第二章 「安藤衣子さんの二年」        

 理不尽な別れ
 平成九年一月一六日、NHKテレビは、三夜連続の「大震災に学ぶ」シリーズの二夜目に、「安藤衣子さんの二年」という四十五分番組を放映した。私たちの会に寄せられた安藤さんの手記を元に、映画監督の大林宣彦氏を進行役として、日本と米国の心理学者などが、震災によって肉親を失った人は、どのようにそれを受容し克服しようとするのかを学ぼうとする企画だった。ご本人へのインタビューで、三編の手記にはなかった事実も掘り起こした好番組だった。
 安藤衣子さん(abc 五十二歳 兵庫県明石市)は、ご主人と二人住まいの神戸市須磨区の自宅で被災した。
 「七時過ぎに近所の方が主人を見つけてくださいました。階段の中ほどで手首だけがのぞいていました。その手を握りながら、
 『なんで死ぬんや。生きてほしかった』(と呼びかけました)。
 近くまで火が回ってきたので、大事な身の回りの物を持ち外に出ました。警察や消防の人たちが助けに来てくださったけれど、生きている人たちが優先との言葉に、私はそれ以上お願いできませんでした。場所がせまく二次災害になってはいけないとのことでした。主人も解ってくれたことと信じています。ごめんなさい。
 その夜、火が入りすべてが焼失してしまいました。主人(の遺体)はひょっとして出してもらえたかもしれないと思い、警察に行きました。それもむなしく、焼けただれた胴体だけが発見されましたが、私はよく見ていません。(中略)。
 『おまえの世話はわしがするから安心せえよ』口癖のように言っていた約束はどうするんですか、一人ぽっちにして」
 安藤さんは、第一次応募手記で、
 「これからは夫婦の時代やで、といろんな計画を立てていましたが、それも(実現でき)なくなりました。主人が長生きできなかった分、私が長生きします。(主人は)五十二年間の人生に悔いはなかったと思います。主人の口癖は『古いものが滅び、新しいものが生まれる』。この言葉通り、神戸の町が大きく飛躍することを願っていると思います」と書いた。
 このように、肉親を失った方々は、死者の生前の言動に救いを求めたり、死者の分まで自分の生を充実させることに意義を見出そうとする。
 五歳の娘さんを失った小西眞希子さん(a 三十五歳 兵庫県西宮市)は、
 「十二月の音楽教室のクリスマス会で、目をつぶって手を握り、お母さんを当てるゲームで、あなたはすぐにお母さんを当ててくれました。『お母さんの手はいつもあたたかいもん』『お母さん疲れたら言ってね。いつでも肩たたいてあげる』。そう言って笑っていた希。(中略)あなたを奪った大震災がお母さんは本当に憎いです。今、お母さんもお父さんも死ぬことを怖いとは思いません。天国にいるあなたに会えるまで頑張りますね。のんちゃん、見ていてくださいね」と呼びかけた。
 八歳と四歳の孫の兄妹を失った岡本博子さん(b 五十九歳 神戸市東灘区)も、
 「あの頃(一月十七日)孫は二人とも誕生日を一月三十日、二月七日と間近にひかえていた。プレゼントを用意し、楽しみに待っていた娘夫婦の心を思うと胸が痛む。でも乗り越えて何とか前向きに生きて行くことが、死んだ二人へのプレゼントかもしれない。(中略)。
 そちらは楽しいところがありますか。早く見付けて皆と遊んでね。短い間だったけれど良い思い出をたくさん残してくれてありがとう」と記した。
 肉親を失った投稿者は十六名おられるが、二名を除いて(それぞれ、区役所の遺体処理手続きの遅れと、娘さんが「即死だったのだから、苦しまずに亡くなった」という知人の慰めの言葉に対する反発を書いておられる)この類型である。手記という表現形式のせいかもしれない。
 しかし、これだけでは割り切れない。安藤さんは第二次応募手記で、
 「(主人は)本当に息が絶えていたのだろうか? 大きな梁の下で声が出なかったのではないだろうか? 苦しくて痛くて辛い思いをしたのではないだろうか?」と悩み、四月にアパートを借り一人住まい(結婚した息子さんもいるのだが、心の位取りが高いのだろうか、独り暮らしをされている)を始めると、
 「本当の孤独が私を襲います。何もいらない、主人がいてくれればと思って生きてきた人生。その主人が数時間で亡くなったことが長い間信じられず苦しみました。会社も自宅も財産もすべてをなくしたこと、将来に希望が持てないこと、地震と共に社会の輪からはじき飛ばされたこと、体の不調。何だか何もかもおかしくなった自分を考える時、これはあまりにも荷が重過ぎる、私は立ち直れないんじゃなかろうかと思い、落ち込みました」。孤独と直面し死をも考えるようになる。しかし、救いを求めて読書するうちに、
 「自分の(生活の)サイクルを確立するのが大切だ」と書かれた本に行き当たり、六月下旬から早朝近くの砂浜まで散歩し、百字帳に写経するのを日課とし始めた。それと共に、
 「『出来ない苦労は与えられない』とよく主人が言っていました。この大変なことを克服するのは、私でないと出来ないと思えるようになりました。そうすることにより、自分の存在感、また生かされた命の本当の意味が解りました」と自己説得するに至り、
 「人間誰しも孤独です。私一人が孤独を背負っているのではないことが解りました。一日も早く元の元気な体に戻る努力を致します」と、締めくくっておられた。
 しかし、葛藤は終わらない。第三次応募手記「春を待つ」では、パートの仕事を見つけ、社会参加をすることで癒しを見出そうとしていると記しておられる。

 心の癒し
 地震後しばらくして、朝日新聞の夕刊に過去の大災害で肉親を失った人たちの記事が連載された。この企画は、被災者の心のケアの手がかりを提供するためと思われた。その中に御巣鷹山の日航機事故で夫を失った人の手記があった。事故の直後に、被害者は自分だけではないと自己説得するのだが、それだけでは救われなかった。趣味の皮細工に没頭し、数年後教室を開設して、そのふれあいの中でようやく心の安息を見出したとあった。肉親を失った被災者が、死者の生前の言動から解放され、生者のコミュニティと向き合い、そこに救いを見出すまでには、数年の時間が必要なのかもしれない。
 大きなストレスに直面したとき、私たちはその克服のため、「ものは考えようだ」と合理化して受容しようとしたり、自分が理想とする「毅然とした生き方」を試みたりする。前者には、「被害者は自分だけではない」「それでも生かされている」「大変なようでも最悪の事態ではない」「神が与えた試練だ」「前世の因縁だ」……などの考え方がある。後者では、「他者から見て毅然としていなければならない」「常に前向きに人生を歩まなければならない」などの目標を掲げ、果敢にストレスに立ち向かう。
 しかし、ストレスが大きすぎると、このような、いわば「頭の切り換え」だけでは救われない。人々は、そのストレスをいっとき頭から追い出す方法を選択する。
 読経、写経、巡礼、ラジオ体操、散歩、登山、ジョギング、音楽・演劇・映画鑑賞、ダンス、ドライブ、旅行、カラオケ、飲酒、ギャンブル、ショッピング、奉仕活動、ペットの世話、単純労働……。これらの試みの特徴は、一時にせよ体と心を忙しくさせ、没頭できる点にある。
 そうして、時間の助けも借り、徐々にストレスと向き合い、自分に最もふさわしい「ものは考えようだ」の形を見つけたり、理想とする生き方を演じられるようになるのではないだろうか? さらに大きなストレスの場合には、これらを交互に試し、また次の試みへと移っていく。試みの成否は、多くの場合、社会と何らかの関わりが持てるかどうかで判定できる。
 このようにして、被害者が試行錯誤の後「ものは考えよう」のいずれかを選ぶとしても、第三者が押し付けるのは説得力がない。
 資産家に嫁いだ知り合いがいる。義父母とも仲が良く、夫ともうまく行っている。子供たちも順調に育っている。敷地の一部を駐車場にしているのだが、そこへ時々排便をしに来る人がいる。夜のうちに忍び込んで用を足すらしい。翌朝、二階の窓から使用済みのティッシュペーパーを見つけると、嫁がその掃除をしなければならない。義父母たちは、警察を呼ぶほどの事件とは思わず、人を雇うほどの仕事とも思っていない。彼女はそのうち、カーテンに手をかけるだけで吐き気がするようになった。この人に、「ものは考えようだ」という説得はいく様にもできる。しかし、説得力はない。
 同じストレスがかかっても、人によってインパクトが違う。第三者は被害者に、「頭の切り換え」を安易に提案すべきではない。被害者が、「頭の切り換えができない自分」を責めて、追いつめられることさえあるからだ。第三者は被害者の苦痛をよく聞き、もし、被害者が没頭できるものを試みようとするならば、それにつき合ったり、手助けしたりする方が意味があるのではないだろうか。
 心の動き
 理不尽な力によって、肉親や財産を失った人々は、まず「被災者は自分だけではない」と自己説得し、同時に、肉親や知人、周囲の人々、ボランティア、他府県からの支援に感謝の気持ちを持つ。
 小西さんは、
 「希はあの混乱の中、多くの人に助けて頂きました。電気が通じていないため、何時間も手で人工呼吸を続けてくださった看護婦さんが、『希ちゃん頑張りよ』と言ってくださった言葉がどれほどうれしかったか。みなさん本当にありがとうございました」と、最後まで看病してくれた看護婦に感謝した。
 五十七年間住んでいた家が全壊した男性は、
 「私たちが永年住みなれた我が家は、たとえ借家であっても最後の最後までふんばり、老柱等がへし折られても、尚私たちを救うべく最小のすきまを残したまま寿命つきて全壊した。家に別れを告げ、何回も頭を下げ合掌していると目頭が熱くなり、ついに大声で泣き出した」(a 小竹 孝昭 六十歳 神戸市東灘区)と「家族を守った我が家」に感謝した。
 同じ東灘区で自宅が全壊し、腰骨と肋骨が折れ肺内出血を起こしたまま、妻と共に家の下敷きになっていたのを助け出された男性は、
 「私の住んでおりました魚崎はご近所同士のつき合いも古く、老人二人の生活を日頃から皆さんが気にかけてくださったお陰で、私たちは命を助けられました。本当にありがたく思っています」(a 卯田 信夫 八十歳 神戸市東灘区)と近隣の人々に感謝する。長田区で全壊した家からようやく父を救い出した男性は、
 「まさか自分の人生にこんな災難が降り懸かってくるとは、考えもしなかった。あたりはますます勢いよく炎に包まれていった。家族の命さえあればそれでいい。これから家族(みんなで)力を合わせてがんばろう。焼けていく自分の家を見届けながら、自分の心の中で何度もそう言い聞かせた」(a 勇山 宏幸 二十八歳 自営業)、命に勝るものはないと自己を説得した。

 しかし、時間が経過するにつれ、生命や財産の喪失の意味を模索する。その矛先を行政や人に求める人もいるし、自分が「生かされている」ことに感謝し自らの存在価値を確認しようとする人もいる。
 前者の中には震災を人災と捕える人もいる。地震直後、首相や県知事や神戸市長の始動が遅れたことや、消防や自衛隊の救助活動が十分でなかったのを糾弾する。地震当時の首長やこれら行政機関の行動の情報公開が十分なされていないので、憶測もある。全貌が明らかになれば、改善すべき問題とやむを得なかった問題がもっと明確になるはずだ。
 病気の娘と東京の大学に在学中の息子を抱える女性は、被害が大きかったにもかかわらず経済的にほとんど救済がない「一部損壊」の指定を受けた。
 「今の私共にぬくもりを与えてくださるのは知り合いだけです。役所はすべて、証明書の内容で私たちを差別します。役所へ出向き、私共の現実を説明しますと、『大変ですね。私たちもお助けしたいのは山々ですが、全て決まりです。私共には何ともしようがございません。どうかご理解ください』。全てこの繰り返しです。現状に即した救済制度が取り入れられない限り、日々、苦しみ、泣き暮らしている人を救うことは決してできないでしょう。(中略)この震災で、行政の冷たさを私自身が肌で感じ、自力で多くの問題と闘い同様の問題を抱え苦しんでいる人々の話を聞きました。私たちの意見が少しでも取り入れられ、制度が変化するよう、愚痴を言うだけでなく、私なりに行動し取り組んで行こうと思います」(b 守田 基師子 五十二歳 文化教室主宰 神戸市中央区)。
 守田さんは、それを実現しつつある(c「法律」)。

 地震で命が助かり、自分が「生かされている」ことに感謝し、自らの存在価値を確認しようとする人は多い。被災地の人々は私も含めて「場所や時間の少しのずれで、自分は助かった」と思っている。通勤途中や勤務時間に地震が起こっていたら、死傷者の数はとんでもなくふくれ上がっただろう。その中に自分が含まれると思う人は、大勢いる。
 「(地震後しばらくたって)水運びも、お風呂で何時間も並ぶことも、いやでなくなりました。私は生きているから、地震で亡くなった人たちとは比べられないほど幸せです。私の同級生も、三人死んでしまいました。そのうち二人は私の友達でした。どうして今まで生きて、一緒に勉強して、やっと高校生になれたのに、何のために悩んで苦しんで受験したのでしょうか。仲良くなって、その人を好きになっても、別れなくてはいけないのなら、どうして友達になったのでしょうか。私はこれからも生きてゆくことができます。生きて、自分次第で精一杯人生を満喫できます。生きていれば、どんなことでも切り抜けてゆけると思います」(a 中筋 佐和子 十六歳 高校一年生 神戸市東灘区)。
 倒壊した三宮・阪急百貨店の警備員は、瓦礫の下敷きになって亡くなったスキー帰りの若い女性の遺体を見て、
 「もう十分遅く地震が発生していたら、私と主任はこの瓦礫の下で同じように潰れていたことでしょう。いつも巡回で通る所でしたから」(b 山林 久人 四十六歳 警備員神戸市垂水区)と述べている。
 「虫が殺せなくなった。正確に言えば、殺しにくくなったのだが、蚊でもゴキブリでも殺すのを一瞬ためらう。すると逃げられる。特別他の人より優しいわけでも何でもない。しかし、あの大震災で亡くなった方が五千人以上にものぼる中で生き残ったんだなあと思うと、やっぱりためらってしまう」(b 宮本 恵子 二十八歳 主婦 神戸市兵庫区)。
 神戸市中央区のOLは、周囲の家は助かったのに、自宅だけが全壊した。両親と三人で避難生活をしていたが、父親が体を壊し失明の危機に陥り入院した。
 「私は1Kの仮設で一人で生活している。この九カ月、私はものすごい体験をしてきたように思う。今まで自分一人で生きてきたと思っていたけれど、実は周りの人や物に生かされてきたんだと気づいた」(b 山田 ひろみ 三十歳 会社員 神戸市中央区)。このように「生かされている」という感想を含む手記は非常に多い。

 心の隙間
 地震直後、肉親をなくした被災者が、他人に淡々と肉親の死を告げた現象があった。
 「地震当日の夜、私は三宮がどうなっているかを見ようと友人たちと出かけた。暗くて不気味な街路には、一人の警官を除いて、男が一人だけいた。
 我々は阪急電車の建物の下の道を通れるかどうかを調べている時に彼に出会った。彼は我々のすぐ後ろを歩いていて、我々に追いついた時に、道は片づいており彼は通ったが気をつけなければならないと教えてくれた。私たちは一緒に歩きながら、この辺りがいかに危険かや地震の影響全般について語り合った。道をほとんど通り過ぎようとする時に、彼は妻と子供をその朝亡くしたと言った。子供が単数だったか複数だったかは、今思い出せない。
 私には彼のこのようなコメントに適切な言葉を即座に返すことが困難だったし、困惑した。彼がまったく何気ない様子でしゃべっているので、言っていることが本当かどうかが分からなかった。しかし、このような状況で彼が嘘をついたり冗談を言ったりする理由が見つからないし、彼を信じない理由もない。
 結局、私は非常に弱々しい声でつぶやいたようだ。
 『ああ。お気の毒です』
 私がさらにショックを受けたのは、彼が憐れみを求めるのでもなく、特に憂鬱な様子や苦痛を見せていないことだった。彼を表現するのには「あきらめ」が唯一適切だと思えた。私たちはすぐにお互い『さようなら』『気をつけて』と言い合って別れた。彼は決まり切った当り前の様子で、歩き続けた」(b 原文英語 ランダル・W・ボリッグ 四十七歳 英語学校教師 神戸市中央区)。
 地震直後、ラジオのレポーターが、全壊し焼けている家をじっと見つめている男性にインタビューした。その人は、家族が閉じ込められていると語った。
 ある新聞社の編集委員は、このように被災者が報道関係者の取材に対し、その重たい体験を拍子抜けするほど簡単に語ってくれたのは、うつろになった心の隙間に土足で踏み込んでしまったのではないかと反省する。
 悲惨な体験をした被害者が、インタビューに意外に明るく、時にはユーモアを交えて答えた例もある。倒壊した家の下敷きになり救出を待つ間に、テレビカメラのライトに照らされ、笑ってピースサインをした男子学生がいたそうだ。これを「関西人特有の……」とコメントした人がいるが、どうだろう。
 「人々の声はいつもよりも大きく多弁である。三時間埋まって助けられたと笑いながら話す年配の婦人。長田から来られた方は、家はぺっちゃんこ、なんにもなし、と大きなゼスチャー。頭部の十針もの傷跡を、これだけですんだと見せる男性。松江からのお見舞いの婦人が『さすが関西、みなさん声が大きくて元気ですね』と感心される。
 そうだろうか。本当にそうだろうか。一人ひとりが自らのテンションを意識して上げている。明日が見えないから元気なふりをして、不思議に声高に自分を語る。無理をして元気そうに頑張っている。助けられなかった命への悔い、明日からの生活、そのほか様々に背負っている一人ひとりの震災の傷はまだ内にこもっている。時が流れていつか心が和らぐのだろうか。そうして元気過ぎる声を出さなくてすむ『普通の日々』が私たちに戻ってくるのだろうか」(a 高橋 峰子 四十四歳 自営業 神戸市北区)。
 私もこの人に賛成だ。

 信仰
 心のよりどころを信仰に求めたという手記は、日本人には少なかった。朝晩、遺骨や位牌に手を合わせている人は多いはずだ。その行為を生活のサイクルとすることによって救われているのだろうか。あるいは、信仰によって既に心の平安を得ているので、手記を投稿するという行動に結びつかなかったのだろうか。
 しかし、外国人、特に欧米人の女性の手記には、いやしを信仰に求めるものが多い。
 「すべてが揺れ始めた。私はそれが終わるように祈った。(中略)。主人と私は二人ともおびえていた。私のこれまでの人生で、こんなに怖かったことはなかった。これは神の御業だ。それ以外の何物もこれを説明できない。聖書は『方々に地震が起こる』(マタイによる福音書・第二十四章七)といっている。(中略)。私は洪水やアパートの火事、いくつかの台風に遭ってきたが、この地震は最悪だった。個人でそれに対する準備もできないし、予報も役に立たない。人は安息を求めて、神に祈り神を信じるだけだ。『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる』(詩編46・1)。私たちは助かり、キリストの再臨を待っている。それはそんなに遠くない」(a 原文英語 セレステ・M・ウォード 四十歳 主婦 神戸市北区 米国籍)。
 私は歴史上の人物が始めた宗教が信じられない。宗教には戒律やタブーやノルマがつきものだが、その開祖が生まれる前の人類が、それを知らなかったばかりに罰を受けるとしたら理不尽ではないかと思ってしまうからだ。しかし、「自己の理性が認めたものだけをよりどころにする」ということは、自分自身が神になることでもある。私はどのようなストレスにも耐える「鋼の心」は持っていないので、大きなストレスに直面したときには、乗り切れそうにない。そこで、人間を超える存在を漠然と信仰している。投稿者たちのように既存の宗教を信仰できる素直な心がうらやましい。

 きずな
 地震直後の行動で父親が見直されたり、家族や知人との絆が深まった人もいる。
 「ぼくはこの大地震がなかったら、体験できないいろんなことを体験した。
 まず、この阪神大震災によって、父さんを尊敬できたことです。こんな大地震でも落ち着いていて、そして、揺れがおさまった後すぐに湯舟に半分ぐらい水をためたおかげで、どれだけ助かっただろうか……。
 ふだんは頑固で、あんまりぼくと妹にかかわらないが、初めて父さんをたよりになるなあと思った」(a 張 建元 十四歳 中学二年生 神戸市中央区 台湾国籍)。
 全壊したマンションを逃れた一家は、
 「その夜、避難先の本山第二小学校の校庭で眠った。というより横になり、寒さに震えながら過ごした。集団での生活は、どれほど勇気づけられただろう。そして人は決して一人では生きていけないと確認した。家族の絆が本当にうれしかった。(中略)。
 一月十七日、その日は私の三十九回目の誕生日だった。必死に取り出してきたと思われるリボンのかかった箱を息子が手渡してくれる。私と娘に焚火で暖をとらせてくれていた夫と息子が、
 『ハッピーバースディ、ママ』と、心をこめて歌ってくれた。
 『すごい日になってしまったね。絶対に忘れることができないね』と子供たち。
 『ありがとう』涙で声が詰まって言葉にならない」(a 佐藤 真由美 三十九歳 神戸市東灘区)。

 逆に、震災がきっかけで別れがおとずれた人もいる。
 「それから数日間をどう過ごしたか定かではない。とにかく無我夢中だった。一カ月は暖房もきかず、水もない、病院らしくない病院だった。
 しかし、一人一人の責任感とアイデア、温かいボランティアの方々のおかげで無事に経過した。私は看護婦という仕事でなければすぐに神戸を離れただろう。それは家族も同じで親も帰ってこいとは一言も言わなかった。
 地震から一カ月半、私の所に一通の手紙が舞い込んできた。それは付き合っていた彼氏からの別れの手紙だった。
 私は一カ月、自分のことに一生懸命だった。彼の家は明石で被害はなかった。地震の後一度だけ会った。私は私の生活で精一杯。普段の生活をしている彼とは考え方も違っていたと思う。しかし私には、一番彼が必要だった。私は全国から駆けつけてきてくれるボランティアの人々や、世界各国から寄せられる救援物資など、人の温かさに支えられ涙の出る思いで毎日を過ごしていた。
 手紙は地震のように突然で信じられなかった。涙さえ出てこなかった。私は地震でさまざまなものを失い、一番大切だと思っていた人の心も失った」(a 川田 こずえ 二十二歳 看護婦 神戸市中央区)。

 物欲
 被災直後、生活に最低限必要な品物を除き、物欲がなくなった人が大勢いる。
 「私たちはある地域を徒歩で巡回し、避難所以外で生活する人たちの状況を調査し、その人たちが必要とする物を運ぶ任務を与えられた。(中略)。
 ある女性に翌日何を届けようかと尋ねた時、彼女は必要な物は全部ありますと答えた。彼女が話すことと、そのみすぼらしい様子や、周りの倒壊して無価値になった建物、その一部の建材を燃やした小さな焚火で自分と母親のためにさつまいもを一つ夕食用に焼いているという現実の際立った対照を忘れられない」(a 原文英語 ピーター・マクミラン 三十五歳 大学教授 東京都八王子市)。
 「(地震がおさまって)部屋を片づけると以前よりずっと物が少なくなっていた。壊れたから捨てたというよりも、最低必要なものは何なのかが分かったからである」(a 丸山 かおり 二十三歳 会社員 兵庫県伊丹市)。
 被災地では、観音開きの棚に飾っていた高価な食器が壊れ、引き戸の戸棚に入れていた安物の食器が残った家が多い。ものの本当の値打ちを知らされたような気がした。地震後、数週間して再開した元町通りの三越では、ティファニーの店舗の店名をシールし、日用品を売り始めた。ブランド専門店も、それまでの商品を引っ込めて安い衣料を売り始め大盛況だった。楽器店では、店先で手袋やヘルメットを売り出した。
 しかし、これは時間がたつにつれ元に戻る。
 家が全壊し県立兵庫高校へ避難した一家の娘さんの日記の一月二十二日の記事に、
 「高校二年生の弟が、サランラップで包んだおにぎりは、誰が包んだか分からないので気持ちが悪いと言い出した。これしかないのだから仕方ないのに……。温かいものが食べたい」(a 北川真紀 二十歳 大学二年生 神戸市長田区)。
 「家が傾き危険なので、当初は荷物を急いで取り出し、外へ早く出ようとしておりましたが、慣れるに従い大胆になり、タンス等大きい物はボランティアのお陰でほとんど大阪へ運ぶことができました」(b 青木 加代子 四十八歳 飲食店経営 西宮市)。

 大きなストレス
 震災は、特にお年寄りや子供に大きなストレスを与えた。
 地震の三日後に、灘区で被災した祖母の元へバイクで駆けつけた女性の手記がある。
 「今まで通ってきた道もそうだったが、山手幹線に出ると大勢の人が足速に歩き、バイクや自転車の数は相当なものだ。まるで中国の大都会を見ているようだった。悪いと思ったが、歩道を走り、一方通行を逆走して何とか避難先の鷹匠中学校に着いた。
 校内に入ると線香のにおいが鼻をついた。体育館で、すぐに祖母は見つかった。一面に毛布が敷きつめられ、床が見えるのは、わずか五、六十センチの通路だけだ。足が悪い祖母は入り口近くに『ちょこん』と座っていた。
 家からもってきたはんてん、カイロ、水、私が作ったおにぎりなどを渡した。でも何も食べたくないという。『何で?』と聞くと、食べたり飲んだりしたらトイレに行きたくなる。一人ではトイレに行けないので、周りの人に迷惑をかけるからという。祖母はおじさん夫妻と住んでいたが、おばさんが看護婦のため、お昼の間は一人だ。やっぱり身内以外の人に手伝ってもらうのは気がひけるのだろう。
 トイレにはきのうから行っていないそうだ。もう夜の七時をまわっている。驚いた私は、トイレに連れて行ってあげた。トイレの隣は遺体安置所になっている。毛布にくるまれた遺体を目のあたりにした時、私はこの大震災の恐ろしさをあらためて感じた。
 震災の日から、あたたかいものを口にしていない祖母は、叔母(娘)が入れたホットコーヒーを飲みながら、
 『ああおいしい、みち子の作ったコーヒーが一番おいしいんや』といった。体はガタガタ震えていた。
 それから一週間後の二十六日、祖母は病院に運ばれた。かなり衰弱していたみたいだ。私が行った時はまだ元気で、ケガもしていないと言っていたのに、肋骨が折れて、心臓がはれて大きくなっていたそうだ」(a 朝見 裕里 二十七歳 会社員 神戸市兵庫区)。
 地震直後の混乱で、被災者は気が張っている。お年寄りには入れ歯や眼鏡のないのを気にしたりトイレの心配が先に立ち、ずっと後になって肋骨が折れていたのが分かった人が大勢いる。骨折の痛みを忘れさせるほどのストレスがかかっていた。
 「私の家族は、主人と私と、小学校四年生の女の子、二年生の男の子の四人です。西明石に住み、私と主人は新聞配達をしています。(中略)。
 (新聞配達の途中に地震が起きたので、慌てて家に帰ってみると、自宅には相当被害があったが、子供たちは隣の人と一緒に無事で外にいた)姉の香織が、
 『お母さんもお父さんもいないんですが、まだ揺れているみたいなので外へ出た方がいいですか』と隣の人に尋ね、弟の和也を連れて外へ出たということです。私は親ばかと言われてもいい、子供たちを香織をほめてやりました。
 私と主人は余震が来ても、次の日から新聞配達をしなければなりません。やむなく私の両親の家へ子供たちだけ預けました。そして、私と主人は望海コミュニティセンターへ避難しました。親と子のばらばらの生活が始まりました。
 子供が一月の終わり頃から風邪をひき、病院通いになりました。二月の初め頃に、香織が『目が見えない、ぼやけてる』と言い出しました。
 先生が『何かありましたか』とたずねるので、地震の時に親がいなくて子供だけだったこと、自分が姉だからと弟を必死で連れ出したりしたことを話すと、先生は『目の見えないのは一時的なもので、ショックからきている』と言われました」(a 岡本 月見 三十五歳 主婦 兵庫県加古川市)。
 「二歳の次男が、夜泣きを始めた。一晩に三回ほど、むっくりと起き上がって泣く。彼は地震の時に目を覚まし、とっさに傍にあったミニカーをつかんだ。そのミニカーが離せない。ミニカーが自分の手元から離れるとパニックになって泣き叫ぶ。そんな状態が一カ月ほど続いた。
 一月いっぱい実家で過ごした。二月になって長男の幼稚園が再開したので家へ戻った。そのとたん、次男が、
 『ばあちゃんちに帰る』と、三十分泣きつづけた。彼の中に、震災の恐怖が残っているのだろう」(a 西川 靖子 三十四歳 主婦 西宮市)。
 「長男(四歳)はあれ(地震)からずっと『地震ごっこ』をしている。いーっぱいおもちゃを積み上げては上から落として『わぁー地震だぞ』と言って楽しそうに遊んでいる。多分息子に『何でそんな遊びをするの?』と聞いても『わかれへん』と言うだろう。私にだって分からない。つらそうに遊ぶわけじゃないから放っておいていいのかな……と思っていたら、新聞に『子供の心は傷ついています』という記事があって、『いたる所の電気をつけてまわる』のと並んで『地震ごっこ』もあった。『えっ、こんなに明るいのにうちの子も心の病気なの? うそ!』。
 何度も電話をしてみようかと思ったが、そんな暇もないのでそのまま気になりながら今日まできている。この頃少しずつ『地震ごっこ』の回数も減ってきたように思う。この夏休みで少しは心のケアができたのだろうか」(前出b 宮本 恵子)。
 子供たちの心は、時間がいやしてくれるのだろうか? 将来災害に遭った時に、記憶がよみがえって極度の混乱に陥ったりはしないのだろうか?
 罪悪感
 大人の中には、「被害が少なくて申し訳ない」という罪悪感を持った人もいる。被害が全くなかった人や、比較的軽かった人たちだ。私自身もそうだった。慰めようのない大きな被害を受けた知人を前にすると、このような気持ちになる。
 「私は大震災の震源地となった淡路島に住んでいますが、今回の地震では小さい被害はあったものの、家も家族も無事でした。
 『この辺りは何事もなかったようですね。ここまで来ると心が落ち着きます』
 地震後に北淡町から来られた人が言われたとき、何か申し訳ないような、ほっとしたような気持ちになりました」(a 関口 万里子 六十一歳 主婦 兵庫県三原郡)。
 西宮市甲子園の下宿マンションで被災し、実家へ疎開した女子大生は、
 「そこ(滋賀県)で何不自由なく平安な日々を送ることになった。日がたつにつれ、私からあの恐怖はなくなっていった。テレビの中の現実はつくりもののドラマのようだ。私自身、現実逃避したかったのかもしれない。
 ようやく現実を見つめられるようになった時、今過ごしている時間がもったいなく思えてきた。単調な毎日。被災した身でありながら、こんなに時間をもて余している人間がいてはいけない気がした。西宮や神戸、大好きな街の人々は、余震の不安や悲しみ、不便さに耐えている。自分だけが逃げている。他の人はどうなってもいいのか……。義務感と罪悪感が私をボランティアをする方向へ後押しした」(a 寺居 優子 二十歳 大学二年生 西宮市)と記している。
 他府県から被災地へ取材に来た記者にも、このような人が多かった。被災者の取材源として私たちの会を訪ねてくる記者がいる。顔を合わせるとまず、「私はあの揺れを体験していないのですが……」と、申し訳なさそうに述べる人が何人かいた。これも「被害が少なくて申し訳ない」という罪悪感の現れだろう。
 いうまでもなく、揺れを経験した者だけに取材の資格があるわけはない。千七百億円もの義援金が集まったのは、被災地外のマスコミが大々的に報道してくれたお陰だ。
 「被害が少なくて申し訳ない」という罪悪感は、「何か役に立つことをしたい」という動機にもなる。全国から駆けつけたボランティアや義援金を寄せた方々の中には、義侠心とともに、このような罪悪感が動機となった人もいたのではないだろうか。
 

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