第五章 あつれき              
     
 震災離婚
 地震後しばらくすると、肉親や近隣とのあつれきに悩む被災者が生まれた。第一次応募手記にも、避難所内のいさかいを記したものがあったが、第二次になると身内や隣近所との摩擦を書いた投稿がくるようになった。これらの手記には匿名希望が多い。
 まず、「震災離婚」がある。
 「四つんばいになって、危険な奥に進んでいる時、奥で寝ていた主人が、ジャンパーを身につけ、私たち(本人と娘)を乗り越えて、玄関のドアを蹴破り一人で外に飛び出して行きました。(中略)。
 主人が出たとき、反動で『バターン』と大きな音がしたのですが、戸が内に食い込んで開かなくなっていました。(中略)。
 震災直後から、毎夜、女性から電話がかかるようになりました。そして二月初めに、主人は家を出て行きました。けれども、毎日のようにやってきては、物を持ち出していきました。
 私たちの仲も壊れかけていた茶碗のように、真っ二つに割れる日が近づいてきていました。
 忘れもしない地下鉄サリン事件の三月二十日、離婚届を区役所に出しました。それから一カ月後、かねて疑いを持っていたので、役所に行って住民票を閲覧しました。それはかつて、乳ガンの疑いと診断され、手術を言い渡されたときと同じ程のショックでした。今度の妻の欄に、日頃何食わぬ顔をしてつき合っていた近所の女性の名前が記されていました。もし震災が起こらなかったら、おかしい主人と老いを迎えて、人生を閉じたかもしれません」(b 北川 京子 五十五歳 神戸市中央区)。
 「とどまることのない余震と火事と、報道から遮断されたおびえ。幼いわが子に与える飲み物や食べ物がない焦燥感。このパニックの時に出て行った夫と、その身内の私に対する態度。(私の)砕かれた神経は完全にマヒ状態に陥っていた。(中略)。
 身近な人に冷たくされた淋しさと悔しさは筆舌に尽くせぬものがあるが、見知らぬ人に受けた好意があったからこそ、もう一度(人を)信じることから始めてみたい気にもなれ、子供たちを一心に愛する自分がいるのだろう」(b 女性 三十一歳 西宮市 朝鮮国籍)。

 震災同居
 「震災同居」の問題も深刻だ。
 「二日目の晩、(私と四女を)探しに来てくれた長女夫婦と遠方からバイクで駆けつけた長男と一緒にビルに戻り、手のつけようのない部屋に入り、男二人の力で家具を動かしてわずかな衣類をつかみ出し、バイクに積んで一足先に帰ってもらった。避難所へ行きお礼を述べ、ティシュを渡す。
 息子も婿も、この惨状をしっかりと把握したに違いない。『力になってもらえる。よかった』。亡夫の位牌を胸に肉親の情をかみしめた。
 地下鉄と車を乗り継ぎ市内に住む長女の4LDKのマンションに着き、長男が差し入れてくれたおにぎりと熱いお茶を頂いて休む。ここはピアノが動き家具が少し倒れた程度で、住むのに支障はない。しかし翌朝、浴槽の水を汲んで洗面し、コーヒーとパンをいただくと、当然のように早々と車で長男宅に送り込まれた。『兄さん方は遠方だし、(住んでいた家の)家具類の後始末もあり、住まいが見つかるまでここにいたら……』との、夫婦の言葉を期待していたのに考えが甘かった。
 長男宅では食費、電話代、ガソリン代をわずかながらも払ってはいた。しかし地震のショックで足を痛めた私の週一回の医者通いや、早朝からバス停まで所要で神戸へ行く二人を送迎するのが煩わしくなってきたらしい。(中略)。
 或る日、息子が漏らした恩着せがましい言葉に、カッとなった娘(四女)が大声を上げて泣き叫んだ。それまで耐えていた私も一緒に泣き出した。部屋に戻るなり娘はくずかごを蹴飛ばして当たり散らした。私は涙を拭きつつ娘の背を撫でてなだめ、『出よう』と言った。
 三女の家も被災して頼れず、次女宅は僻地で行く気になれない。あの時、いっそ、家具の下敷きになり二人とも死んでいればよかった。今まで誰にも迷惑をかけず母娘つつましく暮らしていたのに……。地震めがーっ」(女性 八十三歳)。
 地震後一年ほどして、家内が自宅近くの地下鉄の駅で、知り合いの奥さんが泣いているのに出会った。地震後同居したお姑さんを、別の駅に住む義妹の家まで送り届けた帰りだそうだ。お姑さんが愚痴っぽくなり、事ごとに衝突するのでやむなく実の娘のところでしばらく預かってもらうことにしたという。別れぎわにきついことを言われたのだが、家では泣けないので駅で泣いていたのだそうだ。もしかしたら、このお姑さんは精神的に病んでいるのかもしれない。「扉を叩く音」のように地震から半年ほどたって、以前はしっかりしていたお年寄りに痴呆やうつ病の症状が出たりする例がある。
 また、若い人が精神を病む例もある。
 「大地震から十日後、私は阪神電車に乗った。震災ダイヤの普通電車が、梅田駅と青木駅間を折り返し運転をしている。乗客のほとんどが震災ルックで、大きなリュックを網棚や足下に置いている。突然、前の車両から若い女の金切り声。皆一斉にその方を見た。若い女性が母親らしい初老の女性と並んで座り、足下にリュックが一つ転がっている。声の主は初老の女性に向かって、
 『あほ、病人、死ね』と叫びながら頬に平手打ちをくらわせ、何やらぶつぶつ言っている。しまいに、
 『ここで殺したろか』と言うなり、首を絞めるやら自分の靴で頭をパンパン叩くやらで手がつけられない。乗客は突然起きた異様な光景に驚き、車内に気まずい空気が流れた。対面して座っているオバサンたちは、騒ぎに巻き込まれたくないので皆知らん振りだ。どんな事情があるのか、叩かれうなだれている病人らしい婦人の行く末を思うと暗澹とした気持ちになり途中の乗換駅で下車した。騒ぎを起こした若い女性は震災のショックで殺気立ち絶望的になっていたのだと思うが、あのとき誰かが車掌に連絡し、乗客も協力して鎮めたらよかったと後になって気付いた」(b 男性 六十九歳 兵庫県西宮市)。
 私の知り合いは、ライフラインが絶たれたポートアイランドでは生活できないので、地震後二カ月ほど夫婦で加古川市の社宅へ入り、三人の学齢期の子供を他府県のご主人の親戚に預けた。ところが、しばらくするとその家の子供たちと仲が悪くなり、「お宅の子供のしつけが悪い」と言われて子供を引き取ることになってしまった。
 いずれも地震前までは「良いお姑さん」や「仲の良い親戚」だったのが、「震災同居」によってソーシャル・ディスタンス(社交距離)が縮まり関係が破綻してしまったのだ。近隣とのあつれきも生じる。

 近所づきあい
 淡路島の北淡町の女性(b 匿名 六十八歳 兵庫県津名郡)は、隣接する家のことで悩んでいる。その家は奥さんが神戸で息子家族と同居しているので、無人だ。余震のたびに揺れ不安でしかたがない。自宅の修理をしたいのだが、業者は隣が修理しないと意味がないと取り合ってくれない。
 地震の後、隣家の息子がたずねて来たが、「迷惑はかけない」と言っただけで帰ってしまった。神戸の家は全壊したそうで、連絡先は教えてくれなかった。地震後母親が入院していると言うので、三月一杯まで我慢した。
 四月になって、孫娘の勤務先が役場で分かったので、電話で「お父さんに連絡してほしい」と伝言した。すると、隣の奥さんからこの筆者の親戚へ「孫娘に恥をかかせた」と怒りの電話が来た。筆者は親戚に「電話で怒る前に、一度家を見に来なさい」と伝言を頼んだ。役場や無料法律相談や県が主催する「土曜井戸端会議」にも相談したが、解決策は見つからない。親戚を通じて交渉しているが、「お盆までに」「(秋の)彼岸までに」と先伸ばしで、電話も直接こない。
 郡部では濃密な人間関係が人々の支えになっている。しかし、このようなもめ事が起こると事態は複雑になる。この人も親戚を介しての交渉では疲れるだろう。

 権利関係が複雑な住まいの場合は、隠れていた問題が一挙に吹き出す。五十年来の借家に心臓病のご主人と住んでいた主婦の手記がある。
 「玄関と座敷の床が五センチもずり落ち、座敷の床はふわふわ。(中略)。
 震災後知ったのですが、あちら(家主)は代替わりしていました。(相談しても)一度も姿も見せず、その上、『自分の結婚式が二月二十六日にある』『(自分も)被災しているから相談に行くことができない』『家を修理するお金もないから、避難所にでも』と言います。
 『それでは私方が何とか考えるから地権を譲ってほしい』と申し入れると、
 『それはできぬ。(三月)十三日に新婚旅行から帰国するからそれまで待っていてほしい』との返事です。高校の先生という職業の方が、こんなに大きな災害のとき、二週間も子供たちをほって旅行できるのだろうか……。
 私方からの申し入れで、先日母親が初めて見に来られ、
 『屋根、床は半分私方で手当てしますが、なにぶんお金ができない。あなた方(借家人)の方で作って頂ければ、何年間かかっても家賃の一部で相殺したい』とのこと。
 主人七十七歳、七十三歳の私。年金暮らしの私たちが、これから何年生きられるでしょう。せめて(借家の)名義だけでも私方にしてくだされば、息子が払ってくれるでしょうが、地権もいや名義も変えてはいけない、お金だけ作ってほしい。つくづく、若い世代の考えていることの恐ろしさ、自分本位の恐ろしさに驚いております」(a 女性 七十三歳 兵庫県明石市)。深刻な事態になる。

 解消の知恵
 肉親や近隣とのあつれきは、震災の問題ではない。「震災離婚」は震災以前にも離婚の要素があったはずだ。「震災同居」の問題も戦後の核家族化によって、私たちが希薄な家族関係に慣れ過ぎたせいだ。
 一見濃密な郡部の人間関係も、個人ではなく家同士の関係であるところに問題がある。借家の問題も、普段の両者のコミュニケーション不足と借家を巡る権利関係をあいまいにしていたのが原因ではないだろうか。
 肉親や近隣とのあつれきは、私たち市民同士の日常のコミュニケーションと利害の調整経験の不足が原因だ。そのしわ寄せが、震災をきっかけに一挙に吹き出したのではないだろうか。
 「地震直後、自らも傷だらけになって、倒壊した家の下敷きになっている人を何人も助け出した勇敢な男性が、(避難所では)救援物資を我先にと奪い取り、危険を恐れ(救助せずに)ただ立ちすくんでいた人が、申し訳なさそうに最後におにぎりを二つもらっていた。人間というのは不思議なものだと思った」(b 田邊 眞佐子 三十六歳 飲食店経営 神戸市西区)。
 同じ人が、ある時は立派な行動を取り、場面が変わると卑しい行ないに及ぶ。「正しい人」と「正しくない人」の二種類の人がいるのではない。
 戦後私たち日本人は行政や企業に対して物申すのは恐れなくなった。最初は市民運動も情緒的で過激なものが多かったが、理性的な対話ができる市民運動も芽生えている。しかし、市民同士のあつれきの解消に対する知恵や方策がない。互いに限界まで目をつぶっているから、問題が深刻になる。
 私たちが普段から、相手に耳触りなことでも率直に話し合う習慣を持ち、対話の機会をもっと持てていたら、これらの問題の多くは防げたのではないだろうか。
 

第6章「危機に機能しない人と組織」へ