復職

  女性 三十三歳 看護婦 西宮市 



 「フルタイムで毎水曜日、仕事に行くことになったから……。子供(娘)見といてね」
 帰宅した主人に玄関先でこう告げた。鳩が豆鉄砲をくらったような主人の顔、子供の面倒はどうするのだ、と言わんばかりの表情である。
 「週一回のあなたが休みの日にしたのよ。私が仕事している間、面倒見といてね」、主人の驚きをよそに、私の心は復職できる喜びに沸いていた。
 次の日、看護婦免許証と履歴書を携えて知人の紹介の就職先へ出かけた。話はスムーズに進み、当初、週一回と決めていた勤務回数を週に四回と増やした。子供を預ける保育所も決まった。その夜、主人に事情を告げると、半ばあきれた様子で「どっちでもええけど」と言った。
 主人と私の関係がおかしくなったのは、震災の後、避難先から自宅へ戻ってきてからだった。主人は「何も変わらない」と言い、私は「変わってしまったのはあなたの方だ」と言い、二人の溝は急激に広がっていった。地震の三カ月後に出産した私は、不慣れな生活環境の変化や育児に疲れていた。今まで協力的で優しかったと思っていた主人の無関心や、思いがけない暴言から受けた心の傷は大きく、時の経過とともに傷は深さを増し、悪化していった。
 「地震離婚」という言葉が新聞を賑わすようになって、私は一つの決意をした。結婚生活にピリオドを打つのである。互いを傷つけなじり、信じようとしなくなった二人が共に生活することは苦痛以外のなにものでもない。
 「ずっと前から言おうと思ってたんや」と、別れを切り出した私に、主人はたった一晩考えてこう言った。
 「君がそうしたいんやったらそうしてもええよ」
 別れるということはこんなにも簡単であっさりとしたものなのだろうか。私の妻としての努力も頑張りも、主人にとっては一瞬の迷いもないほどに軽く、別れを決断できるだけの重さでしかなかったんだろうか。私は失望し、心は固く凍りついた。
 それから私は様々なことに手を出した。ママさんサークルや女性サークルでの活動、通信教育、文通、雑誌への投稿、園芸等々、自宅にいてできることを、子供が眠っている合間をぬってやりつくした。多くの活動をしながらも、私の気持ちの中で、やはり何か違うという思いが日増しに大きくなっていった。
 やはり働くことだと思った。経済的にも精神的にも自立して、もう一度いろいろなことを考えたい。専業主婦から兼業主婦へ、先の苦労も目に見えているが、とりあえずは、前進あるのみの精神で頑張りたい。
 「震災がなかったら…」と、時々弱気になる日もあるけれど、過ぎたことは戻らない。子供を預けて仕事に戻ることには、賛成してくれる身内はいなかった。しかし、私にとって社会の中で働くということは私自身を取り戻す一つの指標でもあり、気持ちの上での復興でもあると思っている。