忘れた頃に

          広橋 恵子 七十八歳 神戸市垂水区

 朝五時ごろから、「毎日放送」を聞いています。「榎さんの朝一番今日の運勢」を聞くのが楽しみです。今の若い人はあまり知らないと思いますが、一月十七日は熱海の海岸で貫一とお宮が別れた日です。そんな話をしていました。私は「金色夜叉」だと思いながら聞いているうちに、うとうとと寝てしまいました。
 サア大変、地響きとともにやってきた地震はすごいものでした。バクダンが落ちてきたような揺れかたで、私はこわくなって布団をかぶり、念仏を唱えました。
 瞬間、県営住宅(垂水区青山台)とともに、この世にさようならかと思いました。
 入口で誰かの声が聞こえるのですが、台所の開き戸が全部あいて、中からビンがみんな出てきてゴロゴロと音を立てているのでよく分かりません。余震も続き、電気も消えた中をやっとの思いで入口にたどりつきました。
 私は三階に住んでおりますが、四階の息子さんが、「おばあちゃん大丈夫ですか」と案じてくださりとても嬉しく思いました。私は思わず「子供の頃、関東大震災に遭いましたが、今日の今の地震の方が怖かったです」と答えました。
 私はまた布団の中にもぐりました。電気がつきました。足が少しずつ温かくなってほっとしました。テレビはだめでした。ラジオで状況を聞いていると、神戸の全区は全滅で交通もみんなストップです。長田区の菅原市場が燃えていますと放送しております。私は少女時代をずっとその近くで過ごしたので胸が詰まりました。
 私は七歳のとき横浜南区で関東大震災に遭いました。七十二年前のことです。小学校の始業式から帰ったお昼の食事の頃で、火の手が早く、一家五人は近くの久保山のお寺に避難しました。夜は本堂に寝て、朝になるとお寺に人の出入りがあるので縁の下に入りました。お寺の
庭で食べた焼き芋のおいしさは今でも忘れられません。
 しばらくすると、焼けたトタンを利用した掘っ建て小屋が建ちましたが、十一月の中頃になるとだんだん寒くなってきました。何度目かの避難者用の汽車が出るので、私は姉と二人泣きながら父の弟に連れられて東京の日暮里駅を出発し、新潟の出雲崎のおばあさんの所に預けられました。父母と一番下の妹は、私達を見送ったその足で、東京駅から汽車に乗り神戸の長田区尻池北町に落ち着きました。菅原市場のすぐ側です。
 私は家を失った人々より幸せです。
 水は三週間も出ませんでした。一週間ほどで、団地の中まで給水車が来るようになりましたが、三階まで運ぶのが大変です。しかし、水道が出るまで三週間もの間、一階のご主人や五階の奥さんに助けられて水の苦労をせずに過ごしました。一階のご主人は「明日から会社にでかけますので、息子にバトンタッチします」とさりげなく、五階の奥さんは「おばあちゃんより私は若いのですから」と言って助けてくださいました。すがすがしい親切に感謝感激です。残り少ない人生ですが、このご親切を忘れることはありません。ありがとうございました。
 地震は忘れた頃にやってくると言います。いつどこにくるのかわかりません。
 なるべく地震さん来ないで下さい。お願い。


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