震災と円高

          大下 三郎 五十五歳 会社役員  インドネシア

 五月二十八日未明、ロシア極東サハリン州北部を襲ったマグニチュード7・6の強い地震で壊滅状態になったネフチェゴルスク、死者の数は少なくとも二千人以上に達する見込み、とインドネシア国営テレビは伝えた。私達は阪神大震災から半年たたぬうちに、また地獄絵図を見る事になった。
 跡形もなく倒壊し、がれきの山となったアパート群、砂ぼこりの舞う道に無言で立ちすくむ家族、ぼろぼろの毛布にくるまれた遺体を抱きしめ、老いた母親が「神よ、息子は死にました」と泣き崩れる映像は、まさに地獄絵図である。
 それにもまして悲しい事は、この大地震への日本の援助に関するエリツィン・ロシア大統領の「ロシアは地震の傷を自らいやす力を持っている。日本人は後になってから島(北方領土)を求めるかもしれない」という発言である。倒壊した建物のがれきの下から、救出を求める多くの人々に、諸外国が援助活動に乗り出しつつある時、支援に立ち上がった日本人の神経を逆なでするような発言である。私達は阪神大震災を通じ、世界各国から寄せられた支援のあたたかみを知っている。エリツィン大統領に素直に支援を受け入れてほしいと伝えたい。
 新聞等の報道では被災地に仮設住宅が建ち、新幹線も開通し、復興へ向け作業は進んでおり、人々の顔にも明るさが戻ってきつつあるというが、インドネシアで暮らす私にはまだその余韻が続いている。
 ジャカルタ駐在当時からバンドンに出張すると、必ず立ち寄っていた華人経営の食堂がある。バンドンに移ってからも時々ここで食事をしているが、震災後、私が被災者であることを知った華人の経営者は、その度におかずを一品サービスしてくれる。今でもそれが続いているので「次からやめてほしい」と言っても「困った時はお互いさ、お前とは二十七年間の付き合いだ」と相手にしてくれない。私も時々手土産を持っていくが、そんな関係が震災後続いている。
 中国大陸から移住してきた華人は常にインドネシア人と対立関係にあり、お題目が何であれ、民衆の不満が爆発する時、矛先は権力に対してではなく、必ず華人に向けられ、中華街に暴動の嵐が吹きまくり、放火、破壊、略奪の犠牲となる。その歴史の中で生きてきた華人にしてみれば、立場こそ違え地震の被害者の心の痛みがどれほどのものであるかを感じとっているのであろう。食堂のおやじのあたたかい支援である。
 震災後、ジャカルタ日本人会では個人部会が窓口となり、義捐金の募金活動を行い、二月十七日に締め切った。その結果、US$に換算して約五万ドルとなった。この義捐金は二月二十七日、ジャカルタ・ジャパン・クラブ名で日本赤十字社に送金された。募金件数は匿名希望や募金箱に募金したものを除いて、個人や企業名で百二十件であった。
 企業が受けた二次災害については、日系合弁企業、現地企業ともに問題が続いている。震災後、インドネシア向けの貨物は神戸港が使用不能となり、輸出検査を担当するSGS社の機能も完全にマヒし、横浜港のみ検査を実施していたが、そちらへの転送もできない状態にあり、輸出に必要な「LPS」(原産国での検査報告書)等の発行もできず、壊れた神戸港の倉庫でストップしていた。
 神戸港に貨物船が入港してからしばらくした三月六日にやっとSGS社の業務が再開され、三月末から四月末に船積みされるめどが立った。しかし、契約時の九四年十月ごろ一USドルは一〇一円だったが、九五年三月九日、九一・八五円、三月二十八日八九・七五円、四月十日八三・九五円となり、契約時に比べ、円は約二〇%高となってしまった。企業は銀行より融資を受けてL/C(信用状)を開設したものの、ジャカルタ港での貨物引き取り時に運転資金不足で、港での貨物引き取りができないケースが出た。又、引き取りはしたが、工場での機械据え付けができずに、放置されたままになっている繊維工場が多数ある。
 なかでも一番悲惨なケースは、約二十五億円の織物プラントの輸出契約をした日本の某商社で、震災で船積みが遅れたものの、一部の機械のL/C開設があり、三月末に船積みしジャカルタ港に入ったが、円高による資金不足で現地側が貨物の引き取りを拒否した。一カ月後に貨物を神戸港に送り返したが、契約のキャンセルは時間の問題だ。そうなると莫大な損害を受ける事になる。これはまだ氷山の一角である。
 原因は急激な円高によるものであるが、震災がなければ予定通り震災前に船積みは終わっていたし、震災後の村山首相の対応が円高を呼び込んだと指摘するエコノミストが大勢いる。
 次のケースも繊維工場関連で、日系大手化合繊メーカーの某社は昨年(九四年)末より、ポリエステル原糸の増設で機械を据え付け中であったが、最後に取り付ける機械を神戸港に搬入した後に震災に遭い、二カ月近く倉庫でストップ。最初の予定通り機械が船積みされていれば、五月中頃には生産開始となるので、六月よりの注文を織物工場より受けていたが、供給不能となり、営業マン全員が他社原糸への切替を依頼したり、同社の東南アジアにある工場より原糸を取り寄せたりその対応に走り回っている。
 すでに書いたように、震災と円高の関連は多くのエコノミストの発言通り、震災時の政府の無能力によるところが大きい。私達海外駐在員の円高による目減りまで含めると、阪神大震災の影響は実に大きいものであったと言える。


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