記録することの意味

          山中 敏夫 六十七歳  前神戸市会議員 神戸市兵庫区

 寒中の暗がりの中で突如起こったあの事態の中で、被災地の人々は、大きな空白の時間を持っています。何時何分、どこで、誰と、何をしたか、どんな状況であったか。正しく克明に記憶し、記録することは先ずなし得ませんでした。
 しかし、あの突発的な非常事態の中でも、自分のとった行動は何であったのか、状況はどうであったか、何をなし得たのか、何を考え、何を思ったのか。記憶はまだ消え去っていません。
 この悲劇をくり返さないために!
 経験した者にしかわからなかったことを、赤裸々に語り、記録に止めることによって、これからも必ずどこかでおこる天災に備え、対応する術を考え、経験しなかった人々と、後世の人々の命と財産を守るための厳しく貴重な警鐘とし、助言として生かされなければなりません。
 地震発生直後、家人、隣人、友人の安否を確かめ、生き埋め者の救出に熱中し、猛火にむかって、かなわぬまでもバケツリレーに参加し、一枚の毛布で二人が寒さをしのぎ、一つのにぎりめしを三人、四人で分け合ったこと等々。崇高なまでにやさしく、美しかった感動的な人間群像。
 地が割れて凹凸になった道路を通るあらゆる車輌はゆずり合い、事故は皆無に近かった。
 自らも被災者でありながらもよく奮励した行政職員、避難所の管理運営と教育の二重の任務に耐えた教職員、水の出ない消防への怒りをもろに受けながら任務を遂行した消防職員、消防団員、警察、自衛隊、他府県職員、ボランティア……。国内外挙げての救援に心の底から感謝しました。 そこには命が助かったことへの喜びと、物欲をはなれた人間の美しさを見ることができました。当時の新聞は、外国からの賞賛の声を掲げました。
 でも、二日目、三日目になると、避難所での食糧の配分、毛布やコンロの給付で一部に争いがでてきました。折角持ち出した現金や通帳、印鑑を枕探しに盗られた人もありました。留守になった空家への侵入や放火が頻発し、町丁毎に夜警が行われました。通信途絶と交通麻痺と人手不足で思うにまかせない行政の処置に、区役所幹部や学校長に怒鳴り込み、全般的な活動を妨げかねない言動。トイレの汚れをののしりながら水汲みも掃除もしない人。ごく限られた一部ではあるものの、人間は物欲が出ると共に元に戻っていきました。
 今日(十月二十七日)付の新聞は、市内の交通事故の激増を報じ、直後の譲り合いの気持ちは消滅したと断じ、都市計画をめぐる利害の対立は簡単に治まりません。
 それでも、街づくりや家づくりは、深い反省や検証の中から以前より強く良いものになると思います。しかし、あの大きな犠牲と不幸のなかで汚れを洗い流したキレイな心が、又元に戻ってしまっていることが気にかかります。
 記録を書き続ける作業の大切な一つに、この大事変の極限状態の中で垣間見た多くの人間の負の部分も隠さず書き残すことがあります。
 それは、美しく、強く生きたいと希っている人々にとっての厳しい自省の鏡となるでしょう。
 街も家も人の装いも心も、やさしく、強く美しいコウベの復興をみんなの力で成し遂げたいと思います。
 左の表(略)は、今年の夏三十七周年を迎えた兵庫区の「会下山ラジオ体操会」の参加者数を示したものです。
 当体操会はいち早く一月二十三日(日)に、三名で再開しました。放心から立ち直り、次第に元気を出して来た皆さんによって、日一日と数が増え、今では二百名を超える人々の体操広場が復活しました。二月には広島県の福山市と岡山県の井原市のラジオ体操会から、たくさんの義捐金を頂き大変勇気づけられました。
 二月十九日から会場に仮設住宅建設が始まり、現在の場所に移動しました。三月十九日には、体操台当番も復活しました。
 その間、仮設住宅への入居が進んだので、体操会参加者と入居住民との「ふれあい」の場を作ろうと、兵庫区社会福祉協議会ボランティアセンターの協力を得て、福山市と井原市の義捐金を資金にして、五月二十二日(月)に「ふれあい朝食会」を開きました。同じ釜の炊き込みご飯を食べながら、互いにいたわり、慰め、励まし合いました。


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