狂った歯車

  山中 隆太 三十七歳 会社役員 神戸市東灘区 
 



 一九九五年冬、神戸は一つの大きな塊だった。みんなが同じ目的に向かって突き進んでいたし、なによりも一人一人が熱かった。他人のために自分を削り、多くの人が自分の中の美しい自分に出会い、あちこちで美談が花咲いた。
 あれから二度目の秋を迎え、人々は極端にあの日のことを口にしなくなった。うわべはまるで何事もなかったかのように毎日を過ごしている。
 「あのときはどうでしたか」、これまでにも何度となく聞かれた。震災直後は真顔で話したことも、今では社交辞令に近い会話になってしまった。
 忘れてはいけないことが、過ぎ去る時間に流される。それを風化と呼ぶ人がいるが、そんな生やさしい言葉は今の神戸には当てはまらない。忘れようとしていることと、忘れてしまったのとは決定的に違う。
 「随分きれいになったじゃない。よかったね」、久しぶりに神戸を訪れた知人の言葉に腹立たしさを覚えるのは私だけだろうか。
 新しい家が建ち、道は舗装され、ブルーのシートも目立たなくなった。ただそれは最もわかりやすいバロメーターの一つに過ぎず、真の復興とは程遠い。
 大地だけではなく、人の心を引き裂いた地震の後遺症は深刻だ。
 私の住む町にも対立の構図が浮かび上がってきた。七階建てのマンションが倒壊し、十四階に建て替わると聞いて近隣の住民が反対運動を始めた。ほとんどは高層化にともなう住環境の悪化を懸念した。しばらくの間、推進派と近隣住民に歩み寄りは見られなかった。
 反対派も一枚岩ではなく、日照権などの問題で東側と西側の利害が相反した。
 多くの古いマンションが現行の建築基準法では容積率の既存不適格建築物にあたり、震災復興総合設計制度のもとでは高層化せざるを得ない。
 「もとのように暮らしたい」というのが市民の総意なのに、そんな当たり前の願いさえ叶わない。今まで仲良く暮らしていた人々がいがみあっている。
 もう、もとには戻らないと思うと失ったものの大きさに愕然とした。
 公開空地の是非、専有面積、ベランダの位置、機械式駐車場の騒音、日照時間など。
 ときには
 「バカヤロー」
 という怒号が飛びかう中、住民同士が激しく意見をぶつけあい、答えを見出せないままあっという間に数カ月が過ぎた。
 公正な判断を仰ぐべく、近隣住民側が市に嘆願書を提出し、四百名の署名が集まった。そして市の指導をもとに、設計思想を盾にかたくなだった推進派が修正案を出すことになった。
 一歩前進し、妥協点を見出してもしこりが残ることに変わりはない。
 私は環境にそぐわない高層マンションに必然性を感じないし、一刻も早く戻りたいと願う住人の気持ちもわかる。だから、家族全員の署名はしなかった。どちら側にもつきたくない、私なりの小さな抵抗だった。

 家を失い、不自由な暮らしを強いられている住人の気持ちを思うとやるせない。
 そのマンションには八十歳代の老夫婦が住んでいたという。再建されるまで生きていないかもしれないと聞いたとき、いままでの論争も、書き直された数十枚の設計図も全てがむなしく感じられた。もとの場所でまた二人が暮らせる日がくるのだろうか。
 その老夫婦をはじめとする住人の意志は、どれほど反映されているのだろうか。いずれにしても周辺がかき回し、住人不在で話が進んでいるように思えてならない。
 これはほんの一握りの話ではない。被災地のあちらこちらから何千何万という狂った歯車のギクシャクした音が聞こえてくる。それでもみんなどこかで歩調を合わせながら一歩ずつ前へ進んでいる。あるときは自分を抑え、あるときは自らを高ぶらせて。
 一つのおにぎりを分け合った震災直後の非常事態とは違い、ここに暮らす人たちは、もうきれい事だけでは生きてゆけない。被害の差、経済力の差、年齢の差……。そんなものが以前にもまして重くのしかかってくる。どんどん格差が開いているようにも思える。
 話したくてもどこまで踏み込んでいいのかさえわからないことがある。結局表面的な会話に流されてしまう。気にかけながらも何もできないでいる自分を小さく感じる。
 変わってしまったことも多いが、家具から離れて寝ることは今も続けている。
 あのとき、倒れた本棚と娘の間隔は十センチもなかった。
 妻に寄り添って寝ていたために事なきを得たと思うと、娘を抱きしめて寝るくせがついて、いまだに直らない。「明日目覚めるとは限らない」、あの頃しみついた思いが今でも頭をよぎる。
 とにかく今、精いっぱい愛してやろうと思っている。あれから刹那的になり、なぜか人生を短く感じるようになってしまった。
 全焼して全てをなくした人が言った。今でもあのときの大地の震えを思い出すようにしていると。恐ろしかった経験をあえて呼び戻そうとしている。
 私たちは忘れてはいけない。どんな形でもいいから刻んでいかなければならない。
 おじいさんから戦争の話を聞いたように、子供たちがもう少し大きくなったらあのときのことを話して聞かせようと思う。身近なことから少しずつ始めればいい。