落選

  綱 哲男 六十九歳 貿易商・専門学校講師 神戸市西区 
 



 私は仕事の関係で大阪に出掛ける。わずか神戸から三十分の所に全く震災とは無縁の都市がある。大阪だけでなく被災地を離れるともうそこには「もはや震災は終わった」、いや忘れた人々が街を行き交っている。私はこの矛盾した二つの街を違和感を抱きながら往復している。
 早いもので仮設住宅の住民も二回目の越年となる。家族を亡くした人、家屋の下敷きになり負傷した人、病気入院、通院の人。失業、休業、求職中の人。それに自宅が全焼して全てを失った人、全壊、半壊、一部損壊で修理中の人。再建なって自宅に帰る人。公営住宅に当選し引っ越す人。二年目を迎え、仮設内の動きも悲喜こもごもである。月日が経つにつれ仮設住民間に生活の落差が生じてきている。
 あの地震で、我家は傾き、倒壊し、解体され、滅失した。今は跡地だけ。唯一残した門柱に蔦と小手毬が生き残り、雑草が生い茂っている。あの日を境にしてどちらの岸が夢で、どちらが現実か、ふと迷う。
 「仮設住宅にはいつまで居られるのですか」、とよく聞かれる。
 「二、三年は居られるでしょう」、と答える。聞いてくれる方も関心があり、心配してくれる。
 「家は再建されるのですか」「いいえ」「公営住宅には申し込まれるのですか」「勿論です」「仮設住宅での生活大丈夫ですか、クーラーや暖房器具はあるんですか」「ええ大丈夫です」「孤独死がありますよね」「私たちの仮設では一人もありません、隣近所のお付き合いがありみんなお互いが気を付けあっていますから」「大変ですね、がんばってください」「ありがとう」
 この一年、何回こういう会話を繰り返したことか。おそらく仮設住民と非仮設住民との間でもたびたび繰り返された会話であろう。
 仮設の人々は会話後一抹の不安を覚えていた。それは仮設住宅の契約時に遡る。当初、私と市当局との契約書には『(仮設)住宅の使用期間は入居の日の平成七年三月三十日から平成七年十月三十一日迄とする。ただし、その後に六カ月を限度に更新ができるものとする』とある。また入居の条件の中に、『本日から自活していただくことが前提です』と書いてあった。自分の命、自分の生活は自分で守る自助努力が大切です、ということだ。だからがんばろう神戸の被災者、蘇れ神戸、愛する町神戸の復興を目指して。と掛け声が勇ましく響く。
 仮設住民の半数は独り暮らしの高齢者でありそれも大半が女性である。この入居契約と条件の文面は、せっかく入居できて安堵した、契約に不案内な住民を直撃した。六カ月で定住の家が見つかるだろうか……。追討ちをかけるように神戸市災害対策本部より住宅使用期間の終了に伴う六カ月の使用期間更新の意志確認書が送付されてきた。更新にあたっての注意として『二週間以内に必ず投函して下さい。回答がない場合更新の意志はないものとさせていただきます』とあった。回答は1か2どちらかを◯で囲むようにとある。
 1、六カ月の更新をします。使用期間終了の日から六カ月引き続き住むことができます。
 2、更新しません。使用期間満了までに退去します。
 さすがにこの時はいやな感じですぐに西郵便局から投函した。独り住まいのお年寄りは不安がっていたが、私たちの話から安心したようだ。追い出されるまで居座ると腰を据える人もあった。
 災害復興住宅入居申し込みも三回あったが、すべて落選した。抽選結果の通知は、はがき(返信用)で文面は次のようであった。
         (申込期間)                「文面」 
 一回目(平成七年七月七日から七月二十四日まで)…「落選」(枠入りゴム印、赤スタンプの味気ないもの)
 二回目(平成七年十月三十一日から十一月十五日まで)…「今回は残念ですが落選となりました」(黒色のゴム印)
 三回目(平成八年七月三十一日から八月二十日まで)…「残念ながら落選となりました」(同じはがきに市営住宅補充募集についての通知が印刷されていた)
 仮設住民にとっては祈るような気持ちで心待ちしていた結果である。時が経って当局にも心配りする余裕ができてきたことは返信の文面の推移でわかる。この三回目の公営住宅募集から仮設住民も一喜一憂しながらそれぞれの希望の場所を選択し申し込むことができた。
 結果は仮設約八十戸中、補欠も入れて七戸の人が当選した。まだまだ前途遼遠であるが、県市の努力は有難いことだ。
 衆議院議員総選挙が十月二十日(日)にあり、一部の人達はそれぞれ元の居住区へ出掛けて投票していた。私たちは不在者投票をした。まだ住民票を震災前の住所に置いたままだ。これで震災後の市会議員・参議院選挙と三回目の不在者投票となった。日々、天気を気にしながら洗濯機を回し、医者に通う人々にとって、総選挙は関心が薄かった。仮設内を訪れた候補者もなかった。