第三章 救援者たち          

 ボランティア
 救援者はボランティアと職業人に分けられる。後者には自治体職員、自衛隊、医療専門家などが含まれるが、大災害では通常の職業倫理を超えた貢献が要求された。
 ボランティアという言葉はまだ日本に定着していない。手記の中でも微妙にずれた使い方がされている。ある女子専門学校生(十九歳 長田区)は、自宅の片づけもそこそこに、毎日アルバイト先のコンビニに通った。被災して出勤できないスタッフがいるうえ、連日、食料品や日用品を求める客が殺到したからだ。彼女はそれを、「半分ボランティアのつもりで」と表現している。アルバイトなので勤務の自由がきくはずなのに、使命感から頑張って勤務したという意味だろう。
 この手記を読んだある新聞記者が、
 「この筆者を笑えません。私たちも取材活動を職業としているにもかかわらず、気負う場合があります。その気持ちの中には『半分ボランティアのつもり』があるのかもしれません」と、言った。義務を超えて何か行為をするとき、ボランティアという言葉を使う人もいる。
 対価を求めずある行為をすることをボランティアと呼ぶ人は多い。しかし、これだと現場で困る場合がある。あるボランティアは、壊れた店の片づけを手伝った。ようやく再開にこぎ着けたら、店の商品の搬入などの開店準備も頼まれた。後片づけと開店準備の線引きはむつかしい、逡巡していると商店主から、
 「あんた、ボランティアやろ。助けてくれ」と言われた。被災者の中には、ボランティアをアラジンの魔法のランプから出てくる召使いの巨人のように考えた人もいた。
 「近くに店が開いて(その品物を)売っているのに、(避難者から)『〇〇を持ってきて』と言われる。不便のない人が車で炊き出しを食べに来る。私の町、西宮でもそうだった。あたりにはそんなに倒壊家屋があるようにも思えないし、近くには大きなデパートもあるのに、大勢の人々が物資に長い列をつくる。本当に困っている人がこの物資に助けられたかどうか不安になった。(中略)。
 私たちボランティアは、困っている人々を手助けしたいと物資を運び、炊き出しを行って来たはずである。それがかえって人々を自立から遠ざけ始めているのでは……。人々が困っている程度なんてラインは引けないものである。それだけに、とても難しいと思う。そのように考え始めてから、私は何をするのが一番必要かわからなくなってきた」(a 前出 寺居 優子)。
 これとは反対に、神戸市中央区の生田中学の避難所では、地震後一カ月ほどして、ビルのオーナーがベンツに乗って弁当をもらいにきた。顔見知りの避難者がボランティアの配給係に文句を言ったが、このオーナーは本当に困っていた。自宅と所有ビルが全壊し、収入を絶たれていた。自宅の庭にテントを張って自活していたが、銀行のローンに加え、テナントへの敷金の返却が重なり、手持ち資金が底をついたのだ。このように、困窮者の線引きは難しい。
 では、ボランティア先進国の人たちはどうだろう。
 「地震が起こった時、私は米国にいました。息子が電話をかけてきて、『テレビを見て』と叫びました。一時帰国で神戸を離れたばっかりだったので、とても信じられない思いでした。CNNの画面を見るだけでつらく感じ、特に考えられないほどの負傷者について思いを馳せ、再び関西空港に着陸するまでには、『何か』をしようと心に決めるほどになりました」(a 原文英語 パトリシア・K・トンプキンス 五十歳 大学客員教授 大阪府枚方市 米国籍)。
 阪神大震災では外国人ボランティアが大活躍した。しかし外国人、特に欧米人だからといって自動的にボランティアになるわけではない、
 「これまでボランティアの活動をすることについて、心のどこかに抵抗感があった。それは誰か他の人がやることだ、といつも考えていた。だが、『ニュース・ステーション』で死者の長いリストが読み上げられるのを見た時、私は突然神戸へ行く気持ちに駆り立てられた」(a 前出 ピーター・マクミラン)。
 このように、多くの日本人ボランティア同様、初めてボランティア活動に携わる人もいる。

 十字軍か「勝手連」か
 私は大活躍したNGO(非政府組織)外国人ボランティアの方々の幾人かとおつき合いするうち、彼らは被災地でのボランティア活動を「自然災害に対する戦争」と捕らえているのではないかと感じるようになった。戦争だから、訓練がいる。補給がいる。システムがいる。海外から駆けつけたこれらの人々は、自給できる食料や調理器具を持っていた。ある米国人ボランティアは、
 「日本には拳銃を持ち込まなかったが、暴動に備えてサバイバル・ナイフは持っている」と、自衛手段まで整えていた。私たち日本人は、「戦争」というと、その言葉自体に拒否反応するが、彼らの災害ボランティアはまさしく戦争である。
 淡路島の避難所では、軍隊経験のある老人が、自分を将官に見立てて擬似軍隊組織を作り、初期には一定の成果を上げたが、ほかの避難者のひんしゅくをかってリーダーから退いたという事例がある。
 グリーン・ピースという団体がある。彼らは捕鯨禁止運動やフランスの核実験反対運動、ロシアの原子力潜水艦からの放射能流出告発など華々しい活躍をしている。自前の調査船を持ち、その維持や訓練だけでも大変な費用が必要なはずだ。原潜からの放射能流出の摘発はテレビで見たが、広い海域で画面に映っていた船一隻だけで見つけたのではないはずだ。複数いたのではないか。
 グリーン・ピースの資金源がはっきりしないことや、捕鯨禁止運動で調査船にボートをぶつけたりする過激な活動を見ると、彼らは自分たちを「環境破壊に対する十字軍」とし、その活動を戦争と捉えているのではないだろうか。戦争であれば、手段を選ばなくてもよい。
 日本はボランティア後進国だが、私たちに彼らのマネができるようになるのだろうか? ボランティア活動に初めて参加した人のほとんどが、最初にイメージしたのは炊き出しだった。農村ではどこかの家に不幸があったとき、遺族の負担を軽減するために、近隣の人たちが炊き出しをし、葬儀のすべてを肩代わりする。私たちはその延長上で、災害ボランティアを考えているのではないだろうか。
 しかし、震災には機材の準備や日頃の訓練を必要とする作業も伴う。中央区の小学校で自衛隊員がテントの杭打ちをした。たくましい若者が苦労してハンマーで打ちつけたが、後に米国のボランティア組織が、杭打ち機で驚くほど簡単に短時間で作業をしたそうだ。この他コンクリートの建物から人を救助するための重機や救助犬やヘリコプターからの消火など、自衛隊や警察や消防組織にすら課題があるが、市民レベルでは基礎的な訓練が全くできていない。
 学校教育では、林間学校程度のサバイバル訓練しかしていない。活躍した日本人ボランティアで、ボーイスカウトでのサバイバル・ゲームの経験が一番役立ったと言った人がいた。しかしわが国では、ボーイスカウトやガールスカウトに参加する子供は少数だし、サバイバル訓練を受けられる徴兵制度もない。サバイバル教育をどのような形で無理なく行うのか、検討が必要だろう。
 学校教育の科目の中に取り入れたり、ボランティア活動を単位として認める(被災地の一部の大学では既に実施している)などは、無理なくできるのではないだろうか。米国では大学志願者の選考で、ボランティア活動実績が非常に高い評価を受ける。このような形で奨励すれば、日本のことだから「ボランティア塾」までできるかもしれない。
 成人については、希望する企業に災害対策ボランティアを任命してもらい、自治会リーダーとともに講習の機会を作ってはどうだろう。講習での学習効果だけでなく、そこでの交流がいざというときに役に立つ。兵庫県の「こころ豊かな人づくり五〇〇人委員会」の委員やそのOBは、今回の震災でも活躍した。
 それとともに、「日本の風土に合ったボランティア」のコンセンサスを形成しなければならない。
 私はボランティアの訳語としては、「勝手連」が一番ふさわしいのではないかと考えている。参加したいときに参加し、やめたいときにやめる。そこには、義務も権利もない。そもそも英語のボランタリーは、「自主的な」という意味の形容詞だ。自分の特技と才能を生かし、興味のもてる分野で、少し背伸びして、社会貢献するのがボランティアではないだろうか。従って、炊き出しや労務提供だけでなくもっと自由な発想から、いろいろな形のボランティアがあってよい。今回の震災でも、渡辺玲子さんらは、家が全壊し置き場がなくなったピアノの嫁ぎ先を斡旋する「ピアノ・エイド・ボランティア」をしたし、「こむクラブ」の人たちは、仮設住宅を訪問して人々に連歌を綴ってもらい、ふれあいの場を創造した。夏場、仮設住宅の住民に手作りのうちわを送る運動をした人もいる。これからはパソコン通信や転送電話を使って、特技を生かしたサービスをしたり相談に乗ったりする、時空を超えたボランタリー活動も可能だろう。私たちの活動も「記録のボランティア」と認識している。

 必要なもの
 災害直後には、ボランティアに特技がなくてもその存在自体が被災者には励みになる。しかし時間が経過するにつれ、よりきめの細かな気配りとサービスが要求される。
 淡路島の一宮町で、避難所の巡回看護をしたボランティアは、
 「昼の避難所は、老人、障害児、精神病の人が多くなり、中でも足の不自由な老人が、毎日同じ場所で、同じ服を着て、何もしゃべらずに座っていたり、横になっていたりする姿が目につきました。話をすると、
 『家が気になる。荷物を出していない』とのこと。もう、震災から一カ月以上もたつのに驚きでした。
 避難所の入口には、多くのボランティア情報、仮設住宅の情報、励ましの手紙などが張ってあります。目の悪い老人や足の不自由な人には、情報が入ってこないようでした。いつもポツンと避難所に座っている老人たちを見て、『弱い者は取り残されていく』と感じました」(a 木村 恭子 二十七歳 看護婦 東京都練馬区)。
 彼女は、男女のお年寄りを散歩に誘った。その帰り道、男性のお年寄りが玄関が傾き取り壊しになる家に寄って取り出したい物があると言った。
 「おじいちゃんの欲しかったものは『ひげそり』でした。改めてみると、顔はひげが伸びていました。避難所の老人は、みんな疲れた顔で髪もボサボサだったのですが、とりわけ奇異には思っていませんでした。清潔を保つ援助は、入浴ばかりではないのに気がつきました」。
このように、専門家でも気づかなかったサービスも必要だ。
 避難所の男性のお年寄りが、若い女性のボランティアが来たためにひげを剃って身ぎれいになった例は多い。もっとも、ボランティアが帰ってしまうと、元に戻るそうだ。

 ボランティアには訓練が必要だ。私たちの会では勉強会と意見交換会を開催している。勉強会では、新聞社OBの講師に文章技術や取材技術の基礎知識をお話し頂いたり、兵庫県の生活科学研究所の所長さんに「生活者の視点で、どんな震災記録が可能か」のヒントを頂いたりしている。参加者は約五百のメンバー数の割りには二、三十名と少ないが、今後も継続していくつもりだ。私たちの会の課題でもあるが、いかに興味深く参加しやすい勉強会にするか、ボランティアの分野に応じた工夫が必要だろう。

 ボランティア同士の連携と役割分担も重要な課題だ。マスコミ報道では、避難住民の中のリーダーやボランティアが、避難所の運営指揮を主にとったような印象を受けるが、実際には教職員や市の職員が主体となった(しかも約半数の避難所では指揮者が決まらなかった)。建物の管理者である学校職員や、市職員及び地元有志のほうが、よそから来たボランティアよりは地縁があるのだから、当然の結果だろう。神戸市教育委員会の複数回答のアンケート調査(回答校数二一五)結果によれば、指揮者となったのは、避難住民リーダーが一四・九%、ボランティアは二・三%にすぎない。最後まで避難住民による自治組織ができなかったという回答も三三・八%ある。
 東灘区や長田区で活躍した活動経験が豊富なボランティア団体の場合は、拠点、財源、人材を確保し、本部機能や後方支援体制を確立し、機能的な活動ができた。しかし、初めてボランティア活動をした人たちの中には、被災者の要求を単に行政に要求するだけで、行政の窓口とギクシャクしたり、かえって被災者をいら立たせた人もいた。二月上旬頃からは被災地各所で、ボランティアの各レベルの連絡協議会のようなものができ、このような問題は克服されたが、初期の段階からできていれば、もっと成果が上がっただろう。そのためには、災害救助について、いつでもマニュアルやオリエンテーションを提供できるボランティア・コーディネーターを養成しておかなければならない。
 しかし、いつくるか分からない災害のためだけのコーディネーターの養成には無理がある。ほかの市民活動とあわせて、幅広い市民がオリエンテーションの機会を持てるような工夫が必要だ。分かりやすく興味の持てる記事や番組、出版物にも期待する。
 会に寄せられた記録の中に、神戸市中央区にある旧下山手小学校避難所における、平成七年二月四日現在(地震後十九日目)のボランティア用運営マニュアル(b 山本 六三 二十八歳 美術館職員 静岡市)がある。
 「住民が自立しかけているので、あくまでその手伝いをすること」などを基本理念とし、具体的な炊き出し作業の応対例として、
 「材料がそろったら、放送で料理をしてくれる方を集める。放送例、(口調を)明るく『料理の好きな方、味にうるさい方、炊き出し場に集まってください』」とある。このようなユーモアの味つけも貴重なノウハウだ。

 ボランティアの心の傷
 ボランティアの心のケアも重要な課題だ。
 「ボランティアにとって、あまりに大きな苦悩や破壊の証人となるのは、精神的に負担となる。
 私たちのグループに、中国系のアメリカ人がいた。彼は休暇で日本に立ち寄ったのだが、友人に連れられて神戸に救援に来ていた。彼は男の中で一番大きく、一日中大きな荷物を担ぎ、苦情を一切言わなかった。
 私はこれ(救援ボランティア活動)が彼の日本における唯一の経験になるのを少々気の毒に思い、彼の持っているカメラで記念写真を撮ろうかと申し出た。しかし私が焦点を合わせようとした時、視界の中の顔がどれも同じに見えたのには驚いた。鏡のように、彼らの苦悩と痛みの表情が、自分自身をのぞいているような奇妙な気がした」(前出 ピーター・マクミラン)。
 これは、救援を職業とする人々にも共通する。地震の日から半年ほどがたった時、機動隊員の妻が書いた手記がある。
 「私も水汲みと家族の世話に追われていたが、一段落した時はっとした。救出が毎日繰り返される中で、主人は一度も自分のしてきた仕事に満足している様子がなかったのだ。それはずっと続いた。例えば、
 『もっとこうすれば良かったんじゃないか』『あと少し早ければ』『あれもしてやりたかった』。
 後悔と自責の言葉のみなのだ。そばで聞いていても、こんなに頑張っているのになぜ? といくども思った。慰めの言葉は、主人の気持ちを逆なでするだけだった。私は家族として、ただの一市民として機動隊をはじめすべての警察官に頭の下がる思いであったが、実際現場で働くものにとっては、自分との戦いでもあったのだ。気づいてから主人にはつとめて自信を持ってもらうように気を遣った。
 生存者の発見が絶望的になった頃は、死臭との戦いもあった。遺骨拾いを手伝った火災現場で溶けてしまった自分の靴底を出勤前に何度も触っていた。体力を付けて頑張ってほしいと力のつく食事を用意しても、肉類はほとんど受け付けない。一生懸命やろうという気持ちと、体力の限界とのギャップ。(中略)。
 被災した方々は、言い尽くせない心の傷を持っておられる。しかし直後から被災者救出や、復旧作業、ボランティアに携わった人々も深く心に傷を負っていることも忘れてはならない。それはやっかいなことに、本人は気づいていないことが多いと聞く。
 加えて自らも被災者という人も大勢いる。まじめに、そして真剣に関われば関わるほど余裕がもてず、一途にのめり込んでゆく。休息を取ることにとても罪悪感を持ってしまう。第三者的に関われず、それが最悪の場合、自殺にも結びつきかねないという。責任者という立場の方はなおさらだろう。幸い、主人は早い時期に自分を取り戻し、今では貴重な経験をさせてもらえたあの時を大切にしたいと言えるようになった。
 心のケアというものは、私たちにはできないものなのか。夜間パトロールで町を歩いている時、『ありがとう』『頑張ってね』のそんな一言が、どれほど多くの警察官を救ったことだろうか。
 避難所のボランティアの方が言っていた。『感謝してほしいと思ったことは一度もないが、感謝してくださると元気が出ます』と。町に出て、三歳の息子が県外からの応援のゴミ収集車に足を止めて手を振った。笑って手を振り返してくれたあの人に、私たちの気持ちが伝わったろうか。
 今後、全国どこでも起こりうる災害時には、心のケア専門チームが、被災した人々にはもちろん、それを手伝う側にも必ずついて頂きたいと切望する」(b 橋口 美和子 二十九歳 主婦 神戸市長田区)。
 須磨区で人命救助と遺体の収容に当たった自衛官も、
 「今回の災害派遣に参加できたことを誇りに思うと共に、被災者の方々から送られた言葉を決して忘れはしない。
 『ありがとうございました』……」(b 柴田 通仁 二十八歳 陸上自衛官 兵庫県小野市)と書いているように、被災者の感謝の言葉は救援者にとって何よりの心の支えとなる。

 被災者からの感謝の言葉に加えて、救援者同士や被災者との連帯感も心の支えとなり得る。
 「ボランティアが他のボランティアに勇気付けられることもある。夜になると私たちは新しく到着した品物を運び込むのに列を作る。重い米袋やオレンジの箱、中古のふとん等を手渡すとき、みんなのペースについていくためにはあるリズムを習得しなければならない。このわずかな時間の間に、私はみんなのリズムに溶け込んで調和していくのを感じた。(中略)。
 震災は、私が他人とのつながりによって生きているという現実を自覚させた。そしてボランティア活動を通じて、人を助けるのは現実には自分を助けているのだと改めて学んだ」(前出 ピーター・マクミラン)。

 やっかいなことに、被害が余り大きくなかった被災地特有の問題もある。
 「地震は三木市にも大きな被害をもたらした。全壊家屋二十六戸、半壊家屋百十二戸、一部損壊については、約三千戸、死亡者二名という被害を出した。神戸市や阪神間の各市と比べると被害は小さく思えるが、人口七万八千人の小さな市にしてみれば、過去に経験したことのない大被害であった」(b 岡本 重清 四十二歳 市役所職員 兵庫県三木市)。
 この職員は、通常業務に加えて、避難所の設営、毛布の調達及び配布、災害義援金、県援護金、市見舞金及び災害弔慰金の支給、災害援護資金の融資、それに伴う事務処理などの担当となった。その上、県の見舞金の到着が遅れたり、農林大臣が、災害援助資金の貸付(市が予算措置をしないと執行できない)を市町に連絡する前に新聞発表してしまったりする。問い合わせがあっても、彼にはいつから実施できるか答えられない。窓口担当者として被災者の矢面に立たされ、連日怒鳴られることとなった。
 「この頃では、義援金という言葉を聞くだけで胸が悪くなっている。担当から逃げられるものなら逃げたい気持ちである。職場の中も雰囲気が暗く殺気が走り、口調が荒くなる。私の職場の福祉課は三階にあり、夜遅くまで一人で仕事をしていて、精神的にくたくたのときは、窓の方に引っ張られるような錯覚を覚える。(中略)。
 末端行政担当者のみじめさを、今回の震災でつくづく味わわされた」
 三木市は、比較的被害が少なかったので、このようなことになった。ところが、被害が大きかった阪神間の都市では、職員のほとんどが被災者だったせいで職員同士に連帯感が生まれた。同じことが起こっても、職員間の連帯感があれば耐えられる。また、被災者も職員を責める矛先がにぶる。三木市では被害にバラツキがあったために、職員同士の連帯感が生まれにくかったのではないだろうか。
 なぜなら、私企業でもこのような現象があったからだ。被災地に住む人で、職場が被災地以外の人たちがいる。この人たちが、同じような苦境に立たされた。大阪までの交通機関は半年近く復旧せず、片道三時間以上かかった。夜遅くなると不用心なので、残業もできない。最初の数週間は周囲も同情的だったが、ひとつきほどして上司から「いつまで被災者意識を職場に持ち込むのか」と面罵された人もいる。
 私自身が、雲仙普賢岳や奥尻島の被災者はひとつきもたてば「多少の不便はあっても、ほぼ普通の生活に戻っただろう」と漠然と考えていた。これと同じ災害の後遺症に対する想像力の欠如が「温度差」となって被災者や救援者を悩ませる。

 ボランティアや被災地外からの救援者が、被災地での仲間や被災者とのふれあいに感動して元の場所へ戻ると「温度差」がある。そこには日常生活があり、家族や学校や職場の仲間にあの感動を語っても、本人が得たほどの感動は伝えられない。自分が周囲から浮き上がった存在になる。そのとき、周囲の人たちが冷たく見え、自分の心のふるさとは被災地にあると感じる。ベトナム戦争後、帰還兵たちが感じたような感覚に襲われるのだ。その結果、日常生活へのソフト・ランディングに困難を感じる人が出てくる。ボランティアや救援者が日常生活に戻ったときの心のケアの必要性までは、まだ世間の関心が及んでいないのではないだろうか。
 

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