ハッキョ


  朴 淑美(韓国) 二十二歳 会社員 尼崎市 

 地震から二日経って、私は「ある場所」へ自転車を走らせた。「ある場所」とは三年間通った中学校だった。尼崎市にある「尼崎朝鮮初中級学校」である。各種学校なので、生徒たちの父兄の力で運営されている。学校に着くまでとても不安だった。
 朝鮮の学校は数が少なく、日本人の学校のように地域に一軒などある訳ない。低学年の間はバス通学で、高学年になると各自が電車やバスで通う。いくら高学年といっても重いランドセルを背負い、登校している姿を見ると心が痛むときもある。中でも尼崎の立花にある朝鮮の中学校は阪神間の朝鮮の小学校を巣立った生徒が学ぶ、たった一軒の中学校なので、ここが倒れてはたちまち生徒全員が学ぶ場所を失うことになる。
 私自身もこの中学の卒業生だ。中学生の頃は家から毎日自転車で十五分たらずで通っていたが、久しぶりに行ってみるととても長く感じられた。行く途中、古い文化住宅が倒壊し、路上に水があふれ出ていたり、すべてが初めてみる光景だった。
 学校は倒壊しているだろうと思っていたが、ちゃんと同じ場所にあった。
 「ハッキョ クェンチャンタ!」(学校は大丈夫)という学生の声が高く上がった。私もほっとしたし、嬉しかった。
 卒業して何回かは学校の行事に行ったことはあったものの、こんなふうに必死で行ったことはなかった。その場を巣立ったときのことが懐かしく思えた。その帰りの距離は早く感じられた……。
 家に戻るとめったに連絡のなかった同窓生から電話があった。彼女は「ハッキョもうないんちゃうん?」(学校もうないんちゃうん?)とたずねた。彼女は三田市からはるばる通っていたせいもあって、学校には色々な思い出があるようだった。
 「ハッキョちゃんとあったよ」と、私が言うと電話の向こうで少しの笑みと共に、よかったと言う声が返ってきた。普段の生活であまり中学校生活なんて思い出すこともなかったせいか、この日はとても懐かしかった。
 日本の小学校が全壊したならば、市や県は早急に何らかの措置をとってくれるだろう。でも朝鮮の学校が全壊で全く学ぶことのできなくなったとき、早急に支援や援助の手を差し伸べてくれるのだろうか。神戸と伊丹にある朝鮮学校は全壊で今、建て直している。ただでさえ狭い学校敷地の半分は、校舎建て替えで全く使えず、あとの半分に仮設校舎を建てているため、生徒が遊べる空間がとても狭い。
 学校を建て替えるのも簡単ではない。一日も早く生徒たちが少しでも良い環境で学べるようにと皆が力を合わせて今、建設中である。しかし、もともと学校運営資金も父兄によって賄われていたが、それにプラスして、建設費用の負担は大変である。
 地震の被害を受けたのは淡路・阪神間に住む全ての人々で、日本人も外国人も区別はない。それなのに支援の面で差があるのは、変だと思う。以前からこの差について感じていたが、この地震でより一層深く感じた。学校問題だけでなく、朝鮮人を含む外国人に対して平等ではない。私は日本に生まれた外国人として、これからも同じ民族、同じ外国人を応援していきたい。
 あれから月日が経って生活は元のペースに戻った。不便なことは多少あってもあのときに比べるとたいしたことのないように感じる。今回の地震でなくしたものも多いけれど、逆にこれをきっかけに知ったことも多かった。
今度学校を訪れるときはいつだろう。あのとき私を温かい気持ちにしてくれた「母校」をこれからもずっと見ていきたい。