受験

  福田 敬正 十六歳 高校一年生 神戸市須磨区 



 地震の時、僕は中学生だった。須磨区の自宅は全壊で、柱が一本折れ、二本は基礎からずれていたため、一日避難所で過ごした。親友と一緒に避難したのでお互い協力しあって、炊き出しに行ったりした。この時友達とは大事なものだと強く思った。
 夕方、弟と一緒に自転車で祖母のいる朝霧に行った。一日おいて両親も、知り合いの人に送ってもらってきた。一週間は、電話もめったにつながらず、車もないので、学校のことや友人のことがとても心配だった。だから新聞を隅から隅まで読んだ。
 そんなこともあってこの時期、ほとんど勉強しなかった。学校は大きな避難所になっていたため、二月一日に生徒は須磨水族園に集合した。そこで、学校の状況を聞き、まずは一日おきに三時間授業が始まり、一週間たって、毎日三時間授業になった。須磨区の北の方や西区、垂水区の学校はもういつでも普通授業ができるという噂を聞いたが、この時はあまりあせりはなかった。
 二月の上旬、仮設住宅の最初の申し込みがあった。しかし、老人がいるなどの条件が当てはまらないので、期待できなかった。そこで、賃貸マンションを探すことになった。適当なところがなく、あきらめかけていたとき、父の友人が祖母の家の近くにいい所があると紹介してくれた。普通なら住めない社宅だけれど特別にということで、家賃も安くしてくれた。二月十一日に引越した。
 このときから我が家は徐々に復興に向かい始めた。父の同僚や友人合わせて十人が手伝いに来てくれ、小型トラックまで貸してくれた。おかげで大きなものは全て運び出せた。
 しかしガスがまだつながっていないので、父と母だけが寝泊りし、僕と弟はもうしばらく祖母の家に居ることになった。二月二十日に初めての義援金をもらい、父は少し喜んだ。二月二十六日、壊れた家に残っていた荷物の最終チェック。家族四人でお別れをした。各自、自分の部屋で写真を撮った。少しさみしい気がした。
 三月一日、僕と弟もマンションに移った。受験まであと一年、勉強も前よりはするようになった。三月五日に解体申請の手続き。
 今度は元の家の新築だ。四月八日垂水住宅展示場に行く。どのメーカーの家もすごく豪華でびっくりした。家に関する知識が増えた。五月十七日、解体屋とリフォームの話。七月十九〜二十一日解体。お金は市が負担し無料だった。
 六月末おじの紹介でミサワホームが来る。八月二十九日、本契約。ついに家を建ててくれる会社が決まった。
 いよいよ三年になり高校受験が近づく。一学期の間は学校はまだ避難所になっていたので四十五分の短縮授業だった。少し物足りなさを感じた。二学期になると学校は元に戻り、授業も元通り五十分になった。また就学援助の申請書も二、三回もらい、かなりの金額が返ってきた。
 年が明けてすぐ私学の願書が配られた。僕は仮住まいをしているので、住民票の住所とその時住んでいる住所の二つを書いた。
 学校と塾で明石と須磨を往復して疲れた。電車に乗っている時間が長いので、電車の中でも勉強した。勉強中は家族にテレビの音を小さくしてもらった。家族に協力してもらっているので、それに感謝して集中して勉強した。三月、第一志望の公立高校に合格。うれしかった。授業料減免の申請をし、すぐ認められた。
 高校受験が終わるとずいぶん気持が楽になった。少し家でのんびりしている間に、三月二十七日外構工事が始まった。授業が始まり、最初のうちは何でもなかったが数学など日に日に分からなくなった。しかし友達から「それは中学で習った」という声もよく聞く。友人の多くは地震の影響の少なかった西神の方から来ているので、これは、震災のときにできた差かもしれない。しかし、今更そんなことを言ってもしかたがない。今から勉強すればいいと思った。
 いよいよ夏休み一日目の七月二十日に新居へ引っ越しが決まった。天気は悪く引っ越しできるかどうか分からなかった。とにかくブラスバンド部の活動があったので登校した。部活が終わるまでがとても長く感じられた。練習が終わってすぐ祖母に電話すると、引っ越したということだった。聞いた瞬間とてもわくわくした。三月以来学校生活も忙しく、新しい家を全然見ていなかったので、初めて見ることができるからである。
 家族で部屋は和室か洋室かとか、壁や床の色など話し合った家がついに完成し、一年半かかって我が家の復興は一応終わったのだ。家に着いた時、やっと我が家に戻ってきたという感じでうれしかった。とはいえ、かなり借金をしたので僕の代になっても払い続けなければならないらしい。両親に感謝して自分なりに協力したいと思った。
 たまたま学校の隣に仮設住宅があり、八月にブラスバンド部がそこでボランティアとして演奏することになり、聞いたこともない昔の曲を毎日練習して自分もそれに参加した。けっこうまちがえたが、三月にアンコール演奏をというくらい仮設の人達は喜んでくれた。
 震災が残したキズは一生それぞれの人の中に残るだろう。
 しかし今、僕も未来の神戸のために少しでも復興に力を尽くせるようにと公務員めざして勉強を続けている。