六歳の時のように

(原文英語) ムラト・ドール(トルコ)
 三十一歳  医学部大学院学生 神戸市兵庫区 



 私が初めて日本人に出会ったのは六歳の時でした。夏休みに、母は私たちをサウジ・アラビアで働く父のもとへ伴いました。小児まひの私に最適の運動だと考えて、父は土曜日ごとに私を国連のスイミング・プールへ連れて行きました。私は最初の日本人の友達をそこで見つけました。彼らは私にとても親切で、いつも一緒に遊ぼうと誘ってくれ、日本語の数字の数え方を教えてくれました。私はプール行きが楽しみになりました。私の最も親しかった友達が日本へ帰らなければならなくなった時のがっかりした思いは今も覚えています。それから私は母に、絶対にいつか日本へ行くと言い続けました。
 それは一九九三年十月になって眼科学を学びにトルコから留学するという形で実現しました。他の留学生同様、最初は不安な日々を過ごしましたが、徐々に日本語もしゃべれるようになり、担任教授から博士課程の履修を勧められました。それから更に過酷な研究期間が始まりました。
 地震が発生した時、私は試験勉強中でした。突然、長田区の十階建マンションの九階の私の部屋が激しく振動し始め、いつまでも続くように思われました。部屋は真っ暗で、身の回りのものを探すのに、私はけがをしました。部屋から出た時には、泣いていました。
 私が出口に急ぐと、近所の人から助けを求められました。私たちは瓦礫から二人を、崩壊した隣のアパートから一人の若い女性を救出しました。不幸にも、彼女のご主人は間に合いませんでした。火災が発生し、彼は私たちの目前で焼けてしまいました。私はそこに定まらない視線でしばらく座り続けていました。
 それから私は立ち上がり、部屋からいくつかの品物を取り出して小袋に詰め、大学を目指して歩き始めました。ガス漏れと爆発がありましたが、私はもはや恐れず、死も気になりませんでした。自衛隊員が西市民病院の崩壊した病棟から患者を引きずり出すのを見て、私はひざまずき祈りました。
 非常に疲れたので湊川公園で休憩し、おせんべいを食べ始めました。お年寄りの女性が私の横に座り、「どうしましたか? 顔がススと血で汚れています」と言うと、私が答えようとする前に、彼女のハンカチで私を拭い始めました。私はおせんべいを彼女にすすめました。彼女は一人住まいで、地震ですべてを失ったと言いました。近くの小学校へ避難するそうです。私たちはあいさつをして別れました。
 私が歩いている間、何人もの日本人が立ち止まり、具合はどうかとか、助けはいらないかとたずねてくれました。私は孤独ではないと幸せな気持ちになりました。大学には四時間半かかって到着しました。私たちは約一週間、睡眠を削ってけが人の看護をしました。私は三カ月間そこに避難し、その後大学の近くに新しい部屋を見つけ、すべてが再出発しました。
 しかし、私の人生観は、阪神大震災で変わりました。些細なことに幸せを見つけるようになりました。これからは自分自身のためだけでなく、他人の幸福のためにも生きて行きます。私が六歳の時のように、日本の人たちは再び私に温かい心を開き、困難な時に私の面倒を見てくれました。私は決してそれを忘れません。私は常に亡くなった人々の魂のために祈り、生き残った私たちの幸せな将来の創造を目指します。