はじめに   無念の死 −序にかえて−

       小橋 繁好



 九六年九月十七日午後四時十八分、今井俊作さんが息を引き取った。
 享年四十歳。あまりにも若すぎる、無念の死だった。

 俊作さんの遺品を整理していた母親の智子さんは、一冊のノートを見つけた。そこには、阪神大震災の体験記第三集に応募するつもりだった手記の構想が書き留められていた。
 「希望」「再出発」という文字があった。

 今井さんは体験記第一集『被災した私たちの記録』に、手記を寄せてくれた。
 九五年一月十七日、今井さんは神戸市兵庫区で地震に遭った。透析治療を受けるため、病院に向かった。いつも通っている病院は、地震で貯水タンクが壊れ、火災防止用のスプリンクラーが誤作動して水浸しとなり、治療が受けられなかった。
 翌日、やっとたどり着いた三木市内の病院で治療を受けることができた。
 「今回の震災で痛感したのは、日頃から施設間のアクセスと、災害時の患者の運搬手段を確保することが重要だということです」
 「県内各市町村間だけでなく、近隣府県までも視野に入れ、電話が通じない場合まで想定して対応を考えておかないと、ギリギリの状況下で生命を脅かされている透析患者をみすみす見殺しにする結果になりかねません」
 今井さんは「透析治療」の中で、こう指摘している。

 今井さんはこの体験記がきっかけで、透析患者団体の兵庫県腎友会からの依頼で、震災対策プロジェクトのメンバーの一員に選ばれた。患者向けの被災時マニュアルづくりを担当することになった。
 透析患者は、治療が遅れても即死しないということから、緊急時の優先順位が低い。
 患者が殺到した病院がある半面、他府県で受け入れ準備をしてくれているのに、移送する方法がない。
 苦労して施設にたどりつきながら、治療のためのカルテや保険証などがないため、門前払いされた患者がいる。
 こうした体験から施設間のネットワークの大切さを痛感しながら、今井さんは「患者自身の問題」として、体験記第二集『もう一年、まだ一年』の中で、次のように述べている。
 「私達自身、これまでの病院やスタッフ任せの受動的な姿勢から、基本に返って自分の飲み薬に始まり、透析治療に必要な最低限の検査データやその他の知識の学習を行うことや、日頃から災害時に備えて食糧や水の備蓄をしたり、親類や知人の近くにある透析施設を調べておいたり、患者同士でマイカーを都合しあったり、重症患者の搬送には特別に救急車やヘリコプターの出動を求めるといった努力が必要です」(「透析手帳」)

 こうして、今井さんら災害対策委員会のメンバーによって、透析管理手帳「まい・でーた」が出来上がった。五年間の自己データが記録でき、全国どこででも、すぐに治療が受けられる。震災時の教訓が生かされている。
 九六年七月十三日、淡路島から神戸に向かう船の中で、他のメンバーと一緒に菅直人厚生大臣に手渡した。

 「第三集には『まい・でーた』を作ったいきさつや、内容の紹介、菅大臣にお会いした話などを書くつもりだったようです。これからは、介護問題に取り組みたいと意気込んでいました」と智子さん。
 病気の痛みに耐え、大震災を生き延びた今井さん。そして、見いだした希望。無念の死。

 あの大震災から二年が過ぎた。
 被災者はこの間、それぞれの人生を歩んだ。
 孤独死。別れ。再出発。いつまで続くのだろうか。
 それはまた、「体験記」の歩みでもある。
 

                    阪神大震災を記録しつづける会
                     編集総括 小橋 繁好