやっていることは単なる同情じゃないかとか、自分の中で美化しているだけなのかもしれないとも考えた。私はそれでもいいと思っている。震災後「自分だけがなぜ」というところから抜け出せなかった気持ちから、小さい勇気を与えられたことが間違いないことだけは、私自身が一番知っている。
立候補宣言 守田 基師子
(五十五歳 話し方教室主宰 中央区)
 私は中央区の三宮で被災しました。折悪しく入院中の長女と、東京に下宿し大学に通う長男を抱えて、経済的に苦しい時期でした。特典のない一部損壊の証明書ではなく、半壊の証明書をもらおうと努力しました。それは被害の状況から見て、当然だと思ったからです。もっと軽微な損害でも半壊の証明をもらっている人もいました。
 何度も役所の窓口に願い出ましたが、最後に担当者が、
 「お気持ちはよく分かります。しかし、決まっていることはどうしても変えるわけにはいきません。どうしてもとおっしゃるのなら、方法はひとつだけあります」。
 藁をもつかむ思いで、その方法をたずねると、
 「あなたが法律を変えてください」という返事でした。一瞬私は何を言われているのかが分からず、次に愕然としました。

 法律が弱い立場の者の味方になっていない。それを教えてもらったと思い、今では感謝しています。それまでの私は、地域のことや弱い立場の方々について、さまざまな問題は感じていましたが、自分で汗を流し、動いていなかったことを反省しました。

 平成十年一月、神戸で新しい動きが始まりました。神戸市は震災という大災害があったにもかかわらず、計画通りに、神戸空港建設計画を進めようとしています。それまでの私なら疑問は持っていても、仕方がないのかなあとあきらめていたでしょう。
 しかし、あの「あなたが法律を変えてください」という言葉を思い起こして、行動に移しました。行動せず、文句ばかり言っているだけでは何も変わりません。
 暑い夏の日、八月二十一日から九月二十日までの一カ月間、神戸空港の是非を問う、住民投票の条例制定を求める署名運動が、全市で起こりました。私も地域の世話人として、走りました。戸別訪問、街頭活動、夜遅くまで事務処理と、翌日からの行動を検討するミーティング。全員が倒れる寸前まで働きました。

 市民の皆さんの反応はものすごく、こちらが圧倒され、励まされた一カ月でした。
 結果は三五万二七五五筆(選挙管理委員会は、審査後三〇万七七九七筆と発表)。だれがこれだけの結果を予想したことでしょう。
 署名簿を市長に提出し、特別議会が開かれ、議論が交わされました。神戸市議会の議員数は七十一名(うち一名欠員)です。神戸空港建設に賛成の議員は五十一名、反対は十九名でした。しかし、三十一万にも及ぶ署名と、市民三十名の意見陳述によって考え直していただける議員もおられるのではないかとの期待は裏切られ、住民投票の条例制定は実りませんでした。
 平成十年十一月十七日、空港等特別委員会で、平野委員長は栗原議員の質問中、突然採決を採り、傍聴していた私たちがあっけにとられる間に、強行採決で否決されました。
 その夜のことは今でも忘れません。流星群が大勢の人々を楽しませた夜でした。しかし私はそんなことも忘れて、遅くまで傍聴しました。家に帰っても涙が流れて仕方がありません。

 つらく苦しい思いの中で、私は自分自身により厳しい結論を出しました。四月十一日に行われる市会議員選挙に、私の震災の原点である中央区から立候補する決心をしたのです。いざその意志を固めると、今までに見えなかった複雑な人間関係があからさまになり、精神的には決してよい状態ではありません。しかし、だれかが声を上げ、一石を投じなければ、何も変わりません。さまざまな荷物を背負っている方々の荷物を、少しでも持たせて頂けるような私でありたいと、願っています。

 中央区に住民票を移し、事務所を開き、私の新しい挑戦が始まりました。事務所の備品はすべて、支持者の方々が持ち寄ってくださいました。立て札も手作り、チラシも交代で印刷し、いろんな方々が、仕事休みや、家事の合間を見つけて支えてくださっています。経理や活動の内容を公開しながら、選挙戦を進めて行くのが私の方針です。結果がどうであれ、毎日の生き方に全力投球し続けたいと思います。自分に何ができるかを考えて行動し、震災以来支えてくださった大勢の皆様にお返しができればと考えています。皆さんのお心を分けて頂いての、おかげさまの人生です。

来年の手記の中で、また新しいご報告ができるように、これからの一年をしっかりと地に足をつけて生きてゆきたいと思っております。
在日一世 高 奉淀(コ ボンチョン)
(七十三歳 無職 尼崎市)
 私は在日朝鮮人一世です。私は地震のない牧歌的な韓国済州島で生まれ育ちました。
 あの日ドンという大きな音と共に二階が空中に浮かんだかと思うと私の体も浮き、その途端轟音と共に激しい横揺れ、たちまち周りのタンスや書棚、鏡台などが一斉に倒れたり崩れ落ちたりして私はタンスの下敷きになってしまったのです。
 「アボジ、アボジ」と泣き叫ぶ妻の助けを借りて、無我夢中でタンスの下から這い出し九死に一生を得ました。
 このように私の地震被害も凄かったのですが、わが在日同胞が大勢住んでいるケミカルシューズの町、神戸の長田区は地震による大火事でたくさんの家が焼け多くの人が死に、その惨状は目をおおうばかりでした。

 私はその惨状を見た瞬間、その昔、関東大震災の朝鮮人大虐殺の様子が頭をよぎりました。在日一世であるが故に特にその感を深くしたのです。
 しかしこれは私のとんでもない杞憂に過ぎませんでした。この悪夢は昔のこと、阪神大震災では民族の壁を越え韓国朝鮮人と日本人との友好親善の無数の美談が生まれたのです。

 神戸の被災地にある朝鮮学校には韓国朝鮮人と日本人の別なく大勢の人が避難し、日本全国の在日同胞から送られて来る救援物資とボランティアの同胞が炊いてくれる朝鮮式雑煮の温かい「トック」に舌鼓を打ちました。ようやく助かった気がすると異口同音に感謝しました。在日同胞と日本の方たちは、お互い協力し合って震災復興に立ち上がったのです。私もその中の一人でした。
 このような友好親善の助け合いに神戸長田区のある町会長さんは「目の前に朝鮮学校があるのに一回ものぞいたことがなかった。ところが大震災で一緒に共同生活をするうちに韓国朝鮮人の暖かい情に接し、今まであまりにも無関心だったと気づいた」と率直に語りながら、今後は在日の人たちとももっと仲良くし朝鮮学校も支援しなければと涙ぐむのでした。

 また著名な評論家や有力新聞の文芸欄の審査員も、避難生活中、在日同胞達が自分たちも被災者なのに率先して炊事を担当し皆の世話に走りまわっているのを見て目頭が熱くなったと、その感動を「夕陽妄語」という一文であるいは「大寒」という短歌などでそれぞれ新聞紙上に発表してくれました。
 私は民族の壁を越えて人が人を助ける人間愛と言いましょうか、国際愛すなわち博愛の精神と言いましょうか、何とも言えないその美しい姿に感動を抑えることができず新聞に投稿しそれが載りました。するとまた反響があり多くの日本の方から激励の手紙や電話、さらにはたくさんの生活用品、お寺の和尚さんは数百冊の般若心経も送ってくださいました。高槻市の小学校の女の先生は三十万円ものお金を朝鮮学校再建の費用にと送ってくださいました。
 他にも日本の先生方や皆さんが義援金やら教育図書なども送ってくださり、おかげで被災朝鮮学校はめでたく新校舎の完成を見ることができました。私は美しい日本と日本人の優しさ親切さをしみじみと感じた次第です。
 私は在日一世で過去の日本軍国主義のもと植民地朝鮮への民族文化抹殺政策によって、少年時代に母国語と、創氏改名で祖先伝来の名前を奪われる民族的差別を受けました。その上徴兵で兵隊に取られ半島出身ということでさんざんいじめられ言うに言われぬ辛酸をなめました。
 すなわち民族の「ハン」(恨)を背負っておりましたが、阪神大震災の極限とも言える状況の中で繰り広げられた人間愛、花開いた国際愛、韓国朝鮮人と日本人とのすばらしい心の交流、そして助け合いに私は過去の忌まわしい民族のハンの思い出もきれいに拭い去られるような気がしたのです。
 その人間愛、団結の力こそが大地震に打ち勝つ力でありすばらしい被災地阪神の復興をもたらすものと信じて疑いません。

 むろん今も在日同胞はさまざまな形で差別され、人権侵害も残っています。それは時たま心ない一部の人達によってもたらされる「チマチョゴリ」を着た朝鮮の子らに対するいじめ、すなわち「朝鮮人、帰れ」「朝鮮人、殺すぞ」などの暴言や暴行の悲しい事実でも分かります。
 しかし私はあの阪神大震災の国境もなく民族の壁もなく、差別もふっとんだあの麗しき事実を声高に叫びたいのです。私は在日の新しい世代が民族の誇りを持ち人間愛に満ち、地域住民として地域社会の発展に貢献し韓国朝鮮と日本との友好親善の先頭に立ち、共生の花を咲かして欲しいと願ってやみません。そしてこれこそ人と人、心と心で結ばれる世界、真の国際化を促すものと信じて疑いません。これはアジアの平和、世界を花の輪でつなぐことにもなるのです。

 私はあの阪神大震災を通じて得た人間愛、そして国際愛、博愛の精神を私自身、いつまでも心に刻みつけ今後の人生に生かし、意義ある老後を送るためにも、命ある限り歴史の証人として、あのときの感動を若者や子供達に語り伝える「語り部」として、各地の学校を訪問し、講演をしています。また積極的に地域、あるいは震災関係の集会に参加し韓国朝鮮人と日本人との友好親善の美談を紹介し交流を深めています。そしてあのときの真実を決して風化させてはならないと固く心に誓っているのです。
鳴き声 渡邊 芳一(七十一歳 無職 西宮市)
 阪神大震災のあった日から数えて六日目は日曜日というのに、被災地は朝から恨めしい雨でした。
 地震のため、ほとんどの建物が被害を受けているうえ、ときおり起こる無気味な余震に脅えながらも、着の身着のままの避難所暮らしをいつまでも続けることもできず、変わり果てた我が家に危ないとは分かっていながら、戻って行く人達も出はじめた時期でした。
 幸いなことに私達の地域は電気と電話がいち早く復旧したこともあり、家々に明かりがつきはじめ、震災前の平和だった生活が思い起こされる雰囲気でした。
 そうした復旧もあって、一月二十二日の日曜日の昼近く、氷雨の中を避難所から傾いたわが家に一歩踏み入れたばかりのKさん一家を待っていたように電話のベルが鳴り出したのです。
 「もしもし、駅前商店街にいらっしゃったKさんの連絡先の方ですか。全壊しているお店の貼り紙を見てお電話したんですが、瓦礫の下から犬の鳴き声がしてますよ。もしかしたら、店先で見かけたあの茶色の子犬とちがいますか。いつも日曜日にお店の前を通って行くもんだからワンちゃんのこと知っているんですよ」
 電話連絡があった生き埋めの場所はKさんのご両親が経営していたお店でした。
 その子犬は、六十を過ぎた両親に子供たちからお祝として贈られたシーズー犬です。誰もが抱いてみたくなるような茶色の愛くるしい姿からチャチャと名付けて、老いた両親からかわいがられ、いつも店番をしてくれる、近所でも評判の賢い人気者でした。
 知らせを受けてすぐ、全壊した家へ飛んで行くと、ああ、あれほど探していたチャチャの懐かしい鳴き声が、倒壊した建物の下から聞こえるではありませんか。
 これまで発見できなかったのは、地震で一瞬にして暗闇に閉じ込められた恐怖から声も出なかったか、長い間気絶していたからでしょう。
 そのうえ子犬にとって何より不幸だったのは、震災の前日から、年老いた飼い主夫婦が身内の病気見舞いのため留守にしていたことでしょう。
 このため、両親は難を免れたとはいえ、チャチャが行方不明になってからその落胆ぶりは慰めようもないほどでした。
 そんな思いが駆け巡る一方、何とか助けようにも隣接していた大きなビルが倒れ込んで危険な上、掘り起こすにも二人や三人の手に負えるものではなく、雨の中呆然としていたときのことでした。
 近くのビルの工事現場から様子を見ていた恰幅のいい中年の男性が声を掛け、事情を聞いてくれたのです。そして即座に
 「わしも家でシーズー犬、飼ってますんや、よっしゃ助けたろ。みんな道具持って出てこい」と言ってくれたのです。
 親方の一声で職人さんたちは作業を放り出し、救出に取りかかりました。
 降りしきる雨の中、時たま思い出したようにかすかに聞き取れる子犬の鳴き声を頼りに、屈強な十人余りの男達の穴掘作業が始まりました。
 山積みの廃材や瓦礫をかきわけながら、ときどき、
 「ワンコー、頑張れよ」という励ましの中、作業は開始から三時間以上にもなりました。
 その頃には現場を大勢の人が取り巻き、固唾を呑んで見守っていました。
 「いたぞ」
 次の瞬間周りからどっと歓声と拍手がおこりました。
 こうしてチャチャは暗闇から六日ぶりに、嬉し泣きする飼い主に抱き上げられたのです。

 このドラマがあったのは西宮市内を走る阪急電車甲東園駅近くの商店街の一角でした。
 あの震災直後は数多くのペットが無情な飼い主に捨てられるすさんだ世相だったのに、優しい人にめぐり会えたチャチャはあの時から四年たった今も、日のいっぱい差し込む家で飼い主と幸せに暮らしています。
ある被害 池田 美樹(三十六歳 主婦 兵庫県加古郡)
 四年前、私は甲子園の浜側に住んでいました。幸い、JR側よりも被害は少なく、私の住んでいた宿舎も一部損壊程度で済みました。今もなお、仮設で暮らす人、愛する家族を失った人、そんな方々の苦しみと悲しみは私達には想像もできないことでしょう。
 しかしそんな私達、甲子園浜周辺の住民にもあの頃、大変不快なことがありました。四年たった今では、もう消えいりそうな出来事なのですが、私にはどうしても記録に残しておかなくてはならないような気がしてならないのです。
 地震から一カ月たった頃、すぐ近くにある甲子園浜から、真っ黒な煙が毎日毎日やむことなく、朝も昼も夜ものぼり続けました。それは、倒壊家屋の処理のために始まった野焼きでした。
 最初は、すぐ終わるだろうと思ってがまんしていたのですが二カ月、三カ月と全く終わる気配もなかったので、だんだん住民から苦情が出るようになりました。風の強い日には、焦げた臭いが漂い、すすやほこりでベランダに干した洗濯物も汚れてしまいました。昼間でも空はねずみ色の煙に包まれていました。夜には遠くで赤々とのぼる炎が見えます。

 咳をする子供が多くなりました。アトピー性皮膚炎が悪化し、喘息が増えました。
 私の息子も、もともと気管が弱かったので、やはり、咳が毎日続くようになりました。どうして廃棄物処理法に違反している野焼きをいつまでも続けるのか。
 その頃の私はダイオキシンなんていう言葉も知らなかったくらい無知だったのですが、友人からこの周辺のダイオキシン濃度は、おそろしいくらい高いかもしれないと聞いて、初めて市に対して怒りがこみあげてきました。妊娠八カ月だった私は一日も早くやめて欲しいという気持ちでいっぱいでした。
 それから私は息子の友人のお母さん達と何回も市に電話で苦情を伝えました。新聞にも取り上げてもらいました。
 甲子園浜には、約八十五万立方メートルの瓦礫が積まれ、満杯になっています。野焼きをしないと海にはみ出してしまいます。膨大な量の瓦礫を業者に委託すれば莫大な費用がかかります。
 「いいとは思わないが、他に方法がない」「どうしようもない」というのが市の答えでした。集まった瓦礫は十七年分のゴミの量と同じだったそうです。
 どうしようもないのはわかります。でもその煙の中に含まれるダイオキシンを吸い続けている子供達の赤ちゃんはどうなるのか、何十年後かにでてくるかもしれない病気のことを考えると、恐ろしくて仕方ありませんでした。
 五月に入り、やっと仮設の焼却炉が設置され、その後、五、六台に増え、野焼きの数は減りました。しかし、仮設の焼却炉では精密さはあまりなく、空気の悪さは変わらないように思えました。
 その後、全ての瓦礫を燃やすのに二年近くかかりました。
 その間に私は次男を出産し、母乳で育てました。母乳からダイオキシンが出ることを知ったのは断乳した後でした。長男は幼稚園に行くようになりました。その頃やっと空気のことも気にせず、子供達を外で遊ばせてやれるようになりました。本当に久しぶりにきれいな空気を吸った気分でした。

 しかし、依然としてこの周辺の子供達にはアレルギー疾患が多いような気がしてなりません。もちろん車の排気ガスによる汚染もありますが。
 地震で大勢の人が命を落としました。お父さんやお母さんを失った子供達も大勢います。大切な家を焼いてしまった人もいます。いくらそんな人達のことを思っても、私には野焼きの問題は大問題です。しかし、大惨事の中で起こった「どうしようもない出来事」としてあきらめるしかなかったのです。
 現在私は甲子園を離れ、播磨に住んでいます。野焼きが終わった後も、空気が気になっていたからです。そして私も甲子園の人達も、あの時のことをだんだん忘れ、以前の何もなかった頃と同じ生活に戻っています。

もし何十年後かに肺ガン患者が増えたとしても、野焼きが原因であったかどうかは分かりませんし、それを責めても仕方のないことです。しかし、もしそれが原因だったとしたら、せめて「あのときこういう被害もあったんだよ」ということを誰かに知っておいて欲しいと思います。
震災から 二反田 静香(宝塚市)
 震災から四年が経過しました。近くの仮設住宅も取り壊され、何処かの会社の元のグラウンドに戻りました。震災を物語る姿は建物の再建とともに無くなっています。

 西宮北口の駅の周辺も建物で埋まったので、もう殺伐とした荒野のような風景を見ることもなくなっています。西宮は大阪からも神戸からも特急で十五分はかからない便利な場所にある。独り暮らす身には魅力をさそう所だけれど、この駅で電車を乗り換える度に、理不尽な怒りと悲しみが湧いてきます。あの元気でエネルギッシュなフランス語の先生が、家に埋もれて亡くなられました。先生に最後に御会いした時の、髪をなびかせて大股に歩きながら、私に手を振って下さった笑顔だけが浮かんできます。先生がパリに留学されるすぐ前の頃でした。
 「パリでいろいろ新しいことを仕入れてきます。楽しみにしていてください」
 そうおっしゃって、時計台前の芝生を横切って行かれた、ファニーな笑顔。
 私が初めて先生にお会いしたのは、関学の聴講生として、「フランス文学講義」の授業を受けた時でした。それ以来、フランス語会話の教室などに参加させてもらったり、時々お家で催される学生達との食事パーティーにも二、三度お伺いしたこともありました。お料理が上手で、栄養不足になりがちな学生を家に呼んで食べさせるのだとか。東京にいらっしゃる奥様とは別居なので、主夫、父親、仕事の三役をこなしながら、映画の上映会なども主催されて、いったい体がいくつあるの?と不思議に思う程に逞しい方でした。殺されても死なない、そんな方でした。
 どうして、西宮の古い家屋を借りて住んでいらっしゃったのか。学生結婚で、いつものろけていらっしゃった、羨ましいようなフェミニストの先生が、どんないきさつで離婚されていたのか、最後にお会いしてからの事情は何一つ知らないのですが、震災で生き埋めになって、一瞬のうちに亡くなられてしまうような方ではないのです。
 あんなに素敵で、学生達に親しみ、慕われ、熱心にフランス語教育に取り組まれていた方が、死んでしまわれるなんて、許せない。
 西宮の駅を通る度に、心が震えてくるのです。外見はすっかり新しくなって、活気を取り戻したように見える西宮の、新しく建った建物の下で、苦しみながら震災に殺されていった無数の人々の声なき叫びが今も聞こえるのです。だから、震災は終わるどころか、生き続け、悲しみも怒りも終わることはないのです。

 昨年の秋、大学時代の友人に三十年ぶりに会い、母校の関学に行ってみようということになりました。時計台の前の芝生の横道を通り、文学部の旧校舎の前の木立のある中庭のベンチに腰をかけ、朝の暖かな光を浴びて友人と話しました。
 「このあたりに、学生達が椅子を持ち出して、フランス語の授業をしたの。フランス語を使って椅子取りゲームをやったの。震災で亡くなられた先生が、ここにいまでもいらっしゃるような気がする。先生はいつも賑やかで嬉しそうだった。学生達の笑い声が聞こえてくるみたい」
 社会学部の学生だった私には、学生の頃馴染みの薄かった文学部でしたが、先生に接し、何段も大股で飛び越して、上に下にと歩き回る先生の長身、笑うとマンガのオバQのような笑顔が脳裏に浮かぶ階段教室、コーヒーを自由に入れて飲ませていただいて学生達がたむろしていた合同研究室など、先生の存在と共に、懐かしく思い起こされるのです。

 それは震災という惨い出来事にもたらされた逆光であり、かけがえのない楽しい思い出なのかもしれません。震災は苦しみと怒り、悲しみも永遠に消えることなく生き続けさせるでしょうが、その半面、失った大切な人達の思い出を美しく輝かせることもしたのかもしれません。
まさかの時に 高島 節子
(六十五歳 キリスト教児童伝道師 西区)
 私はAさん宅のお話をぜひ知っていただきたいと思い、ペンを走らせました。Aさんは震災の十年程前に、西市民病院の近くに、長屋を二階に改築なさった住宅に居られました。十七日早朝も、ご主人はいつものように山に行かれましたが、虫が知らせたのか五時半頃帰宅されました。いつもは六時頃帰宅されていたとのことです。
 Aさんは激しく揺れた時は寝ておられ、あわてて着のみ着のままで、外に飛び出しました。寒い早朝、震えておられましたが、まだA家とお隣り宅は建っていました。まわりはもうペシャンコだったそうです。
 しばらく自宅を離れていて、Aさんたちが貴重品を取りに戻ると、下(南)から火がまわってきていて、もう手遅れでした。A家とお隣はたちまち火に包まれました。貴重品は、大切に押入れに仕舞っておられたので、一瞬にしてそれらを失ってしまわれたのです。着のみ着のままで。Aさんたちは一円たりとも、持ち合わせはありませんでした。
 囲りは何本かのあの太い電柱も、折れ曲がって倒れていました。ポストも焼けて、倒れているのもありました。
 そんな状態で、正常に戻られるまでのステップを、Aさんにお尋ね致しました。
 まず、たちまちのわずかのお金を、Aさんたちは恵んでもらいなさいました。そして、先ずなさったことは、北区の山の街に居られる息子さん宅に電話で、実印を作ってもらうように頼みなさいました。そしてすぐ息子さん宅にゆかれ、郵便物を受けるための、仮の場所を息子さん宅に決めなさいました。そのため、北区の区役所で、住所変更の手続きをなさいました。そこで、Aさんの新しい実印の印鑑証明と住民票を何枚か作ってもらいなさいました。
 その印鑑証明書と住民票とを持って、取り引きしておられた郵便局と銀行、生命保険会社などに、印鑑の紛失届けを出しにゆかれました。しかし、Aさん宅の行っておられた郵便局は、震災のため焼けていました。それで長田郵便局にゆくと、ここも半壊で、仮設の建物で業務を続けていました。この長田郵便局で、貯金の引き出しなどの手続きをなさいました。また続いて銀行や生命保険会社にも、住民票を持って、印鑑の紛失届けのため、三宮まで行かざるを得なかったようです。
 ある銀行では印鑑証明書の印と、焼ける前の印とが違うので、文句を言われたそうです。ご主人も、何回も三宮に足を運ばなければならなかったので、ノイローゼになられたようです。震災のどさくさのことで、郵便局も銀行、生命保険会社等も困り、第一、客の番号がわからなかったので、手間取ったようです。
 うるさい手続きを小まめにした甲斐があって、銀行の方は二週間でお金が出せました。郵便局の方はひまどって、三カ月後にようやくお金が出せました。想像しますに、郵便局、銀行等はAさん宅だけでなく、一時に被災者が押し寄せたので、混乱状態だったと思います。各お客さんがわかっていたのは、住所と名前、電話番号くらいでした。
 Aさん宅が息子さん宅に、住所変更なさった後、しばらくしてまた、長田区に転居届をなさいました。幸いなことに須磨区の名谷の方に、農協のアパートが被災者に優先的に入居できるようになったからです。ですからそちらには、長田区役所から住所変更の手続きをなさいました。また当時、あちこちの区役所での手続きの手数料は、被災者は全部無料だったとのことです。こうしてAさんたちは、農協のアパートに落ち着かれました。
 Aさんはこの恐ろしい経験から、私たちに緊急の為の用意を話してくださいました。

 まず、貴重品は取り出しやすい所に置く。
 郵便貯金通帳、銀行預金通帳等の番号を必ず他の所に控えておくこと。
 懐中電灯を、いつでも取れる所に置いておくこと。などなど。

 ある日のテレビで、被災者の家が全焼したので、郵便局でお金を出す所が映っていました。郵便局員は、被災者の住所、名前と電話番号を聞くだけでお金を渡していました。
 私の子供の頃、敗戦前、父はいつ爆弾が落ちても、貴重品を出す用意をしていました。しかし、大阪市内の大空襲の日、焼夷弾が隣と私の家の間に落ちました。不幸にも父の準備していた貴重品は、持ち出すことはできませんでした。父は悔しがって、何回も当時のことを話していました。

 被災した人々の上に、慰めがありますように願いつつ、ペンを置きます。
言 葉 多田 とし子(六十四歳 衣料品自営業 灘区)
 あの震災から三年も過ぎた。月日は目まぐるしく流れてゆく。商売柄、大勢のお客様と知り合い語り合ってきた日々も、遠い。
 あの日以来ちりぢりになっていった人々からのさまざまな声を聞き、胸を痛めたり、聞かなければよかったのにと思ったり、ときには涙を流したりした。そして一人ひとりの苦しい、悲しい真実のドラマが、生きる支えになっているのだということも知った。

 お客様が言った忘れられない言葉がある。
 「いま灘の区民ホールに避難しているの。九十の遺体と同居、だからもう何もこわいものなんかないの」。さりげなく立ち去った人に何と言ってよいのやら、私はとまどった。
 また取引先の同業の知人が家の下敷きになり、その家族を探し、たずね歩いたとき、見知らぬ土地の細い路地裏での仮住まいの一部屋に、親子四人のはずが三人よりそって座っていた。その知人の語る言葉は夫も私も涙なくしては聞くことができなかった。今思い出しても目がうるむ。

 あの日家屋の下敷きになった四人は、寒い暗闇の重くのしかかる家の下で声をかけあっていたが、崩れた家屋は、時を刻むごとにぎしぎしと崩れて締めつけてゆくとのこと。叫んでも叫んでも助けを求める声は外へは届かず、それどころか飛び交うヘリコプターの騒音にかき消され、潰された屋根の上を歩きまわる人の足音だけを頼りに叫んで助けを求める。
 「ここは駄目だ」と立ち去って行く人々の声や足音を聞いては「もう助からない」と幾度思ったか知れないそうだ。
 それを聞いたとき、この家族はどんな気持ちだったろう。そして高校生の息子さんの「痛い」という声が弱まり、静かになっていたころにやっと、前夜、飲食を共にした友人が、絶対この下に生き埋めになっていると言って救急隊を引き連れ助け出した。
 その時点では息子さんはまだ体温があったので、急いで病院へ運んだが、途中で息絶えてしまったそうだ。そして娘さんは下敷きになったとき、腕に何かがのしかかり、腕の神経が麻痺してしまっている。

 そればかりではなく、その悲しみ、苦しみの中、息子さんの火葬のため大阪、京都と車で走り続けたが、受け付けてもらえなかった。神奈川県まで息子さんの遺体を乗せて走り続け、やっと見ず知らずの土地で荼毘にふせたことを聞いたときは、私達夫婦の胸は張り裂けそうで、涙もかれる程だったが、この人達にかける言葉も見つからなかった。
 小さな仏壇に立てかけられた学生服姿の息子さんの遺影にただ頭を下げ、言葉少なに帰路についたあの日のことを三年たった今も思い出す。

 また、震災後二年程過ぎたころにやっと町角で会ったお客様に懐かしく、「お元気でしたか」と声をかけたとき「それが、あのときに中学一年生の孫が亡くなったの」と悲しそうに言われたとき、思わず「ごめんなさい、声をかけなかったら良かったのに」と後悔し目頭が熱くなった。
 するとそのお客様は本当に思いもかけないことを言って私を気遣ってくださった。それは「お声をかけてもらって、聞いてもらってよかったのよ、知らぬ顔をされた方がもっと悲しいのよ。声をかけてもらうことによって悲しみが少しずつ薄れるものだから」という言葉だ。
 これは体験した人にしか言えない真実の言葉だと思った。そして苦しみ、悲しみを味わった人程、人にやさしくなれるのだということも教わった。人の心が裸になったあの日、あの時誰もが感じた怒り、悲しみ、苦しみ、感動、これから歩む人生の道しるべにもなったあの日から今日まで時は過ぎた。

 でも人間なんて勝手なものだ。あの時水のない不自由さ、火のない不自由さをいやという程味わったはずなのにときどきころっと忘れてしまいそうになる自分の頭をゴツンと叩きたくなる。

 大勢出入りのあったお客様も今ではちりぢりになり、どこでどうしていらっしゃるのかと一人ひとりの顔を懐かしく思い、一日も早く元の場所へ戻って来て欲しいと願っている。近くの公園の仮設住宅におられた人々もまた、遠くへ移って行かれ、お客様がだんだん遠のいていくような気がする。
どこへ行かれてもまず健康だけはと祈っています。お元気ならばいつの日かきっとどこかでお会いできると信じています。
各賞選考委員座談会
出席者(五十音順・敬称略)
小橋 繁好 1946年岡山県生まれ 新聞記者
酒居 淑子 1944年兵庫県生まれ 兵庫県立神戸生活科学センター所長
笹田 信五 1948年大阪府生まれ 医学博士・五色県民健康道場長
高森 一徳 1947年広島県生まれ JECSグループ代表
田中 國夫 1926年兵庫県生まれ 追手門学院大学教授・関西学院大学名誉教授
田結荘哲治 1927年大阪府生まれ 元朝日新聞編集委員・近畿大学特任教授
山田 敬三 1937年兵庫県生まれ 福岡大学教授・神戸大学名誉教授
震災との関わり

小橋 みなさんの震災との関わりからお話し願えたらと思います。
山田 私の自宅は垂水区で須磨に近く、比較的揺れの激しかった所です。手記に出て来るような重い体験はないんですが、人並みの被害を受けました。一番大きかったのは、娘が落下物の下敷きになり、大腿骨骨折などと言われたショックです。何しろ水道が来なくて、病院へ連れ込んでもレントゲンが撮れない。とりあえずは大腿骨骨折ということで手当を受けました。そういう状態が続きまして、ようやく骨は折れていないと分かりました。誰かが亡くなったということは全くありませんし、私にとっては比較的軽度な被害でした。家具は半分以上、新品になりました。建物自体は鉄筋コンクリートで無事だったんですが、あちこちひずみが出ました。
肉親には、義理の姉や実姉の家が全壊になりましたからそれなりに影響が出ていますけど、こうして読ませていただいている非常に重い体験に比べますと、被害と言えるものじゃないなと思います。
その反面当時大阪に用事があって、いろんな交通手段を見た時に、何と大阪の町はのどかだなあという印象が強烈にありました。
田中 私の家は東灘区の阪急御影の駅の少し南西にあります。とにかく今のところ家もひっくり返らずにありますから、大変助かっています。
女房は自分の書斎におりまして、私は孫と一緒に隣りの部屋に寝ていました。女房の書斎に入ろうとしましたらドアが開かず、かすかに助けてという声が聞こえ、これはもう駄目だなと思いました。ちょうど、娘婿が帰ってきており、彼が女房の部屋のガラス窓を破り、私の肩車に乗って突入し、家内を引きずり出してくれました。運の強い女で、しぶとく生き延びて、私は現在大変楽しく苦しめられています(笑)。
あと困ったのは、水の調達です。「にしむら珈琲店」の裏に水を汲みに行きました。「あそこに水があるよ」と、口伝えで知り、水が手に入って助かりました。
他府県からきた自衛隊の車両を見て、涙がとまらなかった記憶があります。
地震の翌々日、毎日新聞社から、なにか書いてくれと電話がきました。「書くどころではない」と、返事しましたら、「書いたら先生が生きていることが分かりますよ」と言われ、書いたんです。その翌々日、私の記事が載り、遠くの友人・知己からお見舞いの電話が殺到しました。その時の感謝・感激は今も忘れられません。
酒居 私は伊丹で、主人と二人暮らしです。主人はたまたま東京に出張して、私一人だったんです。当時は、ポートアイランドにある生活科学研究所の所長でした。前の日に風邪を引いて熱が出ていたので、部下に電話して明日休むと言って、休むつもりでした。体もそんな状態だったので、すぐには地震だとは分かりませんでした。
とにかく物がいっぱい落ちてきました。うちはほとんど作りつけで私のベッドの上の本棚にたくさん本が置いてあったんですが、それがすべて落ちてきました。私は、なんとなく毛布を被ってじっとしていました。同じ敷地の中に夫の両親が住んでいます。逆に母親が安否を尋ねてくれました。あとですごく恥ずかしかったですが、とっさには動けなかったんです。悔いが残ってます。
伊丹には自衛隊の方が大勢いらっしゃいます。自衛隊に勤めているご主人が向かいにいらして、車の窓を全部開けて大きな音でラジオを流してくださいました。詳細までは聞けませんでしたが、たまたま携帯電話を買ったばかりの主人から電話がかかってきまして、東京ではニュースで流れたそうです。無事だとは分かってもらったんですが、すごく大きく報道されているとのことでした。
家は鉄骨でしたので外は大丈夫でした。しかし中は大分ひどい事になっていて、結局時期をおいて、一階も二階も全部やり替えました。
日常生活は、皆さんと一緒で水が出ない、ガスがないという不自由をしました。それでも一人だけでしたから助かりました。一人だけが生活するということは比較的楽なんです。しかもお正月過ぎでしたから。普段から地震のためだけではなく、性分もあり、料理も好きなので、食べる物は充分にありましたから心配はありませんでした。
ただ、情報が入って来るにつれて、東灘区の被害が大きいという事が分かってきたんです。私は東灘区の出身でして、両親は森南町に住んでいましたのですごく心配しました。電話をしても通じないし。電話っておもしろいんですね。発信音が鳴っていて出ないときと、話し中になるときがあるんです。公衆電話で何度もかけたんですけど。
何だかよく分からないので、地震後三日して訪ねたんです。そうしたら、「近くの小学校に行ってます」という貼り紙があって、そこで捜し当て無事を知り、ひと安心しました。明るく元気だったんですが、父親も四時間ほど埋まっていて、近所の若い男の人に引っ張り出してもらっていました。たまたま母親が先に起きていてすぐに外へ飛び出し、中に人がいるということを伝えて分かってもらえたということです。手記の中にもありましたが、知られなければ後回しになると、切実に感じました。
笹田 震源地の淡路島ですので、えらいことじゃないかとみなさんに思っていただくんですけど、実際は家の方は中はぐちゃぐちゃですが建物は別状ないし、職場の方もほとんど影響なかったんです。ただ、こういうことは直後に起こる問題と、何年もかけて起こる問題とがあると思うんです。そのあと職場(五色健康村健康道場)が経営危機に陥りました。震源地の淡路島ということで、入所者に敬遠されました。全国からお越しいただく特殊な施設ですから厳しかったですね。
それからもう一つプライベートなことなんですが、父が関係していた施設が大被害に遭いまして、その再建に負担、心労が重なったんでしょう、去年亡くなりました。
田結荘 私は厳しい体験ではないんですが、大阪市淀川区の新大阪駅から六分くらいのマンションに一人で暮らしていました。被害がなかったわけではありません。どういう形かと言いますと、自分の書斎兼居間みたいな所で、直に布団を敷いて寝ていたんです。壁面に資料をいっぱい持ち込んでいるものですから、見事にそのスチールの本棚がばったりと倒れて、寝ている私の上におおいかぶさってきたんですね。それが頭にでも当たっていたら、今ここに出ているかどうか分からないんですが、たまたまライティングデスクが出してあって前に椅子があり、本棚はそこに引っかかって止まったんです。そんなわけで本棚による被害はなかったんですが、本棚から本がどっと吐き出されました。それが布団の上に山になって、当時私は六十五歳を越していましたし、体力もないほうなので、本の山の下敷きになって、布団から抜け出せないんです。電話も、携帯テレビもすべて日常に必要な物は枕元に置いてあるんですが全部埋まりました。もちろん電話はしばらくは通じなかったですけど……。
大阪の場合でも電気は完全に消えました。何しろ寒い時ですから、社会的なラインが全部切れますと高齢者は完全に風邪をひきますね。その日、朝日カルチャーセンターの仕事があったんですが、電話がかけられないものですから、開いているかどうか分からない。公衆電話でそれどころではないと知りました。
私は元新聞記者です。年をとってもその根性が抜けません。ですから他の人々よりも、刻々のニュースの変化というものをずっと見続けていたんではないかと思います。さきほど酒居さんも、東京の方のほうがよく知っていたようなことをおっしゃいましたがその通りなんです。私は一番最初は、伊丹で地震が起こったと思ったんです。阪急の駅が崩れ落ちたといっていましたから。あれが一番早い画像でした。その次が国道43号線ですね。むしろ遅かったのが長田、あの辺りということになるわけなんでしょうけども、それがなかなか映像に出てこなかったんです。
もう一つは、地震の大きさについての認識です。私も南海大地震や福井大地震を知ってますし元社会部の記者ですから、あれだけ揺れると大阪で震度四くらいであろうと、災害の推察はある程度出来るんですね。
どうも阪神間がやられているらしいとは思いました。そのときやはり新聞記者としてですけど、犠牲者は何人になるだろうか、百人もいかないだろうと思ってました。というのはこういう世の中でこれだけの立派な建築物がある。台風や大火で、何人かが亡くなりましたけれど、戦争以来、そんなに簡単に死ぬようなことはない。初めは千人は超えないないだろうと思いました。そのあとすぐに千人を超えて、毎日のように数字が増えてきました。テレビで見た数は五千人台でして六千になるのは後ほどです。その後は長田の焼け跡が、全体が少し落ち着いてから映像になり始めて、ああこれはひどい、戦災と同じだなと思いました。
山田先生が、「大阪はのんきだ」と、おっしゃいましたけど、たしかにその通りだと思います。つまり局地的な被害に対しては、日本だけではなく、ロサンゼルスもサンフランシスコもそうだと思いますが、大都市はいかに弱いか。たった三十キロも離れるとカバーができないのですから。三十キロ動けばゆったり風呂に入れるし、百貨店には何でも物を売っています。それがたった数十キロの差でできない。
どうも第三者的な感想ばかりで申しわけないんですが、現在私は大阪の阿倍野に住んでいます。阿倍野区、西成区の一部には、旧来の木造の家屋が戦災にも遭わずに残っているところが少なくない。もし大きな地震が起こったらどうなるか。近代建築の、がっちりした、船場、中之島辺りにあるようなビルはほとんど影響はないと思いますが、災害は一番弱いところを襲うと思います。いろいろと考えさせられました。

   「阪神大震災を記録しつづける会」

小橋 「阪神大震災を記録しつづける会」を結成しましたが、関わったきっかけをお聞きしたいと思います。
私は、地震当時は東京本社にいまして、前から知り合いだった高森さんに何かできることはないだろうかと聞かれ、記録を勧めたわけです。その理由の一つは関東大震災などの場合、ほとんど市民の記録がない。高森さんが関東大震災関連の本を神戸で探されたけどないんです。東京だったらまだ売れてないだろうから送ってくれないかと。さすがに関西では震災関係の本、あっという間に本屋から売れてしまったんですね、東京ならまだ残っていた。
しかし、市民の生の声を集めた本はありませんでした。公文書とか内部資料はあるんですが、個人の書いた記録というのはほとんど残っていません。そこで、この震災ではやろうと意気投合しました。
場所は離れていたんですが、電子メールでやりとりし、とにかく一冊目をなるべく早く、最初の段階では三月か、四月くらいに出版しようとしました。でもちょっと遅れ、新幹線が復旧する五月、それまでに何とか出そうということで大急ぎで作ったのがそもそもの始まりです。その時点では、五冊目まで続くとは思っていませんでした。
みなさんはどういうきっかけで関わられたのですか。
笹田 震災の起こる前の十二月、県民会館で、新しい健康医学の市民講座をスタートしたんです。高森さんも事務局長として加わってくださっていました。第二回目の一月、地震が起こってしまったので、急遽、「阪神大震災の心の復興をサポートする会」に変えました。それがこの会と関わるきっかけです。
なぜ心かと言うと、一つには僕は外科医でもないし、最近薬も使わない医者をしているのでなおさらなのですが、やっぱり見つめてみると健康の問題は心のストレス、心身症的なところが非常に多いんです
その観点から手記を見せていただくと、毎年少しずつ違うんですね。ずいぶん違うと言った方が良いでしょう。いろいろなことが起こっているし、人によって取り上げ方が違うと思うんです。
僕はこの震災で五つの喪失があったと考えています。一つは健康。これは直後に失ったものもあるだろうし、あとになって不定愁訴みたいな形で出てくるものもあります。第二は生活基盤。三番目には原点。四番目には命です。そして最後の五番目が、生きるエネルギーです。
僕は回答を出し、サポートしていくわけですから、この間それに対する回答をどうするか。それを模索してきたわけです。
酒居 私はポートアイランドで、地震後に生活情報紙を出していたんです。全戸配布でずいぶん住民の方から反響がありました。私達にしてみたら常識みたいな情報です。少ない水の使い方とか、洗濯の方法とか、それが意外とみなさんに喜んでいただけました。そういう中から、高森さんが住民に聞かれたんじゃないんでしょうか。ちょっとお聞きしたところ、選考委員に女性がいないということで探していらしたようです。それでこういう物を出している所長がいるということで、お電話があったと思うんです。それがきっかけです。
一回目の選考があり、読ませていただいて、趣旨も聞かせていただいて、すごいことだな、民間の方で、まあ言ったらボランティアですよね。普通行政がよくこういうことをするんですけど、そうじゃなくて自分でやってみようという高森さんに敬服し、すごいなと思いました。私財を出されて十年間続けようという。私、続くか、それだけの応募があるか心配しました。私もいろんな仕事しましたけどなかなかこういうものは続かないんです。
いろいろ続けるための新しいこと考えていらっしゃいますね。賛助会員を募ったり、勉強会をしたりということがずっと続いていて、あ、これなら十年はいくなと何年か前から思い始めました。続けることはすごいことで、それに応えてくる方が大勢おられるということに驚きました。
一回目からずっと続けて投稿している方が四人いらっしゃるんですね。その方々は、ここに書いて、また次の報告をしますと言っていますね。その方にとってはすごい目標なんですよね。宣言をして、次に私はこのように成長します、ここまでやりますというのもあり、それもこの活動の効果なのかなと思います。
意義といえば、今回の手記で、同じような悩みを持っている方が、学校の先生ですけど、いろんな人に話をしても分かってもらえない。でも第四巻で自分と同じような悩みを持っている人がいて、その人に連絡を取られたと書いてありました。そういうのも効用で、この本から交流が生れ、いろいろな提案がされて、前向きの広がりが出てくることも効果かと思います。どっちがいいということではないんですが、プラス思考の人と、マイナス思考の人があります。地震がなかったら、という論調で書いている方も大勢いらっしゃるんだけど、そうじゃなくてそれをバネにして生きていらっしゃるという方に大変勉強させられています。そういう意味で選考委員をさせていただいて生の声を聞く事によって、私自身が勉強させられているということです。
田中 私達も本を出したんですが、それは私だけが書いたのではなく、この近辺で震災に遭った社会心理学の専攻者に書いてもらいました。大学はいろいろ違いますけど、それぞれの大学で社会心理学を教えている者が、年齢の上の者からリレー式に書くことにしました。そうでないと、わしは書かんというような人が出てきたらいけないので。ナカニシヤ書店から「きずな」という名前で。副題を社会心理学研究としておいたら、専門家がもっと買ってくださったかもしれませんが、「きずな」だけで出てますからなかなか売れません。同じ社会心理学者でもそのときの状況その他でいろいろと取り方が違うなということの勉強が出来ました。
山田 きっかけは、朝日カルチャーセンターの講座を何回か企画させていただいたときの担当部長の高木康行さんからのご紹介です。それでこういう機会を与えていただいたんです。
私の場合は大学の中にかなり死者が出ました。留学生が七名亡くなりました。しかもその多くが、中国人でした。私は中国文学を専攻しています。直接顔は知らないんですが、あとで聞いてみますとだいたい経済的に苦しいものだから、学校近辺の非常に安い文化住宅にいて、それが潰れたり焼けたりしました。それは知らなかった実態でした。日本人は、比較的豊かな連中は、マンションに入っています。
また、生き埋めになって、火が回ってきて死んで行った学生もいるわけでして、たまたま二階にいたのが下を見て助けようとしたけど助けることができなかった。あれは生きるも地獄、死ぬのも地獄でしょう。顔は知らないんですけど、そういう話が次々出てきました。
一方、唯一死者として面識があるのは、大学の生協の購買部でいつも気持ちよく応対していた女性の店員です。地震後一向に顔を見せない。あの人どうしたんだろうねと言ったら、震災で亡くなったよという返事がかえってきました。未だに名前も知りませんけど、顔はよく見ていました。災害で死ぬというのはこういうことなんだなという思いがあります。
手記では、安藤衣子さんという方が毎年投稿しておられます。この人は、十分の差で自分は助かったけど、ご主人が下敷きになって亡くなっていたということを、めんめんと書いておられますよね。そういう中でおそらくこの人にとっては書くという行為が心の癒しになっているのかなと思いながら毎年拝見しています。しかし一向に、癒されているように見えません。きっかけを作りたいと考えられたのか、昨年七月に自分史を書き、ある程度まとめてみた、ということを書いていらっしゃいました。
そういう方の苦しみというのは、我々の想像力では理解できないような世界なんだろうなと思いながら読ませていただいています。私自身は何もやってませんからせいぜいそういう方々の証言を読ませていただいて、こういう形でまとめていただければまた、どこかで役に立つんじゃないかなという気がします。
小橋 記録しつづけていくということについてのご意見を。
田結荘 私も元新聞人として、情報を伝えるということは非常に大事なことだと考えています。こういう文集の形にしておけば、残りやすいし、伝わりやすい。関東大震災の庶民の手記を探してもないのは、僕は当たり前だと思うんです。というのは一般大衆はまだ新聞も取らない時代ですから。一九二〇年代というのは、新聞を取る家は村では一軒か二軒くらいの時代でしょう。
ですから、逆に言うと戦後半世紀たって、個人の能力に違いはあるものの、ものを書き、文章をまとめることが、一応出来るようになった。これは大きなことだと思います。
当時の新聞記事でもある程度のことはわかるんですが、どうしてもハートをつかむような文章にならないところがありますね。たしかにこういう形でとつとつと語られる文章、なかには恨みつらみもあるし、いい話もあるしという手記は、「やっぱり人間だな」という感じがあります。
中にはそこに吐き出すことによって、少しは聞いてもらったということが癒しになることもあります。私が担当している文章教室でもよく言うんですが、自分史を出したからといって必ずしも読まれるとは限らない。だが、そこへ自分のものを出したということが癒しになるのではないかと思います。またそれを読んだ人が、自分と一緒だということになればまたこれがいいし役に立ちます。
それからもう一つ。被災しなかった第三者、東京の人とか、近畿地方以外の人にもう少し分かってもらうというのはやっぱり大事でしょうね。そのへんのお手伝いが少しはできるだろうと思います。
高森 あ、ちょっと。黒子が喋ったらいけないんですが、先生方みなさん謙虚で、この会をどう助けてくださっているかということをほとんどおっしゃらないので、こちらから申し上げます。
田中國夫先生は、社会心理学者として立派な業績がおありだということは分かってましたけど、教育者として、励ましがお上手なんです。ことあるごとにファクスや葉書で激励してくださいます。これはすごく励みになります。
田中 昔、ラブレターをよく書いたなごりかもしれません(笑)。
高森 とにかくこの活動、十年十巻と宣言していますが、いきあたりばったりでしてね。初めは「発言弱者」の外国人の方の手記を集めようとしたんです。ところが、実際にポスターを貼っていたら、なぜ日本人のを集めないのかと言われ、日本人用のポスターをあわてて作りました。今では新聞各紙や公募雑誌が時期になると告知してくれます。それで新たな投稿者の手記が寄せられています。今回も朝日新聞の安村弘さんが書いてくださった記事、募集要項をしっかり書いてくださったので、これで新たな投稿者がかなり増えたと思います。
このように他力本願でやっていますけれど、そこでやっぱり選考委員の先生方の励ましやアドバイスがありがたい。
山田先生は、第一巻で外国人の手記が二割強寄せられて、翻訳が大変だったときに、奥さまも手伝ってくださり、非常に助かりました。奥さまご自身が自分史のご研究をされていて、そのレポートもいただきました。自分史を書くことにどういう意味や意義があるかということを、発達心理学の立場で研究されているんで、これも非常に勉強になりました。
それから酒居先生は、地震直後からポートアイランドの住民への全戸配布の「ポートアイランド生活情報」を発行されていました。たとえばトイレのタンクの中に、水を入れたペットボトルを入れておくだけで水が節約になるなど、具体的で役に立つ情報です。住民は大変感謝していました。
実際に活動を始めてからは、同じように手記を集めているグループもご紹介いただきました。ホームぺージに掲載している「七十九人の証言」も酒居先生の生活科学センターに出入りしている方々のものです。講演会では、生活者の立場からどういう震災手記が書けるかという提言もしていただきました。
笹田先生は会を始める時に、「これは続けることが大事でしょうね」と非常に強調されました。「つづける会」の「つづける」は、笹田先生のご提言を踏まえて、厚かましくも地震直後の二月に命名しました。その後も先生が主宰されている心身医学の会で、被災者の心のケアをテーマに講演会をしていただきました。私も事務局としてお手伝いをし、県民会館が修理で私学会館へ移ったり、なかなか会場確保が大変な時にやっていただきました。その会からの投稿者や賛助会員が何人かいらっしゃいます。
田結荘先生は朝日カルチャーセンターの文章教室の講師もされております。私は神戸教室に一年半ほど通わせていただきました。この会が発足してからも記録の取り方というテーマでお話をしていただき、それを会報にも載せ、第二集にも掲載しました。思いが深いのはよくわかるけれど、最低限押さえておかなければいけない文章のルールとマナーはあるという趣旨です。その効果もあってでしょう、連続投稿者の方々の文章は非常に簡潔で明瞭になってきています。被災地のボランティア団体で、会報を出版されている方が、講演録をレジメにして、使っておられます。

   手記の変化

小橋 じゃ次は体験記の中身に入りましょう。今度で五巻目ですが、一巻目から五巻目までの変化で感じた点がありましたら。
田結荘 二巻目から大分変わって来ましたね。私は本当はもっと変わって欲しいと思うんです。というのは、三巻目くらいの原稿でもまだ「あの五時四十六分……」という書き出しから始まって、被災状況を書いている方が多いんです。もちろんそれはそれでいいんですが、そこから書き出すものだから肝心のところに行くまでに大分時間がかかります。それが非常に特異なものであり、今までになかったようなスタイルであれば発生時の苦労、災害そのものの苦労、大変さをお書きになっていいんですが、そのへんがあまり変わらなかった。
逆に後になって出てきた作品では、人間のいろんな面がいい意味でも、悪い意味でも出てくるわけです。非常に達観して悟っている方もいれば、一つひとつのことがストレスになってくる方もいます。その意味であらためて、震災の重み、多様性を感じました。
文章は全体にお上手なんじゃないでしょうか。よくわかる文章が多いですね。
小橋 たしかに二年たち、三年たっても、一・一七のあの日から書き始める人が非常に多い。
本にするには選ぶわけです。残念ながら掲載できなかったほとんどは、そのような手記なんです。二年たっても、三年たっても、本人にとっては非常に重たい体験で、みんなに聞いてほしいんです。ところが、二年目、三年目という時の流れをメーンにしますと選びにくい。しかし、投稿者の中にはあの日のことだけを書く方が、未だにいらっしゃるんです。
田結荘 それは当然だと思うんですよ。われわれは沢山の本を見てますからその中で差をつけ、違いを見つけようとしてるけど、ご本人にとってはそれ一つですからね。あの時しかないんですから。
酒居 だから四巻目でしたか、初めての方と、連続投稿者とを分けられたのはそういうことなのかなと。
小橋 そうなんです。
酒居 連続投稿者は前のところをさらっとお書きになるけれど、初めてだと五時四十六分から始まるという感じがします。
小橋 ボランティア活動をした方で、四年目になって、トイレの問題だとか、初年度には出てこなかったテーマを書かれた方もあります。二年目、三年目になって初めて書こうかという気になって、非常に貴重な記録が出てくるわけです。そういうのは逆に、あの日のことなんですけど、後になっても意味がある。こういうことがあったんだなと。
山田 安藤さんの手記を見ていましたら、第一回は震災の直後に出てるんですね。非常にびっくりしました。あの段階では、とにかくなんとか、亡くなったご主人の思い出を整理しながら、事実を書いておられるところで止まってるんです。第二回になりますと非常に悲しみが深くなってきている。それを整理した上で、やっぱり持って行きどころがない苦しみみたいなものを書いておられますね。本当に一体自分の主人は何を悪いことしたんだろうかと、受け入れることのできない怒りを表現しておられるんですね。三回目くらいで過去の実績や経験のすべてを捨てて働きたいというふうにはおっしゃっているんですが、やっぱり第四回でもご本人は丸三年以上たって物欲をなくしてしまったとか、そういう形で変わってきたとおっしゃっています。
一人の心の動きというのは他の人にも共通するところがあるんじゃないかと思うんですけど、立ち直ろう立ち直ろうとしながらなかなかできないでいるようなところが書かれています。夢の中にご主人が出てくる。長年連れ添った人との別れは 簡単に切り替えることはできないんですね。新しい仕事を始められたということや、お孫さんが生まれたという新しい喜びはあるんですが、また別の次元の話です。そういうことが感じられます。
田中 今回の、ある手記を見て、とたんに読む気がなくなったことを思い出します。これ見てたらね、大空襲で東京がやられてしまったのに比べると、神戸の震災はたいしたことないというようなことが書いてあるのです。
小橋 そういう人がいることも事実なんですよね。
田結荘 戦災と比較するという視点は悪くないと思うんですけど、それなら震災とどこがどう違うのか。戦災のときは仮に神戸から逃げ出して大阪へ行ってもどうしようもないわけでしょう。東京へ行ったって駄目なんです。でも関東大震災のときには資料を読みますと、静岡辺りまで逃げて来てヤレヤレと思ったとか、横浜から船で脱出したらどうだったとかいった話があります。
つまり現場を去れば、救いがあるわけです。阪神電車で梅田へ着けばそこには何でも売っている町があったというのと同じです。そういう違いをきちっと体験の上で出していただければ、それはそれで一つの視点にはなると思うんです。
山田 知人が心配して電話をくれたんですが、こちらの思いというのはまったく分からないんですね。分かってもらおうとも思わないけど。とにかく一歩家の外へ出てもどこへも行きようがない状態というのは向こうの人には分からないわけです。そしたら何してるんだということになるわけです。そのへんで起こった感情的な齟齬というのは当時から私はあったと思います。
だから時差もありますけど、イマジネーションの不足という、我々が逆の立場だったらやはりそうなると思うんですが。私はイマジネーションというのは大事なんだなと思いました。他人の立場というのはなかなか分からない。人を亡くした人の悲しみは、分かりますと言いながらやっぱり分からないことが多いです。

   ボランティア活動

小橋
 ボランティア活動についてどう感じていらっしゃるのかお聞きしたいんですが。
山田 ボランティアという概念が定着したのは阪神大震災からのような気がします。
酒居 介護とか、ああいう福祉のようなものがボランティアという感じでしたが、震災後は暮らし一般の援助がボランティアという感じですね。
田中 私は今、神戸市がやっている神戸市市民福祉大学の学長を仰せ付かっています。学長の私と副学長と、四名のディレクターがいて、ディレクターは関西学院大学の社会学部出身の福祉の専門家です。お一人のディレクターに生徒が各二十五名です。そして一年目が初級コース、二年目が中級コース、三年目が上級コースと上がっていくんです。年齢は八十八から二十数歳の人まで百人ぐらいの定員でスタートします。先日、上級コースの卒業者十六名を送り出しました。八十八歳の人が上級コースにおられ、元気一杯、さわやかに卒業されました。
この人達がいっしょうけんめい心の癒し方のを勉強をしておられるのです。
もう一つ、私が運営委員を命じられております神戸市のシルバーカレッジは、国際交流コースや、総合芸術コースなど、大学と同じような勉強をしておられます。しかも、かつて会社の社長なんかしてた方々が生徒さんですから、大学の先生よりよっぽど実践に即した見識を持っておられて、どちらが先生か分からないこともあるようです。卒業論文なんか堂々たるものです。先日も私はその発表会に出席しましたが、現役の大学生よりずっとレベルは上だと思いました。
酒居 この会の活動もボランティアですよね。
高森 記録ボランティアです。ただ、この会のおもしろいのは、アマチュアの投稿者には謝礼を出し、編集や翻訳などのプロの方は、みなさん無償で参加してくださっている点です。
山田 あとからよく反省が出るんですが、ある程度専門性を持ったボランティアと、何もなしにただお手伝いしたいというボランティアとはやはり違います。専門性を持ち、それを出すということは役に立つんですが、善意だけではそううまく行かないという気がします。この手記を見ていてもその方面に腕に覚えのある人達の手記は非常におもしろいです。
高森 笹田先生は、被災者の心のケアのボランティアをされていましたよね。ずいぶん大勢の方が来られていたようですが。九百何人ですか。あのボランティアはどうでしたか。
笹田 解決がないんです。結局それらしきものとなると自己説得になってしまうんです。だから手記を見ていても、一回、二回と中身は違うんですけど、解決されていないという点は同じですね。僕の立場からすれば、解決までいかないと何の意味もない、聞いているだけでは意味がない。
解決は非常にむずかしいと思うんですけど、解決されないままにしておくわけにはいかない。   亡くなった人のことは消えようがないし、そこが気にかかってしまってるんです。気にかかるともう前に進まない。選考委員というのはもっと客観的にならないといけないのに、まったく客観的になれない人間なものですから非常に気にかかってしまう。
ストレスは自己説得では解決しませんが、ストレスの原因を理解すれば悪循環は止まるわけです。たしかに、生活の基盤を失ったということはすごく厳しいわけです。もとへ戻そうと思うともっと苦しい。何よりも私たちはすでに物によって幸せになれないということを知ってしまってますので物のために頑張ろうとしても、元気が出ないんです。
実際そういう人にどのように接しているかというと、「そのまま他人の山を登り続けるんですか、それとも本当の自分を生きたいんですか」と聞きます。「他人の山を登るにしてもあなたの心の中に本当の自分を生きたいという気持ちはないんでしょうか」と、時間をかけて聞いていくと「やっぱり、自分を生きたい」とおっしゃいます。
そこまでいくと、解決が見えてきます。「自分を生きるのに何が必要ですか」と、尋ねます。自分を生きるのに、自分だけあったらいいわけですね。たしかに物質的な物も必要だし、復興しないといけないという面はあるんだけど、自分を生きるために必要なのは自分だけです。
自分を生きるということに気付けば、餓死しない国ですから、まだやって行けるじゃないか。原点の問題です。社会を原点にして、社会の評価で自分の価値を決めている限りは、苦しさと空しさばかりになります。こういう方には社会が潰れたわけですから、それをまた戻そうというのはむずかしいです。
視点を変えて、「自分で生きているんですか、生かされているんですか、医学的に考えてみませんか」と、問い直します。「一個の受精卵から七十五兆個の細胞になったけれど、あなたは自分で増やしたんですか。心臓は毎日動いてますけど、あなたは自分で動かしますか。生かされているというのは医学的に事実でしょう」。
社会からの評価は失ったとしても、もっと大きな生命の世界で生かされているということに気付けばどうでしょうか。
最後は死の問題です。これはもっと苦しいわけです。ぼくも一番引っかかりました。しかし、死んだらしまいというのは常識ですけど、これは本当に証明されたかというとされていないんです。確かに、体から私が発生しているという唯物論的な考えに立つと、体が死んだらしまいです。しかし、私は精子の中にも卵子の中にもいません。どちらかに半分ずつというのもおかしいでしょう。受精卵の中にいるかいうと、一卵性双生児は、私が半分ずつということになる。そんなはずはないでしょう。受精卵の中にも私はいません。その受精卵が分裂して肉体になるのですから、細胞の中に私はいないのです。細胞から私が発生したということは証明できないんです。
医学的に考えても、私が体から発生してるということは納得できない。私は細胞から発生していないと考える方が妥当かもしれません。
そうすると死というものについての考え方がまったく違ってくるんではないか。私達の常識と思っていることがストレスの原因であるならば、もう一度事実は何なんだろうと考えるんです。そうすると解放される。エネルギーを失っていた。エネルギーを失っていたのは絶望だった。解決がないということで空しさがあった。
ところが、そうでないかもしれない。今回の震災をきっかけにして、解決の提案がされるべきではないかと思います。どれを選ぶかは本人の自由です、こちらもボランティア(自主的に)で提案してるわけですから、聞く方もボランティアで聞くわけです。
今回の震災では、まだ解決への提案がないということが特徴的です。
田中 私はゼミの学生に首つり自殺で死なれてしまったんです。その子はJRの六甲道駅の近くにあった、ボランティア団体での活動を、深夜になると私に電話してきて、報告してくれるのです。
「無理してはいかんぞ」と、口癖のように言っていたのですが……。
みんなでお葬式に行きましたが、一人息子の成長を楽しみにしておられたお母さんの悲しみをどうお慰めしてよいか分かりませんでした。
笹田 阪神大震災は物の文明が崩壊して、次の新しい心の文明が用意されていないところで起こりました。貧しい国で起こったのであれば、物の時代の価値観があるけれど、豊かな高度成長後の時代に起こったのでまさに、心が漂っています。


   行政のありかた

小橋 二年目、三年目になると行政批判などがかなり出て、中には内部告発的な手記もありましたが、感じたことがあれば。
酒居 今回の投稿者で県外被災者だった方がいらっしゃいます。行政に対して、情報が来ないことへの不満を言ったらすごく怒られたとありますが、本当に叱ったんでしょうかね。行政担当者に見せたいなと思います。ご本人が本当にそう思っているんだったら、確かに情報は入らなかったということですね。
高森 この方は、「りんりん愛知」という県外被災者の会を愛知県で組織された方です。三巻目から投稿されてます。ようやく昨年の秋に北区へもどってこられました。
この方がおっしゃるには愛知県そのものが非常に冷たかったということです。震災記念でイベントがあった時でも、愛知県に疎開している被災者は誰も呼ばれなかった。また兵庫県に対しては、県は広報紙を出してるんですが、それが全員に行き渡らなかった。
県も県外被災者を全部把握しきれなかったのでしょう。また、県外被災者のリストを公開すると、その方達のプライバシーを侵害するのではないかと判断したのかもしれません。情報が足りないと言ったら、これ以上どうしろと言うんですかと開き直られて頭に来たという手記が第五巻にあるんです。
一方、住民の側にも問題があります。先入観で、行政、地方自治体の担当者を悪代官の手先のように思い込んでいる人が結構いるんです。実際に接触してみると鬼でも蛇でもないのがよく分かるんですがね。たとえば須磨区の下中島公園には、平成十一年六月まで、プレハブ小屋の集落があるんですが、市の担当の人が、ミイラ取りがミイラになってしまって住民に同情し、配置転換になって、市役所前で人事撤回の要求ビラを撒いていました。
本当は歩みよりの余地があるんですね。もともとコミュニケーションがなかったので、住民の側から先入観で「言ってもしようがないだろう」と思い込んでいるケースもあります。
一方行政の担当者も、コミュニケーションがあまりよくなると、どうしても融通をきかしたり、情報を前倒しで伝えたりするようになる。すると、公平の原則から外れてくるんですね。場合によっては甘える人もいます。「私は神戸市の某局長室へ顔パスで入れる」なんてことを自慢にしてるこわもての人も出てくる。そういうのが相まって両方とも距離を取り過ぎているという気がします。
田結荘 こういった批判で恐いのは裏が取れないことです。内容だけ見たらけしからん話だと思うんですが、そのまま活字にして全部載せていいものかどうか。今高森さんが言われた人達のように、非難される立場に立たされた人にもいろいろと事情があったと思います。
新聞の投書欄の場合は、あまりにもきびしい内容の場合は必ず裏を取るか、そのこと自体を記事にします。何々区役所と名指しで書かれると、もし事実誤認であったら大変です。新聞と違ってこの会ではいちいち確認ができませんから……。
山田 そのころの行政の対応ということになると、かなり迅速にやったし、多分昨今の日本の経済力がバックにあって具体的な措置もかなりやられたと思います。これが中国で起こったらそういうことできませんから、もっと悲惨なことになってたわけです。今回に関しては私は神戸市や兵庫県は非常によくやったと思います。
しかし、あとで知って腹が立ったのは、神戸市が専門家に依頼して行った調査では、震度七を予想してたというんです、にもかかわらず震度七の対策をやるとお金がかかるので発表しないでくれという現場からの意見で、書き換えを行ったという。これなんか完全にお役所仕事。そのとき七の対策をしていればどうこうという話にはなりませんけど、そういうところのずれというのが、当事者にとってみれば非常にまずかったんではないかと思います。
あとは日本全体から見れば局部ですから、予算を投じて行けばそれなりの効果は復興対策として出てきて、今は美しい町並みが実現しています。だからいまだに外国から来られた人は地震の跡を見たいと言われるんですが、見せようがないということがあります。当時から地震による日本の被害は大変でしょうという話に対して、専門家は、いや、それはそうなんだけど日本のGDPを一パーセント引き上げる効果があるという解説がありました。やっぱり日本の経済力が幸いして、この問題が日本全体から言えばごく一部だから、という形で受け止められるわけです。
非常に大きな教訓になると思うんですけど、起こってしまってからどうと言うのではなく、阪神間の人がどういう形でこの震災を受け止められるのかというのが本当はこれから大事だと思います。
田中 淡路島の野島断層を見た大学の研究者の一人が感動したと書いていて、それを取り上げて学会で糾弾したそうです。専門家としては目の前に見たら感動もするでしょうが、言ってよいことと悪いことの分別を持ってほしいものです。
笹田 ぼくは生かされてるのは医学的事実だと言い続けているので、人間が大事で生かされているのならなぜこんな不幸が起こるのかと、尋ねられるんです。でもマグニチュード七や八で潰れるような建物を建てること自体が心の貧しさではないのか。科学的に考えたら、いつかそれくらいの地震がくるのは想定されるわけです。
現代の豊かさを何に使うかと言うと、やはり潰れないような物を建てることで、その背後に一人ひとりが本当に自分を生きられる、新しい文化へと出発すべきじゃないかと思います。

   マスコミについて

小橋 この体験記はメモを取られながら、マイクを突きつけられながら話すのではなく、自分で文章を書いて、マイクを握って、そういう人達自身が話すことが大事なことだと思うんです。取材されて話すのではなく、自分から話したいことを話す、書きたいことを書く。それはマスコミはできないだろうと思います。
ぼくも今マスコミにいるんですけど、ちょっと反旗をひるがえしたつもりで、敢えてマスコミの在り方についても考えてみたい。
えてして、こういうことは一過性で、熱しやすく冷めやすい。でも今回の大震災についてはマスコミも粘り強くやってることはやってるなという気はします。
でも紙面では、東京と大阪では震災のキャンペーンなどに温度差があることは事実です。そういうことを含めて今回の震災直後の、あるいはその後のマスコミについて何かあればお聞かせください。
山田 逆のことがありまして、当時繰り返し繰り返し衛星放送で世界に流れたニュースというのは、一番激しい所、燃えてる現場を映しました。それを外国で見ている人は、神戸の人はみな死んだのではないかと思い、私のところにも電報が入ったり国際電話が入ったりして、「生きてるか」と、尋ねられました。そんなふうにセンセーショナルに報道するという側面が一方にあったわけです。かなり誤解を生んでいたんです。
逆に一過性で終わってるかという問題では、一過性ではなかったと思います。かなり繰り返し問題点を取り上げて、その意味ではきちんとした報道されたんではないかと思います。まさに相反する報道があったということです。
田結荘 毎日、寸断されたライフラインの復旧割合の表が新聞のフロントページに出ていて、あれがいつ消えるか気になってました。でもなかなか消えないんです。電気が一番早く、ガスが直りにくかったようです。電車の開通状況の一覧表があった時期がありました。新幹線が最初に走ったのを不思議に思いましたね。
部外者として見た感じですけど、僕はやはりサンテレビとか、神戸新聞とか、地元のマスコミはよくやったと思います。自分ならあそこまでやれたかどうか。サンテレビのアナウンサーでも一人しかおられないのか、出ずっぱりで洋服を着替えておられないのが印象的でした。出ずっぱりだからトイレに行く間なんかどうしてたのかとつまらないことまで考えたりしました。そういう形で、どこそこの町の水道が出るようになったというニュースを流したりして、まさにミニコミのクラスまで下りて行かれて、すごかったと思います。
山田 直後にサンテレビのアナウンサーからお話を聞いたんですが、情報源のない状態で放送してたんですね。繰り返し繰り返し、あれは本当にお困りになったようです。とにかく震災のニュースを流すしかないということで流してたんです。CMも全部カットしてましたから。
酒居 さっきのポートアイランドの生活情報ですが、あれはマスコミの先をやってたんです。ポートアイランドに住んでる人に向けての限定情報だったんです。マスコミは仕方ないですよね、大きなところしかできない。で私達が関西電力や大阪ガスに毎日電話してたんです。どこまでガスの工事ができてるか、ということを聞いたり、ベースとしてはそういうことをやってたんです。
笹田 物の話はよく分かるんですが、心の方はマスコミだけでは、ほんとうに一人ひとりの気持ちがどうなのかということはなかなか分からないと思います。
分かりにくい部分はまず取り上げられない。取り上げられないだけならいいんだけど、そこはマスコミを通して認識してしまうから、それはないものだというふうになると思うんです。
本当に阪神大震災起こって、今何も起こってないのか、心の面で新しい芽生えは何もないのか、単に潰れてまた物質的に少し戻っただけなのか、いやそんなはずはないのではないか、というふうに思います。
マスコミの圧倒的な力の前で、我々はそれを通してしか認識できないような感覚を持ってしまっています。だから、こういう手記はそれを通さないためにすごく役に立つと思います。
でも、ここには手記を出せる人だけが書いてるわけです。書いてない人はどうなんだろう、これで判断していいんだろうかという疑問が残るんです。豊かな国で災害が起こって、何も生まれないのかと、それではあまりにも痛ましいような気がするので、こんなことはないんではないかという思いが常にあります。
高森 そういうことでは、会は多少貢献しています。会に集まってる手記は、全部一覧表にしてるんです、匿名希望の方は名前を隠して。取材にくる記者には内容を要約して公表しています。そうすると、掲載作品ではなくても、興味があると、記者が実際に取材に行くんです。
朝日新聞、読売新聞、神戸新聞、サンテレビ、NHK、朝日放送、毎日放送、東海テレビなど、優秀な記者がいて、手記には書かれていないところまで踏み込んで取材して記事や番組にしているんです。そういう意味では、この会とマスコミとは、役割分担をしているような気がします。
田結荘 一年目、二年目で各紙が組んだ特集を読んだ範囲でも、相当踏み込んでいると思います。この会の手記に出ている以上に踏み込んでいる場合もあります。それは何時間もかけてやりとりするから入って行けるんですね。だから今の状況では、マスコミもやるだけのことはやってるんじゃないかと思います。
高森 マスコミと十把一からげにすると、特に新聞社の人は気を悪くしますけど、週刊誌、月刊誌は、写真を除くと、ものの見事に特集はないですね。結局あれは見出しが販売部数に直結するから、編集長が特集を組めと言わないんではないかと思います。そういう意味では新聞やテレビは営業成績に直接には関係がないから、震災問題を追えるし、追わなければいけないという使命感を持っておられるように、企業人としては思います。
田結荘 お互いに声をかけ合わなければできないということですね。もちろんそれが不発に終わる場合もあるでしょうけど、やっぱり「こんなのがありますからやってみませんか」という形で働きかける。新聞社の方も、数字だけ追ったり、ハードの面だけ押さえるんではなく、これはという投書の後を追いかけるという形で行くわけだし、なにもこの会の本の名前を出してもらわなくてもいいんですからね。
田中 昔、神戸新聞が「共同社会開発」という名前で、淡路島の子供に、くる病が多いことに着目し、その原因を調べようという企画を立てました。私達のグループがその実地調査をしたことがあります。その結果は、大きな農家の奥の座敷に寝かせると、陽光に当たる機会が少なく、それが原因であることが判明しました。そのとき、学者とマスコミの役割分担が大切だと実感しました。
高森 さっきの、笹田先生がおっしゃった、まだ問題解決への提案がなく、どうしたら見つかるかというお話ですが、そのためにはまず現実がどうかということを知らなければいけないですよね。
手記を書く人は、笹田先生がおっしゃったようにごく一部の人です。手記を書くというのは自己責任で、自己のプライバシーを開示するということでしよう。笹田先生の主宰されている「生かされてる医学の会」なんかでやっている「個人面談」は、心を許して初めて、性格分析を通じて成立しますよね。
でも一般的に私達は自分のプライバシーはあまり人に開示したくない。会には大企業の管理職や役員の方々の投稿も寄せられるのですが、一度も採用されたことがないんです。
そういう方はプライバシーの開示に慎重です。「二十年ぶりにAさんが、見舞いの電話をくれた」などと抽象的に書かれると、他の方のと同じになってしまって違いが出て来ないんですね。
逆に言うとそういう方が組織の中で残っているのかなという皮肉な見方もあるんです。だから昔よりもっと引き出しにくい時代ではないかと思います。
笹田 個人的なことはなかなかおっしゃらない。マンツーマンで一時間くらいかけてやっと心の中に入れるということが多いです。ご本人が言いたくないことにはブロックされるんです。そこを破らない限りは自由になれないので、心の外科手術だといつも思うんですが。でも破れたときはすごく解放感がある。現代人はすごく傷つきやすくて、しかも言ってもしようがないという諦めの部分があります。言葉が通じていないということと、どうしてくれるんだという部分とがあります。だから言える部分は一部かなと。だからそこに失望を通り越し、諦めも通り越した何かものすごい壁を感じているんですね。
私は、手記を見る度に、この人と私とがマンツーマンで対峙した時にどうするのか、どういうサポートが可能なのかという形でしか読めないんです。
一番やっかいなのは自己説得です。自己説得されてしまってたら一番これはむずかしい。人間死ぬのは当たり前じゃないかと怒られるんですよね。そう言われてしまったら話が止まるんです。しかし、その人が生き生きと生きてるか、うきうきと生きてるかというと、そうではない。
すごく苦しくて、空しくて解決がない。だがそれは、今僕らが持っている価値観とか生き方に支配されているためです。過去の観念論や唯物論から自由になれれば、心がうきうきとし、もっと心身相関が良くなるんじゃないかと、そう感じます。

   今後の活動

小橋 最後に「記録する会」をどういうふうにもっていったらいいかアドバイスがあれば。
田結荘 いろんな取材方法を試みてみること、「事実」をすくい上げる工夫をすることでしょう。笹田先生もおっしゃったように、たとえば先生の問診を通じて何か引き出すことはできないものでしょうか。
あるいはこちらから指名した方々だけで座談会をやるとか、いろんな方法を加味していくことです。ただ集まってきたものをまとめて載せるだけじゃなくて、広い意味でのメディアの多様性のようなものを出していったらどうかなと思います。
幹事の方々のご苦労やお手数がかかることは百も承知のうえで言ってるんですが、その中でできそうなものからやっていってはいかがでしょう。
山田 第四巻で、連続して投稿されている方と、新しい方と分けてありました。新しい投稿者 を発掘する工夫があれば、それに越したことはないでしょう。
酒居 中学、高校生の投稿が、今回はありませんでしたよね。以前の手記では、じっくり読んで感動しました。今教育は荒れてますよね。日本はこれからどうなるのかと憂うるんですが、そういう子達にリアルな文章を読んでもらって、読後感想、座談会でもいいし、書いてもらってもいいですけど、その子達の思いを記録してはどうでしょうか。よい教育になるんじゃないかと思います。若い子達に読ませたいなと思うんです。
笹田 投稿される方にこちらから注文つけるんじゃ失礼な話で申し訳ないんですが、やはり一つ、思うのは、自己説得をなるべく避けた作品が集まって欲しいですね。むしろ書かれた方に聞けるんなら、「それは自己説得でしょうか、もし自己説得なら、本音は何なんでしょう」と一言インタビューしてみたいです。
だから僕悲しいと言われたらなんでやと思うんです、これだけ豊かで、いくら経済不況と言ってもレベルが違います。この豊かで、自由で、逮捕されない国で、悲しいという言葉が出るとしたら、なんでやということですね。それをもう一度考えようということではないかと思うんです。だから難しいんですけど何とか生の声が集まるような方向をね。
田結荘 私の文章教室でそうなんですが、初めて書く原稿というのは、やっぱり格好よくまとめようとするんです。これは震災の記録の原稿に限らないわけです。普通のエッセイでもなんでも、自分でイヤだと思っていること、書きたくないことをプロの小説作家みたいにずばっと放り出すということはなかなかないんです。匿名を前提にして会ってお話をうかがう以外にはね。
笹田 現実にはむずかしいんですけど。書いた文章はそれでいいんですけど、あとで、「ここの文章こう書かれてますけど、本当はどうなんでしょう、よければ聞かせてほしい」ということができないでしょうかねえ。
田結荘 お許しがいただける限り、書きあげた後の感想みたいなものをいただけるんなら、その中に生き生きしたダイアモンドみたいなものが混ざってるかもしれませんよ。全部載せるというのではなく。入選したら、「どうですか」と聞いてみるのもいいかもしれませんね。「いや実はあのへんは書きたくなかったんです」というような言葉を活字にできたら素晴らしいですよね。
高森 今回も、やはりそういう手記が結構多いんです。えんえんとお書きになって、一番最後に、「私も人並みに、アルコール依存症、震災離婚、事業の経営破綻を経験した」と、それで終わりなんですよ。だからやはり弱いところをそのままさらけ出すというのは難しいんでしょうね。その方にはそこを何とか具体的に、匿名でも結構ですからと言って手紙を出したんですけど、ご返事はありませんね。
笹田 きれいごとの文章が並んでいたら、書けないと思うんです。
田結荘 だからさきほどの、「東京大空襲に比べたら、阪神大震災の被災者は極楽だ」と書かれた方なんか、一度話を聞いてみようかとも思いますね。それでそれについての反論というか、なぜそんな見方できるのか、というようなことをのせれば、それなりに値打ちはあると思うんです。
笹田 自分の心の中で、見たくない部分ってありますから。大体その見たくない部分の反論というのはすごく強いんですね。ですからもう一言突っ込んでみたら、「私も実は苦しい、今も苦しい」といったものが、もっとぐっと出てくるのではないでしょうか
高森 そういう意味では、五巻には呼び水になるような手記をいくつか掲載させていただきました。
酒居 投稿が北海道とか、埼玉とかかなり遠くからきてますでしょ。そういうところの新聞に会の募集要項が載るんですか。
高森 日経新聞や朝日新聞や読売新聞が、会の活動を全国版にも掲載してくださるからです。去年からは「公募ガイド」とか「賞とるマガジン」なんかも載せてくれています。
第一巻では、朝日新聞阪神版と国際衛星版と神戸新聞とで広告宣伝費が百五十万円かかりました。それが今はゼロですからね。これは本当にマスコミのおかげです。活動を紹介くださるから新しい投稿者も増えています。
酒居 被災者でない方からも手記が寄せられていますね。今回も東京から来て、現場視察された方いるでしょ。那児耶さん、「被災を免れた者の証言」という。当時はわたしたち、観光客のようにカメラ持って被災地へ来る人達を不愉快だと非難しましたね。でもこれを読んでいて、こういうことは大事なことだったんだと思ったんです。というのはさっきの温度差の問題ですけど、やっぱり現場を見ていたら、被害に遭っていなくても、自分のことのように思えるんですね。目で見たということはすごく大きいと今にして思いました。

   出版

高森 この活動は、十年間は何とかやってみたいと思ってます。先生方もこれから健康問題もありましょうし、お立場もおありでしょうけど、乗りかかった船で何とかお付き合いください。
ただ本に関しては、市販する本の形にできるのは今回がもしかしたら最後になるかもしれません。第一集への投稿が二百四十編で、第五集が百二十編です。この会への手記の投稿数の半減期が五年だったということです。原子核の半減期ならばその後、つるべ落としに数が減っていくんですけど、あるいは逓減していくのかもしれません。
その場合でも、おかげさまで、小橋さんがインターネットのホームページを制作してくださっていますので、発信はできます。一昨年スタートしてから、すでに一万三千件の検索があります。掲載作品の著作権は全部こちらの会にいただいてますので、発売してから一年たった手記集はインターネット上で公表しています。ですから今、一巻から三巻までが掲載されています。本のタイトルをクリックしたら出て来るようになってます。
そういう意味では数が極端に減っても、記録として意味がある手記は、ホームページには間違いなく掲載できます。ただしやはり出版物の形で残さないと投稿者の充実感にもなりませんので、小冊子ででも何とか残そうと思います。
とはいえ、結構投稿が続いてますので、案外行けるのかもしれませんが。
酒居 投稿者が少ないと本にできないんですか。
高森 そうです。会が費用を全部負担しているので、発売元の神戸新聞総合出版センターにはリスクがないようなものですけれど、むこうが市販する値打ちがないと判断すれば、断ってきます。これはまずボリュームの問題がありますけど、内容も重要です。いくらこちらに熱意があっても市販本にするというのは結構ハードルが高いんです。
笹田 売れれば大丈夫なんじゃないんですか。
高森 まず売れないですよ。
笹田 やはり一番大きな要素は部数じゃないんですか。発売元が言うのは。もうちょっと売れたらいいんですね。地元の新聞社の出版社ですから、こういうものを取り上げることについては、内容的には問題ないんじゃないんですか。経営的な問題ならもうちょっと売れれば続けられるんじゃないですか、意義のあることやってるんだし。
高森 やはり、編集上の変化や努力がまだまだ不足していると反省しています。第四巻は、三千五百部刷ったうち千部強が書店で売れました。直接販売もありますから、買って頂けたのは、千三百冊くらいでしょうか。これでも、市民の手記集にしては、よく売れているなという感じですね。それ以外に、千部を賛助会員と投稿者とマスコミに配ってます。そして発売後一年を過ぎると、残りを阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)やコープこうべの福祉・ボランティアセンターなど九団体に寄贈しております。
今回は座談会がありますから、もう少し売れるのではないかと期待しています。座談会なんかは非常に読みやすいし、ましてこのように著名なみなさんですし、手に取って見ようかということはあるんじゃないでしょうか。
笹田 特に被災者は読みたくなくなって来ると思うんです。わが身に照らしてみても、忘れたいということがあるので。全国的に出ないとね。
高森 被災地外の人達は、震災を風化させずに教訓とし、被災地で重い体験をした人は、それを人生の一エピソードとして、うまく風化させるというのが必要かもしれませんね。でも現実は逆ですよね。
笹田 今被災地で起こっていることは、日本全体に、いずれ広がっていくだろうと思うんですね。地震がなくても。そういう面での捉え方がされていない、単に神戸の、兵庫県の問題というふうになってしまっている。貧しい国で起こった災害じゃなくて、高度成長後の時代に大災害が起こって、五年十年たったときの心理状態というのは貴重な記録です。
田結荘 小冊子の形になってもいいから、やはり続けるということが大事ですね。本を売ることが目的でないですから。
笹田 自費出版の場合は店頭に出ないことが問題ですか。出版社はどこでもいいでしょ。基本的に本が出せたら。
小橋 しかし、自費出版の本も店頭にありますよね。あれは頼んで置いてもらうんですか。トーハンや日販に乗せないだけで。ダイレクトに。
山田 今は、トーハンや日販のルートには乗ってないんですか。
高森 いや、乗せてます。神戸新聞総合出版センターにはそれら取次に口座がありますから。そして、自費出版だから店頭に並ばないという事はありません。私達の本も自費出版です。ただ、取次店に口座を持っている神戸新聞総合出版センターに発売元になっていただいているので、書店に配本するルートが確保されています。これを外すと、直接書店と交渉しなければなりません。
山田 もう、被災地でも震災コーナーみたいなものはないんですね。
高森 小さな書店はなくなりました。しかし、海文堂など経営者の思い入れで常設しているところもあります。関東でも、紀伊國屋書店には出てます。
小橋 紀伊國屋のホームページに入ってますね。検索したら出て来るんです。だから検索して注文しようと思えばできるんです。
田中 大学でこれをテキストに使うという場合は、どういう学部の、どういう専攻の学生が対象でしょうか。
山田 一番地震に対しての反応が大きかったのは心理学と社会学です。あと科学的な問題では工学部。文部省の方でもいろいろサポートしてボランティア講座が大阪大学で開設されたり、震災センターみたいなものを神戸大学が作ったり、というようなことはかなりやってます。
笹田 健康道場へ来られる若い方のタイプはいろいろありますが、ある種の方々はものすごく繊細です。お話を聞いてますと、空しさとか、悲しさとかを非常に感じておられます。そういうのは社会が豊かになってから現れる現象ですよね、ものすごく敏感なんですね。だから過食症で来られたけど、なぜ過食症なのかという話から入って行きますと、結局深いところへ行く方が、全部じゃないですけど、かなりいるんです。
それから死の問題なんかについて感受性のあるのはやはり若い方の方が多い。と言うのは老人大学などでよく講演させていただくんですが、ええ話やなで終わるんです。自分のこととしては受け止めたくないですから。むしろ女子大とかで、こういうのがテキストとしてお使いいただけるならある程度反響があるのではないでしょうか。
高森 NHKテレビに、「生活ホットモーニング」という朝の番組があります。そのキャスターを務めている住田功一さん、この方はたまたま実家に帰っておられて地震を体験されたのですが、本を送ってくださいました。「語り継ぎたい。命の尊さ」(一橋出版)というタイトルで、高校の社会科の教科書の副読本です。これは読みやすいし、キャスターですから語り口がやわらかく、読者を引き込む文章です。神戸大学のご出身で、亡くなった留学生の話なんかもきちっと押さえられています。しかも図版も豊富です。ああいうのをむしろお薦めしたいですね。
もちろん私達も、作り手としての努力は、活字を大きくするとかしないといけませんが、震災の記録のうちの一部を淡々と集めていますよというのが原点という気もするんです。
酒居 売れるという面から考えると、手記だけ、記録だけではむずかしい。じゃ何か役に立つ情報をということを考えてはどうでしょう。今回なら高島節子さんが、預金の下ろし方を書いておられました。当時の、郵便局とか、銀行とかについてお書きになっていましたけど、ああいうのは今度どこかで災害があった時に役に立つ。高島さんの手記をきっかけにして、資料としてそういうのを集めてみてはどうでしょう。役に立つ情報です。
高森 次回の募集からは、そういう記録も呼びかけてみましょう。そういえば、東海地方や関東地方で輪読会をしている方々があります。この方々は、ご自分の地域に大地震が起きたらどんな問題が発生するのだろうという視点で、お読みになっているようです。
そういう定期購読者もありますし、九州では浄土真宗のお寺さんのグループが読んでくださっています。口コミや神戸大学の図書館のホームページにも掲載していただいてますので、問い合わせなどもぼちぼちあります。活動を継続していると、いろいろと広がりが生まれて行きます。
最後に、第四巻までの各賞選考資料にございますように、先生方が推薦された最優秀作品が、毎回みごとにばらばらだというのは、この震災の一つの象徴だと思うんです。各先生方のお立場と考え方からもっとも共感する作品を選んでいただいているのだと思います。
「貧しい時代」の被災者の願望は、まず衣食住の充足ですから、悩みが収れんしやすい。ところが「豊かな時代」の災害の被災者の苦悩は、多様です。
今後ともよろしくお願いします。
小橋 ありがとうございました。

あとがき 「だまし絵」
代表 高森 一徳
 今回も百二十編の手記をお寄せいただきました。継続してご投稿くださっている皆様方には、心から感謝します。
 ご主人を亡くされた心の軌跡をずっとお書きくださっている安藤衣子さんは、昨年心の整理のために西国三十三カ所の巡礼をされたことや、今年になって自転車で自動車との接触事故にあわれたことなど、近況をお寄せくださいました。西宮市で宅配弁当のお店をご主人と経営されている青木加代子さんは、お店の全壊後、新大阪駅付近での路上販売や、西宮北口の仮設店舗での営業を経て、ようやく恒久店舗を見つけられました。生活再建への意気ごみをお寄せくださいました。
 一方、全投稿者の三分の二は、今回初めてご投稿くださった方々です。「四年たって、ようやく震災体験を書く気になった」という方もおられます。その中でも、北海道のJRの元駅長さんの手記は、大変刺激的でした。
 「昭和二十年三月十日、自分は海軍二等兵曹として東京大空襲の後片付けに参加した。阪神大震災の被災者は、新聞やテレビでしか見ていないけれど、あの時の被災者に比べると極楽のようなものだ」といった趣旨の手記です。そして、東京大空襲の被災者の惨状を具体的にお書きになっています。
 地震から五年目にして、ようやくこのような手記が出てきたかと、興味深く拝見しました。
 同じ見方をしている方は、被災地外には大勢いらっしゃるはずです。被災者の中にもおられます。私も、阪神大震災の被災者は、パプア・ニューギニアの津波や長江の大洪水の被災者に比べて、物質的には明らかに恵まれていると思います。

 しかし、阪神大震災の被災者は、「極楽」ではありません。
 「貧しい時代」や「貧しい国」の被災者には、衣食住の獲得という目標があります。対象が物ですから、目に見える形で達成できます。そしてそれらの獲得が生きがいになり、充足度に差はあっても、充実感が得られます。世間や家族も拍手します。
 ところが、日本の「豊かな時代」の阪神大震災の被災者には、衣食住の獲得の充実感がありません。最低限の水準が保証されているからです。
 もちろん社会との窓を閉ざし、ボランティアや公的な支援を受けず、経済的に困窮している被災者もおられます。そして、このような方々を、「貧しい時代」の被災者に重ね合わせる見方もあります。しかし、私はこのような方々は、心の位取りが高く、いわば尊厳死を選択されているのではないかと考えます。このような方々は、被災地に限らず、全国に散在されています。
 一分一秒でも長生きをしたいというのも立派な死生観ですし、尊厳死を選ぶのも立派な死生観です。「貧しい時代」の被災者と同一視するのは、むしろ失礼になるのではないかと思います。
 被災者が現在の生活水準を、自助努力で引き上げるのは大変です。ある程度の生活水準が達成されると、同じお金や努力をつぎ込んでも、低い水準を引き上げるときより満足度が低くなります。経済学でいう「限界効用逓減の法則」がはたらくからです。
 衣食住の充足を超える目標の設定は、阪神大震災の被災者に限らず、「豊かな国」日本の大勢の人々が模索しているテーマでもあります。

 人にとって最大の生きがいは、自分がいなければ困る存在を持つことではないでしょうか。「貧しい国」や「貧しい時代」の男性なら、飢えに泣く妻子でしょう。ところが、「豊かな国」と「豊かな時代」では、どのような形にせよ、最低限の衣食住は手に入るのですから、対象にはなりにくく、場合によっては、ありがた迷惑になります。
 無難な対象は、他人に迷惑のかからない、旅行、趣味、興味の持てるテーマの研究、草花、ペットなどでしょう。そして、これらとの関わりが生きがいになります。
 しかし、どうしても人間と関わりたいという人には、社交的な距離の取り方や、相手の感情に細心の注意を払えるなら、ボランティア活動があります。
 「困っている人ほどボランティア」という解決策も有効ではないでしょうか。仮設住宅を訪問したボランティアや記者たちの多くは、被災者から、お米や野菜や、育てた花などのお土産を差し出されて当惑した経験があります。
 人は支援される側に回るより、支援する側に回った方が、充実感があります。困っている人が人の役に立っていると実感できる活動のメニューや受け皿を豊富に用意するのが、「豊かな」社会の括弧が取れる方策ではないでしょうか。

 阪神大震災では、地震当日から約三日間、被災者の目の前から衣食住が消えました。しかも、それに加えて何より重たい肉親の死が伴いました。その惨状は、「貧しい時代」や「貧しい国」の被災者とまったく同じです。ほとんどの人が、長田区の焼け跡を見て、戦災の光景と重ね合わせました。それがマスコミを通じて、記事や映像で全国の人々の目に焼き付きました。千七百億円を超える義援金が集まったのは、この報道のおかげです。
 ところが、これらの報道が、特に映像が、結果として、人々をミスリードしてしまったのかもしれません。
 読者や視聴者の中には、阪神大震災の被災者を「貧しい時代」や「貧しい国」の被災者と同一視してしまった人もいたのではないでしょうか。被災地に古着を送った人々に悪意はなかったはずです。

 
「娘と老女」という「だまし絵」があります。同じ絵が、娘の後ろ姿にも、左を向いている老女にも見えます。娘の左耳が、老女の左目になっています。
 世相は、だまし絵のようなものです。見方によって、同じ事象がまったく違った様相に見えます。
阪神大震災と過去の災害を、「貧しい時代」の被災者と「豊かな時代」という座標軸で考え直す視点もあるのではないでしょうか。
 今後の手記集では、少数意見や異論も積極的に掲載したいと考えております。
謝  辞
第五巻の制作では、下記の方々(五十音順・敬称略)のご協力をいただきました。
ありがとうございました。
入  力 北川真紀、高森香都子、村川利夫。
一次選考 井原悦子、小橋繁好、北川真紀、森本博子。
校  正 井原悦子、北山文子、山本保子。
各賞選考 酒居淑子、笹田信五、田中國夫、田結荘哲治、山田敬三。