マスク

  愛川 弘 六十七歳 尼崎市 



 地震から二年が来ようとしている。それなのに硝子の破片がじゅうたんの端にくっついていたのか、先日私の足に刺さり、虫眼鏡で見ながら取るといった騒ぎがあった。毎日のように掃除をしているのに、何処に残っていたのか小さな硝子の破片。そういえば棚の上のケースも箪笥の上のケースもいまだに硝子がはまっていない。地震で落下して割れたままである。
 もうそろそろ忘れてもよいと思うのに、ときどきあの大きな地震の残片が姿を表わす。息子の可愛がっている柴犬があの地震で腰を抜かし、あれから二年近くにもなるのに、私の家に連れられてくると電灯の方をじっと見ていることがよくある。最初は何を見ているのかと不思議に思っていたが、どうやら電灯から下がっている引き紐の微かな動きに、また地震ではないかと不安げに見ているらしい。彼にも地震の恐怖は残っているようである。
 神戸の私鉄に勤務していた私は、宿直明けの朝、あの地震に遭い、新開地駅から尼崎の自宅まで歩いて帰ったが、そのときの付近の凄惨さは今も頭の中から去ることがない。高速道路が横転。歩いていく私は突然道路に衝立ができたように思った。大きなビルが右に傾き隣のビルがそれを支えていた姿がいまもって嘘のように思える。
 木造のほとんどの家が倒壊した。柱が、霧のように立ち上る埃の中で、天に向かって突き出ていた。神社の本殿が屋根だけになり、境内の灯籠はことごとく倒れ、境内と道路の境になっている塀も倒れ、神々しいはずの境内がただの原っぱになっていた。
 妹一家の住宅と店が倒壊、二階の物干しから命からがら一家は地上に逃げ出し、近くの中学校に避難した。中学校では地震から水が出なくなり、自衛隊の給水車から水を貰っていた。だがお茶や少しの煮炊きには使えたが、便所には使えなかった。水洗便所では水が流せず、避難者たちは困った。妹の発案で新聞紙の折り込みに入ってくる広告用紙を四角い袋に折り、便器に置き、使用後それをナイロン袋に入れて捨てるといった措置をとった。今思えばとても哀れなことである。
 私は代替バスから降車しようとして、地震で破壊された縁石に足を挟まれ転倒、右足第五中骨を骨折した。その骨折の痕が時々うずく。このように二年が来ようとしているのに、私の頭の中にはいつも地震の残響がある。
 妻は私の足に硝子片が刺さったことから、今日は大掛かりな掃除をしている。私はその間花壇に出ていた。ハタキが私の小さな木箱を落し、妻は中の薄く黄身を帯びた紙切れを窓越しに見せ、捨ててもよいかと訊ねた。私は捨てないでくれと言った。妻はけげんな顔をした。私は事情を話した。
 地震後二カ月経ってやっと仕事ができるようになり、神戸まで尼崎から出勤することになった。そのときには線路が壊れ、JRも私鉄も西宮までしか運行していなかった。その上、西宮から三宮まで代替バスで出なければならない。駅から国道のバス乗り場までかなり歩き、そこから一キロ以上の乗客の列の後ろに並ぶ。バスは次々と来るが乗るまでに二時間は待った。その時期、付近の壊れた家屋の解体や運び出しでトラックが行き交い、霧のかかったような埃が一面に充満していた。口は押さえていたが、その埃を二時間もの間にどれだけ吸っていたか。そんな時、親切な人が小さな箱にマスクを入れて配ってくださった。薄い紙でできていて、耳に掛ける細い紐も紙だった。それでもこのマスクによってどれだけ救われたことか。私が地震で経験した多くの嬉しかったプレゼントの一つである。
 あの大きな地震に遭って、皆の心の中に普通では見せない優しい面が生まれ、困っている人を見過ごすことができなかった。人間の優しさがこのマスクとして表わされたのだろう。私は思い出だけを心に納め、黄色く汚れた紙マスクは捨てることにした。地震による悪い面ばかりを心の奥底に残していたが、優しい心の人達が多くいたことも、残響として残った。