「象さん」の歌

  久保田 靖子 六十歳  主婦 芦屋市 



 家を失ったあちこちの庭で、キンモクセイが咲いている。二年近く雨水だけで耐え、いつも通りの香りを漂わせるこの木を眺めていると、私達も力強く生きなければ、という思いにさせられる。
 あの日、私は体験したことのない激しい揺れと音の後、寝たまま天井に触れた。「ああ、外れたな、広島の原爆のときと同じだ」と、思った。私は五十年前、小学校の天井が原爆の爆風で外れた光景を思い出した。が、二階全体が私の胸の上にあったとは想像もしなかった。
 二階の書斎で着替え中の夫とその隣りの部屋で寝ている次女は無事らしい。立ったまま揺れを感じた夫はことの凄まじさを感じ、「大丈夫かぁー、すぐ助けるからー」と、彼には珍しい取り乱した声をはりあげた。
 私は二人の所へ行こうと手探りをするが回りは物ばかり。尼崎の長女夫婦は大丈夫か、一度も鳴かない愛犬シロはどうしたのか、そんなことを考えて時間ばかりが経った。夫は私に呼びかけるが、近づけない。私は自分で天井を退けようと渾身の力を出した後、激しい痛みとめまいで動けなくなった。少しして道路を走る人々の異様な雰囲気と壁土と埃の匂いで火災を考えた。
 「火が出たら逃げて。二人だけは助かって」と何度も叫んだが、やがてあまり声を出せば、かえって二人は逃げられなくなるだろうと私は黙った。死への恐怖が急に襲う。火が迫れば私は何を言うのか。(最後の取り乱した言葉は次女には聞かせたくない)、そう思ってシーツを噛んだ。(どうせ焼けるのなら、背中から)と、微かに残った女としての思いが、仰向けだった私を腹這いにした。するとそこは、床の間の後ろ、我が家の東端の壁だった。壁にわずかな穴があり、にぶい光がさしていた。
 「おとうさーん、ここからあかりが」、夫が素手で壁を壊すのと、私が自分で這い出すのと同時だった。出ると、もう二階に登れる高さに我が家はなっていた。南の家々は二階の屋根が陥没して崩れ、形がない。
 少しして西隣りの奥さんがわっと泣いて「恵子が駄目だったの」と言われた。道路わきに寝かされた恵子ちゃんは女子大の四年生、近所の手伝いもする優しい娘さんだった。就職も決まり、香るように美しかった恵子ちゃんを箪笥が押し潰した。
 号泣していた私に近くの二歳のお嬢ちゃんの死が伝えられた。若いお父さんが「象さん」の歌を歌って励まされたと後で聞いた。
 恵子ちゃんの南の家では、五十歳代のご主人が亡くなられた。息子さんの延ばされた手が届かなかった。悔しさが怒りに変わる。わが芦屋市津知町はその日だけで、五十人以上の犠牲者が出た。
 ご近所の不幸を嘆きながらも、履く物がなく、寒さをしのげるだけの格好の私達三人は尼崎から迎えに来てくれた長女夫婦の車で、我が家から五十メートル北にある国道2号線をいつもの十倍の時間をかけて逃げ出した。翌日から夫はシロを助けるために阪急西宮北口駅から歩き、私は十九日、JR甲子園口駅から我が家へ向かった。腰と肩は痛いが、崩れた家に火をつけられるという噂を恐れた。せめて残った二階の衣類だけでも取り出したい。
 シロは鳴き声一つ出さぬ。人間の力では何も動かせず、夫は解体業者に頼みに行った。費用は百二十万円、これは娘婿に頼む。これからどうやって生きるのか。亡くなられた人のことを嘆きつつ、わが身の心配ばかりする自分が情けない。
 シロは三週間目に取り出して宝塚の霊園に埋葬した。一撃で死んだあと、寒さのためにきれいな姿だったのが救いだった。解体で取り出した荷物の移動は、国際ボランティアの大学生に手伝ってもらった。ただ感謝のみである。
 一息ついた二月終わり、また地震にあったような衝撃を受けた。我が町が区画整理地区に指定されていたのだ。まわりの家々は公費解体を待っておられ、崩れたときのままだった。家は建てられない、遠くに行かされる、噂の元を正す心の余裕すらもなかった。
 五月、世話になった娘夫婦の家から、芦屋の山手にある仮設住宅へと移った。家具は全部壊れたので、生活必需品の購入に莫大なお金が消えた。物凄い暑さ、狭さ、辛さなどは、我が家の近くの仮設なので耐えられた。
 しかし、一向に進まぬ区画整理には不安と苦しみが増すばかりだった。芦屋市はもうすぐ案を出しますと言いつつ、結局、いつまでも何も決めなかった。私達は、建ててもまた壊すのでは、と仮設住宅で頑張ってきたが、一年半後に待ち切れず、ひとまず跡地に家を建てた。返済が不安なほどの多額の二重ローンを組み、いつ立ち退きを食うかもしれない家を建てた苦しみ、心の揺れはずっと続いている。今、新しい家で、もう立ち退くには体力も気力もなくなった年齢で、こうするよりほかなかった、と言い聞かせて過ごしている。
 地震と行政はどこまで私達を揺さぶり苦しめるのであろうか。