災害派遣

          柴田 通仁 二十八歳 陸上自衛官  兵庫県小野市

 地震発生後から中部方面隊を主力とした戦後最大と言われる災害派遣活動が行われた。
 TVのブラウン管に映る被災地の状況を思い出しながら「果たして自分に何ができるのであろうか」と被災地に赴くトラックの中で私は自問自答していた。
 私の所属する部隊の任務は、須磨区における人命救助であった。消防隊員や警察官の誘導により現場へ赴き、小隊編成による救助活動が始まったが、地震対策資材を装備していない為、人海戦術による作業であった。
 こうして、慣れない手つきで倒壊家屋から何名か救出したが、皆遺体での収容であり、残念だった。捜索現場へ向かう途中、被災者の方々から「炊き出しは何処でやっているのか?」「ガスが漏れている様なので何とかして欲しい」「水は何処へ行けばもらえるのか?」と聞かれた。自衛隊の支援活動については、わかる範囲内で案内説明し、個人的な支援要求については人命救助が最優先である事を伝え、断った。
 午後七時頃作業中止となり、部隊は須磨警察署前で待機となった。
 午後九時頃、仮眠先の神戸女子大へ向かった。仮眠所の体育館は部隊の隊員であふれ返っていた。「自衛隊さんへ」と、女子大生が握ってくれたおにぎりを食べたが、とてもおいしかった。
 この頃になると、他中隊の遺体発見の話が聞けるようになった。その中で特に印象に残っているのは、家族四人の遺体が発見された時の話である。
 その家族は川の字で寝ていたらしく、子供が左に寝ていれば親が左側に、子供が右に寝ていれば親が右側にと、両親が子供を庇う様に死んでいたそうだ。
 親の遺体は瓦礫の粉塵に汚れて損傷も酷かったが、子供の遺体はきれいな状態で発見された様で、一歳と三歳の子を持つ親としては、そのような現場に当たらなくて良かったと思うと同時に、自分の身を犠牲にして子供を守る親の姿を思い浮かべて涙が出た。
 その夜、体育館に寝袋をしいて就寝したが、まだ瓦礫の下で生き埋めになっている人の事を思うとなかなか寝つけなかった。
 次の日は、長田・須磨区境界線での作業となり、遺体捜索にあたったが、現場はナパーム弾を投下された後の様で、火災も鎮火したとはいえ、非常に暑く、猛暑の中で作業をしている様であった。遺体も殆どが遺骨で発見された。こうして一日の作業を終え、翌日も同様の事をし、こうした日々が続き、二十三日の長田区の一斉捜索活動を境に、部隊主力を持って行う救助活動主体の災害派遣は終了した。
 一斉捜索の時であるが、廃墟の中、スコップで掘っているうちに他の場所から四人分の遺骨が発見された。その中に、中学生の男の子がいたらしく、先生と同級生が花束を持ってお参りに来た。作業は一時中止となり、隊員が見守る中、線香をあげ、涙を流しながら拝んでいた。その姿に、隊員達も哀悼の意を表した。
 こうして、死臭と粉塵にまみれた救助活動も終わり、須磨区を後にした。
 以後は、方面航空隊の「端末地輸送業務支援」に参加した。八尾基地でCHl47ヘリに弁当をはじめとする生活必需品を人海戦術で積み込み、王子陸上競技場の臨時ヘリポートや、淡路島等へ空輸を支援する作業であるが、王子陸上競技場では、自衛官と共に懸命にヘリから物資を運び出すボランティアの姿が見られ、「俺も頑張らねば」と、励みになった。
 こうして、端末地輸送業務支援を最後に、約二週間に及ぶ災害派遣活動を終えたのであるが、あの頃を振り返ると、最初、私は災害派遣は初めてで、一抹の不安はあったものの、何とか任務を遂行できた事で満足感に満たされた事を思い出す。
 今回の災害派遣に参加出来た事を誇りに思うと共に、被災者の方々から送られた言葉を決して忘れはしない。
 「ありがとうございました」……。


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