トイレ

  西田 公夫 七十三歳 愛知県西春日井郡 



 ジャーっという小気味よい音と共に、黄金色した私の分身も流れ去りました。おなかがすっきりすれば身も心も爽快になります。私にはこの小さな個室がどんなに絢爛豪華な部屋より優れているように思えました。あるデパートのトイレの中のことです。
 未曾有の大激震に襲われ、一瞬にして住む所を失った私たちはその日から多くの人の温情を受ける身となり、電気、ガス、水道の完全に断たれたなかで、避難生活を送ることを余儀なくされました。
 神戸の市街地のトイレのほとんどが水洗式となっていて、避難所となった福祉センターにも明るくて清潔なトイレがありましたが、水が使えなければ無用の長物でしかありません。排泄行為は人が生きていくための必須条件の一つですから、「水出えへんさかい、トイレは使われへんで」「へえ、さよかいな」ですますわけにいきません。
 事実何百人もの被災者が一時に避難した学校などでは、水の手当ができなかったためにトイレというトイレにはたちまち黄金色の山が築かれたと聞きました。
 私たちのところは幸いにも近くに川が流れていたので皆が協力していくつものポリタンクに汲んできてトイレの流し水として使いましたし、また、使用済みのトイレットペーパーなどは、便器の中へ捨てずに、備え付けの大きなビニール袋に入れて処理していましたので、
 「便器に座るとき気い付けへんと、ビニール袋がほっぺた撫でよんでえ」
 との笑い話も生まれました。
 私たちは高齢者ということで水汲みの作業やトイレの掃除は免除されましたが、その気配りがかえって気がねとなりトイレが使いにくくなりました。
 ある夕食時に日頃不足がちの栄養を少しでも補充しようと買ってきてもらった特大のうなぎの蒲焼きを一度に食べるには多いかなと思いましたが、停電のため冷蔵庫が使えなかったので残しておくことができず、やむをえず全部食べたところ案の定明け方から猛烈な下痢に見舞われました。
 幸いにもその朝、仙台から派遣された医師の巡回があったので、早速診察してもらったところ、下痢による脱水症状が見られ、そのために血圧が低下しているとのことでした。
 充分な栄養も摂れずに疲労とストレスの蓄積しているところへ下痢ですから、脱水症状が起きても不思議ではありませんでした。当時近所の診療所のほとんどが壊滅状態にあって、点滴などの適切な治療は望めない状況で医師たちも私に、
 「安静にして水分を沢山摂るように」としか言いようがありませんでした。
 しかしそのとき私には安静にすることより、トイレに通うことの方が先決問題でした。
 このとき私は福祉センター内のトイレを使用していなかったので、
 「下関行き超特急だ、トイレに直行」というわけにはいかなかったのです。
 仕方なく催すたびに非常階段を駆け降りて野外に設置されていた仮設トイレに飛び込んでいました。凍て付くような寒中に隙間風に尻をなぶられながら用を足している姿を想像してみてください。情けなさを通り越してむしろ滑稽味さえ感じました。
 三カ月近くの避難所暮らしでしたが、その間私は下痢のときの一回だけで、妻は全くセンターのトイレは使わず、専ら仮設トイレを利用しました。夜中に懐中電燈を手に裏の非常階段を降りて行く人の後ろ姿を見て、仮設トイレの愛用者が私たちだけではなかったと知り妙な安堵感を覚えました。
 歩いて被災地の外へ出て、ただトイレを利用したいがために喫茶店に入り、飲みたくもない飲み物を注文したり、また満員のバス、電車を乗り継いで梅田まで行き、そこのデパートで久し振りに人間らしい食事を摂り、ついでにトイレに入って心ゆくまで用を足すという冒頭の文章となるわけです。
 悲喜こもごもの避難所生活でしたが、普段使えるのが当然と思っていたものが急に使えなくなったときの困惑の思い出の中でも、特にトイレのことは生涯忘れることはないでしょう。