有縁多情

  青柳 節子 五十三歳 静岡県三島市 



 縁とは不思議です。私は新潟地震、伊豆沖地震、静岡での余震、そして神戸の地震にあいました。今は生かされていると思っています。
 新潟では看護学生でした。揺れたのはお昼の十三時十六分。夜には、大学が救急センターとなり、おにぎりが出ました。翌日から医師一名、学生二、三名のチームが編成され、各町内にテントを張って、救急医療に参加しました。伊豆沖では観光バスが土砂の下敷きになり、病院に運ばれたときには、お年寄り三人が亡くなられました。
 そして平成七年一月十七日、神戸市北区の朝。寝ぼけた頭で、「ああ神戸もたまには揺れるんだ」、と納得し「大丈夫よ、左右動だから」と言って再び寝入ったのです。八時頃起きたらステレオスピーカーが落ち、食器が少し割れていました。テレビはしばらくしてつき、「近畿地方に地震があった模様」程度のことが分かりました。しかし死者が「二十五名位」から時間と共に増え、次第に「これはいつもと違う」と感じ出しました。夜になるとテレビ画面は火の海を映し出しました。「医療班を」とテロップがしきりに伝えるのですが、ただ、「何とかしなくちゃ」と気ばかりがあせり、結局私が動き出したのは三日目でした。北神急行が新神戸まで動いたと知って、とにかく市役所の知人を訪ねました。
 ロビーや廊下は避難されてきた方々であふれかえり、壁という壁は伝言の貼紙ですき間もなし。一階には既に救急医療班が忙しく動いておられました。鹿児島からという若い医師に「どうしてこんなに早く?」と尋ねると「私達も雲仙普賢岳の爆発では全国の方にお世話になりました。ニュースを聞いてすぐ出発して西宮から歩いて来ました」とのこと。
 私は上のロビーで、全国から配送されてきた薬をふり分ける仕事を分担しました。雨の日、現場監督のような男の人がびしょ濡れで昇って来られ「なんか袋あらへんか? バイクで両手がふさがってしもうて、沢山運んであげられへんのや!」とのこと。持っていた花柄のナップサックで我慢していただきました。「あと使いもんにならへんよ」と言われ「かまへん、かまへん」といつの間にか関西弁になっていました。
 エレベーターはいつも超満員でした。一階迄荷物を運ぶのに、途中でぶつかっては「ごめんなさい」をお互いに連発し合っていました。大抵相手の方が道をあけて下さいました。様々な年齢、職業、人種の方々が狭い階段を昇ったり降りたり。誰もがただ黙々と我が任務と言わんばかりに遂行しておられました。地下で点滴ボトルの箱を車に積むのですが、どこからともなく男の人が七、八人やってきたかと思うと「ソレ、ソレ」とリレーでたちまち積み込んでしまいました。中にはバンダナを頭に巻いた外国の方もまざっておられやっぱり神戸だと感じ入ったり、混乱の中一陣の清風だなどと思ったり。かと思うとご婦人に声をかけられ「我が家でお風呂に入れてあげたいのですが、何処へ申し込んだら良いのですか?」と尋ねられたこともありました。
 北区からのバスの中では見知らぬ人に「私もなんぞやりたいのやけど、自分の足も思うようにならへん。代りに頼むわ」と乗車回数券をいただいたり、近所の魚屋さんには「今日も行くんか、ご苦労さんやな、これおまけや」とおかずをまけていただいたりしました。
 十日ほどして遠まわりながらも、新幹線が動き出したので、「仕事にもどります」と挨拶しますと、いつも気丈に動き回っていらした役所の方がエレベーターの前で声を殺して泣いてくださいました。私は「どうか、がんばらないで」と言うのがやっとでした。
 亡父が昔、神戸の鈴木商店に就職し、倒産しました。私もこうして縁あって神戸と出会い、地震をも含めて、沢山の貴重な経験をさせていただきました。
 感謝の気持でいっぱいです。生、死、出会いや縁、仕事、住む家、友達、恋人、家族、夫婦、子供達、地域社会、それら全てをひっくくった上の、人知の及ぶところにあらざる大いなる力の有りようを身をもって教えていただきました。ある意味で、私も途方にくれて立ちすくんでいる一人です。残念ながら少し、遠ざかりつつある神戸ですが、かすかな望みと共に、再び新たな想いで会いたいと心から願う日々です。ありがとうございました。そして、きっと、
 See you again.