大きなパズル

 (原文英語) キム・クラーク(米国) 
二十六歳 建築コンサルタント 神戸市長田区 



 私は地震で倒壊した十五番館の復元プロジェクトに従事している。十五番館は神戸で最も大切にされていた建物の一つで、外国人居留地にあった明治前期の建築物だ。一九八九年に、日本政府によって重要文化財に指定されていた。
 私が阪神大震災のニュースを知ったのは、ニューヨーク市のコロンビア大学の教室であった。友人がニューヨークタイムズの一面を見せてくれた。私はその半年前まで、英語教師として二年間、東京に滞在していたが、神戸の場所はあいまいにしか知らなかった。そして、間もなく神戸が第二の故郷になろうとは思いもしなかった。
 私は日本からの帰途に、ベトナム、カンボジア、タイ、香港、バリを旅行し、アジアにおける建築遺産の保存に強い興味を持った。大学院の建築科の歴史的保存の修士課程がはじまるちょうど一月前に、私はアンコール・ワットの仏教僧侶たちと、古代の彫刻がなされた冷たい石の回廊をぶらついていた。これらのユニークな体験が、私をコロンビア大学でアジアの建築物保存について学ぶ方向に駆り立てた。そして私の大学院の二年間の課程の間の八週間の夏期実地研修で、ベトナムと日本で勉強をしたとき、私の興味は確かなものとなり始めた。
 一九九五年の夏、地震からわずか半年後、私は実地研修旅行で初めて神戸に立ち寄った。私の神戸での活動は、有名な異人館を修復する東京の建築家たちの補助だった。毎日私は壊れた家のスケッチと測量をし、毎晩魅惑的な町の探険のために長歩きをした。実地研修中、私はこれらの明治時代の建築物にとりわけ興味を持つようになった。それらは、日本と欧米との最初の接触を、建築物を通じて私たちに示す、重要な歴史遺産だ。
 私は大学院の最終年度のためにニューヨークに帰り、神戸の異人館について修士論文を書いた。私は一九九六年一月に研究のために神戸に帰り、その時に十五番館の復元計画の詳細について知った。そして偶然にもその十五番館を研究している間に、春の卒業後の仕事の申し出を受けた。
 一九九六年六月、私は神戸に到着し働き始めた。現在、建物は構造の内部に精巧なシステムを取り付け、建物の内装(部分的な鉄製の枠とコンクリートの煙突)に将来の損傷を防ぐための変更がなされている。構造的には、建物は西洋と日本の技術を組み合わせた木の枠で支えられているが、日本の建具で組み立てられている。日本人の大工さんが構造枠を修復している間、建具(扉、窓及び枠)を分類し準備するのが私の仕事となった。これらの部材は外観は「西洋風」だが、元々大工さんたちがこれらの部材を作ったので、日本製の継ぎ手で器用に組み立てられている。
 私の仕事はたくさんの扉や窓などの位置を判別し、残りの部材と継ぎ合わせることだ。私たちはこの仕事を「大きなパズル」と名づけている。どの部材が修理でき再利用できるか、そしていくつの部材が失われているかを判別して、私たちは大工さんたちのための図面を作る。元の部材は日本人の大工さんによって作られているので、私は尺貫法を学んだ。それは実際には、どちらも人間の体の大きさに由来するので、米国式のインチ・フィート法と似ている。
 一九九六年一月に明石の北にある格納庫の中で、私が初めてそれらの建築部材を見たときのことを思い出す。私は誰がすべての部材の識別の仕事をするのか、そしてどのようにして彼らが格納庫の木片のすべての場所を決定するための管理をするのか想像もできなかった。今や、私がその幸運な人間だ。四カ月の研究の結果、私はどの木片をとっても十五番館のどの場所のものかを告げることができる。
 もし十五番館が語ることができるなら、一八八〇年に米国領事館として最初に開設されたこの建物を訪れた米国人について告げるだろう。その後に家主となった英国の船会社や、一九〇九年から住んでいた英国人の検査官キルビー氏についても教えてくれるだろう。第二次世界大戦の間収容されていた外国人の高官についての物語もするかもしれない。そして一九九八年春以降は、建物は自分を破壊した阪神大震災と、復元してくれた日本人の大工さんたちと米国人女性について語ることができるはずだ。