須磨寺

  三島 喜八郎 七十一歳 織物小売商 神戸市須磨区 



 須磨寺の朝は早い。六時頃には殆ど皆起きている。平成七年一月十七日も「もう起きる時間だ」と思っているとき「ドドン」という地鳴りとともに、身体が激しく上下動した。「地震だ」と飛び起きた。家内と一緒に稲荷堂を飛び出した。かなり長い間のように思われたが、後の報道で二、三十秒のことであったとわかった。うす暗い境内に寺内の僧侶達も飛び出してきた。余震がまだ続いている。大きな余震が来るたびに、境内の大きな楠の下に身を寄せる。「地震のときは大きな木の下が安全である」という関東大震災を経験した祖母の言葉が頭の中にあったのが、とっさの行動になった。夜が明けてくるにつれて、お寺の境内もすさまじい光景であることがわかった。広い境内にある多くの石灯籠が全部ばらばらになって倒れている。塔頭「蓮生院」「桜寿院」が倒壊し、「蓮生院の富永龍心師の姿が見当たらない」という。若い僧侶たちがノコギリやスコップなどを持って蓮生院までかけつけ、富永師を助け出し、新須磨病院に運んだが蘇生しなかった。師の遺体は傍らに寝ていた子供を助けるような姿勢であった。子供は全く無事であった。
 須磨寺は本堂、本坊、寺務所、大師堂、納骨堂、護摩堂も無事であった。殊に三重塔が無事であったことは驚きであった。これは名工松軒棟梁の精魂こめた傑作である。活断層の走っている所の土塀が倒れ「水屋」の屋根が倒れたのみで、災害は極めて小さいものであった。全く幸いという他ない。
 小池管長は全員を指揮して、続々と運ばれてくる身元不明の遺体を安置した。連日数十名の警察官がつめかけ、一人ひとりの身元を確認した。管長はそばでお経をあげ、警察官が引き上げるまでお勤めをした。震災から三十五日目に当たる日には大法要が営まれ、遺族、知人が広い境内にいっぱいになるほどであった。
 これらの行為は全て無償で、小池義人管長の人柄を偲ばせるものであった。小池管長は平成八年二月十二日、インドのボンベイで客死された。地震の後遺症といえぬまでも、心労からではないかと思う。ご冥福を祈る。合掌。
 神戸市には災害対策委員会があり、水害、山津波、大火災、台風、大雨に対する討論が行なわれていた。生前、小池管長も委員の一人として出席し、「須磨寺の古記録には神戸地方に四百年前、大地震があったことが書かれているが、地震対策はいかがか」と質問したことがある。
 それに対して市当局は「神戸地方には地震は絶対ありません」と強く否定し、「神戸は岩盤の上に町があるので絶対安全です」と答えた。しかし、神戸地方は四百年以前と同規模の地震に見舞われたのである。「震災は何百年単位で考えねばならぬ」と痛感した。
 参考のために「摂津国八部郡福祥寺古記録」、「須磨寺当山歴代」を現代語で説明すれば次のとおりである。
 「文禄五年(一五九六年)閏七月十二日夜半に大地震が起き、本堂、三重宝塔、権現堂が倒壊、宝塔の九輪も蓮池の中まで飛んだ。このお堂は貞治四年の建立であった。山に参籠していた不動坊源秀八十一歳は、倒れてきた材木で打たれ、翌日助け出されたが、次の年十二月六日に死去した。東国から西国巡礼に来ていた百五十人が宿泊していたが地震、倒壊のため二人死亡、他の人々は重傷を負ったり、身体障害者になったりした。御本尊、仏像はお堂がなく、直接地面に置いてお花を供えおまつりした。東の方兵庫の津では一軒残らず倒れ、そのうちに出火し、全て焼き尽くされた。死傷者の数は数え切れぬほどであった」
 当時兵庫は最大の町であり、この度の地震と全く同じような姿が記録されているのである。