違う私

  土井 由美枝 二十九歳 主婦 神戸市東灘区 



 阪神大震災から一年と十カ月過ぎた今、やはりあなたに伝えなくてはならないと、思うようになりました。
 あの日、私は偶然に家族の住む尼崎の家にいました。前年の三月から念願の神戸でのひとり暮らしをしていましたが、あの日は尼崎に泊まっていました。古い木造住宅は、後に半壊と認定されました。父も母も妹も皆、無事でした。本当にありがたいことでした。生きていることが幸福でした。
 実は、あの年の二月から尼崎で、妹と二人で暮すことを考えており、妹は既に部屋を借りていました。その部屋が、私達の避難場所になりました。神戸でひとり暮しを始めてまだ一年も過ぎていなかったのにと、不思議に思うでしょうね。
 あの頃、長年交際していた彼と別れるつもりでいました。結婚はできないとずっと思っていました。理由は彼がひとり息子、私が長女ということでした。ずいぶん古い考え方だと思うでしょうね。でも私は長女として育てられ、いつとはなしに親の面倒は見るものだと考えておりました。
 母には糖尿病という持病があります。父は私が十六歳のときに胃を半分取っています。また彼の実家は旧家で、お墓を守ることが、嫁としての重要な務めだと聞いていました。それで私は彼とは結婚できないと考えて、別れの準備をしていました。
 地震当日、彼の生死を確かめるために、私は自転車に乗り、彼の住む神戸へと向かいました。このとき見たガレキと炎は、生涯忘れることはできないでしょう。彼の住むアパートは全壊でした。傾いた室内は足の踏み場もありませんでした。彼は生きていました。怪我もありませんでした。あの部屋で無事であったことが奇跡です。こんなに神に感謝したことはありませんでした。傾いたアパートを見て涙があふれました。
 そしてあの日の夜、彼とともに自転車に乗り、尼崎へ向かいました。彼を両親に会わせる、そんなときが来るなんて、これが運命というものなのでしょうか。それから、両親と妹と彼と私の生活が始まりました。家の後片づけが続きました。つらい作業でした。多くの思い出を捨てました。
 母が過労で、一カ月入院しました。その後、両親は母方の実家へ行くことになり、妹は、そのまま尼崎に住み、私は彼と入籍し、彼の友人の好意により、神戸のマンションに移り住みました。引越の作業が続き、落ち着いたのは、九月になってからでした。
 神戸のマンションは新築で、仮住まいといっては、失礼なほどでした。しかし、家具も何もなく、入籍しただけで夫の家に転がり込んだという形でした。私はアルバイトで生計を立て、残りのお金は全て通信教育の費用に当てていました。貯金もなく、広い部屋に僅かな荷物があるだけでした。
 あまりに急激に変わった生活環境に、私も夫もついていけなかったため、新婚とは言えない争いの日々が続きました。ある夜、夫は額に汗をにじませて胃の激痛を訴えました。私はどうすることもできず、救急車を呼びました。病院で胃けいれんと診断され、点滴が終わるころには、治まりました。その日のうちに、帰宅しましたが、夫も苦しんでいるのだと思い、もっといたわらなくてはと思いました。
 その後、私も救急車のお世話になりました。母のときから通算して、今年は救急車のお世話になるのは三度目だと思いながら病院へ向かいました。腸炎で九日間入院しました。身も心も病んでいるのだと思いました。誰か助けてほしい、何とかしなくては、と思いましたが、周りの人々も皆病んでいました。
 今年に入って、少しずつ体力を取り戻し、もう八年目となる通信教育も、新たな気持で始めようと思いました。近畿地方に住む学生の集まりで、阪神大震災の文集を企画しました。私も編集者の一人として、がんばりました。
 そして、このとき初めて自分の心の奥底にある、闇の部分に気が付きました。私の心には、苦しみや恨み、憎しみが渦巻いており、知らず知らずのうちに、誰も信じられず表面だけの付き合いをしていたことに、気が付いたのです。他人を誰も信じていない、それは私を信じていないことでもあったのです。
 苦しいことを苦しいと夫にも、友人にも、誰にも言えませんでした。
 「どうせ誰も分からないから何も言わないで、このまま何も無かったように生きよう」と、思っていました。でもそれは、間違っていました。人は一人では生きられません。私ではない他人のあなたが必要なのです。
 こんな私と話してくれますか。あなたを信じていなかった私を友人と言ってくれますか。
 地震以前の私とはもう違う私になっている私と、もう一度会ってくれますか。
 もし、苦しかったことをお互いに話すことができるのならば、そこからやっとこの震災を乗り越えることができるのかもしれないと思っています。