第八章 日本的市民像          

 新たなコミュニティ
 広域大災害が起こった直後、頼りになるのは同居している家族と近所の人たちだ。自衛隊を初めとする公的な救助は、いくら素早くても数時間はかかる。阪神大震災は早朝発生したが、昼間だと家族もばらばらだ。その場合には、近隣の人たち同士で助け合わなければならない。
 被災地では、震災をきっかけに市民レベルの新たな交流が芽生えている。
 「二カ月余、県外へ避難していたのですが、戻ることができないかもしれないと思っていた町も、少しずつ落ち着きを取り戻しているようなので、帰ることにしました。都市の文明の中に住みながら太古の人間のように、自然の姿におびえつつ暮らす日々でした。
 子供を公園に連れて行くのも、恐るおそるで、隆起した道路、つぶれたままの車、一階がなくなった大きなマンションを見ながらです。公園の木はそのまま枝を広げていましたが、あたりの風景は廃墟のようです。無邪気に遊ぶ子供を見ながら私は気が沈むばかりでした。他の子供の姿も見えず、話を交わす人のいないさびしさがつのるばかり。
 ある夜、いても立ってもいられなくなって飛び起き、私から呼びかけよう! とポスターを書きました。子育てをしている人に、この土地で一緒に子供同士を遊ばせながら頑張りましょうと呼びかける内容で、『子育てネットワーク、あおいとり』とタイトルをつけました。
 翌朝早く十数枚を貼りに行きました。一人、また一人と電話が入り、集まった子供とお母さんは十三組。同じような不安を語り合い、梅の花の満開の公園にハイキングに行くまでになりました。少しずつ公園にも活気が戻ってきました。
 ネットワークの輪は広がっています。人との出会いによって自然に情報交換の場ができました。震災があったゆえに、改めて生きている地球を実感し、人間の自然に対しての弱さと、人間同士の心の交流によって生まれる強さを感じさせられました。私の孤独がきっかけで広がったネットワーク、これからも楽しい場を作ることができますように」(b 前 有香 三十二歳 イラストレーター 神戸市東灘区)。この人は得意の技能を生かしてポスターを制作し、子育てネットワークをスタートさせた。
 「別表は、今年の夏三十七周年を迎えた兵庫区の『会下山ラジオ体操会』の参加者数を示したものです。
 当体操会はいち早く一月二十三日(日)に、三名で再開しました。放心から立ち直り、次第に元気を出してきた皆さんによって、日一日と数が増え、今では二百名を超える人々の体操広場が復活しました。二月には広島県福山市と岡山県井原市のラジオ体操会から、たくさんの義援金を頂き大変勇気づけられました。
 二月十九日から会場に仮設住宅建設が始まり、現在の場所に移動しました。三月十九日には、体操台当番も復活しました。
 その間、仮設住宅への入居が進んだので、体操会参加者と入居住民との「ふれあい」の場を作ろうと、兵庫区社会福祉協議会ボランティアセンターの協力を得て、福山市と井原市の義援金を資金にして、五月二十二日(月)に「ふれあい朝食会」を開きました。同じ釜の炊き込みご飯を食べながら、互いにいたわり、慰め、励まし合いました」(b 山中 敏夫 六十七歳 神戸市兵庫区)。
 会下山公園のラジオ体操会の出席者数は、ゼロが地震の日から六日間続いた後、3からはじまって徐々に増えていく。私はこの表を見るまで、数字の羅列が人を感動させるとは知らなかった。この活動はNHKに紹介し、平成七年十二月三十日、衛星放送で「山の集い・震災日記・神戸会下山」が放映された。震災前のメンバーで、被災してよそへ移った人もいる。しかし、仮設住宅の入居者の新たな参加が増えているそうだ。
 仮設住宅の中にも、コミュニティができつつある。
 「五月三日、待望の仮設が西区の第七住宅に決まった。市と手続きを済ませ、これが今後住むわが家だ。玄関はドア式。入れば炊事場、奥が風呂、トイレ共通だ。中へ入れば四畳半と六畳の二間、何はともあれ手足を伸ばして寝られる。誰にも気兼ねなく過ごせる満足感を味わう。
 西区でも最大のマンモス仮設で千六十戸あり、端から歩くと幾棟もある住宅は、何か不気味な感じで落ち着かない。その上、家の前はぬかるみで買い物にも出かけられない。長靴を早速調達したが、水抜きの仕事に追われ何も手につかない。市と交渉しても糠に釘だ。思うようにならない。その上、各区から集まった住民も気心が分からず、いらいらはつのるばかりだ。(中略)。
 六月、西区の婦人会の方々が慰めに廻ってくださり、ぞうきんや手ぬぐいなどをくださった。ストレスが加わって不満が重なると気分も悪く、住民同士互いに話し合う気もなくとげとげしくなってくる。これでは共倒れになると、近くの農家へ散歩がてら出かける。幸い、田植えをしている農夫に出会い、苗を分けて頂き、排水用の溝がたまりっぱなしだったので、遊びのつもりで植えてみた。水やり、施肥に主人共々頑張り続けた。お陰で秋には二十株ほどお米ができて、道行く人も楽しみにしてくれた。
 八月十五日はボランティアの人たちが草刈り、暑い中を頑張ってくれた。
 西区の婦人会、自治会の協力でバーベキュー大会が開かれ、それと相前後して自治会が発足した。やはり人々も少し落ち着きを取り戻し、近隣同士がバーベキューでお肉や野菜、おにぎりをほおばりながら、楽しく語り合っているうち、恐ろしい体験をしたという共通点から、だんだんと打ち解けてきた。
 八月二十三日には、西本願寺から来られたボランティアが冷やし素麺と、かき氷をつくってくださった。子供に返ったようで、みんな赤いミツをかけて頂いた。私たちのために汗をかき、手回しの機械で本当にご苦労でした。
 一番待っていた診療所が、九月に開所した。近くにできたことを喜んでいる人々は心より頼りにし、安心だと言っている。
 でもそんな時期に事故が起きた。九月十三日の夕食後だった。住民の死、それも病死で死後二カ月も過ぎており、部分的にミイラ化していた。関係者にはあまりにもショックが大きかった。ボランティアと一緒に安否を確認してきたのに、残念で仕方がない。もう二度とないようにと思っていたのに、また、仮設での孤独死かと、いとも簡単に新聞やテレビは取り上げる。私たちの心の痛み、気持ちを少しは考えてほしい」(b 九富 禮子 六十六歳 神戸市西区)。
 新たなコミュニティ作りは簡単ではない。第一次手記投稿者で、「仮設住宅が当たったので、コミュニティ紙を発行したい。支援してくれないか」とおっしゃった方がいた。私の会社には紙版印刷機があるので簡単なことだ。早速、会を通じて十カ所の仮設住宅を限度に、機関紙の編集アドバイスと制作を無料で引き受けると公表し、新聞各紙も告知してくれた。だが、一件も実現しなかった。依頼した方に尋ねると「雑用が多く、コミュニティ紙を作る心のゆとりがない。そもそも、まだ仮設の入居者同士がコミュニティ意識をもてない現状です」と言われた。私は考えが浅かった。
 手記の仮設住宅では入居後五カ月、地震から七カ月たって、住民の本格的対話が始まり、連帯感も生まれた。それにはボランティアが提供した催しも触媒効果があったようだ。時間ときっかけが必要なのだろう。

 野焼き
 反対運動も、震災前とは様子が少し違ってきた。
 「地震後しばらく宝塚の実家に戻っていたが、一月末に息子の幼稚園が再開されたので、西宮の自宅に戻った。帰宅した私たちを待ち受けていたのは、地震による廃材の野焼き処理だった。わが家は、西宮の南東部に位置する。自宅から西南二キロの地点に西宮市の野焼き処理場、東南約三キロに尼崎市の野焼き処理場があった。煙が空を覆い、どんよりと曇った日が続いた。その話を環境問題に詳しい友人にしたところ、即刻避難を勧められた。その時初めて事態の深刻さを認識した。私はアレルギー体質で、鼻炎を持っている。いつもの年なら春先にかけて鼻炎だけなのに、今年は目のかゆみも伴っている。子供たちも目のかゆみを訴え、目をこするので充血する。近所で子供の症状を話したところ、私たち家族だけでなく、アレルギー疾患を持つ人の症状の悪化の話が次々と聞こえてきた」(前出 b 西川 靖子)。投稿者一家は、長野県に一時疎開した。
 「二月下旬、自宅に戻った私に友人から、宝塚市の野焼き処理が付近のマンションの自治会の健康アンケート調査によって、三月末で中止されるという新聞の切り抜きが送られてきた。私の住む団地でも健康アンケートができればと、その新聞記事を載せた新聞社に、健康アンケートのことを尋ねた。すぐに記事を書いた担当の記者から電話があり、アンケートを入手した。
 アンケートを持って、近所のアレルギー疾患の子供を持つ母親たちと、私たちの住む公団住宅の自治会に交渉に行った。自治会の役員の中には市役所の職員もいて、アンケートを実施して市に対して野焼き中止を訴えることに消極的な人も何人かいた。
 アンケートを持っていった私たちに対し、『あんたたちより、被災してもっと大変な人がたくさんいる。野焼きの煙ぐらい我慢しろ』と言った人もいた。それでも食い下がって、理事会にかけてもらうよう頼み込んだ。しかし理事会にかかるまでに、一カ月以上を要した。その間にも、野焼きの煙でどんどん空気は汚れ、アレルギー疾患を持つ人々の症状はひどくなる一方だった。私たちは自治会をあてにすることに諦めを感じていた。
 三月中旬、環境問題に詳しい弁護士と立命館大学法学部の教授らの法律専門家たちが、野焼き現場の視察に来た。私も近所に住む友人や、新聞記事を送ってくれた友人と共に、野焼き現場へ同行した。宝塚市の記事を書いた新聞記者の方も参加してくれて、彼の案内で野焼き現場に潜入することができた。
 そこで見た光景は今も脳裏に焼きついて離れない。その日は日曜日で、野焼き処理は行われていなかった。けれども、廃材の山の至る所から煙が上がっており、防塵マスクをしていても悪臭で気分が悪くなった。煙で目が痛くなり開けられない。市は不燃物と可燃物は、分類して燃やしていると言っていた。確かに瓦礫の山は、廃材とコンクリートとその他の山(ガラ)に大別されていた。しかし、廃材の中に壊れた冷蔵庫を見つけた。プロパンガスのボンベと思われるものも混じっていた。車を見た人もいた。そんな物を燃やすなんて、無謀なことはしないだろうと信じたかった。けれども、それらを含む瓦礫の山の端の方から、煙が上がり始めていた。
 一カ月後、自治会は理事会で健康アンケートを実施することを否決した。その代わり自治協議会(私の住む団地の自治会はいくつかに分かれていて、その連合体)から、市に対して野焼き処理の早期中止を求める要請をすることになった。
 三月下旬に、神戸大学工学部の技官が、団地内で二酸化窒素と粉塵の測定調査を行なった。そして調査の結果を報告する会を、四月中旬に団地内の集会所で開いてくれた。そのとき、医師の方も参加し、野焼きによる大気汚染の人体に対する影響などの話も聞くことができた。集会は、TVのニュースでも取り上げられた。
 その後すぐ、西宮市は五月末で廃材の野焼きを中止すると発表した。
 五月末で、西宮市の野焼きは終わった。その後、市は簡易焼却炉で廃材の処理を続けている。しかしその安全性は、住民に示されていない。
 私は、震災による野焼きの被害を体験し、様々なことを学んだ。私たちの生活から出るゴミの問題も、それまではあまり関心がなかった。しかし野焼きによる大気汚染は、私たちの生活が地震という災害に破壊されることによって生じたゴミが原因なのだ。廃棄処理をするとき、有害物質を出してしまう物を、私たちは普段平気で使っている。もし震災がなければ、その危険性に気づくことはなかっただろう。震災は様々なことを、私に投げかけ、残していった」
 今までの反対運動は、構造が簡単だった。反対する住民が発言し、行政や企業を支持する住民は沈黙していた。ところが震災では住民の意見が直接対立する問題も発生した。このような構図は、被災地に限らず、今後の日本社会でますます増えるはずだ。私たちの社会で起こるできごとは、一方が正義で他方が不正義といった単純な構造のものは少ない。問題の実態を汗をかいて調べ、第三者の意見も参考にして発言する。次に、情勢に応じて妥協案を見いだし、情勢が変化すればその妥協案すらも変えていく。このような柔軟な運動が求められているのではないだろうか。その先駆けとして、私にはこの手記は貴重な記録だと思える。

 ヘリコプター騒音
 個人でヘリコプターの騒音と取り組んだ人もいる。相手が行政だけなので従来型の市民運動に分類すべきかもしれないが、住民エゴではない説得力のある活動に見える。
 「飛来するヘリコプターが気になり出したのは、震災三日目である。マスコミの取材ヘリが飛ぶのは知っていたが、そのうち、上空を通過する際、桁外れの衝撃を与えるヘリコプターがあるのに気づくようになった。まるで台風と地震の両方に襲われたように、ドアや窓が激しく打ち震え、建物も船のように揺れる。
 むろん爆音で話し声は遮られ、ひび割れたガラスが砕け散るから凄じい。これが多い時には、十五分間隔で襲ってくる。それも、夜明けと同時に始まり、ほぼ日没まで続くのだから耐えられない。窓から首を出すと、双発の大型ヘリコプターが、すぐ頭の上をかすめて飛ぶのが見えた。
 私は給水車を探して王子公園界隈を歩き回ったときのことを思い出した。至る所に、エンジンをかけたままのジープやトラックが停り、陸上競技場にはヘリコプターの姿もあった。自衛隊が王子公園に駐屯し、競技場をヘリコプター基地にしたのだろう。わが城内通りの上空で高度を下げ着陸体勢に入るから、びっくりするような騒音と振動を撒き散らすのだ。そう察しはついたが、非常事態だから我慢するしかないだろう。
 わが家に電気が通じたのは、震災から六日目である。早速テレビをつけた。避難所には救援物資が続々と届けられているらしい。それでも、マスコミが報道拠点にしている西宮の体育館や本山(神戸市東灘区)の中学校では、避難した人々が口々に不満を訴えている。食料の調達と水運びで、一日中きりきり舞いしている我々の境遇と比べれば天国のようなのに……。
 腹が立ったのは、視察に訪れた首相や大臣が、ヘリコプターで王子公園に降り立つのを見たときである。彼らはヘリコプターをハイヤーくらいにしか考えていないに違いない。眼下に騒音と振動に一日中悩まされている者のいることなど想像もつかぬだろう。
 救援活動の最中なのだから、多少の犠牲は忍ばねばならぬだろう。だが、我々だけが選ばれたように忍耐を強いられるのは納得できない。私は、なお四日我慢を続けたが、とうとう耐え切れなくなり、意を決して自衛隊に抗議に出かけることにした。途中、出会った知人にわけを話すと、彼の住む王子町でも「ヘリコプター公害」には、ほとほと弱り抜いているとこぼし、激励してくれた。一月二十六日の昼前のことである。
 陸上競技場のゲートに廻ると、『第三師団指令所』と書かれた看板が、門柱に立てかけてあった。歩哨に立つ自衛官を見てたじろいだが、勇を鼓して来意を告げたら、建物の二階を指された。階段を上がり、『責任者に会いたい』と告げる私の言葉に、その場に居合わせた自衛官は、一様に戸惑ったように見えた。皆から押し出された自衛官は、広報担当の三佐であったが、私の訴えを聞くなり顔をゆがめた。
 自衛隊は県の要請で出動しており、ヘリコプターも要請で飛ばしている。したがって、自衛隊に責任がなく、苦情は受け付けられない。それが彼の言い分であった。しばらく押し問答が続いたが、先方は、『文句があるなら県に言ってください』の一点張り。私は根負けして、県職員の到着を待つことにした。憮然とした表情の自衛官が居並ぶ部屋の空気に耐えるため、訴えの内容をメモ用紙に整理しながら時間をつぶした。
 二人の県職員が私たちの住むアパートの屋上に上がり、ヘリコプターの飛行ルートや侵入高度、機種などを調べながら、被害状況を実地検分してくれた。その結果、とりわけ大きな衝撃波を出すのは海上自衛隊のものであることが分かった。搭載している重量の関係で、あれ以上高度を上げられないとの説明も受けた。ヘリコプターの基地を王子公園に指定したのは、県でなく市である。もっと適当な場所は探せばあるが、政令指定都市の神戸市に県が行政指導するわけにもいかない。そんなことを引き上げ際に漏らしていた。
 飛行ルートを三つに分散するという連絡を受けたのは、日没後であった。翌日から気をつけていると、真上を直撃される回数は確かに減ったが、それ以外はほんの僅かに離れた上空を通過するだけなので、被害が目に見えて軽減されたわけではなかった。
 縦割り行政のしわ寄せを受け、今後も衝撃に耐え続けなければならぬのかと思うと、やりきれなかった。三日後、思い余って災害対策本部に電話をかけ、ヘリコプター基地の変更を求めた。猛烈な爆音が止んだのは、一月末のことである」(b 森戸 富雄 四十二歳 元塾講師 神戸市灘区)。
 これら二つの手記を詳細に紹介したのには理由がある。私は反対運動をする人は、被害の個人情報の公開が義務だと考える。市民の行政や企業に対する反対運動は、社会を活性化させる貴重な交流の場だ。社会改革のヒントは、専門家や学者の頭脳から生まれるのではない。市民が社会生活を営む中から生まれる。市民が権威に逆らわず、与えられた環境に柔順に従っていたのではその芽を摘んでしまう。個人的または地域限定的な意見のように見えても、それが社会全体の問題につながる可能性がある。将来の問題につながる可能性もある。数ある公害反対運動はその好例だ。しかし、その反対理由が具体的でなければ第三者には理解できない。
 二つの手記には、具体的被害が書かれている。投稿者の反対運動がどの程度影響して公害が解決されたのかは分からないが、行為者に影響を与えたのは間違いないだろう。野焼きもヘリコプター騒音も、震災の直後はやむをえなかった。だが、無期限に許されるものではない。二人の投稿者の活動は、停止時期を早めるのに貢献したのではないだろうか。
 特に、ヘリコプターの騒音公害の手記は興味深い。投稿者が抗議に出かけたのは、自分より恵まれている被災者が不平を言うのと、政治家がヘリコプターで降り立つのをテレビで知ったからだ。それで、投稿者は「我々だけが選ばれたように忍耐を強いられるのは納得できない」と怒り行動した。しかし同じ被害に遭い、しかもテレビで同じ映像を見た住民は多いはずだ。つまり、情報が行動に移るきっかけになりうるということと、同じ情報を得ても行動しない人もいるということが分かる。前者は情報公開の重要性を、後者は人によって情報の効果が違うことを教えてくれる。

 民主主義
 人によって情報の受け止め方が違うところに、民主主義の原点がある。
 私は沖縄県の人たちが、掲揚される日の丸の旗を焼くのを理解できなかった。海外で日の丸を見ると、感激する。私にはそんな思いしかなかった。しかし女性のお年寄りが、あるテレビ番組で「本土の人には不愉快かもしれませんが、私はあの旗を焼く若者を支持します。私の妹は防空壕で、泣き声が米兵に気づかれるからと、日本の兵隊さんに殺されました。その思い出と日の丸が結びついて、いまでも好きになれません」と、語るのを聞いて理解できた。私が日の丸を焼く側にまわったわけではないが、焼く側の気持ちが分かった。同じ「日の丸」という視覚情報を得ても、個人的体験が違うと真反対の受け止め方になる。
 社会で生まれる意見の衝突と利害の対立は、立場によって一八〇度評価が違ってもおかしくない。それを、互いが言いっぱなしにしたり、一方が忍従していては、民主主義は成り立たない。批判する側も批判される側も、双方が情報を公開して、具体的に争わなければ妥協点は見つからない。被害者の声は尊重されなければならないが、その声が正しいとは限らない。批判される側は批判される行為が良いことだと考えているのだから、批判する側が個人的被害の詳細を示さず、つまりプライバシーの一部を開示する覚悟なしで、反対を叫んでも説得力はない。
 民主主義は、自己責任で発言し行動する市民がいて初めて成立する。西欧の市民が民主主義をキリスト教会や特権階級から血を流して勝ち取ったのに対し、私たちは、戦後の与えられた民主主義の中で暮らしている。社会運動らしき活動をしている人の多くは、特定のイデオロギーや宗教や経済的利益に基づき、大多数の人々は、それを傍観していた。自己責任で発言し行動する市民はまれだった。日本に西欧的民主主義が根付かないのは、西欧的市民がいないせいだ。
 その原因は「個」が確立していないからではないだろうか。日本には「個」と対立する概念として「世間」がある。世間はその人が属する利益共同体で、その最小単位は「家」であり、その上に経済組織や村や町や藩があって、個人を規制していた。そこには、商店なら主が、職人なら親方が、武士なら主君がいた。町家には家主が、村には村長がいた。また、僧侶や教師は聖職とされた。明治になると、それらを覆う形で天皇制が成立した。この「世間」では、秩序の維持と集団の利益が優先し、その結果集団に属さない人たちの利益を損なうことさえある。
 こうして戦前の日本には、民主的ではなかったが、秩序があった。ところが日本人は、敗戦によって、その「世間」の権威を「封建的」とし、捨て去ってしまった。戦後に残った「世間」は、経済合理性を優先する職場と、あいまいな「世論」だけだ。その状態で半世紀が過ぎてしまった。このような一貫して現世的な「世間」では、「個」は「世間」のために自分を殺すか、「世間」を出し抜いて自分の利益を図るしか選択肢がない。つまり、対立する概念が「世間」である「個」は、対等な立場で「個」を主張する場がなく、育つ機会がない。
 一方、西欧では「個」に対立する概念は「公」だ。そしてその「公」は、多くの場合「神の正義」を代弁し、人々を平等に規制する。人間を超えた「公」の倫理の下では、「個」はその属する共同体の利益と反する自己も主張できる。また、平等な立場の「個」同士の意見の調整も可能だ。そのため、「個」を主張する技術として、修辞法や弁論術が発達した。
 しかし神が絶対神のせいだろう、その正義は独善に陥る欠点がある。アジアやラテン・アメリカの国々では受け入れられなかった米国式「民主主義」やフランスの核実験の強行やイギリス社会の閉鎖性は、この辺りに原因がありそうだ。
 今、私たちの「世間」は揺らいでいる。企業はバブル経済の崩壊と国際化で求心力を失い、情緒的な「世論」はあてにならない。私たちは、集団の利益を優先する「世間」を超えた独善的でない「公」を見いだす必要がある。そのためには、顔の見える市民同士が、活発な対話をしなければならない。

 成熟した市民
 日本のマスコミの批判が、歯切れが良い割には効果にかけるのは、記者の顔が見えないからだ。発言する人が安全地帯にいては、実りある議論は成り立たない。さらに、批判する側は、意見を論理的でしかも冷静に説明する技術と、できれば技巧も持つ必要がある。口汚くののしるのはもっての他だし、第三者に単なる個人的不満や地域エゴと判断されるような訴えは稚拙だ。
 一方、批判される側は要求される資料を公開すべきだ。社会的行為をする以上、情報を公開する義務がある。万一その情報を悪用された場合には訴えればよい。実損は補償されないだろうが、社会的行為を行なうコストだと割り切るよりほかないだろう。
 今後の日本社会で増加すると予想される市民同士の意見の衝突と利害の調整にも、このルールが必要だ。私たちの会の例を二つ紹介したい。
 私は会の収支は赤字で、不足分は個人と会社でカバーするのだから、経理を公開する必要はないと考えていた。公開すると恩着せがましくなるのではないかとも思った。だが、手記選考委員の一人から「どのような収支であっても、公開したほうがよい」と言われて収支報告を機関紙に発表した。お陰で平成九年からは賛助会員もできて、直接的な恩恵もあった。当事者は善意のつもりでも情報公開を怠るのはよくないと分かった。
 平成七年五月、体験手記集第一集の出版記念会を開催した。三宮周辺の会議場はほとんどが修復工事中で、会場は貿易センタービル脇のレストランにし、そこで軽食を出した。翌年第二集の出版記念会の案内を出したところ女性投稿者から、
 「前回も参加させてもらいました。その時、震災では一個のおにぎりにも感謝したはずの被災者の皆さんの集まりであるはずなのに、出された料理を残して帰ってしまったのがいつまでも心残りでした。今回も食事があるのなら、パックなどをご用意いただき、心置きなく皆さんで残った料理を持ち帰ってはいかがでしょうか?」という返信が来た。今回は、県民会館の会議室なので食事は出しませんと電話したが、なるほどこのような見方もあるのかと反省した。将来食事を出す場合には、パックまでは用意できないが、分量に配慮し「残さずお召し上がりください」くらいの言葉は添えたいと思う。
 もし前者で「経理が不明朗だ」と言われ、後者で「食事を無駄にした」と非難されたら、私の対応は違っていただろう。提案者の顔が見え、さらにその思いやりのある言葉が私を反省させたのだ。
 被災地では、深刻な市民同士のあつれきが出始めている。「震災同居」の家族同士や地主と借地人、家主と借家人、再建マンションの費用分担を決めなければならない住人同士。さらに、市民と行政とのあつれきもある。不法占拠の被災者と行政、公的住宅を求める仮設住宅居住者と十分な数を提示できない県と市、区画整理事業をめぐる住民と市の対立。いずれも互いが相手の言い分を十分に聞き、妥協しなければ解決しないあつれきだ。
 生活再建の見通しも立たない中で、市民一人ひとりが「現在の自分」を考えるだけでなく「未来の社会」をも視野に入れなければ、これらのあつれきの解決はない。現在と未来、自分と社会を対立的に捕らえず、融合しなければ出口はない。
 震災直後、被災地の私たちは、国の内外から寄せられた支援に感謝し自分にできることを探して行動した。その時、「自分」と「社会」は一体となった。視点を自分から社会に広げるには、あの実感と経験が生かせるのではないか。また、私たちがどのような行動を取ろうと時は進んでいく。その時、明らかに後悔すると思われる行動だけはやめよう。歴史を意識すれば、視点を現在から未来に広げられるはずだ。
 手記選考委員の一人、田中國夫関西学院大学名誉教授は、「被災地の蘇生は、自分の住むコミュニティと、自分個人の願望とを結合させることのできる市民によってのみ可能となる」と主張する。この復興の試練は、被災地の私たちが、社会に対して何かを求めるのではなく、何ができるかを模索し行動する「成熟した市民」の先駆けとなる機会でもある。
 「(地震直後)全般的かつ継続的に印象的だったのは、民間防衛隊や軍隊が全く存在しない状況で、動揺や犯罪や暴動もなく、水や食料を何時間も整然と並んで待つ人々の冷静さであった。CNNのクルーは私に、
 『どこに日本の州兵はいるのか!』と、たずねた(アメリカ合衆国では災害時に、州兵が、救援と治安維持のために素早く派遣される)」(前出 ピーター・E・フィリップス)。
 今、私たちに必要なのは、私たちの精神風土に根ざした日本的市民像の構築ではないだろうか。
 私たちは、「どこに日本の市民はいるのか!」と問われている。
 

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