避難所日記から

          中村 専一 五十六歳 飲食店経営  神戸市長田区

 一月十七日の震災で、永年住み馴れた自宅と店舗が水一滴もかけられないで焼けたのが、本当にくやしい。
 あきらめて避難所へ行く。道路はあちこちで倒れた家やビルに阻まれて、歩きにくい。顔が泥だらけの人が多い。私達と同じように毛布にくるまって続々と避難所の方へ向かって歩いて行く。古い木造家屋が戦火からも残っていたので、その人達のほとんどが、倒れた家からはい出して来た事が想像できた。
 校区の真陽小学校へ着いたのが午前十時過ぎだったと思う。一階の体育館はもう足の踏み場もないくらい人々であふれている。三階建ての校舎は見る見る人でいっぱいになる。私達親子四人はやっと教室の一角に、持って来た毛布を敷いて腰を下ろす。窓の外にはあちこちで炎と煙が立ち上っている。
 まず、親戚へ連絡をとらなければと思い、外へ出た。倒れかけたビルや傾いた高速道路の橋桁がこわいので、おそるおそる歩いて電話ボックスにたどり着くが通じない。何個所、公衆電話を試したか! 隣の兵庫区へ入ってしばらくして、やっと人の列ができている電話に出遭う。順番を待って次男や、兄弟や、親戚の家に無事を知らせて避難所へ戻ると、階段の踊り場、廊下等が人で埋まっている。
 三百人の生徒の生活の場に二千五百人の人が入ったので、まず、トイレは花壇の土を掘って青シートで囲うが、すぐ使用不能、次の花壇を掘る、三日位はそんな状態が続く。私が入った教室は七十六人が入って人息で空気は暖かく感じるが、コンクリートの床からの冷気は一枚の毛布では防げない。寒い!
 仮設のトイレもすぐ使用不能になり、又、新しい仮設のトイレが運動場へ運び込まれる。
 毎日六時三十分に校内放送で起床、室内の掃除をしてからラジオ体操。日曜は七時に放送、全校内の掃除、月、木の夜八時からは各教室を一班として班会議を開催し、色々の問題点を話し合う。
 校内には無料の公衆電話が三台、本部を設置してボランティアの人達と手分けして救援物資を配ったり、パン、弁当を班別に分ける作業をする。私は一月二十八日に初めて風呂に入った。
 二月二日は大きな余震が二回ある。二月九日に水道が復旧し、学校の水洗トイレが使用可能になる。二月十三日洗濯機が三台入り、班分けして使用する。二月十八日も大きな余震。二月二十五日電子レンジが一台。一週間後又二台入った。
 三月十日より食費のアップが認められ少し良くなった。三月十日、避難者の自治組織の結成準備、三月二十日に発足。三月三十一日をもって全てのボランティアがいなくなり、すべて食事や救援物資の仕分けまで自分達で行う事になった。
 神戸市より二、三人の人が本部に詰めて、ガードマンは夜に交代して朝まで、避難者の役員は常時本部であらゆる問題の対応に当たる。
 二月末頃までは常時期限切れの弁当ばかりだが、電子レンジが入って温めて食べられるので助かる。寒い時季なので食中毒の心配が少なかったが、レンジが入るまでは冷たくて食べずに捨てる人が多かった。
 私は三月二十日、自治会の初代会長に選出されたが、週二回の班会議は色々な問題が生じて頭が痛い事の連続であった。その中にも、同じ教室の中学生の生徒が高校入試に合格して皆でお祝いした事、誕生日を迎えた人を皆で祝った事など、少しずつ笑いも増えて来たのがうれしかった。
 人の記憶は定かではないので、日記を見ながら書き続けている。私は震災までは三十数年にわたって日記を書き続けていたので、今回も最初からノートに書きつづった。
 その中で、十日あまりの食事を列記してみることにした。
 一月十七日夕方にパン半分で終わり。
 十八日朝パン半分、竹輪一本、夜おにぎり一ケ。
 十九日朝パン一枚、バナナ一本、昼おにぎり二ケ、竹輪一本、夜はなし。
 二十日朝アンパン一ケ、ゆで卵一ケ、缶ジュース一つ、昼おにぎり二ケ、まんじゅう一ケ、夜おにぎり一ケに初めて暖かい雑炊の炊き出し。
 二十一日朝パン一ケ、牛乳一本、昼パン、バナナ各一本、夜おにぎり二ケ、缶お茶一缶。
 二十二日朝パン一ケ、牛乳、昼おにぎり二ケ、みかん一ケ、夕食おにぎり二ケ、缶詰め一ケ。
 二十三日朝パン二枚、牛乳、昼おにぎり二ケ、みかん一ケ、夕食おにぎり二ケ。
 二十四日朝パン、牛乳各一、昼夜共おにぎり二ケ。
 二十五日朝パン二枚、昼なし、夜おにぎりと、缶詰め各一ケ。
 二十六日から二十九日まで二十五日のパターンだ。そして二月二日は夜もない。
 二月四日より朝昼兼用で、パン二ケ、牛乳一本に夜弁当が付くが、栄養的には相当不足の状態の料理内容である。
 そして五カ月の避難所生活の後、焼け跡にプレハブを建て、避難生活にピリオドを打った。


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