寅さん

 中村 専一 五十七歳 自営業 神戸市長田区 



 平成七年二月、避難所の真陽小学校で自治組織の「がんばろ会」が結成された。自分たちで千五百名の(震災当日は三千人)避難所の運営をすることになり、私がその会長を引き受けた。就任挨拶で、「この会はただ今発足しましたが、一日でも早くこの会を解消するよう皆さんで頑張りましょう」と言ったら、猛反発に遭った。被災者には不穏当な発言だったのだろうか。私も家と店舗を焼失した避難者の一人なのに、今でも自問自答する。
 それでも指揮を取りながら、住居地の瓦礫撤去を神戸市と交渉した。早く家を建てたい人達がいるからだ。だが投棄場所もまだ決まっていないと断わられ、二度三度市役所に足を運び、四月十一日に三者契約という手続きをしてやっと許可が下りた。
 私達の地域は、若松三、四、大橋三、四の四町が全焼したこともあって、「都市計画決定・第二種市街地再開発」という法律の網がかかり、二階建ての簡易建築しか建てられなくなってしまった。まとめ役の連合会長が震災で亡くなったので、四町の役員を探して連絡を取り「私権制限」の中でどう街を再生するかを協議するために、数度の会合の末、仮称「新長田駅南大若復興協議会」を平成七年三月二十四日に発足させた。役員には暫定で各自治会の役員が就任した。その結果、どんな町にするかを話し合う会合が市内のあちこちで開かれ、私も色々な会合に出て、まちづくりとは、復興とは、再開発とは、などについて必死に勉強した。
 一方、避難所に帰れば難問が山積みし、その対応に追われた。避難所では月曜日と木曜日に一教室を一班として班会議を開き、問題の解決を図った。それをこなしながら「長田の良さを生かした街づくり懇談会」へも出席した。各地の代表者の意見や、学識経験者の発表を参考にしながら、その情報を地元に持って帰り住民集会をして、皆で再開発の勉強をした。仮設にいる人、避難所で仮設の当選を待っている人が大勢いる中、役員改選をするため、四月十五日に大橋三丁目自治会総会を開催した。連絡の取れない人が大勢いた。住民の名簿が完成したのは平成八年六月のことであった。
 町づくりの会合の中で、ハード面ばかりでなくソフトの面もどうするかということから、長田のイメージ=下町=寅さんとなり、そこで「男はつらいよ」の映画のロケを呼ぼうということになり、その運動にも関わる。
 そんな中で私の店舗の焼け跡も瓦礫が取れたので再建しようとしたが、工務店がなかなか見つからない。仕方なく妻の故郷の義兄が大工さんなのでお願いすることにした。プレハブを建てたが内装をするにも地元の業者とのつながりがないので、来てくれない。特に上下水道は見積りなし、工事が終わってから請求書が届き、法外な金額に驚いた。
 材木は売り惜しみで高騰し、ガス工事にいたっては見通しも立ちませんと言われた。理由を聞くと幹線の復旧ができていないので、個人の引き込み工事の見通しが付かないとの説明だ。
 震災までは食堂を営業していたが、この状態ではいつ開店できるか、お金もいくらかかるか見当もつかなくなった。八方手を尽くしながら、自分でできることは左官、板金、塗装となんでもして、平成七年五月二十五日にやっと店を再開し、避難所を出た。
 若松四丁目の焼け跡に帰ってきた第一号が私の店であった。だから周りは瓦礫ばかりで夜は不気味だった。でも嬉しいことが二つ、避難所を出ることができたこと、そして何よりも我が家で布団の上に寝られたこと。ごく当たり前のことにこんなに感動するなんて考えてもみなかったことだ。 避難所を出るめどが立たない人を思い遣ると何とも複雑な気持ちになったが、仮設ながら我が家で寝られる幸せは何物にも代え難かった。
 六月初旬に全壊したJRの新長田駅舎復旧工事が本格化したが、乗降口が一カ所になるらしいとの情報が入り、調べてみると西側一カ所で神戸市の再開発と絡んだ計画のように思えた。東口がなくなればその周辺の商業者は大打撃である。そこで「JR新長田駅に東口を求める市民連絡会」を結成してJRと神戸市に再三交渉するが、なかなか色好い返事がない。まちづくり協議会も自治会の役員が代行しているので、早く総会を開いて役員の承諾を得なければならない。
 商売は工事の人達もきて順調だったが、「男はつらいよ」のロケの話が本格化し、一段と忙しくなってきた。
 平成七年九月七日「寅さんを迎える会」の設立総会を行なうと、新聞、テレビが大々的に報じてくれた。撮影は十月二十四日と決まり、その準備とマスコミの対応に忙殺される。ついに妻より「商売と寅さんとどっちが大事か」となじられるが、ここまできたらやるしかないと開き直って準備に没頭した。被災地の明るい話題ということで、マスコミの取材は次第にエスカレートした。
 まちづくり協議会は十一月頃をめどに正式発足することに目標を決め、会則と各町の会の発足の段取りをした。その合間をぬってJR西日本の本社に東口の復活を陳情に行くが、変更は無理とのこと。その理由は工事費や復旧期間の節約というが本音は聞こえてこない。
 十月二十四日、いよいよ映画のロケの日になったが、雨で中止。翌二十五日に撮影が行なわれた。無事に終了してヤレヤレだった。
 地域では四町のまちづくり協議会を結成して、その調整機関として十一月二十六日に「新長田駅南大若復興協議会」を正式発足させた。年が明けて、大橋三丁目では再建した家が二十軒を超したので、自治会として焼けた街灯の復旧に取りかかるが、電気工事がなかなか来てくれない。再三文句を言ってやっと二月下旬に着工し、三月一日に完成して明るくなった。
 四町の「大若…」の会合は平成八年になってから月二回のペースで開き、コンサルタントを入れてこの焼け野原の町をどう復興するかを協議するが、利害が一致せず意見がまとまらない。午後六時から始まる会ももめにもめて九時を回ることがしばしばある。そんなときには避難所の班会議を思い出して気分が重くなってしまう。
 一方、平成八年四月三日にJRの新長田駅舎の新駅供用開始が決定したので、再度JRの神戸支社に押し掛けて談判した。その結果、再開発と絡ませながら東口へ動線を取れるようにすると言うことで不満はあるが、やむを得ず決着した。
 各町のまちづくり協議会の会合も二カ月に一度位の割で開催するが出席率が悪い。他地区のリーダーからも同じ悩みを聞く。どうしてなんだろう? 再開発よりいつ仮設を出られるのかが先決なのか。仮設の人をどうすれば早く地元に戻すことができるのか。十年二十年先を見越した町はどうつくればよいか。答えは出てこない。利害も一致しない。
 そしてついに平成八年六月一日には、「大若…」の臨時総会で、まちづくりの提案を出すかどうかをめぐって意見が分かれ、私の所属する大橋三のまちづくり協議会は四町の協議会から脱退することになった。私が呼び掛けて発足した会を自ら去らなければならないこの矛盾、重い問題を抱え込んでしまった。
 新駅になってから私の店の前は駅に通じる近道になったこともあり、震災前の数倍の人が通行するようになった。が更地が多く夜は道が暗いので十二店舗の経営者で商店街を結成して道に明りをつけようと呼び掛け、平成八年六月二日に「新長田復興通商店街」を発足させた。そして人の流れを調査するために、神戸商科大学の学生にボランティアで調査を依頼した。その結果、駅を出て南下し国道2号線に出る人が多いが、信号がないために東の信号を利用するので不便とのデータを得て、今度は「信号設置推進連絡会」を結成して六月二十八日に長田警察に信号設置の要望書を提出した。県の予算と重要性の順位などを審査するとのことでしばらくは具体的な動きはなかった。
 まちづくり協議会を脱退し、七月十六日から数回にわたって自治会との合同役員会を開催していたが、八月七日に寅さんこと渥美清さんが急逝したとの報が入ったので、「迎える会」の緊急役員会を召集し、追悼会をすることが決定した。「新神戸オリエンタル劇場」から全面協力の申し入れがあり、利用させてもらうことで企画が進み、九月八日に劇場を借り切って追悼会が行なわれた。
 息つく暇もなく九月十五、十七、十八日、と役員会を開催し、十九日に「大橋三丁目臨時総会」を開催して脱会を承諾してもらった。今度は三丁目独自のまちづくり協議会の認定を神戸市と協議し、許可をとる。また、ゼロからの出発だ。
 十月十一、十六と十八日に別々のコンサルタントに来てもらい今後のまちづくりの進め方についてアドバイスを受けた。、早急にコンサルタントを決めて、総会を開催して遅れを取り戻さなければならない。
 震災から一年九カ月、よくもこれだけ関わったものだと、われながら感心する。震災前は何の主義主張も持たない私をここまで駆り立てたものは、一体何だったのだろう。
 振り返って一つだけ良いことがある。それは雑用が多く、落ち込んでいる暇がなかったこと。今後もまちづくりの会合には寅さんの言葉「それを言っちゃあおしまいよ」を肝に銘じて関わって行くつもりだ。