震災の表情

            武村 雅之 四十二歳 地震研究者  東京都

 私の震災体験は一月十七日午前五時四十七分、妻の一言から始まった。「ポケベルの音がうるさいから早く止めて!」
 その時、私は東京の自宅にいた。地震観測点で地震を感知すると、それを知らせてなるポケベルを私は持っている。数日前から伊豆半島沖で群発地震があり、下田からの通報がしばしばあった。その時も「またか」と、ポケベルを止めようとしたが、通報は下田ではなく真鶴からであった。別の所で地震が起こったと分かり、テレビのスイッチをひねったのが午前六時前、京都、大阪でかなり強い地震があったと報じていた。
 私は民間企業の地震研究者である。この数年、大正関東地震についての古い地震記録や体験談の発掘を行っている。そのため当時の地震学者が震災に直面し、寝食を忘れて調査に身を投じたこともよく知っている。でも自分がこんな大震災に巡り合うとは夢想だにしなかった。
 今までも大地震が起こるとすぐ現地へ行き、被害分布から地震の揺れの地域性を調べていたので、今回も行くことになるのかなとの思いが頭を横ぎった。しかし、この朝から別の観測に行く予定もあり、テレビのニュースを見てもそれほどの被害とも思わなかったので、まあ様子を見るかと朝食を済ませ会社に向かった。ただ神戸の震度がなかなか発表されないのがチョット気になっていた。
 私の甘い予想は、その後一、二時間の内にむなしく打ち砕かれた。会社に着いた私は仲間と調査の準備にとりかかり、テレビや新聞で現地の交通事情を大略把握して、翌十八日の夕刻現地に向かった。関西新空港までの飛行機の切符をやっと手に入れたが、泊まるところは大阪市内では見つからず岸和田市泊まりとなった。
 私は翌十九日の早朝ホテルを出発し、豊中で自転車を手に入れ、他の一人と連れだってまっすぐ西へ向かった。豊中から伊丹へ進むに従って、被害の程度が徐々にひどくなる。JR伊丹駅付近の公園で、持参したパンと水で昼食を済ませ、武庫川の手前で連れと別れ、甲武橋にさしかかった。甲武橋から見る六甲の山肌の無惨な傷跡が、今でも妙に頭に残っている。地震によるものか、以前からあるものか等と思いながら西宮市に入った。そこで私を待ち受けていたものは、生まれてこのかた見たこともないショッキングな光景であった。
 爆撃を受けたような家の残骸、バタバタと落ちた新幹線の高架橋。中津浜線に出た私は、写真を撮ることも、メモを書くことも忘れて、唯、呆然と立ち尽くした。ふと我にかえると、涙が頬を流れ落ちているのに気づいた。工事車両や緊急自動車、一般の人や車、自転車が、信号機が十分作動しない中で、皆それぞれに動き回る。喧噪があたりを包み込んでいた。そんな中「何でこんなことに! 何でこんなことに!」と何度も自問する自分。気が遠くなるのを抑え、「頑張れ! 頑張れ!」と励ます自分。でも本音は「早く帰りたい。一刻も早く逃げ出したい」。喉はカラカラ、水を飲むのも忘れて、ひたすら自転車のペダルをこいだ。
 翌日、翌々日と阪急西宮北口駅前を起点として神戸方面の調査を行った。昨日の喧噪にもまして、ひっきりなしの救急車と消防車のサイレン。その音が東京に帰ってもしばらく耳について離れないほどであった。また、今でも忘れられないのが、西宮北口へ向かう表情の無い人々の行列。泣いている人はいないが、視線は暗く唯どこともなく一点を見つめて黙々と歩く。二カ月近くがたって、交通事情も良くなり買い物もできるようになっても、潰れた家や焼けた家の瓦礫の間を通る人々の顔に、その時見た「震災の表情」がたくさん残っていた。神戸の街から「震災の表情」が消えるのはいつのことか。
 私は地震の研究者として自責の念にかられ、震災以来休日もじっとしていられず、重苦しい気持ちを持ちつつ、機会ある毎に被災地を回ってきた。ボランティアになることも考えたが、私には研究者としての取り組みがあると決意して、阪神地区の被災地のほぼ全域を歩いた。
 その結果、私の地図にある街は東西四十キロに渡り、三色旗のように色分けされている。山の手の比較的被害の軽微なところ、JRや国道2号線が通る被害が甚大なところ、そして地変は多いが家屋の全壊が少ない海岸地域。地盤構造の差によると見られるこの違いが地震の以前に分かり、それが震災対策に生かされていれば、今回の震災を少なくとも山の手並みにできたかもしれない。悔やんでも仕方ないが研究者の責任を痛感する。
 三月に入り小学生の我が子三人を被災地に連れて行った。震災見物だとして、震災を見に行くことに批判的な人たちがおられるのも承知している。でも、私は敢えて子供達を連れて行った。今回の震災を他人事とせず、自分の事として地震と対決する気持ちを持ってほしいからである。子供達の感想はまだ聞いていないが、少なくとも震災の中に立った子供達の顔に「震災の表情」が浮かぶのを見たような気がする。
 神戸では「がんばれ神戸」という標語をよく目にする。「がんばれ私」「がんばれ子供達」「がんばれ日本人」。今回の震災を被災地だけの事とせず、被災者に対する単なる同情だけで終わる事なく、日本人全体がそれぞれの持ち場持ち場で、地震との戦いを決意する必要がある。そして二度とこの悲劇をくりかえさないようにしたいと心から思う。


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