ヘリコプター騒動始末記

          森戸 富雄 四十二歳 元塾講師 神戸市灘区

 震災当日に避難した小学校では、食物はおろか飲料水の配給すらなかった。たった一枚のマットに家族と親類を合わせて六人が、打ち続く余震に怯え、寒さに震えながら、うずくまった。私は、恨めしそうに満月を見上げながら校庭の焚火に手をかざし、まんじりともせずに長い夜を明かした。
 こんなことなら、手足を伸ばして寝られるだけでもましだろう。そう考え、翌朝、家財道具が散乱する自宅に舞い戻った。飢えよりも疲労感の方が強かったので、親子四人が抱き合って一枚の布団に寝た。いつでも逃げ出せるよう着の身着のままである。
 「ええい、ままよ。死なばもろともだ。寝られるだけ寝ていよう」
 大きな余震に襲われる都度、そう思った。
 飛来するヘリコプターが気になりだしたのは、震災三日目である。マスコミの取材ヘリが飛ぶのは知っていたが、そのうち、上空を通過する際、桁外れの衝撃を与えるヘリコプターがあるのに気づくようになった。まるで台風と地震の両方に襲われたように、ドアや窓が激しく打ち震え、建物も船のように揺れる。
 無論、爆音で話し声は遮られ、ひび割れたガラスが砕け散るから凄まじい。これが、多いときには、十五分間隔で襲ってくる。それも、夜明けと同時に始まり、ほぼ日没まで続くのだから、堪えられない。窓から首を出すと、双発の大型ヘリコプターが、すぐ頭の上をかすめて飛ぶのが見えた。
 私は給水車を探して王子公園界隈を歩き回ったときのことを思い出した。至る所に、エンジンをかけたままのジープやトラックが停まり、陸上競技場にはヘリコプターの姿もあった。自衛隊が王子公園に駐屯し、競技場をヘリコプター基地にしたのだろう。わが城内通りの上空で高度を下げ着陸体勢に入るから、びっくりするような騒音と振動を撒き散らすのだ。そう察しはついたが、非常事態だから、我慢するしかないだろう。
 我が家に電気が通じたのは、震災から六日目である。早速テレビをつけた。避難所には救援物資が続々と届けられているらしい。それでも、マスコミが報道拠点にしている西宮の体育館や本山の中学校では、避難した人々が、口々に不満を訴えている。食料の調達と水運びで、一日中きりきり舞いしている我々の境遇と比べれば天国のようなのに……。
 腹が立ったのは、視察に訪れた首相や大臣が、ヘリコプターで王子公園に降り立つのを見たときである。彼らは、ヘリコプターをハイヤーくらいにしか考えていないに違いない。眼下に、騒音と振動に一日中悩まされている者のいることなど想像もつかぬだろう。
 救援活動の最中なのだから、多少の犠牲は忍ばねばならぬだろう。だが、我々だけが選ばれたように忍耐を強いられるのは納得できない。私は、なお四日間我慢を続けたが、とうとう耐えきれなくなり、意を決して自衛隊に抗議に出かけることにした。途中、出会った知人にわけを話すと、彼の住む王寺町でも「ヘリコプター公害」には、ほとほと弱り抜いているとこぼし、激励してくれた。一月二十六日の昼前のことである。
 陸上競技場のゲートに廻ると、「第三師団指令所」と書かれた看板が、門柱に立て掛けてあった。歩哨に立つ自衛官を見てたじろいだが、勇を鼓して来意を告げたら、建物の二階を指された。階段を上り、「責任者に会いたい」と告げる私の言葉に、その場に居合わせた自衛官は、一様に戸惑ったように見えた。皆から押し出された自衛官は、広報担当の三佐であったが、私の訴えを聞くなり顔を歪めた。
 自衛隊は、県の要請で出動しており、ヘリコプターも要請されて飛ばしている。したがって、自衛隊には責任がなく、苦情は受け付けられない。それが、彼の言い分であった。しばらく押し問答が続いたが、先方は、「文句があるのなら、県に言って下さい」の一点張り。私は根負けして、県職員の到着を待つことにした。憮然とした表情の自衛官が居並ぶ部屋の空気に耐えるため、訴えの内容をメモ用紙に整理しながら時間をつぶした。
 二人の県職員が、私たちの住むアパートの屋上に上がり、ヘリコプターの飛行ルートや進入高度、機種などを調べながら、被害状況を実地検分してくれた。その結果、とりわけ大きな衝撃波を出すのは、海上自衛隊のものであることがわかった。搭載している重量の関係で、あれ以上高度を上げられないとの説明も受けた。ヘリコプターの基地を王子公園に指定したのは、県ではなく市である。もっと適当な場所は探せばあるが、政令指定都市の神戸市に県が行政指導するわけにもいかない。そんなことを引き上げ際に漏らしていた。
 飛行ルートを三つに分散するという連絡を受けたのは、日没後であった。翌日から気をつけていると、真上を直撃される回数は確かに減ったが、それ以外は、ほんの僅かに離れた上空を通過するだけなので、被害が目に見えて軽減されたわけではなかった。
 縦割り行政のしわ寄せを受け、今後も衝撃に耐え続けねばならぬのかと思うと、やりきれなかった。三日後、思い余って災害対策本部に電話をかけ、ヘリコプター基地の変更を求めた。猛烈な爆音が止んだのは、一月末のことである。


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