卒業式

  長谷川 美也子 四十九歳 高校教諭 神戸市須磨区 



 あの日からもう一年七カ月が過ぎ去った。「まだ一年七カ月」の人もあろうが、私にとっては「もう」だ。一月十七日から半年間、住み慣れた須磨区月見山を後にして親戚の家にお世話になった。すぐ隣の区に移り住んだだけなのに、心の中で須磨は遠く感じられた。
 山陽電鉄が滝の茶屋駅から月見山まで通じるようになった朝、親戚の家のベランダから銀色の電車を見た。思わず拍手した。一月十七日から三日間、いとこの家で過ごした。その後三日間、明石のホテルで泊まって先のことを考えた。
 今思い出しても情けないことに勤務先(県立I高等学校)のことは考えなかった。何よりも生徒のことに思いを馳せなかったのには今もってただただ恥じ入るばかりだ。まだ私が自分の家にいた十七日に長田区に住むIさんから電話があった。「先生、家つぶれて今日は学校行かれへん」と言った。長田区の状況やこの震災がどのようなものか情報の入らなかった私には、ありきたりの励まし、慰めの言葉しか返してやれなかった。
 平素は二十六年の教職生活を通して、自分自身はかなりの生徒思いであると自負していたのに、イザとなるとそれが単なるうぬぼれであったことを思い知らされた。人のことを思い遣る余裕がなかった。当時、第二学年の学年主任という立場にいながら、この有り様だった。同じ神戸市でも他の先生と違って震度七の須磨にいたのだから仕方がないと自らを正当化してもみる。けれども、あの日、家族を残して歩いてでも職場に長時間かけて行った人もいると新聞報道などで後日知った。何とも言えぬ気分になった。
 学年では三週間後に迫ったスキーの野外活動を実施するかどうかが問題となっていた。高校生活最大の行事でもあるし、一番思い出ともなるものだけに慎重に対処せねばならなかった。学年会議でも全員悩んだ。周辺校の動向も調べた。生徒にアンケートもとった。その結果、「中止やむなし」の結論に達した。全く被害のなかった生徒も仲間のことを思い遣ってか一つの不平の言葉も漏らさず、中止の報を受け入れてくれた。保護者には文書で通知し、理解を求めた。今は無理でも宿泊日数を減らしたり、場所を変えたりして三年生になってから実施できないかなど旅行社も交えて検討したが不可能であった。
 戦争中、修学旅行にいけなかった人達が戦後何年もたってから夢を叶えたという話をときどき聞く。将来、あのときの担任団、生徒とともに実施できればと願っている。
 生徒の中には家屋が全焼全壊した者もいた。その中の一人S君は、私と顔を合わすたびに「先生、オレの家建てて」と言った。冬休みがあけて三学期を迎えた時には「先生お年玉ちょうだい。家建てるタシにするから」と言った。本気で言っているわけではないが、建ててやれるものならと何度も思った。作文には震災のことや、その後の区画整理に対する怒りをいつも綴っていた。「お年玉のかわりに私の愛をあげる」「そんなもんタダでもいらん」と冗談を言いあうことしか私にはできなかった。仮設住宅に入ったり、転居したりして元の生活に戻れない生徒もいるままで、一年が過ぎ去った。
 そして、卒業証書授与式(卒業式)を迎えた。式次第の最後に、卒業生答辞がある。いつものようなありきたりの内容では、聞く方も読む方もつまらない。単なる儀式の中のひとつとなってしまう。代表となって答辞を読むY君にはY君にしか書けないものを書いてくるよう指導していた。Y君は震災を通しての自らの体験、思いを述べた。式に参列された多くの保護者の方も、それぞれのこの一年に思いを馳せられたのだろう。Y君の思いを共有、共感されたのだろう。式後、いい答辞でしたねとほめてくださった。卒業生が退場したあと、保護者の代表が教職員に対して、謝辞を述べてくださりそれに応えて学年主任が挨拶をするのが恒例になっている。私は前夜から紙に書いて準備していた。おめでたい日なのだから笑顔で型通り読みあげて、有り難うございましたでしめくくろうと考えていた。それがそうは行かなくなった。「ご卒業おめでとうございます」まではよかった。ところが答辞を受けて「震災もありました」と言った途端、親戚で過ごした半年間のこと、その後の学校生活のことなどが思い出されて声が出なくなった。こんなことではみっともないと顔を上げたとき、目頭を押さえておられる保護者の姿が目に入った。よけいにダメになった。そのあと何を話したか、覚えていない。
 卒業生を送り出して半年経った。先日、Mさんが卒業式の日に私と撮った写真を入れて暑中見舞状をくれた。「まだ仮設から出られませんが頑張ってます」と書いてあった。