父の背中


小林 良之(三十三歳 教諭 三田市)


 あの地震から三年。
町の復興を端から見ていると、今まで更地であったところに次々と細長い家々が立ち並び、順調に町の復興が推進されているように見えます。
しかし、底辺に目を向けると、果たしてこれで本当に良いのか、という疑問を抱きます。
今、私の父も、安住の地を求めながら懸命に日々を過ごしています。

 父は、東灘区の下町で震災以前から電気工事店を営み、地域と密着しながら生計を立ててきました。
しかし、その家も全壊し未だに更地のままです。
下町の商店街という立地条件も加わり、狭い土地に地震前と同じ大きさの店舗兼住宅を再建できません。
これまでの仮設住宅募集にも毎回応募しましたが、いっこうに当たる気配はありませんでした。

 先日、市営の公的住宅の募集に応募し、補欠ではありましたが当選しました。
これで普通の生活ができるのではと、はかない希望を抱きました。
ところが後日連絡があり、募集の対象は市の供給した仮設住宅に入居している人が最優先で、自力で仮設を建てた人はその枠からはずれるということでした。
残念ながら願いはかなえられず、遂に入居することは出来ませんでした。

 近隣に住むある人は、自宅があまり被害を受けず住めるにもかかわらず全壊という評価で、しかも、近くの仮設住宅へも入居することができ、今では自宅と仮設との二重生活をしています。
私たちはその話に溜息を漏らし、思わず唇を噛み締めました。

 地域行政に突き放され、父は粉骨砕身し、自ら何とかしようと動き始めました。
現在、父は東灘区にある知人の土地を借り、自己資金によって自力で仮設店舗を建設しそこで生活しています。

 約四畳のスペースに電線の束や電気工具類を並べるとすぐに一杯になり、壁際にやっと出来た畳一枚ほどの空間で寝泊りをしています。
線路沿いで、電車が通過するたび激しい振動と騒音に悩まされます。

 平成九年の二月上旬、その日私は父の仮設で一晩過ごすことになりました。
トタンの隙間から風が絶え間なく入り、火の気のない冬の夜は心の奥まで凍えそうになるほど辛いものでした。
 「何でこんなところに住まなあかんのや」と考えれば考えるほど、私が何とかしてやらなければと考えました。
しかし現実は厳しく、どうすることも出来ません。

 私は地震当時、父と同居していました。
下敷きになりながらも助かり、今では三田市で何とか生活できるようになりました。

 毎週金曜日になると、父は東灘の仮設から三田まで車で戻ってきて、一時の命の洗濯をします。
でも日曜日の夜には再び、東灘区へと帰っていきます。

 三田に戻ると、「ただいま」と言って玄関を通り抜け、東灘へ向かうときには「もう帰るぞ」とつぶやいています。

 この言葉を聞くたび、何度も胸が締めつけられるような思いにかられました。
車に乗る瞬間の父の背中がやけに小さく、そして悲しげに見えるのが悔しくてたまりませんでした。
父の居場所は一体どこなんや。どこが心の落ち着ける安住の地なんや。
父との別れ際、いつもそんなことを考えていました。

 現在、神戸市では復興事業と並行して神戸港沖の空港設置計画が推進されています。
何十年か先を見通した計画と銘打たれたその事業は、空港を通じて雇用の確保と地域経済の活性化を計るとされていますが、これまで神戸の経済を支えてきた底辺に息づく人達をないがしろにして、本当の復興ができるとは考えられません。

 将来の展望も大切だとは思いますが、現在の実態に目を転じて、現実的な側面で苦しみながら生活している人達を救済してこそ、真の復興といえるのではないでしょうか。

 汗水流し、泥だらけになって生活してきた人達、地場産業を支え、また見えない部分での地域の街作りにも貢献してきた人達。一体誰がこれまでの素晴らしい神戸の町を育んできたのか。
そのことを度外視した行政のあり方は希薄な氷のようなものであって、人と人との心がつながりあった温もりのある町作りなど、到底困難ではないかと思わずにはいられません。

 日曜日の夕刻、父は再び東灘へと向かいました。
父は六十三歳になります。老体に鞭打って、死に物狂いで頑張っています。