第四章 マイナスからの出発         

 経済特区
 平成七年八月にシンガポールの現地法人の役員(三十九歳)を神戸に呼んだ。彼はシンガポール人だが、日本の大学の土木科出身の知日家だ。西は兵庫区から東は芦屋市まで、車で被災地を案内した。
 「神戸の人は偉いですね」と彼が言った。理由を聞くと、
 「こんな状況で、ここに留まって復興しようとしている。シンガポールなら他の国に移って一から出直す人がたくさん出るでしょう」と答えた。シンガポールの華人は、明朝以来母国で動乱が起きる度に南に逃れた人々の末裔だ。一旦タイやベトナムに移住し、その後移り住んだ人もいる。現在でも、香港から仕事や永住権を求めて来る人たちがいる。
 日本は、戦争に負けても皇室が亡命を考えもしなかったように、この列島に愛着を持つ人々に支えられている。自分の住む地域に対する帰属意識が強い。被災地の住民意識調査でも、元の場所に住みたいという人がほとんどだった。住民がいなくなってしまえば、町は成り立たない。これは大きな財産だ。
 元いた場所に対する住民の愛着という、せっかくの財産があるのだから、創造的で夢のある復興計画を勇気を持ってそれも早急に立てるべきだと思う。万一採算が立たず、企業や自治体が経営に行き詰まったとしても、建物やインフラ(経済社会基盤)は国民の財産として残るのだから、蛮勇をもって取り組む気概があっても良い。
 阪神・淡路復興委員会が提唱する、「上海・長江|神戸・阪神交易促進プロジェクト」は、その一つだ。急発展する長江流域の内陸都市と神戸港の間に、水深の浅い専用船を就航させ、相互の交易を促進しようとの計画だ。このプロジェクトが実現すれば、物の交流だけでなく人の交流によって、被災地に活力がもたらされるだろう。このように、復興には元気の良い東アジアの若い力をカンフル剤として注入するのも有効な手段だと思う。
 東アジアの国際港のほとんどには、保税加工区が付属している。保税加工区はいわば、国際港に不可欠なインフラだ。これらの土地を用意し経済特区として、従来の規制を排除した実験ができれば必ず成功するだろうし、行き詰まっている日本経済にとってもよい刺激になる。

 二重ローン
 戦災と今回の震災の違う点は、被災地が国土の一部分に限定されていることにある。被災地から東に向かい、武庫川を越えると別世界だ。大阪へ出かけ、いつもと変わらない町の様子を見てショックを受けた被災者は多い。これは肉親を失った人が、世間が普通に活動し、テレビはいつもと変わらぬお笑い番組を放映しているのに違和感を持つのに似ている。国民全部が裸になって焼け跡から立ち上がったのとは違い、自分たちだけが日本社会の輪の中から落ちこぼれたような気がする。
 その上、自営業者には使い物にならなくなった設備のローンが残り、サラリーマンにも倒壊した家の住宅ローンが残っている人たちがいる。事業や家を再建するには、二重ローンを余儀なくされる。これらの人たちにとって、復興とは、昭和二十年代のようなゼロからの出発ではなく、マイナスからの出発である。
 二軒分のローンの上に、新たなローンが必要な人もいる。
 「義父の家を譲り受け、二月に引っ越す予定だったが、その家が半壊していた。瓦が剥がれ落ち、部屋は斜めに傾き、壁もひび割れた。
 義父の会社が繊維不況のあおりを受けて倒産し、差し押さえられた家を主人が買い取った。共働きだから、やれるところまでやってみよう。そう決心して買った。今住んでいる家と両親の家、二つの家のローンはきつかった。それでも、いずれは子供に受け継がせてやれるのだからと思い頑張ってきた。四月から長男が小学校に上がり、子供部屋が必要なので今の家と交換して住もうと決めた矢先だった。
 家は崖の上に建っていた。崖の石が飛び出し、下の家の人から『二次災害が怖くて眠れない。すぐに直してくれ』と苦情がきた。何度も何度も電話が鳴った。
 さっそく工事を依頼したが、住宅が密集しており足場が組めないとのこと。何軒もの業者に断わられた。最悪の場合、家を壊さなければならないとも言われた。いまだ交渉はまとまらず、見積額も出ていない。
 崖の中で水道管が破裂し、水が出なくなった。崖の上から水道管を引かせてほしいと近所に依頼したが、水量がもともと少ないからと断られた。本管から引く工事も未着工だ。一度も住まずに壊してしまうのか。あとまたいくら、借金を抱え込めばいいのだろう」(a 村井 里美 三十二歳 学校事務職員 神戸市灘区)。
 入居間もない新築マンションが、被災した例もある。
 「この地震で、私の住んでいたマンションは、地震の被害こそ軽微だったものの、周囲三方の建物が倒壊炎上し、その延焼で二十三戸中二戸が全焼、北側及び西側の外壁と階段などに大きな被害を受けた。
 昨年(平成六年)九月に結婚し、二人の貯金のほとんどを使い果たし、その上多額のローンを背負って購入した新築マンションだった。九階建ての七階に入居して四カ月あまり、部屋もやっと片づき、これから二人の生活の基盤を作っていこうとしていた矢先だった。(中略)。
 返済中のローンに加え、補修費用として新たに背負わなければならないであろう多額のローン。それを思うと、これからどうして行けばいいのか途方に暮れる。(中略)。
 私の祖母が戦争中のことを昔話として話してくれたように、私もいつの日にか、この震災のことを、こんなこともあったんだよと、子や孫に話してやれたらなあと思う。笑顔で……」(b 女性 二十八歳 会社員 神戸市中央区)。
 被災地には自己破産を申請した方が楽なはずの人たちがたくさんいる。二年たっても自己破産者の数が増えていないのは、公的金融機関の支払猶予に負うところもあるが、債務者の自尊心が申請をためらわせているのではないだろうか。地震直後の一月末、国民金融公庫の神戸支店に、自宅と事務所が全壊した初老の自営業者が、ローンの延長と新規融資の申し込みに来ていた。担当者とのやり取りの合間に、携帯電話が頻繁にかかり中断する。この人に残されたのは、取引先とのつながりと携帯電話だけだった。それでも、事業を再開しようとしていた。
 「震災復旧緊急融資制度」で二万四千件、三千億円の融資がなされているが、返済猶予期間の三年が過ぎても事業の再建の見通しがまったく立たなければ、自己破産者が雪崩をうって出る恐れがある。

 自営業者
 長田区にはケミカル・シューズ産業にかかわる自営業者が多い。ミシン加工業を営む夫婦は、須磨区の自宅が全壊し、垂水区の弟の家に逃れた。そこで、テレビで仕事場のあるあたりに火が広がって行くのを見た。
 「翌日、じっとしておられず、50ccのバイクに主人と二人乗りして仕事場に向かった。垂水から旧神明を走り須磨の離宮公園前まで来たあたりが天国と地獄の境目だった。通ることのできなくなった道を迂回しながら長田の仕事場にたどり着いた。仕事場は残っていた。全身の力が抜け涙があふれた。
 仕事場の中は想像以上にひどい状態だった。土足で上がり、ミシンなどの機械を見た。壊れてしまったものも数台あった。床にメーカーから受注した甲(靴の甲の部分)が散乱し泥だらけになっていた。主人は取引先を見にバイクで出かけた。数時間後、帰って来た主人は言葉少なに『取引先数社がすべてだめだった』と私に告げた。
 地震から数日後、二人の子供をとりあえず加古川市の実家に預けた。七歳の長女と五歳の長男。今まで子供と離れて暮らしたことのない私は、家を失い仕事のめども立ってないその時、何時子供を迎えに来ることができるのか分からず、帰りの車の中で涙が止まらなかった。この地震で肉親を亡くした多くの方に申し訳ないと思いながらも、家族がバラバラになるのは本当に辛いことだった。(中略)。
 春になった頃、ケミカル産業のメーカーが七割復旧したという明るい話題が新聞に載っていた。事実その時は、メーカーも在庫品での仕事があり、わが家にも仕事が入り、失業状態から立ち直ったかのように見えた。
 六月下旬、何とか梅雨前に仕事場の修理が完了した。仕事は細々と入ってくるが先行きは見えない。仕事場の約六畳の休憩所に親子四人身体を寄せ合って暮らしてはみても、やはり子供のためにも家を再建したいという思いが募り、須磨の自宅解体後に再建を決めた。
 復旧したメーカーも在庫分の仕事が終わった後、開店休業状態となり、秋に変りつつある今もあまり活発な動きはないが、主人は仕事仲間と組んで動いているメーカーを探し、少しずつ仕事を取っている。
 震災前の三分の一ほどの収入で生活には不安がつきまとうが、一時はミシンを辞めることも考えた主人が、『長田のケミカル産業がいつまでもこのままの訳はない』とミシンに賭けている。失ったものは大きいが、かけがえのない家族と共に明日を見つめて歩いていきたいと思う」(b 薄木智子 三十五歳 自営業 神戸市長田区)。
 この人は「地蔵盆」にその後の経過を報告しているが、売上の回復は困難なようだ。
 西宮市で自宅と経営する持ち帰り弁当の店舗が全壊した夫妻は、妹夫婦を頼り新大阪駅周辺に疎開した。店舗は借家だった。早く店を再開しようとしたが、家主は隣接する貸店舗を整理して大きなビルを立てる計画を持っているらしく、らちが明かない。そこで収入を得ようと、新大阪のオフィス街で立ち売りを始めた。
 「三月中旬より三十個近いお弁当とガスコンロ、カレー、スープを車に積んで売りに行きました。
 最初はどこで売ればいいのかわからず、恥ずかしいのと寒いのとで泣きたい気持ちでした。あまり目立たない所で、それでいて人通りの多い所を選んだつもりでも、売れずにたくさん残りました。違う場所へ移動して売ったのですが、そこでは持って行った分はある程度売れたものの、近所の店から交番所に通報があり、警察官が来て、すぐに片づけなさいと言われました。何ともみじめな気持ちになり、このころはよく主人と口喧嘩をしました。二人でアルバイトをした方が気が楽なのにと、主人を責めたりもしました」(bc 青木 加代子 四十九歳 飲食店経営 兵庫県西宮市)。 ようやく、適当な売り場を見つけ、関係者やお客に恵まれたが、
 「雨の日は下着までずぶぬれになり、風の強い日は(お弁当の)パックやパラソルがとびそうになったり、違法駐車取り締まりの時は、おまわりさんにこんな路上で売ってはだめだといわれますが、それでも毎日売りに行っています。今年の夏は、炎天下でよく日焼けしました。(中略)。
 が、やっと西宮で仮店舗が見つかり、八月中旬には営業できる予定です。でもこの店舗も全壊の建物で、二年後には取り壊しが決まっています。しかし少しずつでも前に進んでいかなくてはなりません。家賃を払い大阪から通って商売が成り立つかどうかわかりませんが、商売を始めたあの十四年前の頃の気持ち、それ以上の気持ちで頑張らねばと思っています。
 中学三年生の子供も往復三時間かけて学校に通っています。クラブ活動のある日は、帰宅時刻が八時を過ぎます。子供は子供なりに一生懸命頑張っています。早く西宮に帰りたいと考えています」
 青木さんは「店子」で、その西宮で始まった苦闘を記している。
 長田区の菅原市場で漬物製造の店舗と自宅が全焼した女性は、郵便局でアルバイトを見つけた。
 「私たちの仕事は転送届けを出している人の郵便物を避難先に届くように住所を書き直すこと。同じ班の内田さんはクリーニング業。全壊で店は閉めた。機械がとても高く、商売は続けられないと嘆いている。ご主人は中央市場の魚屋で正社員として働いておられる。永友さんは中華料理店。ご主人と二人で働き、近くに新築のマイホームも購入。しかし借家の店が全壊で、ご主人は震災五日目にしてタクシー会社の社員に。しかし将来はまた店を開きたいと目指しておられる。(中略)。
 そうこうしてしているうち、やっと市場が五月開店を目標に工事にかかった。毎日現場を見に行く母。それに並行してプレハブ住宅を建てることにした。子供二人の家族五人では店の部屋だけでは生活できないためで、私の住んでいる地域は市の区画整理に指定されているので本建築ができない。(中略)。
 知人の紹介で中古の二階建てプレハブ住宅を譲ってもらい、各室にテレビ、冷暖房、トイレも上下に付けた。内装は本建築並だ。かれこれ一千万円ちょっと。我が家の会計係の母の貯金通帳からどんどんお金が消えていく。痛い出費だ。震災さえなければこんなことにはならなかったのに。私の大事なヘソクリ貯金も一人眺め喜んでいるわけにもいかなくなった。市場は復興したものの肝心の周囲の人々は仮設に行ってしまった。一日も長く郵便局に勤められますように……」(ab 大堀 美重子 四十九歳 漬物製造販売業 神戸市長田区)。
 被災地では顧客である住民が少なくなっており、震災前の売上高は期待できない。そして、それがいつ回復するのかも分からない。この点からも、自営業者はマイナスからの出発をしなければならない。

 再建を阻むもの
 手記にある「区画整理」は、住居が破壊された上、前と同じ面積の建物が建てられなくなる、場合によっては場所も変えなければならないという状況をつくり出している。資金があっても原状回復ができないのだから、住民にとってはショックだ。
 「一月十七日の悪夢のような何秒かで、思い出のぎっしり詰まった我が家の一階がなくなり、二階の部屋が傾いたまま地面に落ちてしまいました。芦屋市内でも、最も倒壊率の高かった町(呉川町)に住んでいながら、家族みんなが、けが一つなく助けられたことが不幸中の幸いでした。(中略)。
 一カ月が過ぎ、そして二月二十三日。
 市から何かの説明会があるとご近所の方からうかがい、公園へ行ってみたのですが、配られたプリントには『区画整理事業』『減歩』『精算金』『換地』などという今までに見たことのない言葉が並んでいました。
 何だか訳のわからぬまま、とにかく市の担当者から説明を聞きました。それによると、減歩というのは、大きな道路や公園をつくるために市が住民から無償で土地を提供させること、また、精算金とはマンションその他、土地を提供できない人は、その分のお金を出すということでした。そして、換地、それは区画整理事業を行うためにほとんどの家が移動するので、そのはめ込まれる場所、土地のことのようでした。
 あまりに突然のことに、唖然としていましたが、市の担当者は、とにかく、このような区画整理事業を進めるので協力してくださいという姿勢でした。そして説明会とは言っても、まともに住民への通知もなく、その地区に残っている人など、ほとんどいない状態の中でのものでした。減歩や精算金という負担に対しては、区画整理後に美しい町、防災に強い町になれば、土地価格が上がるので同じことですという説明がありました。
 自分の住む町がきれいになるのをいやがる人は、まず、いません。ただ、それを行なう時期と手法が大きな問題なのです。震災で物はもちろん、家、そして大切な家族を失った人も多数います。そんな苦しい私たちに減歩・精算金・換地を必ず伴う区画整理事業という手法で町を復興させるのは、どうでしょうか。(中略)。
 前の土地に戻っても、いつかまた移動しなければならないという不安……。そういう不安のない落ち着いた生活に戻りたいのです」(b 松本 伸子 三十五歳 自由業 兵庫県芦屋市)。
 区画整理事業には建設省から補助金が受けられるので、被災地の市町は、震災前から計画ができていた地区には、この手法を使おうとする。しかし、唐突に計画を提示された被災住民が、「家が壊れたのを良い機会だと言わんばかりに区画整理をする」と反発するのも当然だ。市町は政府への計画申請のタイムリミット(最大二カ月)があるので急いだ。ところが現実には、被災地に限ってその期間を延長する「被災市街地復興特別措置法」が、関係者の熱意で短期間で成立した。平成七年二月二十六日制定だから、この手記にある市の説明会の、三日後だ。この特別措置法では、最長二年の建築制限が認められ、その間に住民の合意を取りつければよい。しかし、これは今だから言える話で、このような特別法がしかもこのように短期間に成立するとは、市町の職員のだれも考えもしなかった。審議されていることも知らなかったのではないだろうか。
 そもそも「国からの補助金が受けられるから、復興を区画整理事業でする」という発想が間違っている。本来区画整理は、災害復興のための事業ではない。しかし、新たな法令を作り国会を通すのは大変な作業だ。優秀な役人ほど、すでにある法令や制度で処理しようとする。だが今回の大震災の初期には、政治家も中央官庁の官僚もできるかぎりの支援をしようという「空気」があり、現に「被災市街地復興特別措置法」が成立し、公費によるガレキ撤去も実現した。政治家がイニシアチブを取り、もっと抜本的な復興のための特別法を早期に提案し、アナウンスしてもよかったのではないだろうか。
 区画整理事業とは別に、住民の住居の原状回復を妨げるものに、建築基準法がある。
 「私の住んでいた神戸市灘区のマンションは、築後二十年で百十戸が入居していました。地震で全壊の判定を受け立入禁止の赤紙が貼られました。地震当時、私はこのマンションの管理組合の理事長を務めておりました。(中略)。
 私たちのマンションの場合、修復か建て替えかが問題でした。現行の建築基準では建て替えると七十四戸しか確保できません。時間も費用もかかる建て替えは、当初合意を得るのが難しそうに思えました。ところがその後、公開空地の提供を条件に基準が緩和され、徐々に戸数が増え、九十一戸を建てられるようになり十一月五日の総会で建て替えが決定しました。この間何度も建築プランを変更しました」(b 津田 一郎 七十一歳 マンション管理組合役員 神戸市灘区)。
 建築後に変わった建築基準法の制約で、建て替えると原状回復ができないのだ。一戸建ての場合には、持ち主だけの問題ですむ。それでも、不満は残るだろう。しかし、マンションの場合は更に複雑だ。住民の合意が必要になる。まず誰が立ち退くかを決めなければならない。その上、残った住民は、再建費用に加えて不足する戸数分の区分所有権を買い取らなければならない。いずれも住民同士の利害が対立するので、五分の四の合意を取りつけるのは大変な作業となる。私たち市民は、行政や企業と対立するケースは経験しているが、対等な力関係の住民同士の利害の対立の調整には慣れていない。解体に公費負担が認められていたのは、当初平成八年三月末(その後一年延長)までだった。建て替えを目指すマンションの住民は、時間との競争で合意の取り付けを図ったが、二年が経過した今もまだ結論を出せないマンションもある。
 この問題は深刻だ。特例を安易に認めると、建築基準法違反のマンション群が、被災地に残ることになる。
 そして、被災地以外の全国のマンションもいずれこの問題に直面する。
 津田さんのマンションでは、ようやく建て替えを決定し平成七年十二月から公費解体に取りかかろうとした。ところが、今度は解体工事の騒音と安全対策について近隣の自治会からの了承が得られず、解体工事の着工は結局平成八年八月までずれ込んだ。

 借り手と貸し手
 住居の原状回復ができない人々は、ほかにもいる。立ち退きを迫られた人たちだ。
 「四月半ば、間借り人一同が集められ、家主の息子の説明が始まった。八月いっぱいで立ち退きである。アパート一棟と私たち四人家族と老婦人の住む二戸一住宅が東に傾いて修理に莫大な費用がかかること、解体して建て直すと建ぺい率の問題で今の戸数は不可能であること、家主の老人が震災後痴呆が進んだが、子供たちはそれぞれ職業を持ち、後を継ぐ気がないことなど、一時間ほど話を聞かされた。
 建物は半壊の評価を受けていたが、震災から三カ月もたった突然の申し出に、みな口々に不平を述べた。私たち、老婦人、小学生のいる家族、靴の内職をしている夫婦、美容師の女性、中年男性、専門学校生二人。ここを離れてどこへ行けと言うのだ。民間住宅は家賃も上がり、条件も厳しくなっている。三歳と一歳の子供を連れている私たちには、簡単には見つかりそうにない。となれば公営住宅か? 中国人の夫は失業保険をもらいながら職探しに走り回っているので、家探しは私の仕事となった」(b 和田 多美子 三十三歳 主婦 神戸市北区)。この一家は、八月末に住宅都市整備公団の抽選にようやく当たり、十月二十七日に北区へ引っ越した。

 家主も楽ではない。私の友人は父親から受け継いだ阪急沿線の駅前の学生用アパートと自宅の両方が全壊した。幸い死者は出なかった。学生は全員出て行き、トラブルもなかった。本人は大手企業に勤務しており、当面の生活に支障はない。被災者の中では経済的に非常に恵まれている方だろう。
 ところが友人は独身で、母親と独身の姉と、賃貸マンションに仮住まいしている。母親は老齢で入浴も介護しなければならない。それも病弱な姉の力では無理で、友人が担当している。三人が友人の父から自宅とアパートを相続したのは不動産市場がバブルの時期だったので、高額の相続税を分納にした。アパートの家賃は母と姉の生活費とその相続税の原資になっていた。
 友人は自宅とアパートを再建しようとしているが、アパートの再建計画がなかなか立たない。専門業者に相談しても、これなら確実にローンを償却できるというプランが出てこないのだ。業者は学生が学校近くの下宿を敬遠し始めている傾向から小家族向けの2LDKを勧めるのだが、学生向けのワンルーム・マンションとは違い建築費がかかり過ぎる。空き部屋が少しでも出ると、たちまち赤字になる。当面入居者は簡単に集まるが、やがて家賃の安い公共住宅や民間の「特定優良賃貸住宅」(入居者の賃料に自治体の補助があり、家主にも助成金、税金でメリットがある)が建つので、先行きは心配がある。しかし「特定優良賃貸住宅」は、入居者が抽選で決まりどんな人が来るか分からないので、家主には不安がある。
 震災前なら土地さえ持っていれば、事業計画が立てられたが、震災後の住民の動向も不確定なこの状況では、専門業者でさえ見通しが立たなくなっている。
 友人は自宅の再建は決めたが、相続税の支払いもあるので、アパートの敷地を更地のままにしておくわけにもいかず、考えあぐねている。最悪は土地を売却し相続税を一括返済すればよいのだが、相続時に比べると地価は暴落しており、母親や姉の手元にはお金が残りそうにない。旧家なのでつき合いが広く、二人の生活費をきりつめるのにも限度があるようだ。友人は自宅の新築ローンの返済が新たに加わる上、二人の生活費の面倒も見なければならないかもしれない。
 別の友人は、JR線の駅前で父親と同じ敷地に住んでいた。親子の家とも全壊した。駅前なので、一階と二階を店舗としたマンションビルを計画した。土地は自前だし簡単に計画が立つかと思ったが、設計事務所や不動産仲介業者や建築業者に相談しても、どこからも「確信を持って勧められるプランはない」と言われた。
 いずれのケースも、震災前までゆとりを持って暮らしていたので、新たな借金を背負うことに対する警戒心が強くなかなか計画を立てられない。しかし、時間がたつほど仮住まいの家賃が重み経済的ダメージが大きくなる。
 「更地」にあるような、借地の家主の再建は更に難しい。
 

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