非常事態
  吉岡 裕樹 四十七歳 開業医 西宮市
 


 私は整形外科の開業医であり、これまで西宮市における救急診療に月一回参加していた。
 私は、六名の児童が死亡した香炉園小学校に近い自宅で被災した。幸い家が新しかったので、自宅の倒壊は免れ家族四人ともけが一つなかった。けれど、向かいの並びの家は軒並みひどいやられ方だった。なにしろ揺れが収まってまず外を見たら、向かいの家がなかった。これはえらいことになった、人生が変わるかもしれないと思った。
 辺りが夜明けとともにうす明るくなったとき、まず自分は何をすべきかを考えた。「家族はとりあえず、無事だ。だったら、医者としてけが人を診るべし」という判断がすぐに出た。自分のクリニックまで行く余裕はないので、家の周りの住民の応急処置をしようと思った。
 午前六時半ころから「けがの方、私は医者です」と声をかけて回った。道路には三々五々人が集まり、香炉園小学校では校庭に百人ほどの避難者がいた。まだ校舎や体育館は開放されていなかった。
 ここでは記憶に残る重傷者が二名いた。一人は二十歳くらいの男性で、右側の額に十センチほどの三日月型の切傷があった。天井から何か鋭いものが落ちてきたのであろう。タオルで押えていたので出血はもう止まっていたが、下の頭蓋骨が見えていた。これは縫合しなければ……。だが、私は手ぶらであった。そして、ああ、傷を洗う水道水さえ出なかった。このとき初めて、私は自分の無力を悟った。いくらけが人をみつけても手当のしようがない。もう一人の重傷者も二十歳くらいで、女性だった。左足に巻き付けてあるタオルを取ると、そこには数センチの深い切傷があり、筋肉が大きく露出していた。おそらく中足骨の骨折もあるだろう。骨が折れて傷が開いている場合、これを複雑骨折といい、数時間以内に消毒しなければ骨髄炎になる。どこか病院に送らなければ……。しかし、この非常事態に救急車が来るだろうか。実際、地震が収まって一時間たつのに、どこからも救急車の音がしない。私はこのとき西宮市内の病院は全滅だろうと思った。
 私に清潔な水と包帯があれば、この若い女性を感染から救えるのに。このときにもっとも必要に思ったのは水道水であった。初期の消毒には、泥を洗い流すために水道水があれば充分である。が、それさえない。近くには夙川の水が流れていたが、これは雑菌が多すぎて使えない。私には「そこで座って休んでいなさい」としか言いようがなかった。その後も近所を巡回して、熱があるという幼児には、水で冷やしてと声を掛けたが無駄だったかも知れない。
 自分は医者として行動すべしと腹を括っていたので、近所の倒壊家屋の掘り出しには参加しなかった。それは他の人に任せておけばいいと思った。午前八時には自転車をとばして近くのK病院に向かった。K病院はベッド数二百の内科系総合病院で、幸い外観は見事に残っていた。私は当直医一人のところへ駆け付け、廊下に並んでいる患者の処置に当たった。頭の切傷が多かった。上から物が落ちてきてけがしたものと思われた。私は片っ端から縫合した。通常のように一人ずつ手術器具を取り替えていたらすぐに底をつくことがわかっていたので、なるべくピンセットも消毒セットも取り替えずに使った。日頃の救急医療で臨機応変にやっている私は、看護婦が介助につかなくても混乱は感じなかった。
 「今は非常事態やで」、これが私の説明の決まり文句だった。小さなきずは圧迫だけで止血できると思えば、ガーゼで押さえてバンソウコウを貼り、それですぐに引きあげてもらった。
 三十分もたった午前八時半ころから重傷者が運び込まれるようになった。全身水脹れの中年の婦人は看護婦に任せた。地震で熱湯を浴びたのだろう。奥のベッドには向こう脛の骨が完全に折れた婦人が傷の縫合を待っていた。これはギプスを巻かなければならないが、今すぐにはできない。時間を取り過ぎるからだ。できれば手術がいいのだが、おそらくできないだろう。なにしろ手術室はひっくりかえったまま外来に全員出ているわけだから。
 そうしているうちに戸板に乗せられた青白い顔の婦人が入ってきた。看護婦二名と当直医が取り囲んで、人工呼吸と心臓マッサージを慌ただしく始めた。生き埋めになっていたらしく、あちこちに壁土が付いていた。私はその処置を横目で見ながら、他の人の傷の処置を続けた。
 「高速道路から落ちたんやで」、肩をけがした宅急便の運転手はそう私に言ったが、私にはなんの話かよくわからなかった。あとから聞くと、そこから二キロばかり離れたところで高速道路が落ちて、彼はそこから命からがら逃げてきたのであった。戸板の婦人は手当のかいなく死亡した。私が出会った初めての犠牲者だったが、私には同情する余裕はなかった。死後の清拭を普段通りの悠長さでする看護婦にいらいらしながら、私は手を休めることなく次から次へと縫合を続けた。