夜逃げ

  井沢 辰夫 四十九歳 保安員 岡山市 



 一九九五年八月十五日午後六時前、岡山バスステーション前の公道で、
 「食べるものも金もない。助けて」と、突然新幹線で神戸から来たという家族に声をかけられました。
 私は岡山の都心でステーションデパートの出入り車の交通誘導をしているガードマンです。阪神大震災以来、いろんな方がバスステーションに降りられ救いを求められたが、どれもささやかな手助けですむことで、春からは途切れていました。
 しかし、この五十過ぎのご婦人Aさんは、
 「岡山に住みたいので、マンションの保証人など全てをお願いします」とおっしゃる。直ちに上司とデパートに電話し、家族をデパート近くのビジネスホテルに入れました。Aさんと上司が話しあっている間、私は地下の食品売場で当面の食料を買いAさん達に渡しました。
 とはいえ、互いに初対面であり何の事前連絡もないまま、急に岡山に来られて、住むところから、就職先、お子さんの学校まで一切を頼まれても、こちらは当惑してしまいます。最初に断わると一家心中するとおっしゃり、子供達がおののいたので、とにかく助けるしかありませんでした。
 この日は父の遺言で長男の私が主催した父の個展の最終日でどうしても六時の勤務の終了後、展示会場に行かなければならなかったのです。ある全国紙が父の絵の展覧会について朝刊の全国版紙面の三分の一を使って載せてくれ、父の友人たちとも約束がありました。しかし人命が優先します。人命と父の生涯をかけた仕事の間にはさまってどちらを選ぶか大いに迷いました。
 Aさんはデパートの人達に助けを求めながら、自分の身分を証明するものを一切見せません。親族や子供が通っていた学校名、夫のことなども全く教えてくれません。A婦人の話から浮かび上がってきたことは、名古屋に育ち、京都で震災に遭われ、震災後神戸に住んでいたが、友人達は彼女を助ける余裕がなくなったということになる。いろいろととりとめなく語られることを総合すると兵庫県の海沿いの各地で転々とお世話を受けていたが、これ以上は無理になったので岡山にきたらしい。大東建設の住宅が好ましく岡山にもあるから、七万か八万円の物件の保証人になってくれとのこと。今はお金がないが、数日以内に京都から肉親の送金があるとおっしゃる。
 私は二万五千円の家賃の家に住んでいる。デパートの保安課長で警察OBでもある方に判断を仰ぐと、助けようとの指示でした。震災のあった日、デパートは私を神戸に先発隊として送り出し、後から会社の全組織をあげ、救援活動もしています。私も父も神戸生まれで、先祖代々の墓のある県庁近くの大倉山の安養寺は全壊。灘区の私の祖母の家も全壊し、一家は近くの中学に避難していました。八月の段階では、私はもちろん岡山の皆も事の是非もなく、震災で困っている方ならなんでも手助けする時期でした。
 翌日Aさんは、子供に手紙を持たせて私の職場に寄越しました。岡山市役所と大東建設に相談に行くからとのことです。子供達はあわれであり、朝食はもちろんお金を貸すよりしかたありませんでした。保安課長は保証人になったら危ないし、助けないわけにはいかないと、Aさんと話し合って自分が大家をしている三LDKの一戸建て住宅に入れました。デパートの人達は子供をかわいがり、自分たちと一緒に働くのならとAさんの就職先も引き受けてくれました。しかし、Aさんは借金し、私にのしかかってきました。結局送金などなく、働きもしないで住み続け、ある日、夜逃げしました。Aさんが市の民生委員に相談に行ったのが後で分かったのですが、京都に財産があるため生活保護が受けられず、震災後、神戸各地を転々としていたのだそうです。