境界線

  女性 三十一歳 主婦 神戸市東灘区 



 地震から一年九カ月が経ち、やっと家を再建することができた。あの日、たった数十秒間の揺れで私の生まれ育った家は崩れ落ち、家族も愛犬も思い出の品々も全て瓦礫の下に埋まってしまった。幸い家族は全員助け出されたが、私達はパジャマ姿のまま上着も靴もなく、電話をかけたくても十円のお金さえなかった。
 「家がなくなる イコール 生活基盤がなくなる」ということは理屈ではわかっていたが、実際に経験してみて初めて本当に理解できた。人が生きていくうえで、これ以上不安なことはないだろう。ケガで入院した父を励ますために「頑張って、また家建てようね」とは言ったものの実際に家を再建するとなると、本当に大変だった。
 まず問題になったのはお金だ。元々家を建てるつもりで、頭金でもためていたのなら別だが、私達のように一瞬にして家をなくしてしまった者はどうすればいいのだろう。自然災害ということで何の補償もなく、全国から寄せられた善意の義援金も件数が多いからということで、先日の第三次分配分まで合わせても三十数万円だ。これでは、年金生活をしている老人たちには家の再建は無理である。
 我家も年金生活の両親とパート勤めの私だけなら、きっと家の再建はあきらめていたと思う。でも、ありがたいことに婚約中だった今の主人が、家を建て直して両親と同居してくれることになり、家の再建が決まった。
 次に問題になったのが土地である。隣近所で同じ業者に頼んで家を解体してもらったのだが、やり方が荒く、家の基礎だけでなく土まで掘るようにして取られてしまったため、境界線がわからなくなってしまった。測量図も古かったので、もう一度近辺一帯で測り直してもらおうということになったのだが、これにすごく時間がかかった。家の解体は震災直後の二月に済んだのに、結局結果が出たのが約一年経った今年(平成八年)の一月だった。解体業者がもう少し丁寧に解体してくれていれば、もっと早く再建できたかもしれないと思うと残念でならない。
 最後に一番大変だったのは、隣家との話し合いだった。お隣りの家が、境界線から三十センチのところまで寄せて家を再建すると言ってこられた。私達は震災も経験し怖い思いをしたので、
 「緊急避難のときに困るので、お互い民法で決まっている五十センチ開けましょうよ」と言ったのだが、
 「うちはそんなところ通らへん。お宅が通りたければ、お宅のほうをもっと開けたらええ。お宅が三十センチをOKせえへんせいで、うちが変な家しか建てられへんかったら、お宅のせいやと言いふらしたる」と言われてビックリしてしまった。
 少しでも住み勝手のよい家を建てたいのはお互い様である。でもその前に、いざというときにお互いの命を守れるようにすることのほうが大切なのではないだろうか。どうしてあの震災を経験した人がそれを分からないのだろう……。結局その後もお隣りとはいろいろあり、今でも気まずいままになってしまっている。これも震災が残していった置き土産なのだろうか。
 精神的にもいろいろと大変だったが、家はできた。来月家の受け渡しが済んで引っ越しが終わったら、これで私の震災の後処理も終わる。新しい家で家族と共に人生の再出発だ。やっと私にとって「阪神大震災」が過去のことと思えるようになるだろう。
 でも忘れてはいけない。今現在両親が住んでいる仮設住宅にも大勢のお年寄りがいるが、その殆どの人が仮設を出るめどがたっていないということを。私達は仮設住宅を出ることができるほんの一握りの幸せな者たちであるということを。私達は先に自分たちの町に帰るけれど、後から仮設住宅を出て帰ってくる人達のために住みよい町をつくるよう努力をしなければいけないと思う。すっかり姿を変えてしまった町『神戸』だけど、いつまでも人に優しい町であって欲しいと願っている。