私が地震に弄ばれた記録

          時枝 甫 六十三歳  神戸市東灘区

 私はサラリーマンをやめてからの三年間、日本にいるときは、そして雨でなければ、ずっと散歩を続けてきた。朝五時から住吉川まで往復する。
 その日もいつもと変わりなく、我が家の南の道の曲がり角近くまで帰ってきて、西を向いて歩いていた。突然ドーンと物凄い音がして、二階建の家並みで囲まれた空がパーっと明るくなった。「LPGのタンクが爆発したのかな」と思ったとたんに、地面が持ち上がり(その感覚は膝が覚えている)、東北を頭にして足を掬われたように地面に叩きつけられた。その時、右の尻に青痣ができた。
 次の瞬間には西を向いて正座させられたため両膝に裂傷を受け、ズボンの左膝が裂けた。続いて南を頭にして仰向けに転ばされ、そこで電柱と三階建ての家が揺れて倒れるのを見続けていた。この間、自分では立つこともどうすることもできなかった。ただ仰向けに寝転ばされたまま、「なんで神戸や」とずっとがなり立てていたように思う。揺れが収まってやっと立ち上がってみると、周囲の二階建の家が軒並み平屋になってしまっていた。
 これが今年の一月十七日、午前五時四十六分に、「私が地震に弄ばれた記録」である。それ以後は、この大地震の揺れ方がどのようなものだったのか、そして私が自分の意志でコントロールのできなかったあの動作は一体何が原因しているのかを知っておきたかった。
 「阪神大震災全記録『平成七年兵庫県南部地震』完全保存版」という雑誌がある。この中に地震波型のグラフが掲載されていた。変位波型と加速度波型の二種類であるが、このうちの「変位波型」を大きく拡大して、南北、東西、上下の三方向の波型を、このままでは何のことやらさっぱり判らないから、一つの立体的な図形に合成した。もちろん、手計算、手作業だが。
 この地震波は神戸海洋気象台に設置された電磁式強震計の波形だというから、我が家の位置する神戸市東灘区御影石町四丁目とは七・五キロも離れているので、この測定記録が、即我が家を襲った地震の波形とは言えないが、何らかの傾向か、ヒントが得られるのではないかと期待した。
 地震の立体図が出来上がった。
 五時四十六分五十九秒から四十七分〇三秒までの四秒間に東北から西南への方向で二往復半の変位があり、最高は水平に四十四センチ、上下に十七センチの凄まじいものであった。その後四十七分十三秒までの十秒間の変位は東西南北をぐるぐる回りしている。
 「私が地震に弄ばれた記録」を振り返ってみる。
 「ドーンという音を聞き、空がパーっと明るくなった」のは、まだ凄まじい変位の起こる前の五時四十六分五十九秒までであるらしい。「地面が持ち上がった」のは、凄まじい変位の始まりで、どうも、持ち上げられながら、東北に引っ張られたらしい。
 はずみをつけられ、すかさず西南の方向へ水平に二十七センチ、上方向に十一センチの力を受けたのだから、ちょうど、立った状態で足が乗っている絨毯を前方上へ引き抜かれた格好で、「叩きつけられて右の尻を打った」となったようである。
 「西を向いて正座させられた」のは、奈落の底へ引きずり込まれるように、横倒しに寝たままの身体が引き下げられて、間髪を入れず突き上げられた変位の仕業のようである。東北の方向へ引き下ろして西南へはずみをつけて放り上げるような力を受けたに違いない。
 その後直ちに「頭を南にして仰向きに転ばされた」ように思う。その後ぐるぐると回った変位が起きていたようではあるが、その間、私はただ仰向きに寝転んだままで電柱と三階建ての家が物凄く揺れるのを全部見ていたようだ。怖かった。実に怖かった。「何で神戸や」と叫び続けながら。
 この間わずかに十四秒、我が家の周囲の木造二階建ては全部が倒壊し、我が家の北三十メートルの所を東西に走るJRの高架はPC桁がほとんど落下し、レールが垂れ下ってしまった。
 これで震度7とは合点がいかない。ちなみに「地震の震度」の説明を見ると、震度7と震度6との違いは、家屋の倒壊が三〇パーセント以上か以下かの違いだけである。だから気象庁の発表も最初、震度6といっておきながら、家屋の倒壊を調査した後に震度7に訂正された。
 御影石町四丁目を調べてみると、家屋の倒壊率は三〇パーセントをはるかに超えて八四パーセントに及ぶ。とにかく私が弄ばれた横揺れの大きさと縦揺れの凄さからしても、JRの高架の壊れ方から見ても、もっと大きな震度まで決めなくてもよいものなのであろうか。また、関東のゆっさゆっさ型の横揺れと、横揺れと縦揺れが一緒になった直下型の「阪神大震災」とは、もし同じ震度ならどう区別するのだろう。
 とにかく震度7で頭打ちの震度の決め方には合点がいかない。
 地震後、散歩は怖くてもうこりごりだ。

         (図略)


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