第4集「今、まだ、やっと・・・ 阪神大震災それぞれの4年目」
阪神大震災を記録しつづける会編
  神戸新聞総合出版センター 定価1000円

まえがき―被災者の心

 ここにひとつのアンケート調査結果がある。
 阪神大震災の被災者で仮設住宅と公的復興住宅に住む人たちへの「公的支援は必要か」の問いに、七五・四パーセントが「必要」と答えている。
目を引いたのは「必要な金額は」との問いに対する答えだ。


 最も多かったのは五百万円以上一千万円未満で一六・二パーセントだが、十万円未満が一〇・六パーセントで、二番目に多い。


 この数字は何を意味しているのだろうか。
十万円という金額は決して少なくないが、私には「金額よりも支援する心」を求めているとしか思えない。


 こうした「被災者の心」を、被災地以外の人たち、政府や国会議員は本当に理解しているのだろうか。


 阪神大震災から三年。まだ残る六甲アイランドの仮設住宅地を歩きながら、「三年という月日は何だろう」と考え込んでしまった。
一九九五年一月十七日を起点とした、被災者の三年の歩みは遅い。
しかし、震災の記憶も薄らいできているのではないか。


 そんな中で、震災の資料を保存する運動が始まっている。


 震災直後、おびただしい数のビラ、ポスター、手書きの地図などが街に氾濫した。
被災地を歩くと、壊れた家の戸板に「家族は無事です。いま、小学校に避難しています」の張り紙が風に揺れていた。
道路わきのガソリンスタンドには「休んでいって下さい」との文字が広告ビラの裏に書かれ、周辺の地図も添えられていた。


 避難所には支援物資の説明、尋ね人などの紙が壁を埋めていた。多くのミニコミ紙も生まれた。


 紙の資料だけではない。
崩れた家屋、更地となった宅地などをフィルムやビデオに収めた人も多い。


 新聞や雑誌に掲載された記事や写真は残るが、被災者がやむにやまれぬ思いで書き、写した「資料」は、その多くがしばらくして捨てられ、大部分がゴミとなって焼却された。


 しかし、こうした「生きた資料」こそ、大事な「歴史」となる。そう思って保存に立ち上がったのも、やはりボランティアの人たちだった。
阪神間を中心とする自治体や図書館も職員の有志がこれに協力、いまでは、ネットワークを組んで組織的に収集、整理、保存に努めている。


 関東大震災では市民の側からみた震災資料があまり残されていない。
警察や自治体の公式な報告書を手掛かりに、当時の被災の模様を知るしかないという。


 阪神大震災を記録しつづける会が、体験記の出版を企画したのは、実はこうした「教訓」からだった。


 第一集『被災した私たちの記録』への掲載者にはすでに歴史になってしまった人もいる。
歴史に押しつぶされた人、押しのけようとしている人、まだ、歴史の中にいる人など様々な人が記録し続けている。


 そうした中で、私たちの記録に新たに加わってくれた人もいる。


 九州の高校生たちは阪神大震災を自分たちの問題と考えて、リポートを寄せてくれた。


 遠く離れた東北の大学生は仮設を訪問する「週末ボランティア」の思いを綴ってくれた。


 また、あの混乱期に大きな問題となりながら、これまで実態がよく分からなかった「トイレ騒動」を生々しく振り返ってくれた人もいる


 こうした人たちの協力を得ながら、四年目、五年目と記録の歴史を積み重ねていきたい。

一九九八年五月
阪神大震災を記録しつづける会
編集総括  小橋 繁好


第一部 あの日から

父の背中
小林 良之(三十三歳 教諭 三田市)

 あの地震から三年。
町の復興を端から見ていると、今まで更地であったところに次々と細長い家々が立ち並び、順調に町の復興が推進されているように見えます。
しかし、底辺に目を向けると、果たしてこれで本当に良いのか、という疑問を抱きます。
今、私の父も、安住の地を求めながら懸命に日々を過ごしています。


 父は、東灘区の下町で震災以前から電気工事店を営み、地域と密着しながら生計を立ててきました。
しかし、その家も全壊し未だに更地のままです。
下町の商店街という立地条件も加わり、狭い土地に地震前と同じ大きさの店舗兼住宅を再建できません。
これまでの仮設住宅募集にも毎回応募しましたが、いっこうに当たる気配はありませんでした。


 先日、市営の公的住宅の募集に応募し、補欠ではありましたが当選しました。
これで普通の生活ができるのではと、はかない希望を抱きました。
ところが後日連絡があり、募集の対象は市の供給した仮設住宅に入居している人が最優先で、自力で仮設を建てた人はその枠からはずれるということでした。
残念ながら願いはかなえられず、遂に入居することは出来ませんでした。


 近隣に住むある人は、自宅があまり被害を受けず住めるにもかかわらず全壊という評価で、しかも、近くの仮設住宅へも入居することができ、今では自宅と仮設との二重生活をしています。
私たちはその話に溜息を漏らし、思わず唇を噛み締めました。


 地域行政に突き放され、父は粉骨砕身し、自ら何とかしようと動き始めました。
現在、父は東灘区にある知人の土地を借り、自己資金によって自力で仮設店舗を建設しそこで生活しています。


 約四畳のスペースに電線の束や電気工具類を並べるとすぐに一杯になり、壁際にやっと出来た畳一枚ほどの空間で寝泊りをしています。
線路沿いで、電車が通過するたび激しい振動と騒音に悩まされます。


 平成九年の二月上旬、その日私は父の仮設で一晩過ごすことになりました。
トタンの隙間から風が絶え間なく入り、火の気のない冬の夜は心の奥まで凍えそうになるほど辛いものでした。

 「何でこんなところに住まなあかんのや」と考えれば考えるほど、私が何とかしてやらなければと考えました。
しかし現実は厳しく、どうすることも出来ません。


 私は地震当時、父と同居していました。
下敷きになりながらも助かり、今では三田市で何とか生活できるようになりました。


 毎週金曜日になると、父は東灘の仮設から三田まで車で戻ってきて、一時の命の洗濯をします。
でも日曜日の夜には再び、東灘区へと帰っていきます。


 三田に戻ると、「ただいま」と言って玄関を通り抜け、東灘へ向かうときには「もう帰るぞ」とつぶやいています。


 この言葉を聞くたび、何度も胸が締めつけられるような思いにかられました。
車に乗る瞬間の父の背中がやけに小さく、そして悲しげに見えるのが悔しくてたまりませんでした。
父の居場所は一体どこなんや。どこが心の落ち着ける安住の地なんや。
父との別れ際、いつもそんなことを考えていました。


 現在、神戸市では復興事業と並行して神戸港沖の空港設置計画が推進されています。
何十年か先を見通した計画と銘打たれたその事業は、空港を通じて雇用の確保と地域経済の活性化を計るとされていますが、これまで神戸の経済を支えてきた底辺に息づく人達をないがしろにして、本当の復興ができるとは考えられません。


 将来の展望も大切だとは思いますが、現在の実態に目を転じて、現実的な側面で苦しみながら生活している人達を救済してこそ、真の復興といえるのではないでしょうか。


 汗水流し、泥だらけになって生活してきた人達、地場産業を支え、また見えない部分での地域の街作りにも貢献してきた人達。一体誰がこれまでの素晴らしい神戸の町を育んできたのか。
そのことを度外視した行政のあり方は希薄な氷のようなものであって、人と人との心がつながりあった温もりのある町作りなど、到底困難ではないかと思わずにはいられません。


 日曜日の夕刻、父は再び東灘へと向かいました。
父は六十三歳になります。老体に鞭打って、死に物狂いで頑張っています。



新しい風
城戸 美智子(四十四歳 主婦 神戸市北区)

 重い鎖を体中に巻きつけ歩いてきた。そんな日々が、三年目を迎える。

 その日、娘、洋子の上にピアノが倒れた。意識が全然なかった。
大勢の人に助けられながら、やっとたどり着いた三つ目の病院で洋子の呼吸が止まった。
人工呼吸器につながれる。そしてあと十二時間の命と宣告された。


 これからが華の十四歳。
高校受験を控えて希望が胸いっぱい、瞳はキラキラと輝き、私の目の前で夢を語る。
そんな洋子の人生が一瞬にして変わった。
あの瞳、あの早口、あの姿が、私の前から消え去った。


 若さゆえの「三%の確率の生還」をやり遂げて、元気になっていく体。
でも違う。以前の洋子じゃない。
未知なる脳の世界に迷い込む。うまくしゃべれない。落ち着かない。記憶が残らない。
洋子から人間の気配が消えた。
リハビリが始まる。どうすればいいか、先生も迷う。私はもう何にも考えられない。


 どこへ相談に行けばいいのか。窓口がない。
後遺症について共に考えてくれる窓口がない。
心のケア。いや違う。心じゃない。
現実を目の前にしてのケアがほしかった。
「私のところだけが……」、と落ち込んだ。
「夜が明けて一日が始まるな」、とひたすら願った日々。辛く苦しい日々。
人知れず泣く、悔しさに泣く、洋子の将来を思い泣く、涙がこんなに枯れないことを初めて知った。


 そんな中で、小学校四年生になった拓馬。直子の嬉しい小学校入学。
少しずつ手が離れて行く子供たちのはずが、皆私を求めてくる。
私の頭の中は洋子のことでいっぱい。心のゆとりを失っていた。


 リハビリ室で訓練する洋子の姿を見て、涙がポロポロこぼれた。
「あんた、何でここにいるん? なんでそんなこと出来へんの」。心の中で叫ぶ。
そして思う。これは夢、悪夢だ。目をギュッと閉じ、そしてそっと開ける。しかし洋子は目の前にいる。


 もう生きる力がない。
そんなに前向きに頑張れるわけない。
残るは「死ぬ」こと。「死ぬしかない」。
それだけを考える日々が続く。先の見えない暗く長いトンネルの中にいる私は、死を考えているとき、心の安らぎを感じていた。


 命が助かった喜びは大きい。
大勢の人々に助けてもらい、秒単位の奇跡が洋子を救った。
でも失ったものも大きい。それを考えると、私は生きる力を完全に失っていた。


 平成七年九月、重い気持ちを引きずって仮設住宅へ引っ越した。
洋子はリハビリの日々、下の二人の子供は転校。
でも、ここで私たちの力になってくださった多くの人々に出会った。
洋子は通院ボランティアさんとリハビリに行く。
やっともらった一人きりの時間。
洗い物をしながら泣いた。
洗濯物を干しながら涙が出た。
泣いてばかりの私も、洋子が少し落ち着き、皆に優しくしてもらって徐々に心が癒えてきた。


 丸二年間のリハビリ生活にピリオドをうつ時が来た。憧れの高校生になるために。

 震災で受験出来なかった洋子は、その年、内申書だけで受かった高校があった。
二年間待ってもらった。
完璧でない洋子をリハビリを兼ね、そして復活の奇跡を信じて、門を開き受け入れてくれた。
いろんな方々に世話になりながら、やっと手に入れた夢に見た高校生活を、今送る。
しかし問題は山積。
そして、これから先、生きて行くための社会生活のことを考えると私の心は重く痛い。


 地震から千日が過ぎたとマスコミが取り上げようが、私の震災は洋子が元の元気な洋子の姿に戻らぬ限り終りはしない。

 子供たちが生まれ育った町で、ずーっと大人になるまで暮すことに何の疑いもなく生きてきた。
それがあの一瞬に打ち砕かれた。
人生なんて何にも信じるものがないこと、思い知らされた。
これからの私たちの人生は、その日暮し。毎日が無事に過ぎ、次の日を迎える。そんな日々の積み重ね。
将来に夢や希望を持つことは大切かもしれないけど、私にはもうそんな元気はない。
風が吹くままに身を任せながら流されて行く。
そんな生き方しか出来ない。


 だけど、そんな私たちも二年二カ月の仮設生活にピリオドをうち、新しい生活を始める。そんな風が吹いたから。
これからの私たちの暮しが、少しでも明るければもう何もいらない。


 この地震で命を奪われ、家を失った人がいる一方で、元気な体を奪われ、後遺症を引きずって生きていかねばならなくなった人たちのことも忘れないでほしい。


生きている証
藤原 弘美(五十五歳 主婦 西宮市)

 図書館で借りた『被災した私たちの記録』を読んで涙が止まりませんでした。
私も西宮で被災し、家をなくし、物をなくし、その上、土地問題で姉弟との縁をなくし、なにもない上にガンになり、苦労ばかりの三年でした。


 大地震を体験し、病気でこれから先の寿命が少し短くなったかもしれませんが、生きている証として、何らかの形で残しておきたいと投稿しました。
定年を過ぎた私たち夫婦は、この地震で人生設計が大幅に狂いました。
しかし不思議なもので、地震後の方が強くなり、人間の力強さを感じています。


 地震で自宅は全壊しました。
家は私の実家で、三十年間私たち家族と私の両親が住んでいました。
最後に母を見送った後、私たち夫婦が家を守ってきており、翌年は母の七回忌でした。


 地震直後は、それまでに家の再建をと必死の思いでした。
しばらくは豊中市の娘夫婦の家で世話になりました。
仮設住宅は何回も申し込みましたが、年齢的に中途半端なのか、当たりません。


 家の敷地は姉弟らと四人の共有名義でした。
土地だけになったので売ると言われ、たった一人で反対しましたが聞いてもらえませんでした。
とうとう手放すことになって、悔しく情けない思いをしました。


 それから今日まで、住む所のないつらさ、みじめさを嫌というほど味わってきました。
地震前、主人は定年を迎えて年金生活をしていましたが、地震後は再び就職し、私も働き、二人して一生懸命でした。


 何もかも失った私たちにとって、たったひとつ得たものは、地震の年の十一月に生まれた初孫です。
その誕生は何よりのはげみであり喜びでした。


 毎日を夢中で過ごしてきました。
ところが、平成八年の秋頃から疲れが少し出たのかなと思っていたところ、平成九年の初めガンと分かりました。
それも二つ同時に発病していました。手術を終え現在療養中です。いろんなストレスの結果だったと思います。


 何もかも失った私たちから、生命まで奪うのかとも考えました。
しかし、今では、失うものは多かったが、命の尊さ、人の善意、いろんな苦労が私に前向きに生きる強さを与えてくれたと思っています。地震で生かされた命、精一杯生きようと……。開き直りかもしれませんが。


 地震以来、私たちを支えてくれた家族、友人、知人、今あらゆる人に感謝しています。

COME BACK KOBE
石田 依梨(二十一歳 大学生 仙台市)

 私は神戸っ子だ。
あの当時、私は高校三年生。
地震があったのはセンター試験直後だ。
家のある神戸市西区は比較的被害の少ない地域と言われるが、十日程水が出なかっただけでもかなりの不便さを感じた。

 だが学校のある長田の惨状は深刻だった。
西神から板宿までしか通じていない地下鉄を降りると、もうまるで別世界。
避難者の住む学校まで歩いて調査書を取りに行くときに見た、焼けた家々。黄色い空気。
人は大勢いるのに声のない静けさ。
取材のヘリコプターとその爆音。救急車・消防車のサイレン。線路の上を歩く人々。


 学校で友人たちは淡々と話す。
「風呂に入りたい」「避難所は勉強がしにくい」「家が焼けた」「友達が死んだ」「命があるのが不思議だ」。


 これらは震災直後の出来事だから、世間は過去のものとしているだろう。
しかし、震災から三年近くたった今なお、三万人もの方が仮設住宅で暮しておられることを知っている人は、この日本に一体どれくらいいるだろうか。


 「震災はまだ終っていない」週末ボランティアに参加して仮設訪問にうかがうたびに、その思いが頭を巡る。

 ボランティアに参加してから一年半。
神戸を遠く離れて仙台の大学に通う私は、実家に帰れるときしか仮設訪問に行けない。だがボランティアの仲間はいつも温かく迎えてくれるし、仮設の方々もいろいろな話を聞かせてくださる。
指折り数えるぐらいの回数しか参加出来ないが「まだ終らぬ震災」を垣間見ることはできる。


 震災後、何度も応募してやっと当たった仮設住宅に入居する際、長年付合ってきた近所の人と離れ離れになる場合が多い。
ほんの十数秒で、ある日突然家も、思い出の品々も、平凡な日常生活も、大切な人をも失った人々は、長屋のような仮設住宅に無一文の状態で放り込まれたのだ。


 夏は四十度を超え、冬はむき出しの水道管が破裂する寒さの中、病気に倒れる人、悪化する人、更には孤独死する人が後を絶たない。
平成九年の九月七日、神戸市ポートアイランドの仮設住宅で、病身の女性が衰弱死しているのが発見された。
なんと料金滞納を理由に水道を止められていたのだ。
そんな人殺しとも言える市政の中で、神戸空港建設の話はまだ消えない。
「神戸空港ニュース」なる広告を印刷するお金があったら、被災者支援にあてるべきではないか。


 仮設に住む人には、一人暮しのお年寄りも多い。
学生で一人暮しをする私でも風邪をひいた時などは辛いのに、疲れやすいお年寄りはどんなに大変だろう。
二人暮しでも、寝たきりの親御さんの世話をしてる場合などもある。
自力で再建する力のある人々が仮設を出ていった今、仮設の集合住宅の明りがつくのはせいぜい半分。
お年寄りや障害者など、社会的弱者がほとんどである。
いずれは仮設住宅を出なければならない人達の不安や焦り、寂しさは募る一方だ。


 こんな実情を知る人々は、一体どれくらいいるのだろう。
特に、私の住む仙台などの遠隔地では、阪神大震災関連の情報は全くないに等しい。
私は年に数回は神戸に帰るが、そのたびに情報量の違いを身に沁みて感じる。鉄道も早くから復旧し、高速道路も復旧し、神戸港のコンテナ・ヤードも元の数だけ動きだし、「百万ドルの夜景」とうたわれた町の明りも少しずつ元通りになっていく。


 しかし忘れないでほしい。
町が元気になるほど、焦りと不安で一杯になる人々が、まだ大勢おられることを。


 確かに、事実距離的にも仙台、神戸間は遠いが、心の距離も遠いように私は思う。
しかし、「週ボラ」には、北海道から沖縄まで、日本全国からの参加者がいる。
私の仙台の友人が神戸に遊びに来たとき、仮設住宅を目にしてショックを受け、後でこう言った。
「いつ来れるか分からないけど、必ずまた来る。そのときは絶対に仮設訪問に行かせて」と。現実を知ると、やめられなくなる。


 一時期、「私はボランティアをしている」と人に言えなかった時期があった。
自分自身が何もしていないように思われたのだ。
たまに神戸に帰って来ては仮設に行って話を聞く。
ボランティア面しているだけで、実際には何も問題を解決していないじゃないか。


 すると、大先輩がこう言われた。「役に立とうと思っちゃいけない」。
親友がこう言った。「週ボラは鏡。その人自身の心に耳を傾けられるようにする鏡なんだ」。
それから、私自身がフワッと軽くなれた。
構えちゃいけない。無理する必要など全然ないのだ。


 最後の一人が「自分はよくあんな仮設で頑張ったな」と、笑って言える日がきて欲しい。
そして私は、仕事がなくなるまで週末ボランティアに参加し続けたい。



笑顔
清重 智子(三十二歳 保母 明石市)

 「えらい長い時間、話をしてしもうたな。お茶もださんと」と、八十歳代のおじいさんは、笑顔を見せました。
仮設住宅の小さな部屋の時計は、夕方の五時をまわっていました。

 「あんたらも大変やけど、がんばりな。今日は久しぶりにようしゃべったわ」と、私たちを見送りに立ちながら、もう一度笑顔を見せました。

 初めて会った二時間前、「何をしに来た」とけげんな表情をしたのとは対照的なまぶしい笑顔でした。

 仮設住宅の訪問ボランティアをはじめて、一年と九カ月が過ぎました。
毎週末、神戸市西区のどこかの仮設住宅を訪問しています。
この間、今までの人生の中で一番多くの人と出会い、お話を聞きました。
この出会いは、六千人以上の命を奪い、多くの人の人生を狂わせた地震のことを決して忘れてはいけないとの思いで続けてきました。


 私は地震当日は、県外に住んでいました。
直後の様子は、テレビで見ていました。
自分の生活とテレビの画像との違いに呆然としました。
水道の水を流しながら、長田の火事を見て泣いていました。


 「ねえ、水はこんなにあるのよ!」と叫んでいました。
明石の実家から、家族が無事だとの電話があったのは、当日の夜でした。


 訪問ボランティアに参加したのは、平成七年の年末でした。
離婚して、その年の夏に実家に帰っていました。家の近くにも仮設住宅が建っています。駅前にボランティアが集合していたのを見たのがきっかけでした。


 最初の日は、雪の降る市営地下鉄の「学園都市」駅に集合しました。
学校のグラウンドのフェンスに囲まれた、1Kの仮設住宅を訪問しました。
隣に一戸建ての家がたくさん建っています。
そのアンバランスにショックを受けました。
一軒一軒、戸をたたいてお話をうかがいました。ただ黙って聞くだけでした。
ある家では、おじいさんの話を聞いて、とうとう泣いてしまいました。


 毎週毎週、話を聞かずにはいられませんでした。
もしかしたら、この方々と同じことが私自身にも起こっていたかもしれません。他人事ではないと思いました。
地震の時だけでなく、その前や現在のお話を聞くと、その人の生きてきた歴史に出会った気がします。一緒に悲しんだり笑ったりしました。


 地震の年の夏に起こった私の経験は、とても苦しいできごとでした。
あのときは泣いてばかりいました。
しかし今では思いっきり笑えるようになり、新しい人生へと前向きに生きて行こうと思えるようになりました。
週末ボランティアを通じていろいろな話を聞かせてくださった人たちのおかげです。


 「あの大地震が起こらなかったら……」、何回この言葉を聞いたことでしょう。
そしてその後、行政が被災者のために心ある政治をしていたら、孤独死で百七十人もの命を失わずにすんだと思います。


 立派な高速道路ができました。
新しいビルや一戸建ての家も建ち始めました。
しかし、この大災害によって人生が目茶苦茶になって、今も大変なご苦労をされている人たちが大勢いることを決して忘れないでほしいと思います。
生き残った私たちは、被災した人たちだけでなく、被災しなかった人たちとも、手を取り助け合い協力しあって生きていきたいものです。


 震災はまだ終わっていません。
時間は残酷で、あの日から人生が止まっている人と、普通に幸せに過ごしている人との差がどんどん大きくなっているようです。
そして、それが見えにくくなってきています。


 この千日間、私たちは生きてきました。
これからも生きていきます。
だれもが明るい笑顔で生きていきたいと思っています。
私は毎週お話を聞いていて、訪問先の方が笑顔を見せてくださる時に一番感動します。
私自身が笑顔を取り戻せたように、被災された方々に笑顔が戻るのを願いつつ、これからも訪問を続けていきたいと思います。



震災の風化(県立大分東高等学校郷土研究クラブ)
森田 麻友美(十六歳 高校生 大分市)
 地震の心配はない、といわれてきた地域で起こった突然の出来事。
映像や紙面を通して伝わってくる惨状、想像を絶する被害に対してどのような支援をすればよいのかと、人ごとではないという思いで、私たちはすぐに緊急委員会を開きました。


 長時間にわたる話し合いの結果、校内校外で募金と激励のメッセージを集めることにしました。
ボランティア委員会を中心に、数回に及ぶ街頭募金活動や、支援物資の収集活動を行い、日本赤十字社や、地域の社会福祉協議会を通して被災地へ義捐金や支援物資を送付しました。


 それと同時に、自分たちの周りの暮らしや、社会の「安全性」とか、災害が起こったときの「地域コミュニティ」といったものについて調査することにしたのです。

 「防災意識調査」は、震災直後の平成七年一月二十一日から、平成九年十月十九日まで、阪神大震災救済街頭募金活動と並行して、合計二十四回行いました。
大分市中心部において、直接対面方式による男女無作為抽出法で実施。対象総数千人以上となりました。


 ボランティア委員会では、総合分析結果として、「市民の災害に対する意識が想像以上の速さで薄れていっている」こと、「市民の防災対策もほとんど手付かずの状態で放置されている」ことが分かりました。

 今回の震災を契機に高まった市民の防災意識を無駄にしないためにも、「行政・民間の区別なく、ひとりひとりが積極的に防災対策を考え、実行に移すことが必要である」との提言をまとめ、大分県消防防災課、社会福祉課に防災マニュアル作成のための参考資料として提出しました。

 また委員会のメンバーで手分けして、地域の安全性の検証も行うことにしました。

 市内県内の避難場所や災害予想危険場所を記載した一覧表を、市の担当局からもらって、問題の場所をチェックしてまわりましたが、百五十カ所以上に及びました。

 六十歳以上の問題意識調査では、高齢者になるほど災害への不安も大きく、全く備えのない状態であり、ことに一人暮らしの老人は社会との関係が密接でなく、ある意味では他人とのコミュニケーションがほとんど取れていない実態が判明しました。

 そこで大分市社会福祉協議会を通して、独居老人に対する携帯ラジオの寄贈を行いました。
とりあえず現時点からすぐに対応できることから手を付けようという活動でした。


 その後も学校近辺の一人暮らしのお年寄りに対しての声掛け運動や訪問を継続中で、多くの市民から問い合わせがきています。
これからも地域の安全性・コミュニティーの育成を念頭に置いてわたしたちの活動を続けていきたいと考えています。


 ●調査結果について(平成八年発表分)

一 急速に弱まった災害への関心
 まず、震災直後の平成七年一月二十一日調査(第一回)から、同年の四月二十二日調査(第二回)にかけて、災害への関心が急速に弱まっていることが注目されます。
「あなたは現在、地震・火災・台風などの災害に関心がありますか」への回答で、「非常にある」の選択が七五%から三五%に大きく低下しています。
人々の防災意識が長続きせず、風化しやすいことは確かです。


 ではその風化のスピードはどのくらいか、という問題ですが、明らかではありません。
しかし、関東大震災は約七十年を経過してもなお、耐震建築、防災の日、防火、など多くの点で教訓を残し、直接体験のない私たちへの遺産となっています。
阪神大震災から何を学ぶか、という問いかけを今後も続けることが大事だと思います。


二 住民一人ひとりの具体的な防災対策が進んでいない
 「地震に対する何らかの備えをしましたか」の回答で、「あまりしていない」「ほとんどしていない」が六〇%を上回っており、これは第一回・第二回調査とも大きな変化はありません。つまり、住民の具体的な防災対策はほとんど進んでいないということを示唆しています。

 これは、「した方が良いとわかっているのにしない」という私たちの傾向が出ているデータだと思います。
もちろん、何をしたらいいのか分からないからしない、という見方も出てきますが、分かっていてもやらないのも私たちの傾向です。
いずれにせよ、身近にできる防災対策のポイントをまとめるとともに、家族ぐるみ、地域ぐるみで、啓発的な活動を進めることが大切でしょう。


三 復興対策は、行政の責任と考える傾向。不満も強い。
 「大災害が発生した時、最も有効だと思う支援活動」として、「国、自治体を中心とした援助活動」が六〇%で最も高く、「これだけの大災害では、当然国や自治体が中心になって進めるべきだ」という考えがうかがえます。
これには、行政への期待もある程度含まれていると思います。
しかし、「行政の復興支援は十分か」という問いでは「あまり十分でない」「まったく不十分」が七〇%近くにのぼっています。また、「国、自治体の防災対策に満足か」という問いでも「あまり十分ではない」「不満」が第一回調査で七三%、第二回調査で八一%と増えています。


 私は「復興は行政の責任で」という考え方が強く出ているように感じます。
しかし、行政の復興計画によっては、私権の制限の問題(例えば、安く土地を買い上げられる、地元で仕事が続けられない)も起こります。
行政の復興対策について、その手続きまでチェックすることが重要でしょう。


ただ足るを知る
川辺 正(六十五歳 会社員 神戸市東灘区)
 戦災を乗り切った私は、ようやく築いた安らぎと平穏を阪神大震災に奪われた。

 東灘区御影中町の自宅で、激しい横揺れと同時にザーッと天井から砂埃が大量に落下した。
その瞬間、私は真っ暗闇のなか、柱、梁、桁と壁材などに胴と足を挟まれ身動きできなかった。
救出されるまで、生への執念、妻と娘の安否、火災の恐怖のほかは全く念頭になく、長く恐ろしい約一時間であった。


 家族三人は無事で、亡くなった隣人や知人の話を聞くたびに哀悼の念で心がうずき、お互いが現に生かされていることを喜び幸運を感謝した。
自然の威力は凄い。
それにしても何故神仏は私を見捨てなかったか。状況からみて正に奇跡。
考え続けたが今でも答え無し。私は生命ある限り何とかやれるという思いが募り、空腹感も渇きも覚えなかった。


 倒壊家屋から取り出せる家財は少しはあった。
しかし、保管場所がないという現実的な考えと、被災者として生活を立て直すという考えで捨てた。
だが後から思えば人間の業か、欲か、愛着か、後悔することもある。


 ○仮住居と環境
 住む借家なく仮設住宅もなく、私は三月早々住み慣れた神戸から遠い大阪府柏原市の賃貸住宅に移った。
妻は兵庫県美嚢郡へ、長女は京都市山科区に疎開した。
ようやく三人一緒に住めたのは、震災の年の十月過ぎだった。


 土地柄、女性は六十歳くらいまでパートに働きに出るようで、妻は見知らぬ土地で孤独感に陥った。
約半年後、妻はパートを見つけ、初めての会社勤めを経験した。
時給は退職するまで全く昇給がなく、噂を信じるのではないが土地の人と、やがて去る人との間に差があるらしく、何か割り切れぬ思いだった。


 家賃は月額八万五千二百円だった。
神戸と避難先との往復費用も無視できなかった。
半年ほど、私と妻の二人で月間最高約三万円を費やした。
住民票は神戸に残したので証明書や手続きなどの用件で、たびたび神戸へ行ったが、好き好んで市外へ住んだわけでない。
手続きなどの簡略化と交通費の補助はないものか。


 震災一年を過ぎると、被災地外の人の震災への関心は一段と薄れていくようで、「もう落ち着いたやろ。震災にこだわらずに……」と親切に言ってくれるけれども、借家住まいの家なき子に安住の地はなく、決して震災は忘れることがない。
意識のズレを実感した。我が家再建の重荷は被災者に一生付いてくるのだ。


 私は避難中、ガスコンロ、洗濯機、冷蔵庫以外一切の家具を買わなかった。
家財はないなりに生活の知恵で生きてこられた。
私たちは豊かな物質社会に慣らされて知らぬ間に贅肉が付いてしまった。
震災はこのうぬぼれ社会に対する警告かもしれないと、反省するとともに、私は「吾唯足るを知る」という勉強をしたと考えている。


 ○再建と課題
 私は多くの人々の励ましと支援により、平成九年五月末に、我が町神戸の旧地に戻ることができた。
約二年半ぶりに我が家「燕の小宿」を手に入れた。


 が、問題の一つは再建資金である。老後のために備えた僅かの金では足りず、神戸市災害援護資金も利用して我が家は再建したので、私は「この借金をどう生きて返済出来るか。
これからの生活資金は」と考えることが多く、ただただ病気と痴呆にならぬよう願う毎日である。


 二つ目は我が燕の小宿は、残念ながら完全なバリアフリーになっていない。
その理由は建築費を抑えたためと土地面積の制約である。
そこで私たちは暖房の電化と火災警報機の設置をし、家庭内事故を起こさぬよう日々の注意が大切と考えている。


 三つ目は我が家は外構工事が今ひとつで、植栽もなく丸裸の家である。被災地に復興の夢と明るさを呼び寄せるために、花木の苗、種子を神戸へ戻る人に贈与してはいかがだろう。
神戸に帰ってほしいという掛け声だけでなく何か物を。


 ○明日への決意
 はや震災三周年が巡ってくるが、残りの人生をいかに生きるべきか。

 ある人は潔く仕事を勇退し老年を自由に過ごしているが、私はまだ細々と働いている。
事情が許すなら、とことん働き続けたいし、有限のときを生きている自分をよく見つめて努力していきたい。


 また凄まじいエネルギーの痕跡と我が生命の奇跡を「我が家の被災悲集」として整理中である。
私は次の世代に残すべき何物もないが、これが唯一最高の遺産であると自負したい。地震への対応を疎かにすることなく努力すれば、最良の日が巡ってくると語りかけるつもりである。


 私は震災を嘆かず、呪わず、怨まず、私に生命の尊さと生かされている感謝の気持ちと生への挑戦を教えてくれた反面教師と考えたい。
あせることなく日々を心豊かに強く明るく生きたい。



ユンボ
板谷 孝夫(六十九歳 神戸市灘区)
 昭和二十一年十二月、私は高知市で南海道地震に罹災し、倒壊家屋に埋まった体験を持つ。今回の大震災の揺れで、自宅家屋の倒壊をはっきり自覚した。
幸い、家内共々無事であった。


 灘区楠丘町の我が家は、六軒並びの一戸建てだった。東端の一軒を除いて、横並びに同一方向に重なって倒れた。
そのうちの一軒は子供さんが、もう一軒はご主人が亡くなられた。


 当日は何を食したか覚えていない。行動は潰れた家の周辺に限られていた。

 日暮れに鷹匠中学校に避難した。
真夜中に須磨区の息子が探しにきてくれ、息子宅に一時身を寄せ、その翌日から倒壊した家屋からの宝物の掘り出しにかかった。


 まず貴重品と私の入れ歯である。
食べ物を飲み込んでいたので東京からかけつけた息子や甥たちが加わって入れ歯を見付け出してくれたときは、嬉しかった。


 私と家内は、手作業で衣類、家財の取り出しを続けたが、手作業には限界があり、家屋解体をしなければ肝心のものの取り出しはとても無理であり、それには重なり合った五軒の共同歩調が必要だった。

 この間、仮設住宅の申し込みをしたが、五回とも外れた。遠隔地を避けたためだろうが、悔しかった。

 家屋解体は国と市で費用負担するとのニュースが流れ、さっそく申し込みに行った。
ところが、「今日受け付けるのは倒れかかって危険な建物だけです」といわれた。そこである市会議員を訪ね、「これは政治問題です。市当局に掛け合ってください」とお願いした。


 私は諸般の事情から、解体費用は事後でも行政当局が負担することになるだろうと、当座は自己負担でも解体にかかることに決め、近所の人達に計った。

 倒壊家屋の中の作業は素人には危険であり限界があったが、日常生活に欠かせないものを取り出さないと、今後の生活の見通しがたたない状況であった。

 近所の人達の意見も同じだったが、市の態度が確定するまで、待ちたいとする家もあって、足並みが揃わなかった。悔しいが個人の自由であり仕方がなかった。

 が、まもなく、態度を保留していたSさんから一緒にやりたいと申し入れがあった。
願ってもないことで、了解すると共に、五軒足並み揃えて実施することがよいことを説明して、残りのもう一軒も参加するように説得を頼んだ。


 これで見通しがついたとほっとしたのも束の間で、Sさんから「自分の所は別にやる」と言ってきたのである。
個人個人でやるといっても重なり合って倒れているので、一階は自分の土地でも、二階は他人の家屋になる。裏切られたと腹わたが煮えくり返る思いだった。


 一悶着も二悶着もあった解体作業もこちらの望むものを探していたら当然に作業の進捗が遅れるので、作業に異議なしの署名を求められた。
仕方のないことである。火災の発生したところではそれどころではなかったであろう。


 三十年余の生活の場であった我が家の上に乗るユンボの姿を見るとき、哀れと情け無さが交錯したものである。
ともあれ、解体作業が終わって更地になったのは三月の中旬になっていた。
神戸市では、解体費用の負担を決定し、その額は、我々が業者と交渉していた額より条件がよくなり、業者は喜び、我々も一円の負担もすることなく済むことになった。


 南海道地震のときにはなかった各地各方面からの支援もありがたかった。
寒い時期の温かい炊き出しには涙する思いがあった。
早逝したわが両親の人生に比べてまだまだ恵まれていると思う。
多くの人達の支えに感謝し、今後私たち夫婦は、頑張って生きていかねばならないと思っている。



忘れ物を捜しに行く日
長澤 ひかり(三十一歳 会社員 大阪府豊中市)

 あの年の正月に引いたおみくじは大吉だった。
ただ住居のところだけが「悪し。移る可能性あり」となっていた。
まさか二週間後、それが現実になろうとは……。


 西宮にあった私の家は、幸いペチャンコにならなかったので、家族はみな無事だった。
私も、ぐうたらで寝ていたこたつに潜ったおかげで、けがひとつなく済んだ。
とはいうものの、家はとうてい住めるような状況ではなく、一週間前に修理したばかりのトイレも無残な姿に変わっていた。
たまたまケース買いしていた水とカップラーメンとカセットコンロのおかげで空腹に困ることはなかったが、もしものためにと私は食料の調達に出かけた。


 見慣れた光景とは別世界が広がっていた。
歩くにつれて、私の家の被害はまだましだったのだと思い知らされた。
そして何とかコンビニにたどりついて長蛇の列の後に並んだときのことである。
一台の車が目の前に止まり、中からスーツ姿で出てきたレポーターがいきなりマイクを突き付けた。
顔も洗わず、歯も磨かず、パジャマ姿同然で駆けずり回っている私たちに何を聞こうというのか、恥ずかしいというより、怒りの方が先に立った。
インタビューは後に並んでいた高校生に任せ、手に入れたサンドイッチ片手にそそくさと退散した。


 あちこち遠回りしながら家に戻り、避難所に向かうために再び外に出たときは、すっかり真っ暗になっていた。
小学校の体育館や開放された数部屋の教室はすでに満員状態だった。
やむをえず、廊下で家から持ち出した毛布にくるまり、ひたすらラジオの声に聞き入った。
そしてこのとき初めて、被害の大きさを知った。夜中の二時ごろ配給されたおにぎりをほおばりながら、長かった一日が早く明けるのを待ち望んだ。


 それから二日間の避難所生活を経て、八尾の祖母の家に三日間世話になった後、周囲の方々のご尽力により豊中市のマンションに引っ越すことができた。
とりあえず家を建て直すまでそこで待つことにした。
全壊扱いになった西宮の家は、五月には更地になり、後は家を建てれば以前の生活に戻れるはずだった。


 たびたび都市計画の説明会で西宮を訪れていた母の口から、予期せぬ知らせが飛び出した。
西宮の家が区画整理で道になるらしい、と……。
それまで、周辺の道が広くなるぐらいのことは知っていたが、私の家の上を道が通るなど、まったく聞いていなかった。
母に地震の前からこんな話があったのかと尋ねてみたが、やはり初耳だという。
どこか近くに同じ広さの土地をもらえるそうだが、それが決まるのが一年先。
すぐに元の土地に家を建てて帰れると思っていただけに、少しばかりショックだったが、一年たったら帰れるのだと我慢することにした。


 それから暇があれば、更地に出かけた。
別に何があるわけでもないのに、そこに立っているだけで何だかホッとしたのである。
そのたびに、こんな狭いところに住んでいたのかと感心しつつ、本当にここに戻ってこられるのだろうかという焦りが私を襲った。


 そうこうしているうちに、右隣や裏の家が次々と土地を売ってしまったのである。
けれども彼らの選択は正解だった。
計画はもはや一年ではまとまらず、少なくとも三年がかかるということになってしまったのだから。


 何も進展のないまま年を越し、気が付けば一年が過ぎていた。
いつまでもぐずぐずしていた私たちだったが、とうとう決断を迫られるときがやってきた。
三月以降、土地の買い上げ価格を下げると市から言われたからだ。
生まれてから一度も動いたことのない思い出の詰まった西宮を、こんな形で去っていくのはイヤだったけれども、これ以上先の見えない計画を待ち続けるだけの気力は持てなかった。


 いい年をして、いつまでも親の元でやっかいになっているくせに、何もできない自分の無力さには、情けないとしか言いようがない。
結局、地震が起こってから約一年と三ヵ月、とうとう西宮の土地を手放し、豊中に新しい家を建てて引っ越した。


 新居に移ってから一年。
生活もすっかり落ち着いてきた。
あの日以来、週末は家でゴロゴロするのが好きだった私も、暇があれば外に出かけるようになった。
物よりも自分の楽しみにお金と時間を費やすようになったのである。
しかし楽しみが増えれば増えるほど、何とも言えぬ虚しさが感じられるようになった。それは、西宮とのつながりがなくなってしまったという淋しさもあったのかもしれない。
心にポッカリ穴があいたようで、何か大切なものを置いてきてしまったような気がしてならないのだ。
土地を手放してから一度も踏み入れなかったあの町へ、心のわだかまりが解けたら、忘れ物を捜しに出かけたいと思う。



転職した店
田中 秀子(五十一歳 飲食店経営 神戸市長田区)
 一番下の子供も、四月から就職が決まり、親の代から続いたクリーニング店の商売も順調。
これからは仕事量を減らして、ゆっくり働いていこうと思っていた。


 それが、あの日から一変してしまった。

 あのとき、大正筋から昭和筋へと燃えてきた火が七軒ほど先まで迫ってきた。大きな火の粉がハラハラと飛んでくる。
 「家が焼ける。もうダメ」
 「早くお客様の品物を持ち出さなくては」

 兄弟が駆けつけ、子供たちと必死で運び出す。あるわ、あるわ、長年のお客様の品物はイヤという程ある。

 三、四日して、運び込んだ先で商品の山に埋もれ、片付けているときにそれまで出てこなかった涙が自然にボロボロとこぼれた。
 「せっかくお父さんが丁寧に仕上げたのに……」
 あのときは誰に会っても泣いている人は一人もいなかった。
無事を喜び合うだけで心はカラッポだった。しかし、無残な商品を見ていると、訳もなく泣けてきた。

 「もうイヤ。人の品物を預かる商売は」
 それが頭から離れない。娘しかいない私たちには、今更、洗濯の機械を買い替えてやり直す気力もない。

 それから八カ月、主婦感覚のおかずを出す食堂、を始めた。借金もした。不安で八キロやせた。
でも何かをやらなければ。
クリーニング業一筋で来た主人が慣れない仕事を始めるのだ。店を開くまで、二人で話し合った。
 「良い方へ」「良いことだけを」
 不安を打ち消すように。
 自分たちに言い聞かせるように。

 主人は後ろを見なかった。見たくなかったんだと思う。不安を口にしなかった。

 商売は、復興の工事とともに始まった。阪神高速の工事の人、解体業の人で賑わった。
一歩外へ出ると、「皆、地震で生活が狂ってしもたんや。
新しい商売も大変やろけど、がんばりよ」と励ましてくれる人がいる。
だが、同業の飲食業者からは、「この商売がそんなに儲かると思とったん」と言われた。


 長年の商売をやめて、新しい仕事を始めるのは難しい。

 また、「ものすごい変身やね」「前の商売とどっちが良い」と決まったように聞かれる。
それは前の商売が良いに決まっている。
長い間やってきたんだもの。分かっているのにそう言われるのがイヤで、買い物に出てもサッサと家に帰る毎日だった。


 主人がお客様に食事を運ぶ姿を見ても心が痛んだ。
五十三歳にして、今までと違う接客に気苦労も多いだろうに。


 一番うまく行っている時期に、その商売をやめてしまった後悔と、これから先うまくやっていけるのかという不安。
いつも、「以前の良かったときのことだけを思い出せ」と主人は言う。

 「これで充分。これで充分」と。

 開業から二年が過ぎた。
細々ながらも借金を返し、生活も落ち着き、仕事にも慣れてきた。お客様も工事の人が減り、一般の人へと変わってきた。

神戸の町も少しずつ活気が戻っているようだが、まだまだ更地があり、フェンスが張られ、雑草と駐車場ばかりが目につく。


 知らない土地で新しい商売を始めるのではなく、長田という土地で生まれ育って、何もかも知っている人の多い土地での新商売には、地域の応援もあり、非難もある。
これからは、その応援だけを頼りに「転職した店」のイメージが早くなくなり、古くからあったようにこの町に溶け込んで行く。
それが私たちの最大の願いであり、これからの努力目標であると思っている。



赤いほっぺ
小西 キヨ(六十八歳 神戸市灘区)
 地震直後に夫は逝った。
 地震の数日後、私は余震におびえる夫と半壊のわが家をあとにした。
妹、姪、その友人と、東灘区住吉町から西宮北口までの約三十キロメートルを四時間半かけて、国道2号線を駆け抜けた。
瓦礫の中、夫を乗せた車椅子を交替で必死で押した。


 ところが、心臓病の夫にとって避難は無理だったのか、京都のホテルから大阪の姪のマンションに移って一週間後の三月十九日、思いもかけず帰らぬ人となってしまった。

 帰神してからの私は、やり場のない悲しみと孤独の日々に打ちのめされた。臆面もなく声を上げて泣いた。

がらんとした部屋に一人、夫と三十年過ごした追憶に浸り続ける。
看護疲れもあって、ときどき温和な夫に声を荒げたことなどを思い出し、なぜもっと優しくしてあげられなかったのかと自責の念にかられた。
テレビをつけても上の空、新聞さえも読む気がしない。ただ、むなしさしきりだった。


 そんな折り、灰色の玄関のガラスにぱっと黄色一色の子供の姿が映る。大きな声で「おばちゃーん」と呼んでいた。
向かいの家の亨汰くんだ。


 子供のいない私はボランティアのつもりで、三歳ちがいの兄に続いて亨汰くんが生まれた時から子守をしていた。
その声で元の生活に引き戻された気がした。

土間に運動靴を蹴散らすようにして座敷に駆け上がると、必ず、花に埋もれた夫の遺影に向って手を合わせて、お辞儀をする。
そして、涙ぐんでいる私の顔をのぞき込み、

 「おばちゃん、さびしいの。僕がおじちゃんに電話してあげる」と、いつもより元気のない声で、電話の向こうに語りかけた。
 「おじちゃん、早く帰って来てください。おばちゃんが寂しいって言ってるから」
 たった三歳の彼が、悲しみと寂しさに耐えている私に、自分の言葉で慰めてくれた。いっそう涙があふれ出る。
 「おばちゃん、泣かないで」
 亨汰くんはじっとつぶらなひとみで私の顔をいつまでも見つめている。
このまま思いやりと優しさのあるおとなに成長していって欲しいものだと思った。


 ある日、神戸を離れる直前に夫が脱ぎ捨てていたジャンパーにまだ温もりが残っているような気がして、思わずしがみついて号泣してしまった。
亨汰くんは広告の裏に数字を書いて遊んでいたが、ただならぬ空気を感じ取ったのか、慌てて私の膝にまたがり、しっかりと抱きついて来た。
そして小さな手で私の頭を撫でながら、声を落として優しく言った。

 「おばちゃん、大丈夫だよ、大丈夫だよ」
 私は無意識に小さな体を抱きしめた。
 「亨汰くん、ありがとう、おばちゃん頑張るからね。
 声を詰まらせながら、りんごのような赤いほっぺに顔をすりつけた。

 が、しばらくするうちに、住み慣れたわが家を兄嫁が相続することに決まった。
私は追われる身となった。ここを離れたくない……。

 「おばちゃんね、遠い所へお引っ越しするのよ。亨汰くんともう、会えないからいっぱいいっぱい寂しいわ。
 どれくらい分かってもらえるかと、辛い思いで彼の返す言葉を待った。
すると、私を見上げるようにして、けげんな顔で言った。

 「おばちゃん、天国へ行くの?」、私は思わず噴き出してしまった。
 「おじちゃんに会いに行くの?」、急に胸が詰まって泣き笑いになった。

  引っ越しの日、亨汰くんは家族連れで遊びに出かけるため、自動車の窓から身を乗り出して「おばちゃん、さよなら、さよなら」と叫んでいたが、車はスピードを上げて町角に消えた。
心から別れを惜しんでくれたのであろう。
一生懸命に小さな手を振っていた姿が忘れがたい。


 地震から一年二カ月、青谷から西神、六甲へと住まいを移した。
多くの友人、知人からあふれるほど、胸の熱くなる励ましをいただいたが、それにもまして亨汰くんの存在がどれほど大きな心の支えになったことか。
たとえ、ひとときでも孤独地獄をいやしてくれた幼い彼は、私の天使だった。


 この震災で犠牲になられた多くの方々のご遺族の慟哭が聞こえてくる時、これが運命と受け入れる以外、生きる道のないことを強く感じた。
また、人は字が示すように一人では生きていけないということも心の奥深く刻み込まれた。



クラスメートの死
小森 里枝(二十四歳 会社員 東京都小金井市)

 地震が発生した時、私は三重県に住んでいた。
二階建てのアパートで寝ていると、横ゆれの大きな地震が襲ってきた。
そしてその一分後に、今度は下から盛り上がるような強い地震があった。
私はとっさにパジャマ姿のまま外へ避難した。


 私は西宮市にいる当時の恋人のことが気になり、何度も電話をかけたがずっと不通だった。
テレビが知らせる死者の数が増えるたびに、私は彼のことが心配になった。この晩は一睡もできなかった。
地震から二日たった夜、ようやく彼から電話がきた。無事だった。


 地震から一週間たって、友人から電話があった。
私たちと同じ専門学校のクラスメートのお母さんが、神戸への旅行中に犠牲となったというのだ。
家にお邪魔して、いつもお世話になっていたので、まさかそんな目にあうなんて信じられなかった。


 級友は初七日が終わるまで学校を休んだ。
私たちはお金を集めてお悔やみを出した。
初七日が終わると、彼女は何もなかったように学校へ出てきた。
悲しみを乗り越え、一生懸命笑顔を作っていた。


 その後、私は専門学校を中退した。
地震から半年ほどして、町で学校の仲良しグループの一人と会った時、彼女が自殺したと知らされた。
母を亡くして精神が不安定になっていたらしい。
クラス委員からも電話で連絡があった。


 いつも仲良く昼ご飯を食べたり、遊びに行っていた仲間の死はショックだった。

 私はこの震災で、命の尊さを思い知らされたような気がする。
また自分が今生きて、きれいな服を着たり、おいしいものを食べたり、住める所があることは、幸せなことだと分かった。



夢の中の先輩
杉本 逸子 (十九歳 大学生 三木市)
 地震があった日の夜中、犠牲者の名前を報じるテレビに私は釘付になりました。
 田崎 一恵(仮名)の文字が流れたのです。
 「あっ。田崎先輩が死んだ。
 悲鳴に近い声で伝える私に母は,
 「同姓同名の人よ。」
 と言いました。

 田崎先輩は私の唯一の友達でした。
七年間いじめられてきた私が中学一年生のとき、部活を通じて仲良くなれた唯一の友達だったのです。その先輩が…


 翌日、先輩の友達からの連絡で、死が確認されました。
大人になってもずっと続きそうだった交遊は、たった三年弱で幕を閉じました。
そして震災は私にも大きな心の傷を残したのです。
不眠、地震の音が聞こえ、揺れを感じることなどです。


 しかし、それ以上にきついのは「文通友達のところにあんな震災がきて、皆いなくなってしまったらどうなるのか」という思いでした。
不登校の情報誌で知りあった二十人以上いる文通友達は先輩ほどじゃないけど、大切な友達です。


 「もし、またあんな思いをしたら……」と思うと「私のほうが先に死んだほうが良い」「私さえいなければ震災なんてもう起こらない」というところまで追い詰められ、自殺未遂を三回しました。
しかし、夢の中で先輩と会い、死んではいけないというようなことを言われました。
私は先輩のところに行きたかったけど先輩は喜んでくれないんだなと感じました。


 あれから二年あまり、私は大分元気になりました。
まだ震災のテレビを見るとパニックになったりするので見られないけれど、症状は落ち着いてきてるように思います。

 そして、先輩の代わりになりそうな人が遂に見つかったのです。
私は見つける気もなかったので人間関係が親密になってくると、これ以上近づいてはいけないと制止していました。
でも今回自然に話のできる、年上の友達ができたのです。
亡くなった先輩に対しては悪いという気持ちもあるけれど、今はきっと喜んでくれていると思います。


 先輩と過ごした日々は三年弱だったけど、これからもずっと歩みは続いていくと思うのです。
あの日から二年あまりたった今、心から先輩に、先輩と会ったことに感謝します。先輩ありがとう。



歌声
藤川 ヤヨイ(四十六歳 珠算教師 大阪市)

 あの日、震度五の大阪にいた私。
明け方、側に寝ていた小学生の息子が、ごそごそ起きて鼻をかんでいました。
寒い日で、息子はすぐ布団のなかに潜り込みました。
その時、遠くから轟音が迫ってくるのを聞きました。
大きな揺れがなかなか止まらない。
「地震や」と夫が飛び起きました。私は布団を頭からかぶり子供たちを包み込みました。


 揺れがおさまっても恐怖で身体が動きません。
でも、ふと近所の古い家はどうなってるかと気になりました。
家が倒れて下敷きになっている人がいたら大変だと、急いでコートをはおって出て行ったのです。

 薄明るい外を自転車で見て回りましたが、倒れている家はなくほっとして家に戻ってくると、二軒隣の人が外に出ていました。
「おけがありませんか」と声をかけました。


 家の中の落下物を片付けたり、食器の割れたのを集めているうちに、子供たちの登校時間になりました。
学校の門にでも何か連絡が張り出されているかもしれないと思い、見に行きましたが玄関のガラスが割れ破片が飛び散り、誰も出ている様子はありません。


 他にも保護者の姿がありました。
「こんな日に登校させるのでしょうかねぇ」とその人は言いました。
どこからも何の連絡もなく、保護者が子供たちを送って登校させました。
結局、先生がひとり自転車で来られ、休校ということで昼前に子供たちを帰しました。


 翌日も連絡がないので、保護者が学校まで送り、また子供たちは早く帰ってきました。
ある保護者は校長に尋ねたそうで、

 「なぜ連絡してもらえないのですか」と聞くと、校長は、「教育委員会からの指示がないと何も出来ません」と答えたそうです。

 地域って何でしょう。
町会も老人会も子供会もPTAも、みんな歩いて行ける距離に住んでいるのです。
一人暮しのお年寄りに、「どうでしたか、大丈夫でしたか」と誰が尋ねられるでしょう。
電話も通じないときに地域の人しか助けることができないのに。


 町会には班があり班長がいて、子供会には会長からの連絡網があります。
町会であれば自分の班のなかに怪我をした人がいないか聞いて回り、無事を確認して町会に報告するとか、子供会であれば学校から各子供会の会長に休校なら休校、教育委員会の指示を待つなら自宅待機ですという連絡をなぜしないのか。


 今でも人が集まると、地域の組織って意味がないのではないかという話が出るのです。
震災のときの味気ない対応振りに落胆した人は少なくありません。
形だけの組織、名前だけの役員……。私はとても淋しかったのです。


 私は地震でもう一つ、大きな心配を抱えていました。
それは独身時代に所属していた「宝塚中央合唱団」という合唱団のOBやメンバーの安否でした。
みんな宝塚、西宮、芦屋、川西という震度の大きかったところに住んでいるのです。
公衆電話だとかかりやすいと聞いた私は電話帳を手に公園へ走って行きました。


 避難所から戻ってきたばかりの仲間と話すことができました。
「けがはないの」と聞くと家具で頭を打って、たんこぶだらけという返事でした。
次の日もまた次の日も電話をかけつづけました。
けがをした人はいましたが、みんな生きていてくれました。よかった。本当によかった。
私は避難所にボランティアに行くことは出来ないけれど、何か出来ることはある。
「宝塚中央合唱団OB新聞」を発行しようと思い立ちました。


 手書きの第一号を作り、OB団員の皆に送りました。
「励まされたよ。ありがとう」という手紙がたくさん返ってきました。
その中には自分の家の壁が割れたり屋根が壊れたりしているのに、電話代がかかったでしょうとテレホンカードを同封して気遣ってくれる手紙もありました。
私は人と人とは絆があることを感じました。


 第二号を発行する頃には、落ち着いたらまた会って歌おうよという話が出てきました。
そしてやっと五月、「宝塚中央合唱団OB会」が、まだ「花の道」も復興されない宝塚で開かれたのでした。
OB会は四十名ほど集まりました。
自宅の庭から花を摘んでテーブルを飾ってくれた人や、懐かしい歌の楽譜をコピーしてくれた人、「宝塚中央合唱団OB会」と大きく墨で書いて幕を作ってくれた人、手作りのお菓子を焼いてきてくださった人、おまんじゅうをたくさん持ってきてくださった人……などで、温かい会になりました。


 オランダに住む仲間からメッセージも届きました。
新聞で阪神淡路大震災を知ったこと、合唱団の皆の安否を心配していたところへOB新聞が届き、無事が分かって嬉しかったことなどが綴られてありました。


 震災直後の殺伐とした気持から、私は合唱団の仲間との交流によって少しずつ立ち直って行きました。
やはり人は心配しあい、声をかけあい、助け合って生きていくもの。
その真実を心の宝にして、私は歩き出しています。



ビルマ人留学生の死
イレーヌ アブラムス(五十六歳 英語教師 米国在住 米国籍)
 あの運命の朝のことは本当によく覚えている。
私たち夫婦は、東灘区岡本の建築後五十年ほどの木造二階建の八軒長屋に住んでいた。
夫が布団の中の私をつかんで叫んだ。「地震だ。地震だ。大丈夫か」
私は目を開けた。
すべてが真っ暗だったが、あらゆるものが私に向かって倒れてくるように感じた。本、鉢植、テレビ、絵画、スタンド
キャビネットのドアがばたんと開き、窓も勢いよく開いた。
畳はうねり、壁は音をたてた。
私たちはしっかりとしがみつき、お互いに「大丈夫、大丈夫」、とくりかえしていた。
どれほどの時間がたっていたのだろう。絶望的な気分だった。


 私は夫が世の中でたった一つ恐れているものは地震だといつも言っていたことを思い出した。
彼は母国のビルマで二度の地震を体験し生き延びていた。
私は夫に神戸には地震がないと断言していたのだ。
それでも意識して布団の周囲には重い物を置かないようにしていた。
結局このことが私たちを死、あるいはけがから救ったのだろう。
実際、家の中で布団の周囲だけ落下物がなかった。
現在、私たちはボストンに住んでいるが、ベッドの周囲にはやはり重い物を意識して置いていない。
また私たちは一階では寝ないことにもしている。これらのことで一度は救われた。決して変えることはないだろう。
こんなことは、母なる自然とのほんのわずかな妥協である。


 暗闇の中で電話線をたどり、ボストンに掛けた。
母が出たのでだしぬけに「これから何を聞いたり、見たりしても私たちは大丈夫だということを覚えておいて。 それだけはお願い」と言った。
それ以上言うことはできなかった。電話が切れてしまったのだ。
けれどもこの会話ができたおかげで安心することができ、それから私たちは関心を友人たちに向けることができたのだ。


 私たちは階段をすべり降り、手探りで出口を探した。
そのとき、二度と帰って来られないような気がした。
早朝でまだ暗かった。隣のアパートから悲鳴が聞こえた。
突然、私たちを隔てる壁が彼らの側へ倒れたのだ。
彼らだけではとても脱出できそうもなかった。
夫は信じられない力で壁を引っ張った。正に「火事場の馬鹿力」だった。
ずっとあとで夫がやろうとしても動かすことさえできなかったものだ。


 私たちはJRの摂津本山駅まで歩いたが、見るものすべてが信じられなかった。
考えられないほどの廃墟だった。
すぐに生徒のチヒロが通りで泣き叫んでいるのに出会った。
彼女が無事だとわかると近くの友人の渋谷夫妻の家に急ぎ、そこで彼らと泣きながら抱きあった。
彼らも私たちの家が古くて脆いのを心配してくれていたのだ。
私たちは後で戻ってくることを約束して、御影のグンゲ・マンションに向かった。
そこで私たちは恐ろしさに立ちすくんでしまった。
B

 一階にアイ・アイ、マ・ルウィン、マ・シューが住んでいた。
三人は、神戸大学の女子学生だった。
彼女たちの部屋は、上の七階分によって押し潰されていた。
私たちは後ろに回った。
ほかの人たちももう来ていた。
夫の友人のミン・タンやほかのビルマ人や日本人もいた。
夫がビルマ語で叫んだ。マ・ルウィンが「急いで、呼吸ができない。ベッドが上に」と言うのが聞こえた。


 皆が狂ったように四つんばいになって掘り始めた。
奇跡的に割れ目が見つかり、勇気のある人(おそらく山田さん)が滑り込んでアイ・アイだけを救い出した。
彼女は出血していたが生きていた。
私は道路に立って、止まってくれるよう車に合図をした。ようやく誰かが止まってくれ、病院に向かってくれた。
私たちはこの友人が助かったことに勇気づけられ、余震で埋まってしまうことを恐れながら捜索を続けた。


 しかし、マ・シューの声は全く聞けなかったし、マ・ルウィンの声も二度と聞けなかった。

 一九九五年一月十七日は長い日だった。
夜のとばりが降りる頃、私たちは苦痛と絶望の中で歩き回っていた。二人の友人が冷たく埋まったままで、私たちは何もできないのだ。
私たちは家もなくさまよっていた。
どこへ行けばいいのか。どこで眠れるのか。家の中に閉じ込められるのを恐れて外で眠ろうと考えた。
しかし余りにも寒かった。
ほかの友人たちを探し続けていて、私たちは加藤夫妻の家の方へ向かっていた。
神戸生協の倒壊した事務所の角にあったのだが、幸いにも影響はなく、彼らは私たちを歓迎してくれ、泊まるよう主張した。
消耗しきっていた私たちは感謝してお世話になった。
それから一カ月の間、私たちは家族となった。
加藤さんは心の広いことで知られており、その後ほかの人にも自宅を開放した。


 その日から何週間はおきまりの日々となった。
水の確保、食料の調達、友人の捜索である。加藤夫妻は働いていた甲南大学へ学生を探しに行った。
加藤さん宅にホームステイしている中国人留学生のチン・ミンは食料を配りに行った。
家族の友人のジュンコさんははるばる十三から配給品を運び、おばあさんの面倒を見ていた。
そして残った私たちは、温かいすてきな料理を作っていた。
着替えもしなかったし、何週間も風呂にも入れず、歯も磨けなかったが、そんなことはなんでもなかった。私たちは感謝しており、すべきことは山ほどあった。


 毎日私たちは川や水道の水を求めてペットボトルとおにぎりを持って出かけた
夫のイェ・ミンと私は、余震で永遠に離れ離れになることを恐れて、決して離れなかった。
私たちはマ・ルウィンとマ・シューのアパートへ五日間通った。だが結局二人とも最初の朝に絶望的になっていたことが分かった。
その間、私たちは何度も救助隊の派遣を頼んだが、彼らは余りに数が少なく、何千ものまだ望みのある人たちを助けるのに忙しかった。


 何度かの手術でアイ・アイの命は助かったが、その手は完全に戻らず、二十四時間続く痛みに悩まされることになった。
彼女は生き延び、マ・ルウィンとマ・シューは亡くなった。
私は彼女から何通も心の動揺を書き綴った手紙を受け取った。


 私たちはもの悲しいサイレンの音の中での沈黙を覚えている。
あまりのショックに涙もあふれなかった。
死体を取り囲んですすりなく声も聞いた。これがすべてだった。
ほかには信じられない沈黙があっただけである。
時折、知った顔に出会い、無事を知ると抱擁するのが瑞一杯だった。
家を失ったことはどうでもよかった。生きているだけで十分だった。
私たちは生徒や友人の消息を探しに探した。
古くからの友人で生徒のツナミさんが亡くなったのを知ったのは後のことである。
彼女は苦しいぜんそくからは逃れられたが、永遠にいってしまった。


 毎日毎日私たちは歩いた。
芦屋、魚崎、六甲、六甲道
そこで私たちが見たものは決して信じられないような光景だった。
私たちは避難先などを書いたノートや掲示を探した。
また生徒たちは皆私たちを探してくれているのを知って感謝した。今や皆が家族になったのがわかった。
見つからない人も大勢いた。松田さん、あなたはどこに行ったのですか。


 最後に私たちは去るべきときがきたことを知った。
夫はビルマから来て、私は米国から来た。二人とも日本人ではない。
私たちは新しい住居を見つけられなかった。
両親は私を説得し、私はそれ以上両親に心配をかけることはできなかった。
そして私たちは恐れていた。
夫は三度も大地震を経験し、それを生き延びてきた。もうたくさんだ。
常に信頼できる友人であるアリーが私たちに行くことを勧めただけでなく、旅費の心配までしてくれた。
このことでは彼とサイモンに感謝している。


 しかし私には去って行くことは罪に感じられた。今でもそうである。
私には私の家となり、家族となった国と人々を置いて行くように感じられた。
そして今でもこのことは私の心に残っている。
私は恐怖から逃げたのか。
私たちは重荷になりかかっていたのか。
まだできることはなかったのか。もしそうなら私は許しと理解を乞わなければならない。


 私たちは自分で選んだ家を失った。
大勢の友人、生徒、先生を失った。
失ったものは余りに多すぎる。
そして私たちが分けあったもの、彼らが与えてくれた親切を忘れない。


 米国に帰った私たちは、何カ月も悪夢にうなされ、今でも寝るときに普段着を着ている。
生活は永遠に変わってしまった。


 いつ、どこでも地震のニュースがテレビや新聞で知らされると、私たちの息は一瞬止まり、被害者に静かに祈りを捧げる。
私たちにできることは祈ることだけである。

 最後に海外から私たちを見守ってくれ、この機会を与えてくれた友人モリグチ・ツネコさんに感謝の意を表したい。
(原文英語 翻訳 高森 徹夫)


祖父のプレゼント
陳 香純(十二歳 朝鮮初中級学校 尼崎市)

 祖父のお墓参りに行ったとき、ふと地震のことを思い出した。
一月十七日、五時四十六分。家が激しく揺れていた。
何が起こっているのか分からないので不安がこみ上げてきた。
すぐ父が来てくれたが、とても怖かった。
家族全員無事だとほっとする暇もなく、電話が鳴った。

何と、祖父が生き埋めになっているということだった。
祖父は大丈夫だろうか。
不安がつのり、涙が出そうになった。

 そんなとき、近所の人は避難するため荷物をまとめていた。
そんな姿を見て、どうしても涙を隠せなかった。

 三週間ほどして親戚の人たちが私の家に住むことになった。
みんな地震のことを語らず、楽しそうに過ごしていた。
そんなとき、私は祖父のことを思い出した。
あれから祖父がどうなったか聞いていなかったのだ。
母に聞くと、祖父はすぐ息を引き取ったらしい。


 苦しかっただろうな。
 涙をこらえ、逃げるように部屋に戻った。涙があふれ止まらなかった。

 もう祖父は帰ってこない……

 一カ月ほどして、全壊した親戚の家を見に行った。まるで誰かに壊されたみたいだった。
地震の怖さが分かって、ぞっとした。

 「こんなことが二度と起こらないでほしい。」
 被災した親戚が語った。その言葉がどうしても忘れられない。

 こんなことを思い、お墓参りは終った。
帰るとき、地震がいつ来てもいいような備えはどうしたらいいかを考えた。
帰宅して急いで本を開き読んでみた。
水、食料、ラジオ、ナイフ、着替え、防寒具、十円玉、ヘルメットなどを用意しておかねばならない。
そして一番大切なことは家族と離れた場合、どこに集まるかを決めておくことだ。
もうこれで安心だと思ったが、そういう油断が一番危ないらしい。

 このことを知り、私の考えが変わった。
地震が来たせいで、祖父を失った。
とても地震が憎かった。
しかし地震についてとてもよく分かった。
もしかして、祖父が私にくれたプレゼントだったかもしれない。とても、心がウキウキしてきた。
 「祖父の分まで頑張って生きなきゃ!
 祖父へ、ありがとう
 そして、さようなら……


川井公園の酒宴
末永 俊夫(五十六歳 会社員 福岡市)

 東灘区魚崎で地震にあい、社宅は全壊し家財のほとんどを失って負傷もした。
被害は関東から関西に及ぶ広域なもので、日本の資本主義は崩壊し、戦後の生活苦を再体験せざるをえないと感じた。
家族全員が命だけは助かったという安堵感ののち、これからの生活を考え呆然とした。

 その半面、この世のせちがらさや会社での虚構で固まった対人関係もすべて一掃され、皆がゼロからスタートし直すのなら気楽なものだ、今日からはホンネだけで生きていけるとも思った。

 現在は、福岡で勤務している。
震災後人生観が変わったかとよく人に聞かれる。
極端に涙もろくなり、この世の無常を強く感じるようになった。
また、家族の大切さと日頃の近隣とのおつき合いがいかに価値あるものか身にしみた。

 七年間も住みながら、死亡された裏の老夫婦の顔さえ見たことがなかった。
魚崎地区では二百余名の死者が出たが、近隣のどなたが亡くなられたのかいまだに知らない。
大都市にしてはマンションの少ない古い住宅街においてさえこのありさまである。

 地震当日は、近所の生き埋めの人々を救助する機転もきかず、ただ呆然と川井公園にたたずみ、夜になると段ボールを囲って会社の同僚や次女の友人家族ら四家族で野営した。
一家族は全焼、一家族は全壊で、およそ百軒が燃え続ける明かりで夜明けを待った。
火災の煙を除けば、空は晴れわたり月も金星も明るく大きく見えた。

 次女と同じ大学を目指していた親友は、半壊の家に受験書類を取りに戻ったところを余震に襲われ死亡した。
五軒隣の奥さんは倒壊で即死した。
火の手は迫っているのに遺体が取り出せない。
ご主人はせめて一部でもと、首を切断しようとして皆に止められた。
結局、この奥さんのなきがらは魚崎小学校に運ばれた。
小学生のお嬢さんは、悲しみを紛らわすため、講堂の薄明かりの中で一晩中必死で漢字の書き取りをした。

 妻子を失ったある若い父親は、娘の遺骸に一晩中絵本を読んで聞かせていた。

 次女の友人の死以外のできごとは、すべて後日ご近所の人たちから聞いた話である。
当日は混乱の中、何が起こったのか知り得なかった。
私はここに及ぶと、今でも泣きながらワープロを打っている。

 私は神戸を離れた今でも、新幹線で神戸を通過する度に、人目もはばからず立ち上がって合掌する。
魚崎の社宅は関西の単身赴任者のサロンだった。
いつの日か整然と復興した魚崎で皆と再会するとなれば、その場所は川井公園以外にありえない。
満開の桜の花が匂うがごとき春の宵に、皆で酒宴を持つことを心待ちにしている。
 

拾ったギター
茶畑 梅利(五十六歳 神戸市東灘区 韓国国籍)

 本当に運が良かったと思います。
生まれて初めて味わった死の恐怖でした。
東灘区御影塚町で被災しました。
一月十七日の朝は新婚旅行へ出発する予定でした。

 私は昭和十六年に大阪で生まれました。
戦争が激しくなって、母は私を連れて故郷の韓国に疎開しました。
しかし母は、「もう一度、両親と兄弟のいる日本の大阪へ帰りたい」と言いながら、国交断絶時代に亡くなってしまいました。
私は母の遺志を継ぎ、OL時代の友人の紹介で、平成六年十一月に日本に戻り、日本人の夫と結ばれたのです。

 壊れた窓を素足で飛び越えて素早く脱出しました。
主人が「オーイ」と叫んだ時には、私の姿はどこにも見当たらなかったそうです。

 サイレンやヘリコプターの騒音、あちらこちらで燃え出した建物の煙と臭い、担架に死体を乗せ運んで行く人々。
映画でしか見たことのないような光景でした。

 絶え間なく続く余震と寒さで、体が凍えて震えが止まりません。
日が暮れて、だれかが壊れた家の柱で火を炊き食事の準備をしてくれましたが、夜になってもおなかがすくことさえ忘れていました。

 ガスタンクが爆発するかもしれないと山側に避難する黒い集団が、私にはまるで罪人の行列のように見えました。
いつ死が私に襲いかかるか分からない状況の中、私は気がおかしくなるほど動転しました。

 翌日、主人は私を単車で尼崎まで運んでくれました。
そこに住む知り合いの家を借りることになったのです。

 しかし、日に何度も揺れる部屋の中で私は何も手につかず何も出来ず、何も考えられません。
テレビの画面は地震の被害の様子ばかりです。
私は本や雑誌、新聞さえも見られない状態に陥り、毎日、神崎川の周囲を歩きました。

 ある日、ゴミ置き場の前を通った時、ビニールにきれいに包まれたギターが目に止まりました。
触ってみたら思った以上に音も良く立派なギターです。

 その瞬間、親友に会った気分になりました。
嬉しくて涙が出ました。
「異国の地で空っぽになった私の心をきっと誰かが察して巡り会わせてくれたに違いない……」。そう思い、私は家に持ち帰ったのです。

 神戸は住みよい町だと聞き嫁いで来たけれど、このようにして死の影が、死の恐怖が私の目の前に現れるなんて夢にも思いませんでした。
しかし、「海を越え言葉の障壁も乗り越えた私が他に何を怖がることがある…」。
そんなふうに自分に言い聞かせ、勇気が出るように自分自身を励ましました。
二ヵ月間の約束で借りた尼崎の借家から、全壊した東灘区の自宅に戻りました。
主人は奔走し、ようやく北区の鹿の子台の仮設住宅に移りました。
ギターももちろん持って行きました。

 主人が仕事に出掛けたあと、日差しの中で少し不安な気持ちでギターを弾くとギターの「トゥーン トゥーン」という音色が、私の気持ちをなごませてくれます。
韓国に残した息子を思い浮かべたりもします。

 何も変わることのない単調な生活の中で、主人の深い愛を受け、散歩に出てみたり今まであまり作ったこともなかったパグニ(葛の蔓で作る籠)を作ってみたり、食事もいろいろ作りました。
ひどかった頭痛も何とか治まり、新聞や雑誌に目を通せるまで回復しました。

 自分が生まれた土地に定着する勇気を与えてくれたのは、母の魂じゃないかと思います。
あの大惨事に特に大ケガもせず命が無事であったことを心より神と母に感謝します。
仮設住宅に運良く当たり、住まいを与えてもらえたことにも本当に感謝しています。
平成九年の秋には、主人が東灘区の家を建て替えてくれました。

 落ちついてみると、大自然の恐ろしさ、神秘的な力と偉大さ、美しさに私はただ驚くばかりです。
あれから月日がたち、今の私は感謝の日々を過ごしています。

 あの時、尼崎で出会ったギターの持主にも一度会ってみたいと思っています。
(原文朝鮮語 翻訳 朴 淑美・BR>

技術屋の良心
安田 賢治(五十歳 鉄道建設技師 富山県)

 震災一週間後、私は山陽新幹線の建設現場に足を向けた。
 とにかく、驚いた。
高架橋が潰れ、コンクリートの桁が落ち、レールが宙づりになっているのが信じられなかった。

 今回の地震による鉄道の被害は、十三事業者二十一路線に及び、六百三十八キロメートルの不通区間が発生したということである。

 山陽新幹線は一日に約九十往復の運行をしている。
また、阪急、阪神、JRの三線で、一日に約四十五万人、ピーク時約十二万人の輸送をしている。
関西圏の大動脈が寸断されたことになる。

 大阪以西への長期にわたる交通寸断の影響は、通勤通学の足ばかりでなく、救援のための物資輸送などが麻痺して、道路交通を渋滞させる結果となり、大量輸送である鉄道の重要性が再認識される結果となった。

 私が山陽新幹線の建設に携わったのは、学校を卒業してすぐ配属された「六甲トンネル」の現場であった。
一般に新幹線の建設は、工事の期間が長いトンネル工事から始める。
私は「六甲トンネル」の現場がほぼ終わりに近付くと、西宮市の甲東園の事務所が閉鎖になり、上大市の事務所へ移った。

 上大市の事務所は武庫川の近くにあり、「六甲トンネル」の残工事と、「六甲トンネル」東出口から新大阪寄りの高架橋の建設を担当した。
したがって、今回被災した山陽新幹線の高架橋は「六甲トンネル」の現場へ行く途中、いつも建設の進捗状況を見ていた。
いわば、隣の家の子供の成長を見守っているようなものであった。

 震災後、私が山陽新幹線の現場へ行ったとき、トンネルの中を見たいと思った。
まだ新幹線は運行していないが、トンネルの中へは入ることができず、出口周辺だけを見て回った。

 トンネルの坑門の上の公園の施設はことごとく被害を受けており、震度七を物語っていた。

 報告によると、山陽新幹線のトンネルの被害は五カ所あり、コンクリートの覆工のひび割れや剥落が主で、「六甲トンネル」を除き、土被りが浅いところで発生したという。

 「六甲トンネル」の復旧は、剥落部に二層の溶接金網を入れて、樹脂アンカーを打ち、無収縮モルタルで修復した上に、炭素繊維シート二層を張って、ロックボルト・アンカーで押さえる工法を採用したそうだ。
私の担当していた工区は被害がなかったということで一応ホッとした。

 西宮市内の高架橋を見て回ると、ほとんどの高架橋が被害を受けていた。
私のいたときに出来た高架橋、いわば、誕生から見守り続けた高架橋がものの見事に崩壊してしまっていた。
無残な姿をさらけ出したコンクリート、飴のように曲がった鉄筋、蛇のように垂れているレール、どれ一つとっても常識を超えた光景に、ただ茫然と立ちすくむのみだった。

 被害の報告の中に、コンクリート中に木の破片が混ざっていたという事実があった。
これにはさすがに驚いた。
コンクリートの中にどうして木片が入り込んだのか、どうしても理解することができなかった。

 私たちは監督員としてコンクリートを打ち込む前に、その中に入る鉄筋の検査をしている。
鉄筋の大きさ、太さ、間隔、本数、継手などが設計図通りに施工されているか、不純物が混入されていないかを検査する。
設計図通りに施工されていない場合には鉄筋の組み方をやり直させ、再びチェックし、それを合格になるまで繰り返し続ける。

 合格になると、いよいよコンクリートを打ち込ませる。
従ってコンクリート中に木の破片が混ざることなど、到底考えられなかった。
全く、理解に苦しむことだった。
これだけ厳しい現場管理を徹底している新幹線工事で、どうして、木片が混ざったのであろうか。

 私たちは業務量の関係から業者の責任施工に任せている部分があるが、本当にそれがあるべき姿なのだろうか。
責任ある業者は完全な構造物を造るために、どこまでしっかり現場を管理しているのだろうか。
今こそ、現場の原点に立つ必要がある。


トイレ糞闘記
辻 良樹(五十三歳 会社役員 大阪市)

 大地震の後、社員の家はもとより友人、知人の家が倒壊し、可能な限り現地へ足を運びボランティア活動をした。

 わが「日本トイレ協会」と「神戸国際トイレットピアの会」の長老の越智先生も灘区田中町の自宅が全壊し、ご自身も生き埋めとなられ数分後に救助された。
私は既に避難先のご子息宅へは見舞いに行っていたのだが、所属している「ASANUMA快適トイレ研究会」の相談役でもあった関係で、二月六日に久し振りに先生の慰労も兼ねた研修会を大阪で開いた。
米寿を過ぎた先生もようやく落着きを取り戻されていて、すこぶる元気なご様子で、参加者一同ほっとした。

 そんな矢先に「トイレ調査隊」の話が東京方面から出ていると資料が配布された。
すでに、地震から三週間近くたっており、実行が二月十八日からというと一カ月も経過する。
趣旨は理解出来るが、被災者にとっては、心情的にも「今さら」という感が否めない。
まして、江戸っ子弁で調査などと第三者的に喋られると、場合によっては被災者の心を逆撫でしかねない。
東京へはその旨説明し、現状を改善してあげることこそ大切ではと提案した。

 被災地のトイレは汚れている。
掃除する気力がなえている。
公衆トイレはテンコ盛り状態だ。
寝袋とテントとリュック、それに清掃用具の雑巾、ナイロン手袋、バケツ、柄つきタワシ、洗剤、洗浄剤、消臭剤、ウエットティッシュ、ゴミ袋、長靴などを持参することをお願いした。

 当初の調査という目的も考慮しながら、今回は関西のやり方でやるということになる。
 二月十八日(土)第一陣が阪神青木駅に集合。全国から五十一名が集まる。
職業も年齢もまちまちだ。
一部を除き皆初対面。
調査の仕方、注意事項などの説明をし、各班に分かれ自転車で各々の担当する避難場所の地図と清掃道具を積んで避難場所へ向かう。最初に行ったのは小学校内の避難所である。

 思った通り、調査には気持ち良く応対してもらえない。
仕方なく調査項目を適当に飛ばしながら相手の表情をうかがう。
 「では仮設トイレを見せて頂けませんか」。
現地に案内され、早速、トイレの状況をチェック、散らばったトイレットペーパーを取り除き、汚れている床を清掃し、飛び散った汚物を拭き、最後に消臭スプレーを撒き、一箇所ごとに丁寧に仕上げる。
 「ありがとうございました」。やっとお互いの心がふれあう。

 次は、中野南公園の仮設トイレ十基だ。
ともかく汚れている、さっきの比ではない。
一瞬ためらうが近くに水道があることがわかり、バケツに水を入れ本腰を入れる。
便器にこびりつき固まっている便を何回も何回もこすって除去する。
便器のツボにも手を入れ水でキレイに洗う。
側壁やドアについた汚物もキレイに洗うのに六十分強かかった。
近くで工事をしている人たちが「使っていいですか」と遠慮がちにたずねる。
一同笑顔で「どうぞお使いください」と答える。
そして、「キレイで嬉しいワ。ご苦労さんです」と言って立ち去られた。
みんなニコニコ、他の班の調査隊が待っている集合場所へ向かう自転車のペダルも軽い。

 午後四時からの全員の報告の中にも、「ウンチとより格闘した人ほど、顔が輝いていた」とあった。「明日も頑張るゾ」。翌日も同じような体験をする。

 二月二十五日、第二陣がいよいよ被害の大きかった兵庫、長田区へ向かった。
三箇所の避難所を調査した後、長田区の尻池公園の公衆トイレを掃除した。
使用禁止の扉を開けるや、大便器が隠れてしまうほどのテンコ盛りの状態で床もウンチでいっぱい。
小便用のステップにも、ウンチの山。

 さすがのメンバーも一瞬ためらい、言葉が出ない。
誰もやろうといわない。しばらく沈黙が続く。
水道の蛇口を捻るが水が出ない。……「水がないし」、「これは手に負えないワ」と異口同音に言う。

 ところが、被災者の女性が、近くに停車していた自衛隊の給水車と何やら交渉し、「水がもらえるワ」と帰ってくる。
この辺りの人家の水道が復旧しはじめたので、今日は誰も水をもらいに来ていないらしい。
そこで、快く水をくださることになったのだ。

 「よしっ、やろう」とマスクとナイロン手袋を付ける。
ナイロン袋を二重にし十能でウンチをすくう。
三回程すくうと耐えられなくなり交代した。
集めたウンチがナイロン袋に三個。さらにナイロン袋を重ねる。

 その後、洗浄剤をかけ柄付タワシでこすり、自衛隊からいただいた貴重な水をバケツに汲むこと十数回。
排水も何とかうまくいき、最後はウェットティッシュで便器を拭き上げ、消臭スプレーを撒布し完了である。
九十分近くかけてピカピカになった。

 しばらくすると、通行する人が笑顔で入って行く。今回も、みんなの顔が輝いている。ありがとう。

 三月四、五日と、第三陣が千葉などからやって来る。
地震発生から五十日もたっているので、物もあり、水もほとんど出ている。
今さら調査でもないと、今回は特に、公衆トイレとJR鷹取駅前の仮設トイレを重点的に清掃した。
ここは排水管が破損し、既設のトイレが使用出来ない。

 次に、公園でテントを張っている避難所へ行った。お世話しておられる女性に会い、今まで通り話をしかかると、「今頃何しに来たの。調査などと言って何人も何人も来るけど、何かやってくれるの」と、ボランティアに少しアレルギー気味である。「ハイッ、出来ることなら」と返事をする。

 案内された仮設トイレにはドアーのフックがない。
まずこれを、持って行った針金で修理しはじめる。
おばさんは喜んで持ち場へ戻っていかれた。
いつものように、仮設トイレを一箇所ずつ点検していると、ドアーのちょうつがいの金具が、途中で折れているのがあった。
使用中に開けられる恐れもあり、特に女性の場合使用を躊躇すると推測された。
「よしっ、これを直そう」と決めた。
素人ながら色々考えた末、ドアーの下部に穴を開け針金を通しフックを作り、もう一方の部分にひっかけて外部から開けられないようにした。
ペンチがないので手で何回も曲げては針金を切り、何重にも針金を重ね強くしてドアーの修理を完了した。
念のため、同じ班の女子大生に中に入ってもらいテストする。大丈夫とのことで、さっきのおばさんを呼び、修理した内容を報告する。

 ひと仕事終わり 近くの道路で持参のパンとおにぎりで昼食をと腰を下ろしていると、「さっきはおおきに。これ食べていき」と三人分の食事(御飯と野菜汁とお茶)を運んで来られる。

 思わず「ありがとうございます、いただきます」と笑顔満面の面々。
 その後、水が出てトイレの問題は解決してきたので、トイレ調査隊の仕事はこれで終了した。


楽しい時間
匿名(三十歳 主婦 西宮市)

 今、私はすべての出来事を忘れてしまいたい。地震の四時間ほど前まで、友人と楽しく過ごしていて、そして今になったのだと思いたい。

 震災で家が全壊、幸い大きな怪我はしなかったけれども、一年近く仮設住宅で過ごした。
自分の家の再建のことばかりを考えていて、周りの人達の気持を考える余裕などなかった。
一進一退で途方に暮れる毎日だった。
夜、布団に入っても怖さと不安で眠れない日が続く。

 家を解体する日がやってきた。「ガチャン、ガチャン」。
大きな音をたてて壊されていく音は、私の身体が引きちぎられていくような感じで耐え切れなかった。
泣きながら友人の家へ逃げてしまった。つらかった。
被害の少なかった人達に憎しみすら持っていた。

 夜、明りのついている家が見えてくると涙が出てきた。
空き地になった土地を見に行き、家を解体したときの瓦の破片を見つけては「あんたたちを助けることできひんかったなあ」とつぶやくだけの自分が、情けなく思えて悔しい気持だった。

 全く飲めないアルコールを飲むようになり、「飲まなぁーやってられへん」が口癖になっていった。
「少しでも気分転換に」と私の好きな所へ連れ出してくれた友人たちもいた。
しかし、どんなに楽しい時間を過ごしていても、私の中で少しずつ「楽しい時間」のとらえ方が変わっていった。
「私だけがどうしてこんなことになっているんだろ」「私だけが……」。

 やっと家の着工にこぎ着いた。「終わりが見えた」と思った。震災の終わりが。
約半年たって、新しい家への引越しをした。嬉しいという言葉で表わせないくらいの気持でいっぱいだった。

 ところがここに来て私の精神面がすべて崩れていった。
突然どうしようもない落ち込みから抜けられなくなり、「死んでしまおう」という衝動にかられた。
震災よりもショックだった。
ここから数日間の記憶が私にはない。

 家族の話によると、ひたすら眠り、話すことも、食事をすることも出来なかったそうだ。
病院で軽いうつ病と言われ十カ月近く通院し、毎日薬を飲み続けた。
病院の待合室で、ポツリポツリと聞かれるのは震災で病気になったという会話だった。
私は、ほんの数秒の地震が人間の精神までも壊してしまったんだと思うと、「震災からの復興なんてあり得るのだろうか」と疑わしい。
私もまた同じ病気を繰り返してしまうのではないかと、ヒヤヒヤもので生活している。

 現在、私は私の身の回りで起こった二年半の出来事を忘れようとしている。
本当はそんなことできっこないのだけれど……。
いつまでも震災や病気のことを考えていても、それらは私の周りにただ亡霊のように取り付くだけであって、何も変わらないのだから。

 立ち止まって同情されていれば楽なのだけれど、本当にそれでいいのだろうか。
生きているかぎり自分が変わらないといけないことだってあると思う。

 どんな人の人生だって、悲しい日もあれば、辛い日だってある。
「私だけがどうして」なんて言っていろんなものを責めたり、当たったりしても、問題は自分の中にあることを今回の震災で知ったような思いがする。

 責められるべきものは自分自身なんですよね。
何かのせいにしていれば、自分のことを省みなくてすむし、楽なことだから。
私は決して強い人間なんかじゃないけれども、そんなに弱くないと信じてこれからは生活しようと思う。


よく生き残ったね
村松 ひづる(三十七歳 主婦 京都市西京区)

 豊中で生まれ、西宮で幼少時代を過ごした。
夫の実家は芦屋で、七年前までは約三年間、灘区に住んでいた。
その後移った神奈川県下で、あの日の朝を迎えた。

 しかし、たいへん恥ずかしく情けないことに、私がそれを知ったのは、午前十時頃だった。
しかも都内の友人からの電話で知ったのだ。
その日にかぎり、朝からテレビをつけていなかったのである。
何ということか、私は故郷を襲った大惨事を、発生後四時間も経って初めて友人から告げられたのだった。
今でも「もし彼女が電話をかけてきてくれなかったら……」と考えると、冷汗が出てしまう。それほどまでに神奈川県は平穏無事で、何も変わらぬ普段と同じ冬の一日であった。

 実家への電話は当然通じず、市外局番を押した時点でシャットアウトされた。
翌朝、実家から連絡があり、身内の無事が確認されてからも、その後一週間ほどは涙がとまらなかった。
ショックで自律神経がおかしくなり、春先になるまで体調は崩れっぱなしだった。

 申し訳ないことに、その凄まじさは正直言って私には想像できない。
実際に震災を体験したわけではないから。
でも間違っても、一生「他人事」などという気持ちを持つことはできない。持ってはならない。
以前住んでいた町は、灘区でも殊に被害の大きかった地域である。
転勤がなければ、私たちもほぼ確実に、その場所に住み続けていたはずだ。
そして芦屋の実家も、これまた甚大な被害がもたらされた地区である。
いずれにも、亡くなった方たちの数は多い。

 震災後、初めて芦屋を訪れた時、絶句してしまった。
実家は半壊であり、何とか修復を終えていたが、周りはおびただしい更地……隣と向かいの土地は、今もそのままである。
かつて夏には花火をして遊んだ近くの公園には、仮設住宅が並んでいた。

 あれから、ときどき「温度差」ということばを耳にするが、私は震災直後から、と言うか当日すでに、その低温部分に触れていたように感じる。
各局とも大騒ぎをしているにもかかわらず、神奈川の自宅周辺は、先に述べたように平穏そのもの。
普段通り買物ができ、ごく普通に銀行で預金を引き出し……何一つとして変わりはなかった。
今思い起こすと、それは何とも不気味ですらあった。

 さらに背筋が寒くなったのは、夫から聞いた会社の同僚たちの態度である。
夫も当日何も知らずに出勤し、私が会社に電話をかけて伝えたのだが、その時までまったく気付かなかったのだ。
というのは、同僚の多くは、朝、テレビで報道を見てきたにもかかわらず、何も話題にすることなく、いつもと同様に黙々と仕事をしていたからだ。
私からの電話を切ったあと、興奮して同僚に話しかけても、彼らは「そんなこと知ってるよ」といった冷めた態度であったという。

 私自身も数カ月後、そんな場面に遭遇した。
神戸への出張から帰ってきたという知人が、「ホテルはきちんと直されていたし、不自由はなかった。もうすっかり大丈夫よ」とあっけらかんと言ってのけたのである。
私はその時まだ震災後初の帰省を果たしていなかったが、たった数カ月でそんな結果になっているとは考えられないということは、容易に想像できた。
そんな私の憤慨など気にも止めず、彼女は口にこそださなかったが、「もう過去の出来事なんだから、いい加減に騒ぐのはやめたら」とでも言いた気であった。

 遠隔地の大部分の人々にとって、あんな大惨事であっても、しばらく月日が経つと他人事となってしまうのか。
こういうことが幾度かあり、やがて私はこれ以上関東に居るのにうんざりしてきた。
こんな雰囲気の中で暮らし続けたなら、私もいずれは無神経、無関心になってしまうのでは、という恐れもあった。
そのうち諸々の事情も重なり、震災の年の暮れに、関西へと戻ってきたのである。

 京都に居を移し、阪神地区にいつでも足を運べると思うと、不思議とホッとする。
 現在の光景は、思い出の中のそれとはもちろん大きく異なる。
三宮駅の様相は一転し、お気にいりの店がなくなっていたり、逆に新しいお店が出現していたり……。
そんな変化を認めることに何となくためらいを感じ、直視する勇気がなかなか持てなかったこともある。
何よりも、今歩いているこの辺りでも、多くの命が奪われたかもしれない、と気付くと、足がすくむ一瞬さえある。

 逆に、笑みが浮かんで元気づけられることもある。
先日も、そごう百貨店に「神戸で買いましょう」と書かれた大きな垂れ幕が掲げられているのを目にした。
実にシンプルで力強い呼びかけ。
復興に注がれるエネルギーのたくましさが簡潔に表されていると感じた。

 それゆえ私は神戸を、阪神地区を、生涯愛し続ける。
だからこれからも折りに触れて訪れ、慣れ親しんだ建物の壁をなでつつ「よく生き残ったね」などと呟いてみたりするのである。


心の荒野
匿名(三十四歳 主婦 姫路市)

 Kさんの心に何かが起こったのです。

 震災から一週間後、長い間不通だった電話がようやくかかり、いつも通りの明るい声でした
 「被災地からずいぶん離れているからなんともなかったのよ。心配してくれてありがとう。
 憂いに及ばなかった状況にほっと安堵して電話を切りました。しばらくして会う機会がありました。
我が家でホームパーティーを開いたわけですが、神戸で被災した友人がKさんに、
 「〇〇市はさほどひどくないと聞いていますけど、お宅は被害はありませんでしたか」
 するとKさんはきっぱり
 「うちは半壊しました。雨漏りもするし外壁が崩れて今も大変なんです。

 私は思いもかけない言葉に耳を疑いました。
私には被害がなかったと言い、初対面の人に半壊と言うなんてどうしてなのでしょう。
とはいえそのときは、知り合いには心配かけまいと嘘をついたのだろうと納得したのです。

 それからまた数カ月がたち、Kさんから電話がかかりました。
 普段からKさんは姐御肌で面倒見がよく、その懐の深さに多くの友人が集まっていました。
誰かの悪口を言う人がいると必ずたしなめ、その優しさが演技ではなく心の底からのものだったので皆に信頼されていたのです。

 ところが、「Aさんにはひどい目にあったわ。先日一緒に出かけたらわがまま放題でほんとうに手を焼いたの」。

 AさんはKさんの一番の仲良し。
今まで一度として非難することなどなかったのに。
しかしKさんも人間、たまには愚痴を言いたいときもあるのだろうと思いました。
けれどそれをとっかかりに周囲の友人達を次々と罵り始めたのです。

 「いつもは親しげに寄ってくるくせに、こちらが困っているときには知らぬふりなのよ」
 「何かとプライドが高くてね、亭主が仕事をやめたことをずっと隠してたの。

 Kさんを信じて打ち明けた悩みまで私に明かすので困惑してしまいました。
これまでつちかった友人付き合いのルールをことごとく壊すかのように、悪いのはすべて自分以外の誰かといった傍若無人な態度でした。
本意がわからなくて、ただ黙って聞いていると最後に絞り出すような声で、
 「Bさんは震災が起きてすぐに飲料水やインスタント食品を三箱分も家へ送ってくれたの。でもCさんは電話だけだったわ」。

 CさんはたしかKさんの親友。
それに私もKさんの言葉通りに受け止めて食料などを届けることはしなかったのです。
暗に私への不満も込めて言ったのでしょう。
どうやらKさんの安否を心配した人は大勢いたけれど救援物資を届けたのはBさんだけだったようです。

 「こういうときこそ人の本性がわかるものね」

 Kさんの心に渦巻いているのはこのことではないかと気づきました。
それぞれの友人が自分にできる形で思いやったけれど、Kさんが求めるところの友情を与えてくれなかったことで憎しみを抱いたように見えました。

 「だいじょうぶよ」とは言ったものの、言葉の裏を察して欲しかったのでしょう。

 頼みごとは快く引き受け、何かと人に尽くすKさんは、いざ自分の段になって目に見えた助けをしてもらえなかった、そのことに激しく憤ったのではないでしょうか。

 その後、漏れ聞こえてきたのは方々であの「Bさんは飲料水やインスタント食品を、Cさんは電話だけ」という話をしているらしく、Cさんの部分には相手によってその都度名前が違うとのことでした。
Kさんはもしできることなら、相手にこう怒鳴りたいのでしょう。
 「いつもよくしてあげたのに震災のときどうして私を助けてくれなかったの」

 そして二年が過ぎた頃、Kさんはぽつりと言いました。
 「人が信じられなくなったの」
 友人に囲まれて朗らかに笑っていたKさんが、今は疑心暗鬼になり誰に対しても嫌悪を感じるようです。
私にそんな状態を打ち明けた理由も次の言葉ではっきりしました。
 「けれどBさんだけは信じるわ。震災のときに飲料水と……」

 Kさんは本当は私も含めてどの友人も信じたいのです。
しかしどうしても許せず、その腹立ちを分かって欲しくてたまらないのです。

 震災が心に与えた傷跡は、普段なら水に流せることも滞らせ、人格すら変貌させてしまうほどの深いものでした。
今もKさんは同じ状態です。
私たち友人にできることはそっと見守ってあげることだけです。
Kさんが震災で抱えた心の荒野を耕して優しさの種を植える日まで。


命の叫び
井田 婦美子(七十二歳 東京都)

 まずこの場を借りて、生かされついでに言わせていただきます。
年数がたって改めてあの惨事を思い出すと、どうしてもやりきれない、行き場のない憤りにさいなまれます。
小田実氏の主張なさる「生活再建援護法案」の立法化がどうしてこんなにも遅いのでしょう。
愚痴になりますから敢えて政治を云々するのはやめますが、人間はなんびとも幸せに暮らせる権利を有すると憲法に謳われているのですから単純に行動して欲しいと希望します。

 現在東京の娘の家に送られてくる芦屋市の広報や兵庫県便りに、公営住宅募集などの記事は載っていますが、悲しいかなこれは解決策の一部でしかないのです。
弱者は高齢者です。
小田氏の言われる法案を一日も早く立法化し、国会で通過させて、一番辛酸を舐め尽くした老人がこの世にまだ生を与えられている間に、実行して欲しいのです。
歴史に汚点を残さないためにも。これが大震災から生きながらえた七十二歳の強い提言です。

 年が明けるとあの震災から三年がたつ。
未解決の問題は複雑さを極め、当事者以外は気づかないかもしれない。
しかし、これは阪神間だけではない日本の悲劇の原点だと思う。

 当時私は六十九歳であった。
四年前に夫を見送り、長男は名古屋、長女は東京に住み、すっかり広くなった芦屋の家で一人暮らしを楽しんでいた。芦屋に生まれ、戦争中に短い青春を過ごし、結婚で少々離れたものの、私の人生の舞台はほとんどこの町にあった。

 前日、つまり平成七年一月十六日の夜は近所の幼友達と昔話に花が咲き、寝つかれない私は精神安定剤を服用した。
問題の午前五時四十六分、深く眠っている私の耳にもかつて聞いたことのない地が唸るような音が遠く響いてきた。
と同時に突然自分が空中に投げ出され、次の瞬間下に叩き付けられた。

 「ごめんなさい」「神さんが怒ったはるわ」。
数分間、上下左右斜めと容赦なく振り回された私は、およそ五十センチ四方の空間に納まった。土ぼこりの中、頭のすぐ上に天井が、右横に巨大な梁が、そして背後には数十キロはあろう袋戸棚があった。
日頃からわが家の老朽建築に辟易していた私はついに潰れたと愕然とした。
するとまた大きな揺れが。「ジ・シ・ン」。
明けやらぬ真冬の空の下、屋根は破れ、寒風が寝巻き一枚のわが身を襲う。「えらいこっちゃ。これからどないしょ」。
潰れたわが家からの脱出と今後の身の振り方の両方が頭を覆った。

 まず、自分の五体満足なことを確認するやいなや、さっきまで私を引っ張り回しておられた神様に感謝を繰り返す。
驚くほど冷静に現状を分析していながらも、たった一人でこの難局を切り抜けることはやはり辛い。
余震がくるたびに周囲の障害物は形を変えて、私の脱出を拒む。
目を凝らすと上部の割れ目から薄暗い空が見える。
私は細心の注意を払い立ち上がった。できるだけ背伸びをしてその割れ目から下界を見た。

 息を呑むとはこのことで、近隣の古家はことごとく潰れ、瓦礫の海と化していた。
切れてぶら下がっていた電線から火花が出た。
「どないしょ。火事?」。
初めて私は「助けてください」と大声を上げ、両隣の名前を呼んだ。
両家から微かながら返事があった。
隣の若奥さんは何か体にのっているのかと訊ねた。
違うと言うと、あまり大声を出すと疲れるから助けが来るまで待つようにと助言した。
相当な寒さで尿意が我慢の限界に達していたので、しかたなくその場で用を足すことにした。

 二階に寝ていたはずなのに畳やじゅうたんは根こそぎ飛び去り、床ごと一階に落ちてしまっていることに気づいた。
私はできるだけ手をのばして掛け布団と毛布らしきものをつかんだ。
必死にたぐり寄せた貴重な暖かさと残っていた安定剤の効き目とで、不覚にも睡魔に襲われる。
うとうとして数十分たっただろうか、聞き慣れた声が私の疲れた神経を揺り起こした。弟だ。
戦時中、中学生ながら父代わりになって立派な防空壕を掘ってくれた弟、嫁いだ私が結核になったときは、血気盛んな青年に成長して私を助けてくれた弟。そんな頼もしい弟にまた私は救助の手を振ろうとしている。

 屋根の裂け目まではい上がった私は、精一杯「助けて」と叫び、手をがむしゃらに振った。
辺りはすっかり明るくなってはいたが、砂塵と土ぼこりの舞う中、けたたましいサイレンの音も交錯して、私の叫び声もちぎれるほど振っている手も気づいてもらえない。
見ると消防士二人と弟と甥が漠然とこっちを向いている。
瓦礫の海の中、私の家の認定をしかねているのか、実の姉の圧死を半ば覚悟しているのか、弟の厳しい表情に胸が詰まる。

 ほどなく私の振り続ける手がやっと彼らの目にとまり、消防士一人が近づいて来てくれた。
スーパーマンは私が押しても引いてもびくともしなかったわが家の残骸を見事に取り払い、「おばあちゃんけがはない? 僕の手に捕まれる?」と手を差し出した。
頭からすっぽり毛布を被り身軽に障害を越えようとしたとき「ア、だれか靴を」と消防士は叫んだ。
すると甥が履いていた自分の靴を即座に脱ぎ、瓦礫をはるか越えて私の前に着地させてくれた。

 大きなその靴に足を滑らせた瞬間、生きて出られた喜びが体中に走った。
地震発生後五時間がたち、絶望視されていた私は近所の人たちに拍手で迎えられ、暖房の効いた弟の車に乗り込んだ。
涙がとめどもなく流れ、突然中断された美しかった芦屋の町の狼狽もかすんで見えた。

 息子、嫁、娘、孫が、何時間も歩いて芦屋に来てくれた一月二十一日まで、私は別人のように朝から顔も洗わず、水運びに精を出した。
地震の日に会う約束をしていた友人の死、親類縁者の死、わが目を疑うほど多くの知人の名前を新聞の死亡欄で見つけた。
生まれたときから、体も心も弱いと思い込んでいた私は不思議に強かった。
迎えに来た娘と夕闇の芦屋の町を眺め、何もかもなくした私だが、もう一度生かされることになったわが人生に踏み出す決意をした。


友の事故死
永田 實(五十一歳 高校教諭 神戸市灘区)

 私は、多くの方々と比較すれば、大震災の際に記録すべき体験をしたとは思わない。
しかし、自分のことではないが、あえて記録しておきたいことに、大学時代の友人の交通事故死がある。
それは震災によるものと考えられるし、彼の鎮魂のためにも記録しておきたい。

 彼、野村亮太郎君と私は、一九六五年神戸大学教育学部に入学し、ともに地理学を専攻した。
といっても、私と違って、彼は当時から専門分野に力を注ぎ、卒業後もその研究を怠らず、県立高校に十三年間勤めたのち、一九八三年から神戸大学の教養部講師をふりだしに、専門の道にいそしんでいた。

 大学に籍を得てからは、早朝から夜更けまで研究と教育に没頭した。
だから、県内の高校・大学の教師を主要メンバーとする兵庫地理学協会の運営のことで、私が夜九時頃に自宅へ電話をしても帰っておらず、しばらくして、帰宅した彼から電話をもらうのが常であった。
その兵庫地理学協会の機関誌に、「六甲山南麓の建造物にみられる亀裂について」(『兵庫地理』33号 1988年)という論文を投稿してもらったことがあった。
いま考えると、活断層についての警告を発していたと言えよう。もっとも、彼の研究の中心は、火山灰を指標として、地形や気象・気候状況を復元するものであった。
手作りの装置での火山灰の分析と同定に、寸暇を惜しんでいたようである。
その成果が認められ、博士号も取得した。

 その彼を、地震後の二月十八日、NHK総合テレビの午後七時のニュースで見た。
墓石の倒壊方向を調査し、その分析をしようという内容であった。
あのころは、多くの研究者が色々な観点から様々な調査と分析をしていたが、画面を通じて彼の活躍の一端を確認することができた。
その後も、一度テレビで見たように記憶している。

 ところで、そのころ、私は勤務校の百年史編纂で多忙であった。
神戸大学のほか、神戸市立中央図書館と明石の県立図書館などに通い、関連資料を検索していた。
しかし、地震後、市立中央図書館が閉館されたため、休日に行けるものとしては、県立図書館に限られてしまった。
この時期、被災地の地方自治体では、図書館そのものの被害はもちろん、職員も本務以外の業務に多忙で、開館できなかったのである。
そのため、神戸をはじめ、明石、芦屋、西宮、宝塚、北淡町、一宮町などの住民に対して、県立図書館では、通常は個人に直接貸し出しをしないにもかかわらず、貸し出されていた。
私などは、各地の高校の周年史などの資料を借り出せ、大変ありがたかった。

 そして、地震後三カ月たった四月二十三日(日曜日)、私は車で県立図書館に行き、いつものように資料検索をして、昼過ぎに帰宅した。
早朝からの大雨も、そのころにはやんでいた。
ところが、家に帰ってみると、三人から、野村君の突然の事故についての第一報が入っていたのである。

 事故の概要は、翌日の朝刊に「暴走トラックと衝突/単車の神大教授死亡」の見出しで紹介された(四月二十四日付神戸新聞朝刊)。
それによれば、午前九時ごろ、灘区高羽町の県道交差点で、千葉県のレンタル会社のトラックが、ワゴン車に追突し、さらに対向車線を走ってきた野村君の単車をはね、ワゴン車も対向車線にとび出し、乗用車と衝突して横転したということである。
原因について、警察は千葉県のトラックは下り坂でブレーキを使い過ぎて利かなくなったのではないかとみている、と記している。
記事にはないが、このトラックは震災復興のために、渋滞している市街地をさけて、六甲山の北からまわってきて、この事故を起こしたと聞いている。だとすれば、明らかに震災といってよい。

 仮に震災復興用ではないトラックであったとしても、巨視的にみれば地震後の異常事態で増えた交通事故の一つといってよいと思う。
それは、灘警察署管内(ほぼ灘区全域)の、地震があった一九九五年を中心とする前後の年の交通事故月別集計をみればわかる。
ここでは、表によって人身事故と物損事故を合わせた件数と、死者と傷者(重傷と軽傷の合計)の推移をみておこう。
上半期六カ月の合計は、一九九四年は二四一五件で、前年の一九七三件と比較すれば二二%の増加ということになる。
ちなみに、二年目の一九九六年の上半期は二四一三件だから、地震発生前年と比べると、その交通事故に対する影響はまだ鎮まっていないこともわかろう。
もちろん、個々の事故の原因が直接震災によるものかどうかの資料ではないが、事故件数をみる限り、明らかに地震発生数カ月後から件数は増え、二年目の下半期に入って十一月ころから、やっとその影響は薄らいでいくようである。

 ところで、事故が発生した現場は新聞では「高羽町の交差点」とあり、私は田崎真珠の寮の北東の交差点だと思っていた。そこは、我々の学生時代からよく事故のある交差点として有名であった。
しかし、その後、何度か交差点を通ったが、北からのトラックが、対向車線の野村君の単車にぶつかるには、少し不自然だと感じていた。
今回、事故件数を調べているうち、事故地点について「高羽町一丁目六番」ということを知ったが、この交差点は、私が考えていた地点ではなく、その南の三叉路である。
そこだと、トラックが下り坂を直線状に突っ込んできて、対向車線の彼を直撃することになり、不審はぬぐえた。
この二カ所とも、危険性の高い交差点だが、そのことは学生時代から利用していた野村君自身も熟知の事柄だったろう。
地震以後、被災地域のそれ以前から抱えていた矛盾や弱点が、より鮮明になったと感ずることがあったが、彼の事故も、そのような例ではないだろうか。

 地震直後の体験談は多く刊行され、どれもが貴重な記録となっている。
関連する図書、雑誌、新聞スクラップやビラ、チラシなどの収集も各所で行われている。
たとえば大学では神戸大学の「震災文庫」、企業では住友海上の情報センター、ボランティアの「歴史資料ネットワーク」などがある。
どこも、いまなお熱心に資料収集やシンポジウムなどを行っている。
これらが、是非継続されることを望んでいるが、数カ月あるいは数年たっての地震による影響、たとえば仮設住宅での独居者の死亡などの記録や、その人でなければわからないような個人的な記録は、これから公にされる機会が減っていくのではないだろうか。
「記録しつづける」ことは、一層重要性を増す。



第二部 記録しつづけて

空き地
橋口 美和子 (三十歳 神戸市長田区)

 私にとって、この震災体験手記の毎年の募集は「一年を振り返る」という意義のあるものとなりつつある。
一年を振り返るといっても、それは自分のことだけでなく子供のこと、主人のこと、神戸の町のこと、社会のこと、思いつくまま考えるだけなのだが……。

 震災前は、新しい年明けに、
 「今年も健康でありますように。家族皆幸せに過ごせますように。」
 と、当たり前のように祈っていたが、あの震災後からは、十二月の三十一日の日にこそ重きを置くようになってきた。

 震災体験も日頃はもうすっかり忘れ、助かった命という尊さも忘れ、当然のように生きている自分が今ここにいる。
 何一つ満足にできていない自分を棚に上げ、こんなことをしてみたい、あんな風に生きてみたいと夢を見て、その欲求不満を子供や主人にすり替えて要求する。

 平成九年十一月に二人目の子供を出産する予定なので、体も思うように動かないいら立ち。
人の心はこんなに変わりやすいものなのかと、改めて自分をふり返ってみる。

 町へ出ると明らかに震災後新築したと思える真新しい家が建っている。
その間を未だに更地のまま手がつけられていない空き地が点々と見える。人づてになぜ更地のままなのかを聞くと、やはりそれぞれ震災後の複雑な事情を思い知らされる。

 時折、新聞に震災の関連記事や手記が目につくと、必ず読んでみる。そうすると点々とした空き地が頭の中をよぎってゆく。

 私の目に見えている部分の生活は、もうすっかり元に戻って何一つ不自由はない。

 家族皆健康だし、生活も安定している。幸せだけど、あるときふっと心の中に、あの空き地と同じようなからっぽの部分に気づく。

 そんなことが幾度かある。何なのかよくわからないけれど、これが今年一年を振り返っての私の現実なのだ。

 助かっただけでもう充分。何もいらないと押しつぶされた実家と祖母の家を見た時に思った。
寝食を忘れて機動隊員として働く主人をいたわり、励まし、送り出した数カ月。
実家の飲食店オープンと祖母の家の新築に、再出発と張り切って手伝った昨年だった。

 この一年、疑問を初めて持った。私の気持ちに、心の中に、そしてきれいに復興したかに見えるこの町に。

 先日、市長選があった。私は投票場に行かなかった。
市民として、一体誰に投票すればいいのかがわからない。わからないからと言って、聞くこともしなかったし、知ろうともしなかった。意見はあったけど、誰にも言わなかった。

 今年、大型の免許を取った。何の役に立つかわからないが、何かしたかった。でも取っただけに終わった。
もうすぐ二人目の子が生まれる。
長男を見ていると、私の顔色をみているような気がする。

 今ある生活や、生きているのではなく生かされている命に、生まれてくる子供に、そして変わらず家族や治安維持のために働いている主人に、そして神戸に、社会に、私がこれからどう関わって役に立てるのか。
手のつけられないあの空き地のように、いつまでも空き地のまま放り出しておくのか、疑問を持って過ごしてみようと思う。

 震災後から、大晦日の日の祈りを変えた。「今年も一年無事に過ごせてありがとうございました」、と。

もとの街には帰らない
綱 哲男(七十歳 貿易商 神戸市西区)

 三度目の夏を仮設住宅で過ごした。
妻と子供を育て、守ってきた巣であり城であった東灘区の我が家を失ったことが、今になって実感としてよみがえってきている。

 「あれは大変な事であったのだ」と今更のように感じ始めている。
「四十年近く住んだのだ、あきらめが肝心」といい聞かせているが、頭で納得しても身体がついてこない。
 被災者にとってこれは残りの人生ずっと背負わなければならない十字架であろう。特に仮設の住民にとっては風化しえない心の重荷である。

 旧宅の街並みには見慣れぬ三階建てのツヤツヤした灰色の住宅が並んでいる。
当時、塀越しに見えていた庭木は倒壊した家屋もろとも根こそぎ引き抜かれ、その跡は舗装もされずに車置き場になっている。懐かしさが湧いてこない。

 第四次の災害復興住宅入居募集が平成九年九月二十六日から十月二十八日までの期間で始まった。
県、市、公社、公団などの住宅の一元化募集で、総計一万七千百六十五戸。今までの最多である(平成九年八月一日現在の仮設入居数は約二万九千戸)。事実上最後の一元化募集という。
神戸市内で一万二千二百三十四戸ある。仮設優先枠があり県営住宅は仮設住民のみの応募、市営は八〇%が仮設住人に割当てられる。
仮設解消に向けての施策であるが、一般の被災者や非被災者からの抗議もあるようだ。

 今回は特に申込み期間を三十三日と長くしてその間に希望の住宅をよく見てくださいという。
案内書も二百五十四頁と膨大だ。一覧してみてまず疲れた。同時によくぞここまでまとめられたものと感心する。

 この中から自分の希望住宅を一軒選びだすのは大変な作業だ。仮設のひとり住まいのお年寄りは大丈夫か気になる。
皆さん今度こそという気持ちが強い。しかしあくまで抽選であり、運を天に任せるしかない。

 この募集の始まった直後の十月五日(日)に仮設の「ふれあいセンター」で説明会があった。
疑問点もあったので相談に行った。西区からの職員・OB・アドバイザーの男女六人がすでに机を並べて相談を受けていた。申込書に記入してもらってる気の早い人もいる。

 私は疑問点の一つを質問してみた、ところがその答は「そんなこと書いてましたかなー」という返事であったので次の質問は引っ込めた。
神戸市住宅局の予想では多数の人が被災した「もとの街に帰りたい」と希望しており、東灘区〜須磨区の住宅は応募倍率が極めて高くなる恐れありとコメントしている。

 今回の受付けでは仮設住民に限り第二、三希望の住宅まで選択できる。ただし第一希望の人で応募戸数をこえる申込みがあった住宅を、第二、三希望として選んだときは無効となるという方式だ。
つまり第一希望の住宅は今まで通りの抽選。第二、三希望に関しては第一希望の人のいわゆる募集割れ住宅の場合のみ抽選、戸数を超えれば抽選もなし、落選という事になる。
要するに第二、三希望の住宅は市街地の新築住宅や、駅に近く、買物や医者に便利なところは申込みが集中するので注意するようにということだ。緑あふれる垂水区・北区そして西区(西神南は除く)をすすめている。

 今回の受付けでもう一点重要なのは、この第二、三希望の抽選は次の優先順位により決定するという。
第一順位 民間用地や県・市外に建設されている仮設住宅世帯
第二順位 住宅・都市整備公団及び国鉄清算事業団用地の仮設世帯
第三順位 上記以外の仮設住宅入居世帯

 これにしたがって第一順位の一番から残り戸数がなくなるまで順次抽選するという方式が採用された。
 第一希望の住宅の抽選は従来通りの高齢者・障害者・病弱者が優先されるが、第二、三に対してはこの条件が適用されない。私たち公有地に建設された仮設住民は第三順位で不利となる。
しかし、皆さん「そんなことはない」「なにも好き好んで公有地に住んだわけではない」と無視しているようだ。

 これは神戸新聞にも「波乱呼ぶ新優先順位、仮設間に格差」として取り上げられていた。市の住宅局に尋ねてみたが、「…早期の撤去を求められている、…そうでないと強制撤去という事態にもなりかねない…」と、この事情を理解してほしいと話していた。第一希望地がますます重要になってくる。

 仮設住宅から公営住宅に当選して引越した元役員さんは私たちの所に帰ってきて「特に倍率に気をつけて…今度は当たりやー」と支援してくれる。
この人はボランティアとして仕事の合間に車で希望地を回ってくれた。親切な人だ。
車中、広大な土地に高層ビル建設中の所があった。緑も多く、空気もきれいだが陸の孤島のようだ。第二、三希望地候補だ。これまでは落選を重ねてきたので今度は当確の所を選んだつもりだ。ファックスで倍率を調べて選択した。

 抽選は第一希望については十一月下旬、第二、三は十二月初旬に行なわれ、当落は一括して十二月中旬に通知される。
仮設住宅の中では早く知りたい半面、いっそのこと年が明けてからという人もある。
明るい正月を迎える人、暗い正月を迎える人、まさに悲喜こもごも、気を遣う正月になりそうだ。

 今回ほどくわしく案内書を読んだことはなかった。難解な文体には慣れたが、いろんな条件が加わってきている。
その内容について仮設内で解釈が分かれる。理解しにくい人もいる。議論するより正解を得るために、市と県の窓口に度々足を運んで担当者から直接話を聞いた。懇切丁寧に説明してくれた。
この担当者には募集期間中いろいろと相談に乗ってもらい感謝している。「今度こそ当選するよう祈ります」と笑って言ってくれた。

 募集の締切り間際になってやっと大体の内容は飲み込めた。この第四次の一元化募集案内書は苦心の作と思う。おそらくこれ以上の方法は考えられないような気がする。
しかし、今後はもう少しシンプルに編集すればもっとよくなると思う。

 神戸市長選も激戦の末終わったが、定住する家を持たぬ仮設民にとっては、公的支援、神戸空港、地場産業振興の争点も空しく響いたようだ。選挙中これが話題になったこともなかった。
仮住まいしている限り生活も仮になり、すべては虚ろに見えてしまう。私たちは住民票を震災前の東灘区に置いたままなので、西区役所で不在者投票を済ませた。

 かつてソ連の崩壊をもって二十世紀は終わったと断じた歴史学者があった。
神戸市民にとっては世紀末におこった大震災を克服して、仮設住宅に住む「家なき民」が一人残らず仮設を去った時が神戸の二十世紀は終わったと、もろ手を上げて喜べるのではないか。

 仮設住宅から寒空を見上げ億光年の星を数えながら神戸の将来を夢見ている。

百日紅
長谷川 美也子(五十歳 高校教諭 神戸市須磨区)

 大震災から千日がたった。
我が家もあの大地の揺れによって家が傷み、修理をするのもかえって高くつくので解体し、再建した。思い出がいっぱいの家だったが仕方がない。解体も再建も近所に先駆けて着工、竣工の日を迎えた。

 それもこれも工務店を経営している卒業生A君のおかげだ。
あの当時、毎日大工さんが来てくれるというのは珍しかった。あちこち注文だけ取って少しさわってはほかの現場に行くというのが常識だった。
そのようななかで、私の所には毎日通ってきてくれた。
A君をはじめ卒業生の皆さんには物心両面にわたって援助を受けた。在学中、私が彼ら彼女らに何をしてやれたのだろうと思い返してみても、これといって浮かばない。
震災の時だけでなく普段から卒業生の皆さんにはいろいろと教えられ、お世話になっている。精神的に遠くの親戚より近くの卒業生ということを実感した千日間であった。

 それにしても自然の営みは素晴らしい。
解体工事、再建工事のため地面を掘り返したはずなのに、埋れていた植物が芽を吹いた。
最初に驚いたのは震災から半年たった日、ちょうど元の地に戻ってきたときにみつけた百日紅だ。
縁先に何やら小さな緑が見えた。近寄ってみると何と父が生前大切にしていた百日紅であった。十センチほど地面からのぞいていた。
解体のときに取りのぞかれてしまったと諦めていた木がしっかり生きていた。
一年後、一メートルほどになって赤い花までつけた。今年の夏は二メートルほどになって、より多くの花を咲かせた。
百日紅を見ると父を思い出す。父の生命の生まれ変わりのような百日紅だ。

 このように私は周りの人々のお蔭でなんとか元の生活に戻りつつある。けれどもそうでない人も多い。
仮設住宅から出られない人もいるとマスコミを通して知った。親戚などに身を寄せておられる方もいると聞く。
私も半年親戚の家に居候の身を養ったのでその気苦労は理解できるつもりだ。今でもあの頃を思い出すと伯母一家への感謝の涙とともに、ああしんどかったという涙も流れる。

 今の私は罰当りなことにもう一部屋作ればよかったとかもっといい塀にすればよかったとか不平を並べたてている。
あの当時は雨露さえしのげれば何でもいいと切望したくせに。「足るを知る」という言葉があるが、私の場合は「足るを知らない」例だ。

 それに反してM叔母一家は「足るを知る」模範生のような人々だ。
震災で長田区の店舗兼住宅は全焼した。
建物はほとんど被害がなく、二、三日したら店を開けようと言っていたらどこからか延焼してきてみるみるうちに燃えたという。
前日の売り上げも何もかも灰になった。
娘は別に借りていた家が倒壊し一時その下敷きになっていた。幸い隙間があって、かすり傷一つ負わず自力で脱出した。
寿司屋さんを営んでいた叔父とその息子は職を失った。

 今、高齢の叔父は趣味の木彫りを楽しんでいる。息子も娘も勤めに出ている。叔母も朝だけパートに通っている。叔父は「わしだけ働いていない」とすまなさそうにつぶやく。
「今までいっぱい働いてきたのだからもうご隠居さんでいいじゃないの」と私は答えた。叔父の気持を理解していない、気楽な姪の返答とうつったかもしれない。

 叔母もその息子も娘も人に使われる身となったが、今が一番楽しいと朗らかに言う。
住んでいた所は区画整理の対象になっているから、自分の土地でありながら自由に使えず仮設住宅にいる。
新しいビルに入居するのは何年も先のことだ。「わしらもうおらへんわ」と叔父は言う。

 その叔父は先日、地元の小学校から依頼されて震災記念の大きな木彫りを完成させた。
まもなく、歌手の五木ひろしがそこを訪れるらしく、その時には五木ひろしと付き人に別の木彫りを差し上げることになっているようだ。

 もとの地域の人だけの特別の仮設住宅とは言え、不自由なこともいっぱいあるだろう。言っても仕方ないという諦めもあるだろう。
それにしても今が一番楽しいとはなかなか言えるものではない。
西明石の叔父が入院していたときもM叔母は看病に行った。震災のあとその家で生活させてもらっていたので恩返しに献身的な看病をした。別の伯母の家にも手伝いに通っている。
「あちらでもこちらでも喜んでもらえて幸せや」とM叔母はにっこりしている。

 新しいビルに将来入居し、店を再開するときのために息子も娘も貯蓄に励んでいる。
神戸市は店のスペースは今の土地と等価交換で提供してくれても、内装などの費用は当然個人負担だ。
箸一本から揃えなければならない。前途多難であるが、皆明るい。息子も娘も親の背中を見て育った。

仮設住宅で
高島 節子(六十五歳 キリスト教伝道師 神戸市西区)


 大地震後は、二年以上あっちに、こっちにと流浪の民のような生活を続けて参りました。
そしてようやく、皆様の暖かいお励ましとご支援によりまして、県営住宅の一隅に落ち着くことができました。
引っ越して、ようやく岩岡仮設住宅での生活を顧みるゆとりがでてきました。

 私は、ある日、二人の女性の会話を聞きました。
二人は「今の嫁は強い、恐ろしい。私ら年寄りはもう息子の家族と一緒に住めないようになっている。嫁と孫と一緒になって私らをいじめる。
また、今回の地震では被災者たちは国からもボランティアの人たちからも親切にされている。
今まで貧しかった日本の過去にこんなことは考えられないことだった。彼らはタダで仮設住宅で生活していて、いろいろと援助を受けている」と話しておられました。

 私の友人にマレーシア人がいます。
彼女に私が仮設住宅に住んで一年間無料で居られることを手紙に書きました。
彼女からマレーシアでは、どんな災害があっても三日間だけキャンプ生活ができるが、後は出ていかなければならない、と返事がきました。マレーシアは貧しい国ですね。
日本も昔は貧しくて、関東大震災の被災者たちはどんな援助を受けたか私のような年齢の者は、ふとそういうことを考えます。

 仮設にいたとき、天理教の人たちが時々無料で温かいお昼をご馳走してくださいました。
私も仮設のふれあいセンターで皆様とともにいただきました。仮設にはお年を召された方々が大勢おられました。
その方たちは、お子がおありなのに一緒に暮らせないとのことでした。日本は本当に老人になると淋しいと思いました。  ある日、八十過ぎの女の人とバスで一緒になりました。彼女も私と同じ岩岡の仮設におられました。
彼女は兵庫区の便利な場所の市営住宅に当たっておられました。でも、お子たちが連帯保証人にならないので入居できないとのことです。
もし連帯保証人になって、お母様が部屋代が払えないとお子たちが負担しなければならないからと、話しておられました。
私はその話を聞いて呆れました。市住の家賃は安いのに、それさえ負担する気がないようです。

 私が岩岡の仮設にいたときには、不愉快な思いもしました。私たちのモラルの低下がむき出しにされたようでした。
大きなゴミ、タバコの吸いがら、空缶などがあたりかまわず捨てられていました。
見えないところでは、幾つもの古タイヤや古着、家具などが捨てられていました。

 鷹取教会のボランティアの人たちが草刈りに来てくださるまでは、仮設住宅は草ぼうぼうでした。それまで草刈りをする人がいなかったのです。

 震災で楽しい我が家や定職を失った人たちの気持ちは暗かったに違いありません。そんな人は気持ちの持って行き場がなかったでしょう。
それである男の人は、何日も道を歩きながら大声で怒鳴っておられました。
ある人は他の人を傷つけたらしく巡査が来られました。
またある人は、心のウップンを晴らすためか、センターに押し寄せ、怒鳴ったり掃除用具やコンテナを壊したりしておられました。

 今の日本は、お金がカミサマのようになっております。震災は天災です。
人の好意につけ込んで人からお金ばかり欲しがるのは良くないと思います。
今の日本はお金持ちですから、被災者に多額の援助金が与えられております。そのような有志の人たち、ボランティアの人たちに被災者たちはどれほどの感謝の気持ちを持ちあわせているのか、仮設生活をしていて疑うこともありました。

 お嫁さんから嫌われ、仮設に居られるお年寄りは本当にお気の毒です。私みたいに、はじめから独身でいる者より淋しさがひとしおです。
そのような淋しいお年寄りには、これからも支援してゆく必要があると思います。

 一年間の岩岡第二仮設住宅での生活を振り返りますと、皆様の暖かい親切が心に浮かんで参ります。
また、岩岡第二は田園風景に囲まれた、緑豊かな静かな、大きな池のそばにありました。
また産地直売のフレッシュな野菜をふんだんに食べられたことも今は懐かしいです。私の長い人生にサラッピンの家に住めたことも嬉しいことでした。今、仮設住宅の生活を振り返って懐かしんでおります。

借地
匿名(七十二歳 神戸市兵庫区)

 私の家の東の二十軒ほどは、震災の翌日、突然の出火で焼けてしまった。
 すっかり更地になっていたが、この一年、見る間に家が建ち並んだ。
以前は長屋だったので、まとめて何階かのビルを建てれば、神戸市からの補助金も出ることになっていた。しかし、とうとう話はまとまらなかった。土地は町有地で、承諾料もなく自由に建てられた。
だが元のように再建するには土地が狭すぎた。
そこで、権利を売って出ていく人と、それを買って二軒分の土地に家を建てる人に分かれた。平成八年の九月迄に契約すれば、消費税が三%で済むので建築契約し、次々に工事に掛かった。ほとんどが鉄骨の三階建ての立派な家である。それぞれの個人主義的な思いが分かるような気がする。

 今年になって、私にも貸家を建てる話が定まった。妻の遠縁の建築会社が、尼崎の仕事が片付いたので続いて工事に掛かることになった。
多くの人は家が崩壊したので、更地にして駐車場にした。
私は娘が亡くなったむなしさで、借家人の言うまま、更地を自由に使わせた。相手の申し出で駐車場程度の金額は貰ったが、借家人はコンテナを二つ置き電気と電話を引き、便所を作り、囲いを道路迄出して仕事をしていた。丸二年あまり使った。

 家を建てるので、借家人に一軒おいて隣りの姉の更地に移って貰うことにした。
工事に掛かり彼は毎日のように現場を見に来ていたが、基礎工事の段階で狭く見えたのだろう、別に広い所が見つかったと出て行ってしまった。
もっともなことである。本人の自由である。立ち退いてくれただけましだと思わねばならない。

 私の土地は借地で地主は東京の会社だ。弁護士は前と同じ建造物を建てるのに承諾料はいらないと言う。
しかし仲介の不動産業者は、承諾料を出さないのならどんなことでもすると妻を脅した。
借地人と地主とのトラブルでは、平成九年二月に再建中だった新築家屋が完成間近に解体業者に壊された事件や、四月に家屋を再建中、不動産業者に突然敷地の周りを鉄板で囲われて、建築工事を中断させられた事件があった。
私には借地を買い取る余裕もないし、また売ることも話し合いが出来そうもない。
私は嫌な思いをせずにすめばと当方としては高額な承諾料を出した。

 地主はだいたい資産家が多いが、好意的な人や高額な金銭を要求したりする人などいろいろである。角を立てたくないと、どうしても言いなりになりがちである。
年寄り夫婦には融資を受ける資格がない。建築費用はあるだけのお金を集めて間に合わした。亡くなった娘のお金も入った、私たち夫婦には宝物である。そして建築契約も結ばずに工事に掛かった。

 心配したが、幸いにも問題もなく延べ二十坪余りの木造二階建ての家が立派に出来た。しかしやはり高いものに付いた。

 だが、貸して家賃収入にしなければこれからの経済生活が立たない。借り手についてはさして気にしていなかった。
ところが平成九年六月の神戸新聞に建設ラッシュで供給過剰、家賃の下降、公営住宅の大量建設、第四次一元募集で大半が公営住宅に移って行くとある。

 私の貸家も入居者を探さなければならないが、気心の知れた今までの周旋屋がやめていなくなってしまった。何だか、知らない不動産業者に頼むのも心もとない。世情に詳しい知人の家に行った。
この度の震災の被害もなく建築関係の仕事で景気も良い。更地を買って商売もうまく行っている。
彼は言う。「この近くのマンションも空いたままで、ここ二、三年は駄目だろう」。椅子に座って足を組んで「木で鼻をくくったような返事」である。

 誰でも自分のことが第一である。被害のなかった人には震災はもう遠いところに行ってしまっている。
しかし私にはまだまだ後遺症が続いている。「人の痛みは三年でも辛抱できる」とはよく言ったものだ。寂しい気持ちで外に出た。

人が住める町
中村 専一(五十八歳 飲食店経営 神戸市長田区)
 地震から二カ月後の平成七年三月十七日に、私の住んでいる地区(神戸市長田区若松、大橋三、四の四ケ町)では
 〈神戸国際港都建設事業新長田駅南第三地区震災復興第二種市街地再開発事業
 〈住宅市街地総合整備事業
 これら二つの法律の合併施行という形で、公聴会も開かれず住民の合意を得ないまま、都市計画が決定されました。
 平成七年二月二十六日施行の「被災市街地復興特別措置法」で建築制限をした上で、住民と話し合い、町づくりの方針を決めていたならば、もっと早く復興できたと思います。平成九年十二月には一街区に、事業計画決定で強制収用法がかかりました。

 地震前まで開発地区の賃貸住宅に住んでいた方は、この法律は良い法律だと思うでしょう。地区内に建設される市営住宅(受け皿住宅という)に無抽選で五年間の家賃補助を受けて入居できるからです。

 狭小住宅や路地に面した住宅の方は、「新建築基準法」で希望する建築ができない方々がほとんどです。
この地区は大正時代に建設された木造住宅が多く、戦災に遭わずに残っていました。従って、これらの方々も隣人とのもめ事がないので良い法律だと思うでしょう。
なぜなら行政がすべての土地を買収して分譲住宅を造ってくれるからです。

 ただ問題が一つあります。「沿道地権者」と私が称する広い公道に面した事業者や商業者の方にとってはまさに「悪法」なのです。再開発の網がかかっていなければそれぞれの資力によって自由に建築制限いっぱいの自社ビルが建設できます。
しかし現在は再開発法によって二階建に規制されています。そのため自社ビルを持っていた方は現地に戻れず、焼けた土地の固定資産税を払い続けながら、他地区で高い家賃を払って営業を強いられているのです。

 商業者の方や家賃収入で生活していた方も二階建の規制で、プレハブの簡易な建物での営業や生活を強いられています。
かといって、再開発に賛成して早々にビルの店舗に入居したらたちまち坪当たり八千円以上の管理費、共益費、修繕積み立て、固定資産税、借入金返済、利息(月)を負担しなければなりません。
十五坪の店舗で概算してみると、借り入れ元金と利息の返済合計が二十万円になります。
仮設の店舗や事務所を再建して借金をしている上に、再開発ビルの店舗の買い取りに二重の借金をして、なおかつこの金額を払い続けて営業が成り立つでしょうか。

 地震から二年九カ月が過ぎました。私は地震までは法律とは無縁の生活をしていました。
だが、震災後は法律や条例などの勉強から始めて、この焼け野原の地区をどう復興するか山積する難問に取り組みました。

 私は夫婦で「そばや」を営んでおり、地震後に「焼け野原の一軒家」的な状況の中で再開店を果たしましたが、事業計画が決定したら間違いなく廃業となります。
 その理由には、

 などがあげられます。そして、このような深刻な状況は時がたつにつれて進行します。明るい話はないか探してみましたが現在は皆無です。

 ここで改めて再開発とは誰のためにするのかを考えるべきではないでしょうか。
ある再開発エリアの地区では、事業計画決定が出て一年がたっても、ほとんど手がつけられていないうえに転出率(今までの土地に残ることができず地区外に転出)八〇%がささやかれています。震災から三年がたとうとしているのに解決の方向は未だ見出せません。

 「まちづくり協議会」の役員も疲れています。神戸市のプラン通り(行政は現在出されている案は住民案であるというが……)二十数棟のビルを建設し、店舗も住宅も入居者がいない町を想像すると、悲惨な町が出現しそうです。なぜこのような状況から抜け出せないのでしょうか。

 たしかに、神戸市は「まちづくり条例」を作りました。住民の意見を入れた町をつくるシステムは全国でも先進的だと評価されています。
しかし、私は違うと思っています。

 「まちづくり協議会」には行政がまちづくりの専門家である「コンサルタント」を派遣し、住民の相談にのって「住民案」を提出することになっています。
だが、役員はすべてしろうとなので、コンサルタントの誘導に従って案ができ上がっているのが実態です。
ところが、コンサルタントは箱(ビル)をつくる専門家であって町をつくる人でないところに問題があります。
容積率いっぱいのビルを建て、それを売却し採算を取るという、行政のプランを住民に押し付けて、人が住めない町を造っているとしか思われません。

 住民はしろうとで、コンサルタントは採算だけを考えています。誰が人の住めるまちを提案するのでしょうか。正にこれからが正念場です。

家検制度
山中 敏夫(六十九歳 前神戸市会議員 神戸市兵庫区)

 地震から千日目を迎えて自分の歩んだ跡を振り返ってみたい。
当時は神戸市会議員であったので、当日及び数日間は救援と安否確認活動と共に、議会と区役所との情報収集活動につとめた。

 議会と行政の震災対策が逐次前進するにつれて、文教経済委員長であった立場から、国県との折衝のための実情把握と必要な対策の論議に参加してきた。特に避難所となった学校現場の教職員の過重な任務と責任に耐え、適確な判断と指導力を発揮して頑張った姿と、事業を再開しようとする中小企業者の資金借入に伴う障害を排除するための努力は、今なお思い出に強く残ることである。

 全般的には、瓦礫撤去と擁壁復旧を公費で行ない得たことは、議会と行政の取組み成果の最たるものであった。

 一方、所属する政党(当時社会党)の顧問弁護団と共に行なった相談や苦情の受付け活動は、大半が借地、借家に関するものであった。併行して兵庫区全区にわたる支持者の安否確認活動をした。行政の窓口案内の用事が多かった。

 九五年六月、市会議員引退後、兵庫区内の家屋の被害状況と被災時の人々の行動と思いを知るために、後援会員を中心にして広く全区にわたる知人に、具体的な設問による体験記録の募集を試みた。少なくとも百篇くらいは応募があるものと思ったが、区外を含めて三十篇余りしか集まらなかった。
当初の目論見は外れたものの、当時の生々しい体験と思いが文中に溢れ、一応の成果を得たものと思っている。

 復旧があらかた終わり、復興への取組みが始まる中で、かねてから要請されていた「まちづくり協議会」へ参加した。
私の住む松本通二丁目は、大半が焼失した松本地区の中で丸ごと残った二つの丁の一つであり、住民は一応住める状況の中で、さほどまちづくり協議会への関心はなく、協議会からの働きかけも積極的でなかった。

 まず九六年五月ごろから妻がコンテナハウスの協議会事務所の留守番ボランティアに参加した。
やがて当丁自治会が解散したので、各町丁ごとに設立されつつあった「協議会小委員会」の委員長に私が推され、その活動に参加することになった。

 この松本地区は九五年三月十七日に都市計画が決定、同年五月七日協議会が発足した。九町丁、約九ヘクタール、従前居住者千二百世帯、二千四百人であったが、その六〇%が焼失し、残る大半も全壊した。今そのうちの地権者三百八十六人、借地権者二百十九人、借家権者六百八十三人の計千二百八十八人で協議会が構成されているが、ほかの約千百人の行方は不明である。

 当初、十七メートル幅道路や広すぎる公園に疑問や反対の声が上がったが、集会、会議、学習会、見学会の数を重ねる中で、建蔽率の緩和や減歩率の軽減、擁壁の公費施工などの見返り条件を引き出し、まずまず順調に推移している。

 防災と併せて、環境の良いまちづくりを目指し、広い道路への「せせらぎ」、実のなる街路樹(梅)、風俗営業の禁止、ワークショップ(住民の提案討論)による公園づくり、電柱の地中化等々各専門部会を設けて取組んでいる。

 この地区が幸い大きな混乱もなく進められている理由は、

  1. 大半が焼失破壊し、地区外での仮住いを余儀なくされている
  2. あらゆる利便(行政、金融、交通、教育、医療、市場、商店、文化、娯楽など)に恵まれている
  3. 古くから住み続けた知人、友人が多い
 等が主なものである。いずれも早く元のところへ帰って住み続けたい動機になっている。

 そして、この住民の強い願望に応えた献身的、精力的で学識豊かなリーダーを得たこと。
彼を補佐する各町丁の役員も、また献身的で人情味豊かな人々であり、痛みと願いを共有し共感し合えることが無意味な感情論を排除している。

 地区の半分弱の仮換地指定が終わり、九八年春には全地区の仮換地指定が終わる予定である。
これからは、財産や権利の移転、評価の変更等が具体的になるにつれて、総論賛成、各論反対も出てくるだろう。
正念場を迎えた協議会活動は、実体を失った自治会などの地域コミュニティの再生と超高齢化、少子化の中での福祉と社会教育の面も視野に入れた広範な活動の展開も求められることとなり、正真正銘のボランティア活動の場となっていく。

 私はまた一方では、これまでに放電し切った頭に新たな人生の知識と方法を学ぶために、神戸市の老人大学「シルバーカレッジ」福祉コースに九六年四月に入学した。三年間、週に約三日の授業を受ける。
また、学内ボランティア「木工グループ」に参加し、元来の本職である家具木工職を生かし、地域で兵庫区ボランティアセンターに所属する。土、日曜のみ参加できる条件の人々のグループで、月一、二回のささやかな社会参加を行なっている。

 こうした充実した日々を健康に過ごすことが出来るのは三十五年来続けた、年中無休の早朝ラジオ体操による心身の運動の継続の効果であると感謝している。

 再び同じ被害を繰り返さないために、建築基準法の見直しや、工法の再検討改善が行なわれている。
しかし、今回の被害で最も悲惨であったのは、老朽木賃住宅の全面倒壊による一瞬の圧死が多かったこと。
新しくても安普請や手抜き工事に被害が大きかったことを思うとき、一定期間ごとに強度測定を行ない、補修、補強あるいは建替えを強制することのできる制度を早急に検討し、実施を図るべきと考える。例えば「車検制度」のような「家検制度」のようなものを想定している。

 もちろん、公私共に莫大な財政の裏付けと人的に専門家を要することから大変難しいことである。
今日の超高齢化、少子化の急進行の中で、諸々の社会保障費の負担増と給付減の世情にあって、国民の合意形成と公費支出の限界は極めて厳しいものがあることは充分承知してはいる。

 しかし、一瞬にして数兆円の被害を受け、その復旧復興にさらに数兆円を要することを思うとき、是非ともそれぞれの識者によってその可能性を見出していただき、制度化される日の早からんことを切に願うものである。

商店街
塚口 佳子(五十六歳 養護教諭 西宮市)

 「あっ、お久し振り」思わず声が出た。
 平成九年八月の末、書店に行く途中の町角で私はその老人に出会った。震災以来の本当に久し振りだった。名前を知らないこの老人を、ここではAさんと呼ぶ。

 私に声をかけられて、ちょっと戸惑いを見せたあと、Aさんもすぐに思い出したのだろう。あの頃と同じ笑顔で、「ああ、奥さん、お元気でしたかいな。いつ西宮に? 大変でしたなあ」と、懐かしげに答えてくれた。

 厳しい残暑のこの日、アーケードの片隅で、私はAさんとしばらく立ち話をした。
 Aさんは、もう七十歳代の半ばを超えていると思われる。顔の色艶はよい。少し腰が曲がっているが、いつも笑顔を絶やさぬ柔和な人だ。
震災前、Aさんは阪急電車の高架下の商店街で小さな食料品店を営んでいた。店番はAさん一人のその店先は、決して美しい陳列とは言えないものだったが、気安く買える雰囲気があった。
油揚げ一枚、きゅうり一本を買う客にも笑顔で接する店主の人柄で、店には結構利用者があった。
勤め帰りの私が夕方慌ただしく駆けつけた頃には、もう商品が品薄となっている日も多かった。しかし我が家から徒歩一分少々のその店は、便利な存在で重宝していた。

 「そんなに儲からんでもええ。こうして働かしてもらえるだけでありがたいと思ってますねんで」
 口癖のようにそういうAさんは、ずっと以前に奥さんを亡くして一人住まいをしているとのことであった。
 だが、まだまだ頑張るつもりだった彼の晩年は、あの大震災で一変した。
阪急電車の夙川駅から西宮北口駅までの、ちょうど中間あたりに位置する越水町は、大被害を受けた地域である。電車の高架すら崩れるほどの揺れに、むろん、木造の我が家も全壊した。

 地震の数日後、私はAさんの店を覗いてみた。ほとんどの店が閉ざされた商店街の一角で、彼の店のシャッターは開いていた。
水も出ない状況下で、生鮮食料品などあるはずもなかったが、缶詰や瓶詰、インスタントラーメンなどが雑然とした店内にまだ残されていた。
「えらいことやったけど命があっただけでお互い良かったですなあ。元気出さんとあきまへんで」と、父親のような口調でAさんは落ち込んだ私を励ました。

 その日から一カ月ほど過ぎた頃、私は近所の人達から高架下の商店街が阪急電鉄の工事のために撤去され、再開は二年も先になるとの話を聞いた。
そして高齢のAさんは、多分もう新しい店舗を持つことがないだろうという噂も耳に入ってきた。
日頃、どこよりも早く店を開け、消費税も取らずに商いを続けてきた彼の胸中を思い、私の心は揺れた。自宅を失っていても公務員の私は、これまで通り働ける職場があった。

 震災から二年四カ月を大阪で過ごし、平成九年五月、ようやく私は越水町に戻ってきた。
阪急の高架の大工事によって、前年の九月、新しい商店街がオープンしていた。
だがその中に、やはりAさんの店はなかった。
彼の店のあった場所には、新顔のカラオケ店が入って、夜遅くまで営業し賑わいを見せている。震災直後とあまりにも対照的なその情景に馴染めぬまま、私が新しい暮しを始めて四カ月、そんな中で、思いがけないAさんとの再会の日を持つことができたのである。

 「本当はもう一度店をやりたかったが、権利金や家賃のことを思うと諦めざるをえなかった。ローンなどは無理な年齢だし、息子たちから反対され、親父の小遣いくらい何とかするとまで言われたら、もうわがままを言えなかった」と彼は私に告げた。

 自分自身に言い聞かせるように話す彼は、少しやせて老いが進んだように見えた。
彼の生きがいでもあったささやかなあの店は、新しい時代の流れに押し流されたのである。聞けば、息子さん一家がAさんの近くに住んでいて、ときどき、夕食を共にすることもあるとのことであった。

 「まあ贅沢言うたらバチが当たるかもしれまへん」というAさんの姿にホッとしながらも、ときにはかつての店の辺りへ行ってみたくなるとの言葉こそが、彼の本音だろうと思い、震災からの日々のその心の葛藤の大きさが分かるような気がした。

 前かがみの姿勢で去っていったAさんに、あの夏の日以来一度も会えぬまま季節は秋の深まりを見せつつある。

 今後おそらく、Aさんが店を持つ日はこないだろう。いや、Aさんだけではない。
あの震災で、私たち被災者の人生はさまざまな形で影響を受け、変化や転換を余儀なくされたと思う。
震災後千日という節目の日も、復興への通過点にしか過ぎないことを、私たちはあれからの歩みの中で学んできた。
あの日から今日までがそうであったように、今日これからをいかに生きるか、私たちは試行錯誤を繰り返しつつ歩み続けねばならない。
 新しい春が、それぞれに訪れるまで。

不安との闘い
青木 加代子(四十九歳 宅配弁当店経営 西宮市)

 疲れた。本当に疲れた。胸がはりさけそうになるくらい苦しい。
地震から二年半が過ぎようとしているのに先が全く見えてこない。私たちはまさか仮店舗で営業するとは思いもしなかった。そして一つの希望であった、震災前の店舗へ戻ることはなくなってしまった。

 忙しいときには五、六人のアルバイトがいて、パソコンを導入して弁当の宅配をしていた。
朝三時、四時に起きて、夜遅くまで働いていた主人の店。遠い昔のことだったように思える。

 平成九年三月末には私たちが営業していた跡地に、立派な八階建のマンションが完成した。
店舗が六軒できているが、もうそこへ戻ることはない。カメラ屋、私たちの店、ケーキ屋、喫茶店、寿司屋、電気屋、内科医はもうそこにはない。三十年来営業を続けていたというのに、大家の店ともう一軒を除いては帰りたくても帰ることはできなかった。

 私は一生、大家を恨むことになるかもしれない。もう少し店子のことを考えてくれたら、こんなにも辛い思いをせずにすんだと思うと悲しくなってしまう。

 今営業をしている西宮北口北東部での売り上げは平成九年五月に入ったとたん落ち込んだ。
一月、二月、三月と売り上げが伸び、三月には地震前の六十パーセントまで回復していた。
高校生の娘にも手伝ってもらい「努力すれば何とかなるかなあ」と思ったのもつかの間、元の暇な日々に戻ってしまったのだ。

 近くで住都公団が八月末の開業を目指して仮設店舗を急ピッチでつくり、周囲の家の取り壊しもしているため、ほこりと騒音でますます人が通らなくなった。
公団の仮設店舗に入る人、入らない人、それぞれが不安な日々を送っている。皆は目の前に迫っている開発に何を思っているのだろう。

 あの地震以来考えてもみなかったことがあまりに多くありすぎた。
この二年半なんとか元に戻りたいと思って一生懸命頑張ってきた。一時もほっとする間がなかった。精神的にも相当落ち込み暗い毎日を過ごしている。
考えても仕方のないことは考えないこと、とにかく売り上げをのばすことだけ考えること、といつも前向きに取り組んできた主人。
すぐ涙ぐむ私を叱ったり励ましたりしてくれた。
「平成九年五月から住宅ローンの支払いが始まり、来年には中小企業融資の返済が始まるのに、どうするのよ」と言う愚痴もじっと聞いていて、「いつまでもこんなことは続かない」と言っていた主人が六月に入ったとたん初めて「疲れた」と言った。
二年半の疲れが出ているのか、主人の「疲れたよ」という言葉には本当に辛くなってしまう。

 メニューを配ったりして努力しているのに、先が全く見えてこない。
あの地震でも愚痴も言わず家のことをすべてしてくれ、往復一時間半歩いてスーパーに買い物に行き、重い荷物を持って坂道を帰ってくる母。
戦争を体験し、いろんな風水害にもあい、大変な経験をしてきている母。七十五歳になる母は大変強い。一番弱いのはこの私、愚痴ばかり言っている私なのである。

 収入のない日々、新大阪での弁当とカレーの路上販売、この西宮北口北東部での仮営業、これらの苦しい日々があったから今があると思える日が、これから先くるのだろうか。

 「何もない人生よりは、辛いことでも何かあったほうがよい、そこから抜け出すために必死でもがくから」と何かで読んだ。
しかし、希望の持てる生活再建ができるのであろうか、と考える。不安との闘いの毎日である。

三度目の秋
薄木 智子(三十七歳 自営業 神戸市須磨区)

 地震から三度目の秋を迎えた。
一度目の秋からその時々の自分を文章にするという機会を与えていただいた。私にとって秋はいつの間にかその年を振り返る季節となった。

 最初の秋には、震災の恐怖と自宅が全壊し仕事場が半壊となり、先の見えない状態からどうやって抜け出そうかと、主人と二人一生懸命だったことを綴った。

 次の秋には自宅が再建でき、自分を取り巻く様子も少しずつ落ち着きを取り戻し始めたものの、主人と二人細々と営んでいるケミカルシューズのミシンの仕事はなかなかうまくいかず、一年目より厳しい状況となり、これからの生活の不安を綴った。

 平成九年秋、状況は悪くなる一方でつらいことだけが増えている気がする。仕事も途切れることが多い。
また仕事が取れても震災前とは比べものにならない程に工賃が安い。
収入が激減しても自宅を再建するために借りたお金は返済しなくてはならない。今の私の頭の中は経済的なことばかりが渦を巻いている感じで息が詰まりそうになる。

 震災で全壊した自宅は、主人が若い頃からせっせと働いて数年前にローンを終えた。
そしてまた四十五歳から二十五年のローンがスタートした。
ケミカルシューズのメーカーがどんどん倒産し、この産業の復興には十年はかかると言われている中で返済していけるのだろうか。
仕事場は主人の名義ではあるが、義捐金や助成制度の対象にはならなかった。細々と営む家内工業には救いの手は何もない。

 地震前自宅で使っていた電化製品はほとんどが壊れた。テレビも洗濯機もクーラーも新しく購入した。クーラーは経済的余裕がないため、一階の台所兼居間に一台だけある。
夏なのに日中締め切っている家の三階の部屋など到底寝られるものではない。一階のフローリングに布団を二枚敷いて四人で寝て夏を過ごした。

 私たち夫婦は、主人が九歳年上のせいもあり、夫婦喧嘩などほとんどしたことがなかった。
しかし、最近では何気なく口にした言葉から言い争いになる。いつでも二人三脚で、地震後も困難を乗り切ったはずだったのに。

 平成八年八月十二日、私は仕事場の近くのコンビニエンス・ストアにパートに出ることにした。
家業とパートを半日ずつの二足のわらじである。主人は体裁を気にしてパートに出ることに反対した。
この非常時に何が体裁だと思った。年末年始にも二日間しか休みを取らなかった。案の定、大晦日の日に大喧嘩になった。
小学四年と二年の子供が泣いて止めに入った。子供の前で馬鹿なことをしたと思ったが、主人がますます遠い存在のように感じた。

 コンビニエンス・ストアの近くには仮設住宅が建ち並んでおり、客層はお年寄りが多い。
公共料金の支払いに来られるお年寄りの中には、わずかな額の電気代が払えず督促状を二カ月分持ってこられ、「すみませんが一カ月分だけお願いします」と、しわくちゃの千円札で支払って行かれる方もいる。

 平成九年四月、消費税が五%になった。
 「私たちにはこの何円(の差)が大きい」と、二百円の食パンに十円の消費税を支払いながらつぶやいていかれる。
その方はこの食パン六枚で何日かを過ごされるそうだ。
話をするようになった仮設に住む方も、修理もまだの半壊の家に住む方も、震災後体調が悪かったり生活が苦しいことを話していかれる。

 自宅がある西須磨には大きな問題が持ち上がっている。
震災でほとんどが全壊したこの地区に、神戸市が産業道路の計画を押し付けてきた。この道路計画は地震直後の二カ月間に縦覧期間を設けて決定したという。
直後の二カ月といえば、私たちは水くみや炊き出しに並ぶ毎日だった。
主として大型トラックが走るというこの高架道路建設は、被災しながらもやっとの思いで戻ってきた私たち住民にまたつらい生活を強いる計画である。
排気ガスや騒音で私たちは心も身体も害されてしまう。
どうして上に立つ人たちは、被災者の生活を後回しにして道路や空港のことばかり進めるのか。

 真夏の暑い日、道路計画の見直しを訴えて「西須磨主婦の会」の皆さんと一緒に神戸市役所前でビラ配りをした。
通勤途中の市役所の職員の方たち一人ひとりに頭を下げビラを渡そうとしたが、嫌なものでも見るような目でビラさえも受け取ってくれず、足早に市役所に入っていかれた。虚しい気持でいっぱいになる。
この人たちには被災した人々の心や身体のいたみなど絶対に理解できないだろうと思った。

 私たちは平凡な元の生活に戻りたいだけなのに、立ちはだかる問題は余りにも大きすぎる。
ただ平凡に仕事をし、子供の成長を楽しみにしながら生活していきたいだけなのだが、それがこんなに難しいとは思いもしなかった。

在日三世
朴 淑美(二十三歳 会社員 尼崎市)

 職場で定時まで働いて、友達と少しの時間を楽しんで家へ帰る。そんな日々をときどきは楽しみ、ときどきはうんざりもしていた。

 毎朝いつも思っていた。「一体何が楽しいのやろう」。そんな疑問をふと持ったころ、数十秒の揺れが襲った。
 私は在日三世で生まれも育ちも日本である。学校は同胞子女が通う学校に通っていた。

 卒業前には日本の企業へも就職活動をした。在日朝鮮人であるということを、このときほど強く感じたことはない。
国籍と日本の学校の卒業証書がない私は不利だった。高校を卒業していても各種学校扱いなので、日本の企業は高卒とは認めない。
普段の社会生活の中では特に障害はないが、根本的な部分ではまだまだ問題がある。

 母校で事務職をしてみてはという申し出を受けて、引き受けた。子供も好きだし、ましてや母校なのでとてもうれしかった。初めて働く私に、職場は温かかった。

 しかし、私と同時に卒業した友人の中には、日本の大学に入るために夜間学校に通い、高校の卒業資格を取り直し、進学した子もいた。とても不安になり、このままでいいのかと悩んだ。
同胞の中で働くのは、人の波にもまれず居心地は良かった。
だが、「せっかくの人生ならば、現在身を置いているこの日本で、日本の人と交じって思いっきり本気で何かができる場所を見付けるのも悪くないのではないか……」と考えた。

 そんな私に、周囲の人たちからは、「考えが甘い」「日本の社会を分かっていない」「何が不満なのか分からない」と槍のように意見が飛び交ったが私は決心した。

 仕事をやめて、家で就職雑誌を片手に電話をかけてみた。
高卒でも採用可能と書いてあって、結構いろいろ聞かれて、なんとなくいけそうな感じを持っても、国籍と学校名を言うとあっさりと断られる。そんなことが多かった。

 「日本人でも今回職をなくした方が多いので、外国人の方はちょっと……」。被害を受けたのは一緒なのに、やはり残念な答が多かった。

 それから三カ月がたち、やっと職につけた。
同胞が経営する建設会社に事務員として勤めることになった。
日本の大手企業に勤めようとは思わなかったけれど、小さい個人商店からさえ門前払いされた私にとって、この再就職はありがたかった。
ここには日本の人も働いている。環境の違いに悩んだりもしたが、経営者が理解のある方で、よい再就職ができた。

 町の復興と私自身のために、私はもっともっとがんばっていこうと思った。負けたくない。
こんな気持ちが自分の中で沸いた。いろんなことに対して意欲的にチャレンジするようになった。
自分に何かが欠けていると思った地震前に比べて、現在の私は何か目に見えないものをつかんだ気がする。貴重ないろいろな体験をしたと思う。

 社会や技術が目まぐるしく発展しても、この先もいつ、突然何が起こるかわからない。だが、これを機に、もっともっと思いきり頑張ろうと思う。

 今回の経験で味わった辛いことも、今はそれをバネにしてゆけると思う。
私は外国人であり、震災を体験した大勢のうちの一人でもある。人の思いや記憶は月日がたつにつれて自然と薄れていったりする。
しかし私はポジティブにこの先も自分を信じて、大切に青春、人生を過ごしていきたい。

別れ――あれから三年
川畑 守(五十一歳 警備員 神戸市中央区)

 暗い台所の電気のスイッチを入れた。地震後、誰もいなくなった我家のテーブルの椅子に座った。
一日の仕事を終えホッとして煙草を一本くわえて、ふとテーブルの上を見ると、一枚のブルーの枠の用紙が広がっていた。
「バツ二」の私には見覚えのある用紙だ。紛れもなく離婚届だった。
 「なんでやねん。ブルータスお前もか」という心境だった。
地震後、実家に帰っている妻にすぐに電話をして怒鳴ろうかと思ったがためらった。その用紙をよく見てやめた。離婚届は私の署名と捺印を済ませて役所へ出すと成立するだけになっていた。

 地震後、酒を以前より多く飲むようになった。ビールから、よりアルコール度数の高い焼酎に替えた。
経済的に一番安くつくし、酔いが早く来るからだった。本当はビールと酒が好みだったが贅沢はできない。毎日、焼酎をストレートで二合ほど飲んだ。

 妻に『アルコール依存症〇〇』のパンフレットを渡されたこともあった。
しかし、飲んで暴れたり暴力を振るったりする酒ではなかった。ただ、毎日飲み続けた。それで妻は見限ったのだろう。

 五十歳になって転職した。
仕事の内容もさることながら、新しい人間関係の煩わしさに毎日神経を擦り減らした。
今まで一匹狼で商売してきたから余計だった。毎日の心と体の疲れを癒してくれるのは酒しかなかった。

 働く苦しみや別れの辛さを忘れさせてくれるのは酒だった。何も好き好んで飲んでいたのではない。
それが妻の目には酒に溺れていると映ったのだろう。飲んだその時だけでも、頭がボーッとして意識が薄れていく。
もう何もかも忘れてしまいたかった。

 東灘区に住んでいて地震で二階の下敷きになって一瞬の内に亡くなった合気道の友がいる。
その友とは一月十七日の五日後に三宮の新聞会館の正面入口で会う約束をしていた。その新聞会館も今はもう跡形もない。その友の死を思うといつも命のはかなさに涙ぐんでしまう。
「死」とはいったい何なのだ。「家族」とは「夫婦」とは……、次々と深く深く考え込むようになった。

 そんな自分の心の底は誰も知らない。身内はもとより、周囲の友も知る由もない。
ただ「ガンバッテ」の言葉のみを繰り返してくれた。

 「死」も「離婚」も別れることだ。
「死」は、この世から永遠に消え去ることだ。しかし「離婚」はこの世から消えず自分の前から去ることだ。

 人生は別れだ。別れの連続だ。
人は生まれて、生きて、そして死んでゆく。死ぬ時は必ず来る。生まれたものは必ず死ぬ。「いつまでもあると思うな親と金」より、「いつまでもあると思うなこの命」だ。「人間死んだら終りや。生きとう(ている)うちが花や」。
別れの中に真実を見た。

 自然の流れに逆らってもどうしようもない。
天命か運命か、もうどうしようもないものはどうしようもなく、なるようになるしかないのだ。
人間の微力をして運命に逆らってもしかたない。

 何ものにも執着せず、何ものにもとらわれずに水のようにさらさらと生きようと思った。
 地震後、アルコール中毒と判断したのか、旧友のほとんどが去っていった。
三十年来の親友までも自分を見捨てていった。地震は彼らをまるでリトマス試験紙のように判定してくれた。

 空しく淋しく悲しかった。それでも地震がいろいろな姿を浮きぼりにして見せてくれた。
もし地震に遭わなかったら、表面だけの繕った偽の人間関係に騙され、おめでたい人として生きていただろう。

 自分はひとりになって強くなった。誰もいなくなっても自分がいるではないか。自分を信じよう。
自分を信じるのだと思った。

 毎日酒を飲もうが、ちゃんと毎日、朝から晩まで雨にも負けず風にも負けずに働いているではないか。
飲んだくれてクダを巻いてゴロゴロなんて一日もしたことがなかったし、出来なかった。

 だから自分は地震で自信がついた。自分の力を信じられるようになった。
ひとりになっても己の信じた道を行くのだと、ますます確信した。

 人は所詮、ひとりで生まれひとりで死んで行く。
父母、妻、友人を道連れにはできない。ひとり暮しも三年がきた。

ハイヒール
川田 こずえ(二十四歳 看護婦 神戸市中央区)

 あの日、私は「二度とハイヒールを履く日は来ない」と思った。
 四年前、私は神戸の素敵な町にあこがれて九州の田舎から出てきた。
おしゃれな神戸の町をブランド物のスーツをビシッと着て、少し高めのヒールを履いて通勤するのが夢だった。
そんな思いから、職場には制服があり、友人はジーンズなどラフな格好で通勤しているのに、一人スーツを着て通勤していた。

 私は地震のあと、少し落ち着いてから、それまで履いていたヒールのある靴をすべて物置の隅にしまい込んだ。
 あの地震がなかったら、今の私はいないと思う。そして「地震がなかったら今頃どんなに良かっただろうか」という気持ちと、「地震があったからこそ今の自分があるのだ」という二つの気持ちが微妙に入り組んでいる。

 私は地震のあとすぐ、当時つきあっていた彼と別れた。一方的に別れを告げられたのだ。
彼は少し離れた所に住んでおり被害が少なく地震を共有できなかった。悲しかった。
普通の状態でないときに、さらに追い詰められるような別れに、私は彼を恨んだ。それでも好きだったから彼を許した。毎日泣いて過ごした。夜も眠れなかった。
彼がいるから、地震後の過酷な仕事も頑張れると思っていた矢先だった。すべてを失った気がした。

 「こんなだったら、地震のときに死んでしまったほうがよかった」とこぼしたとき、郷里の母が泣いて私のことを厳しく叱ってくれた。私は言ってはいけない一言を言ってしまった、と深く反省した。

 私よりも苦しい思いをしている被害者の方が大勢いるのに、私は何て甘ったれたことを言っていたのだろうと思った。
もう無我夢中で何も考えないように仕事だけに集中しようとした。休日にはボランティアに参加したり、本を読んだり、出来るだけ考える暇のないよう、自分にゆとりを与えないようにした。

 一年が過ぎても私は、彼のことが忘れられなかった。それは、地震がなかったら今頃彼と幸せになっていたはずなのに、という気持ちがあったからだ。彼との別れを地震のせいにしていた。そうしないとやるせなかった。

 一年半を過ぎた頃、趣味のサークルで今の彼と知りあった。
地震は共有できなかったが、彼は大切な友人を亡くしていた。私が話す地震の話を涙を浮かべながら真剣に聞いてくれた。彼はいろいろなことを教えてくれた。彼といると自分の心が安らぐのが分かった。

 私はやっと気が付いた。スーツにヒールの私は、一生懸命背伸びをしていたんだということに……。
今の私は、Tシャツにジーンズの毎日。でも心はいつもビシッとしている。
神戸もかつて「株式会社神戸市」と呼ばれ、神戸ブランドを誇っていたが、今は無名。でも以前よりずっと温かいと思う。

 私は背伸びをするのをやめた。肩の力が抜けるのが分かった。
私はやっと、前の彼との別れを私自身の問題として受け入れた。地震がなくても私たちはダメになっていた。

 私は十二月に二度と履くことはないと思っていたハイヒールを、白いウエディングドレスで履くことになった。
二年半近くの思いがグルグルと頭のなかを巡り涙が出てきた。でもそれは、あの日流した悲しい涙ではなく、頑張ってきてよかったという涙だ。

 久し振りのヒールにふらつくかもしれない。でもきっと大丈夫だと思う。
もう背伸びをしてではなく、彼の手に支えられて、幸せの一歩を踏み出すのだから。

あじさし
桑井 房子(七十三歳 神戸市東灘区)

 今でも、あの地面の激しい動き、この大地の震えを思い出します。
 太陽のように輝いていた娘は、あの日天国への道をかけ昇っていってしまいました。

 クラシックギターを弾き、演歌を歌ったテープを聴くことが辛いのに、また心の落ち着く頃にテープを聴きたくなるのはどうしてでしょう。あの子の歌を聴くたびに、流れる涙をどうにも出来ません。

 あの六千余名の人々の無念の叫びが聞こえてきます。なにものにも代えがたい人の命の尊さを寂しさとともに痛感致しております。
あの残酷で悲惨な地獄の苦しみは、これで終ってほしいと願っております。

 ゴーストタウンのような、この惨状の中からも樹木は生きて緑を取り戻し、新しい若葉を育て花も咲き出しました。
 あの大激震の惨状からは想像も着かない平穏さが、また戻ってきております。

 毎年三月下旬には、庭の椿の木にウグイス(春告鳥)が飛来し、「ホーホケキョ。ケキョケキョ」と鳴く声に「ああ春が来た」と心が躍り、毎年同じ言葉が口に出ます。
 「めぐ。今朝、ウグイスが来たんよ」
 もうその言葉を聞いてくれる娘はいないのです。鳥、セミ、蝶と小さな生き物たちの訪れに喜びを感じた会話も出来ないのです。

 今夏のセミの激しく鳴く声が三、四日しか聞こえませんでした。
例年に比べてセミの死骸が多く落ちていたのはなぜなのでしょう。
地震後、近くの石屋川の水量が少なくなったのは水脈がどこかへ移動したのではないかと、不安に思えるのです。地面が動き割れ壊れて、この川の水はどこへ漏れ流れているのでしょう。

 犬の散歩に近くの公園に出かけます。
犬の友達に会える喜びと、鳩の群れが私の来るのを待っていてくれるからです。パンを刻み大きな袋に入れて、いそいそと出掛けます。
電線に止まっていた見張り役の一羽が大きく羽ばたきながら舞い降りて来ると、それを合図のように、あちこちから次々と集まってくるのです。多い日は七十羽ほども群れになって急降下してきます。

 平成八年春には初めて珍しい野鳥も来るようになりました。胴体が濃灰色で顔の半分と腰の一部が白くオレンジ色の細い足なのです。世界の野鳥図鑑でこの鳥の学名が「あじさし」(オーストラリア原産)と分かり嬉しくなりました。オーストラリアから飛んできたのでしょうか。

 公園に行くたびにこの「あじさし」の子供たちが増えていて、ほほえましい姿を見るのが楽しみのひとつです。
ベンチに座り静かにこの小さな生き物たちが、おいしそうに餌をついばむ姿を見られることが平和で幸福に思われ、心の安らぎを覚えるのです。

 大好きな神戸に住み、大震災で娘を失いましたが、私はやはり愛する神戸を終焉の地にしたいと願っております。

歩みつづける
北川 京子(五十七歳 ヘルパー 神戸市中央区)

 どんなに日が過ぎ、年月が流れ、世間が変わろうとも、被災時の傷跡は、消えてしまうものではない。
 あと三カ月ほどで、あの大震災から四年目を迎えようとしている。しかし私は、未だに敷布団の上で一度も寝起きしたことはない。畳の上で何時のまにか、夜明けを迎える習慣になってしまっている。
布団の上で手足をのびのびさせて寝てしまうと、寝入ったままで再び、もしあの恐怖の時を迎えたら、と危惧するからです。
何時この先、人並みに、布団の上に身を委ねられる、休息の日が訪れるのだろうか。そんな安眠の日は未だにやってきていない。

 平成八年暮、高齢者である仮設住まいの叔母の主人が、急に具合が悪くなった。救急車が来ても、自力で乗った。叔母に戸締まりを確かめさせたりした。
だが直後、市民病院に行く途中、あっという間に、こと切れてしまった。当時の叔母は、人から支えられずには歩行が困難だった。

 平成七年、仮設入所前後から、叔母は災難続きだった。
直後全壊のアパートから命懸けで脱出して、西灘小学校に避難した。その折、足を捻挫し、おむつの世話になっていた。
私は国体道路の我が家から、叔母夫婦の所へ毎日通った。
着替えを取り替えると、鼻を刺すような臭いがした。
叔母の主人が身体中、痒い痒い病になったりして、薬を頼まれたりした。私はこの夫婦の手足となって、希望にそえるように努力を惜しまなかった。そして四月初め、やっとポートアイランドの仮設に入所できた。

 一息つく間もなく、叔母は横断歩道で転んで、肩と足を傷めてしまった。トイレに行くにも人手を必要とする身となった。翌八年夏は、両目を手術した。
災難続きで、辛さに耐えかね自殺場所を探し廻ったと話してくれた。
その上、ひどい難聴のため困っていたので、補聴器を購入したけど、ずっと頭痛がして、未だに人並みには聞こえない。
毎日の彼女との会話中は、私の声だけが次第に高くなってしまう。
叔母の主人が亡くなって、一人になった今年からは、またまた私の出番が多くなってしまった。
今年一月、仮設のクリニックの先生に呼ばれた。そして、市民病院でいろいろ検査をしたら、膵臓に袋がみえるそうだ。年が年なので、もうこれ以上の事は望めない。

 今年も一日一日と、駆け足で時がすぎていく気がする。
去年の暮れより、一日も欠かさず、電話をしたり訪問したりしている。
そして、内科整形の通院介助や、夫の死に伴う、年金の手続きも大変だった。叔母夫婦は籍が別々だったからだ。
役所の方が、「内縁の妻ですね」と言われた。別姓の夫婦だったら、どうしてこんな嫌な思いをしなければならないのか。
事実を話して、手続きが大変なのと、時間がとられることを叔母に話した。五体が不自由なだけに、叔母はひどく憤慨し、嘆いていた。

 今年三月には、それらと並行して、嫁いで五年目の私の長女が、切迫流産のため、入院した。長期だった。
私は叔母の通院介助および生活全般の世話、長女の病院先へ通うこと、そして自分の生活と、老人介助の活動と、身を刻むような日々が続いた。負けられないんだと、自分に言い聞かせる毎日だ。

 その上、気分の悪いことがある。震災以前はなかったのに、震災後からずっと続いていた無言電話だ。
いろいろ考えたりしたけどいい案はなかった。末娘は我が家を出て行った。ちょうど自立していくいい機会であるとも思ったりして、そっと連絡を取り合った。

 ところが、今年十月十五日夜、突然、無言電話が口を開いた。
何としたことか、相手は震災後離婚した元の主人だった。怒りの言葉さえなかった。
一向に挑発に乗らなかった私に、業を煮やしてしゃべり出したようだ。
 しかし私は、一言も言葉を返さなかった。今後もそのつもりだ。

 私のお年寄り介護の活動も、日々いろんなことが起こっている。突然亡くなられる方もあり、入院される方も多々ある。
今頃は、身を病むだけに限らず、心も病む方達も増えてきている。そんな心の奥を、どのように誰が見てあげられ、いい方向への手助けをしてあげられるのだろうか。

 家に帰り、ふと気が付けば、自らも、心身を病んでいるのかもしれないと、そんな気がする。
この世には、だれもが通らなければならない自分だけの道があると思う。自分も知らない未来への道がある。
前途多難の毎日だけど、明日に向かって、微力ながらも進む以外に道はない。細やかな道を歩み続けるのだ。
たとえ明日の日倒れようとも。悔いを残さないように。

復職
木村 修司(四十三歳 小学校教諭 西宮市)

 大地震から、ちょうど一年がたったときに、それは全く突然にやって来た
 不眠、イライラが毎日続き、その原因が分からないまま、市販の睡眠薬や精神安定剤を飲んで、何とか毎日を過ごしていた。そんなときに、それはやって来たのだ。

 真夜中に、突然キリで刺されるような痛みが胸に走った。そして、次には呼吸ができなくなってしまった。
助けを呼ぶ声どころか、うめき声も出ず、このまま死んでしまうのかと、もうろうとした意識のなかで、それでもまだ生きたいという思いが強かったのか、四つん這いになりながら、隣室で寝ている妻の方に向かって、いつの間にか進んでいた。

 ようやく隣室にたどり着き、床をこぶしで叩きながら妻に助けを求めた。妻も体の調子が悪くて寝込んでいたのだが、それでも必死で起き上り、胸や背中をおさえてくれた。
そしてしばらくすると、嘘のようにすっと痛みが消えたのである。突然、胸痛が起こり、突然治まるという信じられない夜だった。
しかし、そのために逆に妻の容体が悪化し、激しく咳込む妻の体をマッサージしながら眠れぬ夜を過ごした。

 ようやく朝を迎えて、病院へ直行した。
 診断は「心筋症」であった。心筋梗塞一歩手前の病気ということである。そして、このまま放置すれば、あと五年の命と言われたのだ。
本当だろうかと思いつつも、昨夜の胸痛のことを考えると、そうかもしれぬと自分に言い聞かせながら、職場に戻り、校長に報告した。
その結果、休職となり、「一年半を過ぎても回復しないときは、そのまま退職です」という事務的な言葉に見送られながら、療養生活に入ったのである。

 震災で半壊した家の修理のローンと、ほとんど全額残っている家のローンとの二重ローンは一年半以内に復職できなければ支払えなくなってしまう。
破産し住居も失うという、まるで悪夢のような、それでいて現実的な恐怖感を伴う感覚が絶え間なく現われるようになったのは、休職一カ月余りがたった頃である。

 家の近くの小学校では、運動会の練習が始まっていた。その練習風景を見たり、流れてくる曲を聞いたりするうちに、いてもたってもいられなくなり、いつの間にか飲酒が毎日の習慣となってしまった。

 医者からの指示通りに服用しているのにもかかわらず、やがて不眠、イライラ、胸痛が始まった。そして、強い孤独感におそわれ、ますます辛い毎日になってしまったのである。

 そうした状態を、循環器科の専門医である主治医に相談しても「とにかく眠るように」とのことで、今までの薬に睡眠薬が加わっただけであった。
しかしどんな睡眠薬を飲んでも一時的な解決だけで、イライラや胸痛は、そのまま続いた。いやむしろ症状は悪化し始めたのである。

 体のけだるさと、生への失望感が広がり、どう生きるかを考えるよりも、どのように、いつ死のうかと破滅指向に自分自身が傾き始めたのである。

 保険証書を口実を設けて妻に渡し、部屋や衣類の整理をすることが日課となった。
何しろ、一日中家にいるので、どんどん整理がはかどり、やがて娘の部屋まで片付け始める。小学校一年生になったばかりの娘の荷物はまだほとんど幼稚園時代のもので、自分にとっても、とても懐かしく涙を拭きながら荷物を整理していった。

 そうした毎日を送っていたある日、妻が一枚の新聞の切り抜きを持ってきてくれた。
それには兵庫県が出す震災関連の広報が載っており、その中の一つを赤枠で囲んであった。
それは震災により精神的苦痛状態に陥っている人達を対象とした、無料のカウンセリング案内だった。

 自分の症状が心臓疾患によるものでなく、むしろ精神的なものから来ているのではないかと疑ったのは、その記事を読んでからである。

 早速、そのカウンセリングを申し込む。
 何回か通い、カウンセラーに話を聞いてもらっているうちに、段々と自分の精神状態を客観的に把握できるようになってきた。
そして分かったことは、自分のそうした症状の初期の状態は震災二カ月頃から起こっていたということや、その直後の人事異動とそれに伴う通勤条件の悪化から来る疲れが、身体を直撃していたということである。
ようやく自分の精神状態は震災以後、疲れ切ったままであるということも把握できた。

 こうした分析に達したとき、ちょうど神戸市で働く消防士のうち、ほとんどの人が自分と同じ症状であるという新聞記事を読んだ。
そして、その原因が震災時における疲労であるという記事も、自己分析結果と同じ結論であり、その記事を読んでからは逆に生きる希望が湧いてきたのには、自分でも驚いた。

 すべての薬を捨てた。
 自分の体や精神の中では、阪神大震災は根強く続いていることが分かってからは、自分と真正面から向き合う毎日となった。

 死んだ二人の生徒、焼死体の片づけ、家の半壊、仮設校舎の日々と建築工事の騒音、平気でセンターラインを越えてくるオートバイをよけながらの毎日の通勤、工事渋滞、妻の流産など、一つ一つに対して答えを出していった。

 そして平成九年四月、復職した。県立病院での診断でも体のどこにも異常なしとのことで、その診断書によって復職できたのである。

 今、痛切に思うことは、やはり心のケアは必要であるということである。
そして、それは正にこれからが本番であるということである。これこそ、どの分野においても忘れてはならない認識であると思うのである。

生きる希望
枇榔 妙子(三十七歳 主婦 芦屋市)

 地震後一年近くたってから、一人の古い知人を訪ねました。すぐ近くに住みながら、もう十五年以上もご無沙汰をしていました。彼女は四十九歳になっていました。

 定時制高校を卒業し、武庫川女子大学の夜間部へも入学するなど、とてもバイタリティーにあふれ、二十歳くらいの私に、人生はどんなに回り道をしても自分が真に願えば道は開かれて行くのだと感じさせてくれた女性でした。

 彼女が住んでいた、阪神香炉園駅近くは、被災の激しい地域で、震災直後に尋ねたときは、跡形もなくなっていました。
気になって、犠牲者名簿を調べましたが名前はなく、もしかすれば震災前に引越ししていたのかもと、思っておりました。

 ところがある日、電話帳で彼女の名前を見つけ、思い切って電話をしてみたのです。
 電話の向こうの彼女の声は、深くあえいでいました。息を切らせながら、やっとの事で体を起こしたらしく、声がくぐもっていました。
「今日はとても体調が悪いのでもう少し良くなったら必ず電話する」とのこと。

 糖尿病、腎臓病を患い、身体が思うように動かず車椅子を使い、一人で仮設住宅に住んでいるとのことでした。
 それから二週間ほどしてから連絡があり尋ねたのでした。

 彼女は、「なぜ自分が生かされているのかわからない」と言います。
 彼女が住んでいた文化住宅は一階が完全に押しつぶされ、グシャっと二階が落ちてきたそうで、六時間も埋もれ、身動きできなかったそうです。喉が乾き、薬も飲めず、透析も受けられず、このまま死んでしまうのではと、何度も感じたそうです。

 彼女の住む仮設住宅は、障害を持つ人ばかりで、いざというとき頼れる隣人がいません。身の回りのことはすべて自分でしなければならず、その後、何度か食事を作ったり、買い物を届けたりと通いました。

 糖尿病のためか、目もよく見えない様子で、落とした薬もどこに行ったか分からない状態で、その二カ月後、敷居につまずいて骨を折ってしまいました。

 ヘルパーの方やボランティアの方も、週に何度か通って来てくれるようですが充分ではないらしく、私の来訪を「神も仏もいてるのだわ」と喜んでくれましたが、私もまた、自分自身のことで精一杯で充分してあげられませんでした。

 とても気丈な彼女がポロリと「死んでしまったほうが良かったのではないか」と、こぼしました。
 でも私には何もできません。

 私がこの震災で一番強く思うのは、一番困った状態の人は声をあげられないということです。
そして声が上げられなければ、なかなか手を差し伸べられず、後回しにされているのではないでしょうか。弱い立場の人達が、一番辛い思いをしているのではないでしょうか。

 大震災を潜り抜けてきた、お年寄りや障害者など、社会的な弱者が、「生きていてよかった」と感じられるような対策を早急に望みます。

 震災後、千日が過ぎた今も、彼女は仮設で不自由な生活を強いられています。

暗闇
近田 育美(三十歳 会社員 神戸市垂水区)

 最近私はやっと「阪神大震災は本当にあったんだ」と少し客観的に考えることができるようになりました。
生活が落ち着いてくるのと共に、地震のときの恐怖や苦しみが少しずつですが薄らいできているように思います。
私は震災を忘れ去ろうとしているのではなく、少しずつ新しい生活、自分、社会ができているのだろうと思うのです。

 現在の私は、震災前と同様に毎朝、会社へバタバタと出勤して行くという、ごく普通の生活を送っています。
夕方、会社を終え、帰宅し、洗濯、夕食のしたく、そのほかの用事を済ませ就寝という一日です。何の変化もない平和な日々を送っています。そして、一日が終了し、布団の中に入って寝るのです。

 私は少しでも明かりがあると寝ることができないので、部屋は真っ暗にします。
ところで、以前から私は布団の中に潜って眠る癖があります。寒いときなどは、特にスッポリと頭の上まで布団を被って寝ています。

 しかし、震災以降、そのことがとても怖いのです。
一瞬、「このまま、また、地震が起こってタンスが倒れてきたなら、一体どうなるのだろう」「布団を被ったまま自分が埋もれたなら息は出来るのだろうか」などと、頭の中をいろいろなことが駆け巡るのです。思わず布団の中から、慌てて飛び出してしまうのです。

 地震が起こるまでは、このようなことは一度もありませんでした。
布団の中に入っているととても幸せで、一日の疲れを取るためにゆっくりと眠っていました。
しかし、生活が落ち着き、色々なことを考える余裕ができた頃から、暗闇の中にいる自分に不安を感じるようになりました。

 地震で家が全壊したわけでもなく、タンスが倒れてきて下敷きになったわけでもないのに、なぜか地震のときのことがとても鮮明に頭の中に蘇ってくるのです。
確かに今までに体験したことのない大きな地震でした。でも被災した人々の中では、私は本当に恵まれているほうなのです。

 しかし暗闇の中にいると、恐怖を感じ始めます。
幼い子供でもなく、一人の社会人として生活している自分自身を考えると、暗闇が怖いとは周囲に向かって恥ずかしくて言うことができません。
しかし、心と頭の奥の方で「暗闇」が大きく引っ掛かっています。地震直後はこのようなことを考える余裕すらありませんでした。これも月日が流れている証拠なのかもしれません。

 これから何年も過ぎ、「阪神大震災」のことを冷静に話すことができるようになったときが、本当の思い出に変わった瞬間だと思います。
「暗闇」の恐怖を、そんなこともあったと思えるときがやって来たなら、震災のことが思い出に変わっているのかもしれません。
幸せな思い出も苦しい思い出も認めることができたなら、少しは自分自身を成長させられるのではないかと考えています。

ひとりでふたり
安藤 衣子(五十三歳 パート勤務 明石市貴崎)

 刻々と、時が刻まれていきます。私の心と身体が、別々に動いています。未来に進んで行こうとしている身体と、過去に舞い戻ろうとしている心を、どうすることもできないとき、あの世の主人を思い出します。そして死の重さを感じます。

 いつまでたっても、忘れることのできない、私の心を憎く思うことがあります。
主人の死を受け入れているつもりなのですが、ことあるごとに記憶がよみがえり、私の心が過去に戻ります。
楽しかったことばかりが思い出され、どんなにか悔しいかと思う半面、二人だけの世界を作りだしているのではないかと不安を感じます。
もし二人の世界ができあがるものなら、それでも良いと思います。

 主人とともに一生懸命脇目もふらず三十一年間歩んできた人生が、数秒間で中断してしまいました。私の人生も終わったと思いました。身体から力が抜けていくのを感じました。
自分の人生がなくなってしまうことは、死を意味することだと思います。
生きながらにして、死んでいる自分を、遠くから見ている自分がいるのです。このふたつの身体がひとつに重なる努力を、時間をかけていかねばと思っています。

 充実した生活が成り立たなくなった日から、二年九カ月がたちます。行ったり来たりしながら、行動しつつあります。
自転車に乗れなかった、恐くて……。宙を飛んで、そのまま遠くに走って行ってしまうのではないかと感じました。やっと地面を走らせる自転車に乗れる今日この頃です。

 こうして時の流れにひとつ、ひとつ、まるで壊れた物を埋め込んでいくごとく、自信が戻ることを身をもって感じます。
しかしまだ、まだ元の身体に戻るまでには時間がかかりそうです。
かけがえのない人や物を、自分の意志以外でなくしてしまいましたが、心に大きな穴があいたのか、欲がなくなってしまいました。物が欲しくないのです。自分の心を映す目に輝きと力がよみがえりません。虚ろな目に疲労を感じます。

 九月に神戸市から仮換地指定を受けました。常磐町に所有地と借地、そして千歳町に所有地がありました。
千歳町三丁目に、六メートル道路に面して三筆の土地をいただきましたが、夢も希望も持てません。
まず主人のことが、私の心から少しでも整理できるまで、家の再建は進むことがないと思います。

 なにができるのか? なにをすれば良いのか? なにも見えず、考えることができません。
自分の人生の目標をなくして立直れない人間が、家の再建問題をかかえるなんておかしいですね。多額のお金と、たいへんな労力がいります。
こんなとき、主人が生きていてくれたらと思います。今はひとりでふたりの心が芽生え、ひとりの生活に慣れ始めました。

 夢にでてきた主人が「わしは、衣子を幸せにしてやれない、身体がないから……」と悲しい一言を告げました。
人は死んだ人のことは、一日も早く忘れなさいと簡単に言いますが、生涯忘れることはできないと思います。

 ひとりでふたり、ふたりでひとり、時間が心を癒してくれることを願い、ぼちぼち歩んで行きたいです。

再び震度7
大堀美重子(五十一歳 自営業 神戸市長田区)

 焼け跡に二階建てのプレハブ住宅を建てた。何とか生活らしき形ができだした。
 震災二年目の三月末のことである。徳島県の親戚の女の子が公立高校を落ちたので、神戸の私立高校へ来たいと泣きながら電話をかけてきた。
 「えっ、全財産を焼いてしまった我が家に?」

 でも、力になってやりたいと思い、その足で近くの中学校に尋ねに走った。
中学の先生は、「神戸市の場合、全員滑り止めの高校を受けているので、書類も置いていない」とのことだった。「神戸市では、私学の後期募集はほとんどあり得ませんよ」と言われ、私は血の気が引く思いだった。

 その日は、祖母も主人も店の手伝いに行かず、あれこれ三人の知恵を出しあって、知人を頼ってやっと一校見つけた。偶然にも祖母の出身校であった。満員電車での通学は大変だから、家から歩いて行ける高校でよかった、よかったと三人で納得した。

 二日後、テストを受けに母娘がやってきた。母親と主人とは「いとこ」である。
いとこの娘は絵里子と言い、私とは初対面だった。身長百六十五センチくらい、体重もしっかりあり圧倒されるぐらい大きな子だ。その夜は学校探しにどんなに苦労したかを話したものだ。

 次の朝、緊張して出て行ったが、帰りは笑顔で帰ってきたので、すぐに合格だったことが分かった。
この日、デコレーションケーキに「合格おめでとう」の文字入りと赤飯で祝った。次は部屋の問題だ。その時は母娘で「おばあちゃんの部屋で一緒でいい」と言った。が、しかし、六畳の部屋に三年間も一緒に居られるはずもなし。「震災前なら空き部屋が四部屋もあったのに……」。
またしても言うてみてもしょうがない愚痴がポロリと出てしまう。それを聞いていた次男が「玄関に部屋を造ったらええのに」と提案してくれ、十畳ある倉庫及び玄関スペースに八畳の部屋を造ることに決定した。

 震災後、大工さんも電気屋さんも大忙しで大変な中、無理を頼んで五日ほどで造ってもらった。じゅうたんを敷き、冷暖房を入れ、立派な部屋に出来上がった。

 入学式の前日から、絵里子は家族になった。母娘共にこれといった改まった挨拶もなく、自然に溶け込んだ。夕食時は皆が揃う。長男は絵里子にあれこれ逆らいワーワーキャーキャー言い合っている。
彼女はよくしゃべり、明るく活発で天真爛漫である。無口の次男は、そんな様子を楽しそうに見ている。
彼も誰もいないときは、結構話をするそうである。兄弟共に絵里子に気配りしている様子がうかがえた。

 ある日、絵里子に「梨でもむいたら」を声をかけると、「ようむかん」と言う。
ブラウスのアイロンかけも、「自分でしたことがないので時間がかかるから」と断られた。
いつだったか、出先から電話で、雨が降りそうだから洗濯物を取り込んでほしいと頼んだら、洗濯物は入れてくれていたが、玄関マットや靴などはそのままで笑ってしまった。

 親は何でも用事をさせてほしいと言っているが、娘はまったくその気はないようだ。
この一年半の毎日の生活を見て、私が祖母に「いつになったら、お弁当箱におかずを詰めたり、ブラウスにアイロンかけができるようになるだろう」と言ったとたん、「ええやないの。もうちょっとなんやから」と厳しく、重苦しい返事が返ってきた。

 「えっ」。何を考えているのだろう。
私は一度に怒りに燃えた。本人にとっても大事な時期に預かっているのに、少しは躾も必要だと思うのに。今頃の子は何もしないし、しなくても良いのだろうか。複雑な気持ちでいっぱい。腹の虫を鎮めるのに何日もかかった。

 長男は「人の家に居るだけでもかわいそうなんだから何も言うな」と言うし、次男は「ええやないか」と言う。
絵里子が学校休みに徳島に帰ってしまうと、「静かやな。寂しいな」と食事が終わるとサッサと部屋に行ってしまう。

 あの娘が来てから、わがままで気むずかし屋の長男もずいぶん変わってきたように思う。我が家にとって、適度な潤滑油の役目をしてくれているんだな。我が家の太陽かもしれない。

 人の世話のむずかしさをつくづく感じています。もう少しだ。がんばります。

真の豊かさを求めて
守田 基師子(五十四歳 話し方教室主宰 神戸市須磨区)

 震災から二年九カ月、世間では震災の二文字が忘れられ、消し去られようとしている。
むしろその言葉を聞くことさえ拒否している感もある。
それぞれの苦しみ、痛みの中を懸命に生きてきた被災者と一般社会との意識の隔たりは、開く一方で、心の中に言い表わし難い空しさだけが強く残る。

 この間の生活を振り返ると、十年も二十年も、いやもっと長い年月を、一気に生きてきたようにただただ重い。
その瞬間の恐怖は言葉にならず、ショックの大きさのためか今でもいくつかの記憶が消え失せてしまっている。
病身の娘と身近な人を守るという本能に後押しをされ、必死に生きてきた。経済的にもかなりのものを失った。
迷い苦しむ中、知人の申し出で住まいだけは得ることができた。生活を察し、二年三カ月もの間、家賃はゼロだった。人の情がいやというほど身にしみた。

 前回の記録でも書き留めた娘の病状は、なかなか快方に向かわず、現在も入院中である。少しずつ時間をかける必要があると理解しつつも親としての苦悩は続く。

 心の病で治療中の娘のプライバシーもあり、詳細を書き留めることを避ける。
だが、娘の苦しみと救い難い病状に家族全員が生きる力を失い、それぞれが死を思い続けた日があった。
入院治療に付き添ううちに、多くの患者さんと接する機会を得た。それぞれが苦しみもがいておられる姿を目の当たりにして、私達の日常が何と甘くいいかげんであったのかと気付いた。

 最近になってやっと行政に対して娘の病状を訴え、障害者としての手続き申請を行ない、結論が出るのを待っている。
自分の置かれた立場に納得がいかず悩む時期もあったが、今当事者としてやらなければならないことが自然に見えてきた。弱い立場の人を守るには、誰かが勇気を出して人として当り前の権利を要求しないと、それを守ることはできない。
それどころか、社会の片隅に押しやり、差別とも言うべき多くの現象を生み出している。

 自分の進む道が少しずつ鮮明になりつつある。
そして形ある豊かさを求めていた時と全く違う不思議な安らぎが得られている。決して豊かな生活であったわけではないが、こうしてさまざまなものをなくしてしまった今、守る必要がなくなった結果なのか、人として必要なものと、そうでないものがより鮮明に見えるようになった。
真の豊かさを得るために何をしなければならないのか、と自分に問いかけ、女性と政治をつなぐ会、リプルを四人の仲間と共に結成した。
活動を始めてまだ一年半のグループであるが、社会問題をまじめにとらえ、取組んでいる。

 そんな中で神戸市長選挙があった。
 投票率は四五・〇四%だった。世間ではその数字にやや満足している様子だ。
しかし、二十歳から一度も棄権していない私にとっては全く信じられない数字である。
震災という大きな悲劇の中で、「自分たちの市政を自分で守ろう」と投票所に足を運んだ人がなんと二人に一人しかいなかったのだ。
結果もさることながら、この現実の方が恐ろしい気がする。文句は言っても自分の責任を果たさない人がいるかぎり、政治が変わることは決してない。その結果は笹山候補の四万五千票差での勝利。
ある人の分析によれば、笹山陣営の二十七万票には、神戸市労連の三万票が含まれているという。

 しかし、宮城県知事選挙の結果を聞いて無党派層の意識の変革が明確に示され、何かが変わりつつあることを感じた。
市民派の確かな台頭を感じたのは私だけではないであろう。この延長線上に必ず何かがあることは確かである。

 十一月に私達は「今、私達にできること」のタイトルでイベントを開いた。パネリストは衆議院議員・辻元清美氏、元逗子市長で島根大学教授・富野暉一郎氏のお二人。
政治に民意を大きく反映させるために今なにができるのかを熱っぽく語り合った。結論は一致した。
お二人が異口同音におっしゃったことは「人に何かを望むのではなく、今すぐ自分で何かを始めること」。お二人とも求めるのではなく、自らが衆議院議員として、市長として立候補するという行動で大きく示されている。まさにその通り。誰かでなく自分の問題である。

 自分へ問いかけ、神戸空港問題に納得できない私は、まず知ることが大切との思いで、市役所へ出向いた。
空港関係のニュースのすべてとパンフレットなどの資料を受け取りに行った。
何に使うのかを繰り返し聞かれたが、私の答えは「市民として神戸市の大きな事業の説明をできないのは恥ずかしいので、それを知りたいだけです」と答えた。

 その事業の内容は、
 空港管理者は神戸市
 空港開港予定日が平成十六年
 総工費は三千百億円(その内国の補助が五百億円)。必要な費用は空港島を造成する目的で起債により資金調達し、造成した土地を空港関連の事業者などに処分し、起債の償還を行なうとある。

 この事実を神戸市民の何人が知っているのであろうか。
 記載されている事実を見て知らないことの恐ろしさを改めて痛感した。もし、土地売却がうまくいかない時や、空港の運営が赤字を生じた場合、管理者の神戸市がその費用を充当する仕組になっている。

 空港を必要と思っていない市民がその費用を支払わされる事実は目に見えている。
より多くの市民にこの事実を伝え、最後まで諦めずに空港事業の中止を求める活動を展開していきたい。その一つとして住民投票の実現を真剣に考え、取組みたいと切に思っている。

 新しく神戸市民として生活のスタートを切った今、生活の重みと精神的な重みを感じている。
辛くとも、苦しくとも、それを振り払うために自分が今日から何かを始めること以外に解決の方法はない。
そしてその決断の中で妙な安らぎを覚え、苦しみも迷いも消え失せている。失う物がない者の強みでもあろうか。貧しさに近付くと人としての生き方が見えてくる。

 小さくても古くても我家に住めたことにただただ、感謝している。多くの人に支えていただいたことを一生忘れず、弱い立場に苦しんでいる人の代わりに少しでもなれたら、と思い続けて今日も行動をしていきたいと思う。被災者に真の幸せが訪れることを願ってやまない。

二人の孫へ
岡本 博子(六十一歳 神戸市東灘区)

 木犀の薫りが澄みきった青空にとけ込んで行くようです。そちらにも届きましたか。二人とも元気ですか。久しぶりにお手紙を書いてみました。

 今日は小学校の運動会です。新しい体育館が完成し、裕寛君も六年生になり最後の徒競走に日焼けした顔で誇らしげに張り切っている姿を想像しています。彩ちゃんは二年生、すらりとした足も伸びてきてどことなくお姉さんになった感じ、はにかみながら踊っていることでしょう。

 夏休みに来てくれたお友達を見て驚きました。広くしっかりした肩幅、太く低い声、あれからもう千日ぐらい会っていないものね。何から話してよいかわかりません。驚くようなビッグニュースばかりです。更地に家が次々と建ち始め、遠くから来た人は目印がなく方向がわからず困ったそうです。

 瓦の屋根も塀もなく、モデルハウスの展示場みたいとかセキスイ村などと言われ、そこに住む人達も変わりました。もしかしたら新しいお友達ができたかもしれません。お祭りも復活し、春、秋と二度もダンジリがすぐ近くで見られるようになり、思わず、窓をいっぱいに開け二人の写真をそこに立てました。
彩ちゃんがまだ小さかったころお母さんと行列に参加しておにぎりをいただいて大喜びしたことを思い出します。

 でも何と言っても一番のニュースは、森公園の東にJRの駅「甲南山手」が昨年の十月に新設されたことでしょう。
コンビニもでき二人ともアイスクリーム、ジュースと楽しみに出入りしたことでしょうね。一度皆でこの駅から動物園にでも行きたかったね。
家から三分のところだもの、とても便利になりました。

 でももちろん良いことばかりではありません。駅のために区画整理事業の話が持ち上がったと言う人もいます。今では意見の相違から人間関係もこわされ気まずい日々を送っている人もいます。

 ようやく家族全員揃って生活し始めました。以前の家に比べてとても狭くコンパクトな建物です。
あなたたちがいたら無理をしてもう一つ勉強部屋を作ったと思います。残り少ない作品の中から小さな絵を飾り、裕君はこの場所、彩ちゃんはここと、皆でテレビに近い場所を指さし、涙声になってしまいました。

 仏壇もおさまり、毎日好きだったパンも沢山お供えできるようになりました。
でもいくらお供えしても少しも食べてくれず、ただ写真がほほえんでいるだけ。一体何をしてあげたら喜んでくれるのかしらと悩みました。

 それは震災直後から思い続けていたことです。遠くは京都の端まで、おじいちゃんと探し尋ねて歩き、ちょうどお彼岸の中日にお内仏にお地蔵様をお迎えすることができました。
この世からあなたたちの所へ無事に旅立てるよう道案内をしてくださるそうです。

 寂しくなったり困ったことが起きたりしたときは、お父さんお母さんの代わりに相談に乗ってくださると思います。
たんなる自己満足と言われそうですけど、それを信じて毎日お願いしています。宇宙は円く続いていて道一つで区切られているだけだとも聞きました。
いつでもあなたたちに会えるのだと自分をなぐさめています。今度会ったときはいっぱい遊んでホットケーキにバターとシロップ沢山つけようね。

 お父さんお母さんは相変わらず忙しく、まだ更地のままの庭と塀の修復のことで頭を痛めています。
図面と向かい合ってときには、食事も忘れるほど机に座ったままです。何十年もかけて築き上げた努力と建物、それに生きるための心の支えであったあなたたち二人までも失った今、また一から一歩ずつ出発しなければなりません。

 あの地震さえなかったら、今ごろは親子四人で秋の野山にリュックを背負ってどんなに楽しかっただろうと、八年間と四年間の大切な思い出が走馬灯のように頭を駆けめぐり、無念さと申し訳なさとで涙が止まらず、体が震えてきます。

 最後にお願いがあるの。お父さんお母さんに今までと同じようにパワーとエネルギーを送り続けてあげてください。
いつの日か、「生きていて良かった」と思わせてあげたいのです。
人の悲しみ人の親切を理解しあえる人になり、前向きに歩いて欲しいのです。

 夕日が西の空にかげりはじめました。コンテナの屋根まで登った朝顔がまだブルーの色のままで一杯花をつけています。
可愛い向日葵、塀代わりの秋桜、みな元気よく一緒に咲きそろっています。壁とフスマだった所なのです。

 裕君、寒くなるからジュースを飲み過ぎておなかこわさないようにね。少し勉強もしなくてはね。
 彩ちゃん、風邪ですぐ鼻をつまらせ寝苦しくなるから気をつけてね。

 おじいちゃんとおばあちゃんは、もう少しこちらで手伝うからね。愛子おばあちゃん、お友達にもよろしく伝えてね。今日はこれくらいにしておきます。ふと気がつくと足元を晩秋の風が流れて去って行きました。

尾張の国から
西田 公夫(七十二歳 りんりん愛知代表 愛知県)

 未曾有といわれた激震にすべてを奪われ、身一つで助け出された私は避難所生活で体調を崩し、頼みの仮設住宅も抽選にことごとく外れ、断腸の思いで神戸を後にしました。

 慣れぬ土地で話相手もなく、先行きの指針も定まらぬまま無為に日を送らねばならぬことは、想像以上に辛いものでした。
生活を再建するために良い方策がないものかと思案していた矢先、当時私が所属していた兵庫県高齢者放送大学の東灘友の会の仲間から、震災の体験記を出版する計画があると知らされ、渡りに船とばかりに原稿を送りました。

 その年の秋、「しん」と名付けられた真新しい文集が届いたので、その中の一冊を中日新聞社に寄贈したところ、その年の暮れに思いもかけずに、そのことが記事になって大きく紙上に載っているのを目にし、驚きました。

 その数日後、名古屋市緑区の社会教育センターから「新聞で見た」と言って、そこで催されるフォーラムに参加して、震災の体験を話してほしいとの依頼があり再び驚きました。

 当日は、途中で口が乾き舌がもつれて言葉が出ないというハプニングもありましたが、何とか好評を頂くことができました。
その後、その時のコーディネーターとして同席された方の知遇を得、その人の紹介で「震災から学ぶボランティアネットの会」に入会し、そこの会報に私の体験記などが連載されるようになり、また要請があれば体験を語りに出かけるなど、震災の「語り部」的な存在として今日に至っております。

 「ネットの会」に入ったお蔭で、今なお多くの人が被災地への支援活動を続けておられることを知り、深い感銘を受けました。

 震災時、事情があって県外へ避難された方は、十数万とも言われましたが、今もってその詳細は把握されていません。

 当初から行政の県外被災者への対応ぶりは、作家の小田実氏が「棄民政策」と酷評しておられるとおりです。兵庫県内に住む被災者には充分とは言えないまでも何らかの支援策が構じられましたが、同じ被災者でありながら私たちへは、県外へ出たというだけでその援助策は一切適用されませんでした。

 極端な情報不足のために、貴重な義捐金を貰い損ねた人がいたとも聞いております。
 当時流れてくる風聞は、被災者が差別を受けたというような悪いものばかりで、例えば「被災者のくせに」などと理不尽な言葉を浴びせられたとも聞きました。
しかし真相を確かめる術もなく、いら立ちはつのるばかりでした。

 私は事あるごとに「県外被災者の実態調査と組織づくり」を訴えてきましたが、震災の風化が確実に進む世間の反応は冷たく、個人の力の限界を知り、挫折感を味わいました。
しかし、幸いなことにその頃、県外被災者の実情を知った人達がその支援に立ち上り、大阪を起点に組織づくりの輪が、全国に広がりつつありました。

 愛知県でも「ネットの会」がいち早く気付き、支援活動に乗り出しました。
肝心な名簿作りの段になって、プライバシーを理由に県外被災者の住所の公開を拒否するという、行政側の頑迷な態度に、その運動が頓挫しかけましたが、若いボランティア達の粘り強く献身的な努力によって、三年目の春に「りんりん愛知」と命名されて被災者の会が誕生しました。

 最初の茶話会への参加者は、七世帯十名といういささか寂しいものでした。
しかし目に涙を浮かべ手を取り合わんばかりにして、夢中になって関西弁で話される姿をみて、
 「数やない。集まることに意義があるねん」と心底から思わずにはいられませんでした。

 被災者たちがまず口にされた言葉は一様に、「土地に馴染めず話相手ができない。それに関西弁で話がしたい」でした。

 十人十色で、思考も目的も異なる人達の集まりですから、ときには感情のもつれからアツレキが生じたこともありました。
しかし、未だに支援者がなく、また被災者の所在が分からないために組織づくりが遅れているところに較べれば、多くの人の力強い支援を受けることができる「りんりん愛知」は恵まれているといえるでしょう。

 その「りんりん愛知」も今では、連絡先は五十に余り、茶話会への参加者も常時二十人を数えるほどに成長しました。

 被災者各自の希望がかなえられ、「りんりん愛知」が自然消滅できる日が、果たしてくるのでしょうか。

命を守るために
井上 真由美(十六歳 高校生 神戸市垂水区)

 寒い北風が吹くようになると、火災に気をつけよう、と家族で話し合う。
そんなとき神戸の震災で起きた火事の類焼がすぐ話題になる。あのとき倒壊した屋根瓦や材木など、すぐ取り除いていたら大勢助かっていたのに、と残念でならない。焼けていく青年を見殺しにする悲痛さは言葉では表現できない。

 火災は神戸だけで淡路島ではなかったと思っていた。しかし淡路島でも火災で焼けたことをずいぶん後になって知った。
その日、ある家のお母さんは朝早く遠くの学校に通う子供のお弁当に、天ぷらを揚げていた。

 その時地面がドカンと揺れた。そのお母さんは、とっさに部屋の外へ飛び出した。
だが、ガスの栓を閉めるのを忘れていたことに気が付いた。そしてまた台所に引き返して入った。台所に入るのと地震の大揺れがきたのとが同時であった。

 ベキベキという音とともに戸が開かなくなった。その上大揺れで油鍋が傾いた、とたんに火が天井に舞い上がった。
お母さんは急いで外に出ようとして入り口の戸を開けようとしたが、ゆがんだままびくともしない。
あわてたそのお母さんは戸をたたいて大声で助けを呼んだ。家族が戸を壊して助けようとしたが、火の廻りが早く台所の中は火の海となってしまった。

 泣き叫ぶお母さん、助けようとするお父さん、とうとうそのお母さんは助けを求めながら亡くなった。
「昔のような台所だったら良かったのに、今の新建材は火の廻りも早いし、ガスも出るから助かりにくい。可哀想なことをした」。
若いお父さんのショツクは大きかった。助け出せなかった後悔の念でいっぱいだったのだ。

 また一方、朝早く作業員の方の食事の用意を本家に続いた別棟になった台所で作っていた若いお母さんがいた。
その時地震が起こった。すぐ母親と一緒に外に飛び出したがコンロの火を消してくるのを忘れたことを思い出し、すぐ引き返して台所の棟へ入ろうとした。
ところが運悪く入り口へ足を一歩入れるのと、別棟が倒れるのと同時であった。しかもガスの栓を閉めようと急いでいたために、体が前屈みであったのか、おそらく直立でなかったのであろう。上から落ちてきた物がドサッと、首筋に当たった、といわれる。

 お二人の話を何人かにお聞きしたが、あまりのむごさにみんな息を飲みこみながら話をされた。
私も何回か息がつまってきた。このお二人はどちらも地震のためとっさに飛び出した。今までの地震と違う揺れであったためにびっくりしたのだと思う。

 私はまだ起きていなかったために最初の揺れを知らない。今までの地震は二、三度揺れてもすぐおさまり私は飛び出したことはない。
だがこの度の地震は、起きていた人はみんな飛び出している。よほど大きく今までと違ったものであったのだ。一度は飛び出した。
だがガスの栓を閉めずに飛び出したために消そうと戻られた。そして亡くなられた。

 地震があった頃、テレビで著名な方の話に、地震で飛び出す前に、まずガスの栓を閉める。そして貴重品袋を持って逃げること、など話されていたが、実際被災地の方々のお話を聞いていると、そんな時間は絶対になかった、といわれる。

 災害は突然にやってくる。予告なしにやってくるため常日頃の災害時心得など、そのまま全部実行できないのが普通だそうだ。私も母が勤めているため食事を作ることがある。ガスの栓はよく閉めること、開け放しはいけないし、忘れたときはすぐ引き返すこと、など何回も聞かされる。

 このお二人は台所へすぐ引き返したために亡くなっている。引き返さなかったら助かっているのにと思うと、ガスの栓はそのままでも良かったのではなかろうか。でもやっぱりガスの栓は閉めなければならない。

 淡路島でも田舎のガスはプロパンガスで、戸別に小さいガスボンベを設置していて、神戸など都市ガスとは違っている。とっさの場合、すぐ飛び出すが消しに引き返すかどうか、私は迷ってしまう。
大人の方々もこのお二人についての意見は一様ではない。だから私は迷ってしまう。

 非常時は特別である。非常時のことを日頃から考えておかなければならないのである。
このお二人は特別であったのかもしれない。またどちらかが助かっていると、また違った考え方が出来るかもしれない。
どちらもその時は飛び出しても、ガスのことを思い出したのはやはり落ち着いていたからである。

 でもやっぱり二人とも無惨な亡くなり方であったことは人の心に食い入る。地震とはむごい傷跡を残した。
私はよくこのことを話し意見をお聞きするが、みんな考え込まれる。命はたった一つだから。

ペットと共に
時本 みどり(三十二歳 学童保育指導員 神戸市東灘区)

 地震から丸二年が過ぎた今年の初め、私たちはやっと地震前の住所に家を再建して戻ることができた。
長いようで、本当にあっという間に過ぎた二年間だった。仮設住宅から戻ってきて、七十二歳になる父は「もう一度犬を飼いたい」と言い出し、とうとう九月の初めに我が家に仔犬がやって来た。

 仮設住宅にいるときにも何度か「犬がいなくて淋しい」と話はしていたのだが、仮設入居時に飼っていたわけではないので今更飼いづらい……と、あきらめていたようだ。
元の住所に戻って、とうとう我慢ができなかったのだろう。
でも、仔犬が来たおかげで父も母も笑うことが増えたように思える。たった一匹の小さな生命が我が家に笑顔を運んできてくれた。

 実は我が家には地震まで犬がいた。十二歳十カ月の雄の大型犬だった。
地震当日、あの激しい揺れのなかで私は愛犬の悲鳴を確かに聞いたのだが、三週間後にやっと掘り出してもらえたときには、既に変わり果てた姿になっていた。

 あの日、母が助け出され、父が助け出された昼過ぎには、まだ生き埋めの人々がたくさんおられた。そこで、「犬を助けてください」ということは私には出来なかった。言える雰囲気ではなかった。
「人も犬も同じ命……」と言ったら、お怒りになる方もおられるだろう。でも、犬でも猫でも飼っている者にとっては「たかがペット」と、簡単に割り切ることのできない「家族」であったり「心の支え」であったりするのだ。

 私の知人にも現在仮設住宅で、犬や猫を飼っている人たちがいる。
仮設住宅を見れば、阪神大震災で被災したのは人間だけではないことがよく分かる。一緒に被災し、避難生活を送り、仮設住宅に暮す動物たちは飼い主である被災者にとっては家族以外の何物でもない。

 平成九年十月現在、第四次の災害復興住宅の募集が行われているが、ペットと一緒に入居できる住宅はどれぐらいあるのだろう。
今まで共に生きてきた「家族」を手放さないと入居できない復興住宅では、「復興住宅」としての意味がない。住宅確保で生活のケアは出来ても、被災者の心のケアを忘れているのではないだろうか。

 もちろん被災者のなかには、小動物の苦手な人たちやアレルギー体質の人が大勢おられるだろう。
そういう人が共同住宅でペットのいる家庭とともに生活するのはつらいことだと思う。「ペット可」の住宅ではなく、せめて今から新築される復興住宅に「ペット共生専用住宅」を造ることは出来ないだろうか。
出来ることなら、今、仮設住宅で一緒に暮している飼い主とペットが離ればなれになることなく、すべてが復興住宅に入居できたら、と心から願わずにはいられない。

 先日、あるテレビ番組で、日本は海外に比べるとペットの地位が低いと言っていた。
原因は飼い主側のモラルの悪さにあるらしい。特に共同住宅で飼う場合、しっかりとシツケをすることはもちろんだが、飼い主もきちんとルールを守り、ほかの人たちに迷惑をかけないように気を付けなければ、ペットを飼う資格はないと思う。
私たち飼い主は、大切な「家族」を守るためにもモラルの向上に努力しなければいけないだろう。そしていつか「新生神戸」が人と動物がともに暮して行ける素敵な町になればいいと願っている。

神戸の恩返し
山中 隆太(三十六歳 コンサルタント 神戸市東灘区)

 震災以来、ずっと自分を追い込んでいるような気がする。今でも誰一人助けられなかったことを悔いているのだろうか。自分ではおろせない荷物を抱えたまま、震災二年目の正月を迎えた。ナホトカ号が日本海に沈んだのはその翌日だった。

 海岸を目指すおびただしい油を前にオイルフェンスも中和剤もなすすべがなく、五日後、重油の塊が福井県の海岸に漂着した。

 必死で油をすくう地元の漁民たちがテレビに映し出された瞬間、私の中で二年間くすぶっていた気持ちに突然火がついた。何があっても行かなければならないという衝動に駆り立てられた。

 震災の経験が活きていたのだろう。ボランティアの立ち上がりは早く、漂着した翌日には七名が作業を開始した。
きっとずっと前からこんな機会を探していたのだと思う。新聞に載った直行バス運行の記事に私は飛びついた。すぐに問い合わせたが希望者が多く、すでに定員オーバーだった。私は焦った。この機会を逃すとまた後悔し続けることになる。

 運悪く次の募集時の週末に仕事が入ってしまい、福井方面にとどまらず兵庫の竹野海岸など自力で行けるところを探すことにした。しかし、現地に問い合わせてみると大きな塊はすでに取り除かれ、後は油混じりの砂をすくったり、岩にこびりついた油を拭き取る作業くらいしか残っていなかった。
もちろんそれでもよかったのだが、比較的軽めの作業であることに気は進まなかった。

 思いきってバスを運行している日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)に電話をかけ状況を聞いてみると、ちょうど明日の朝刊に募集の記事を載せる予定だという。これが福井に行ける最後のチャンスだと思った。
私はその担当者に思いを伝え、無理を言って席を確保していただいた。

 さっそく合羽など準備物を揃えるため近くのコープ(生協)に出かけると、他のサイズは何足もあるのに二十五〜二十七センチの長靴だけが売り切れていた。単なる偶然かもしれないが、私には同志が神戸に大勢いるように感じられて心強かった。それが最初に感じた神戸の善意だった。

 そして当日、満員のバス三台が新大阪駅から現地に向けて出発した。
 隣り合わせた人も神戸からだった。車内で現地の状況や手順について説明を受け、心の準備はできていたつもりだったが、ドロドロに固まった海と雪混じりの突風そして鼻をつく異臭に私は一瞬たじろいだ。
しかし、私たちの目的は明快だった。ただ目の前にある澱んだ塊を取り除けばいい。役に立てるという確信もなく、身一つで駆けつけた震災のボランティアに私は改めて敬服した。

 ゴツゴツした岩が一キロメートルほど続く海岸線に三百人はいただろうか。
そこには二年前に神戸で見たものとそっくりの心象風景があった。張り詰めた空気があたり一面に漂い、まるで訓練された師団のように整然と作業をこなしている。そこには前向きで美しい人間の姿があった。バケツがいっぱいになると善意の手がこちらに伸びてくる。
手から手へ、見知らぬ者同士が声をかけあいながらみるみるうちにバケツは遠ざかる。

 風雪も悪臭も汚れもいとわない能動的な集団のエネルギーを感じた。瓦を無心に剥がしたあの日と重なり、神戸に助けにきてくれた人たちの気持ちがわかったような気がした。
心地よい疲労感と満足感が私への代償となって帰路は深い眠りに誘われた。

 帰ってすぐ、私はNVNADのメンバーに名を連ねた。後日届いた会報は、意義ある活動の報告とともに神戸からの参加が非常に多かったことを伝えていた。

 「震災の時お世話になったお礼に」「震災の時には何もできなかったので」という動機が圧倒的で、NVNADを通じての参加者は延べ二千百三十二名に達した。

 大きな成果とともに課題も残された。一つはマスコミの報道のあり方である。震災時に特定の避難所に取材が集中したため人の流れも物資の流れも偏ったように、今回もナホトカ号の船首が流れ着いた三国町に関心が集まり、週末には見物人とボランティアで溢れかえり、住民の生活道路は麻痺した。もっとボランティアを意識した情報発信があってもいいのではないだろうか。

 確かにインターネットは役立った。
しかし、誰もが自由にアクセスできるメリットが逆にも作用し、無責任で不明確な情報をも運んだ。個と公の線引きと、情報を一元管理する公的機関の必要性を感じる。

 今一つはプロの災害救援コーディネーターの育成の必要性である。
日本ではまだまだこの分野の認識が薄いが、重要性は高い。実際「油をすくう」という目的が単純だった今回でさえ、現場ではいくつかの混乱をきたした。海岸の中ほどにあるドラム缶に油を詰め込んでいったのだが、後で重機がそこまで入れないことがわかり、いっぱいになったドラム缶をひっくり返してまたバケツリレーをするという矛盾があった。全体を見渡す目と交通整理が不可欠だったと思う。

 「休んでください」というアナウンスがあっても誰一人として休まなかった。
もともとボランティアは休むことなど考えていない。ボランティアが頑張れば地元の人たちはもっと頑張らねばならなくなる。
そんなことが重なってか、この重油回収がもとで数人の死者が出た。自己責任、自己完結が前提だが、少なくとも現場のコントローラーが必要ではないだろうか。目的意識の高い集団にこそルールが必要だと思う。

 夏になって美浜町長からお礼状をいただいた時、この二年間の自分への負荷が少し軽減されたような気がした。
 神戸はまだまだ復興途上である。きれいになった町並みに覆われた傷はなお深い。しかし灰色に染まった話ばかりでもない。あの時小さく無力だった人間は、今は明るく力強い。少なくとも私はそう思いたい。
そして震災を機に広がり始めたボランティアの意義を真正面から見据えていきたいと思う。震災が残した唯一の美徳なのだから。

上演のあてのない戯曲
芳崎 洋子(三十八歳 保母 宝塚市仁川台)

 阪神大震災から、千日。あのすべてをなぎ倒した地面の揺れからは、実にそれだけの時が流れている。そのため、物資面ではかなり復旧、復興がなされたように見受けられる。
しかし心の中は、震災後の一年間に溜っていった澱のような物から、未だに解放されずにいることを感じる私がいる。

 それを言葉にするには苦しすぎて、また話したときの相手の反応に過敏になってしまう自分もイヤで、外に排出できない様々な思いに私は潰されそうになっていた。
それでも、膿を外に出す以外に楽になる方法はなく、昨年(平成八年)からは、少しずつ文章で表現するようになった。

 『まだ遠い春』に載せていただいた手記も、その一つだった。その出版記念会でお会いした多くの方々が、今なお震災と真正面から向き合っておられることを知ったことは、自分一人が取り残されていると感じていた私にとって、大きな励みとなった。

 一方、演劇が好きな私は、昨年から、ある戯曲塾で戯曲を書くきっかけを与えられていた。
平成九年にはその卒業公演で、一人十分程度の作品を上演してもらえることになっていたのだが、私はそのための戯曲がなかなか書けずに焦っていた。締切の日はどんどん迫ってくる。

 脳裏で、この際、震災の体験を書けという声が響く。けれども、私は戯曲で震災を扱ったことは一度もなかった。
震災の経験を戯曲にするには、自分自身の奥深くまで踏み込んでいかねばならない。それは恐ろしくもあり、苦しいことだった。
しかし土壇場になって、私は腹をくくるしかなかった。自分で納得のいく作品を仕上げるには、震災の経験を書くしかないと。

 結局、私は書き上げた。ようやくできたカサブタをむしり取り、そこから手を突っ込んで内臓をかき回すようにして一気に書いた。
もし演出家から改稿を要求されても、一字一句たりとも書き直せない、そう思った作品だった。その演出家の人も、震災で芦屋の自宅が全壊している。そのためか、私の作品を十分に理解してくださり、一度の改稿もなく、上演へとこぎ着けることができた。

 それを演じてくれた二人の女優さんも、すばらしかった。それを観た人の中には、「お涙ちょうだい」と酷評する人もいたが、関西の演劇雑誌では、私の作品をほめてくださっている記事を目にした。自分をさらけ出し、開き直って書いた戯曲だったので、私にとっては良くても悪くても、評価していただけるだけありがたく感じられた。

 そして次には、原稿用紙十枚だったその作品を百枚の戯曲に書き替えた。登場人物も増やし、私の中で一番目にこだわっていた事をすべて書き出した。それは唯一の親戚であり、震災で一家全員が亡くなった、神戸市兵庫区の伯父、伯母、従兄弟の話である。

 その頃、私は今はないはずの伯父の家に、一人でいる夢を繰り返し見た。
夢の中でも、伯父たちがこの世にいないことはわかっており、そこに一人でいることに恐ろしさを感じていた。
また蟻のようにたやすく命をなくし、混乱のなかで霊柩車にも乗れなかった伯父たちの死を、受け入れられずにもいた。憤りもあった。そんな思いをありのままに戯曲の中にぶつけてみた。
その結果、整理はつかないまでも、気持が少しずつ落ち着いていくのがわかった。

 そこで現在、震災を通して二番目にこだわっている事柄を中心に、新しい戯曲を書き始めている。
それは、人との関わりについてである。震災直後は自分の生活の確保、伯父たちのこと、死期を宣告された父の入院が重なって、泣く暇もないほど目まぐるしかった。

 そんな中で多くの人達の援助を受け、本当にありがたかった。思いもかけない人からの助けを受けることもあった一方で、それまで友達と思っていた人の意外な対応に、傷つくことも多かった。
もしかしたら、それは私が過剰に反応していただけのことであって、本人たちには何の悪意もなかったのかもしれない。

 けれども、一度、不信感を抱いてしまうと、それを撤回するのが難しく、今でもその時の相手の対応の仕方を基に、人を分け隔てている私がいる。ときには相手に敵意にも似たものを感じ、素直になれない自分に嫌悪を感じる。
一体、私は相手に何を期待しているのか。私は、どうしたいのか。そんな思いにかられて、もがいている私がいる。そのことをモチーフに、今、戯曲の構想を練っているところである。

 これらの戯曲が形になったところで、上演される当てはどこにもない。
けれども私にとっては、震災から立ち上がるための大切な手段である。まず私の中にあるものを出し切ってしまうことが先決だと、今、感じている。そしてそれを出し終えたとき、初めて何かが始まるのかもしれないとも思っている。

 震災から千日目の朝日新聞に、「被災者や企業間での『復興落差』が広がっている」とあった。
いつの日か「自分のことで手一杯」を卒業して、人のことを援助していける自分となる時まで、とにかく私は書き続けよう。実際には、そうしながら私に何か出来ることがあるのかもしれない。そんなことも考えながら、震災から千日目の今日、私はこの文章を書いていた。

あとがき―鳩になりたい

 ●風景

 毎日のように世界のどこかで新たな悲劇が生まれ、それらが報道を通じて私たちに知らされる。人々は「同情疲れ」している。震災が風化するのは当然だ。

 しかし都市直下型大地震はこの次日本のどの都市に起こっても不思議はない。被災地からのメッセージは「未来の被災者」に役立つはずだ。
 また、私は阪神大震災が過去の災害とどこが同じでどこが違うのかを考えるのも意味があるのではないかと考えた。そしてそれを被災者から学びたいと思った。

 桜井義信さん(五〇)は、投稿した「春夏秋冬」が第三巻『まだ遠い春』に掲載され、出版記念会に杖を突いた痛々しい姿で出席した。私と生年月日がひと月しか違わない。同じ年齢の人がどのような体験をし、どのように苦闘されているのかに興味を持った。
そこで、「春夏秋冬」以外にも投稿された手記をまとめ、地震前の様子も聞こうと思い立った。

 平成九年八月の末、神戸市西区有瀬の県営住宅に桜井さんをはじめて訪ねた。桜井さんが住む一号棟は、東西にのびる六甲山系にT字形となるように、南北に建っている。最上階の九階の通路から、山越しに開発が進む西神ニュータウンが望める。ベランダからは、建設中の明石海峡大橋が晩夏の日差しに光って見えた。

 「将来のある子供たちには、明石大橋や神戸空港は必要かもしれない。しかし身体障害者の自分には必要ない」と桜井さんは言う。

 スポーツ紙を時々買うが、日刊紙は取っていない。情報源はテレビで、終日つけっ放しにしている。
 「窓の外をいつも鳩が仲良く元気に飛び回っている。鳩になりたい。妻と息子と三羽になってその仲間に入りたい」。

 ●第3級身体障害

 桜井さんは、神戸市から第3級身体障害者「肋軟骨骨折による体幹機能障害により歩行困難」と判定されている。
胸部のコルセットを取ると、肋骨のあたりの傷が、ケロイド状に残っている。歩行に杖が手放せない。
近視が進み、両眼とも〇・二五になった。梁の直撃を受けて歯が折れ、それが周囲の歯も弱らせ、自前の歯は一四本になった。

 精神障害者保健福祉手帳も持っている。だが、「痛みが激しい午後と夜中に精神不安定になるが、精神病ではない」。
 症状としては、頭、首、右わき腹、左肩と背骨の片側に痛みがある。最近は特にヘルニアの痛みが激しい。話をしていて右わき腹の痛みの発作が出たので、横になってはと勧めたら、
 「寝転んで安静になれる病気は、たちが良い。私の痛みは横になってもおさまらず、いろいろ試して、どの痛みにはどの姿勢が一番楽になるかを知っている」と身体をよじって耐えていた。入院中に痛みで何度もベッドから落ちたそうだ。

 肋軟骨はレントゲンはもちろん最新式のCTやMRIにも映らない。現在通っている病院も含めて、合計九つの医療機関を試した。そのつど検査を最初からやり直す。
 「自分のカルテを持ち歩けない日本は、本当に医療の先進国だろうか」と桜井さんは思う。
しかもどの医師にも痛みを取り除く方法が見つからず、痛みのメカニズムが分からない。

 「医者に不安な顔をされると落ち込む。私が教えなければ、医者に痛いところは分らない。
しかも、いくら言ってもいつも『もう少し様子を見ましょう』と言われると、はぐらかされたような気になる」と不満を持っている。

 何人もの医師に肋軟骨の部分を切り開き治療してほしいと、頼んだ。しかし、神経が入り組んで手術できないと取り合ってもらえなかった。
 「自分で切開してでも痛みを取り除きたい」

 ●症候群

 桜井さんは、頚椎症、椎間板ヘルニア、大腿骨変形、前立腺肥大、膀胱炎、尿道結石、狭心症、皮膚病、糖尿病、うつ病、メニエール病を併発していると訴える。のどにいつも何かが詰まっている感じがし、舌がもつれることがある。
脳波にも異状がある。少し動くと息切れがして呼吸困難になり、動悸が激しくなって、目の前が真っ暗になる。
 「病人は病気自慢をしたがるが、それとは違うと分かってもらえないのが歯がゆい」

 桜井さんは、頭、首、肋軟骨、ヘルニア、右わき腹の痛みのそれぞれの症状をY軸に、時間をX軸にとったグラフをつけている。午前八時から午前十二時にかけてすべての症状が八〇%まで表れ、その後少し下降したあと午後二時頃からまた上昇し、午後三時から六時ごろまでがピークになる。その後午後九時まで、すべての症状が緩和する。しかし、それを境にまた上昇する。

 寝る前には、睡眠薬と精神安定剤を欠かせない。薬は大きめの紙箱を縦三列、横四段に仕切って保管している。一つの仕切りに、強さの違う睡眠薬や鎮痛剤を入れているので、十二種類以上ある。
 「医者の言うとおり飲んだら胃に穴が開く。自分で調整している」

 ●あの日

  桜井さんは地震で長田区前原町の一人住まいのアパートが全壊し、生き埋めになった。木造二階建て、築二十年以上のアパートは、丘の傾斜に沿って建っていた。部屋は一階だった。六畳一間、トイレは共同で、部屋に小さな台所があり、家賃は八千円だった。
二階部分の前を横切る幅約二メートルの歩道の上の家が石垣ごと倒れ込み、アパートの一階部分を支える柱が折れて将棋倒しになった。
布団にまで石垣の破片が転がり落ち、とっさに逃げ出したものの、タンスが胸部に倒れ、梁が首を直撃した。激痛で身動きできず、目を開けられない。

 だが、ガスの匂いで火災の危険をさとり、パジャマ姿のまま、自力ではい出して室内小学校の東の会陽歩道橋までたどり着いた。
歩道橋はアパートの南西にあり、私の歩測で二百歩、普段なら歩いて二分もかからない。
しかし、全壊した家の瓦礫が坂道を閉ざしていた。足が立たないので、腹ばいになって両腕で少しずつ身体を移動させて逃げた。
時々薄目を開けて道の両わきを見ると、倒れ込みそうな家並みが迫り、今崩れ落ちたらという恐怖に襲われる。歩道橋まで小一時間かかった。様子が異様だったせいか、途中誰も助けてくれない。うずくまっていると、人の気配がした。痛みで口がきけないので、筆談で東隣の重池町の市営住宅に住む姉の住所を知らせ、呼びに行ってもらった。その人は男性だった。会って礼を言いたいが顔も見ていない。

 姉夫婦の住宅は全壊だったが家族は無事で、夫婦で桜井さんを抱えて室内小学校まで避難させてくれた。桜井さんは、離婚した妻と一人息子の消息が気になる。
妻は当時九歳だった一人息子と西隣の寺池町のアパートに住んでいた。アパートは全壊し二人は部屋に閉じ込められたものの隣室の男性に助け出され、集会所に避難していた。そこから駆けつけてきた。

 近所の人が車に乗せて入院先を探してくれた。道がふさがれ、病院にはなかなか到着できない。しかも、患者がいっぱいなのと、電気が切れレントゲンも撮れないという理由で、二軒で断られた。そのうちの一軒では、空室があるのに床に寝かされ、婦長が、
 「一泊四千円の部屋しかありません」と言った。
妻がオドオドと対応し、あきらめる様子が、激痛で目を閉じていても分かり、情けなさと悔しさで涙が出た。

 ようやく、午後一時頃に須磨赤十字病院へ運び込まれた。いち早く大阪から駆けつけたボランティアの活躍だ。
胸の痛みで気づかなかったが、逃げ道をふさいでいた瓦礫で手足が傷つき出血していた。

 入院しても胸部の痛みは治まらない。しかも、健康保険がないので支払いの心配もある。はたして助かってよかったのだろうかと毎日考えた。

 ●入退院

 入院三日目でようやく目を開けられるようになった。毎日運び込まれる重傷患者を見ているうちに、自分の身体は回復しつつあると過信した。
テレビは連日神戸市内の惨状を報道している。妻子も気にかかる。二月中旬に、医師の忠告に逆らって退院し、避難所の室内小学校に戻った。あらかじめ電話で連絡すると、ボランティアが車で迎えに来てくれた。校長先生が親切で、毛布などの手配をしてくれていた。

 退院してすぐに、自分で生活保護を受ける手続きをした。その無理がたたったのか三月二十六日、動悸が激しく、目が回り、手足がしびれて意識が薄れ、てんかんの症状が出たため、救急車で灘区の昭生病院へ運ばれた。しかし、心臓には異状がなかったので、一日で避難所の近くの朝日病院へ転院となる。

 入院しても胸部の痛みと頭のふらつきは治らない。四月十七日に退院し、避難所へ戻った。その頃、西神第一仮設住宅の抽選に当たった。手続きはボランティアがしてくれた。

 六月七日、また発作が起こり、兵庫区の吉田病院へ運び込まれる。
十日間の入院中に脳検査をしたが、病因はつきとめられなかった。この頃は、立って歩くことができない状態で、タクシーばかり使い経済的にも苦しかった。

 前原町のアパートの家主が建て物を無断で取り壊したため、桜井さんは仏壇の中身以外家財をほとんど取り出せなかった。
公費解体では家主と店子と行政の三者の承認がいる。取り壊しを急いだ家主は、敷金返済のときの署名捺印をコピーしていた。裁判に訴え、要求額七十五万円の半分で和解になった。しかし、月に三万円の分割払いの一回目だけしかもらっていない。

 ●仮設住宅

 入院中に妻が西神第一仮設住宅の入居準備をすませてくれていたので、退院して直接そこへ入った。近くの西神戸医療センターで、胸と頭のレントゲン写真とCTスキャンを撮ってもらったものの、やはり原因は分からない。ほかの病院同様、薬だけくれた。

 仮設住宅には、いろいろなボランティアや宗教団体の人が来た。その中でも、大阪の「ちびくろ救援グループ」の人たちには、今でも感謝している。学生たちのボランティア団体で、長田区に基地を置いて、週に一回、洗濯、掃除、買い物、料理、布団干しをしてくれた。中古の自転車や洗濯機も見つけてきてくれた。しかし活動は資金難で約一年で終わった。

 「全国から人が来た。仮設に住む人はどんな人だろうと、おばけ屋敷を見るような気持ちの人もいた。見せ物ではない」

 宗教団体の勧誘も盛んだった。立正佼成会の人は、今でも毎月、大阪府の堺市から訪ねてくれる。この教団は、お金をまったく要求しない。

 最初に「金は出せませんよ」と断っているのに、一年ほど顔を見せた後、
 「体を直す力を持った幹部に会わせるから」と言われてついて行くと、寄付を要求した宗教団体もあった。もちろん断った。しかしそれにもかかわらず、この団体の人は今でも電話や訪問を続けてくれている。

 キリスト教会の牧師も来た。
 「神に祈りなさい、神はきっと助けてくださる。毎日祈りなさい、必ず奇跡が起こります」と言われた。
 「キリストを信じ、けがと病気を治して、働きたい。あと十年は生きたい。助けてくれた友人やボランティア、痛みや病気を発見できなかった医師たちに、元気な姿を見せてやりたい」とも思ったが、見下しているような態度を感じたので、入信しなかった。牧師は病状をみて驚いたのか、二度と来なかった。

 仮設住宅に入っていても家賃以外は自己負担なので、エアコンは猛暑でもほとんどつけなかった。
冬には温かいものが食べたかったが、自分では料理もできなかった。

 家の中を痛みでのたうち回っていても、だれにも分からない。平成八年からは、どんなに痛みがあっても外に出て人と話をすることにした。そのおかげで、数人の年上の友だちができた。

 しかし中には、その日一日のことしか考えない人もいる。将来のことを何も話さない。病人は「死にたい」と言う。声をかけ、弱気をたしなめたり、激励したりするのが日課になった。
主人がパチンコと競輪にのめり込んだ女性のグチの聞き役にもなった。

 息子には、月に一度くらいしか会えなかった。来る時はうれしいが、帰る時の顔を思うと、寂しくつらくなった。息子は勉強、特に算数が得意だ。少年野球チームにも属してセンターを守っている。病弱を克服するため野球をすすめたからだ。オリックスのイチローのファンである。

 息子は「はなればなれで住んでいたぼくの父は地震でケガをし、二年たった今でも治っていません。
ぼくの家は全壊しましたが、運よく仮設住宅が当たりました。それで転校することになりました。新しい小学校でも野球部に入り、またすぐに友達ができました。(中略)
練習がつらくて一度ずる休みをしたこともありました。でも友達のおかげでがんばることができました。この地震という体験を生かして、友を思いやり、今度他の地域で地震とかがあったらボランティアをして感謝してもらえるような人になりたいです」とつづる。

 ●県営住宅

 平成九年三月、県営住宅へ移った。ちょうど仮設住宅からの転出が重なった時期だったので、引っ越しボランティアは手一杯で、業者に頼んだ。家具は布団と小型テレビくらいで、軽トラックで十分だった。生活再建貸付け金三十万円は、中古と新品の家財の購入に充てた。

 義援金は、最初に十万円、一年後追加分の十万円をもらった。それ以外に傷病手当金七万円が出た。生計は生活保護と障害者福祉手当で立てている。
生活保護は月額八万六千円、月額一万四千二百七十円の障害者福祉手当は、二、五、八、一一月にまとめて支給される。
市営バスと地下鉄の無料パスがある。県営住宅の家賃は、五年間の特例で定額三万円の半額だ。五年後家賃そのものが上がらないか、全額払えるのか不安だ。食欲がなく、アルコールもまったく受けつけないので、食費に金はかからない。
ただ困るのは医療費だ。医療券をもらっているが、これは原則として一医院にしか利用できない。桜井さんは、症状から特例として二つの医院にかかるのを認められている。しかし、いまだに病因がはっきりしないので、総合病院でみてもらいたいのに、それができない。
 「この痛みが死ぬまで続くのなら、いっそガンにでもなったほうがいい。それなら、せいぜい二、三年でかたがつく」
 「手足を失えば1級、しびれや痛みが続いていても、手足があれば等級がつかないという障害の判定はおかしいのではないか。痛みの病因が分からず、治療方法もなく、いつまで続くかも分からないのでは、九階から飛び降りたくもなる」。

 夜、痛みが続くと、こう思うこともあるそうだ。

 ●友禅の町

 桜井さんは、昭和二十二年四月十四日、京都市左京区に八人兄弟の五男として生まれた。
 友禅の職人だった戸籍上の父は家にいつかず、桜井さんが生まれるずっと以前に他の女性と家を出た。
十二歳違いの長兄の父は別の人で、戸籍上の父と母との間には、次兄と二人の姉が生まれた。いずれも乳児のうちに亡くなった三男と四男と桜井さんの実の父は分らない。そして、四つ年下の弟の父は、戸籍上の父らしいという複雑な家族関係だ。現在、二人の兄、二人の姉と弟が健在である。

 父の家出後、母は子供たちを使って友禅染工場の経営を続けた。
家とは別に工場を借りていた。友禅は布団、枕、シャツなどの生地に使われた。二十メートル間隔で五つの型紙があり、それらに染料を入れては、掻き取る。染料を微妙に混合する作業は気が抜けないし、重たい生地を抱えて走り回るのは重労働だった。それでも家計にはゆとりがあった。

 だが昭和三十二年、桜井さんが小学校四年生の時に、経営が行き詰まった。友禅の機械化が進み、手作業の工場はたち打ちできなくなったためだ。一家は神戸市垂水区の海岸通りに住まいを見つけた。海神社の近くだ。三畳一間、家賃は三千円だった。ここに京都で結婚していた姉を除く、六人が同居した。
母は日雇い労務者として働き、桜井さんは地区の小学校へ転校した。

 新聞配達をして家計を助けた。しかし、月に五百円の給食費が払えない。担任の先生が授業中に指摘するのがつらかった。遊びに来た級友は、「お前の家、なんもないなあ」と、家具が小さなみずや(食器入れ)だけの室内を見てあきれた。

 昭和三十五年、中学校に入学した。だが二学期が始まる九月には、新婚の次姉の元にしばらく寄宿することになり、中央区の中学校に転校した。桜井さんはこの時の担任教師を懐かしむ。教材費を持って行けず休校したら、家まで訪ねて来て、
 「金のことは気にするな。学校だけは必ず来い」と言ってくれた。

 母はぜんそくの特効薬のエフェドリンを常に携帯し、発作が起きると道端でも自分で注射した。
そのうち、日雇いよりも楽な飯場のまかないの仕事を見つけた。しかし、飯場が遠いと家から通えない。そこで住居が短期間に転々とするようになった。次姉夫婦のアパートが焼失したため、桜井さんもそれについて行った。

 その年のうちに大阪府茨木市の中学校に転校し、翌年の正月過ぎには別の中学校へ変わった。
中学二年生の夏に、中学を中退した。家業の友禅職人になり、自分で金を稼ごうと決心したのだ。年齢を偽り、長兄と一緒に町工場に就職した。
休みは月に二日で、作業は朝四時から夕方五時まで、昼休みもなしだった。塗った染料を乾かすため、冬でも窓を開け放し、手があかぎれで出血した。だが月収は五万円ほどになった。当時のサラリーマンの初任給がおよそ一万五千円だから、年齢の割りには破格の収入である。

 ●「漢字は少年院で覚えた」

 十五歳になって、酒を覚えた。最初は木屋町のクラブへ坊主頭で入った。「七千円もボッタクられた」。
めげずに通ううちに顔なじみになり、遊び仲間ができる。その頃には、友禅がすたれはじめ、勤めている店の先行きが怪しくなってきた。
そこで、遊び仲間の紹介でヤクザの組員になり、土日は競馬、週日は競輪のノミ屋を担当することにした。日当は五千円、万一警察に捕まっても、一人で罪をかぶれば一万円の日当という約束だった。

 少年鑑別所に三度入所した。最初は無免許のバイクの当て逃げで堺の少年鑑別所へ二十日間、二度目と三度目は京都の鑑別所だった。最後はノミ行為で警察になれあいの検挙をされたのだが、暴行で指名手配されていたのが分かり、少年院に送られた。ヤクザを名乗っていた大柄な男をバットで殴った。
ヤクザなら警察に訴えるはずがなかったが、素人だったのだ。昭和三十八年十一月、十六歳で奈良の少年院へ入院した。

 桜井さんは「漢字は少年院で覚えた」と言う。
 食堂から雑居房に帰る午後六時から消灯の九時までは自由時間だ。新聞や本、それも推理小説をよく読んだ。新聞は少年院の班対抗の演芸会の漫談の種をさがすのに使った。

 一年の刑期は喧嘩の懲罰で三カ月延びた。
昭和四十年三月、退院時には、職員全員が満面の笑みで見送り所長が出所証明書をくれた。母は病弱のうえ仕事が忙しく、一度しか面会に来られなかったが、百通以上の手紙をくれていた。迎えに来た母のため、自分のためにも、この門は二度とくぐらないと決意した。

 退院後は半年ほど委託寮の世話になる。ここを基地に仕事を見つける。しかし、管理されるのがわずらわしかった。また、関西にいると昔の仲間との縁が切りにくい。

 ●テキヤ稼業

 弟分の仲間と二人で関東に移りテキヤになった。関西ではヤクザとテキヤがはっきり分れていないが、関東では明確に住み分けている。
横浜の組に住み込みで入った。屋台ひとつを一社と呼び、場所割りは年功序列で、当時の寺銭の相場は一律三千円だった。梅雨場と夏以外は、主に綿菓子を商った。ひとつ三百円、藤沢市の寒川神社で、一日二十三万円を売り上げたことがある。

 縁日のない平日には、決まったショバ(売り場所)でたこ焼きや円盤焼き(関西発祥の円盤型をした今川焼き)を売る。
しかし、売上はせいぜい一日に一万円だ。ならすと年収は四、五百万円になった。だが、当時全盛のハワイ・チェーンでの遊興や、競輪、ボートレースで使い果たした。
 昭和四十年からの約十年間は、このような生活だった。

 土方、左官、仮枠大工、ペンキ工、船倉掃除中のタンカー船のコック、港湾労働者(アンコ)などを約二年間、京阪神一帯のガードマンを約三年間、パチンコ屋の店員を約二年間勤めた。
 「学校の先生と警察官以外はなんでもやった」と桜井さんは豪語する。

 ●再出発

 昭和五十七年、三十四歳になって、友人の紹介で、三重県名張市のカメラ工場に入社した。入社時の履歴書には、前歴を三つだけ書いた。それを見た人事部の女性職員が、
 「桜井さん、こんなに職を変えて。ここを最後と思って頑張ってください」とあきれていたので、全部を知らしたらどう言うだろうかと思った。

 社宅に住んだ。持ち前の頑張りで、五年半で主任になり月給も三十五万円になった。木津川、大戸川、服部川などで趣味の川釣りを楽しむゆとりもできた。
三十八歳のとき、子供ができたので六歳年上の女性と結婚入籍した。それまで一緒に暮らした四人の女性との間にはまったく子供ができなかった。妻は高齢出産のうえ、もとから腎臓が悪く、医者があやぶんだ。しかし無事男の子が生まれた。

 ところが、昭和六十二年三十九歳で結核になり三重県の国立病院に入院した。会社は半年待ってくれた。
だが、全快までに一年半かかると分かり、退職金と社宅からの転居費用を出され退職となった。入院中の生計は、毎月十七万円強支払われる傷病手当でまかなえた。病院を抜け出し、妻子のために住宅を探した。市役所にかけ合って、ようやく市営住宅に入れた。

 結核は傷病手当が切れるちょうど一年半で完治した。
しかし、職探しが難しかった。前の工場は新入社員としてなら帰って来てもよいといってくれたが、「主任」だったプライドがじゃまをして断った。年齢が四十近いと職種は限られる。パチンコ屋に勤め、三カ月で主任になり月給は三十万円だった。

 ●離婚

 当時は、パチンコ屋勤めは不安定な職業だった。そのうち妻子のために、真剣に将来を考えるようになったが、結核再発の心配もあった。
妻と離婚し、妻子は生活保護を受け、平成三年八月に、桑名の母子寮に移った。

 桜井さんは平成四年八月、長兄と二人の姉が住む神戸で職探しをした。
ところが、神戸でも就職は難しかった。平成元年に取った運転免許証を生かし、四トントラックの運転手として、仲間三人と運送会社の下請けを始めた。だが、バブル経済崩壊後の神戸には仕事量が十分なく、国民保険を支払うゆとりもないほど収入は少なかった。

 平成五年春、離婚した妻は、再び桜井さんを頼って隣町へ引っ越してきた。
 「わざわざ、地震に遭いに来たようなものだ。被災はわたし一人で十分だった」と、桜井さんはなげく

 ●夢

 桜井さんは私と同い年だが、かなり変わった人生を歩んだ人だと分かった。しかし、特殊な事例の中にこそ普遍的なものが見えるのではないかと思うようになった。

 この震災と過去の災害との共通点は、被害者が人生設計の中断と変更を迫られたことだろう。
地震前、桜井さんは親子が再び一緒に暮らせる生活を得ようと格闘していた。だが、それは不景気でかなわなかった。
しかも地震でその努力は中断させられ、体を壊したので目標の達成は一層困難になった。とはいえこれは、関東大震災や戦災など、過去の災害の被害者にも共通したはずだ。

 一方、この震災と他の災害との相違点は、「豊かな時代」と「貧しい時代」という背景の違いではないかと考える。
 桜井さんは、「生活するには今の収入で十分だ。食費は月に五万円に抑えている。残りは、子供の将来の教育費に充てたい」と考えている。

 阪神大震災の被災者は、社会への窓を閉ざさなければ、飢えの心配はない。しかし私は、被災者が飢えから解放されているから楽だとは思わない。
今日の食事にも事欠く貧困の下では、飢えを満たせるだけで幸せになれた。雨露をしのげるだけでありがたかった。
ところがこの震災の被災者はそれでは満たされない。抱える課題も多様化している。つまり同じストレスがかかっても受け止め方が人によって異なり、人の数だけ違う苦悩がある。

 行政の側も、豊かさの中で起こる災害は、極貧の中で発生する災害より対応が難しい。同じ金額の支援を投入しても、被害者の満足度は低くなる。その上、被災者が望む支援の水準は高い。

 また、貧しい時代の災害では、被災者に「寒さを防ぐ衣服が欲しい」「腹一杯食べたい」「掘っ建て小屋でも手に入れたい」という達成が可能な目標があった。モノが対象だから目標の設定は容易だった。桜井さんは、三畳一間に家族六人が同居していた頃を振り返る。

 「働きに出る母や兄たちの卵焼きが食べたかった。食べ物を争って、兄弟げんかもした。家族同士のいさかいもあった。
しかし、いつかこの貧しさからはい上がってやるという目標があった。母が晴れ舞台の運動会に一度も来てくれなかったことや、新聞配達の苦しさなど、将来のためだと思うと我慢できた」

 ところが豊かな時代には、相対的な貧しさが気になり、人生の目標や生きがいが見つけにくい。阪神大震災の被災者がもっとも悩んでいるのはこの問題ではないだろうか。

 してみると、これは被災者固有の問題ではない。バブルの崩壊という経済災害の後、日本の社会全体を覆っているのも同じ問題だ。災害はその社会が抱える病巣を明らかにする。
被災地の問題を分析し解決することは、被災地外の人々にも大いに役立つはずだ。

 衣食住が満たされているのは、ぜいたくではない。むしろ、そのために相対的な貧しさに対する挫折感や、生きがいが見いだせないという新たな問題が発生した。生存のための最低限の要件が満たされているからこそ、問題がやっかいなのだという理解が必要なのではないだろうか。

 この震災と他の災害との相違点には、大量のボランティアの出現も挙げられる。
今までの大災害では主に地元や近県の有志が支援活動をした。しかし、阪神大震災では遠隔地から数万人のボランティアが駆けつけた。
だが私には日本人が急に慈悲深くなったとは思えない。バブルの崩壊の後、中途半端な豊かさの中で、日常生活を重苦しく感じ、非日常な空間を求める人々が世代を超えて大勢生まれていたからではないだろうか。この人たちは旅費と当面の生活費を持って被災地に入った。豊かな時代でなければ、こんなに大勢の人たちは動けなかったはずだ。

 貧しい時代の災害で生じる問題のほとんどは、金銭で解決ができた。しかし、豊かな時代の被災者は、莫大な財政支出で当面の要求がかなえられたとしても、なお不満が残る。結局、一人ひとりが自分の頭で考え自分の言葉で発言し、社会と連帯して課題を解決しなければならない。そして、自分の利益の一部を捨てる覚悟も必要だ。

 「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがある。私は現代の日本で、泣く子には事件の被害者が当てはまるのではないかと考えている。他人は同情して最初はあやしてくれる。
だが泣く子が泣き声しか出さないのでは、やがて遠のいてしまう。泣く子の要求が正しいという保証はない。泣く子は訴えの内容が利己的ではないと説明しなければならない。第三者に人ごとではないとの共感を持ってもらわなければならない。説得のためには、プライバシーの一部を公開する勇気も必要だろう。

 桜井さんは、アイバンクと臓器移植の登録を決めている。
 「父が世の中の役に立ちたいと考えていると分かってくれるに違いない。子供から尊敬され相談を受ける父親になりたい。また私は今までに三回自殺を試みたが、すべて失敗した。今は命を運命に預けている。その経験を生かし、自殺を考えている人たちの相談相手にもなりたい」

 桜井さんは過去のどの職場でも「主任」になった。自分は社会に役立つはずだという自負がある。そして、その受け皿を模索している。

 私たちは支援を受ける人々の尊厳についても考えるべきだ。人は困っている時ほど他者の痛みに対する感受性が豊かになり、自分が他の誰かのために役立ちたいと考える。
社会的弱者が行政やボランティアの助けを一方的に受けるのではなく、社会のなかに自分の役割を見付けて貢献し、それが心の癒しにつながるという道筋も必要だ。

 豊かな社会とは、自分が社会の役に立つと感じられる受け皿が豊かにある社会ではないだろうか。

 「夢がなければ生きていけない」と、桜井さんは言う。
 「痛みが治まり、家族三人で淡路島に遊びに行く。いつか必ずそんな日が来る」という夢がある。

阪神大震災を記録しつづける
代表 高森 一徳


謝    辞

● 第四集の制作では、左記の方々(五十音順・敬称略)のご協力をいただきました
入  力 伊藤雅美、小橋美代子、高森香都子、高森恵、村川利夫
翻  訳 高森徹夫、高森康之、朴淑美
編  集 小橋繁好、高森雄三、森本博子
校  正 井原悦子、北山文子、山本保子

 ● 手記の各賞の選考については、今回も左記の方々(五十音順・敬称略)にお願いしました
 酒 居 淑子(兵庫県立神戸生活科学センター所長)
 笹 田 信五(医学博士・五色県民健康村健康道場長)
 田 中 國夫(追手門学院大学教授・関西学院大学名誉教授)
 田結荘 哲治(近畿大学教授)
 山 田 敬三(神戸大学教授)