経過点

  芳崎 洋子 三十七歳 保母 宝塚市 



 震災では、神戸市兵庫区の伯父、伯母、二十六歳の従兄弟の一家全員が、家の全壊で亡くなった。私にとっては唯一の親戚であり、幼いころから足繁く通った家である。そのうえ西宮の病院に入院中だった父も、地震で病院が機能しなくなったため、大阪へ転院し、四カ月後にそこで帰らぬ人となった。芳ィの姓を名乗る七人のうち、四人を一度に失ったことは、たとえようもない孤独感を私にもたらした。
 地震から一年九カ月が過ぎた。けれども私は今でも、震災関係のニュースや記憶から逃げ、三宮へも行こうとしない。また、たびたび悪夢にもうなされる。周りの人はとっくに過去に葬り去ってしまったように見えるのに、いつまでもピリオドを打てない自分に歯がゆさを感じ、こだわり続ける自分がおかしいのかとも思えてくる。
 それまでは、文化でも科学でも人間の創り出すものは全て素晴らしく、地上では人間の存在が一番だと私は信じていた。それが地面がほんの数十秒揺れ動いただけで、人は蟻のようにたやすく死に、築きあげた建物も道も壊れてしまう。自然の前には善人も悪人もなく、財産も名誉も関係はない。そして残された者たちは、それまで当然のように使っていたガス、水道、電話、交通などがマヒしただけで、右往左往する。私にはもう、人間の価値や生きることの意味すら見出せなくなってしまっていた。
 それ以上に私を苦しめたのは、人との距離感である。この大震災を経験していない人には、私の思いを理解してもらえなくても当然だと思っている。しかし、同じ揺れを体験していながら失ったものの大きかった人と小さかった人との間には、大きな溝がある。そしてそれは時の経過とともに縮まるどころか、ますます広がっていくのである。相手が何気なく発する言葉に傷つくことも多く、痛みを分かち合えるのは、震災で家族や家を失った人達だけであった。
 そんな今年(平成八年)の春、通信制の大学で共に学ぶ友人から阪神大震災の文集作りを手伝ってほしいと頼まれた。彼女も地震で家を失ったり、家族が入院したりして大変な思いをしていた。私自身の気持ちの整理にもなるかと考え、引き受けることにした。ときには、痛いところをえぐるようにしながらも、文集作りに精を出し、この七月にはでき上がった。つたない文集ではあったが、自分ではよくできたと思っている。
 集まった文章から改めて感じたことは、一人ひとりで震災のとらえ方が全く違うということであった。地震の影響が大きかった人は、今なおそのど真ん中にいるのに対して、それほどでもなかった人は、震災がとっくに風化している。それは読者にも言える。反応が少なく、中にはなぜいまさら地震なのか、というような態度の人すら見受けられ、取り残されている自分を感じた。
 そうはいっても、私は生活するための家も仕事も失ってはいない。心の問題を除くと、今では震災前と同じ暮らしをしている。日々の生活に明け暮れ、いつの間にか震災からは遠く離れている自分をも感じる。時々生理的嫌悪感に似た震災への恐怖が襲ってはくるものの、ときとして自分のなかでは整理がついているような錯覚にもとらわれる。だからこそ余計にこの平安を乱されまいと、臭いものに蓋をしようとする。それでも震災の呪縛からは解き放たれていない。そうした悪循環の中で、もがいているのが今の私なのだ。
 早くここから抜け出したい、そう願っていた。そんな折、この震災体験手記募集の記事を見て、私は何か救われたような気がした。私の他にも同じような思いをしている人が、大勢いることを示されたように感じたからである。いや、それ以上に現実の生活の中では、今でも震災と戦っている人達が、大勢おられることを確信したからだった。
 整理なんてつかなくてもいい。今を経過点として受け止めよう。そう思えたことが、私にとっては一つの前進だった。復旧、復興が進み、壊れたものが新しくなるにつれて、人々の記憶からも震災は薄れていくであろう。もがきながら生きる幾億の人間を巻き込んで、いつも歴史は悠々と流れていく。それでも私達は、それぞれの傷を抱えながら、歩みを進めていこう。たとえ小さな歩みでも、少しずつ少しずつ進んでいこう。私はようやくそう思えるようになってきた。