ひとこと

          桑井 房子 七十一歳 主婦  神戸市東灘区

 阪神大震災のあの衝撃は、私の生涯忘れられない出来事で、心の中に大きな傷跡を残しました。夢うつつに聞いた「ゴーッ」という地鳴りとともに、上下の振動があり、それから南北の激しい揺れに変わりました。私の顔の上に砂や土と瓦の破片が降ってきて「あーっ、これが地震なのだ」と気付いて飛び起き、ベッドにうずくまっておりました。
 その瞬間に洋間のシャンデリアが「ガサーッ」と目の前に落ちてくるのが見えました。未だ暗い中で動くことも出来ず、二階の自室で休んでおりました娘の安否が心配で、「めぐみ、めぐみ」と呼び続けました。緊張と不安とで、のどはカラカラに渇き、声がかすれて大きな声が出なくなりました。
 「どうぞ無事でいて欲しい」と唯々心の中で祈りました。私の休んでおりました洋間の重い大きなガラス戸も一枚が庭に吹き飛んで、分厚いガラスが粉々に割れておりました。ようやく明るくなって庭から外へ脱出致しました。
 道路から見た我が家の無惨な倒壊の姿に、茫然と立ちすくみました。近所の方が集まり、二階の屋根瓦をめくり、天井の梁の下にいた娘を見つけて下さいました。
 二本の大きな梁を切り、どうにか娘を引っ張り出したのです。「めぐ、しっかりするのよ、がんばるのよ」。私は思わず大声で言いました。病院へ運べば何とか助けてくれると信じていました。
 なんと言うことでしょう。こんな残酷なことが現実に起こるなんて。何故。どうして。夢であってほしいと、幾度も幾度も思いました。
 ひとことの言葉も残さず、娘は短い一生を終わりました。心の準備も何もなく娘の突然の死に直面したのは、胸の張り裂けんばかりの衝撃でした。何故神はこのような地獄の苦しみ、悲しみの試練を私に与えるのでしょうか。東灘区在住の死亡者千三百三十八名、その中に我が娘が入るなんて、無念のきわみです。
 病院から消防車で灘高校の体育館に運び、冷たい床に寝かせたときの惨めさ、つらさ。連れて帰る家がないのだからと、心に言い聞かせました。
 私共と同じ状態の方達が、次々と運ばれ、広い体育館もみるみる一杯になりました。何かに直撃されて頭が割れている人、胸部を押しつぶされている人、本当に息をのむ地獄絵図を見ました。若い検死医もこのおびただしい死者の数に疲労し、青ざめて見えました。その中で泣き叫ぶ人、もう生き返ることもない人へ話しかける人、うつろな眼をして放心状態の人、本当に修羅場でした。
 平素から「ママより先に死なないでね」と申しておりましたのに。淋しさの中で人の命の尊さをかみしめております。
 最近すごく腹立たしく思った事があります。震災後、暫くぶりに出会った知人に「即死だったの?」「即死と思ってあげて下さい」と言われたことなのです。このような残酷な言葉を平気で口にする人は、自分の肉親に死者が出ていない人なんですね。助けたい一心で病院に運ぶ親の気持ちも考えないで、よくこんな言葉が口から出るものだと思います。
 皆様、どう思われますか?


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