野焼き

          西川 靖子 三十五歳 自営業  西宮市高須町

 地震後しばらく宝塚の実家に戻っていたが、一月末に息子の幼稚園が再開されたので、西宮の自宅に戻った。帰宅した私たちを待ち受けていたのは、地震による廃材の野焼き処理だった。我が家は、西宮の南東部に位置する。自宅から、西南西二キロの地点に西宮市の野焼き処理場、東南約三キロに尼崎市の野焼き処理場があった。煙が空を覆い、どんよりと曇った日が続いた。
 その話を環境問題に詳しい友人にしたところ、即刻避難する事を勧められた。その時、初めて事態の深刻さを認識した。私はアレルギー体質で、鼻炎を持っている。いつもの年なら春先にかけて鼻炎だけなのに、今年は目のかゆみも伴っている。子どもたちも目のかゆみを訴え、目を擦るので充血する。近所で子どもの症状を話したところ、私たち家族だけでなく、アレルギー疾患を持つ人の症状の悪化の話が、次々と聞こえてきた。
 二月中旬、私たち家族は友人の紹介で、長野県に一時疎開した。そこには土を耕しながら、自然と共存して生きる人々の姿があった。また都会から脱サラして、農業に挑戦している人々にも出会った。その出会いは、今までの私たちの生き方、都会の中でお金さえ払えば何でも買えてしまう私たちの生活を、考え直すきっかけとなった。私たちは、そこで暮らすことを夢見た。
 けれども、家族四人で生活するためには、収入が必要だった。芦屋にある夫の職場も、被災はしたが被害は少なく、無事再開されることになった。後ろ髪を引かれる思いで、私たちは西宮に戻った。
 二月下旬、自宅に戻った私に友人から、宝塚市の野焼き処理が付近のマンションの自治会の健康アンケート調査によって、三月末で中止されるという新聞の切り抜きが送られてきた。私の住む団地でも健康アンケートが出来ればと、その新聞の記事を載せた新聞社に、健康アンケートの事を尋ねた。すぐに記事を書いた担当の記者から電話があり、アンケートを入手した。
 アンケートを持って、近所のアレルギー疾患の子どもを持つ母親たちと、私たちの住む公団住宅の自治会に交渉に行った。自治会の役員の中には市役所の職員もいて、アンケートを実施して市に対して野焼き中止を訴える事に、消極的な人も何人かいた。
 アンケートを持っていった私たちに対し、「あんたたちより、被災してもっと大変な人が沢山いる。野焼きの煙ぐらい我慢しろ」と、言った人もいた。それでも食い下がって、理事会にかけてもらうよう頼みこんだ。しかし理事会にかかるまでに、一カ月以上を要した。その間にも、野焼きの煙でどんどん空気は汚れ、アレルギー疾患を持つ人々の症状はひどくなる一方だった。私たちは自治会をあてにする事に、諦めを感じていた。
 三月中旬、環境問題に詳しい弁護士と立命館大学法学部の教授らの法律家たちが、野焼き現場の視察に来た。私も近所に住む友人や、新聞記事を送ってくれた友人と共に、野焼き現場へ同行した。宝塚市の記事を書いた新聞記者の方も参加してくれて、彼の案内で野焼き現場に潜入する事ができた。
 そこで見た光景は今も脳裏に焼きついて離れない。その日は日曜日で、野焼き処理は行われていなかった。けれども、廃材の山のいたる所から煙が上っており、防塵マスクをしていても悪臭で気分が悪くなった。煙で目が痛くなり開けられない。市は不燃物と可燃物は、分類して燃やしていると言っていた。確かに瓦礫の山は、廃材とコンクリートとその他の山(ガラ)に大別されていた。しかし、廃材の中に壊れた冷蔵庫を見つけた。プロパンガスのボンベと思われる物も、混じっていた。車を見た人もいた。そんなものを燃やすなんて、無謀なことはしないだろうと信じたかった。けれども、それらを含む瓦礫の山の端の方から、煙が上り始めていた。
 一カ月後、自治会は理事会で健康アンケートを実施することを否決した。その代わり自治協議会(私の住む団地の自治会はいくつかに分かれていて、その連合体)から、市に対して野焼き処理の早期中止を求める要請をすることになった。
 三月下旬に、神戸大学工学部の技官が、団地内でNO2と粉塵の測定調査を行った。そして調査の結果を報告する会を、四月中旬に団地内の集会所で開いてくれた。その時、医師の方も参加し、野焼きによる大気汚染の人体に対する影響等の話も聞くことができた。集会は、TVのニュースでも取り上げられた。
 その後すぐ、西宮市は五月末で廃材の野焼き処理を中止すると発表した。
 五月末で、西宮市の野焼きは終わった。その後、市は簡易焼却炉で、廃材の処理を続けている。しかしその安全性は、住民に示されていない。
 私は、震災による野焼きの被害を体験し、様々な事を学んだ。私たちの生活から出るゴミの問題も、それまではあまり関心がなかった。しかし野焼きによる大気汚染は、私たちの生活が地震という災害に破壊されることによって生じたゴミが原因なのだ。廃棄処理をする時、有害物質を出してしまう物を、私たちは普段平気で使っている。もし震災がなければ、その危険性に気づく事はなかっただろう。震災は様々な事を、私に投げかけ、残していった。


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