幼い選択

  塚口 佳子 五十五歳 養護教諭 西宮市 



 芦屋市のU小学校が、私の職場である。昨年の阪神大震災で、大きな被害を受けた芦屋だが、各学校に復興担当教諭を配置し、ようやく従来の学校らしさを取り戻しつつある。あの頃、全国各地から届けられた手紙や救援物資に、傷ついた心を癒された子どもたちは今、元気に学校生活を楽しんでいる。
 震災直後は、私の保健室でも、気掛りな症状の子が数多く見られた。フラッシュバックを起こす子、腹痛を頻発する子、過呼吸発作の子、無気力な子、乱暴な行動をする子など、さまざまな症状に戸惑う日もあった。対応する私達教職員も、その多くが被災し、私のように家を失った者もいた。
 「震災後の心のケア」の重要性が指摘されるようになったのは、当然の流れだった。研修会や講演会、カウンセラーとの話し合いを重ね、子どもたちにできるだけきめこまかな対応を続けた。ここにきて、ようやく気掛りな症状は減り、収まりつつある。震災前の明るさが戻ってきた子の姿に、ホッとする思いが教職員皆に生まれてきた。非常事態から、平常な状態へのゆるやかな移行が、私の保健日記にも、日毎に記されている。
 だがそんな中で、今もなお、その心に震災の影を色濃く残している子がいる。マンションが全壊し校区外の仮設住宅に祖父母と住む六年生のS君もその一人だ。数年前、父母が離婚した。震災前は父を交えた四人家族であったが地震後すぐ、父は再婚して家を出、S君は祖父母と仮設住宅に移った。
 学校まで遠くてもあまり欠席せず、たびたび保健室に顔を見せても、さびしさを口にしなかった彼が休みがちとなったのは、今年の梅雨のころであった。六月に九日間の欠席、七月にはほとんど登校せず、私と電話で約束した一学期の終業式にも出ないまま、夏休みに入った。しかし、九月初めの一泊二日の修学旅行をきっかけに、元気に登校する日が増えはじめた。ようやく一安心と思った矢先の、数日前のことである。
 「先生、僕ねえ、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったらどうしようかと思うねん。お父さんとこ行っても、お母さんでない女の人や赤ちゃんがいるしね。それよりも、お父さんのお姉さんのとこの子になろうかなあ。けど、あの家にも子どもがいるしねえ」
 保健室に顔を出すなり、S君は思いつめた表情で、私に訴えた。かなり高齢の祖父母との仮設住宅暮らしが今も続く中、将来への不安が彼に生まれてきたのだろう。外見の幼さとは不釣り合いな悩みは、祖父母には言えない内容なのである。
 彼の住んでいたマンションは、まだ話し合いがまとまらず、十八度の傾きのまま放置されている。市民グランドの仮設住宅の夜は、かなり冷え込むという。
 「S君、おじいちゃんたちにとってねえ、S君は大きな生きがいなの。わかる? S君がいるから頑張る力が湧いてくるのよ。お父さんたちもね、マンションができたら戻ってくるかもしれないしね。だからS君も、おじいちゃんたちを大切にしてあげてね。S君が大きくなるまで長生きしてもらおうね」
 私の解決にもならぬ答えに、笑顔を見せてくれた彼の心は、まだ、たびたび揺れることだろう。地震のあと、再婚する父についていくか、祖父母の元に残るか、一週間も迷って選択したという彼に、再び辛い選択の日があってほしくない。せめて成人するまでは……。
 私の新居は、まもなく完成する。芦屋の町も、西宮の町も復興の姿が整いつつある。紅葉の町に美しく映える新しい家々。あと数年で、震災の爪跡は消えるかもしれない。けれどもその中で、私達が見つめ続けなければならないものがある。S君や私達被災者の心に、今もある余震のようなもの。心のケアは、決して一部の人の問題ではない。衣、食、住、そして心、この四つの条件が充たされるまで、まだ私達の道程は長い。