雪化粧

  蘇理 裕子  四十二歳 主婦 宝塚市 
     



 ゴーという音に目覚め、もうろうとした中、ドーンと突き上げられ、何かが光ったように思いました。それから横揺れが十五秒ぐらい続いたでしょうか。私は一階の茶の間に一人で寝ておりました。まわりは暗く、閉じ込められてしまいました。
 「ケイちゃん、しっかりしろよ」と、主人の声。二階で主人と兄二人と寝ていた三男ケイに何かがあったのでしょうか。
 私は小一時間ほど後に主人が近所の人と作ってくれた出口からあなごのように腹這いに出ることが出来ました。「ケイちゃんは」と聞くと、主人は首を横に振りました。頭が真っ白になりました。
 十二歳のケイは、東灘区魚崎北町二丁目の家の前の公園のベンチで、長男に抱かれて待っておりました。まだ温かく、見た目には寝ているとしか思えませんでした。ケイは主人と次男の間に寝ていたのですが、疲れていて寝相が悪く、一人横になっていて、運悪く床柱と何かが当たって、首と腰に傷がついておりました。
 ケイを抱いて公園の会館へ避難しました。人であふれていました。既に九時頃だったと思います。ケイのズボンの汚れに気付き、身体を拭いて清めようとしましたが、水はありませんでした。タオルで拭こうと裸にしますと、男の子のシンボルのあたりにうっすらと毛が生えており、いつのまにこんなに大きくなっていたんだろうと、余計に悔しく、皆で泣いてしまいました。
 近所の甲南本通り商店街から火が出て三十軒ぐらい焼けました。夜になりました。月の光と、火事で燃える火と余震で一睡もできないまま、ケイを囲んで横になりました。
 翌日になると遺体がどんどん増えてきました。三十体ぐらいでしょうか。ご近所の十メートル四方だけでも八人もの命が奪われました。近所の灘高や、魚崎小学校にもおびただしい遺体が運ばれていると聞きました。
 おにぎりやパン、牛乳などは、少しずつ手に入るようになりました。そのうち、ガス爆発の可能性があるので、国道2号線より北へ上がるように避難勧告が出ました。仕方なくケイを残したまま、経営する岡本のお好み焼き屋まで避難しました。店はガラス、皿類が落ちたくらいで、何とかもちこたえていました。親類、友人達が駆けつけてくれました。阪急電鉄の西宮北口駅から皆歩いて来てくれたのです。
 勧告が解除になって会館へ戻りました。道中は真っ暗で、車も少なくまるでゴーストタウンです。月だけが光っていました。ケイはひとり待っていました。すっかり冷たく固くなって、でも笑っているようでした。
 田舎の親戚が車を手配してくれ、お葬式は主人の本籍地丹後でできることになりました。会館にはまだ三十体ぐらいの遺体が残っていましたが、数人がつき添っているだけで、他のご遺族はどうされたのか不思議に思いました。
 三日目になり、警察や区役所へ葬式のため許可書をもらいに走り回りましたが、人数が多いので混雑し、翌日の三時に許可書が出るとのことでした。
 四日目、会館の遺体が少しずつ減ってきています。お棺に入れられた人、布団のまま移送される人とまちまちです。主人はお棺の手配に行き、魚崎小学校で自ら組み立ててきました。自分の息子のお棺を作るとは情けないと涙ながらに言いながらも本当によく頑張りました。三時頃、田舎から迎えの車が来てくれたとき四十五キロのケイはとうとうお棺に入ってしまいました。被災後は毎晩四人で囲んで寝て、諦めもついたはずなのに、悔しくて涙でぐしょぐしょになっていました。十時前に田舎に着きました。静かな雪景色でした。
 「さあさあともかく風呂に入って」と言ってくださり、四日ぶりにお風呂と温かいうどんを頂き、人心地つきました。
 五日目の朝、朝靄の中の雪化粧の美しいこと、霧が谷間を海の方向に流れていました。「ケイちゃん奇麗だね」と声を掛けてやりました。ケイは目の回りが少し赤くなりかけて可哀想でした。午前中は瓦礫の中から出した衣類の大洗濯、午後からは役所やお寺に挨拶に回りました。帰ると祭壇と遺影ができ上っていて、りりしく素敵な少年のケイが写っていました。近所の方々や主人の兄弟も来てくれて通夜は始まりました。通夜の後は、家族会議を開き、息子たちを親戚に預け、私達夫婦は友人宅へお世話になることになりました。
 二十二日葬式。遠いのに小学校の先生が来てくださいました。主人と私はケイに「楽しかったよ、有難う」と声を掛けました。あんなに大きくなっていたケイが小さな箱に入ってしまいました。
 二月十九日に三十五日の法要をしました。二月二十五日には学校葬があり、三月五日には、ボーイスカウトがケイのお別れ会を瓦礫の横にテントを張って催してくれました。百五十人もの方がお参りくださいました。三月二十四日、小学校の卒業式。なぜケイがここにいないのかと悔しくて、寂しくて涙が止まりませんでした。
 三月半ば、マンションを買うことを決め、四月は長男の大学入学と、やっと明るい兆しが見えてきました。五月の連休明けには何とか落ち着けました。
 あれから一年。私達家族は亡くした息子の励ましを受けマンションに住み、仏壇も買い、元気に頑張っています。