地震見舞

  照崎 忠雄 七十一歳 大阪府堺市 



 はげしい上下動で目が覚めたが、二時過ぎに寝ついた私は起きられなかった。今まで経験した地震の中で一番ひどかったが、小さな本棚が倒れても「大丈夫、そのときはそのとき」と、また眠り続けた。八時過ぎに起きテレビを見ると、「神戸に大地震」と実況中継されている。次々と被害は広がり、長田区のMさんが心配になり電話をかけたが、呼び出し音は鳴るが出てこない。夜になると長田区の火災は益々ひどく、箕面市のFさんに問い合わせたが、ここへも連絡はなく、「明日バイクで安否を確かめにゆく」と言って電話を切った。
 翌朝自分用の握り飯と水筒を持ち、大阪生野区の会社に車で出掛けた。高速道路は不通と知っていたので一般道を通ったら、案の定渋滞に巻き込まれ、十一時に着いた。途中で食べる予定の握り飯を食べ、空襲被災の体験から食料は心配なし、飲み水も何とかなると判断し、カセットコンロと予備ボンベ、懐中電灯と電池、電気コンロ、万が一のときの連絡にマジックインキ、クラフト紙をバイクに積み、正午ごろ会社を出発した。国道43号線の弁天町にくると、自動車はほとんど動かない。僅かな隙間を見付け縫うようにバイクは進み、尼崎市内に入るとスピードが上がる。自動車は途中通行止めで迂回させられたが、バイクは通行できた。西宮インターチェンジを過ぎると、道路に亀裂が走り二十五センチぐらいの段差ができていた。バイクを降り前輪を持ち上げ、エンジンを吹かすと難なく乗り越えた。
 しばらく行くと高速道路の橋桁が落下し、トラックが落ちかけているのが目に入った。まもなく通行止めに遭い国道2号線に出ると大渋滞。警官がいないので歩道を走るが、ところどころ倒壊家屋があり車道に回り、また歩道を走る。木造家屋はほとんど倒壊し、ビルは傾き、三宮に来るとさらに様相は一変した。
 一階だけが押しつぶされた建物や、三、四階だけがつぶれたビルがあった。電柱は折れ、大きなビルは傾き、初めて見る大地震の被害に、ますますMさんのことが気になってくる。傾いた道路標識をみると長田六キロとあり、御船通り入り口にある長田神社鳥居を目標にひた走りに走る。風景はすっかり変わっていて、御船通りの鳥居が見当たらない。確かにこのあたりと三回ほど探すと、鳥居は一メートルぐらい根元から折れ、倒れている。角の家は焼け落ち、道一つへだてたMさんの家は見えない。いやな胸騒ぎがした。見覚えのある門はあったが、二階建の家は無惨にも全壊していた。「Mさーん」と大声をあげ、中に入ったが返事はなく、避難先も書いていない。向かいの家は無事で焚き火をしていたので聞くと、Mさんは夫妻ともけがはなく、親戚の家に避難されたとのこと。「ああよかった」と思わず全身の力が抜け涙が出た。向かいの人は見舞の品を預かると言ってくれたが、親戚に避難していれば大丈夫と思い、「大阪市民からの御見舞いです」と差し上げた。名刺を渡そうかと思ったが、善意をひけらかすようで気恥ずかしく、名前だけ名乗った。しかし渡さなかったことで、Mさんに迷惑をかけたことが後で分かった。再び家に入り壁にマジックインキで、「照崎が参りました、大阪の皆さんが心配しています。電話をください一八日午後四時」と書き、はうようにして奥の部屋のふすまに、同じ文句を書いて公衆電話に並んだ。
 長田区役所に行けば仮設電話がたくさんあり、すぐかかると言われ、訪ねながら区役所に着いた。何十台かの電話に人が群がり、まるで戦場のように騒然としている。五分ほど待ち、自宅にMさん宅と神戸の様子を話し、十時ごろ帰れると伝えた。時計を見ると五時、薄暗くなりかけており急いで大阪に向かう。広島原爆の翌七日入市したあの日が思い出され、長田の被災地とダブり、五十年の間に二度も悲惨な状況を体験し、被災者の心情を思い暗然となった。会社に着いたのは九時、Fさんに電話をかけるがかからない。自宅に十時ごろ着き、Fさんに連絡ができたのが十一時半、Fさんも喜び、Mさんの無事が仲間に伝えられた。
 三日目にM夫人から電話があり、電話帳、住所録は家屋の下敷き、104番でやっと調べおそくなったとお礼を言われた。私は動転して気が付かなかったが、やはり名刺は渡すべきだったと後悔した。後日お礼の手紙に短歌二首が添えられていた。
 「照崎が参りました」地震に傾く壁に書かれし熱きその文字
 「大阪の友も案じて居ります」と激震二日目堺よりいかに

 わたしはM夫人とは同世代だ。わたしたちは戦前皇国史観を純粋培養され、敗戦を機に価値観の大転換を経験した。M夫人は平和運動で知りあった同志であり、素晴らしい非戦平和の歌を詠む尊敬する仲間であった。仲間の安否を知りたい、その思いがわたしを神戸、長田に走らせた。