真治 かおり 四十歳 主婦 神戸市兵庫区 



 私は「こども病院」の周産期センターに入院した翌日に、この地震に遭遇した。
 周産期センターは、できて間もない建物だがかなり揺れを感じた。自宅に六時過ぎに電話をかけた。主人の話では、タンスが倒れ、衣裳箱や蛍光灯まで飛んだらしい。もし入院せずに自宅にいたらまさにそのタンスの下敷きになっていた。腎臓に障害が出たので早めに入院したのだが、おかげで私は病院、息子は叔母の家にいて事なきを得た。
 大型TVが主人の足元にひっくり返っていたという。身体をよけてまわりに落ちたのは幸運だった。とりあえず命に別状がなかったと聞き安心した。
 病院は電気がすぐに自家発電となり暖房が使えず、寒くなった。最新式のトイレも自動検尿装置が使えず、水も汲み置きのものを節約しながら使うことになった。前日シャワーをしておいてほんとうによかった。食事も自動で運べる運搬車が使えず調理の人は大変苦心されている。
 そのうち窓からの景色が変わってきた。山の向う側がかなり広い範囲に明るいのだ。というよりも赤い。煙も出ていてどうやら火事らしい。方角は長田だ。この火は延々と燃え続けた。
 また、第二神明道路が通行止めになったようで、車がなくなり、その下の道路に車が数珠つなぎになりだした。夕方くらいから自衛隊らしい車も少しずつ増えてきた。ヘリコプターもかなりの数が飛んでいた。ただTVで放送される犠牲者の数がどんどん増えていくのに驚くばかりだった。
 さて、お産の方は、自家発電の容量に限度があり、新しく生まれてくる赤ちゃんに対応する電力量がないとのことで別の病院へ転院することになった。普段なら三、四十分で行けるはずの明石市民病院へ救急車で二時間近くかかって移動した。その途中でも民家が倒壊していたり、道路が陥没していたり、うねっていたりで、どっしりした救急車でさえ、とても乗りごこちが悪かった。
 病院に着いたあとも、絶えず余震があり、不安でしょうがなかった。この病院もしばらくは自家発電だったらしいが電気に不自由はなかった。優先的に回されてくる水を大事に少しずつ利用した。入浴も一週間の間で一度だけシャワーのチャンスに恵まれた。節約できるところはできるだけ節約したという感じで、食器は発泡スチロール製、デザートなどは既製のものがほとんどだった。朝、新聞を買うために売店に行くと開店と同時に病院以外の所からの人達が一斉に食べ物などを買っていくらしく、品物がほとんど何も残っていない状態が三日間続いた。退院するころ、ようやく落ち着きを取り戻した。
 大変困ったのは電話だ。病院内の台数が少ないうえにつながりにくい。そのうえついつい長電話になってしまうので、なかなか大変だった。交通手段にもまいった。大阪に避難させた四歳の息子を主人が迎えてここ明石に来るのに船やバスを乗り継いで三時間以上かかったそうだ。ほんの少し話をしただけで、またすぐに帰路に着かなければならない。一日仕事である。
 息子はかなりハイテンションになっており、とても元気でお兄ちゃんでお利口さんを装っていた。が、四月から行き出した保育園でちょっとおかしかった。一つ目小僧の絵を描いたり、二階の階段のところにオバケがいると怖がったり、しばらく怯えた状態が続いた。
 主人も大阪の会社には通えないだろうと会社側の配慮で一カ月半休むことになった。ライフラインも水道が二月末、ガスが三月初めに復旧し、やっと自宅に戻ることができた。主人はJRが全通した四月から自宅通勤が再開できた。
 それまでの間、近くの親類や友人宅で大変お世話になった。人の温かさをこんなに痛切に感じたのは初めてである。有難いことだ。多くの人々に感謝している。大地震は二度といやだが、人とのふれあいが深まって良かったと思う。
 そして、一番感謝したいのはお腹にいた娘。この子のおかげで前日に入院し、私と息子の命が助かった。
 娘はコルネリア・デ・ランゲ症候群という障害をもって生まれてきた。二歳になる現在も首はすわらず、耳は聞こえず、目も見えない。ほとんど食べることもできず、一回二百ccのミルクを一日三、四回飲むことで命をつないでいる。
 だが、私たちに生きる価値を教えてくれているように、六・一キログラムの小さな体で、一生懸命生きている娘がいとおしくてしかたがない。
 「本当に、生まれてきてくれてありがとう。これからも、ゆっくり、ゆっくり、大きくなろうね」、そう言って抱きしめてやりたい。