その時、職員室は

          山根 洋子 四十七歳 中学校教諭  神戸市東灘区

 私は被災地のまっただ中にある東灘区の公立中学校に勤務している。勤務校も教室のあった校舎が二つ共全壊という大きな被害を受けた。
 自宅は勤務校から徒歩二十分ほどのところにある七階建のマンションであったが、やはり全壊で住民全員が着のみ着のままでようやく脱出した。
 大震災の朝、私がどのような行動をとったか、一学校職員の記録として述べてみたい。
 隣近所の方と助け合ってマンションから脱出したのが七時半頃。約一時間は、すぐ家の前の広場に百五十人ぐらいの人達と共になすすべもなくただ呆然と成り行きを見守っていた。寒さに震えながらもう戻る家もないので何とかしなくてはと考え、思い当たったのが学校という避難所であった。近隣の避難可能な小学校を探し、近所の方にも声を掛け、体育館に着いた時には九時をかなり回っていた。
 体育館の中で座る場所を決め、やっと一息ついた時、その学校の職員と思われる方が何かの連絡をしに来られた。ハッと思った。自分も本来ならば勤務校へ行き、同じようなことをする立場の人間ではなかったかと。あわてて出勤した。九時半頃の事である。
 すでに校門は開けられ、職員室(この建物だけ被害はあったものの使用可能であった)に入ると、数名の方がすでに出勤しておられた。近くの下宿に住む若い人達、西区や須磨区などの被害が少なかった所からいつもと変わらず自動車で出勤して来た人達であった。
 しかし管理職といえば、校長は明石に住んでおり出勤不可能、教頭は近くに住んでいるにもかかわらずその時は出勤しておらず、その日の夜遅くになってやっと出勤したそうだ。その間、年長者が指揮を取り、危険物の点検をし、職員の安否確認をしていたとのことであった。
 とにかく他の方は家は無事だったので、私は出勤しただけですぐに帰らせてもらった。当日の夜は出勤できたメンバーで宿直をしたとのことである。
 当日、全職員のとった行動は実に様々であった。被害が大きく動きがとれなかった者、災害のひどさに驚き勤務のことを忘れていた者、子供の面倒を見なければならず動けなかった者、我が家の片付けを第一に行動した者など。
 二日目の夜になり、防災指令三号が発令された。職員はその指令が出ると全員出勤の態勢となる。数日後、管理職はようやく通じるようになった電話で出勤していない職員に出勤要請をした。しかし大部分の職員は、防災指令についての詳しい知識もなく、非常時の初動態勢に関する行動マニュアルもないので、個々の判断で行動した。
 その後、管理職は防災指令三号を盾にとり、全員出勤すべき命令だから年休も取ってはいけないと繰り返し言っていた。しかし個々の職員のおかれた立場も様々で、指令が出たからといって、一律に同じ行動がとれるはずがない。
 我が家の場合だと、家族は高校生の娘と二人だけ、近くに親戚はいない。濃い親戚や実家は山陰にあって遠い。頼れるはずの隣人は皆被災者なので、出勤は無理である。職場では管理職の考えに追従し、「娘さんと避難所で暮らしていても出勤すべきよ」という声も聞かれたが、この考えは無知からくるもので大きな間違いである。
 避難所も自主運営するようになってきており、様々な仕事を当番で避難者自身がやっていた。代わりに当番をしてくれる家族がいない限り、勤務があるからと世話にだけなることはできないのである。次に避難所とはあくまで緊急時に避難するところであって、ここに生活の基盤を築き、ここから出勤することを良しとする考え方は甘えではないか。自立できない人は仕方がないが、自立が可能な者は一刻も早く自立する努力をすることが正しいと思う。そのため少々の勤務時間はさいてでも、新しく家を確保し安心して出勤できる態勢を整えなければならなかった。
 防災指令三号はどんな条件の者にも同様に適用しなければならないものだろうか。現在、勤務校では次々に行事をこなすことに追われ、震災後一度も我々職員の行動について反省する機会さえ持たれていない。他の企業では、防災マニュアルが作られたり、普段の業務の中に危機管理が入っている所も多いと聞く。
 勤務校では九月になって、震災を振り返ってというテーマで生徒の作文集が出された。その中に学校の復興の記録が載せられたが、管理職は実際には当日十時になっても出勤していなかったにもかかわらず、外部の目を考えての事であろうが、「一月十七日九時、校長、教頭、職員で今後の対応について検討」とある。事実とは異なる記録をデッチあげ発表することで体裁を取り繕い、今回の震災の件は終わりそうである。
 震災の体験が何処にも生かされていないのでは、過労死された方々も浮かばれないのではないだろうか。我々は今後、このような災害時に職員体制をどうするのか? 職員自身に被害が出た場合は? 管理職はどう対処すべきか? 避難所としての備蓄品はどうするのか? など、企業と同様に考えておくべきではないだろうか。
 各学校で出来ること、市との連携で出来ること、一職員としての心構えのようなものも必要だ。あれから九カ月もたった現在、このような事を一度も考え直す機会を持たずに、この災害が忘れ去られてしまうとしたら無念でならない。


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